エピソード(外伝) 32-1 ~舞地さん視点~
先輩 1
気だるい朝。
差し込む日差しを腕で避け、逃げるように寝返りを打つ。
自分に課せられた責任、義務、使命。
それからも逃れるようにして。
「いつまで寝てるのよ。学校行くわよ」
人の感慨を容赦なく追い払い、体を押してくる映未。
合い鍵は持ってるので勝手に入ってくる事もあれば、私が彼女の家に行く事もある。
お互いの間にプライバシーなど無いに等しく、最近は深く考えた事もない。
「休む」
「隊長としての仕事があるでしょ。あなたがいないと始まらないのよ」
「ここで寝るか、学校で寝るかの違いだ」
「だとしても。他の人に示しが付かないでしょ。ほら、顔洗ってきなさい」
バターの塗られた食パンをかじり、差し出されたホットミルクを口にする。
映未はその間に私の髪をくしけずり、後ろ髪を束ね始めた。
「これで良しと。食器洗うから、荷物持ってきて。歯も磨いてきなさい」
「親か」
「じゃあ、世話焼かせないで」
あっさりと勝負が決まり、洗面台の前で支度を済ます。
眠そうな、機嫌の悪い顔。
とはいえ朝ではなくてもこんな顔で、実際笑顔も似合わない。
「急いで。遅刻する」
「して、何か困るのか」
「示しが付かないと言ったでしょ。あなたは3年生で、隊長なのよ」
やけに小うるさいな。
こういうのは名雲が専門だが、この子はこの子で口やましい。
「どうかした」
「別に」
適当に答え、警棒のフォルダーを腰に提げて玄関へ向かう。
朝起きて、ゆっくりと食事を取って学校に行く。
いつからこんな生活になったんだろうかと思いながら。
正門の周りにたむろする、制服の着用を呼びかける集団。
それを横目に眺めつつ、映未と足早に正門をくぐり抜ける。
関わっても仕方が無く、朝から余計な揉め事に首を突っ込みたくもない。
そう思った途端、後ろで騒ぎが巻き起こっていた。
声はすれど、姿は見えず。
十中八九、雪野だろう。
あれはどうしても構いたくなるタイプというか、良しに付け悪しきにつけ人を引き付ける。
「ふふふ」
薄く笑い、正門を戻っていく映未。
彼女はその最たる人間で、何かにつけて雪野を構う。
心情的には妹を相手にしてるような気分で、雪野もそれを楽しんでいる様子。
私は眠いしそういう心境でもなく、二人を置いて先を急ぐ。
オフィスにはすでに直属班の人間が何人かいて、私を見ると挨拶をしてきた。
全員普通にくつろいでいるが、こうして授業に出ていなくても試験をパスする程の優秀な人間ばかり。
無論全員腕は立ち、指揮能力にも優れている。
傭兵が束になって襲ってきても、歯牙にも掛けないだろう。
「名雲達は」
「パンを買いに行くとか行ってましたよ。あの人、一日何食ですか」
「そんな事、私が知りたい。それと、毛布」
「朝から頼みますよ」
それでも笑いながら毛布を持ってきてくれる女の子。
さすがに隊長室へは引きこもらず、みんながたむろしてるソファーの端に座って毛布にくるまる。
どれ程の違いがあるかという話ではあるが。
「これは、池上さんに話した方がいいのかな。ちょっと、まずい内容が来てるんですが」
懸命な判断というべきか、おそらく私宛に来た通達をすぐには見せない隊員。
実際その手の事は映未や名雲に任せてあり、私は出された結論を許可するだけ。
また分析力という面においては、映未には到底及ばない。
しかしここまで露骨に指摘するのには、多少裏があると言うべきか。
「構わない。見せて」
「これ、なんですけどね」
差し出されたのは、数枚の書類。
学内の治安状況を憂うという内容の、自警局からの物。
それ自体は珍しくないが、ここは治安対策ではなく緊急時の鎮圧目的の組織。
見当違いの通達である。
「旧連合への監視及び、処遇」
という文章がなければ。
「全員読んだか」
すぐに頷く隊員達。
秘密にする内容ではないし、ここに届く書類やDDは全員が内容を把握し共有すると初めに決めている。
全員独自の判断で行動出来る人間で、万が一私がいなくなっても組織は十分に機能する。
この運営の仕方は間違っているかも知れないが、仲間に隠し事をしていい事は何もない。
「後で来る者にも回覧させるように。それと、名雲達を呼んで。私は、隊長室にいる」
「了解」
秘密にする気は無いが、身内だけで済ませたい事もある。
嫌な事、辛い事は特に。
「……パンを買いに行ったと聞いたが」
「あ、なにが」
隊長の執務用の机に置かれるおにぎりのパック。
今、ここで食べださないだけまだましか。
「もういい。それで今の話、どう思う」
大げさに肩をすくめる映未。
とりあえず意見保留か。
一方名雲は拳を固め、苦い顔で机に置かれた書類を睨む。
旧連合は雪野達もそうだが、元野も所属している。
付き合っている相手としては、何一つ面白くない話だろう。
「僕は何でも、言われた通りにやるよ。玲阿君が敵なら、ちょっと楽しみだね」
一人笑顔を浮かべ、体を小さく振る柳。
ただし真剣味は薄く、あまり本気ではないようだ。
「映未」
「そうね。監視に付いては問題ないけれど、処遇が何を指すのか。私達で処分しろって意味にも取れる」
「それ以外、どんな取りようがある。ふざけやがって」
「落ち着いてよ。これだけではやはり判断出来ない。後で、局長なり保安部に話を聞くしかないわ」
比較的無難な選択をする映味。
確かに結論を出すのは、やや性急か。
「俺は反対だぞ」
「反対はいいけど、契約は忘れたの。この学校に来た理由、目的を。生徒会長の命に従うっていう」
「忘れてないさ。それに抵触しなければ言いだけだろ」
「生徒会長が、この指示を出したとしたら」
当然の質問に押し黙る名雲。
契約と愛情。天秤に掛ける事ではないが、今はその選択が迫られている。
「それは契約を」
「ストップ。今のは、聞かなかった事にする」
「おい」
「あなたは最悪、離脱しなさい。処分だけなら、私達でも出来るから」
優しさ。それとも非情さか。
名雲がそれに従うかは別として、一応道は作られた。
逃げ道。ただし、逃げても誰も後ろ指は差さない明るい道を。
「分かった。今回は意思統一はしない。契約をしたのは私だし、離脱しても構わない」
「ふーん。なんか、中途半端だな」
文句を言った司の頭をはたき、一転私を怖い目で見てくる映味。
何か、変な事でも言ったかな。
「私?私達、じゃなくて?」
「ああ、間違えた。私達、だ」
「結構。腑抜けた男どもは放っておいて、昔みたいに二人仲良くやろうじゃないの」
人の肩を抱いて鼻歌を歌いだす映味。
古い、数年前にはやった歌。
彼女と一緒に旅してた頃に好きだった、あの歌を。
「誰が腑抜けてるんだ」
「鏡でも見に行ったら。ね、真理依」
「この。大体処分って、いまのこの学校でもそう簡単に出来るのか。不正を捏造しろって意味じゃないだろうな」
「そこまではどうなのかしら。浦田君に、ってその対象か」
素で間違えたな、今。
確かにあいつはその手の事は専門で、実際昔は雪野達を監視していたとも聞いている。
その浦田ですら今は仲間として扱っている彼等の懐の深さ、人間性を考えると気が滅入ってくる。
「真理依、どうかした」
「なんでもない。とりあえず、矢田に会いに行く」
直属班の隊長という権限は絶大らしく、ほぼフリーパスで自警局長室までやってくる。
警備的には相当問題だが、ここに侵入してくるのは雪野達くらいか。
また彼等がその気になれば、ここの警備くらいでは止めようも無い。
「それで、お話とは」
仕事が忙しいのか、顔を合わせたくないのか。
執務用の机から離れない矢田。
こっちは応接用のソファーに収まり、あえてそちらへは近付かない。
「さっき、書類が届いたのよ。内容は、旧連合の監視と処遇。監視はともかく、処遇って何かしら」
「彼等の扱い、という意味です」
「処分と考えて言い訳?停学、退学も視野に入れているの?」
「我々生徒に、その権限はありません」
そんな事は知ってる。
しかし今の生徒会の背後には、学校。特に理事会の影が濃い。
彼等は雪野達の先輩と対立していた人間で、今は彼女達をその対象にしているはず。
だとしたら、私達の報告次第で彼女達の処遇は決まるだろう。
「あまり詳しくないんだけど、この学校って生徒の自治で運営されてるのよね」
「それが、大前提です」
「だとしたら、生徒が生徒を処分するとか監視するってのも自治の一つって事?」
かなりの皮肉に、矢田は嫌な顔をして一瞬こちらへ視線を向けた。
自治権という意味においてはその解釈も成り立つが、矢田が処分する権限は無いと言った後。
彼がそういう顔になるのも仕方ない。
「自治と自由は違いますし、旧連合の活動が学内の不安定要素になってるのは間違いありません」
「解体の経緯に問題があったとか、執行委員会委員長が彼等の活動を認めてるって事は?」
「それを踏まえて、監視するという事です。武装し訓練を受けた集団が、生徒会の統制化に無く自主的に行動をする。これは生徒会への反抗とみなされてもおかしくありません」
「その事こそ、生徒の自治って気もするけれど。いいわ、話を戻す。旧連合に対して、処分をする事は無いのね」
「判断は、学校がします」
非常に官僚的な、逃げの答弁。
かなり賢い生き残り方とも言う。
しかも彼はあちこちからこうした突き上げを食らって、それでもまだ自警局長の座に留まり続けている。
どんな思いや覚悟を秘めているかもしれないが、その点だけは褒められる。
その点だけは。
「分かった。私からは、以上」
あまり納得はしていないようだが、笑顔で話を打ち切る映味。
司は全く関心が無いらしく、ゴムボールを手の中で何度も握り返している。
握力増強目的なのか、単に遊んでるだけなのか。
ただしこれを投げれば、当たった相手は明日の朝まで寝てるだろう。
「俺も一言いいか」
虎が吼えた様な、迫力のある声。
矢田はさらに嫌な顔をして、こちらを見てくる。
「監視だなんだって、あいつらは少なくともこの学校を思って行動してる。お前とは立場が違ってもな。この場に留まり続けるの偉いだろうが、何の支援も無くて自分達だけでやるのも結構大変だと思うぞ」
「生徒会ガーディアンズへの参加は許可しています。今更、個人で集まる必要は無いのではないでしょうか」
「集まらなないと仕方ない状況に、この学校は追い込まれてるんじゃないのか」
「見解の相違でしょう」
あっさりと受け流す矢田。
名雲が拳を壁にぶつけると、そこには大きな穴がうがたれた。
彼の力以前に、壁がもろいようだ。
「馬鹿。請求書は、名雲君宛で。それと私達は組織上あなたに従ってはいるけど、心情的に従ってる訳ではない。それは覚えておいて」
かなりのきつい言葉に、矢田は唇を噛み締め映味を睨む。
彼も一応怒る事はあるが、ただ感情がそれ以上高揚する事は無い。
これが良いのか悪いのかは、現状では判断が難しい。
「ふざけやがって」
もう一度拳を振り、壁に穴を空ける名雲。
意味が分からないが、支払いは自分でするので放っておく。
「穴を開けないで下さい」
「今は、そういう心境なんだ。そっちの壁だって、ぼろぼろだろ」
名雲が指摘したのは、局長の執務用の机の左隣。
壁は補修の後があり、どうやら何度か穴を空けた形跡がある。
「僕ではなく、前任者です」
「お前の前は峰山、屋神か」
「どちらも途中で逃げ出しました」
一瞬見える、強烈な対抗意識。
現在の自警局内において、その二人の存在は圧倒的。
峰山は北地区の人間に絶大な支持を誇り、屋神は現在の2年と3年。
彼と共に過ごした経験のある生徒に支持を得ている。
もしかすれば局長としての能力としては、その二人に矢田も引けは取らないかもしれない。
しかし人間的にはどうかという話。
また屋神は学校と真正面から戦ったという、いわばヒーロー。
峰山も、公然の秘密ではあるが退学したのは学内の不穏分子を道連れにするため。
どちらも自警局長を途中で放り投げはしたものの、それを非難する者はいない。
おそらく、矢田を除いては。
「逃げた逃げないもいいが、残って何をやるつもりだ。現状の状況はお前の意図した通りか。改革に時間はかかるが、つまりその間に時間は過ぎていく。苦しんでる生徒は、その改革を待つ前に卒業するんだぞ」
「それは」
「藤岡だったか。お前とあいつの経緯は知らんが、ケースとしては同じだ。改革はいいさ。だけど、誰かを犠牲にして成り立つ改革なんて意味があるのか。別に答える必要は無い。あくまでもこれは、お前の問題だからな。俺は気楽に、それを見物する」
適当なところで話を打ち切り、司の持っていたゴムボールを握る名雲。
どうもストレスがたまっているというか、良くない兆候だな。
「僕は、何も状況を見過ごしている訳ではありません。ただ、性急な行動が良いとは思ってないだけです。それに執行委員会や保安部も、全てが間違ってる訳ではありません」
「所持品検査をやってるって聞いたぞ。他校ではそれ程珍しくないが、この学校に馴染むとは思えん」
「ドラッグの蔓延を防ぐためです」
「いつの話をしてるんだ。それはもう、決着が付いてるだろ。それとも、所持品検査や風紀を糾すための名目か。ドラッグの騒動自体、案外自作自演かもな」
皮肉っぽく笑い、矢田の視線を受け流す名雲。
ただ口で言っているだけまだましで、昔なら今頃相手は物も言わず床に倒れている。
「それと、これを決めたのは誰だ。自警局の判断か、保安局か。それとも執行委員会か」
「執行委員会と協議し、自警局として決定しています」
「協議、ね。意味分かってる?」
皮肉っぽく笑う映味。
どうにも矢田にはきついというか、容赦が無い。
雪野へのからかいとは根本的に異なる、意見の相違から来る反発。
それは矢田も感じ取っているだろうが、この場から逃げ出さないのだけは偉いと思う。
本当、その部分だけは。
「つまりこの件は、二重に制約が生じると考えて下さい。局長直属班としての義務。そして皆さんが交わしている契約。生徒会長の指示に従うという義務を」
「契約、ね。それは間違ってないけど、具体的にどんな契約か知ってるの?」
「え」
「あの契約内容を知ってるのは、私達4人とごく一部の渡り鳥。そして契約主の間さんくらい。推測をしてる人間はいるだろうけど、多分あなたの考え方は間違ってる」
矢田の言葉を明確に否定し、話は終わったとばかりに髪をいじりだす池上。
名雲も似たようなもので、司は壁に拳をゆっくり当てて強度を確かめている。
「耐震用に、中が空洞になってるって聞いたけどね。この壁一面に穴を空けたらどうなるのかな」
「天井が落ちてくるので、止めて下さい」
「落ちてくるのか。ふーん」
きらきらと目を輝かせ、部屋中を見渡す司。
まさかとは思うが、少し注意はしておこう。
私もまだ、生き埋めにはなりたくない。
「話し合いはもう良いだろう。それで、私達は何をすれば良い」
「現在H棟の隊長を傭兵に任せてあり、その評判が芳しくありません。皆さんで、その行動を監視監督して下さい」
「旧連合の監視はどうなった」
「雪野さん達を帯同して、行動のチェックを」
視線を交わしあい、お互いに思考を働かせる映味と名雲。
単に連れて行くだけではなく、そこに何らかの意図が隠されている訳か。
「分かった。ただし、雪野達を騙すような真似はしない。仮にそういう行動が見られた場合は、私達の原則に基づいて行動する」
「原則?」
「助け合う、信頼する、仲間は裏切らない。一応は、雪野達も仲間だ。彼女達に何かあれば、その責任は身を持って償ってもらう」
青い顔をしたままの矢田を置き去りにして、局長の執務室を後にする。
私達を抜擢し、雪野達を連れて行く意図はまだはっきりとはしない。
彼女達を罠にはめる気か、私達もろとも処分するか。
情報を広く取る必要がある。
「映味、情報局のデータベースにアクセス出来るか」
「物理的にはね。ただ、規則的には限界があるわよ」
「私の権限で閲覧出来る部分だけで良い。現在のH棟の状況と、隊長を務めている傭兵のプロフィール。それと、執行委員会の命令系統。元野達の状況」
「一度に言わないでよね。真理依のパスなら、このくらいの情報は問題ないわ。戻ったらアクセスする」
戻るといってやってきたのは、直属班のオフィスではなく元野達の使っている資料室。
しかも元野が見ているその隣で、データを閲覧し始めた。
「H棟ですか」
データを一瞥しただけで判別する元野。
映未はにやりと笑い、数字が羅列された画面を指さした。
「智美ちゃんは資格がないんだから、見ちゃ駄目」
「だったら、他でお願いします」
「ここの方が近かったのよ。今年度のデータだけ抜き出して」
「私は私で忙しいんですけどね。サトミを呼びますか」
それには首を振り、私を振り返り目配せする映未。
つまり、雪野達4人を仮想敵と見立てるつもりか。
「彼女達に知れたら、何かまずい事でも」
「まずくはないけど。一応話は通しておくか。今私達は、智美ちゃん達を監視するよう言われてる。加えて、処遇を考慮するとも」
「処遇。処分ではなくて」
「多分同義語ね。端的に言えば、首を切りたいんでしょ」
元野の首筋に添えられる映未の手刀。
仕草は冗談っぽいが、言ってる事は何一つ笑えない。
「そんな回りくどい方法をとらなくても、ストレートに退学させれば良いのでは?」
「自分達の、学内での評価を良く理解してないわね。あなた達はヒーローヒロインなのよ。望む望まないに関わらずね」
「サトミやユウ達はそうでしょうけど。私はヒーローという柄でも」
「総元締めでしょ、あなたは」
雪野の言う「うしゃうしゃ」という笑い声を立て、映未はデータをDDへ抜き取った。
「で、元締めとしてはどうする?」
「特に。相手が誰でも引きませんし、退学する気もありません」
浮かぶのは笑顔。
伝わるのは強い意志。
穏やかな表情の下に隠された、人としての強さ。
信念と自信、仲間達への信頼。
それが彼女を支え、力ともなっている。
何より彼女は、その事を十分に知っている。
自分の強さを。それをどう生かすかを。
「あなたには負けるわ。ただし、私達も一応やりたい事はある。それが結果的に、智美ちゃん達を退学に陥れる可能性もなくはない」
「その時は、私達が力不足だったという事です」
「分かった。とりあえず、雪ちゃん達を借りるわよ。H棟の改革を頼まれてるの」
「力尽くで制圧するとか言わないでしょうね」
露骨に嫌な顔をする元野。
彼女が一番嫌いな手段であり、それを防ぐためにガーディアンになったとも聞いてる。
「大丈夫。勿論その方が手っ取り早いけどね。その間智美ちゃん達は自警局と交渉して、H棟の隊長を解任させて。私達は,H棟自体の治安を回復させる」
「これは、いわゆる正式な通達ですか。裏の意図ではなく」
「そう。それ自体に、不満はないでしょ」
「分かりました。そちらについては、任せて下さい」
何とも頼もしい言葉。
無論それが出来るだけの自信と能力があればこそで、後は本人の言う通り任せておけばいい。
「雪ちゃん達に伝えるのは、数日後にして。私達も,H棟の状況を軽く見てくる」
「あまり良い噂は聞きませんが」
「とりあえず、名雲君達を先行させてある」
「大丈夫ですか」
これは彼氏である名雲を気遣ってか。
それとも。
H棟前。
血を吐いて倒れている男が二人。
行き倒れや病気ではなく、また倒れているのではなく倒されたというべきか。
その脇を通り抜けて正面玄関から教棟の中へと入り、床に滴る血の跡を追う。
「猟師ね、まるで」
さすがに笑う映味。
ただし瞳は微かにも緩んでいなく、この後どうなるかは知りたくも無い。
血の跡は階段ではなく、エレベーターの前で止っている。
「乗る?」
「それ程危険は無いだろ」
ボタンを押し、少し待つ。
やがて到着を告げるチャイムが鳴って、ドアがゆっくり左右に開く。
ここにも倒れている男が3人。
乗り合わせたい相手では無く、このエレベーターが止っていた階を思い出して隣のエレベーターを呼ぶ。
「なかなか凶暴な相手みたいね」
「二頭で連携してるかもしれない」
二人で下らない事を話し、こちらは誰もいないエレベーター内に乗り込む。
知らない場所でのエレベーターは避けたいが、今回は事情が事情。
それでも映味はコンソールに張り付き、いざという時に備えている。
「……無事到着」
小さく安堵のため息を付いたのもつかの間。
外へ出たところで、また床に何人もが倒れていた。
床に滴る血はまだ乾いていて、かなり近付いてきたようだ。
「ここに、誰かいなかった?」
倒れている男達を避けるよう廊下の端の端を歩いていた女の子に声を掛ける映味。
彼女は飛び上がりそうなくらい驚いて、葛藤の表情を表した。
「なんか、無理っぽいわね」
「仲間と思われたんじゃないのか。間違っては無いが」
「なるほど。いいわ、ありがとう。それと、この馬鹿達は放っておいて良いから」
固まったままの女の子に愛想良く手を振り、血が滴る廊下を指差す映味。
そろそろ、対決の時。
狩りの季節が近付いてきた。
探していた獣は何をしていたか。
ドアのキーが無くて、暇そうに壁にもたれて欠伸をしてた。
「何がしたい訳」
優しく、その下に刃を潜ませて尋ねる映味。
名雲は血を拭ったらしい拳を見せて、にこりと微笑んだ。
「通さないって言うからさ。本当かどうか試してみた」
「あなた、子供?」
「示威行動って言ってくれ」
「鎮圧に着たらどうするの」
「隊長は留守らしい。さっき見てきた」
事も無げに答える名雲。
少なくともそのオフィスにまでは押しかけ、もしかするとかなり奥まで進んだ可能性もある。
ただしこれでストレスが解消されるなら、ここの連中には悪いがこちらにとっては都合が良い。
「柳君は」
「手を洗いに行った」
「あのね。あの子は、私達とは立場が違うのよ。街のチンピラじゃなくて、プロ格闘家なんだから」
「俺もチンピラではないぞ」
さすがにむっとして反論する名雲。
しかし映味は刺すような眼差しで彼を睨み、無言で圧力を掛けていく。
「その、あれ。俺はチンピラだけど、柳は大切にしないとな」
「分かってれば良いのよ。後で困るような事にはなってないでしょうね」
「当然だろ。真相は、闇から闇に葬られる」
やけに楽しそうな名雲。
最近はすっかり落ち着いているが元がそちら側の人間で、多少なりとも柄が悪くなるのは仕方ない。
「お待たせ。ん、どうかした」
ハンカチ片手に現れる司。
映味刃何でもないと告げ、彼の頭を軽く撫でて全身をチェックした。
私もざっと見渡すが怪我らしい怪我は無く、返り血も浴びてない。
相手の心配はこの際どうでも良く、大切なのは彼が無事であるかと言う事だけだ。
「今度から、暴れるのは出来るだけ名雲君に任せなさい」
「でも」
「何もするなと言ってない。いざという時は、存分に働いてもらう」
「僕は働くよ」
何ともまばゆい笑顔を浮かべる柳。
働く意味がどうかとも思うが、この際はこちらも笑っておくとしよう。
陰のある表情も以前に比べ減ってきたし、彼は彼で代わりつつある。
それを見守り、実際に守っていくのは私たちの責任だ。
「俺も、そのくらい気を遣って欲しいね」
「何か言った?」
「良いや、全然。それで、キーは」
「これ。この建物のマスターキーだから、殆どのドアはこれで大丈夫。預かっておいて」
コピーや似た物は映味も所持しているだろうが、オリジナルは私達より名雲に任せた方が安全上の面で有効。
奪われた、盗まれたという事には無縁な存在だから。
「狭いな」
中に入って一言、名雲がそう呟く。
ドアを入ってすぐに部屋が一つ。
奥にもおそらくもう一部屋で、後はキッチンが左手に見えている。
小規模なオフィスと同じ作りで、直属班のオフィスに比べれば半分もない。
まして中枢機能を担う所とは、比べようもない。
とはいえ使うのは、今のところ私達4人。
雪野達が加わっても8人で、それならちょうど良いくらい。
私は毛布と寝る場所さえあれば困らない。
「お礼参りとかこないでしょうね」
「来るだろ。俺なら来る」
「もういい。ドアの外に、カメラとセンサーを取り付けて。中は私がやる」
「おう」
機嫌よく外に飛び出していく名雲。
こういう事になると自然に血が騒ぐというか、昔に戻った気になるのかもしれない。
周りは敵で、信頼出来るのは仲間だけ。
だからこそ血はたぎり、絆は深まる。
あれが果たして良い事だったのかは分からないが、心の中に焼きついて離れないのも確かだろう。
「僕は、何しようかな」
「お茶」
「好きだね、真理依さん」
くすくす笑い、キッチンへと向かう司。
勿論お茶組以外に使った方が能力を発揮するのは分かっているが、緊張を強いるばかりも良くはない。
何より今は、お茶が飲みたい。
「……池上さん、ちょっと」
キッチンから聞こえる、やや緊迫した声。
呼ばれた映味がそちらへ向かい、名雲を端末で呼ぶ。
「どうした」
「これ。何か仕掛けてない?」
「爆発させるって?放火は高校生でも捕まるぞ」
それでもコンロを慎重に探り、主電源を落とそうとする名雲。
しかし彼の手はそこで止り、私達に下がるよう手で指示する。
「柳、盾かその代わりになるもの持って来い。舞地達は外へ出てろ。大丈夫だとは思うが、爆発する可能性もある」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
あっさりと背を向け、外へ出て行く映味。
私もすぐに彼女の後を追う。
この際感情は一切関係なく、その人間が必要かどうかだけの事。
全員がリスクを負う場面ではなく、必要ならば私達に出て行けとは言わない。
安っぽい感情で仲間を犠牲に晒すのは無意味である。
どれ程も待つ事はなく、名雲がドアを開けて私達を招き寄せた。
「花火程度だ。建物を爆発させる気かとも思ったが、自殺願望はなかったらしい」
「林君も、自殺願望はないと思うわよ」
「あいつは、自分だけ生き残るタイプだからな。柳」
「今終わる」
部屋に残ったのは、名雲だけではなく司も。
感情は感情。仕事は仕事。
彼を思う気持はあっても、必要以上に甘やかすつもりはない。
「結局なんだったの」
「電源を入れると、回線がショートするようになってた。少し火花が散るくらいで、大した事じゃない」
「傭兵にしてはぬるいわね。晃達とも比べ物にならないし」
「あいつらは、建物を爆破させるような奴だろ。大丈夫だとは思うが、窓は開けておけ。揮発性のガスをまいたかもしれん」
過去の経験から出る、何気ない言葉。
実際に爆発の場面に出会ったのはそう何回もないが、逆に頻繁にあれば私はここに立っていない。
寒い時は毛布に限る。
こうして毛布に包まり、風に吹かれてお茶を飲んでいると昔を思い出す。
映味と二人で、当てもなくさ迷っていた日々。
不安、恐れ、悲しみ。
だけど、そこに絶望はなかった。
毎日のように見た焚き火の明かりは、今も私の心を照らす。
「窓、もういい?」
セーターの上にダウンジャケットを着込み、ダルマみたいな格好で聞いてくる司。
対馬出身だからという訳ではないが、寒さには弱い。
「対流を考えても、まあいいだろ。窓は何も仕掛けてなかったよな」
「見た限りは大丈夫だった」
小走りで奥の部屋に向かい、窓を閉める司。
名雲はドアを閉め、セキュリティをさせて映味に視線を送った。
「外部のカメラは通常に作動。センサー、誤作動なし。窓には、雪ちゃん達が来てから取り付ける」
「空調と端末のネットワークは」
「特に異常なし。隠し部屋がないか、一度見てみるわね。みんな、静かにして」
小さな箱のような物を部屋の中央に置き、端末の画面に見入る映味。
特定の周波数を送り、その反響で壁の強度や材質を調べるセンサー。
家具や人間は形状で透過するらしく、本来は建築関係の人間が使う道具だ。
「とりあえず大丈夫。ネットワークも、自警局から直接のラインと外部にもう一つ。侵入される危険は薄いわね」
「分かった。家具は、玲阿が来てから適当にずらす。とりあえず、一旦休憩か」
そう名雲が呟いた途端、セキュリティが警告音を発した。
画像解析ソフトが映像を解析し、武器の形状を認識したようだ。
「お礼参りにしては、人数が少ないわね」
「……今開ける」
入ってきたのは、細長い警棒を担いだ沢。
名雲が一瞬身構えるが、それより先に沢の方から警棒を腰のフォルダーへ戻す。
「玄関とエレベーター。それと廊下に、人が倒れてたけど」
「今時行き倒れなんて、珍しいな」
「二人組に襲われたって話を聞いた」
「それは大変だ」
人事のように呟き、入るように促す名雲。
この程度の会話はかつては日常茶飯事で、立場こそ違えお互い行動にどれ程の違いもない。
「H棟の治安が良くないと聞いて、フリーガーディアンとして来たんだけどね」
「教育庁から、名指しでここを調べろって事でもないんだろ」
「勿論、そんな瑣末な事柄にまでは口出しはしない。ただ教育モデル校で、今の教育庁長官や事務次官はかなりこの学校に力を入れている。連中は理事側に付いてるけど、学内の治安を乱してまでは管理案を推進したくないらしい」
「官僚とか政治家ってのは、訳が分からん。力はあるんだから、文句があるなら直接言って来いよな」
「癒着してるのが表ざたになるのはまずいんだろ。それで、現状は?」
私も詳しくは知らず、また私にではなく映味への質問。
非常に妥当な判断だ。
「治安が悪いというより、統制が取れてないわね。たがが外れてるというか、他校で良く見かけた強い連中が支配してる空気。ガーディアンも指示がないのを良い事に、好き放題してる連中もいるとか」
「中等部からの繰り上がり組も?」
「勿論。草薙高校の神話崩壊じゃなくて」
「朱に交われば赤くなる、か。人によるだろうけど、確かに少し意外だな」
多少残念そうな顔をする沢。
この学校に留まっている期間は私達より遥かに長く、過去の経緯から思いいれも尋常ではない様子。
その彼からしてみれば、草薙高校の生徒自体が害悪なのは許しがたい気分なのだろう。
「隊長は?」
「いなかった。どうも、常駐してる訳でもなさそうだ。だから余計に性質が悪い」
「君達は、どうする気。自警局とのやり取りは多少聞いてるけど、それを抜きにして」
この学校での立場は、生徒会ガーディアンズの、ブロック隊長の一人。
格からすれば私の方が上になるが、それは組織としての話。
人間性、能力、経歴。
どれをとっても、彼に敵う人間がこの学校にそう何人もいるとは思えない。
だからこそ情報には精通し、懐も深い。
そして、決断力もある。
敵と判断すれば、私達を容赦なく狩るだろう。
「旧連合については、とりあえず保留。隊長の解任は、智美ちゃん達に任せる。私達は雪ちゃん達と一緒に、治安回復とその維持に努めるわ」
「彼等と生徒会穏健派を結びつける?」
「そういう考え方もあるなんて、今知ったわ」
薄く笑い、切れ長の目を細める映味。
沢は視線を真直ぐ受け止め、親しみのある笑顔を浮かべた。
「君達の立場は僕も多少は理解してる。あまり雪野さん達に肩入れするのも問題じゃないのかな」
「契約は契約、心情は心情。分けて考えないと」
「そういう問題か」
「契約。……そう、契約」
不意に思い立ち、近くにあったメモ用紙を引き寄せて自分の名前と今日の日付を書き込む。
後は契約内容と、依頼相手も。
「これ、頼む」
「頼むって、何を。……意味が分からないんだけど」
「書いてある通りだ」
「雪野さんの護衛って書いてあるよ」
映味や名雲に、メモ用紙を見せる沢。
そう書いたつもりだから、別に何もおかしくはない。
二人の視線は、私の考えとはかなり違うようだけど。
「あなた、いつからそんな過保護になった訳」
「でも玲阿が怪我した時、確か忍者が護衛してただろ。雪野も目が悪いんだし、条件は大差ないのか?
「そう言われるとちょっと」
「沢さんって、そんなに暇なの」
「僕は忙しいよ」
司ののんきな質問に、珍しくむっとする沢。
ただしそれは彼の都合で、私の心情とは関係ない。
「とにかく頼んだ」
「頼んだって。大体報酬は」
「名雲が払う」
「おい。誰か、棒持って来い。こいつ、頭がどうかしてる」
「しててもいいから、払え」
顔を真っ赤にして、もどかしげに手を動かす名雲。
どうやら感情が先走って、言葉が先に出てこないらしい。
「ひどいわね、あなたも」
「じゃあ、代わりに払うか」
「冗談でしょ。それに沢君は公務員だから、報酬は教育庁から出るんじゃなくて」
「教育庁の依頼ならね。でもこれは個人間の話だから、個人からもらうよ」
すでに依頼を受けたという前提で話を進める沢。
どうもみんな、雪野に対しては甘いな。
「今回はケースがケースだし、法外な要求はしないよ。貸しって事にしておく」
「それって、俺への貸しか」
「大丈夫。大した事は頼まないから」
「いっそ俺が護衛すればいいんじゃないのか」
それも可能ではあるが、名雲には元野をガードさせる予定。
遠野には浦田兄弟が付いている。
雪野にも玲阿が付いてはいるが、不確定要素を考えればバックアップも必要だ。
それが甘やかしすぎなのは、ともかくとして。
「お前から見て、執行委員会はどうなんだ」
「昔は僕達が、生徒会側だったからね。かなり上手くやられてるよ。ただ、揃ってる人間は当時と決して引けを取らない。協力者も多いしね」
「屋神や杉下っていうのはすごいと聞いてるが。後は、河合や右動か」
「河合さん達とは、それ程面識はないんだけどね。確かに、今のこの学校にはいない人達だよ。強烈なリーダーシップと責任感。ただ、自己犠牲の意識が強い」
「それは雪野達もだろ」
「まあね。ただ当時は切羽詰った空気が強くて、浮き足立ってた気もする。結果が、大惨敗さ」
自嘲気味に笑い、遠い眼差しをする沢。
それは私達がたやすく口を挟む事ではなく、彼とその仲間にしか触れられない部分である。
「どちらにしろ、今は雪野さん達に託す以外に道もない。留年覚悟というなら別だけど」
「ぱっとしない話だな」
「そうならないよう、せいぜい護衛を頑張るよ。とりあえず、向こうの様子を見てくる」
ため息混じりに出ていく沢。
これで雪野に関する心配をする必要はなく、H棟の件に専念出来る。
「元野達の交渉は」
「聞いてみる。……ええ、そう。……今日からね。……ええ、お願い。まずは顔合わせから始めるそうよ」
「仕事が早くて助かる。名雲、司を連れて生徒達に状況を聞いてこい」
そう支持を出し、毛布にくるまり目を閉じる。
別に眠い訳ではなく、やる事はやったので体を休めているだけ。
無駄に体力を消耗してては、いざという時に動けなくなる。
気付けば部屋には誰もいなく、隣の部屋からは赤い日差しが差し込んでいた。
思わず寝入っていた事に後悔もせず、毛布にくるまったまま隣の部屋へ移動する。
床は畳敷きで、休憩用の部屋らしい。
寝るならこちらかと思いつつ、窓辺に立って外を眺める。
木々を揺らす強い風。
東の空はすでに紺色に染まり、西の空へかけてのグラデーションが切なさを誘う。
ここにいれば風に吹かれる事はない。
身の危険も、食べ物の心配をする必要も。
あの頃に比べて堕落したとは思わない。
ただ、時々無性に懐かしく振り返るだけで。
柄にもない感傷。
夕陽は人の心を惑わせる。
結局そのままH棟を後して、アパートへと戻ってくる。
映未達には端末で告げてあり、それぞれが自主判断で後の行動をするだろう。
半分に割ったインスタントラーメンを小鍋に入れ、そこにスープの粉末と一緒に卵を入れる。
出来上がったのはぱっとしない見た目の、得体の知れない食べ物。
昔はこんなのばかり食べていて、だけど何故か無性に楽しかった。
さすがに鍋から食べる事はせず、一応器に入れ替え口に運ぶ。
思った通りの、卵の分薄まったインスタントラーメンの味。
主食と呼ぶには少しわびしく、食べていると気分が落ち込んでくるような。
あの時は、一体何が楽しかったのか。
たき火。
冷たい風。
仲間。
緊張感。
このラーメンよりも、雰囲気に酔っていたのかもしれない。
それでも一応全部食べ終え、器を洗ってバスルームへ向かう。
温かいお湯と、白い湯気。
自然と心が緩み、開放感に包まれる。
束ねた髪を軽く撫で付け、浴槽に浸かって目を閉じる。
あの頃は勿論風呂に入る事なんて出来ず、タオルで体を洗っていた。
夏場は、水辺で済ませた事もあった。
たまの銭湯や宿泊先での温泉が何よりの楽しみだった。
恵まれすぎて幸せに気付いていないとは思わないが、麻痺してるいる部分があるのも確かだろう。
傷だらけの体。
腕、足、脇、胸元。
大きな傷は無いが、細かな傷は数え切れない。
この代価が今の暮らしなのだろうか。
それとも、一時の夢。
実家に残っていれば、今以上の暮らしは保証されていた。
だけどそこから逃げ出したのは自分で、苦しい生活を送ったのも自分の意志。
幸せの意味。
そんな、答えの出る訳のない疑問を考えてしまう。
風呂上がり。
さすがになにもする気になれず、下着姿でソファーに横たわる。
TVが伝える明日の天気。
室内で過ごす今、それを気にする必要はない。
冷え込みも登下校時に少し我慢をすれば良いだけの事。
寒さに震え、雨を恨む事はもうしなくていい。
春の風、秋の虫の音。
それからは、少し遠ざかったような気もするが。
あの頃から、自分は何かが変わっただろうか。
それとも変わらず、今に至っているのか。
成長。
体のではなく、心は育っているだろうか。
家の重荷から逃げ、苦しい生活もすでに遠ざかり。
私は結局何をしているのか。
答えの出るはずもない疑問。
出そうとはしない自分。
ベッドに横たわり、薄れ行く意識の中で振り返る。
実家で過ごした日々。
映未達と過ごした、渡り鳥の生活。
草薙高校に来てからの毎日。
どれにも思い入れはあり、苦い思いも無くは無い。
一度逃げ、放浪し、今はここにいる。
だけど、もう卒業。
結局、同じ所には留まり続ける事は出来ない。
私の居場所は、本当にここだったのか。
あの契約は正しかったのか。それに報いる事は出来ているのか。
考えれば考えるほど分からなくなる事ばかり。
信念なんて、ありはしない。
日々を生き抜くのに必死で、そんな事を気にする余裕などどこにもなかった。
必要ともしなかった。
大切なのは力。ただそれだけの毎日。
信念、気持ち、心。
それがどれ程無意味で無力か、嫌と言うほど見てきた。
人の心はたやすく揺らぎ、移ろいゆく。
絶対と誓った事は、陽炎のように消えていく。
何人かの人間を除いては。
差し出された手。
つかみ取った自分。
信念を持ち、同じ心を持つ仲間。
今は遠い過ぎ去った日々。
だけど今も変わらない関係。
彼女達は、私と同じ気持ちを抱いてくれているだろうか。
そして、この学校にいる子達はその信念を守り通せるだろうか。
挫折し、屈辱にまみれ、敗北を経験し。
それでも立ち上がる事が出来るだろうか。
言葉での誓いなど、一瞬の暴力や少しの金銭でたやすく消し飛ぶ。
絶対なんて事はあり得ない。
だけど、それは私の事。
それを信じて疑わない子もいるだろう。
大丈夫。
何の根拠もなく、そう思う。
彼女達は、絶対に大丈夫だと。