34-3
34-3
若干の重さを感じつつ、お昼ご飯を食べる。
その点は現金な物で、美味しい物を口にすれば自然と気分は軽くなる。
何より、悩んで解決する訳でもないしね。
「こんにちは」
目の前へ、静かに置かれるトレイ。
そこはショウの席と言う前に、矢加部さんが笑顔をたたえて座ってきた。
暗に、「貸しが一つありましてよ」と言いたげに。
そんな事は知らないので、バスタのスープをちびちびすする。
「何か、おっしゃりたい事は無いんですか」
「犬猫センターはどう」
「そんな呼称ではありません。今のところは順調です」
意味が通じてるならいいじゃない。
あーあ、このサラダのドレッシング酸っぱいな。
「さっきはありがとう」
トレイに食べ物を山盛り乗せ、人のいい笑顔を浮かべるショウ。
矢加部さんは一転華やいだ表情で、口元を抑えて身をよじりだした。
「私は何もしてませんから。ええ、本当に」
だったら恩着せがましく、目の前に座らないでよね。
「政治的な力を持つのは本意ではないのですが、やむを得ず何人かを矢加部家として援助しております」
「政官財の癒着じゃないの」
「意味が分かってておっしゃてるんですか」
そんな事知らないけど、語呂が良いのは分かってる。
大体私なんて権力も利権も無いから、癒着なんてしようが無い。
しかし、折角の美味しい気分が一気にしぼんでしまった。
仕方ないのでチョコバーをかじり、改めて幸せを満喫する。
「それ、この前デパートで配ってたチョコ?」
さすがに鋭いサトミ。
正確にはお母さんがもらった物のあまり物。
私もお母さんもちまちま食べるタイプなので、試供品の袋にはまだたくさんチョコが残っている。
本当、先祖はリスじゃないのかな。
「気分直しにね。生チョコなら、まだあるよ」
歯磨き粉みたいなチューブを差し出すと、サトミは露骨に嫌な顔をして押し返してきた。
何も、そこまで嫌がらなくてもいいでしょうよ。
「美味しいのに」
「子供じゃないんだから、いつまでもそんな物食べないで」
「美味しければ何でもいいじゃない。高ければいいって物じゃないよ」
「駄菓子を食べてる年でもないでしょ」
どうもこの辺が固いというか、枠にこだわるんだよな。
美味しければ食べる、まずければ食べない。
ただそれだけの話。
どこで取れたとかどうやって作ったかは、その後の話だ。
「サトミはもういい。モトちゃん」
「太るわよ、あなた」
なんか、怖い事を言い出した。
思わず頬を触り、そのまま下がって首筋を撫でる。
胸元を過ぎ、わき腹を掠めてお腹をさすり無事を確認する。
特に太ってはいないし、胸なんて膨らんでもいない。
まあ、お腹が膨らむよりはいいけどね。
「モトちゃんは太ったの?」
「太っては無いけど、そろそろ成長期も終わり。意味も無く食べればいい時期は過ぎたのよ」
じゃあ、とっくに成長期の過ぎた私はどうなんだ。
なんて思いつつ、残りのチョコバーを口に放り込む。
この幸せを満喫出来るのなら、少しくらい太ったって良いと思う。
ただこれは今の考え方であって、体重計の前に立った時の考え方ではない。
「ショウは」
「食べる」
何の迷いもなしにチューブをくわえて吸い出すショウ。
一瞬にしてチューブが透明になり、ショウはそれを端から追ってわずかな残りを集め出した。
「美味しい?」
「ああ」
「ふーん」
変に執着してるし、バレンタインディにはこのチョコも上げようかな。
ムードも何も無いし、バレンタインディの意図とは正反対のような気もするけど。
そろそろ休憩時間も終るので、残ったチョコをリュックにしまう。
これはまた明日の楽しみ。
こういうささやかな幸せが、私には似合ってるのよ。
教室へ来ると、後ろに議員団が列を成していた。
カメラ、メモ、筆記用具。
大人になっても勉強熱心というのは、私からはかなり縁遠い。
やがてチャイムが鳴り、老教師が教室へと入ってくる。
「みなさん、こんにちは。今日は国会議員の先生方が視察に見えていますが、固くならないように。では、始めます」
教科書を開き、古文を読み出す老教師。
聞いた事のある、正確に言えば昨日聞いた文章。
「・・・。とは、どんな様子を現しているでしょうか」
文章も同じなら質問も同じ。
別に手を抜いた訳ではなく、私達に恥をかかせまいとする親心だろう。
さすがに昨日の話を忘れる事は無く、正答率はほぼ100%と表示される。
議員団から感嘆の声があがったのもつかの間。
「えー。実を言うと、これは昨日やった個所でして。本来の姿、とは行きませんがご了承を」
自分からネタをばらす老教師。
それにひとしきり笑い声が起きたところで、新たな問題が追加される。
こちらは昨日やらなかった部分。
議員団は笑ってるが、生徒は誰一人として笑ってない。
こういう微妙なプレッシャーの与え方が、教師としての年季と格を知らしめる。
「今度は少し正答率が下がりましたね。ただ古典については解釈が成り立つので、単に読み進めるだけならあまり深く考える必要はありません。文章の概要、意図を掴むのがまずは大切でしょう」
なるほどねと思いつつ、ノートの端にメモを取る。
書いた事自体を忘れるかもしれないが、今の話を大切だと思った気持ちは何らかの形で残るだろう。
「では、登場人物の系図を書いて下さい。中心は光源氏になりますね。お父さんが帝。はい、始めて」
登場人物って、本当のお母さんと藤壺の宮。
葵上、紫の上、夕顔、空蝉、末摘花、明石の上、六条の御息所、女三宮。
匂いの君。
改めて書き出すと、この男冗談じゃないな。
「・・・大体答えが出ましたね。側室制度が、やはり特徴といえるでしょう。当時は今よりも乳幼児の生存率が低く、子孫を残す意味もあったのでしょう。また、家督相続という面も。単純に、男の支配欲かもしれませんが」
その台詞に再び議員団が笑い声を上げる。
私はそこまで枯れてないので、光源氏に悪意を抱くだけだ。
理由はどうあれ、愛する人は一人じゃないの?
私だったら泣いて枕を濡らす前に、一族郎党引き連れて相手宅に乗り込むけどな。
「では最後に、短い文章の訳を」
来たよ。
これも、昨日と同じ内容。
だから迷わず、すらすら書ける。
「ダルマじゃないわよ」
後ろから人の答えを覗き見るサトミ。
カンニング禁止といいたいが、正答はむしろ彼女の方だ。
だからと言って、この答えを変える気も無いけどね。
「もう遅い、送った」
「いいわよ。恥をかくのはユウなんだから」
「ダルマくらいで恥はかかないでしょう。それに間違っては無いの」
二人で揉めてる間に回答が集まったらしく、老教師がいくつかの答えを読み始めた。
「幼い女の子達が集まり雪を転がして遊んでいる。だが雪が重くて、思うようには転がっていかない。・・・つまりは、こういう事です」
誰のとは言わない老教師。
しかし後ろから背中を突かれるので、誰のかは言わずとも分かる。
「・・・えーと。子供達が雪だるまを作ろうと、一所懸命頑張った。なかなか斬新な回答ですね」
微妙な言い回しに持っていく老教師。
背中に突きつけられる指が早くなっていく。
「文中に出てくるゆきまろばしとは、雪を転がしす遊び。また雪だるまという呼称は江戸後期以降。その意味では合致しないんですが、人に似せて作った事はあるかもしれません。かなり大胆な解釈ではありますが、間違ってはいないと思います」
一人心の中で笑い、小さく机を叩く。
背中に突き刺さる指は、この際忘れる事にしよう。
「最後に一言。このような柔軟な発想を育て見守っていくのが、教育者としての勤めだと思っています。初めから否定するのではなく、まずは受け入れる事が大切なのではないでしょうか。・・・ただ、理論を踏まえ厳密に正答を導き出すのが大前提ですが」
その言葉が終ると同時にチャイムが鳴り、老教師は荷物をまとめて教室を出て行く。
議員団から拍手が起き、教室内は和やかな空気に包まれる。
私の背中へは、冷ややかな空気が伝わってくるが。
「本当、良い事言うよね」
「正答を導き出すのが大前提とも言ったわよ」
いまだ納得出来ないと言った顔。
ただサトミに柔軟な発送をしろと言っても無理な話で、あまり弾けられても困る。
人間それぞれ出来る事と出来ない事があるし、何よりやらない方がいい事もある。
次は、技術の授業。
どういう訳か、私達も全員参加。
木工用の机に座り、あらかじめ書いておいた板が配られていく。
「危なくないよね」
机に備え付けられている、電動の糸鋸を遠巻きに指差す。
木之本君はにこりと笑い、大きな革のグローブを指さした。
「素手では掴まないよ」
「切れないよね」
「センサーも付いてるから、仮に接触したら自動的に止まる。試しにやってみようか」
入れられるスイッチ。
低い音を立てながら振動を始める糸鋸。
木之本君はそのグローブをはめて、糸鋸へ触れさせた。
その途端糸鋸は動きを止め、パイロットランプが赤くなる。
「それに細かい作業をするならともかく、切るだけだからね。危ないと思うなら、玲阿君に頼めば」
「そうする。なんか、ちょっと嫌だ」
ショウは危なくて良いのかという問題ではなく、ちょっと私の扱える範疇を越えている気がする。
そんな事をしている間に、作業着を着た若い女性が入ってきた。
「では、始めます。手順は端末に送信した通り。失敗しても何でもいいから、始めなさい」
議員団もいるのだが、それを気に掛けた様子も無く言い放つ女性。
豪傑って、多分こういう人なんだろうな。
「宮大工の経験もあるらしいよ、あの先生」
話しながら、器用に板を切っていく木之本君。
それもただ切るのではなく、下絵通り丸みをつけて。
辺りへは木屑が飛んできな臭い香りが漂い出す。
それが楽しいのか、木之本君は笑顔を浮かべて切っていく。
顔にも木屑が掛かっているのだが、それを気にした様子も無い。
サトミなら、悲鳴を上げているところだが。
「大体、こんな感じ。多少余裕を持って切ってもいいと思うよ。余った分は調整出来るからね」
逆に切りすぎたらジリ貧か。
私は切らないので、ここはショウの技量に任せるとしよう。
「じゃあ、僕も」
木之本君程ではないが、慣れた手付きで板を切っていくヒカル。
木之本君よりも雑な切り方だが、どうやらそれを狙っているらしい。
こういうテクニックやセンスは私に備わってないので、ただ感心して見てるだけ。
「出来た。次は?」
「じゃあ、ユウの分を切るか」
私の板をショウが手にしたところで、それに華奢な手がかぶさってきた。
「ちょっと待った。自分のものは自分で切る。これは鉄則よ」
「でも」
「危なくないから大丈夫。それにこのデザインなら、殆ど真っ直ぐ切るだけでしょ。ほら、やった」
胸元に押し付けられる板。
仕方ないのでゴーグルをはめ、グローブを付けてスイッチを入れる。
設置板から伝わる振動。
目の前に見える糸鋸。
深呼吸をして、少しずつ板を近付ける。
少しの抵抗ときな臭い匂い。
振動が激しくなり、木屑が辺りに飛び散り出す。
下絵通りに少し板をずらし、慎重に板を進めていく。
強い緊張感とそれに伴う集中力。
意識出来るのは進めている板と、手に伝わる小刻みな振動。
顔に木屑が掛かるのも気にせず、下絵に沿う事だけを考えて板を進めて行く。
「ふぅ」
板の角が取れ、少しの丸みを帯びたところで糸鋸を止める。
大した時間が掛かった訳でもないし、大した事をやってもいない。
それでも自分にとっては、気の遠くなるような時間を過ごした気がする。
「いい感じね。楽しいでしょう」
爽やかな笑みで肩へ手を置いてくる女性。
一応そうですねと答え、そのまま近くの椅子へ座り込む。
こういう神経をすり減らすような作業は私には向いてない。
もっとちまちました、貼り絵とかなら得意なんだけどね。
「次は、あなた」
「え」
指名を受け、ゴーグルとグローブをして板をセットするモトちゃん。
少々危なっかしい手付きだが、女性が後ろから手を添えて優しくサポートしてくれている。
私の時には無かった待遇で、ちょっと差別を感じるな。
「これも良いわね。さて、次は」
「私が」
何故かジャージ姿で、板と端末を持って前に出るサトミ。
何をするのかと思ったら板を糸鋸の前に置き、その板を完全に固定させて後ろへ下がった。
「では」
端末のボタンを押す細い指先。
それと同時に糸鋸が動き出し、板を固定していた台がスライドする。
「何、これ」
「図形のデータを入力しておけば、後は自動的に切ってくれるのよ」
「ふーん」
自動で刺繍してくれるミシンがあるけど、それと似たようなものかもしれない。
なんて感心している間に作業は完成し、これで終わりかと思ったら改めてゴーグルと手袋をはめ出した。
「出来たんじゃないの」
「微調整するのよ」
「どこを」
「何もかもを」
糸鋸を動かし、少しずつ板を削っていくサトミ。
私の目には完成しているように見えるが、これは彼女の美意識の問題。
ただ、放っておけば明日の朝までやっている。
「先生、止めた方が良いですよ」
「みたいね。ほら、もう終わり。後はやすりで調整しなさい」
「ですが」
「私が終わりと言えば、この世も終るのよ。ほら、これ使って」
鉄製のやすりとサンドペーパーをサトミへ押し付ける女性。
サトミはそれを受け取り、私の隣に座って板と端末の写真を交互に見比べ出した。
「出きてるじゃない」
「角度が足りない。木之本君、もっと細かいサンドペーパーは無いの」
「あるけど、それで完成じゃないかな」
「そうかしら」
工作に関して彼へ異議を唱える事は出来なかったらしく、それでも諦められないのか切断面をサンドペーパーで磨き出した。
「次は、君」
「はい」
木之本君達同様、慣れた手付きで板を加工していくショウ。
見ていて不安は無く、サトミと違い作業はあっという間に終る。
「みんな上手いわね。・・・あなたは」
逃げていこうとするケイに声を掛ける女性。
ここで止めれば、ハッピーエンドの結末だったんだけどな。
「下手なんですけど」
「失敗しても、誰も笑わない。ほらやって」
「知らんからな、もう」
ゴーグルとグローブを付け、板をセットするケイ。
糸鋸が動き出し、板を進めたところで作業が止まる。
グローブが糸鋸に触れ、センサーが作動したようだ。
「気を付けて」
「分かってます」
改めて動き出す糸鋸。
でもってすぐに止まり、板が後ろへ戻される。
「何してるの」
「センサーが過敏なんですよ」
「グローブ外しなさい」
「おい」
しかし冗談で言ってる訳ではなかったらしく、女性の鷹のような視線を浴びてケイは舌を鳴らしながら手袋を取った。
「集中すれば大丈夫。指くらい、すぐ引っ付く」
なにやらすごい事を言いながら糸鋸を動かし出す女性。
ケイはいつに無い真剣な顔で板を動かし、無言で作業を続けていく。
何を考えたのか変な曲線が板に書き込まれていて、頬を汗が伝うのもやむを得まい。
幸い飛び散ったのは木屑だけで、彼や私達が血飛沫を浴びる事は無くて済んだ。
「下手だけど、まあいいわ。これは、しっかりとやすりを掛けなさい」
返事をする気力も無いのか、サトミの隣へ座りもくもくとやすりを掛けていくケイ。
「今日はここまで。今週一週間で完成出来るよう、ペース配分を考えて作るように。また友達の作業を手伝うのは良いけど、やり過ぎないように。では、後片付けを始めて」
制服を叩くと木屑が出てくる。
明日からは、ジャージにでも着替えた方が良さそうだ。
どうしてサトミがジャージを着てたか、今分かったよ。
やってきたのはいつもの資料室。
モトちゃんは室内にいる全員を見渡し、大きく深呼吸して机に手をついた。
「今日からは公開形式になるけど、やる事は変わらない。生徒会の横暴を指摘し、学校との癒着を糾す。前も言ったように、問題の根幹は学校側にあると私は思ってる。誰か、意義のある人は」
誰からも言葉は無い。
ただ全員の思いは同じで、今更それが覆る事も無い。
「どういう事態になるか分からないけど、私は心配していない。管理案を撤回させて、以前の学校へと戻す。そのために、頑張りましょう」
小さく拍手をして、ささやかながら彼女の気持ちに応える。
私に出来る事はあまり無いけど、気持ちは同じ。
元通りとは言わない。
だけど、今のままで良いとも決して思わない。
諦めてても嘆いても、誰も助けてくれはしない。
だったらこの足で前に進み、この手で掴み取るだけだ。
例え困難な道だろうとも、それが先輩から託された使命。
そして、私が願う事。
みんなのために。
そして自分自身のために、私達は戦いへ挑む。
大勢の観客。
その視線の先にあるのは、舞台に並んだ縦横ニ列ずつの机。
前列に発言する人が、後列は私のようなおまけが座るはず。
机は右と左で若干距離が開けられ、それがそれぞれの立場の立場の違いをも表している。
舞台の袖から見ているだけで、少し汗をかいてきた。
照明は無熱タイプなので、どれだけ明るくても熱は帯びない。
この人の多さ。
彼らの期待や反発、好奇心。
そして相手は生徒会であり、つまりは学校。
正直私には荷が重く、今からでも逃げ出したいくらい。
何もしない私自身がそうなのだから、モトちゃんやサトミのプレッシャーは計り知れない。
「オブザーバーはやってくれないんですか」
少し不満げに声を掛けてくる小牧さん。
制服の襟を直していたサトミは申し訳なさそうに微笑み、軽く彼女の肩へと触れた。
「ごめんなさい。あの時は、自分でもどうかしてたみたい」
「サポートをしてくれると、大変助かるんですが」
「だったら、あなたから一番近い席へ座るわ。ユウ、一つずれて」
「助かります」
心底救われたという声を出す小牧さん。
サトミはもう一度彼女の肩に触れ、今日の進行表を受け取った。
「議員の紹介は短めに。代表者のスピーチも、長引くようならマイクをオフにして。故障で乗り切る」
「分かりました。皆さんの自己紹介、楽しみにしてて下さい」
最後に「うひひ」と笑い、去っていく小牧さん。
そんな笑い方をされて、期待も何もあったものじゃない。
「大丈夫だよね」
「日頃の行いが物を言うわよ」
サトミの呟きに、全員の視線がケイへと向かう。
その彼は脇腹を抑え、次にお腹を抑えて舞台とは反対側を指差した。
「痛いから、帰りたい」
「子供みたいな言い訳しないで。倒れたら、それはそれでいいアピールになるわ」
「この鬼が。誰か、今の言葉会場に流してくれ」
しかしその言葉を無視するかのように、慌しく彼のそばを過ぎていくスタッフ達。
彼の味方になるかサトミの味方になるかと問われれば、これは考えるまでも無い。
「お待たせしました。では、パネリストの方の入場です」
どうやらいつのまにか始まっているらしく、スピーカーから小牧さんの声が聞こえてきた。
それに伴いスタッフが私達の周りに集まり、出て行く順番を確認する。
「最前列が元野さん、次いで木之本さん。浦田光さん。後列は浦田珪さん、玲阿さん、雪野さん、遠野さん。これでよろしいですね」
「はい」
モトちゃんが了承したところで、インカムを付けたスタッフが彼女を促す。
少しずつ高まる緊張感。
それが収まる事もなく、列が動き出していく。
階段上の席を埋め尽くす大勢の生徒。
拍手はすでに収まり、その分視線を強く感じる。
私達という人間に対して。
そしてこれから起きる事への期待と好奇心。
これだけ大勢の人間と向き合う機会など、何度も経験した事はない。
ただこの討論会は、これから毎日行われるはず。
いつか慣れる日が来るのか、それとも後悔し続けるのか。
何にしろ、もう逃げるという選択肢も選べない。
私達が舞台上へ全員揃ったのを確認して、袖から小牧さんが登場する。
彼女は観客席と私達に一礼して、舞台の端。
私のそばにある小さなスピーチ台の前へと付いた。
「本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。この討論会のテーマは、学内での出来事全般についてを取り扱います。また参加希望者は随時受け付けていますので、よろしければお申し込み下さい。それでは初回のため、参加者の簡単なプロフィールをご紹介させていただきます」
まずは執行委員長。
新カリキュラム修得者で、他校からの転入組。
親が理事だというのは、ここでは触れられない。
次いで矢田君。
自警局長という立場と、やはり他校からの転入組。
何人かが紹介されていくが、他校からの転入組が半数以上。
ただ一般生徒にも当然他校からの転入組は多いため、それで生徒からの反発を招くとは言えない。
「次に、一般生徒側のプロフィールをご紹介させていただきます。……代表は元野智美さん。旧連合代表補佐で、議長職が内定していました。温厚な人柄と親しみやすい性格で、大勢の方から慕われているのは皆さんご承知の通りと思います」
なかなか好意的な紹介。
これには自然と会場から拍手が沸き起こる。
「木之本敦さん。旧連合補佐で、その後は議長補佐が内定していました。元野さん同様大勢の方に慕われる温厚な性格で、また信念を貫く面もあるのは先日の件で皆さんご理解されたかと思います」
やはり拍手が起き、全体的に好意的なムードに包まれる。
「浦田光さん。現在は飛び級で大学院に進学をされています。木之本さんに負けず人が良いというお話も伺っています」
彼については知らない人の方が多いのか、拍手もまばら。
この辺りは致し方ない所だろう。
「浦田珪さん。光さんの双子の弟ですね。旧連合では実質的に元野さん達の補佐をしていました。切れ者という評価もあるようですが、さて」
まばらな拍手に混じって聞こえるブーイング。
これは執行委員会側にもなかった事で、彼への評価がこの辺りからも窺える。
「玲阿四葉さん。やはり実質的に元野さん達の補佐をしていました。言うまでもない学内最強の存在。彼については、多くを語る必要も無いでしょう」
拍手を掻き消すような黄色い声の連続。
小牧さんの声も途中で途切れ、仕方ないと言わんばかりに首を振る。
「雪野優さん。やはり実質的に元野さんの補佐をしていました。玲阿君に次ぐ実力、女性版学内最強といえば彼女でしょう」
そういう紹介は止めて欲しいし、最強でもないと思う。
運動部を探せば私より強い人はいくらでも出てくるだろうし。
それと、「小さくて見えない」という野次は止めて欲しい。
「最後に、遠野聡美さん。彼女も元野さんの補佐をしていました。頭脳明晰容姿端麗。草薙高校のプリンセス」
マドンナかと思ったら、プリンセスか。
間違ってはいないけど、そんな呼ばれ方もされたくはないな。
「紹介は以上でした。また最後になりますが、議事進行は私小牧が勤めさせていただきます」
そんな彼女に小さく拍手。
しかし拍手をしたのは私くらい。
気付かれてはいないと思うが、どっと汗が吹き出てきた。
それと、おかしな紹介をされなくて助かった。
手元に変なイラスト付きのプロフィールが回ってきたけど、それは見ないようにしよう。
「では、さっそく討論に入らせていただきます。初めは最も分かりやすいテーマ。今回の規則改正に対してのご意見を伺おうと思います。まずは双方の意見を主張し、その後討論に入ります。では、執行委員会側からどうぞ」
指名を受けて襟元のマイクを確かめる委員長。
さすがにこれだけの人数から注目を浴びるも慣れているらしく、動じた気配はまるでない。
「我々の主張は一つ。学内に秩序を確立し、生徒が勉強のみに集中出来る環境を構築する。信賞必罰。自由という呼び方での馴れ合いは必要としない。以上」
静まりかえる会場内。
ただ否定的な空気はさほど無く、またその主張自体は受け入れる人もいるはず。
問題は主張よりも、手法にあるのだが。
「ありがとうございます。では生徒代表、元野さんお願いします」
「はい。私達の主張は三点。規則改正に伴う、生徒会組織の権力乱用。これの阻止。もう一つは規則改正自体、不必要な部分が多く生徒活動を妨げている。それの改善。最後の一点は、強引に規則改正を実行した生徒会。及び。それを推進した学校の責任の追及です」
これには会場内がざわめき、あちこちから怒号が響く。
学校を敵に回すという、過激な主張。
ただそれくらいでここまでの怒号が上がるのは、やや不自然。
「仕込みだな」
鼻で笑うケイ。
証拠はないが、それを実行する力は十分に備えている。
また、そう言う手口を好む相手でもある。
「ありがとうございました。ではテストも兼ねまして、どちらの主張に賛成かをお答え下さい。あくまでも匿名ですので、個人情報は収集致しません。では、どうぞ」
会場内の全員が端末へ視線を落とし、手元が動く。
私の端末には集計情報だけが表示され、グラフが徐々に変化していく。
「……受付終了です。結果は、規則改正推進派28%、反対派59%。無回答その他13%。これはあくまでもアンケート結果であり、この後の議論を左右するものではありません。が、一つの意見として両陣営は考慮して下さい」
前哨戦は私達有利。
またこれは、元々の学内のムードからも分かっていた事。
名前が出ない、という部分もポイントだろう。
「それではこの件に関しまして、学校のご意見を伺いたいと思います。生徒指導課課長、お願いします」
出てきたのは若い女性。
ただ表情に余裕が無く、棘のある雰囲気。
緊張しているからでもなさそうで、あまり親しみたい相手ではない。
「我々としては、今回の規則改正に何ら問題点はないと思っています。本来生徒は勉学に励むべきであり、それ以外の雑務に時間を割く必要はないはずです。あるべき姿に戻すためにも、規則改正は必要です」
強い断定的な口調。
自分の考えを信じて疑わないタイプに見える。
「ありがとうございます。一つ質問ですが、先程の元野さんの主張。生徒会を傀儡にして規則を改正しているという意見はどう思われますか」
「我々も生徒の自主性を重んじていますし、自治を侵す気はありません。ただ大人と子供では役割が違って当然です。何よりここは学校なのですから、生徒はまず勉学に励むべきです。また、ある程度我々の意見を生徒会が汲むのは当然でしょう」
「傀儡ではなく、意見調整があると」
「その点誤解があるので、あらかじめ申しておきます。規則を改正する権限は、生徒会ではなく学校が持っています。生徒には生徒の、学校には学校の仕事と役割があるとご理解下さい」
微妙に異なっていく話の内容。
これを聞く限り規則の改正は、学校主導で行われたと言っているようなもの。
執行委員会の席は若干ざわつき、小声で話し合いが行われ始める。
「すると学内が混乱している責任は、学校にあると考えてよろしいですか」
「混乱を収拾する手だては考えています。またそれを取り締まるのも、学校の役割です」
「では生徒会の役割は」
「生徒の学内における活動の補助。具体的には、イベントの広報活動や備品の管理。ただそれ以外の活動については、こちらから委託する事もあるでしょう」
子供の使い扱いの言い方。
わざとなのかどうなのか知らないが、モトちゃんの主張を裏付けるには十分な発言。
だからといって素直に喜べるような事ではなく、敵が一つ増えただけだが。
「では、改めてアンケートを実施します。内容は、今の発言に対して。学内の運営は学校主体で行う事に賛成か反対か。今回は、その比率でお答え下さい」
手元の端末に表示される途中経過。
自分達が主張していながら、それに意見を述べられないのは若干ストレスがたまる。
「受付を終了しました。……生徒7:学校3。この前後の回答が最も多いですね。権限の異常は認めるが、あくまでも生徒主体であると。これに対して、どうお考えですか」
「言い方が悪かったですね。学校主体と言っても、実際に活動を行うのは生徒達。この場合は生徒会になります。基本的には今までと変わりないとお考え下さい」
「学校からの指示で、生徒会が活動をする。という事でしょうか」
「ええ。他校でもそういったスタイルが一般的です。当校だけが突出するのはいかがでしょうか」
いかがも何もなく、こんな主張が受け入れられる訳がない。
ただ、そう思ってるのは私くらいなのか。
ブーイングは起きず、会場内は水を打ったように静まりかえっている。
相手は学校の生徒指導課課長。
引くなと言う方が無理な話か。
「ご意見、ありがとうございました。では、議員の方にも意見を伺いたいと思います。どうでしょうか」
話を振られ、席を立つ団長。
表情は穏やかで、今の議論に感情を動かされた様子はない。
むしろこの程度は、国会での議論に比べれば何でもない事なのかもしれない。
「白熱した議論に、ついこちらまで熱くなりそうでした」
あくまでも、「なりそうでした」
熱くはなってないし、口調もそれ程熱を帯びてはいない。
それに若干引っ掛かりを覚えつつ、話の続きに耳を傾ける。
「双方の主張は理解出来ますし、また職員の方が仰ってる事も妥当かと。ただ妥協するのもまた、大切な事です。相手の意見を受け入れ、なおかつ自分も譲歩する。それが良いのかどうか、また今回の件に馴染むかどうかは別ですが」
相手を受け入れ、譲歩する。
いかにも政治家が言いそうな事。
ただ、言っている事は頷ける。
自分の意見ばかりを主張していても仕方ない。
相手を認め、理解する。
難しいけど、それをやらなければ前には進まない。
この場合の相手は、執行委員会。
彼等に妥協する余地があるのか。
そして、私達を認めて理解してくれるのか。
それについては、疑問が残る。
「政治というのは、良くも悪くも妥協の連続。例えば現在は我が党が国会で多数を占めてますが、かといって他の政党の意見を全く無視する訳ではありません。良い部分を取り入れ、調和を図る。馴れ合い、ご都合主義などとも言われますが、自分の意見ばかりを主張しても始まりません。日本は独裁国家ではありませんので」
やはり政治家的な発言。
立派ではあるが、一般論にも聞こえる。
また私達にも執行委員会側にも与しようとはしない。
「ただ、一言。相手を受け入れるのも大事ですが、自分の意見を主張するのも大事です。そのためには、相手を上回る何かを持つ事も必要でしょう。多少矛盾した話ですが、受け入れてもらうためにはそれなりの根拠や支持が無ければ行けません。政治家の場合はそれが選挙に当たります。皆さんにとってはそれが何なのか。考えてみてはいかがでしょうか」
会合は終わり。
その後も意見はすれ違いに終わり、学校の主張だけが残ったとも言える。
敢えてああいった発言をした意図は何だったのか。
学校にとっても執行委員会にとっても有利になるとは思えず、また両者での意思疎通が上手く行ってないようにも思える。
以前見た委員長とあの学校問題担当理事との雰囲気からも、それは伝わってくる。
「お疲れ様でした」
舞台袖で声を掛けてくる小牧さん。
それはこっちの台詞で、今日の実質的な主役は彼女のようなものだ。
「お疲れ様。でも小牧さんは、執行委員会側じゃないの」
「私はただの雇われだから。公正中立が建前。それに心情的に、今の生徒会やこの学校の体質へは共感を持ちにくいわ」
婉曲な批判。
しかし彼女はともかく、一般生徒から表立った批判は出てこない。
今日も無記名のアンケートだからこそある程度私達に支持は集まったが、実際に活動しているのは旧連合に所属していた一部の人間だけ。
その意味においては、学校側の発言は重い。
彼等が完全に生徒会をバックアップするとなれば、今まで以上に批判はし辛い。
いくら自主だ自由だと言っても、私達を処分する権限を彼等は持ち合わせている。
また自分達を批判する生徒に対して、今の体制がそんなに甘いとは思えない。
妥協以前に、独裁体制が敷かれるようなものだから。
「明日からは実際の議論に入っていくから、頑張って」
「ええ、ありがとう」
「また、明日。さよなら」
軽く手を振り去っていく小牧さん。
そんな彼女に手を振ったところで、二の腕の辺りのジャケットが引っ張られる。
「どうかした?」
「あれ」
舞台袖から観客席を指さすショウ。
今は照明も半分程度が落とされ、見学していた生徒も殆どいない。
「誰いないじゃない」
「よく見ろよ」
「見えないんだって」
例の眼鏡を指で触れ、若干強めに抗議する。
以前の自分なら視力に自信はあったが、今は目の前の物を見るのすら怪しい状態。
まして暗い所は、極端に視力が低下する。
ショウは私の顔を見て、「ああ」と呟いた。
「あそこに、サトミの親がいる」
私達の近くにサトミの姿はなく、ただ親の所へ行った訳でもないようだ。
おそらくは、小牧さんと明日以降の打ち合わせをしているんだろう。
「ずっといた?」
「多分」
「何してるの」
ショウはその問いには答えず、口元を手で押さえ表情を固くする。
サトミと両親の間こそ、妥協と相互の理解が必要。
ただ彼等がお互いの意見を伝え合う事自体が今のところは難しい状態。
歩み寄る以前の問題だ。
「ちょっと、会ってくる」
「大丈夫か?」
「じっとしてても始まらないでしょ」
舞台を飛び降り、薄暗い階段を駆け抜ける。
ショウの指さした出入り口に向かって歩いている夫婦連れの姿。
地下鉄で見たのと同じ雰囲気で、サトミの両親なのは間違いない。
彼等も私の早い足音に気付いてか、ゆっくりを後ろを振り返る。
品のある、ただ張りつめた空気もある佇まい。
男性の方が一歩前に出て、軽く会釈をする。
私もそれに倣い、足を止めて頭を下げる。
「雪野、優さんですよね」
名乗る前に指摘してくる、おそらくはサトミのお父さん。
それに頷いた所で、ショウが隣へ並んできた。
「あなたは、玲阿四葉さん」
「ええ。お二人は」
「遠野聡美の父と母です。今更名乗れる義理でもないのですが」 固い自嘲気味な口調。
お母さんの方は曖昧に微笑むだけで、何も言おうとはしない。
「サトミには?」
「会っていません」
即答するお父さん。
分かってはいたが、ここまではっきり言われると少し引っかかる。
「あの子と兄を見捨てたのは間違いない事ですから。兄の方はまだ多少なりとも私達を理解しようとしていますが、あちらは多分許してもくれないでしょう」
「それは、確かめないと分からないじゃないですか」
「そうかもしれませんね」
頼りなく呟いたお父さんはスーツのポケットから小さな紙を取り出し、それを差し出してきた。
少し固い和紙のような感じ。
ただ丁寧な綴じ方で、筆記体のアルファベットが書き込まれている。
「私達には、持ってる資格も無い物ですから」
「サトミに渡せばいいんですか」
「卑怯な言い方ですが、お任せします。私達は、関わる権利すらありません」
先程から続く否定の言葉。
それに反発を覚えるが、その心情は彼等にしか分からない。
真実なのかどうかではなく、彼等がどう捉えているかなのだから。
「こちらには?」
「議員団の知り合いに、彼女達を紹介するよう頼まれたので。紹介状だけを書いておきました」
「会わないんですか」
その問いには答えず、一礼して去っていく二人。
追い掛けるのはたやすい。
ただ、彼等を翻意させるだけの言葉を私は持っていない。
それだけの覚悟も、自信も。
「いいのか」
「良くはないけどね。呼び止めても、言う事を聞いてはくれないでしょ」
「難しいな、確かに」
小さくため息を付くショウ。
私や彼は親と良好な関係で、問題らしい問題は何もない。
彼の場合はその強い敬意を隠そうともしない。
思春期特有で課題らしい反抗期も迎えていないのか、迎える気配もない。
言ってみれば、私達には理解しがたい問題である。
「ユウ、どうだった」
後ろから声を掛けてくるモトちゃん。
多分そばで様子を窺っていたんだろうが、彼女も明確な解決の方法を持ち合わせてはいないだろう。
もし何かあるのなら、彼女と出会ってからの数年間の間に手を打っている。
それが無いからこそ、サトミと両親は今の関係を保ち続けている。
「駄目だった。会える義理じゃないって」
「私も親との関係はあれこれ言えないけど。私とは比べものにならないものね」
やるせないため息。
その視線は舞台に現れたサトミへと向けられる。
誰もいない観客席。
わずかに明かりの灯った舞台へと。
端末片手に、一人机の間を歩いていくサトミ。
彼女が何を思うのか、どう進んでいくのか。
私達は、結局ここから見守る事しか出来ないのだろうか。
会合の帰り。
学校からすぐ近くのラーメン屋さんへ立ち寄る。
サトミは誘う前に、どこかへ行ってしまったが。
「放っとけよ」
一言で終わらせるケイ。
彼は不器用にラーメンをすすり、犬食いで炒飯を食べ出した。
思わずテーブルをひっくり返したくなるが、物理的に出来そうにないので諦める。
「お前は、何とも思わないのか」
「思って解決するなら、どれだけでも思う。でも、当人同士が動かないと話にならない」
「だからって」
「他人だろ、結局は」
以前サトミやモトちゃんから聞いた言葉。
あの時のような、勢いからではない。
彼なりの気持ちや考えのこもった、重たい言葉。
それには言葉の返しようが無く、店内の喧噪が頭の上を通り過ぎる。
「最近似たような事があったけど、本人達が何か言ってきたら考える」
ケイの言葉に苦笑するモトちゃん。
言うまでも無く、今の話は彼女とサトミの事だ。
「だけど名古屋に来て、多分私のところにも連絡してきて。ああやって姿も身に来てるんだよ」
「アプローチの仕方は興味ない。大体、両方ともそれを望んでるかも怪しい」
「怪しくは無いでしょ」
これには思わず語気を荒げて反発するが、ケイは壁に掛かっている時計兼用のカレンダーを指差した。
「音信不通になって、何年経った?今更何を言う?会って、何を話す?」
「それは、会ってみないと分からないじゃない。今は理屈じゃなくて、気持ちの話をしてるの」
「気持ち、ね。それは、俺達が分かる事でもないだろ」
そう答え、食事に戻るケイ。
確かに彼の言ってる事は間違っていない。
今更会っても仕方ないのかもしれない。
何より当人達が、それを望むような事を口にしない。
だけど離れ離れのままがいいなんて、決して良いはずがない。
それこそ私の独り善がり、勝手な思い込みかもしれない。
当人達にとっては迷惑なおせっかいかも。
だけど、このまま傍観して見過ごすのが本当に正しいのか。
いや。違う。
サトミとモトちゃんの時に、はっきりと思い知らされた。
言葉にはしない思い。
出来ない感情がある。
心に秘め、隠している大切な何かが。
それは私には分からないし、本人達も気付いてないかもしれない。
もしくは、気付かないようにしているのかも。
その心を開かせるのは不可能だとしても、私達に出来る事はあるはずだ。
それを私は成すしかない。
「ヒカルはどうなの」
彼は、サトミの彼女。
ある意味、私達の中では彼女にもっとも近しい関係とも言える。
しかし彼は何も発言をせず、どちらが良いとも悪いとも言わなかった。
元々そういう事を口にするタイプではないが、今は敢えて聞く。
「出来る事があるなら、してあげたい。ただ、それで傷付く事もある」
「傷付く」
「もう一度会って、話をして、お互いを理解して。万が一和解したとしたら、この数年間の気持ちのやりどころが宙に浮く。それそれで、また厳しいと思うよ」
「厳しいかもしれないし、無駄と思うかもしれない。だけど、今のままでいいって事は決して無いでしょ」
「そこまで言い切られると、何も言いようが無いけどね。僕は何も出来そうに無いし、任せるよ」
無責任な放棄ではなく、私を信頼しての言葉。
もしかするとサトミのお父さんも、同じ気持ちだったのだろうか。
私を信じて、託し。
今も願っているのだろうか。




