32-11
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G棟の本部から舞地さん達に連絡を取るが、つながらない。
少なくとも、意志の疎通を図ろうというつもりは無いらしい。
「H棟は入れないの」
「玄関を保安部が固めてるそうよ。行けば止められるでしょうね」
端末片手に首を振るモトちゃん。
サトミもどこかと連絡を取り合っているが、表情はあまりはかばかしくない。
ただ、理由の分からない事が一つ。
「どうして舞地さんが隊長なの」
確かに教棟の隊長なら、ガーディアンとしてはかなりの地位。
生徒会の幹部といっても問題は無いくらい。
ただし彼女は元々直属班で、その時点で地位に関してはかなり高い。
教棟の隊長の方が上だとしても、実務のわずらわしさを考えればどちらを選ぶかという話だ。
出世欲や名誉欲があるタイプとも思えないし、何より実家が財閥という点でそれらの欲求は無いはず。
「理由は知らない。でも、彼女達は私達とは反対側に立っている。それだけ」
固く、聞き返す事も出来ないような厳しい表情。
モトちゃんは端末を置き、前髪を軽くかき上げ私達を見渡した。
「H棟に付いてはこういう結果になったけど、もう諦めたって人は。……いないわね。最悪この部屋の明け渡しを要求される可能性を考えて、私物はまとめておいて」
前向きなのか、それとも後ろ向きなのか分からない台詞。
それだけ私達が追い込まれている事を示す証でもある。
来客を告げるセキュリティ。
すかさすショウがドアの脇へ付く。
「……ええ。……いや、大丈夫。……丹下さん。……ええ、入って」
モトちゃんの合図でショウはドアから離れ、沙紀ちゃんが部屋に入ってくる。
いつもよりは固い、ただ最近は身内の中でもよく見かける表情で。
「真理依さんの事は私も聞いた。それと、ちょっと言いにくいんだけど」
「この部屋の明け渡し?」
「ええ。ただ、今すぐって訳ではないから」
申し訳なさそうに呟く沙紀ちゃん。
彼女の立場こそ、私達と舞い地さん達との板ばさみ。
こうして私達の存在は迷惑を掛け、疎まれている訳か。
「ごめんなさい。迷惑を掛けてばかりで」
「それはいいんだけど。真理依さんの事は、あまり悪く思わないでね」
小声でそう言って来る沙紀ちゃん。
彼女は舞地さんに可愛がられているし、そういう言葉が出てきてもおかしくはない。
またこれは良い悪いではなく、立場の違いが明確に出たんだろう。
彼女達の渡り鳥、学校外生徒としての面が。
モトちゃんは柔らかく微笑み、沙紀ちゃんの肩に手を触れた。
「明け渡しは、来週くらい?」
「理由をつければ、年度末まで大丈夫だとは思う。強制的に執行されなければ」
「分かった。いつでも出て行けるよう、荷物はまとめておく」
「本当、ごめんなさい」
もう一度謝る沙紀ちゃん。
舞地さんとのつながりは分かるが、彼女がそこまで気にする事でも無い気もする。
それとも、謝る理由が別に存在するという事だろうか。
「今、舞地さん達はH棟?」
「そう連絡は受けてる。今から顔合わせがあるんだけど、行く?」
「出席していいのなら」
「それは、私の権限でどうにかする。自警局で行うから、そっちへお願い」
時間としては終業時間間近。
特別教棟内にも生徒の姿はまばらで、日ごろの活気がない分嫌な静けさが押し寄せてくる。
大きく響く足音が耳に障り、心に届く。
「あそこね」
ドアの前に集まる何人かの生徒。
全員が銃を持っていて、その彼等と向き合っている生徒も何故か銃を持っている。
教棟の隊長の顔合わせ。
そこに出席する人で銃を持ってるのは誰かといえば、思い当たるのは一人しかいない。
「何してるんですか」
「銃は持ち込み禁止とか言いやがった」
当たり前の事を教えてくれる風間さん。
ドアを固めているのはおそらく保安部で、雰囲気からして前島君の部下だろう。
「規則以前の問題ですので」
さすがに困惑気味に説明する女の子。
彼女も教棟の隊長が相手では、立場上強くは出られないらしい。
もしくは、ここへ銃を持ち込もうとする風間さんの人間性に対してか。
モトちゃんは首を振り、ため息を付いて銃を指さした。
「ショウ君、銃を取り上げて」
「おう」
無造作に銃口を掴み、風間さんごと持ち上げるショウ。
でもってそれを壁際へと振って、風間さんを振り落とした。
「こ、この野郎。お前、何を」
「これでいいですよね」
「助かります。では、中へどうぞ」
いきり立つ風間さんを無視して中へ入っていくモトちゃん。
保安部の女の子も銃を下げ、彼女を見送る。
こうなると、誰が隊長かって話になってきそうだな。
「おい、俺も入っていいんだな」
「勿論です」
風間さんには警戒気味に銃を構える女の子達。
それは気にしすぎだと思うが、ついさっきまでの行動を考えればそうなってしまうのも仕方ない。
最後に残ったのは私達。
自然、何となく彼女達と見つめ合う。
「雪野さん達も参加されるんですか」
「沙紀ちゃん、……丹下さんの付き添いで」
「多分、あまり楽しい集まりではないと思いますよ」
「楽しい事ばかりの世の中って訳でもないでしょ」
「そうですね」
くすっと笑い、軽く胸元を叩く女の子。
私は渡り鳥でも傭兵でもないが、その気持は分かっているつもりだ。
だから私も、胸に手を添えその気持に応える。
決意。
ここに来た事の意味、その覚悟を改めて自分に言い聞かせる。
集まっているのは、一般教棟の隊長全員。
F棟が風間さん。G棟は沙紀ちゃん。
I棟は沙紀ちゃん達の先輩らしく、彼女達と言葉を交わしている。
J棟が新妻さん。
そしてH棟は。
「舞地真理依です。よろしく」
素っ気無く挨拶をして、キャップを深く被り腕を組む舞地さん。
その態度を咎める者は誰もいない。
「顔合わせという事ですが、すでに全員顔見知りだと思うのでこれ以上の説明も必要は無いでしょう。私からも、特に伝達事項はありません」
書類に視線を落としながら、事務的に話していく北川さん。
その間も舞地さんはキャップを深く被り、俯いたまま。
話を聞くとか、この場になじむという姿勢は全く見られない。
北川さんはそれに構わず、淡々と話を進めていく。
「時間的にも遅いですし、今日はこれで終わります。明日改めて会合を持ちますが、その際はいくつかのテーマがありますので各自端末のデータに目を通しておいて下さい。私からは、以上。何か、発言をしたい人は」
意外というべきか。
それとも当然か、風間さんが手を上げて北川さんの指名を受ける。
「選ばれた経緯とか事情は知らんし興味も無い。素性もどうでもいい。大事なのは、隊長としての資質。それだけだ」
「舞地さん、今の件に関しては」
「自信があるから引き受けた」
舞地さんではなく、後ろに控えていた池上さんがそう返す。
二人の関係は誰もが分かっているし、舞地さんが何も言わない以上池上さんの言葉が彼女の言葉となる。
「もう一つ聞く。俺もそうだが、3年はじき卒業だ。今更隊長を引き受けてどうなる」
「就任するよう命令を受けたから就いたまで。それ以外の理由は無い」
「命令があれば、何でもするって事か」
「言うまでも無い」
冷たく、一切を断ずるように言い切る池上さん。
私の知っている彼女ではない、おそらくは渡り鳥としての姿。
ただそれに臆する気持は微塵も無い。
突然立ち上がる風間さん。
彼肩のIDを外し、叫び声を上げた。
「やめだ、やめ。やってられるか」
机の上を滑っていくID。
肩のIDを外した風間さんは席を立つと、力任せに拳を壁へ叩き付けた。
「傭兵だか執行委員会だか知らんが、この学校にはこの学校のルールがある。それを破るつもりなら、俺も考えがある」
「ガーディアンを辞めて、何か得する?」
「損得で動くなら、俺は今ここにいない」
その言葉には、一瞬怪訝そうな顔をする池上さん。
風間さんの役職はF棟隊長。
全ガーディアンの筆頭であり、生徒会でも幹部と呼ばれるような存在。
だが彼の口調からは、それを誇ったり貴重なものだと思わせるものは一切感じられない。
彼の言葉には、きっと続きがあるだろう。
もし自分の先輩達が辞めていなかったら。
峰山さんが残っていれば。
小泉さんがこの学校にいれば、自分がF棟の隊長ではなかったと。
その役割を果たす人が、他にもいたと。
風間さんは醒めた目で舞地さん達を捉えつつ、低い声で話し始めた。
「お前等の思惑や理屈は知らん。正しいとか間違ってるとか、そんな事は聞きたくも無い。俺は執行委員会を認めないし、今の学校の方針にも賛成しない」
「それで」
「元野達と一緒に行動する。F棟の隊長も空いたんだ。適当に誰かを据えろ」
もう一度壁を叩き、拳から血を滴らせながら部屋を出て行く風間さん。
北川さんと沙紀ちゃんが気まずそうに視線を交わすが、彼女達は後を追おうとはしない。
決断を下したのは風間さん個人。
自分に付いて来いとは言わなかった。
言ってしまえば、二人はずっと気が楽になるだろう。
だけど風間さんは何も言わない。
そして二人はここに留まる。
自分が進めるのは、自分一人の道だけなのだから。
「F棟隊長の処遇に付いては、私の預かりとします。正式な決定があるまで、風間さんはF棟隊長です」
やはり事務的に告げる北川さん。
それには誰も反応を示さず、彼の放ったIDが虚しくテーブルの中央に止っている。
「私も一言いい?」
特にこの状況に気を払う様子も無く、淡々とした口調で申し出る新妻さん。
北川さんが頷いたのを見て、彼女も自分のIDに手を掛けた。
「私も辞めたって言いたいけど、それはしない。ただ現状を追認してる訳でもない。それは覚えておいて」
「分かりました。ただし隊長職に留まる限りは、規則に従ってもらいます」
「分かってる。草薙高校には憧れを抱いてたんだけど。姉さんの話とは、だいぶ違うわね」
独り言にも似た呟き。
それに反応したのは北川さんと沙紀ちゃん。
新妻さんお姉さんの後輩である二人。
「まあ、その辺はどうでも良い話よ。大事なのは、今なんだから」
そう言い残し、彼女も去っていく。
私もこれ以上、ここにいる理由は存在しない。
会議室を出た所で、舞地さんが沙紀ちゃんを呼び止めた。
用があるのは彼女だけで、私達ではない。
それでも距離を置いて、二人の会話が終わるのを待つ。
「風間さんはどうする気なのかな」
「あの人は、塩田さん達と同じタイプなんだろ」
「何が」
「学校に残るのを、居心地悪く感じてる」
ケイはそう説明し、何を思ったのか舞地さん達の方へと歩き出した。
それには彼女達も反応を示し、池上さんは露骨に険しい顔をする。
彼はすぐに戻ってきて、廊下の先。
エレベーターがある方向を指さした。
「長引きそうだから、先に帰ろう。待ってても仕方ない」
「それを話に行っただけ?」
「他に話す事はない」
池上さんにも似た、冷たい口調。
情や心といった言葉とは無縁の、全てを拒絶するような。
私もそれ以上は尋ねられず、歩き始めたケイの後を付いていく。
廊下に響く靴音。
それは虚しく跳ね返り、闇の中へと消えていく。
ファミレスで簡単に食事を取り、みんなと別れる。
良い事は何もなく、この先もずっとこんな事が続くような気がしてくる。
決意、覚悟。
現実。
重く、固い事柄ばかりが自分達を包み込む。
逃れられない、自分達が望んだ道。
それに押し潰される気はないが、決して心が解放される事もない。
手探りで壁を伝い、バスルームに辿り着く。
ぬるめのシャワーを頭から浴び、少しずつ体を温めていく。
前髪を伝い、頬を伝い落ちていく水滴。
これで重苦しい現実が洗い流される訳ではないが、体が温まれば少しは気分が軽くなる。
あくまでも一時的に。この場限りは。
お湯を這ったバスタブに首まで浸かり、体の力を抜く。
脳裏に浮かんでは消える様々な出来事。
自分の無力さ、後悔。
悔いても仕方ない。
振り返っても意味はない。
そうかもしれない。
だけど私は後悔するし、振り返る。
何度も、何度も。
失敗を重ね、過ちを繰り返す。
そうして一歩一歩前へ進む。
例え遅くても、後に下がろうとも。
この歩みを止めはしない。
下着のままでベッドに転がり、エアコンの温度を上げる。
見た目はともかく風邪を引くよりはましで、何よりこの開放感は何物にも代えがたい。
冷蔵庫から持ってきていた、よく冷えたリンゴ炭酸を一口飲む。
冬に味わう、夏に似た感覚。
少しだけ気分が軽くなり、意識が晴れる。
「ふぅ」
ペットボトルをテーブルへ置き、さすがにパジャマを着てエアコンの温度も適正なものへと変える。
何事も程ほどが良く、やり過ぎていい事は何もない。
こう考えてしまう辺り、いつもより追い込まれているんだろう。
「えーと」
壁のカレンダーをめくり、その事に気付く。
サトミの字で書かれた私の誕生日。
その次の月。3月。
「卒業、か」
脳裏をよぎる、風間さんの言葉。
3年は、もうすぐ卒業。
3月を迎えれば、誰がなんと言おうと彼等は卒業する。
この学校からいなくなる。
当たり前の事。
あまりにも当たり前すぎて、考えてもいなかった事。
どうして舞地さんは執行委員会の言いなりになっているのか。
何故,H棟の隊長になったのか。
理由は分からない。
でも、分からないままにはしておけない。
3年生は卒業する。
その後を、私達は託されている。
何もかも、全てを。
仕事も、志も。
責任も。
舞地さんが何を考えているのかは分からない。何をしようとしているかも。
分かっているのは、ただ一つ。
彼女達は、自分のために行動はしていない。
根拠も何もない、私の思い込み。
例えそうだとしても構わない。
私は彼女を信じる。
そして、彼女が負っている何かを私が受け止める。
私に出来る事。
いや。私がやらなければ行けない事だから。
朝。
普段通り着替えを済ませ、部屋を出る。
寮の玄関にやってくると、いつものように何人かの生徒が私を待っていた。
「遅いわね」
変に馴れ馴れしく話しかけてくる女。
私を待っていたのは間違いないが、都合の良い通行証くらいに思ってるのかも知れない。
女はカールした後ろ髪を邪魔そうにかき上げ、顎を玄関の外へと逸らした。
「私、急いでるのよね。行くなら、早くしてよ」
改めて思い出す、池上さんの言葉。
自分さえ良ければ、他人なんてどうでもいい。
それには違う意味があるとも思っている。
でもこの場合は間違いなく、池上さんが言った通りの意味。
単なる自己中心的な意識から出た言葉でしかない。
「大体、こんな子にそんな事出来るの」
「知らないけど、すごいんだって」
「色目でも使うんじゃない」
「はは、最低」
玄関に響く女達の笑い声。
別に何もおかしくはないし、笑っているのは彼女達だけ。
その笑い声さえ収まれば、後は張り詰めた空気と物音一つしない静けさが待っている。
「な、なによ。私は別に」
性質の悪い冗談をたしなめられた。
もしくは、この場の空気から浮いてしまった。
そのくらいに思ってるのかもしれない。
気付けば彼女達の周りからは他の生徒が離れ、私と向き合うような格好になる。
「ど、どうしたのよ。学校に行くんでしょ」
スティックを抜き、玄関の床を叩いて足場を確かめる。
周囲に危険な物は何も無く、進行方向に自分を妨げる物も無い。
「付いてくるのは構わない。ただし、他の子には迷惑を掛けないで」
「迷惑って、何もしてないじゃない。頭がおかしいんじゃないの」
力を見せなければ、所詮私もこの程度の扱いでしかない。
人を外見だけで判断し、その上に立とうとするという。
自分さえ良ければ、周りの事などお構いなし。
でもこれが、管理案の結果だとは思わない。
これは単なる、人としての性質。
私の目の前にある現実なんだから。
怒る気にもなれず、彼女達と一緒に正門をくぐる。
すでに諦めているのか、制服着用を呼びかけるグループは私達からかなり遠ざかったところに集まっている。
彼女達にもノルマがあるらしく、それを考えれば悪い事をしてるのかなという気もする。
ただしそれを選んだのも彼女達の意志であり、そこまで強制されているとは思えない。
実際その手の悲壮感は無く、奇妙なやる気と押し付けがましさ。
後は私の後ろにいる女とも共通する、他人は自分が利用するだけの存在という目付き。
しかもそれが正しいと。
何の問題も無いとして、まかり通っている。
それが、この学校の現実だ。
視力はあまり回復せず、サングラスのせいもあって周りの景色は薄暗い。
日差しの暖かさで晴れていると理解するくらいで、ずっと日陰を歩いていれば今日は曇りかと思ってしまう。
それでも教棟に入れば暖房が効いていて、優しく私を出迎えてくれる。
スティックを頼りにゆっくり歩いていると、すれ違いざま肩が軽くぶつかった。
倒れる前にスティックを振って床に付きたて、どうにかバランスを保つ。
顔を上げると私を追い抜いていった相手。
さっきの女と目が合った。
「どこにいても邪魔ね。迷惑掛けないで」
故意なのか偶然なのかは分からない。
ただ悪意を持って私に接しているのは間違いなく、それを楽しんでいる。
人の善意を信じたい方ではあるが、こういう人間と出会うとそんな考えはたやすく揺らぐ。
「ぶつかったんだし、謝ったら」
木之本君なら、謝っているだろう。
あの子は、純粋に人の善意を信じる人だから。
だから停学になり、回りから追い込まれた。
そんな彼の生き方優しさが結果として彼を救いはしたけど、利用されたのもまた事実だ。
優しさだけでは、人を信じるだけでは生きられない世の中なんだろうか。
子供の頃は、それを信じて疑わなかった。
今もそれを信じたい。
だけど目の前には、理不尽な悪意を突きつける女が存在する。
どちらにしろ、この現実へ向き合う以外に私の生きる道は無い。
夢見て生きられる程甘くは無い。
私も、そしてこの女も。
スティックを担ぎ、無造作にそれを振り下ろす。
女の鼻先から胸元。スカートを通り過ぎ、開いている足の間にスティックを落とす。
当てはしないし、それ程早く振ってもいない。
だが一歩踏み込めばどうなるか。
もう少しだけでも加速をつければどうなるか、前髪をなびかせている女の方がそれは分かっているだろう。
「現行犯逮捕、って所ね」
後ろから聞こえる声に反応して体を翻し、スティックを声の聞こえた位置へ振る。
今度も当てる前に止めはしたが、さっきよりは鋭く早い一撃で。
「とりあえず、話を聞こうかしら」
冷たい表情で私と女を交互に見つめる池上さん。
彼女は授業には出席していないはずで、また朝から私達の元をを訪れる事は殆ど無かった。
ただしそれは、かつての話。
今の話ではない。
「授業が始まる前には終わらせる。状況を説明して」
「この女が後ろからぶつかってきたから、スティックで警告しただけ」
「う、嘘よ。殴られたわ」
何が嘘なのかは知らないが、金切り声を上げて抗議する女。
しかし女が私にぶつかって、池上さんが現れた。
これは何かの罠、彼女達が仕組んだ事と考えた方がいいんだろうか。
「話は分かった。お互いに謝りなさい」
厳しい口調でそう命ずる池上さん。
言い争うのも馬鹿馬鹿しく、頭を下げて謝意を告げる。
女の方も適当に頭を下げ、口元でなにやら呟いた。
「今回は、これで終わり。次に見かけたら、拘束する」
「私は悪くないわよ、私は」
あくまでもその部分を強調する女。
池上さんは一睨みして女を黙らせると、そのまま私に手を差し伸べてきた。
ケイではないが仲直りの握手という意味では勿論無く、何かを要求するように上を向いた手の平が何度も動く。
それを無視していると、池上さんは私の顔を覗き込んではっきりと言葉で示した。
「その棒。スティックを渡しなさい」
「絶対に渡さない。どうしても取り上げたいなら、力づくで来れば」
「代わりの杖でも何でも用意するわよ」
「これに代わりは無いの。例え誰がなんと言おうとこれは絶対に渡さない。どうしても取り上げたいのなら、それだけの覚悟を決めて」
スティックを下段に構え、腰を落として膝の力を抜く。
これはただの武器、杖代わりというだけの存在ではない。
私が私である事の証。
私とショウの絆。
大勢の人の優しさと善意。
私の物であって、私の物ではない。
これ無しの生活はありえないし、想像も出来ない。
それでも取り上げるというのなら、私も容赦はしない。
私自身の全てを懸けて、力尽きるまで戦い抜いてみせる。
「……後悔するわよ」
「すればいいじゃない。それでもスティックは渡さない」
「退学になっても」
「じゃあ、なればいいじゃない」
なるのは自分だが、半ば意地になってスティックを握り返す。
背後に一瞬気配を感じたが、反応する必要は無い様子。
そちらへの警戒は怠らず、しかし意識はあくまでも池上さんに集中する。
「今の言葉、覚えておくわよ」
「メモでも録音でも取れば。私は絶対に譲らない」
「せいぜい頑張る事ね」
長い後ろ髪をなびかせ、後ろ向きのまま手を振り去っていく池上さん。
気付けばあの女もいなく、役目を終えたのか逃げたかのどちらかだろう。
勢いに乗って少し言いすぎた気もするが、それは今更の話だ。
スティックは守られたし、これを作ってくれた人達の思いも守る事は出来た。
私の退学程度で見合うかは分からないが、それを懸けても決して惜しいとは思わない。
少し興奮したまま教室に着くと、HRが始まる寸前だった。
席に着くと同時に本鈴が鳴り、かろうじて遅刻は免れた。
「では、今日の伝達事項は」
事務的に進んでいくHR。
その話に耳を傾けながら、机の上に置いたスティックを握り締める。
もしかすると、これ元にして何かを言ってくるかも知れない。
ただ、その時はその時。
私から譲る気は気は無い。
相手が誰だろうと、どう出ようと。
私の気持は変わらない。
HRが終わり、そのまま授業が開始される。
綺麗なブロンドの先生が、流暢な英語で詩を朗読している。
確か村井先生が読んでいたのと同じ詩で、これは英訳されたものだろう。
「Then translate the present part.」
そう言って、時計を確認する教師。
出席番号ではなく、時間で当てるタイプらしい。
「では、遠野さん」
「はい」
席を立ち、完璧な発音で読んでいくサトミ。
つかえたり読み間違える事は一切無く、それこそ頭の中に文章が入っているような感じ。
なんとなくそれに聞き入っていると教師の拍手が聞こえてきて、サトミが読み終えたんだと気付く。
「発音、良いですが、少し固いです。文意、理解してるから、感情の内容も勉強する事も、大事ですね」
「分かりました」
素直に答え、席に着くサトミ。
要求している事が他の生徒とはレベルが違い、改めて彼女のすごさを思い知る。
「次は、雪野さん」
どうやら時間は止めて、列で攻める気らしい。
仕方ないので席を立ち、教科書を持って顔を寄せる。
サングラスのせいか字が読みにくい。
「逆さですよ」
そう指摘され、教科書を裏返す。
わざとなら笑ってごまかす事も出来るが、真剣に間違えたとなると周りの空気が少し冷たい。
「読めますか」
「かろうじて」
サトミとは違い、一つ一つの単語を追っていくのがやっと。
文意を理解するなど夢のまた夢で、単語の意味すら思い浮かばない。
「はい、結構。間違い無いです。ただ、前後の単語は、先読み出来ると、便利です」
「はあ」
それが出来れば苦労はせず、まだしもヒヤリングの方が分かりやすい。
「では、次を」
突然ドアが開き、武装した集団が入ってくる。
生徒達はまたかという顔をして彼等を睨み、私達へ訴えかけるような視線を向ける。
「静粛に。これは、誰の物だ」
先頭に立っている男が示したのは、どこにでもある端末。
警察に届ければ指名や住所は簡単に分かり、学内なら情報局に行けば住む事。
ロックが掛かってなければ、調べるまでも無い。
「中学生との不順異性交遊の疑いがある。今すぐ、名乗り出ろ」
思わず全員が木之本君へ視線を向けるが、彼は苦笑気味に自分の端末を机の上に置いた。
何より彼なら、なくした時点でロックを掛けるか紛失届けを出すだろう。
「あなた達は、誰ですか」
片言の日本語で抗議する教師。
金髪と碧眼に男達は若干ひるみつつ、一枚の書類を差し出した。
「我々は、理事会の許可を得て活動している。抗議は理事会にしてくれ」
「ここは、教室ですよ。理事会じゃないですよ」
「う、うるさい。黙ってろ」
「Brat.」
突然スラングな英語で返す女性。
ただそれを聞き取れたのは一部の生徒だけらしく、男達は顔を見合わせて首を振るだけだ。
「名乗り出ないのか。それなら、出てくるまで中のデータを見ていくぞ」
嗜虐性に満ちた、下品な笑顔。
結局目的はそれで、自分の権力と相手を虐げるためにやっているだけ。
風紀の乱れなど、言い訳に過ぎない。
「先週の日曜、デート。帰宅が夕方の6時。場所は、琵琶湖」
単なる予定表。
ただそれに関心を示している生徒もいるにはいて、正直教室の空気は悪い。
他人の不幸は蜜の味ではないが、この手のゴシップは自然と好奇心を掻き立てる。
私も知り合い同士なら、きっと盛り上がっていたと思う。
それがクラスメートだとしても。
暗黙の了解、同意が得られるような状況なら。
しかし今は単なる暴露趣味。
人のプライバシーを暴き立てるだけの、悪ふざけとも呼べない行為。
男の読み上げる文章に教室内が引き込まれつつある頃。
一つの異変。いや、一人のクラスメートの顔色に気付く。
青い顔と伏せられた視線。
体は小刻みに揺れ、今にも倒れそうな様子。
間違いなく彼女が持ち主だ。
「ユウ」
「我慢しろっていうの」
「あの男達を倒しても、解決にはならないわよ」
「見過ごして良い訳でもないでしょ」
スティックを握りしめ、後ろにいるサトミと前を向いたまま話す。
これ以上我慢して、耐えて。
彼女が救われるのなら、私もそれに従おう。
だけど、彼女の苦しみは耐える事では癒されない。
ただその傷を広げ、心を苛まれるだけだ。
「落ち着けよ」
軽く私の肩に触れ、前に出て行くケイ。
自然とクラスメート達の注目は彼へと集まり、それはメールを読み上げようとしていた男も例外ではない。
「何だ、お前は」
「いや。内容からして、俺の端末だと思って」
「お前の?聞いてたのか、今までの話を。相手は男だぞ」
「男を好きになって悪い理由もないでしょう」
とてつもない論理を展開し出すケイ。
男は口を開けたまま彼を指さし、言葉にならない声を出す。
「という訳で」
あっさりと端末を奪い取り、ケイは席へと戻っていく。
「お、おい。待て。話はまだ」
「中学生と付き合って済みませんでした。以後気を付けます」
「な、なに?」
「それ以外に、何か?」
逆に尋ねられ、言葉を失う男。
ケイは端末をサトミに渡し、席について改めて頭を下げた。
「本当、済みません。反省してます」
「こ、言葉だけで信用出来ると思ってるのか」
「じゃあ、土下座でも」
通路に出て、床に膝を付いて頭を下げるケイ。
躊躇もためらいも無く、その額が床にこすりつけられる。
「いや、本当申し訳ない。この通り」
軽い、聞いてるこっちが馬鹿らしくなるような謝罪の言葉。
しかし土下座以上にさせる事など思い付きはしないし、また何もさせようがないだろう。
「なんなら、腹でも切りましょうか」
どこからか取り出したカッターナイフを手にして、めくったシャツの下に添えるケイ。
そこにはまだ生々しい傷が残っていて、男達も一斉に顔色を失う。
切腹など、当たり前だがそう簡単に出来る事のはずもない。
だけど彼のお腹には大きな傷が付いていて、今もカッターナイフをお腹に添えている。
「い、いや。それは」
「じゃあ、今回は許してもらえますか」
「い、以後気を付けろ」
「本当、済みません」
ゆっくりと立ち上がり、厚いカッターの刃で手の平を叩くケイ。
さっきまでとは一変した、殺伐とした表情。
切っ先は、ともすれば男達の方へと向けられる。
「い、いや。分かってもらえれば、それで」
「申し訳ありません」
低い、威圧感のある声。
男達は一斉に後ずさり、ドアへと視線を向ける。
「な、何か勘違いしてたのかも知れない。そう、勘違いしてた」
「では、そういう事で」
「は、はい。失礼します」
最後は敬語になって逃げていく男達。
いつも思うけど、誰が悪いのかという話だな。
「本当、俺も中学生と付き合いたいね」
シャツをしまいながら鼻で笑うケイ。
サトミは彼を厳しい目付きで睨み、こちらの様子を窺っている女の子に小さく手を振った。
さっきの連中は今の脅しで大丈夫だとは思うが、外部からのアクセスを相当制限したんだと思う。
「だけどさ。この教室に、私達がいるのは調べればすぐに分かるでしょ」
「何も知らない馬鹿か、知ってやってる馬鹿か。誰かに煽られてやってるのか。なんにしろ、授業が潰れて結構だね」
「英単語、1000回書いてきなさい」
「宿題だってさ」
「あなた、一人だけです。では、続き」
さらっと流し、授業へ戻る教師。
ケイの陰気な視線は一切届かず、授業は淡々と進められていく。
「あの外人、ただじゃおかん」
「意味が分かんない。それより、さっきの話」
休憩時間中、改めてさっきの話を蒸し返す。
あれが偶然なのか、それとも意図的な要素が含まれているのか。
前者ならこの学校も相当末期的で、かなりのペースであんな事が起きてるという証明になる。
後者は個人的に相当問題で、ただひたすら気分が悪い。
「それだけ恨みを買ってるんじゃないの。数え上げたらきりが無い。執行委員会、自警局、今まで捕まえた連中、ドラッグの売買組織、マフィア、親睦会。空手部」
「舞地さん達は」
「それは筆頭だ」
そう言いつつも、初めには上げなかったケイ。
もしかすると彼なりの配慮。
意識しない部分でのブレーキが掛かったのかも知れない。
「だとしたら、話を聞くしかないでしょ」
「聞いて、実はこういう理由なんですって涙を流しながら教えてくれるとでも?それなら、初めから話してくる」
「だからって、今のままではどうにもならないじゃない」
「それは俺達が原因か?」
いつに無く真剣な顔で聞き返してくるケイ。
この場合の責任や原因を考えるとしたら、彼の言う通り私達よりも舞地さん達になる。
一方的に関係を断たれ、一方的に襲われて。
その原因まで求められては話にならない。
「やっぱり、会うしかない。H棟に行けばいいのよ」
「隊長だから、いるんでしょうね。ただ、風間さんはF棟に必ずいるって訳でもなかったわよ。それを言うなら、塩田さんも」
「いや。タイプ的に出歩かないし、居場所を隠すような人ではない」
根拠や確信がある訳ではない。
単に経験から来る勝手な推測でしかない。
ただそれは確信にも近い考え。
彼女はきっとこう思っている。
私はここにいるから、話があるのなら自分から来いと。
だったら私はその誘いに乗るだけだ。
放課後。
G棟の元資料室である本部で考えを練る。
H棟の内部については情報があり、データはまだ端末に残っている。
また構造としてはそれ以外の教棟と殆ど同じで、隊長室の場所も分かっている。
問題は、H棟が立ち入りを制限している点。
もしかするとこのために、なんて疑ってしまいたくもなる。
「入り口は複数あるから。いや、顔を覚えられているか」
以前プリントアウトした見取り図を広げ、ペンで玄関をマーキングする。
メインとなる正面玄関が、教棟の中央に一つ。
その真裏に、同じく一つ。
後は長方形をしている教棟の側面に一つずつ。
それ以外に非常ドアが幾つかあり、大きな機材を搬入するための日頃は使わない扉もある。
「窓から入る。冬は、内側から鍵が掛かってるかな」
こう考えると、気付かれずに建物に入るのは意外と難しい。
全ての玄関に人員を配置してパトロールをすれば、不審者は必然と排除出来る。
この場合の不審者は、私達になる訳だが。
ただし単純に進入するだけなら、強行突破すれば済む。
「やっぱり、正面玄関から入る」
そう宣言して、見取り図と端末をしまう。
決めてしまえば後は実行するだけで、余計な事を考えても仕方ない。
「行って、どうするの」
「話を聞く」
「聞いて解決するの」
「聞かなければ、何も分からない」
彼女達の思惑は分からないし、語ろうともしてくれない。
何らかの理由があっての事だとしても、言わない事には伝わらない。
そして、万が一の話として。
彼女達が私欲で学校側に付いた、執行委員会に従っているのならそれを糺す。
思い上がりでも何でもない。
それが私に託された事。
先輩達から受け継いで来た事だから。
「正面から入って、そのまま隊長室を目指す。小細工はしない」
「止められるわよ」
「俺に任せろ。別な玄関から入ってやる」
部屋の隅にいた風間さんはそう呟き、硬い表情のまま背を向けた。
「それは助かるんですけど」
「俺の迷惑とか、周りの迷惑とか。そういう事を気にしてる段階でも無いだろ。連絡があり次第突入する」
「済みません」
「先に行ってるぞ」
素っ気なく手を振り、部屋を出て行く風間さん。
私もプロテクターとスティックを確認し、サングラスをテープで固定する。
こういう時のために、ゴーグルを用意した方がいいかもしれないな。
「付いてくる人は」
強制はしないし、出来る事でもない。
風間さんは学校の事として捉えてるし、多分それは間違ってない。
ただし私の行動理由は、舞地さんへの感情。
だから強制も命令も出来ない。
お願いもしない。
それでも何人かが準備を始め、私を見ながら頷いてくれる。
それぞれの思い。
託された願い。
そして、私に託された思いを受け止める。
事前に決めた通り、隠れる事も無くG棟の正面玄関へとやってくる。
そこを固めていたのは、数名のガーディアンと保安部の生徒。
私達の事は分かっているらしく、ただすぐに拘束するという事はない。
「中に入りたいんだけど」
行く手を阻むガーディアン達。
完全にこちらを制する動きで、露骨な敵意は見せないが友好的な態度でもない。
「失礼ですが身分を証明する物と、ここを訪れる理由をお聞かせ願えますか」
「IDはこれ。教棟の隊長、舞地さんに会いに来た」
「アポイントメントは」
「取ってない」
顔を見合わせるガーディアン達。
ただし予想していたという表情で、全員が腰の警棒に手を掛ける。
「申し訳ありませんが、許可がない限りはお通し出来ません」
「力尽くで通ると言ったら、それでも止める?」
「そう命令されていますので」
「良い覚悟と言いたいけど、私達も下がらないわよ」
スティックを抜いて逆手に持ち、体を返して横に振る。
私と向き合っていた子の警棒を叩いて手を痺れさせ、スティックを引き戻し様近付いてきた子の警棒を叩く。
同じような事をショウと御剣君が行い、玄関を固めていた全員が手を押さえる結果となる。
「あなた達の覚悟は分かった。だけど、まだ続けるというのなら私達も本気になる。それでもいいなら、掛かってきて」
一歩前に出る私達。
気圧されたように左右へ割れるガーディアン達。
当然と言えば当然の反応で、また無理はするなと言う指示を受けてるかも知れない。
教棟の中は至って普通。
空き教室では生徒が楽しそうに話をして、大きなバッグを担いだ生徒が玄関へ急ぎ、人気のない廊下の片隅ではカップルが仲睦まじげに窓の外を眺めている。
監視されている雰囲気はなく、空気も張りつめてはいない。
急ぎ足で廊下を通り抜け、エレベーターの前までやってくる。
その隣には階段。
移動の速さでは、エレベーター。
止められるという危険性を考慮しなければの話だが。
「雪野さん達は、エレベーターで。俺は階段で行きます」
「お願い。ケイ、付いていって」
「ちっ」
舌を鳴らし、御剣君の後を追うケイ。
私とショウ、そしてサトミはエレベーターへと乗り込む。
「……私です。今、エレベーターに。……大丈夫かと。……はい」
風間さんに連絡を取り、突入した事を告げる。
返ってきた音声の感じからして、彼は事前に教棟内へ入っていた様子。
「モトちゃん、そっちは。……分かった」
本部に残っているモトちゃんからは、異状は無いとの返事。
木之本君はH棟の周辺に待機していて、教棟外の異変もないとの事。
後は隊長室へ急ぐだけだ。
顔を腕で覆い、開いていくドアの外を警戒する。
ゴム弾が乱れ飛んでくる事はなく、人の姿すらない。
かなり上の階なので、ケイ達もまだ到着はしていない。
ここから隊長室まではほぼ直線。
ただ気になるのが、壁際。
正確には廊下のかなり先まで続く、ガラス張りの壁。
外の景色を一望出来る、贅沢で気持ちの良い場所ではある。
しかし一つ思い出すのが、以前の出来事。
あの時は呼び出されて、これと同じような場所へと辿り着いた。
謎の集団から不意打ちを受け、その後舞地さんに惨敗した苦い記憶。
今回は私達が勝手に押しかけたという違いはあるが、ここに誘い出された気はしないでもない。
それは全員が分かっているのか、ガラス張りの壁を見つめたまま前に進もうとはしない。
「サトミはここで待機。ショウ、マスクかゴーグルは」
「ハンカチしかないぞ」
額に緩く巻かれるタオル。
ショウはそれを少し垂れ下げ、目元を覆うようにした。
私はサングラスがあるので、多少の事では問題ない。
「お待たせ。……どうかしました」
あの場にいなかった御剣君は硬い表情の私達に戸惑いつつ、喘ぎながら付いてきたケイを振り返る。
「何でもないさ。窓ガラスを割って不意打ちを受ける可能性がある。それと、下から挟撃されるかも知れない」
「じゃあ、後ろは俺が」
「頼む。……木之本君。……そう。……分かった。屋上に誰かいるらしい。ただ殴りあってるようだから、落ちる可能性はあっても降りてくる事はない」
物騒な事を言い端末をしまうケイ。
全ての準備は整った。
後は、たった一つ決断をするだけだ。
そしてそれは、私に委ねられている。
引き返すのなら、まだ間に合う。
うやむやにしたまま3月を迎え、卒業を待つ事も出来る。
だけどそれなら、舞地さんは隊長を引き受けなかったはずだ。
彼女が敢えて引き受けた理由。
私達に託そうとしている事。
そう。自分達を犠牲にしてまでも。
私はそれに応え、報いなければならない。
思い上がりでも思い込みでも良い。
それは私にだけ分かる。
私と彼女だけが分かっていればいい事だ。
だから私は前を指さす。
そして伝える。
「舞地さんに会いに行く」と。




