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あれだけ張り切れば、その後に動ける訳もない。
午前中の授業はあっという間に終わり、気付けば食堂にやってきていた。
あっと言う間に終わったのはあくまでも体感的な事で、その時間を無駄に過ごしたとも言える。
「栄養価を考えられたメニューなんですね」
「補助金の比率はどの程度まで」
「業者の選定は」
隣のテーブルから聞こえる会話。
味とか量とか見た目とか、もう少しそっちの方も話して欲しいんだけどな。
「無料というのは聞こえは良いが、やはりどこかに無理が生じてるのでは無いのかな」
「収支を一度確認しますか?」
「まあ、それは官僚の方に任すが。物が動けば金も動くからね」
何やら物騒な事まで言い出した。
私には関係ない事だが、食欲が無くなったのも確か。
デザートだけを確保し、炒飯をショウの前へ置く。
その間にも、食事そっちのけで話し始める議員達。
熱心なのは良いが、少し度が過ぎる気もする。
それが議員たる所以とも思えるが。
「無料なのは補助金の支出だけではなく、スポンサーからの提供品もあるからです。厨房の設備、食堂のテーブル椅子、食器。減価償却費はほぼ0。食材も同様。基本的な経費は人件費程度で抑えられてます」
プリンを食べながら淡々と語るサトミ。
議員団はそれきり口を閉ざし、食事へと戻る。
「止めてよね」
「事実を言ったまでじゃない。大体補助金がカットされたら困るでしょ」
「私はそれほどでもないけど」
自分のカツカレーを全部食べ、私の炒飯も食べ。
まだ物足りなさそうな顔をしているショウ。
ただ逆を言えば、無料だから食べ過ぎるんじゃないのかな。
なんて思ってる間に、ケイが差し出した唐揚げも食べ出した。
「お腹壊すよ」
「壊れてもいい」
何を言ってるんだか。
運動をして、ご飯を食べて。
後は眠くならない方がどうかしてる。
午前中も寝てたけど、それはそれ。
何よりこの暖房が良くないな。
「寝ている人もいるようですが、授業を始めます」
お願いしますと心の中で告げ、一応は顔だけ上げる。
しかし目を開けるまでの力はなく、小さく欠伸をして話を聞き流していく。
「先生が風邪でお休みのため、私が代行を勤めさせていただきます。研究者なので教育に関しては素人ですが、どうぞ了承を。では、せっかく国会議員の方々が来ているので日本の政治体制について話していこうと思います」
ますます眠くなりそうな話。
実際、今すぐに寝入ってもおかしくはないくらい。
それでも起きているのは、ついこの話し声に反応してしまうから。
話の内容ではなく、この声そのものに。
綺麗で落ち着いていていて、品があって。
人を惹き付ける、魅力的な声質。
それが心地良い子守歌とならないのが不思議だが、どうもそういった性質とはまた違うようだ。
「日本は皆さんが知っている通り、上院下院の二院制。下院は法律と予算の成立に優先権があり、上院で否決されてもその後の再審議で2/3を上回れば可決されます。また上院は、条約や憲法についての優先権が保証されています。二院制のメリットは相互のチェック機能。また万が一片方の院が機能しなくなった場合、その代行を勤める事が求められます。これは有事を想定した話ですが」
耳に届く、基本的な事柄。
テストに頻出するような内容で、嫌でも覚えるような事ばかり。
ただこれは知識上の話でしかなく、私には生涯縁の無い話でしかない。
「このように、大抵の国家では間接民主主義制をとっています。時間の短縮、経費の削減、意見の集約。直接民主主義制は民意をストレートに反映出来ますが、おそらく現代社会では何も決まらず議論だけが続く事となるでしょう。国民投票が直接民主主義の形態の一つではありますが、アンケート的な要素も否めません。ただ重要なのは、議員はあくまでも国民から権力を委託されたに過ぎない事。主権は国民にあり、議員にはありません」
議員を前にして良く言えるな。
余程はっきりした性格か、それとも皮肉が好きか。
その両方か。
「また日本は民主主義国家で、国民の権利が広く保証されています。ここで私が政府を批判しても特に問題はありません。ただ国によってはそれだけで逮捕され、拷問を受ける場合もあります。私達が当たり前と思ってる事も、世界へ目を転じれば決して常識という訳でもありません。自分達に与えられた権利を、改めて考え直してみるのもいいでしょうね」
なるほどねと心の中で答え、欠伸をする。
「ただし権利と義務は表裏一体という考え方があります。権利を主張するためには義務を果たす、義務を果たすからこそ権利を主張出来る。日本国民の義務は勤労、納税、保護する子女に教育を受けさせる、国防。とありますが、これは国家を存続させるための国家からの要求とも言えます。さて、そこで」
近付いてくる声。
さすがに顔を上げ、口元を拭く。
なんか、頭の上で話をしてるのは気のせいか。
「権利と義務。例えば皆さんでいうのなら、勉強をするのが義務。では、権利は何でしょうか。その義務を果たすための教室、教材、教師の提供と私は考えています。逆に言えば、それ以外は権利ではなく学校がその裁量において認めているに過ぎません」
「そうかな」
思わず声を出し、口をつぐむ。
聞こえたのは私の周りだけのはず。
ただ、声の主には聞こえたようだ。
「生徒は勉強をするのが義務であり、学校はそれを果たすための権利を守る。これが学校と生徒とのあり方です」
唐突に後ろの方から聞こえる拍手。
勿論議員団で、保守的な考えが強いらしい。
私もそれに異議はないが、権利がそれだけとは思っていない。
自由な学校生活を送る権利、自分達で出来る事は自分達で行う権利もあるはずだ。
「先に述べたように、高校までは憲法において義務教育が保証されています。。これは教育を受ける義務ではなく、皆さんは受ける権利があるという意味です。つまり、受けないという選択肢もある訳ですね。だからこそ、学校へ来るからには勉強をする必要がある。言ってしまえば、勉強以外に何をするかという話ですね。クラブ活動は心身を鍛えるために必要とは思いますが」
随分偏った考え方。
間違ってはいないと思う。
ただ、私とは違うというだけで。
「やや話が逸れましたね。先程述べた国民の義務。かつては3大義務でしたが、今は4大義務。これは戦前に、国防の義務が付け加えられたためです。平和を望むのは誰もの共通した思いですが、降り注ぐ爆撃を祈りで止められる訳もありません。残念ながら抑止力として、また実行力としての軍事力が必要となります。これは旋回の大戦で、図らずも証明されましたが。ただこの国防は義務であると共に、国民の権利を大きく制限する事でも知られています。それに対して異議を唱える勢力もありますが、今言ったように非常時には言葉の力は脆い物です。理想と現実とでも言いましょうか」
人の頭の上で話し続ける声の主。
それを聞きつつ、少し眠くなってくる。
正直、自分の興味から話が逸れてきたので。
「非常時においては、民主主義という大原則すら揺るいでしまいます。先程の間接民主制ですら、時間が掛かりますからね。例えば前回の大戦では憲法をの一部を制限が実際に行われました。物資、土地建物の供出。報道、通信の制限。東アジア紛争に伴う有事法と言うのですが、これは内閣が政令として提出。即日施行されました。通常なら長時間国会で議論するような内容なのですが、すでに北米はシベリアに進行をしていた時期。悠長に話し合いをしている時間はありませんでした」
一旦間を置き、小さく息を付いて再び話が続く。
「直前の危機の前には、民主主義という大原則すら敢えなく崩れてしまう。幸い日本では、戦後すぐに憲法が回復され政令も廃止されました。ただ場合によっては、憲法を制限したままになっった可能性もあります。そうなれば自由な議論どころか、今頃徴兵制が採用されて私は入隊をしている時期でしょう。平和の大切さと、その脆さ。それを守っていく難しさ。この中に将来政治家を目指す人、もしくは官僚を目指す人がいるかも知れません。その際は、この国をいかなる方向へ導いていくかを是非考えて下さい。皆さんの行動が、どんな影響を周りに及ぼすかを」
半分寝ていると、後ろから肩を揺すられた。
それをはね除けたくなるが、ここが学校だと思い出して口元を拭う。
本当、人間どこでもどれだけでも寝られるな。
「授業、終わったわよ」
少し棘のあるサトミの声。
ただこれは、私が寝ていた事に対してだけではなさそうだ。
「今の話がややこしくてさ。公民の先生?」
「大学の助教授らしいわよ」
どこかで聞いた肩書き。
でもってサトミのこの態度。
出てくる答えは一つだけ。
「僕の授業は退屈かな」
「いえ、そうでもありません」
もう一度口元を拭い、笑顔を作る。
さんざん寝ていて言う台詞でも無いが。
サトミのお兄さん。秀邦さんは苦笑気味に表情を緩め、開いてもいなかった世界史の教科書を手に取った。
「議員のために、多少彼等寄りに話してみたよ」
「そういう腹芸は得意よね」
「きついな、随分。俺も一応は、政府から補助金を受け取ってる立場。太鼓持ちにもなるさ」
厳しいやりとりを交わすサトミと秀邦さん。
腹芸はともかく、太鼓持ちとイメージは彼にはない。
むしろ、あの話は皮肉と取った方が良いだろう。
ただ、相手が気付かなければ単なる耳心地のいい言葉でしかないが。
「でも、どうして授業をやったんですか」
「卒業生の活躍を紹介する意味があるらしい。教師の風邪も、怪しいものだ」
最後は昨日同様、工作室で手鏡の製作。
すでに輪郭は出来上がっていて、鏡も初めからはめ込み済み。
後はやすりを掛けて、簡単な彫刻を施すくらい。
私は周囲を若干丸くさせて、取っ手をつけただけのデザイン。
彫刻を施す必要も無く、サンドペーパーで板を磨いていればいい。
何より、余計な手を掛けるのは失敗の素だ。
「暇なんだよ、俺も」
どこで手に入れてきたのか、木の板に鉛筆で線を引きそれを糸鋸で切り始める秀邦さん。
少し入り組んだ輪郭だが、板の動きは滑らかそのもの。
それこそバターを切るように板が切断され、綺麗な曲線が出来上がっていく。
顔は良い、頭も良い、こういった事も出来る。
周りの女の子が赤い顔で見入っているのも仕方なく、むしろ見ない方がどうかしてる。
「器用ですね」
「なんでも出来ないと気が済まない性質なんだ」
苦笑気味にそう語る秀邦さん。
凝るのは兄妹同じという訳か。
「一つ聞きたいんですけど」
テーブルの端。
私とは対角線上にいるサトミがやすりがけに没頭しているのを確認して、小声で秀邦さんに確かめる。
「ドッジボールに、何か思い出はありますか?あの子がこだわってるみたいなので」
「聞いた事無いな。……いや、そうか」
すぐに合点が行ったという顔になる秀邦さん。
彼は蔦のデザインが描かれた板の表面に細い彫刻刀を当てて、そのライン通りに掘り進めて行く。
「昔、まだ俺達が子供の頃。今でもだろうけど、運動をするより家にこもるのが好きでね。両親がさすがにそれはまずいと思ったのか、一日に数度庭へ俺達を連れ出したんだ」
「運動をするために?」
「日光に浴びるのは体内時計を調整するのにも良いとか言ってたな」
多分普通の家庭ではあまり聞かない言葉。
この辺が遠野家の特殊性を感じなくも無い。
「俺はその辺を歩いてただけなんだけど、サトミは縁側からも降りなくてね。困った両親がボールを転がしたら、それに飛びついた」
クスクスと笑い出す秀邦さん。
私は思わず、さっきの光景。
ボールをひたすらに追いかける彼女の姿を思い出す。
「始めはそうやって転がしたボールを追いかけてて。だんだんボールをやり取りするようになった。ドッジボールというほどの勢いで投げはしなくて、ワンバウンドで投げ合う程度。サトミも子供だったし、親もぶつけるのが怖かったんだと思うよ」
「怖い」
「昔は天使か妖精かって言われててね。親も可愛がってたから」
目を細めて語る秀邦さん。
遠い昔。もう戻れない過去。
過ぎ去った、切ない日々を振り返るように。
「しばらくはそんな事があったんだけど、秋が来て冬へなる内に外へ出る事も無くなった。俺の研究施設行きが決まってそれどころじゃなくなったってのもある」
「サトミは、その時の事を引きずってるんですか」
「意識してるかどうかは分からないけどね。あの頃は、ボールをぶつけ合ってはいなかったし」
「追いかけてたのは確かなんですよね」
「ああ、子猫があんな感じじゃないかな」
目の前にあった板の切れ端を丸めた両手で転がす秀邦さん。
サトミがボールを追いかける理由。
私は単に負けず嫌いだからと思っていた。
また、実際そのために追いかけているんだろう。
ただ、そういう過去があったのもまた事実。
家族で庭に出て、ボール遊びに興じたのも。
日差しの降り注ぐ中、そよ風に吹かれ。
歓声を上げて、笑顔を浮かべ。
真剣に、だけど楽しい時を過ごしたのも。
「親が俺達を売り飛ばしたのは事実で、それは曲げようもない。ただ全てが金って訳でもない」
「どういう事です?」
「その辺は、俺より両親から聞いたほうがいい。後で時間を作るよ」
そう言って、彫刻の終った板の表面を軽く手で払う秀邦さん。
普段の爽やかで軽い表情とは違う、重く切ない色を宿して。
「親は親。俺達を思ってという部分もあったとは言っておく」
「でも、サトミは」
「勿論、捨てられたのは間違いない。サトミは俺よりも繊細だったから、余計に反応が強く出たのかも知れないね。さてと、これが欲しい人は」
席を立ち、手鏡を掲げる秀邦さん。
ケイが手を伸ばした瞬間周りから女の子が殺到し、彼を乗り越えて手鏡を奪っていった。
しかしケンカはしないようで、テーブルの真中に手鏡を置いてはうっとりした顔で見つめている。
自分に見ほれて花になった神様がいたらしいけど、鏡に見入るのはあまりよくない気がする。
大体自分の顔がもう一つ現れる時点で、結構怖い話になってくる。
「出来た」
そう言って立ち上がるサトミ。
何をするのかと思ったら、手鏡を持って議員団と話していた技術の先生の元へと向かった。
どうやら完成を報告しに行ったらしい。
別に悪い事ではないけど、私達は小学生じゃない。
「あれも、昔からなんですか?」
「経過があれば、結果がある。結果を眠らせておくのもいいけど、それを報告するのは大勢の人のためになる。なんて考え方もあってね」
「ただの手鏡ですよ」
その質問には答えてくれない秀邦さん。
私もやすりがけは大体終わり、後は表面にニスでも塗って終わり。
それとも靴墨を塗るか迷っていると、手鏡を持ったサトミが戻ってきた。
「どうだった?」
「別に」
多少不満げな表情。
別に高い評価を得るために報告へ行ったとは思えず、完成したという事実を伝えに行ったはず。
ただ教師からすれば、「そうですか」の一言で終るような事柄。
それが納得いかないらしい。
「出来たら出来たでいいんじゃないの」
「その結果を報告するのは当然でしょ。何が間違っているのか、どの部分に修正を加えるべきか。この先は、どういった方向に進めばいいかを」
この辺りは彼女にしか分からない部分で、私にはもう付いていけない。
そういう突き詰める神経が私には存在しなく、言ってみればなるようになるという考え方。
何よりそこまで完璧を求める程物事を理解出来ないし、完成に近付けるだけの能力も無い。
つまり出来るが故の行動であって、だからこそ彼女はより高みへと上っていくんだろう。
妥協せず、諦めず、研鑚を怠らず。
それが今の彼女を作り出し、これからも彼女を育んで行く。
その歩みが止まる事は、この先きっとないだろう。
授業が終わり、秀邦さんに伴われ学校の外へと向かう。
会合までにはまだ時間があり、またサトミは小牧さんと打ち合わせ中。
それ程不審がられる事も無いと思う。
「こんにちは」
ファミレスの奥の席にいた、サトミの両親へ挨拶をする。
私達が来る事は秀邦さんが連絡をしていたので、比較的にこやかに出迎えてくれる。
落ち着いていて品があり、騒ぎ立てるような事も無い。
サトミに似ている。
と言いたいが、正確にはサトミが彼らに似ているんだろう。
それを彼女が認めるかどうかはともかくとして。
「昔の事なんですけど。ボール遊びをしたのは覚えてます?」
唐突な質問に、一瞬戸惑いの表情を浮かべる二人。
それでもすぐに思い出したらしく、穏やかな表情で頷いた。
「運動という訳でもないんですが、放っておくと一日中本を読んでましてね。健康には良くないと思って、庭に連れ出した事はあります」
「その時、サトミは楽しそうでしたか?」
「楽しそう?」
「楽しい?」
顔を見合わせ、小首を傾げる両親。
彼女にそんな感情は無いと言い出す訳ではないらしいが、私が期待していた反応でもない。
「ただボールを見ると、それに飛び掛っていきましてね。猫の子がするように」
スティックシュガーをテーブルへ置き、丸めた手で転がすお父さん。
この辺は親子なんだなと思ってしまう。
「何か恨みにでもあるのかと思うくらいに追いかけまして。楽しそうというか、どうなんでしょうか」
こっちに聞かれても困る。
「球体に対する固着なのか、物体の反発への探究心なのか。でも、それにしては計算した動きにも思えなくて」
口元を押さえるお母さん。
何も、そんな小難しい話ではないと思うんだけどな。
「飽きはしないようなので、しばらく遊ばせてはいましたが。それが何か」
「今でもボールを追いかける習性があるので。ちょっと」
「転びますか?鼻から」
「え、ええ」
「やっぱり」
声を揃える二人。
どうやら、あの倒れ方も昔からのものだったらしい。
「それに今日ドッジボールをやったんですけど、それがボール遊びとつながってるように思うんですよ」
「それはどうでしょう」
少し和んでいた表情が固まり、前に傾いていた姿勢も後ろへ下がる。
必然的に、心理的な距離も。
「あの時は、ただボールを転がしていただけですから」
「でも子供の頃は、それが楽しいんですよ。そう思いません?」
「普通の子なら。……いや、済まない」
私にではなく、秀邦さんへ謝るお父さん。
謝られた秀邦さんは苦笑して、スティックシュガーをケースへ戻した。
「俺もドッジボールとあの頃のボール遊びが関連しているとまでは言い切れない。ただ、サトミは二人を心底恨んでる訳でもない。優しいからね、あの子は」
苦笑気味に呟く秀邦さん。
自分がどうなのかは、口にはせずに。
「人間を信じるタイプだから。理屈や理念に走っていても、それは人間が作り出したものだと理解してる」
「理屈は曲げられないし、理論は人の手の外にあるよ。人はそれを理解するに過ぎない」
突然固い口調で返すお父さん。
秀邦さんはスティックシュガーを改めて手に取り、それを自分のコーヒーへと注ぎ出した。
「拡散させて、スプーンですくう。甘味を測定した場合、その数値はコーヒーカップ全体の甘さと置き換えられる」
「確率は人の手の外にある」
「確かにね。ただ俺の気持ち一つで甘さは変わる。かき混ぜなければ、均等な甘さにもならない。抽出した結果が、必ずしも確立どおりになる訳じゃない」
「恣意的な力が働ければ、それは統計学とは言えない。第一……。失礼」
自分のカップにミルクを注ぎ、それをスプーンでかき混ぜるお父さん。
今のスイッチの入り方は、ついサトミを連想してしまう。
「理屈や理論も大事だけど、世の中それだけではないだろ」
「ああ、そうだ。私達はそれで失敗をした。お前達を捨てて、目先の欲に走った」
初めて見る感情的な態度。
ただ直接言われた秀邦さんが気分を害した様子は無く、砂糖があふれ返ってきそうなティーカップを脇へどけた。
「それはもう済んだ事だ。第一サトミは、それでも二人に会いたいと思ってる」
「今更会えた義理ではないし、会いたいとは思っていないはずだ」
「言い方を変えよう。サトミが会いたいと思っていないという仮定でもいい。だったら、二人はどうなんだ」
「会う資格も無いし、会おうとは思わない」
「もう、昔には戻れないのよ」
静かな、切ない響き。
受け皿に置いたスプーンが甲高い音を立てる。
秀邦さんはまだ何か言いたげに二人を見るが、これ以上は何を言っても無駄だと判断したようで改めてコーヒーをオーダーした。
「確かに昔には戻れないけど。今という時が流れてる事は、どう考えるんだ」
「あの子の時の流れに、私達はもう存在しない。何より登場するつもりもない」
「じゃあ、どうして名古屋に来た」
「議員団について来た。ただそれだけだ」
低い声で答え、湯気の消えたコーヒーを口に運ぶお父さん。
お母さんは黙ってテーブルを見つめるだけ。
空気は重く、気持ちは沈む。
「深く考えすぎじゃないのかな」
ポツリと漏らすショウ。
自然と全員の視線が彼へと集まり、その続きの言葉を待つ。
「考えすぎとは」
「お父さん達の言う事も分かりますけど、会える時に会った方がいいと思いますよ。死んだら会えないというか、死んで会えない人もいるから」
彼にしては珍しく踏み込んだ言葉。
それが何故かと思っていたが、理由はすぐに判明した。
例えば塩田さんや名雲さんは、どれだけ思い焦がれようとお父さんに会う事は出来ない。
もうこの世にはいなく、どこを探してもいないから。
またショウもお父さんは戦争に赴いていたので、同じ事になった可能性はある。
また彼自身軍に進むのだから、自分を置き換えて考えているのかもしれない。
「耳に痛い言葉だが、彼女の中では私達が生きてるかどうかも疑問でしてね」
すぐに出てくる否定の言葉。
ショウの意図は伝わったようだが、気持ちはあまり理解してくれなかったようだ。
「私達は彼女を嫌ってる訳ではないけれど、向こうは私達を嫌っている。また、そうされるだけの事をした。それを時が癒すと甘く考えられないし、実際そんなはずも無い。心の傷は消えたように見えて、いつまでもその内側で苛むんです」
訥々と語るお父さん。
ただそれはサトミの心の中ではなく、自分の心の中を語っているようにも聞こえる。
消えない心の傷。
癒されない痛み。
忘れていても、ふとした拍子でそれは蘇る。
過ぎた過去には戻れず、それを消す事もまた出来はしない。
「……一ついいですか。サトミや秀邦さんの部屋を改修したのはどうしてなんですか?あそこは、二人にとっての思い出の場所ですよね」
こちらこそ今更体裁を整えても仕方なく、聞くべき事は聞かなければならない。
この機会を逃せば次は無いかも知れず、例えどう思われようと今はサトミの事を第一に考えたい。
「確かにあれは良くは無かったと思っている。ただ言わせてもらうと二人は家に戻ってこないし、この先戻る可能性も無かった。あの部屋は二人にとっては思い出の場所だけど、私達にとっては痛みを思い返す場所でもある」
「そのために痕跡を消したっていうんですか」
「端的に言えば」
あっさりと認めるお父さん。
お母さんは沈んだ顔でテーブルを見つめるだけで、何も語りはしない。
これでは私が二人を責めているようで気分が悪いが、そんな事はどうでもいい。
今私にとって大切なのは、サトミの事。
そして、この二人の真意だ。
「過ぎ去った過去には戻れないし、変える事も出来ない。過ちは過ちとして残るだけです」
「それを償うために、未来があるんじゃないんですか。そのために、私達は今を生きてるんじゃないんですか」
「私が高校生の頃なら、そう思えたかも知れませんね。でも今は、年を取りすぎました。善意を信じる時は、もう過ぎましたよ」
思わずテーブルを拳で叩くが、二人は一瞬驚いただけ。
私の無礼な態度に怒りもしない。
それは反省ではなく諦め。
虚無感にも思えてくる。
「少し疲れたので、ホテルに帰らせていただきます」
「……いつまでこちらに」
「議員団と一緒に帰ります」
一礼し、レシートを持ってレジへと向かう二人。
言いたい事はいくらでもあるが、今口にすればそれは怒号になりかねない。
二人への怒り。
それとも、自分への無力さ。
結局彼等を翻意出来ない自分の不甲斐なさに。
「どうにかならないんですか」
私の言葉に秀邦さんは首を振り、冷めたティーカップと温かいティーカップ両方に手を添えた。
「冷たい物は、冷たいままだよ。自然と温まる事はない」
「温めれば良いじゃないですか」
「そうなんだけどね。今の通り、変わらない事もある」
暖かい方のティーカップを手に取り、口元へ運ぶ秀邦さん。
冷たい方は置かれたまま。
彼の手が離れ、それきり近づきはしない。
「私は、諦めませんよ」
冷えて塩辛いコーヒーを一口飲む。
これだって作ってくれた人がいる。
冷えても塩辛くても、これは私の前にある。
その事実は絶対に変えられない。
「おい」
「いや。もう限界だから」
「塩入りって、冗談じゃないぞ」
文句を言いつつ、凄い顔でコーヒーを飲んでいくショウ。
一人じゃない。
一人で出来ないのなら、大勢でやればいいだけだ。
何のために私達がいるのか。
言うまでも無い、今は彼女のためにいる。
ファミレスを出た所で、帰ったはずの両親が私達を出迎えた。
気が変わったのかと一瞬期待したが、表情は固め。
そういう話を切り出す雰囲気では無い。
「今来ている議員団。あれは、あまり信用しないようがいい」
顔を見合わせる私とショウ。
そんな事を言われるような人達には見えなかったし、どちらかと言えば普通の人達。
発言にしても行動にしても突飛な部分は無く、今私達のそばを通り過ぎていく人達と何も変わりはないという印象。
「表面上は穏やかだし、愛想も良い。ただ彼らは政治家。権力闘争と利権を巡って戦ってきた人間達だ」
「理想を追い求めるのが政治家じゃないんですか。それを実現に持っていくのが」
その問いにお父さんはかすかに口元を緩め、諭すような口調で話し始めた。
「さっきも言ったように、私は人の善意を信じられない。その例の一つが、今回の議員団です」
「今のところは、何もしてないけど」
「視察は名目で、何らかの意図があると私は思っています。中には、先月視察したばかりの議員もいますから」
「え」
「学校が公表してないだけで、そういうケースは多々あります。それ自体は悪い事ではないですが、視察したばかりの人間が再び訪れるのは真意を疑いたくなっても仕方ありません」
速度を落とし、二人の前に止まるタクシー。
彼らは車内に乗り込み、私達に頭を下げた。
「彼らは、信用しないように」
「忠告は受け取っておきます。だけど、信じる事が出来る人間もいるんじゃないんですか」
「昔は、私もそう思っていました」
もう一度頭を下げるお父さん。
走り出すタクシー。
それはすぐに他の車とまぎれ、見分けが付かなくなる。
「秀邦さんは、今の話をどう思います?」
「俺は議員団の事もよく分かってないから、どうとも言えないんだかが。サトミも事前に調べてはいるんだろ」
「ええ。スケジュールを作ったくらいなので」
「あれこそ、人を信じるタイプだからな。視察が重なった事に疑問はあっても、それを熱心だと思い込もうとしてる。人を信用する事自体は悪くないが」
口元を押さえ、思案の表情を浮かべる秀邦さん。
彼は腕時計に視線を落とし、そのまま目を閉じて口も閉ざした。
「……仕事があるから、俺もここで帰る。サトミがこの件に何も言わないのなら、誰か他の子に話しておいて」
「分かりました」
「それとこの件で何かあっても、サトミを責めないで欲しい」
今から頭を下げる秀邦さん。
まるで、その何かがあるかを確定したような態度。
同じ議員が立て続けに訪れる事を、彼らは何かの兆候と考えている。
そしてサトミは、それに気付いている。
だけど、表立って何かをしようという様子は無い。
彼女は人を信じているから。
だけど彼らの話を聞いていると、まるでそれが悪い事のようにすら思えてくる。
「人を信じるのは悪くない。たださっきの話じゃないが、世の中全てが善意で成り立ってる訳でもない」
「分かりますけど、でも」
「信じたいという気持ちは俺にもある。だが、逆にそこへ付け込む連中もいる。それは覚えておいた方がいい」
もう一度時計を確認し、私達へ手を振りながら駅の方角へと歩いていく秀邦さん。
私も時計を見て、会合の時間が迫っているのを確かめる。
「とにかく、私達も戻ろうか
「ああ」
第一講堂の、私達用に準備された控え室へとやってくる。
遅かったという声は聞かれるが、それ以外は何も変わった様子は無い。
あるとすれば、サトミの姿が見当たらない事か。
「サトミは?」
「小牧さんと打ち合わせをしてる。何か用事でもあるの?」
「ちょっとね。議員団は?」
「控え室で暇そうにしてた」
質問ばかりする私に、視線を投げかけてくるモトちゃん。
具体的な事を言わず、ただ尋ねてばかりいれば不審に思うのも当然だ。
「あまり議員団を信じるなって話を聞いた。その意味までは分からないけど」
「漠然としすぎてるわね。信じるも信じないも、彼らは私達に直接的な影響力は無いわよ。教育庁に圧力を掛けるのは出来るにしろね。ケイ君は、どう思う」
「初めから信じてもいないから、関係ない。と言いたいが、別に疑ってた訳でもない」
真剣みを帯びるケイの顔。
彼は端末を手に取り、机を指で叩きながら相手が出るのを待つ。
「……丹下?……今から言う場所にガーディアンを配置して欲しい。それぞれの講堂や体育館の出入り口。出来たら、風間さん達にも頼んで。……何も無ければそれでいいけど。……いや、無理はしなくていい。危なければ、身を守るだけで。……ああ、分かった」
彼は次いで卓上端末を引き寄せ、議員個々のプロフィールを照会し出した。
「履歴は特に怪しくないし、大物もいない。随行の官僚の方が偉いくらいか。……こいつ、先月も来てるのか」
「それは、どういう意味なの」
やや早口で尋ねるモトちゃん。
ケイは首を振り、画面に映っている目立たない雰囲気の男性を指差した。
「教育熱心と言われればそれまでだし、癒着してるのなら名古屋まで来る必要は無い。そんな目立つ真似をするより、東京で会った方が早い」
「彼個人は関係ないって事?」
「頭数って事なんだろうけど。圧力じゃなくて、証人にさせる気かな。学内は混乱してるから、規律を持った組織が必要だって。ちんたら会合を重ねるより、その方が手っ取り早い。傭兵を暴れさせて、それを保安部が取り押さえるってパターンか。……警備員を使うかだ」
声を押し殺すケイ。
もどかしげに机を叩く指先。
彼にしては珍しい、焦りの態度。
「それは警備員を導入するデモンストレーションって事?」
「もしその通りになるのなら。保安部相手だったらガーディアンでも止められるけど、警備員と戦えるガーディアンは限られてる。ちょっと、後手に回ったな」
ようやく指を止め、端末を手にとるケイ。
そこでボタンを押しかけ、そのまま端末を机へと戻す。
「今更あがいても仕方ないか。完全にやられた」
「そんなまずい事?」
「いずれは導入するとは思ってたけど、それを食い止める方法を考える余裕はあると思ってた。でも、今やられたらどうしようもない」
完全に諦め。
放棄の態度を示すケイ。
その視線は卓上端末の、議員の履歴へと向けられる。
「履歴を見るべきだったな」
一瞬室内をさまよう視線。
そして口元が緩み、鼻が鳴らされる。
「何よ」
「サトミはこの事を知ってたんじゃないのか。議員が前にも来てるって」
「そうかもね」
素直に認め、全員の視線を浴びる。
言ってみれば、一人の議員が先日も訪れていただけの事。
それを私達に報告する義務は無い。
ただそれが何かの兆候であれば。
そしてケイの言うような事が起きるとすれば。
また、その兆候からその出来事を読み取れるとしたら。
ケイの表情が悪くなるのも仕方は無い。
「言いたい事は分かるけど、サトミは責めないで。あの子が悪くないとは言わないけど、履歴を確認しなかったのは私達もでしょ」
庇うようにそう言うが、ケイは半笑いのまま履歴の画面を指差した。
「一人でやってるから、全部任せた。手を出す事でも無いと思ったから。で、結果はどうだ」
「結果はまだ出てないじゃない」
「大体お前、人の事を言えるのか」
厳しい表情で机を叩くショウ。
ケイは大げさに体をのけぞらせ、卓上端末の画面を消した。
「それは失礼。で、どうする?」
「議員は信じられないかもしれない。でも、私はサトミを信じる」
「おい、俺が聞いてるのはそういう事じゃない」
「他に言う事は無い」
「机を叩いたそっちの。何か意見は」
「考えるのは任す」
完全に我関せずといった口調で、そう言ってのけるショウ。
以前の彼には無かった事で、何よりあそこまで直接的にケイを責めはしなかった。
それが成長なのか、一時の感情の高ぶりなのかは分からない。
どちらににしろ、私達は昔へは戻れない。
ただみんなで笑い、肩を抱き合い、同じ方向を向いていた頃へは。
でも過ちを振り返る事は出来るし、それを思い返す事も出来る。
やり直せはしないけど、繰り返さないようには出来る。
サトミが人を信じて、それが誤った選択だとしても良い。
私は彼女を信じ、仲間を信じるから。
例えそれで辛い目に会おうとも、私は決して後悔しない。
「サトミを探してくる」
「議員との癒着だ。秋田に空港を作る気だ」
「もう空港はあるよ」
冷静に指摘する木之本君。
ケイは舌を鳴らし、机を指でがりがりと書き始めた。
「とにかく、これはあの女への貸しだからな」
「その話は後で聞く。入れ違いになったら教えて」
控え室を出て舞台へ向かうが、スタッフの姿以外は見当たらない。
小牧さんもいないので、サトミがいる事も無いだろう。
「遠野さん、知らない?」
「小牧さんと、放送部へ行きましたよ。カメラワークがどうとかって言ってました」
インカムを外し、教えてくれる女の子。
なるほどと思い、もう一つ尋ねてみる。
「放送部ってどこ」
「雪野さん、2年ここにいるんですよね。私は傭兵で、去年からですが」
「だから?」
「もう結構。端末があれば、どこでも行けます。これを見ながら行って下さい」
端末に標示される学内の地図。
放送部は文科系クラブの建物の中か。
端末を使えば場所は分かる。
ただこれを見ながら歩くのは恥ずかしいので、普段は使っていない。
使っても迷う時もある。
「え」
見慣れない銅像を回り込んだところで、突然目の前が暗くなる。
何もここでと言いたくなるが、なってしまったものは仕方ない。
最近ストレスが多かったので、出るべくして出たとも言える。
とりあえず銅像の前に座り、台座の部分に腰を落とす。
スカートのポケットを探って目薬を取り出し、眼鏡を外してそれをさす。
瞳の奥に感じる鈍い痛み。
原因は相変わらず不明だが、ストレスがその一因ではあるだろう。
どちらにしろこのままでは身動きも取れず、何より無理をしたくない。
会合に出席するのは義務ではないし、元々あそこに私がいる必要は殆ど無い。
加えてこの状態では、足手まといになるだけだろう。
「貴様、どこに座ってるんだ」
正面から聞こえるかさに掛かった口調。
その声を聞くだけで反応する気を無くし、改めて眼鏡を掛ける。
「聞こえてるのか。そこの女」
真上から声がするので、私の事を言ってるのは間違いない。
だからなんだという話で、今無理に立てばどれだけ負担が掛かるか分からない。
「貴様、大人を舐めてるのか」
頬や手の甲に感じる風の動き。
素早く横へ体を開き、おそらくは伸びてきた手を避ける。
これだけでも正直嫌なのだが、触られる方はもっと気分が悪い。
「このガキが。きっちり礼儀を仕込んでやる。おい、警備を呼んで来い」
「はっ」
騒がしくなる周囲。
言い訳をする気は無いし、とにかく今は何もしたくない。
ただ、降りかかる火の粉を払うくらいの事は出来る。
目は見えなくてもスティックはあるし、手足も動く。
何より、この相手を許さないと心の奥が告げている。
私の目が見えていない。
もしくは体調が不良なのは、見ればすぐに分かりそうなもの。
それよりも、銅像の方を大事にするという感覚。
人より、物。
もしくは、この銅像への偏った感情。
どちらにしろ相手にしたいタイプでは無いが、向こうはそう思ってないらしい。
「そこ、何をしておる」
年を取った、ただ威厳に満ちた声。
見えはしないが、どうやらターゲットをそちらへ変える雰囲気。
馬鹿げた騒ぎを止められ、気分を害したのかもしれない。
「じいさん、この銅像が誰だか分かってるのか」
「さあな。老眼で、何も見えんよ」
「これは、草薙高校の創設者の銅像だ。それに腰を掛けるなど、言語道断。だから、今からその無礼を糾そうと思っただけだ。邪魔をするな」
「見れば相手はか弱い子供。大勢の大人がよってたかって騒ぐ程でもないだろう。大体、調子が悪いから座ってるのではないのか」
「調子が悪かろうとなんだろうと、無礼は許さん」
「お前の言ってる事こそ、わしには分からん。誰か、おるか」
ニ三度手の鳴る音がして、うめき声がいくつか上がる。
人が倒れる音と、逃げていく足音も。
「き、貴様。我々は、この学校の理事会の」
「そんな事は知らん。逃げるか戦うか、選べ」
「くっ。来客リストを見れば、誰かはすぐに分かるんだからな」
「さっさと失せろ。興が醒めるわ」
ようやく周囲に静けさが戻り、私も視力も少しだが回復をする。
おぼろげに輪郭が見え、スティックを頼りに歩ける程度には。
「この前は済まんかったな。目を患っておるとは、気付かなかった」
「この間?」
顔を上げ、ぼんやりと見える老人の顔を確かめる。
確かサトミの両親を見かけた時に地下鉄で会った老人。
小うるさいタイプという印象しかなく、大体どうしてここにいるのかという疑問が残る。
しかもなぜか見上げるような高い位置にいる。
「よく分かりませんけど、ありがとうございました」
「礼には及ばん。それと、わしはこっちだ」
後ろから聞こえる声。
良く見ると、銅像に向かって頭を下げていた。
でもその顔は、地下鉄で見た老人と全く同じ。
という事は。
「この学校の創設者?」
「一応はな。今は孫に経営を任せておるから、わしは単なるオーナーに過ぎん」
「そうですか」
というか、それ以外に答えようが無い。
しかし草薙グループは、国内でも有数の学校法人であり大企業。
その代表が地下鉄に乗ると言うのも、かなりの違和感がある。
「わしはもう、一線を退いておる。学校法人は孫に、研究所は息子達に任せてある」
「それと地下鉄と、何か関係が」
「昔、あれに乗って仕事に行っておってな。ノスタルジーじゃ」
何が「じゃ」か知らないし、あまり知りたくも無い。
地下鉄が黄色かろうが赤かろうが、どうでもいいじゃない。
「病院へ行った方がいいのか。おい、おぶってやれ」
「は」
「いや、それは結構」
目の前に現れた黒いスーツを避けて、後ろに下がる。
別に警戒する訳ではなく、私が負ぶさる背中は一つしかないからだ。
「知り合いを呼ぶので、大丈夫です」
「恥ずかしがる年でも無かろうに。それとも、操でも立て取るのか」
「下らないな」
「目上の者に向かって、その口の利き方は」
「操とか言うからじゃない。偉いと周りがイエスマンばっかりで、駄洒落を言っても大笑いでしょ」
「口の減らん子供だ。構わん、負ぶえ」
「は」
気付くと前後を囲まれ、強引に体を持ち上げられそうになる。
こうなればこっちも意地でと言いたいが、それより早く疾風が目の前を駆け抜けた。
「大丈夫、だよな」
私を振り返りつつ尋ねてくるショウ。
それに頷き、背中へ飛び乗る。
別にふざけている訳ではなく、こうしないと歩く事もままならないので。
「良く分かったね」
「帰りが遅いから、気になった。単独で動くのは危ないな」
「自分はいいの?」
「大丈夫だろ」
さりげない言葉。
そこに込められた自信。
自然と彼の肩に回した手に力がこもる。
「何だ、それは」
「何って、何が」
「分かってないのなら良い。それと、病院は」
「ああ、忘れてた。医療部へお願い」
診断結果はいつもと同じ。
目立って悪化はしていなく、原因はストレスという推測。
結局採血をされ、第3日赤へも行くよう固く言われる。
「治らんのかな、これは」
人の真後ろに立って尋ねる創設者。
孫かひ孫だな、これでは。
「視神経は、現代医学でもまだ解明が済んでいないんです。神経細胞の培養自体は可能なんですが、こちらのデザイン通りの成長をする確立が非常に低いんです」
「難しい物だ、人の体というものは」
「仰る通りかと。結局は時の流れに任すしかないですね。医者としては忸怩たる思いです」
そんなに思い詰めてるとは知らなかった。
とはいえあまり考えすぎて、変な臨床実験に走られても困るけどさ。




