32-10
32-10
翌日。
朝から第3日赤を訪れ、表示板を頼りに精神科へ向かう。
患者や付き添いの人で賑わっているロビーを抜け、エレベーターで地下へ。
そこを降りると、廊下は耳が痛くなりそうなくらい静まりかえっていた。
自分の靴音が辺りに響き、廊下の彼方へと吸い込まれる。
精神科という位置付け。もしくは世間的な印象を現す場所。
それは偏見だろうけど、私でも未だに多少の抵抗はある。
「ここかしら」
私の前を歩いていたお母さんが足を止め、壁に手を触れる。
おそらくは、インターフォンを押したんだと思う。
診察は完全な予約制で、他の患者とは一切顔を合わさないよう設定してあるとの事。
これは、学校のカウンセラーと同じシステムだ。
音もなくスライドするドア。
一瞬のためらい。
しかしすぐに意を決し、部屋へ足を踏み入れる。
部屋の中は、内科や眼科とそれ程大差はない。
ただ治療器具が一切無く、その代わりに大きなロッキングチェアが自然と目を引く。
「初めまして。治療ではないので、気楽にして下さいね」
ラッキングチェアではなく、自分の前にある椅子を示す若い女医。
言われるままそこに座り、サングラスへ手を掛ける。
「いえ、そのままで結構です。簡単に説明は聞いてますが、この通りで間違いないですね」
「ええ」
「過去に、そういう経験は」
「覚えている限りでは、ありません」
電子カルテにペンを走らせる女医。
少しの居心地の悪さ。
しかしここに来たと決めたからには、何があろうと受け入れるしかない。
私の緊張を読み取ってか、女医は笑顔を浮かべて肩に手を触れてきた。
「お茶飲みます?」
「いえ」
「では昨日学校の病院でもらったテストを見てみますので、ちょっと待って下さい」
お母さんが渡した回答シートを機械へ通す女医。
内容は良く分からないが色々な心理テストで、それが目の前で結果が出るというのは緊張する。
「……なるほど」
卓上端末のモニターを見て、小さく呟く女医。
その一言一言に反応してしまう自分。
少し、過敏になっているようだ。
説明付きで表示される、いくつものデータ。
分かる物もあるが分からない物もあり、どちらにしろ治ってはいないらしい。
「特に、問題となるような兆候は見られませんね。多少ストレスが掛かった状態にはあるようですが、日常生活の範囲内です」
「大丈夫、なんですか」
「ええ。ただ医者としてこういうと問題ですが、心の中はそんな簡単に分かるものでもありませんから。テスト結果やお話を聞く限りでは、気になる兆候は無いという事です」
何とも曖昧な話。
彼女の言いたい事は分かるが、だったらここに来た意味はあるのかと問いたくもなる。
「……ええ、入って」
端末に向かってそう呟く女医。
彼女は柔らかく微笑んで、私達が入ってきたドアへ視線を向けた。
「カウンセラーを呼んであるんですけど、よろしいですか」
「ええ、構いません」
断る理由もないし、初めからその気なら私は従う以外の選択肢もない。
音もなく開くドア。
綺麗な、心地良い足音。
一瞬爽やかな風が吹き抜け、肩に軽く手が添えられる。
「調子はどう?」
「可も無く不可もなくです」
「なるほどね。まあ、暴れるのも悪くはないよ。最近は何でも我慢して、余計におかしくなる人もいるからね」
笑いながら、私の前に回り込んでくる秀邦さん。
ここは草薙大学医学部の大学病院も兼ねていて、彼は草薙大学の心理学部助教授。
カウンセラーの資格を持っていても不思議はない。
「俺は臨床系の才能はないから、カウンセリングはしないんだけどね。優ちゃんが来るって聞いて。俺も同席して良いかな」
「それは全然」
「じゃ、テストを見せてもらおうか」
机に手を付き、卓上端末の画面を覗き込む秀邦さん。
視力が低下しているので表情までは読み取れないが、いつにない真剣な雰囲気は伝わってくる。
「……特に、問題はないね。少し内罰的な傾向はあるけど、気にする程でもない。不安のスコアが若干高いのは、一時的な物だと思う」
モニターの数字を指さしながら説明する秀邦さん。
私にはぼやけた数字の羅列にしか見えず、またそこから特別な情報を読み取る事は出来ないが。
「いわゆるパニック障害だと、逆に体が硬直して動けなくなるんだけど。優ちゃんの場合は少なくとも、その事態に反応はしてるからね。殴り倒したのはともかく、絶対的な問題だとは俺は思ってない。小瓶は、目を悪くしたきっかけだよね」
「ええ。薬を浴びて」
「それを克服する治療法もあるにはあるけど、無理をして治す程でもない。どうしてもというのなら、治療プログラムを考えるよ」
「いえ。そこまでは」
問題がないのなら、とりあえずはこのまま今の自分と付き合っていたい。
小瓶が四六時中振ってくる訳ではないし、また私に対して小瓶を使うのは敵意のある証拠。
それで相手がどうなるかまでは、私には関係ない。
秀邦さんは小さく頷き、ペンを手の中で回しながら口を開いた。
「ただ、あまり続くようなら治療も視野に入れる。先生、それで」
「あなたが責任を持つのなら、私から言う事はないわ。どちらにしろ、記憶がないという自体が普通でないという事だけは覚えておいて」
診察を終え、エレベーターで上の階へと向かう。
今度は眼科の診察に。
エレベーター内には、秀邦さんも乗っている。
「厳密に診察すれば、どんな人間でも何らかの問題は抱えてるからね。その程度というより、自分と周りの人がそれを問題視するかって考え方もある」
「誰も問題と思わなければ良いんですか」
「迷惑を掛けないという意味においてはね。医学的な問題を抜きにすればの話。ゼミ生の研究テーマにも出来る、ありがちな事だよ」
私達を先に下ろし、優雅な足取りで続く秀邦さん。
少なくとも眼科に用は無いはずで、私達に用があるのかな。
「目、悪いんですか」
「見聞を広めるのも悪くないと思ってね。不埒な医者がい無いとも限らないし」
「ここで、そういう先生に出会った事は無いですよ」
「昔はいたんだ。懐かしいな」
何が懐かしいのか知らないし、どんな経験をしてたんだか。
眼科の前で待つ事しばし。
何故か、診察室にまで付いてくる秀邦さん。
とはいえ断る理由もないし、肩書きは大学の助教授。
医師としても断りずらい相手かも知れない。
「俺の事はお構いなく」
「では。……結果は昨晩と同じ。悪くはなってませんね」
「視神経の培養は、やはり難しいですか。それとも移植が難しい?」
「移植ですね。人間の体を信じれば、移植さえ成功すればその後も問題なく神経が結合していくと思いたいんですが。動物実験のデータでは、はかばかしくなくて」
「視覚野のエラーですか、それとも神経側の。既存の神経との結合が上手く行かないとか」
「視覚野に関しては比較的柔軟に反応をしてくれます。ただ神経系は、色々問題がありまして。まず第1に、シナプスでの異常反応ですね。神経インパルスの放出が実際の情報とは異なるケースが」
なにやら二人で話し始める、医師と秀邦さん。
予想はしていたが、私のデータで話し込まないで欲しい。
「あの、帰って良いですか」
「ああ、失礼。何かあったら、すぐに医者へ。それと、サングラスは出来るだけ外さないように」
「このデータ、持ち帰って」
「駄目です」
きつい声を出して秀邦さんを睨み、スティックを肩に担ぐ。
医師は笑ってるが、秀邦さんは慌てて後ろに後ずさった。
この辺は、データと実体験の差が出たな。
そのまま学校へ向かい、どうにかお昼休みには間に合った。
「兄さん?どうして」
「サトミが連絡したんじゃないの」
「まさか。何か、変な事されなかった?」
相変わらず秀邦さんには厳しいサトミ。
とりあえず未然には防いだので、余計な事は口にしない。
「治療はしないのね」
「特に問題はないって。内罰的だってさ」
軽めにお茶漬けをすすり、サングラスを拭く。
曇っても困らない程の濃さだが、あまり見た目が良い事でも無いので。
「とにかく、当分これで行く」
そう宣言し、残りのお茶漬けをかき込む。
これは自分に対して言い聞かせる意味も含めて。
午後からは体育。
今日も体育館なのは助かるが、こっちは歩くのもやっと。
今まで同様壁際でベンチウォーマーにくるまり、小さくなる。
二階の観客席から差し込む日差しが暖かく、じっとしていると眠くなる程。
やる事もないし、せっかくだから少し寝よう。
「お休みかな」
「へ」
口元を押さえ顔を上げると、逆光の中にシルエットが見えていた。
シルエットは逆光から外れ、やがて目が慣れてくると誰かが理解出来る。
「沢さん?」
「体育の履修が遅れててね。混ぜてもらった」
「大学卒業資格はあるんですよね」
「僕にも色々事情があるんだよ」
苦笑して、目の前に腰を降ろす沢さん。
体育というのは口実で、私に用があるのかも知れないな。
「目の調子は悪そうだけど。長引きそうかな」
「突然良くなる物でもないので。治るにしても、数日は掛かると思いますよ」
「見えてはいる?」
「ぼんやりとは」
意図がはっきりしない質問。
端的に言ってしまえば、私の目が悪くても彼にはそれ程関係もないし影響はない。
先輩としての気遣いだとしても、それは少し唐突過ぎる。
「……本当に見えてない?」
「ぼんやりとは見えてます」
同じ言葉を繰り返し、顔の前にかざしたスティックを下ろす。
沢さんの拳が、目の前から消えた後で。
「失礼。今のは、目に負担だったかな」
「多少は。でも、続けたいなら構いませんよ」
「結構。僕もまだ、死にたくはないからね」
くすりと笑い立ち上がる沢さん。
少し意味ありげな口調。
警戒した方がいいのか、何かを聞くべきか。
「沢さん」
「敵に回る気はないよ。それと、サングラスが不満なら透過性のグラスを作ろうか。視神経に問題がありそうな部分はカットする物を」
「お金無いんですけど」
「僕からの気持ちって事で。医療部と相談してから届けるよ」
遠ざかる足音と気配。
肝心な部分は聞きそびれたが、むしろその方が良かったのかも知れない。
対処するには、聞いた方が良いのは分かっている。
ただ彼が私に話さなかった事の意味があるはずだ。
それが何かは分からないけど、心構えは出来た。
後はそれに備え、立ち向かうだけだ。
帰りのHRが終わり、筆記用具をリュックにしまっていると教室に少しのざわめきがあった。
そのざわめきは少しずつ移動し、私のそばにまでやってくる。
「今日から、H棟に行かなくていいわよ」
事務的な、感情の一切含まれない池上さんの声。
再び流れていくざわめき。
私は席を立ち、両手で机を叩いた。
「冗談でしょ。まだ、何もしてないじゃない」
「私達もすぐに、あそこから引き上げる。それで、あなた達が残る理由はある?権限、とは言わないわ」
「理由も無いも、あの状態で放っておいていいって言うの?あそこが今どうなってるかは分かってるでしょ」
「撤収するよう命令があったのよ。だったら、それに従うしかないわ」
「命令?そんなの」
「それを無視して、どうなると思う。気分は良いかもしれないけどね」
いつに無く冷たい、冷めた口調。
自分を押し通せば、必ず報われる。
正義は貫き通すべきだ。
そんな理屈は通用しないと、彼女ははっきりと告げている。
命令に逆らってまであそこに居座れば、私達は処分の対象になる。
言うまでも無く、彼女達も。
「そういう事だから。目の調子も悪くて、ちょうど良いでしょ」
「それとこれとは、話が」
「一緒でも違ってても、同じ事よ。じゃ、またね」
遠ざかっていく声とざわめき。
後を追おうにも、今の自分に教室の机と廊下の人ごみを避けて彼女に追いつく自信は無い。
そんな自分に何が出来るのかと言われている気すらしてくる。
「今の話は?」
静かに押さえ気味に尋ねるサトミ。
相手は勿論、モトちゃんだろう。
「私も、今聞いた。退去するようには、何度も言われていたけど」
「無理やりなのは、初めから分かってた事でしょ」
「時間との勝負に負けたって事ね。自警局との交渉は続けてるけど、H棟の隊長を追い出すまでには至っていない」
「無理に居座れば?」
「処分の対象になるのは明らか。それが停学で済むのか、退学にまで行くのかは分からないけど」
ため息交じりのやるせない返事。
席を立つ音がいくつかして、私の腕に軽く手が添えられる。
「立てるか」
「足は大丈夫なの」
多少の虚しさを感じつつそう答え、リュックを背負いショウの腕にすがる。
私がやってきた事。
私の気持、思い。
そんな事は、何の価値も無い。何の意味も持たない。
それをはっきりと教えられた。
自分達の無力さを。
この学校の現実を。
それに抗う力の無い自分達を。
G棟の本部にやってくるが、一様に空気は重く会話は無い。
こうなってしまうのは、言ってしまえば予想は十分に出来た事。
今更落ち込んだり悔しがったりする事ではないかもしれない。
だけどその現実を目の前に突きつけられ、それでも平静を保っていられるだろうか。
何もかもへの疑問。
こうしてここにいる事すら、どんな意味があるのかと言ってしまいそうになる。
今置かれている私達の立場を考えれば、そちらの方が当然行き着く論理。
ガーディアンではなく、この部屋も無理矢理確保したようなもの。
委員長との口約束が全てで、向こうがそれを無かった事にするといえばそこまでの話。
今すぐここに、生徒会ガーディアンズや保安部が入ってきても何もおかしくは無い。
でも、私達はまだ良い。
今の体制に従わないと決め、処分される覚悟を持っているのだから。
でも、H棟の生徒達はどうだろう。
あそこを利用する生徒達は、そんな覚悟を決めている訳ではない。
普通に学校生活を送り、毎日を過ごし、卒業する。
学校に逆らう事を前提に、あそこにいる訳ではない。
だからこそ彼等は、理不尽な仕打ちをされても従うしかない。
卒業するまでの辛抱。それまでの我慢。
少しくらい自分を曲げても、処分を受けるよりはましだから。
言う事を聞いていれば、波風は立たないから。
そうする以外に、道は無いから。
学校が望む従順で素直な生徒。
だが、それは本当にそうなのだろうか。
表面上さえ従っていれば、心の中で何を思っていてもいいのか。
本当にそれが、教育と言えるのだろうか。
何より、そんな事が許されるのか。
「ユウ、聞いてる?」
「え」
不意に、目の前へと現れるサトミの顔。
どうやら物思いに耽りすぎていたようだが、時間としてはどれ程も経ってない。
自分では1日くらい経ってしまったような錯覚すらあったのだが。
「調子悪いの?」
「いや、全然」
この距離。
息が掛かるらいの距離なら、普段と同じくらいに見る事は出来る。
彼女の白い肌が陰って見えるのは、単純にサングラスのせいだ。
「次は、ここを追い出されるって話?」
「何の話かは知らないけど、今のところそういう事にはなってないわよ。勿論非公式に工作はされているけど」
「そう。どっちにしろ、はかばかしくないね」
机の上に手を置いて、その辺りをまさぐってみる。
すぐに感じる、スティックの感触。
これさえあれば、何でも出来る。
そう思い込みたいだけだとしても、今は私の一番の拠り所だ。
「この後H棟はどうなるの?」
「交渉は続けてるし、前も言ったように自警局全体が今の状態を良いと思ってる訳じゃない。あの隊長はいずれ切るにしろ、ああいう雰囲気。生徒会が圧倒的な力を持って、他の生徒がそれに従うという関係は維持されるかもしれない」
重い口調でそう語るモトちゃん。
生徒会の言い分としては、こうか。
駄目な隊長は、我々の決断で追い出した。
これからは、みんなの意見を聞いてより良い学校生活を作っていこう。
そのためには私達も努力するし、君達も努力して欲しい。
次に現れる隊長が少し甘くすれば、今までとのギャップでH棟の生徒達はそれを歓迎する。
そんな事が学校全体で行われる予兆なんだろうか。
「隊長を交代させても、意味無いんだよね」
「どうしたの、急に」
「だって次に来る人が同じ事をやれば、そのままじゃない。根本的に体制を変えない限りはどうしようもないでしょ」
「そういう話。勿論、考えてはいるわよ。むしろ、そのためにこの組織があるんだから」
当たり前だが私がようやく辿り付いた結論に、彼女達はかなり以前から取り組んでいるらしい。
いや。私が単に忘れていただけか。
ただし今の状況を見る限り、成果はあまり上がってないようだが。
「H棟は、どうするの」
「自警局に意見は述べ続ける。隊長も交代させる」
「それで、何か変わる?」
「変えた気になる」
その呟きへ突っ込みそうになるが、すぐにモトちゃんは話をつなぐ。
「すぐに全てが解決するのなら、誰も困らないの。地味に一つ一つ積み重ねていくのが大切なのよ」
「そうかもしれないけどさ。目の前に困ってる人がいるのも事実でしょ」
「残念ながら私達は万能じゃない。そういう現実も、またある訳よ」
それは諦めなのか、苦渋から出た言葉なのか。
どちらにしろ、私には納得出来ない。
だが彼女の言う通り、自分に出来る事は限られる。
H棟に行っても出来る事は無く、それこそ立ち入る事すら制限されるかもしれない。
私には何も出来は。
いや。そうじゃない。
自分で出来ないと決め付けていただけだ。
勝手に制約をしていただけで、逃げていただけに過ぎない。
そう。
私にだって、まだやれる事はあるはずなんだ。
「自警局との交渉は?」
「今から」
「私も行く」
「熱でもあるの」
額に手を当ててくるモトちゃん。
その手が下がると、サトミも頬に手の甲を添えてきた。
「あのね。私も言いたい事の一つや二つはあるんだって。ただ、そういう場所に行きたくなかっただけ」
「心変わりでもしたの?」
「モトちゃん達ばかりにやらせてても仕方ないと思って。私にも、少しくらいは出来る事があるんじゃない?」
「人数が多い方が、助かるには助けるけど」
「それは、そうね」
気まずそうに顔を見合わせ、改めて私に視線を向けてくる二人。
ずっと親友だと思ってたけど、それは私の一方的な思い込みだったらしい。
机を指で叩き、気持ち二人に抗議する。
「私を信用してよね」
「分かったけど、条件を出すわよ。スティックは交渉が始まる前に私かサトミに渡す。何を言われても暴れない」
「時と場合に、寄らないね」
「分かってくれて嬉しいわ。サトミ、他には?」
「怒っても、顔に出さない。寝ない、睨み付けない」
なんか一気に、やる気がしぼんできたな。
どうやら勢いだけで何かを始めるのは、その勢いを削がれた時点でもう終わった気分になってくる。
「嫌なら良いのよ、無理しなくても。出来ればここにいる全員には来てもらいたいけど、人間向き不向きがあるから。私も暴れてる生徒を取り押さえるのは逃げ手だし」
優しい声でフォローしてくれるモトちゃん。
それでも私は断固として首を振り、席を立ってスティックを伸ばした。
「どこだろうと、誰だろうと相手になる」
「プロレスラーみたいな事言わないで。それと目の調子が悪くなったら、すぐ言って」
「分かってる。で、相手は誰」
すでにイメージはしているが、聞くのは自由。
もしかしたら、私の想像とは違う答えが返ってくる可能性もある。
せめて、それくらいの希望にはすがりたい。
自警局自警課。
その奥にある小さな会議室。
彼等は正面を背にし、私達はドアのそばで彼等と向き合う。
お互いに長方形の机を向き合わせて座るという、対決姿勢の濃いスタイル。
勿論これが円卓所の机だからといって、途端に空気が和む訳でもないが。
「今日からは、雪野さんも参加するのでよろしく」
穏やかに説明をするモトちゃん。
視覚的にはっきりとは見えないが、向こう側に座っている生徒達のあちこちからは動揺の空気が伝わってくる。
「中央が矢田君、その隣に前島君。後は矢加部さん。ここまでが中心人物で、後はこの前丹下ちゃんのところで訓練に参加した女の子もいる」
予想通り、どうにも相性の悪い人間が揃ったな。
ただしそれは向こうが言いたい事だろうし、予想はしてた。
ある意味、見えてなくて助かったんじゃないだろうか。
「では、昨日の続きから。内容を忘れた方は議事録を参考にして下さい」
甲高い声で進行をする矢加部さん。
私はサングラスに書類を近付け、こまごました字を読んでいく。
どうやら同じような内容を毎日話してて、それが全然進展してない様子。
ただこの顔ぶれだと、私達に好意的とは思えない。
本当に、自警局内にも私達に賛同してくれる人はいるんだろうか。
「隊長解任については、今週中にも実行します。ただ後任の隊長については……」
「もう、そこまで話は進んでるの?全然駄目みたいな事言ってたじゃない」
「後任もそうだし、生徒会の体制が現状通りなら意味がないでしょ。私達は彼等と敵対するのではなくて、協調関係を築きたいの」
「誰と」
背筋に悪寒を感じ、顔を正面に戻すと矢加部さんがこっちを睨んでた。
はっきり見えないのに怒ってるのは分かるから、多分相当すごい顔をしてるんだろう。
とはいえ、そこはそれ。
こっちも、反射的に彼女を睨む。
「何か、仰りたい事でも」
「全然。話を進めて下さい」
「私語は慎むように。つまみ出しますよ」
「失礼しました」
お互いに鋭く睨み合い、舌を鳴らして顔を背ける。
間違いなく、彼女と協調関係を結ぶのは不可能だ。
「では、話を戻します。後任の隊長は、保安部から選出。ただしそれについては、みなさんのご意見を参考にするという事でよろしいですね」
「現在の生徒会の体制、行動、意志決定。生徒会に対する様々な批判。それについての回答は」
「我々は自警局であり、生徒会の一機関に過ぎません。まずは、現在我々が直面している議題をクリアすべきです」
「分かりました。隊長の解任と後任の選出については、異論ありません。これは議題に即した事だと思いますが、身体検査やガーディアンの横暴な振る舞いについては」
「私達が管轄するガーディアンについては、断固処分致します。ただし保安部が管轄する方々については、我々の権限は及びません。またその勢力はご承知のように、現在かなりの数に上っています」
話し合いというよりは、モトちゃんと矢加部さんの意思確認といった感じ。
ただしいきなりここに行き着いた訳ではなく、彼女の言う地道な積み重ねがあってここに至ったのだろう。
私が漫然と過ごしている間に、彼女達はこうして一つ一つ成し遂げていった訳だ。
いや。待てよ。
机を叩いて注意を喚起し、改めて矢加部さんに睨まれる。
「保安部はいるじゃない。いるなら、取り締まればいいじゃない」
「保安部内にも何系統かあるの。彼は、その中でも決して主流ではないわ」
「例の金髪が主流って事?」
「ええ。ここにいる人は、比較的私達と同じ意見よ」
そんな物かと思いつつ、古い議事録に目を通す。
初めの方はかなり険悪というか、全くの平行線。
それが少しずつ意見の重なりを見せ始め、意見をすりあわせて今に至る。
これを読むだけでみんなの努力、頑張り。誠意。
そういった事が、心の奥にまで伝わってくる。
本当私は、この間に何をやっていたんだろうか。
話し合いは一旦休憩。
お茶とお菓子が運ばれ、私もようやくリラックス出来る。
「ずっとこんな事やってたんだね」
「私達はこれが仕事なの」
「私の仕事はなんなのかな」
机の上を手でまさぐり、お菓子を探す。
なんか固いと思ったら、ショウの手か。
「お久し振りです」
礼儀正しい、ただ若干ぎこちない声色。
ぼやけた視界の先には、小柄な女の子がその体を小さくさせて頭を下げていた。
「ああ。沙紀ちゃんの所にいた。元気?」
「私は。えと、目を悪くされてるとか」
「性格が悪いよりはましじゃないの」
そう答え、ケイにすごい顔で睨まれる。
ほら、言った通りじゃない。
なおも恐縮する女の子。
どうも、私達はイメージが良くないな。
「あの時は、その。私からは何も言えなくて」
「いいよ、気にしなくて。私達も人の事をあれこれ言える程、立派な人間でもないし」
「そう仰って頂けると助かります」
柔らかい。はっきりと見えていなくても分かる、暖かい表情。
彼女とは立場も違えば、考え方も違うだろう。
それでもこうして気持を通じ合い、お互いを認め合う事は出来る。
そこから生み出される関係こそが、きっと何より大切なんだろうと思う。
「出席してみて、どうでしたか」
少し笑い気味に話しかけてくる小谷君。
彼も発言はせず、ただ矢田君の隣に座っていた。
彼個人としては信頼出来るが、その立場は私からすれば少し複雑なところにある。
それは、小谷君も思っているだろうけど。
「あまり、彼女をいじめないで下さいね」
「別に、そんな事は。……知り合い?」
「同じ中学だったんです。つまり、この子も矢田さんの後輩に当たります」
その説明を受けて、彼女がどうして執行委員会にいるのかをようやく理解する。
一見何もしていないように見えて、一応は自分の勢力を伸ばす事はやっている訳か。
「正確には、藤岡さんの後輩なんですけどね。ほら、例の」
「ああ」
確か矢田君が思いを寄せていたという、やはり同じ中学校出身の女の子。
それはどうやら彼の一方的なものだったらしく、その彼女もすでにこの学校から去っている。
「余計な事言わないでよ。……失礼しました」
小谷君に文句を付けて、ふと我に帰る女の子。
この辺は落ち着いているようにも見えて、やっぱり普通の高校生なんだなと安心させられる。
「あなたから見て、この学校はどうなの?」
「取り立てて騒ぐ程、厳しいとも思えないんですけどね。やりすぎという気はしますが、他校だとああいった事を生徒ではなく教師がやってますから」
「それこそ横暴じゃないの。大人だろうと誰だろうと、やって良い事と悪い事があるじゃない」
「そうなんですけどね。大人というのは、つまりは教師。逆らえば成績に響く、もしくは響くと思えるじゃないですか。そうなれば、逆らう人間なんていませんよ」
仕方なさそうに笑いあう二人。
言っている意味は分かるが、納得出来る訳が無い。
それはむしろ、この学校の現状より悪質のような気もする。
「相手が生徒なら、多少は抗議がしやすいですからね。雪野さん達も、相手が先生だったら少しは遠慮しますよね」
「え?」
「違いました?」
「いや。するよ。先生に逆らうなんて、そんな」
虚しく響く私の笑い声。
笑い事ではないというか、中等部の頃をふと思い出した。
あれはもう、逆らうとかいうレベルではなかったな。
「先生でも誰でも、関係ないとか?」
「いや。そんな事は無いよ。サトミやモトちゃんには従順だし」
というか、この子達に逆らえる子がいたら連れて来て欲しい。
もしかして彼女達へのストレスが、外向きに爆発してるんじゃないだろうか。
そこでふと、今日のメンバーに意識が及ぶ。
「あの子はどうなの。前島君」
「良い人ですよ。少しとっつきにくいですけど」
笑いつつ彼を振り返る小谷君。
向こうもその視線に気付き、軽く会釈を返す。
顔を合わせる機会が多い分、私達よりは距離を近く感じあっているのかもしれない。
「でも小谷君の場合だと、あの子が上に突然やってきたんでしょ。やりにくくない?」
「勝手な振る舞いをする訳ではないですし、指示も理に叶ってます。自警局内では、彼のシンパも多いですよ」
「じゃあ、矢田君のシンパは」
「さあ。俺くらいじゃないんですか」
さっきの私並に、虚しそうに笑う小谷君。
女の子もは少し冷めた顔で、彼を見つめている。
同じ学校ではあるが、矢田君に対する姿勢は少し異なるようだ。
彼女の場合藤岡さんの後輩なので、それも当然といえば当然だが。
「では、そろそろ始めます。皆さん、席にお戻り下さい」
矢加部さんの言葉を受け、席に戻っていく小谷君達。
彼等のような子がいる限り、もし私達がこの学校から去っても大丈夫だと思う。
後を託すというほど何かをした訳ではないけど、自分達の思いを受け継いでくれるのは彼等だと思うから。
司会は依然として矢加部さん。
良いけど、なんか嫌だ。
「続いて、学校外生徒。通称傭兵と呼ばれる生徒達に対して、何かご意見はありますか」
「彼等は一般生徒と同様に扱う。私達の見解は、それだけです」
静かに返すモトちゃん。
矢加部さんはそれに頷き、それとなく矢田君へと視線を向けた。
「何か、ご意見は」
「特にありません」
木で鼻をくくったような台詞とは、多分こういうのを言うんだろう。
ただし関心が全く無い訳ではないらしく、話し合いが続いている間手元は動いていた様子。
あくまでも自分の意見を言わないだけで、内面ではおそらく色々と考えているようだ。
どちらにしろ、態度を表さないのはあまり褒められた事ではないと思う。
「学校外生徒は一般生徒と同様に扱う、という点に関しても?」
「構いません。それとも、何か不都合でも」
「いえ。確認しただけです。では、次の議題。現在皆さんが使用されている……」
不意に開くドア。
入ってきたのは武装した集団ではないが、私達の注目を引くには十分な人達。
「全員そのまま。会合は、現時点を持って解散。今後の開催も必要なし。異議は認めない」
矢継ぎ早に台詞を並べ立て、私達を見回していく池上さん。
鋭い眼光が私を捉え、切れ長の瞳がすっと細められる。
「雪野さん動かないで」
雪ちゃんでもなければ、優ちゃんでもない。
彼女が私を呼ぶのに、「雪野さん」という呼称を使ったのは多分初めて。
表情は厳しく、うかつに話しかける事すらままならない雰囲気。
冗談だったと言い出しそうな様子は微塵も無い。
「今までの決定及び合意事項は全て破棄。議事録も削除。バックアップも同様」
「それは、誰の指示でしょうか」
池上さん以上に静かなトーンで尋ねるサトミ。
違うのは、彼女の瞳が燃え上がっている事。
二人の視線が激しくぶつかり、そしてどちらもをそれを逸らそうとはしない。
「執行委員会において、今日決議した。もう一度言うけど、異議は認めない」
「質問はよろしいんですか」
「認める」
固い、今までの彼女とは全く違う口調。
サトミはそれには反応せず、席を立って数歩彼女の方へと歩み寄った。
「今までの決定と合意事項を破棄する理由は」
「執行委員会の意向、趣旨に沿わないと判断した。よってこれ以上の話し合いは無意味で、当然そこで行われた決定も無効になる」
「会合自体は、執行委員会も認めていたはずですが」
「趣旨に反すると言った。それから逸脱する以上、一切の例外は認めない」
「分かりました」
言葉ではそう答えるが、サトミの瞳は鋭いまま。
しかし池上さんが譲る気配も無く、ただ緊張感だけが高まっていく。
「議事録は」
「破棄完了しました」
素早く返す保安部のIDを付けた女の子。
この間の食堂で会った子で、前島君の部下だと思っていた。
いや。こうなると、彼も初めからこの事態はわかっていたという事か。
「前島君、以上でいいかしら」
「結構です。俺としては話し合いを続行したいのですが、決定が下った以上それに従うしかありません」
「自分の意志も関係無しに?」
「そういう契約ですからね」
素っ気無く答え、女の子からの報告を受ける前島君。
悔しさや怒りは感じられず、ただそれ以外の感情を見せもしない。
ただ、彼の事はこの際いい。
「じゃあ、池上さんは誰の命令で動いてるの」
「さっきも言ったように、執行委員会よ。生徒会長がいない今、彼等が私達に命令を下す立場にある」
「だからって」
「今聞いたでしょ、契約だって。あなたが違約金を払って身分を保証してくれるのなら、それに従うわ」
出来もしない事を言うなという顔。
子供をあやすような態度ではなく。
もっと冷たい、無機質な。
「以上ですが、局長」
敬語を使い、矢田君に顔を向ける池上さん。
彼女は局長直属のガーディアン。
また今の台詞を聞く限り、彼女は彼の部下にある。
結局は、そういう事だった訳か。
サトミやモトちゃんが頑張って、積み重ねて、努力をしても。
力を持つ者の前では、何の役にも立たない。
少なくとも、そう思われている。
「分かりました。会合は本日で終了。全ての決定は無効で進めて下さい」
彼は私達とは違い、おそらく異議を申し立てられる立場。
その意見は、池上さんも前島君も耳を傾けるだろう。
しかし彼は何も言わず、現状を追認する。
それは賢く、正しい生き方かもしれない。
自分の地位を掻けてまで抗う価値がないと思ってるのかもしれない。
だからこそ、私とは相容れない。
「浦田君、立って。壁際で両手を上げて動かないで」
言われた通りに席を立ち、壁に手を付くケイ。
池上さんは警棒を腰から抜いて、それを片手にボディチェックを始めた。
「録音もさせないわよ」
「通常の端末しか持ってませんよ」
「どうだか」
ジーンズの後ろポケットにあった薄いカードを手に取り、それを二つに折る池上さん
ケイは微かに眉間へしわを寄せ、しかし何も言おうとはしない。
「バックアップについては全員の端末を調べるから、そのつもりで。例外は一切認めない」
「話はそれだけ?」
「それだけ。後は好きにすれば」
鼻で笑い、私を見下ろす池上さん。
今の彼女には何を言おうと無駄なのは分かる。
薄々分かってもいた。
指摘もされた。
だからその現実に向き合った今、私も冷静に振舞える。
やはり机を叩き、注意を喚起。
おぼろげな視界の中に、彼女を捉える。
「私は、そんな事は認めない」
「格好良いわね。でも、雪野さん一人で何が出来るの?友達は助けてくれても、他の生徒は見て見ぬ振りよ。都合の良いように利用されるだけで、危ないと思えばすぐに離れていくわ」
「だから見捨てろって?自分達だけよければ、それで良いって?」
「違うかしら。今のこの学校に、倫理観や情なんて言葉が存在する?彼が停学処分になった時、それにどれだけの人が手を差し伸べた?署名は集まった。でも、本当に自分の名前を書いてあった?後から消した人はいなかった?陰で笑っていた人は?大体、どうしてあんな事になったの?それは、生徒が彼を見捨てたからよ。自分さえ良ければ良いと思ってね」
静まり返る教室内。
それは全てが事実で、彼女の言ってる事が正しい。
一切の反論は出来ないし、それは私も嫌という程分かっている。
「だから、他の生徒を見捨てろって言いたいの。理不尽な仕打ちをされても、黙ってろって」
「頑張って、何か良い事でもある?誰かから頼まれた?ヒーローごっこも良いけど、大抵の生徒はこう思ってるわよ。張り切るのは勝手だけど、自分達には迷惑を掛けるなって」
「それは」
「一応、良い事も教えてあげる。H棟の隊長は今日付けで解任する」
池上さんは口を横へ裂き、低い声で笑うと自分の後ろを振り返った。
それまでずっと彼女のそばにいた。
だけど何も口を開かなかった人を。
「後任は、彼女に決定した。話は以上」
一方的に打ち切り、早足で私の前から去っていく池上さん。
その後を、舞地さんが静かな足取りで付いていく。
「どういう事よ」
「池上が言った通りだ。それ以外は何も無い」
「何も無いって」
「話は終わった」
冷たく固い壁のような空気。
彼女達は追いかければすぐに追いつく所にいて。
だけど今は、あまりにも遠い所に行ってしまった。
「舞地さん」
返事は返らない。
振り向きもしない。
言葉は彼女の背中に当たり、虚しく跳ね返ってくる。
私の中を通り抜け、遠いどこかへと消えていく。
気付けば矢田君の姿は無く、前島君も舞地さんと一緒に引き上げていった。
残っているのは私達と、自警局側は矢加部さんに小谷君くらい。
「言っておきますが、私はあの決定には関わっていませんので」
「じゃあ、誰が関わってるの」
「おそらく、前島さんは何も聞かされてないでしょう。局長はどうか存じませんが」
「ああ?」
「私に怒らないで下さい」
きつい顔で睨み付けてくる矢加部さん。
それもそうかと思い、少し矛先を変える。
「小谷君」
「俺は聞いてませんよ。あくまでも、執行委員会ベースでの話ですから。前島君は保安部の責任者だけど、主流じゃない。厄介ごとだけ背負わされているだけですよ」
「じゃあ、矢田君はどこまで関与してるの」
「あの人は、自分の意見を言わないタイプですからね。矢田さんの意見が反映されたとは思えません」
しかし何もしないのは、それを認めたのと同じ。
結局は、今回の決定を下した人と何も変わらない。
「このままでいいの?」
「良くは無い。だから、今度の会合が重要なのよ。自警局との会合ではなくて、規則案を話し合う会合が」
「向こうが、今度と同じ事をやったら?」
「また話し合う。それだけ」
静かに、全員へ言い聞かせるように答えるモトちゃん。
向こうの一言で全てが覆り、今までの事が無意味になった。
それでも彼女は諦めない、努力を惜しもうとはしない。
だったら私達は、それに従っていくだけだ。
「そういう事で。矢加部さん、悪いけど」
「私は別に。では、失礼します」
軽く頭を下げ、部屋を出て行く矢加部さん。
彼女は少なくとも私達寄りの意見を持ち、その趣旨に賛同をしてくれる。
それが自分の立場を危うくすると分かってもいるだろう。
多分彼女とは相容れないけれど、その姿勢だけは共感出来る。
「では、俺もこの辺で。本当、板ばさみで胃が痛いですよ」
「悪いわね。でも、あなたには期待してくれるから」
「どうも、ありがとうございます」
苦笑して去っていく小谷君。
確かに彼の立場は苦しくて、何より心情的にも辛いと思う。
だけどそれでも矢田君のそばを離れようとはしない。
そんな彼の頑張りを、ないがしろにする事は出来ない。
では、私には何が出来るのか。
それを問われると困るし、今は普段以上に何も出来はしない。
意気込みだけで空回りしているとまでは言わないが、それ程役に立つ存在では無いかも知れない。
冷たい夜風。
空に瞬く星は見えず、ただ冷たさだけが体を覆う。
寒さは今空がピークで、春はまだ遠い。
誰も口を開きはせず、乾いた足音だけが闇の中に響いていく。
それぞれの心の中までは分からない。
この空気のように冷え切っているのか。
それとも。
闇はどこまでも深く、私の前からは晴れはしない。




