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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第32話
361/596

エピソード(外伝) 32-2   ~舞地さん視点~






     先輩   2




 眠りの浅いまま朝を迎え、学校へと向かう。

 こういう時に限って映未は迎えに来ず、だからこそ余計に休みにくい。

 正門では相変わらず制服の着用を呼びかけ、大人しそうな生徒がそれに捕まっている。

 言いたくはないが断れば良いだけで、大した勇気も必要ではない。

 請われば助けななくもないが、自分から口を出す気もない。

「なかなか笑えるよな」

 真後ろからの低い声。

 人混みに紛れて正門を通過したところで足を止め、後ろを振り返る。



 そこにいたのは、小坂。

 元渡り鳥で、今は旧クラブハウスを取り仕切る存在。

 屋神に後を託されたという経緯があると聞く。

「お前は関わらないのか」

「興味も関心も無し。俺自身に声を掛けてくるのなら、また考えるさ」

「仲間は」

「基本的に受け流すか従うように言ってある。波風立てずが基本だ。特に今は」

 教棟に向かう通路から外れていく小坂。

 かといって旧クラブハウスへ向かう道でもない。

 やがて人気のない木々の間に入り込み、私を待つように太い木へと背をもたれた。

「端的に言えば、俺達も旧連合と一緒に行動をする。向こうにも事情があるから、表だって連携は取らないが

 それ程不思議ではない、ある程度は予想出来た話。

 屋神直系であると考えれば、そうでない方がおかしいとも言える。

「以前彼等が旧クラブハウスに来た事で、個人的なコネクションも出来たし」

「それが狙いだったという訳か。あそこの使用許可を申し出たのは」

 提案したのは浦田。

 しかもコネクションが確立出来たとみるや、取引を装い旧クラブハウスから撤収。

 一般教棟との距離を考えれば妥当な判断で、また渡り鳥や傭兵と共に行動するのは一般生徒の受けも良くない。

「浦田。表には出ないが、彼の存在は大きいと思う」

「話はその報告だけか」

「いや、H棟について。どうも良くない状況らしいが」

 そんな事は分かってるし、だから私達が動員された。

 ただ、小坂もそれを言いたい訳ではないだろう。


「罠だとでも」

「傭兵を隊長に据えたのと、君達を動員したのがセットらしい。自警局からの情報なので、それ自体操作されてる可能性もあるが」

「罠でも、上手く立ち回ればこちらが制する事も出来る」

「なるほど。とりあえず俺の方でも、それとなく探ってはおく」

 丁寧な物腰。 

 ただその下には、私であろうとおかしな真似をすれば容赦はしないという意志が見て取れる。

 彼はあくまでも屋神の意志。

 つまり、草薙高校の生徒を守る立場。

 私は生徒会長の指示を受けるという立場。

 結果的に行動が同じになる事はあるとしても、基本的な立場は別。

 警戒をするのも当然だろう。

「大変だな、お互いに」

「俺は別に、気にもしてない。何もなく、このまま卒業しても構わない」

「無駄にこの2年を過ごしたとは思わないのか」

「それを言われると、少し辛いが。何もない時間というのも結構貴重だと、最近は思えてきた」




 小坂と別れ、H棟へ向かう。

 昨日は倒れていたガーディアンが、今日は立って正面玄関を警備している。

 ただし本来一般教棟の玄関に、ガーディアンは常駐していないはず。

 別段一般生徒を威圧する様子はないが、それ程親しまれている様子もない。

 とりあえず人の流れに乗って、建物へ入る。

 入ろうとしたところで、当たり前だが止められた。

 さすがに、情報が伝わっていたか。

「失礼ですが、IDを」

「何の権限で」

「え」

 正面切って反論されるとは思わなかったらしく、一瞬うろたえるガーディアン。

 この程度では話にならず、無視をして建物の中へと入る。

 追ってくるかと思いきや、前から別なガーディアンが現れた。

 前言撤回。一応は考えているようだ。


 後ろからもすぐに追っ手が来て、周りを取り囲まれる。

 正門玄関だけあり建物の中には広いスペースが広がっていて、周りの生徒に危害を加える危険はない。

 人数から見ても、突破は簡単。

 少しアピールすべきか、争いは避けるべきか。

「動くな、武器を捨てろ」

 権力を笠に着た、横柄な口調。

 私に怨みを抱く傭兵には見えず、多分普通のガーディアン。

 草薙高校の質が落ちたとは思わないが、個々に関してはばらつきがあるようだ。

 どちらにしろ武器を捨てる理由はなく、逃げる必要も元々薄い。

 草薙高校のガーディアンの練度。ここで見せてもらうとするか。


「う、動くな。ちっ、取り押さえろっ」

 言われたまま、一斉に押し寄せてくるガーディアン。

 それに合わせて自分も前に出て、わずかに空いた隙間をくぐり抜ける。

 向こうが待っている状態での突破より、近付いてきてる分相対速度が上がり捕まえるのは難しい。

 何より、全員を相手にするのは少し疲れる。

「武器が、どうした」

「こ、このっ」 

 私が目の前に来た所で、ようやく腰の警棒に手を触れるガーディアン。

 命令は得意でも、実戦経験は薄いようだ。

 フォルダーから警棒が抜かれる前にミドルキックを放ち、手の甲を叩いて動きを止める。

 体が前傾姿勢になったところで足を振り上げ、首筋をハイキックで刈り取り床に倒す。

 大して早くもなければ威力もない動き。

 それでもガーディアンは全く対応出来ず、倒れたまま呻き声を上げている。

 草薙高校に関して他校では伝説のようにその強さを語られているが、中に入ればこの程度か。

 ただ私が知っているガーディアンはもっと練度が高かったはずで、こちらが例外なのか。

 付け込まれる隙。付け込む隙はありそうだ。

「続きをやるか」

 腰から警棒を抜き、それを伸ばして正眼に構える。


 今の攻防と、倒れたままのガーディアン。

 そこに現れる警棒。

 残りの人間は一斉に浮き足立ち、じりじりと後ずさっていく。

 最小限の動きで、最大限の効果。

 効率的で、悪くない。

「初めに言っておく。私達に関わるな」

 そう言い捨て、警棒をしまい彼等の前から去っていく。 

 周囲にいた生徒から向けられる、恐れ。

 そしてわずかな希望の眼差し。

 今のこの建物の状況からすれば、私達に頼ろうとする者も出てくるだろう。

 それが自分達の力で、とはならない点が多少気になるが。

 私も、草薙高校に過剰な期待をしすぎる一人なのだろうか。




 満面の笑顔。

 明るい笑い声。

 落ち着きのない動き。

 ただそこに人を不快にさせる要素は無く、見ているこちらの気持ちが和んでいくばかり。

 それは生まれ持った資質で、努力や頑張りとはあまり関係がない部分。

 本人にどの程度の自覚があるかは知らないが、能力の一つと言えば一つだろう。

「寝てるの」

 ソファーに横たわっている私の体を押してくる雪野。

 ただし、私にちょっかいを掛けてくるとなれば話は別。

 こちらも休みたいから横になってる訳で、押されるためにしている訳ではない。

「仕事してよ」

「仕事なんて無い」

「隊長でしょ、隊長。何も無いって事は無いじゃない」

 非常にもっともな言葉。

 平時においても、隊長職となれば幾つもの仕事は付きまとう。 

 ただしそれは、映未や名雲の仕事。

 全ては彼等に任せてあり、私はそれを追認するだけ。

 ただし結果がどうあれ結果は私が取り、彼等の責任を問う気はない。

 私は私なりに。

「この警棒、重いよ」

 私に飽きたらしく、机に置いていた警棒をいじり出す雪野。

 しばらく気が逸れそうなので、今の内に寝るとしよう。


「よっと」

 手首だけのアクションで警棒を伸ばし、両手で振り抜く雪野。

 空が裂け、その風が私の頬を通り抜ける。

 一瞬切られたかと思う程の鋭さで、気の弱い子ならこれだけで腰を抜かすかも知れない。

「危ないから、止めろ」

 雪野から警棒を取り上げ、それを縮めてフォルダーへしまう玲阿。

 学内最強と呼ばれるような存在で、また実際その称号は間違ってもいないはず。

 しかし普段は非常に大人しく、周りの言われるままに従っている。

 我が薄いというか押しが弱いというか、この子が本気なればこの学校のパワーバランスもかなり違ってくるんだろうが。

 こういう姿を見る限り、多分似合いそうにない。

「殴ってる訳じゃないんだからさ。これ、スタンガン内蔵してる?」

 私が答えないのをみるや、再び警棒を手に取りグリップをいじり出した。 

 幼稚園くらいの子供が、丁度こんな感じだろうか。

「舞地重工業って書いてあるよ。これ、舞地さんの実家?」

「真理依お嬢様のために、舞地財閥の技術の粋を結集して作られた物なのよ」

 高笑いして、私の頭を撫でる映未。

 そんな事は無いと思うし、警棒は映未から渡された物なので出所はしばらく知らなかった。

 確かに高性能なのは認めるが、雪野のスティックに比べれば所詮は民間の製品。

 比較する事自体無意味なレベルでもある。


「スティックを貸してみろ」

 毛布を剥ぎ取り、ソファーから立ち上がってスティックを受け取る。

 重さは、私の警棒の半分程度。

 しかし手首を返してスティックを伸ばした途端、腰を落としそうになる。

 重さのバランスが相当に不規則で、手にしているだけで体を振られる。

 雪野にしか扱えないとは聞いていたが、どうやら本当らしい。

「振ったらどうなる」

「ゆっくりなら大丈夫だと思うよ。手首より、腕全体で振ってね。それと、危ないと思ったらすぐ捨てて。落としたくらいでは傷も付かないから」

 まずは肩までスティックを担ぎ、その重さに再びバランスを崩しそうになる。

 これだけでも、結構な武器だな。

 言われた通りゆっくり、手首だけではなく腕全体を使って振り抜いていく。

 肩、肘、手首、掴んでいる指にまで痛みが走る。

 我慢しようと思ったが、雪野の言葉を思い出してすぐに捨てる。

 床に響く乾いた音。

 関節を取られながら振り回されている感じで、無理をして振り抜けば腱を痛めるどころでは済まなかったと思う。


「そうそう、それで正解。サトミみたいにむきになると、病院に行く事になるから」

「私がどうかした」

 低い、地の底から届くような声。

 遠野は前髪を揺らめかせ、周りの空気を凍り付かせながら雪野の前に立ちはだかった。

 普通ならこれだけで土下座くらいしそうだが、彼女はチョコの銀紙を机の上で伸ばしている。

「行ったじゃない。結局、どこも怪我してなかったけど」

「あの時は、骨が折れたかと思ったのよ」

 言い訳っぽく呟き、怖い目でスティックを睨む遠野。

 今ならこの眼差しだけで、スティックを凍り付かす事が出来るかもしれない。

「コツさえ掴めば、別にな」

 無造作にスティックを手に取り、手首を返して伸ばす玲阿。

 先程の私同様それを肩まで上げ、かなりの速さで真っ直ぐ振り抜く。

 一瞬眉間にしわを寄せたが、怪我をしている様子はない。

 多分、実戦でも十分に使いこなす事が出来るだろう。

「平気なのか」

「一応、昔から使ってるので」

 はにかみながら答える玲阿。

 才能と身体能力だけと思われがちだが、本質は圧倒的な努力家。

 このスティックにしろ才能だけでどうにかなるとは思えず、彼の言う昔からの努力がこうして実を結んでいるんだろう。

「名雲、やってみろ」

「俺は、もうこれには触らないって決めたんだ。冗談抜きで、骨折するぞ」

「司は」

「僕もちょっとね。多分これは、雪野さんにしか懐いてないよ」

 そういう言い方をする物かは知らないが、言ってる事は間違ってない。

 玲阿はあくまでも努力で補っているだけで、使いこなすというレベルには程遠い。

「そうかな」

 スティックを伸ばし、バトントワリングのように宙へ放り投げては受け止める雪野。

 やがてそれを腕に這わせ、肩の後ろを通して反対側の腕に伝わせた。


「ね」

 なにが、「ね」だ。

 いっそ、バトン部にでも入った方が良くないか。

「まあ、いいや。購買で、お菓子でも買ってくる」

「危ないから、ショウと一緒に」

「平気だっていうの」

「もういい。私も行くから、少し待ってて」




 結局3人で出かける雪野達。

 恋人二人に小姑一人という気がしないでもないが。。

「ああいう風紀の乱れは取り締まれないんですか」

 何とも陰険な目で呟く浦田。

 とりあえず無視をして、ソファーに横たわって毛布にくるまる。

「猫先生に言ってるんですけどね」

「私には、そんな権限もする気もない」

「全く。どいつもこいつも、あの女に甘いな。一度がつっとやらないと、その内痛い目に遭いますよ」

 何を根拠に言ってるかは知らないが、甘いのは間違いない。

 とはいえ、あの子にはそのくらいで丁度良いとも思う。

 何が良いのかも知らないが。

「早いところ隊長を倒して帰りましょう。それとも、他の目的でも」

 笑いながらの質問。 

 ただし核心を突く、あまり笑えない質問。

「何か、意図があるとでも言いたいの」

 映未の鋭い口調に、浦田はあまり性質の良くない笑顔で応える。

「わざわざトラブルになりそうな人間を上に据えて、やっぱり駄目だったから押さえ込めって。初めから破綻してるじゃないですか」

「それは自警局なり保安部の話でしょ」

「そこから命令を受けるのは?」

 さらに核心へと迫る浦田

 映未はストレートには答えず、湯気の消えたマグカップを手に取り間を置いた。

「俺個人としては、構わないんですけどね。管理案がどうだろうと、傭兵が何をしようと。3年。俺の場合は、後1年で卒業なんだから」

「それで」

「身内でそれを気に掛ける人間がいるのかなと思って。向こうはともかく、俺個人としては仲間と思ってる人間が」

 珍しい、自分の心情への言及。

 ただその仲間が雪野達を指すのか、私達を指すのかは不明である。


「他校に比べれば、管理案くらいなんて事はないですし。所詮世の中、長い物に巻かれた方が得なんですよ」

「浦田君も巻かれてるの」

「当然。偉い奴には逆らうな。人生の基本だよ」

「ふーん」

 あまり納得をしていない司。

 確かに彼の行動は、基本的に体制への反抗。

 本人がそれを意図しているかは別にして。

 また目立たない形で行われているため気付いていない生徒の方が多いにしろ、身近にいればこの男がどんな存在かは嫌でも分かる。

 敵にすれば相当に厄介で、とはいえ味方でも扱いづらい。

 ただ当の本人も、だったら俺を巻き込むなと言いたいのかもしれない。



「それはいいとして。旧連合としてはまとまって行動していけるのか」

 名雲の質問に浦田は大げさに肩をすくめて、首を振った。

「元々寄り合い所帯。ここに来て、それを資金も場所も規則もなくなった。まとまる方が、どうかしてます」

「今集まってる連中は?」

「6掛けってところじゃないですか。スパイやヒーロー気取り、友達の付き合いって連中を除けば」

「その6割は」

「何があっても残る6割。退学とかは、あまり気にしてないと思いますよ」

 軽い調子で答える浦田。

 そこには紛れもない確信。そして信頼が含まれる。

「それで、皆さん方は俺達をどうしようと」

 ポケットの中に入る手。

 高火力のライターが入ってるのは知ってるし、それを使うのにためらわないのも分かっている。

 無闇に使う真似はしないが、ここぞという場面では絶対に使うタイプ。

 私達だから、という思考は取らないはずだ。

「監視と処遇を頼まれただけだ」

「処遇。なんでそんな、持って回った事を。……舞地さん達とセットで処分するとか」

「どうしてそう思う」

「だって、主流じゃないから」

 笑いながらの指摘。


 確かに今学内で主流を占める勢力は、生徒会。

 その中でも執行委員会に関わる人間。

 そして実行力の中核は、保安部。 

 直属班である私達はそこに近い立場ではあるが、執行委員会のメンバーや保安部のメンバーを考慮すると確かに主流とは呼びづらい。

 むしろ、浮いていると言った方が的確かもしれない。

 一応命令には従うが、その命令自体を今まで受けた記憶は殆どない。

 その必要がなかったのと、近寄り難い雰囲気の影響。

 畏怖、異端、異質。

 一般の生徒は勿論、傭兵達とも相容れない存在。


「で、俺達をどうすると」

 物思いに耽っていた私を引き戻すように、話を続ける浦田。

 具体的に決めた訳ではないが、私の中に腹案はある。

 誰にとっても楽しくはない、だけどそれ以外に道はない選択肢が。

「いずれ話す。悪いようにはしない」

「これ以上悪い事って何ですか」

 それもそうか。

 所属していた組織は解散。

 自然とガーディアンも解任。

 武装集団として生徒会からマークされ、一般生徒からは関わらないように距離を置かれる。

 勿論学校にも疎まれて、停学や退学をちらつかされる。

 これより悪い事というのは、学校生活の中ではそう多くはないだろう。

「とにかく、そういう事。私は寝る」

「あ、そう。それと、俺が渡した例の金」

 聞こえない振りをして、毛布を頭まですっぽり被る。

 契約の報酬としては破格の金額。

 ただ私達がプールしている資金と比べれば、大した事はない。

 それでも、この子とのコネクションという意味では重要なお金。

 コントロールというより、彼をつなぎとめる。

 いざという時、雇うための。

 金で動く人間ではないからこそ、その意味も十分に分かるはず。

 などと、買いかぶりすぎても仕方ないか。



 体を揺すられた。

 雪野のように遊ぶ感覚とはまるで違う、起こす意志を明確に込めた触れ方。

 肩の辺りから凍るような気がして、寒気を感じながら体を起こす。

「お目覚めですか」

 表面上は愛想の良い、磨き込まれた日本刀にも似た笑顔。

 適当に頷いて、その視線を避けながら髪を撫で付ける。

「決済して欲しいとの書類が、直属班から届いています」

「映未か名雲は」

「隊長のサインが必要なんです」

 にこりと笑い、机の前に座るよう促す遠野。

 これに逆らえる人間がいるとは思えず、言われるままに席へ付く。

「目も通して下さいね。つまり、意図を理解してからサインをして下さい」

 適当にサインだけしようとしたところで手を止める。

 直属班から来たのなら、書類の内容に問題はないはず。

 またあったとしても、それは自警局でのチェックで跳ねられる。

 しかしそういう言い訳が通用しそうな雰囲気ではなく、クリップで閉じられた書類に目を通す。


 別にどうという事はない、簡単な通達。

 プロテクターの着用を呼びかける物であったり、簡単なスケジュール変更。

 サインといっても回覧用の書類で、私が書かなくても良い事だ。

「私が書かなくても良い、なんて仰いませんよね。隊長」 

 威圧感のある、上から押しつぶしてくるような口調。

 針のむしろなんて単なる例えと思っていたが、どうやら実在するようだ。

「……サインした。目も通した」

「ありがとうございます。映未さん達はお出かけしてるので、その間は私が代わりを務めます」

 丁寧に頭を下げる遠野。

 美人で有能で、気が利いて。

 秘書としては申し分ないが、正直それを求めてはいない。

「邪魔だとは思ってませんよね」

「まさか」

 素っ気無く呟き、胸を押さえる。

 雪野はこれで、よく笑っていられるな。


「では、まずこちらから」

 レポートか。

 ただしすでに文章は書き込み済みで、図や表も添付されている。

 一度目を通し、サインしかけたところで手を止める。

「どうして、ここから侵入してる」

 レポートは、今日のパトロールについての問題点。 

 今私達の所にいるのは、雪野達だけ。

 つまり、彼女達の行動が逐一書き込まれている。

「ガラスを割って侵入とあるが」

「では、そうなんでしょう」 

 事務的な答え。

 今にも角を生やしそうな顔。

 とりあえず侵入方法に付いて一言書き加え、サインをする。

「では、次を」

 今度は、もう少し雑な文章。

 感情がほとばしった文章とでも言い直そうか。

「自警局への、意見書です」

「……却下」

 ただでさえ立場が悪いのに、自分で首を絞めてどうする。

 雪野優という署名を睨みつけ、これは遠野に差し戻す。

「DDも届いています。H棟隊長についての、モト達からの報告書です」

「それは、映未達に……。後で見せるとして、私も確認する」

 冷や汗を感じつつ、レポートを確認。

 順調な交渉とは行かないまでも、回数は重ねている様子。

 また自警局も元野達も無理難題を言っている訳ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重している。

 こちらは、任せておいても良いだろう。


「特に問題ない。引き続き、この調子で」

「それと、これを」

 机の上に置かれたのは、書類ではなく領収書。

 備品を買う必要はないはずだが。

「……ハンバーグセットって」

「私もお伺いしたいです、是非に」

 非常に冷たい、氷のような口調。

 額と量から言って、名雲だな。

「これは、名雲個人に付き返していい。経費としては認めない」

「助かります」

 すでに出ている結論。

 遠野が敷いたレールの上を歩いているような気もするが、その判断に間違いはない。

 これでプレッシャーさえなければ、何の問題もないんだけど。

「面談希望の方が。私達も同席してもよろしいでしょうか」

「それは構わないけど。面談って、誰」

「情報を持ってきたとだけ。念のため、武器の所持をお願いします」



 奥の部屋を使うまでもないというより、スペースがない。

 司と玲阿がドアを、名雲が奥のドアを固める。

 質問をするのは映未。

 私も隣に座ってはいるが、別に聞きたい事もない。

「情報というのは」

「私見たんです。大きい銃をいくつも持って、ガーディアンのオフィスに入っていくのを。いくつもいくつも持って。傭兵って言うんですか。その生徒の姿も見ましたよ」

「場所は」

「すぐ上のフロアです。エレベーターを降りたところにある。銃をいくつも持って」 

 やけに熱心に、かつ饒舌に語る女。

 映未は逐一メモを取り、事務的な質問をいくつかした。

「大体分かりました。それで、あなたのお名前は」

「いえ、そんな。記録に残るんですか?」

「公表はしませんので、ご安心を」

「そう、ですか」

 少し不満そうな表情。

 それでも女は名前を告げ、なおも何か言いたげな素振りを残しオフィスを出て行った。


「という事だけど。どう思う」

「狂言でしょう」

 一言で切って捨てる浦田。

 それに遠野と名雲も頷き、映未も納得した顔をする。

「嘘って事?なんのために」

 いかにも不思議そうに尋ねる雪野。

 ドアを固めていた玲阿と司も似たような顔をする。

「世の中、有名になりたい人間はいくらでもいる。今手っ取り早く有名になろうとすれば、生徒会に反抗するのが一番。もしくは生徒会に対して不利な情報を持っていると喧伝する事」

「何の得になるの」

「気分は良い」

「意味が分かんない」

 映未達とは対照的に、納得しがたいという態度の雪野。

 根が善人というか、世のなかが善意で成り立っていると考える人間なら当然の。 

 実際現段階で私達に協力して良い事など何一つなく、狂言でなければ罠だろう。


「狂言女は放っておくとして、こちらから情報は流さないんですか」

 世間話でもするように尋ねる浦田。

 名雲は大げさに肩をすくめ、壁に掛かっているカレンダーを指差した。

「そういう悠長な事をやってる間に、時間が過ぎる。それに俺達の仕事は治安の維持であって、隊長の解任は元野さん達の役目だ」

「良いですけどね、どうでも」 

 あまり関心の無い、もしくはその素振り。

 私達が渡り鳥ならそういう事もしていたが、今はあくまでもガーディアン。

 出来る事。

 許される事の限界がある。

「少し出かける」

「一人だと危ないですよ。ユウ、ショウ。舞地さんの護衛を」

「過保護だな」

「襲われて後悔するよりはましですから」


 私を襲う連中はいるにしろ、返り討ちにする自信くらいはある。

 つまりは、二人を外に連れ出せという意味か。

 それがこの二人に対しての意味なのか、私に対しての意味なのかは良く分からないが。

 などと、深読みする程の理由も無いかもしれない。

「どこいくの」

「G棟。沙紀に会ってくる」

「暇だね。じゃあ、私はモトちゃんに会おうかな」

 サングラスを押し上げ、コロコロと笑う雪野。

 薬品を浴びて視力の低下を招き、一時は学校にすら来なかった。

 そのまま休学するとの噂もあったが、今はこの通り。

 完全に回復した訳ではないにしろ、それでも以前のように振る舞っている。 

 見えていなくても見えているらしく、達人の域に近い。

 正直今やり合えば、かなりの苦戦をするだろう。




 G棟、A-1ブロック。

 この教棟を束ねるブロックであり、沙紀の管轄下にあるオフィス。

 大勢のガーディアン、職務、責任。

 それを担うだけの自信と能力があっても、生徒からの支持がなければ成り立たない。 

 例えば、今のG棟のように。

「どうかしましたか」

「顔を見に来た」

 一応そう告げ、口元に指を添える。

 沙紀はすぐに端末を操作し、隊長執務室のセキュリティを作動させた。

「ストレートに言う。最悪、私達と雪野達が退学になる可能性がある」

「可能性」

「その際、お前に後を任せる。学校と戦えとは言わない。ただ、最低限の秩序は守って欲しい」

「具体的に話してもらえますか」

 真剣味を帯びた低い声。

 事情か。

 話しすぎれば彼女も巻き込むんだけど、話さない事には始まらないか。

「分かってる通り、雪野達の立場はかなり危うい。学校も彼女達を相当敵視している。私達は、執行委員会。特に保安部の一部とは相容れない」

「H棟へ派遣されたのは、それを含んでの事ですか」

「おそらく。雪野達だけが消えるか、私達だけが消えるか。両方消えるか。何もないという事はない」

 必要以上に不安にさせるつもりはないが、それが今私達の置かれている立場。


 実際雪野達は、木之本が停学になったばかり。

 それが全員に波及し、退学につながるのは必定。

 私達と傭兵も、決して相容れない存在。

 望む望まないに関わらず、同じ場所にはいられない。

「私に、優ちゃん達と同じ事は出来ないと思うんですが」

 やや自嘲気味に呟く沙紀。

 ただそれは卑下している訳ではなく、彼女の言いたい意味は私にも分かる。


 雪野達は、典型的なヒーローでありヒロイン。

 資質に恵まれ、努力を惜しまず、仲間に囲まれた。

 誰もが羨み、憧れ、見上げるような存在。

 逆に沙紀は、典型的な叩き上げ。

 努力に努力を重ね、一つ一つ成果を積み上げ、人と人との関係をつなぎ合わせていった。

 それに親しみを抱く者は大勢いる。

 後輩達は敬意も抱くだろう。

 無論沙紀も、ヒロイン的な存在には見える。

 ただ、本質的には雪野達とはやはり異なる。

 少なくとも、沙紀はそう感じている。

「後を継ぐ必要はない。それに、万が一だ」

「可能性として、低くはないんですよね」

「覚悟はしておけ」

 非情にそう言い放ち、キャップを深く被る。

 自分の身勝手で責任を負わせ、苦悩を抱かせる。

 私にその資格があるとは思えない。

 だけど彼女はそれに従う。

 私のために。

 それとも、生徒のために。

 彼女が彼女である限り、私の思いを紡いでくれる。


「済まない」

「いえ。私も、のけ者はちょっと」

 冗談ぽくそう言って、ポニーテールを撫で付ける沙紀。

 実際はのけ者にされた方が良いんだけれど、冗談を言いたくなるのも分からなくはない。

「優ちゃん達は、この事を」

「知らない。ただ、浦田や遠野は感づいてる」

「鋭いですからね。元野さんには?」

「話してある。覚悟は決めているらしい」

 決意、思い、情熱。

 それが崇高で尊いのは認める。

 ただ、それだけで世の中が回っていかない事も嫌という程経験した。

 力、金、権力。

 それらの前では、人の心などたやすく揺らぐ。


「真理依さんは、どうしてそこまでするんですか。こう言ってはなんですけど、立場が私達とは違うじゃないですか

 多少言いにそうに、そう聞いてくる沙紀。

 確か私はこの学校の出身ではなく、ここに憧れて転校してきた訳でもない。

 それでも、こうして策をめぐらせる理由。

「仲間がいたから」

「仲間」

「晃、林。それに伊達が」

 彼等も、この学校へ来た経緯は私と似たようなもの。

 ただ雇われ、それぞれの立場で戦った。

 違うのは、彼等の学校に対する思い入れ。

 この学校を思う気持は、私の何倍も強いはずだ。

 もうこの学校にはいない。

 この学校には来られない彼等へ報いるためにも、私に出来る事をするしか無い。

 それが身の破滅を招こうと、人から疎まれる事になろうとも。

「仲間、ですか」

「悪いか」

「いえ。ただ、契約とはどうなんです」

 声のトーンを落とし、そう尋ねてくる沙紀。

 私達の契約は、草薙高校生徒会長の指示に従う事。

 仲間への感傷で行動する事ではない。

「私に、何か出来る事はありませんか」

 真摯な、だけど感情を押し殺した表情。

 私も一緒にとは、決して言おうとはしない。

 私も、付いて来いとは言えない。

 雪野達へとは違う、彼女への対応。

 それが優しさなのか、冷たさなのか。

 今の自分には分からない。


「いや。それだけでいい。学校にさえ残ってくれれば」

「結局、そうですか。中等部の頃も、そうだったんですよね。風間さん達が、責任を取る形で他校への進学になって。後は任すって」

「済まない」

「いえ」

 少し寂しげに、だけど誇らしげに微笑む沙紀。

 一緒には行けないけど。そのそばには置いていけないけど。

 彼女だから託せる思いがある。

 それに応えてくれると思う、私も身勝手。

 責任を背負わせ、疎外感を感じさせるような。

 だけど彼女は、それを含めて受け止める。

「優ちゃん達の退学は?」

「そうならないよう、努力はする。ただ学校が本気である以上、簡単にはいかない」

「大変ですね、これから」

「それが仕事だ」




 購買の前。

 落ち着き無く、人ごみの中を行き来する雪野。

 買っているのは駄菓子ばかり。

 それを玲阿に渡しては、次のお菓子を買いに行く。

 でもって玲阿は、それを黙々と食べている。

 野鳥の親子が、丁度こんな感じだな。

「もういい」

「何が」

 同時に振り向く二人。 

 今の行為に疑問を抱いている様子は無く、彼女達にとってはごくありふれた日常の一つ。

 私からすると、恥ずかしくて見ていられない。

「お菓子はもういい。帰るぞ」

「美味しいのに」

 揚げたお米の粒を一粒食べる雪野。

 埒が明かないので袋を取り上げ、それを目で追う玲阿を睨む。

「間食禁止にするぞ」

「お菓子ですよ」

「それを間食と言うんだ」

 その内、うどんはご飯に入らないとか言い出しそうだな。

 大体、私の護衛はどうなった。


 そう思った途端、体が横に流れ今まで私がいた場所に人が押し寄せる。

 勿論私自身も反応は出来たが、それよりも明らかに素早い雪野達の動き。

 私を後ろにかばい、周囲を警戒しつつ人ごみから外れていく。

 今の私達を狙ったものではなく、限定商品を買い求める人の群れ。

 敵意がない分気付きにくいが、雪野は事も無げに反応をした。

 少なくとも、この件に関しては完全に後れを取った。

 勘の鋭さは、間違いなく私の数段上を言っている。

「帰るんじゃないの」

 いつの間にかさっきの袋を手にして、一粒づつ食べている雪野。

 今なら、退学させてもあまり後悔はしないだろう。




 やがて終業時間を向かえ、全員で学校を後にする。

 揃って帰る必要はないし、一緒に食事をする理由も無い。

 ただ、それを断る意味も無いだろう。

 大皿に盛られた餃子を端から片付けていく玲阿と名雲。

 真ん中で大喧嘩になりそうだが、今はお互い楽しそうである。

 大勢が集まり、笑い、語らう。 

 それがどれだけ素敵な事かは、どれだけの人が知っているだろうか。

「食べないの」

 ちまちまと青菜炒めを食べていた司が、何気なく尋ねてくる。

 幸せで胸が一杯だとは言わず、目の前にあったチャーハンを少し口に運ぶ。

「幸せだよね」

 思わずむせ返しそうになり、お茶でチャーハンを慌てて流し込む。

 私の心を読んだ訳ではなく、彼の気持が言葉になって出ただけの事。

 ただ、このタイミングでは少しきつかった。

「どうかした?」

「いや、別に。ウェイトは良いのか」

「全然。軽すぎるくらいって言われた」

 司はすでにRASとプロ契約を結ぶ方向で話を進めている。

 ただこの体格なら、階級にもよるが減量をする必要はなさそうだ。

「当分は、試合どころじゃないって気もするし」

 真剣な、辺りの空気を焦がすような気配。

 戦いという状況において、もっとも頼りになるべき存在。

 そして、それを追い求める存在。

 相手の立場、自分の気持。

 それを理解しつつも、彼はその拳を振るう。

 何のためにかは、今はあまり考えたくない。

 彼を、この状況から遠ざけるのはたやすい。

 ただ本人はそれを望まないだろう。

 それが雪野達と対峙する事になろうとも、彼は最後まで戦い抜く。

「重いわね」


 無造作に撫でられる頭。

 映未はグラスにお茶を注ぎ、それを私のグラスに重ねて飲み干した。

「悩み多き年頃?」

「お前は、後悔してないか。私と一緒に来て」

「随分唐突ね。後悔も何も、好きで付いていったんだから。ねえ、柳君」

「うん。他に道はあったかもしれないけど、別に間違えたと思った事は無いよ」

 素直で純粋な、明るい笑顔。

 初めて会った時そのままの。 

 いや。あの時は、いきなり蹴りが飛んできたか。

「どうかした?」

「司と会った時、いきなり蹴られた」

「ああ。そんな事もあったわね」

「気のせいじゃない?」

 軽くとぼけ、付け合せのパセリをかじる司。

 あの時感じた殺意を、そのまま返してやりたいな。

「昔話なんてして。自分こそ、後悔してるんじゃないの。真理依お嬢様」

「どうかな」

 家を離れた理由は、それぞれある。


 司は状況こそ違うが、私と似て家にいる事への苦痛。

 その場に留まる事への不安や恐れ。 

 父と母に見捨てられたという錯覚や、思い込みから。

 名雲はもっと馬鹿げた理由で、武者修行のようなもの。

 父を亡くし、その分強くなりたいという。

 映未は、家庭の不和から。

 家に留まる事も出来はしたが、何かを探していたのも事実だろう。

 その何かを、私が持っているとは思えないが。



 私の場合は、もう少し複雑。

 父が体調を崩し、家督相続の話が一気に持ち上がった。

 兄を担ごうとする勢力と、私を担ごうとする勢力。

 年端も行かない妹を担ぐのは、さすがに露骨過ぎると思ったらしい。

 私の都合も関係なく争う親戚達。

 それに、なす術も無い自分。

 選んだのは、逃げ出す事。

 家族も、責任からも、何もかも捨てて。


 父はその後体調を回復させ、家督相続の件は当初通り兄が継ぐと決まった。

 私が家を離れる理由も無くなった。

 それでもこうして、今でも遠い場所にいる。

 別な道、選択肢があったのかもしれない。 

 ただ、私にはそれを選ぶ勇気が無かっただけで。


「何してる」

「豆腐を掴んでます」

 麻婆豆腐を、箸で掴もうとしている浦田。

 箸を動かすたびに豆腐がちぎれ、細切れになっていく。

「実家には帰らないのか」

「俺の両親に挨拶でも?」

 大笑いしたところで、遠野が軽く頭を叩く。

 この二人も、家から離れている身。

 転入生だからというのは、彼等が行動を起こした結果。

 二人とも、親との確執で家を出た。

 それぞれ状況や心情は違うだろうが、その点では共通している。

 雪野達のように、寮の方が学校に近いからという理由ではない。

「後悔してないのか」

「生まれてきた事以外は、別に」

 もう一度笑い、麻婆豆腐を切り刻む浦田。

 それはもういいんだ。


「ホームシックですか」

「分からない」

「乙女心は複雑だ。あーあ、豆腐なんてこの世から消えてなくなれ」

「角にぶつけて死ねば良いんじゃなくて」

 辛辣に言い放ち、自分は器用に箸で摘んでいく遠野。

 天才故の孤独、疎外、孤立。

 それでもここにいる限り、彼女が疎外されているようには見えない。

 またそうする者もいないだろう。

 同情や慰めではなく、彼女を一人の人間として受け入れている。

 批判をし、間違いを指摘し、時には対立をして。

 だからこそ、その絆はより強くなる。


「第一俺達の事を構うより、自分達はどうなんです。大学は、確実に進学出来るんですか」

「内定はもらってる」 

 浦田の指摘に、さすがにむっとして答える。

 高校の卒業資格は勿論、大学の卒業資格も持っている。

 それでも進学を決めたのは、体が学校生活というものに馴染みつつあるから。

 それにまだ、明確に進みたい道も無い。

 実家に戻って父や兄の仕事を手伝うか、一生食べていけるだけのお金を無心して気楽に過ごすか。

 少なくとも、将来に対する不安は無い。

 生きていく意味、自分自身の価値は分からないが。

「名雲さんは、軍へ行くんですよね」

「馬鹿なのよ、馬鹿」

 少し寂しげに呟く映未。

 司も表情を翳らせ、グラスに浮かぶ氷を眺める。

 士官学校はすぐに会いに行けるような所ではなく、また実際に会えるのも年に数度。

 この何年間か、結局私達はいつもそばにいた。

 声を掛ければすぐに集まれるような距離。

 毎日でも顔を合わせられる環境に。 

 卒業しても、私達3にんはそれ程生活に変化は無い。

 映未とは学部が違っても、学校が終われば会う事は出来る。 

 司も、勿論。

 でも、名雲には会えない。

 同じ道を歩んでいたつもりでも、それは少しずつそれていく。


「玲阿君も軍に進むんでしょ。雪野さんは、どう思ってるのかな」

「信じ合ってるんじゃないの、お互い」

 そう言って床に転がり、げらげら笑う浦田。

 別に何一つおかしくないし、壁に頭をぶつけるような事でもない。

「馬鹿。ただ、言い方はともかくお互い分かってる事ですからね。離れ離れになるのは」

「平気なの、それで」

「平気なのか、我慢出来ないのか。それに泣いてすがるタイプでもないし、涙に負けて夢を諦めるタイプでもないから」

「青春だね」 

 なおも笑い、体をよじり出す浦田。

 どうやら、傷口を痛めたらしい。

「そういう事もあるだろ」

 美談めいた話を適当に結論づけ、醒めたスープを口に付ける。

 美味しいが風味はあまり感じず、決して浮き立つような気分にはならない。


 進路、卒業。

 それは別れをも意味する言葉。

 残りの数ヶ月で、私は彼女達に何を残してやれるのか。

 そんな資格はあるのか、受け止めてもらえるのかという疑問。

 仲間達の笑い声は、今はどこか遠くに聞こえていた。 













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