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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第32話
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32-9





     32-9




 傘は諦め、レインコートを着てバス停へ向かう。

 これなら両手が空いて、万が一転びそうになっても対応出来る。

 てるてる坊主という意見は、この際気にしない事にする。

 ビニールを巻いたスティックが杖代わり。

 本来こういう使い方をしていい物ではないんだけど、所有者の特権で大目に見てもらうとしよう。



 バス停に到着し、リュックから取り出したビニール袋にレインコートをしまう。

 このまま乗ってはさすがに迷惑だし、知り合いにあったら恥ずかしい。

 バスを降りた後の事は、今は考えないでおこう。

「神宮駅行きバス、まもなく到着します。なおこのバスは、草薙中学・草薙高校に止まります」

 以前は意識もしなかったし、聞こえていても気にしていなかった。

 だけどこうして目が悪くなっている今は、これがどれだけ頼りになるか分からないくらい。

 人の流れを確認しながら、私も一番後ろに並ぶ。

「神宮駅行きバス、到着しました。足元に注意してお乗り下さい」

 進んでいく列。

 昨日より視力は回復したが、この雨空。

 慎重に歩くに越した事はない。


「と」

 バスに乗ろうとして、ステップを上がろうとしたところで足を止める。

 どうやら満員で、次を待った方が良さそうだ。

 この時間帯ならすぐに次は来るし、先頭で乗れる。

 何も慌てる事はない。


「神宮駅行きバス、次発が到着します」

 すぐに聞こえるアナウンス。

 今のバスが発車したのと入れ替わって、次のバスが到着する。

 始発駅は違う系統で、ただこの時間帯は神宮駅や名駅行きは立て続けに到着する。

「おっと」

 体が押され、横に流れる。

 私を押しのけてバスに乗り込む乗客達。

 いや。乗り込もうとしたところで、全員バスから転げ落ちてきた。

「定員オーバーだ。歩いていけ」

 よく通る、だが今は威圧感のこもった声。

 狼を思わせる精悍な顔立ち。

 逞しい腕が私を引き寄せ、地面に倒れた大人達を見下ろしながら私をバスへと乗せてくれる。

「な、何を」

「文句があるなら、俺をどかして乗り込めよ」

「え」

「それとも、バスの中でじっくり話し合うか。それでも構わんぞ」

「い、いや」

 バタバタと逃げていく大人達。

 ステップに乗っていたバッグが蹴られ、ドアが閉まりバスは静かに走り出す。



「どうも、ありがとうございます」

「気にするな。しかし、お前にしては大人しいな」

 私の頭を撫で、大笑いする屋神さん。

 気付かなかったが、彼の後ろには三島さんも立っている。

「ちょっと目の調子が悪くて。でも、どうしてこのバスに」

「高校の卒業証明を取りにな。大学でも受け付けてるはずなのに、高校まで来いって言われたんだ。嫌がらせだな、これは」 

「嫌がらせ」

「何しろ学校に楯突いた張本人だ」

 鼻で笑い、遠い目をして口をつぐむ屋神さん。

 それを後悔している訳ではなく。

 でも、懐かしんでいるのでもない。

 その事実を、自分が過ぎて行った日々を彼はただ静かに振り返る。

「アパートって、こっちなんですか」

「そこはそれ。大人の事情って奴さ」

 どうやら、これ以上は聞かない方が良さそうだ。




 正門前でバスを降り、屋神さんの傘に入れてもらう。

 三島さんでも良いけど、彼の場合自分一人でも肩が外へ出てしまってるから。

「相変わらず変わらない、と言いたいが。なんだ、あれは」

 正門の前に向けられる視線。

 そこにいるのは、傘を差しながらも制服着用と風紀を糾すよう呼びかける集団。

 多分屋神さんとは対極に位置する存在だろう。

「そういえば、制服がどうって言ってたな。いつからこんな事やってる」

「去年からですけど、力が入り始めたのはここ最近です」

「管理案施行、ね。まあ、それが見られただけでもましか」

 彼等はそれを防ぐために立ち上がった人達。

 後を託された私は何も言えず、視線を伏せるくらいがせめてもの出来る事。

「お前が気にしても仕方ない。向こうの方が上手だったってだけだ。俺達の時からな」

「ええ」

「なんにしろ、この寒いのに良くやるよ」



 軽い足取りで正門へと向かう屋神さん。

 その後ろから、足音すら立てず付いていく三島さん。

 この長身と、何より辺りを圧倒する存在感。

 私など全く眼中に無く、全員の注目が彼等へと向けられる。

 それ以前にこの二人のそばにいれば、物理的に見えない気もするが。

「パンフレットくれよ」

 呆然と立ち尽くしていた女の子の手からパンフレットを抜き取り、それを読み始める屋神さん。

 彼はともかく三島さんは、こういうクラッシックなタイプは似合いそうな気がする。

「俺とこいつに作ってくれ」

「え」

「サイズは後で送る。お前のアドレスは」 

 端末を取り出し、催促をする屋神さん。

 女の子は慌てて自分のを取り出し、それへそっと近づけた。

「じゃ、そういう事だ。本当、風紀の乱れは心の乱れだぜ」

 誰が乱れてるって、この人の生き方じゃないんだろうか。


 しかしああいうさりげないアドレスの聞き方とか、見習うべきところはあるかもしれない。

 彼の容姿だからこそ出来るのだとしてもね。

「私、授業があるんですけど」

「気にするな」

「最近出席率がうるさくて、休むのはまずいんですけど」

「俺に連れまわされたって答えれば済む。えーと、特別教棟ってここか」

 なにやら悪い笑顔を浮かべ、警備員が構えている教棟の玄関へと向かう屋神さん。

 彼等へ危害を加える訳ではなさそうだが、どうも信用出来ない部分があるからな。

「済みません。卒業生なんですが、卒業証明ってここでもらえるんですよね」

「オンライン上で受け付けていますが」

「いや。たまには学校に来るのも良いかなと思って」

 なかなかに如才の無い答え方。 

 警備員は彼からIDを受け取り、端末でそれを確認した。

「屋神さんと、三島さんですね。そちらの方は」

「案内を頼んだんです。久しぶりなので、迷っちゃって」

「分かりました。許可は取れていますから、中へどうぞ」

「では、失礼します」




 鼻歌交じりで廊下を歩いていく屋神さん。  

 一方後ろから付いてきている三島さんからは、何とも重苦しい空気が伝わってくる。

「重いな、お前。久しぶりの学校なんだし弾けろよ。それに懐かしいだろ、ここ」

「あの時は、お前に殴られて入院していた」

「そうだった?でもお陰で卒業も出来たし、むしろ感謝して欲しいね。内装はあまり変わってないな」

 申請書受け付けと書かれたブースへと向かう屋神さん。

 三島さんはちょっと不機嫌そうに、その背中を睨みつけている。

 当たり前だが、この人でも怒る事はあるようだ。

 でもって、その対象には絶対になりたくないな。


「二人は、同じ学部なんですか?」

「いや。あいつは政経で、俺はスポーツ科学部。いつも一緒にいる訳ではない」

 私の意を汲んでの答え。

 彼等はいつも一緒に行動して、いつまでも一緒にいる。

 それはやはり幻想に過ぎず、いつかはそれぞれがお互いの道を行く。

 例え同じ夢を抱いていた日々があったとしても、固い絆で結ばれていても。

 永遠なんて事は、この世の中には存在しない。


「今の学校を、どう思ってます?」

「俺達がもう少し頑張れば、違う形もあったかもしれない。自惚れだとしても、そう感じる時はある」

 確か笹島さんも、こんな事を言っていた。

 彼等はそうして自分を責め、だけど過ぎていった日々に後悔をしてはいない。

 もし私が同じ立場にあったら、彼等のように強く気高くいられるだろうか。

「終わったぞ。教室まで送ってやる。ん、どうした」

「いえ、なんでもありません」

「そうか。あの時ここを爆発させれば、また違う事になってたのかな」

 多分冗談だとは思うが、心情的にはそうしたかったのかもしれない。

 それは当事者である彼等にしか分からない問題で、私が口を挟む事ではない。



 のんきに思っていると、突然の歓声が。

「きゃー」

「わっ」

「あ、握手して下さい」

「しゃ、写真いいですか」

 人、人、でもって人。

 屋神さんと三島さんを取り囲む、どこにこれだけいたんだと思える程の人の山。

 集まってきているのは、大半が3年生。

 彼等にとってこの二人は、今でもヒーローなんだろう。

「分かったから下がれ。こいつを連れて行ったら、後で何でもしてやる」

「あ、雪野さん」

「優ちゃん何してるの」

「雪野ちゃん、見えない」

 あちこちから飛んでくる私への言葉。

 好意的なのは嬉しいが、最後のはどうかとも思う。

「お前も結構な人気者だな」

「そうでしょうか」

 私の場合は彼等のように敬意から来てはいない。

 珍しい動物や、子猫や子犬を見るような感覚のような気がする。

「教室は、ここか。じゃ、またな」

「ええ、ありがとうございました」

「何かあったら、連絡して来い」

「その時は、是非」




 ようやく圧迫感から開放され、席に付く。

 彼等が脅して来る訳ではないが、あれだけの体型。

 そばにいるだけで、自然と精神的にも疲れてくる。

「さっき、屋神さん達いなかったか」

 ドアを振り返りながら尋ねてくるショウ。

 この人も彼等に負けないくらいの体型だが、圧迫感は何も無い。

 信頼感と心の安らぎを感じるだけで。

 ただしそれは私の主観。心の中での話。

 体格がどうというより、相手への気持がそうさせるのだろう。


「目の調子は?」

「暗いとどうもね。でも、全く見えない訳でも無いから」

 短くして机の上に置いてあるスティックに触れ、感謝する。

 スティックに、これを作ってくれた人に。

 作ろうと言ってくれた彼に。

「そういう使い方をしても、大丈夫なの」

 確認をするように尋ねてくるサトミ。

 本来は軍用品で、それもかなり特殊な武器。

 杖代わりに作られた物で無いのは確かだろう。

「良くないんだけどね。手になじんでるし、使い勝手が良いから」

 加えて伸縮自在で傷も付かず、強度は申し分なし。

 言ってしまえば、私の腕の延長のようなものだ。


「屋神さん達は何をしに?」

「卒業資格の証明書をもらいにだって。卒業しても、学校睨まれてるらしいよ」

「当然といえば、当然ね。彼等が抵抗しなければ、その時に管理案を施行出来たんだから」

「じゃあ、私達も卒業すれば睨まれるの?」

「卒業出来れば、じゃないかしら」

 怖い事を言ってくるな。 




 それで授業が手に付かないという事はないが、ホワイトボードの文字は全く読めない。

 こういう時にこそ音声認識が役に立つし、ホワイトボードの文字をそのまま端末に転送すれば非常に助かる。

 ただ楽をすれば見に付かないとは良く言ったもので、授業内容の半分も覚えてない。

 元々半分も覚えてないのかも知れないけどね。

 目で見て書いたり、キーで入力してという繰り返しの動作が記憶を強化するには良いんだろう。

 そんな事を考えている間に、午前中の授業は終了。

 サトミの手とスティックを頼りに、食堂へとやってくる。

「ユウは座ってて。何か、希望はある?」

「和食でお願い」

「分かった。ショウ、ちゃんと見てて」

「ああ」

 そこまで構われる程重症ではないが、最近にしては多少症状が重いのも確か。 

 実際少し薄暗いだけで全く見えなくなるし、今もみんなの顔もおぼろげに把握出来ているくらい。 

 余程近くによるか知り合いでなければ、人か物かの区別も難しい。


「ぐぁ」

 変な声を出して床に倒れる男が一人。

 見えなくても、気配くらいは感じるって言うのよ。

「そ、その棒で突くな」

「じゃあ、今殴ろうとしたの誰よ」

「スキンシップと言って欲しいな」

 げらげら笑い、床から這い上がってくるケイ。

 本当誰が厄介といって、この子を退学させたら学内の問題は半分くらい解決するんじゃ無いだろうか。

「お待たせ。食べられる?」

「近くは、なんとなく見えてるから」

 箸を割り、手を合わせててんぷらを摘む。

 天つゆを少しつけて、ご飯に乗せて。一緒に掻きこむ。

 外はカラっと、中はフンワリ。 

 天つゆのダシも良くきいていて、生きてて良かったと心の底から実感出来る。

「落とさないで」

 私にではなく、ケイに対して注意するサトミ。 

「俺は怪我してるんだ」

「それはお腹で、腕は関係ないでしょ。それとも、太ももでも痛むのかしら」

「この女は、その内殺す」

 なにやら物騒な事を言い出したが、その前に多分自分の方が殺されると思うけどな。




 クリまんじゅうをお茶と一緒に楽しんでいると、辺りの空気が騒然とし出した。

 今は見ても分からないし、普段は背が小さいので分からない。

 まだまだ、不思議だらけの世の中だ。

「どうかしたの」

「臨検だ」

 低い声で笑うケイ。

「りんけん?」

「臨時検査。船とかだと、良くある」

「学校でしょ、ここは」

「どうやらG棟はやりにくいから、場所を変えて試してるんじゃないのかな」

 改めて低い声で笑うケイ。


 どうやら持ち物検査でもするつもりのようだが、私は特に見られて困るような物は持って無い。

 持っていたとしても、検査に従う気も無いが。  

「おくつろぎ中の所申し訳ありません。我々は生徒会内局です。唐突ですが、ただ今から所持品の検査を行います。バッグ、リュックは見やすい位置に。ポケットの中の物も全部出して下さい。これは先日から騒がれていた、ドラッグの蔓延を未然に防ぐための処置です。皆様には大変ご迷惑をお掛けしますが、どうぞご了承下さい」

 言葉自体は柔らかいが、拒否すればどうなるかは通路に配置されていく武装集団の姿から理解出来る。

 付けているIDは、保安部の物。

 誰だろうと、この際はもう関係なくなってきているが。

「罰則でもあるの?」

「名前を記録するだけだと思う。ただ、決して良い気持ちはしないでしょうね」

「どういう権限があって、こういう事をやるのよ」

「それが管理案の本質よ。その名前の通りね」

 静かに、これといった感情の起伏も見せず答えるサトミ。

 ただし机の上に何かを置く様子はまるでなく、今の出来事に関心があるようにも見えはしない。


「荷物出せって」

「これくらいかな」

 机の上に、ハンカチとポケットティッシュを並べて置いていくショウ。 

 小学生じゃないんだからさ。

「ケイは」

「大差ない」

 机の上に置かれるのは、端末と財布。

 しかしライターや、指錠を溶かすスプレーは取り出されない。

「モトちゃんは?」

「右に同じ」

 彼女も端末と財布のみ。

 いや。待てよ。

「身体検査をするとか?」

「するだろ、それは」

 下品に笑い、嫌な目付きでサトミ達を見つめるケイ。

 とりあえずスティックで突いてそれを止めさせ、スタンガンを作動させる。

「それは、私が許さない」

「男には男。女には女だろ、普通」

「普通じゃなかったら」

「その時怒れよ」

 それもそうか。

 しかしそんな真似をするような事になれば、どんな言い訳もさせはしない。


 スティックのグリップに触れ、ジョイント部分を外に出す。

「木之本君、バッテリー。スタンガンを増幅させる」

「そういう事はしないよ」

 至って生真面目に答えてくる木之本君。

 とはいえそうなった場合は、彼も勿論黙ってはいない。

「では、こちらのテーブルの方も全員荷物を見せて下さい」

 表面上は愛想の良い。 

 貼り付けたような笑顔を浮かべて現れる女。 

 この時点で気分が悪く、出来るのならテーブルをひっくり返したくなる。



「持っている物は全部出して下さいよ。全部です、全部」

 やけにしつこい女。

 何か言おうとしたが、サトミとモトちゃんが首を振るのでテーブルを叩き怒りを紛らわす。

「やり過ごして良い事でもあるの。教室では、追い返したじゃない」

「ここには荷物を持ってきてない人も多い。あくまでもデモンストレーションよ」

「だから従えって?冗談でしょ」

「もういい」

 首を振り、私の前にハンカチやティッシュを置いていくモトちゃん。 

 随分用意がいいな。


 一通り持ち物が出たのに安心したのか、女はゆったりと余裕を持って歩き出した。

 それがそれで、また非常に気分を害す。

「では、見ていきますね。……これは没収します。後で連絡をしますので、IDを」

 ルージュを持っていかれる女の子。

 これでも黙っていろという訳か。

「モト」

「……分かった」

 サトミに軽く頷いて立ち上がるモトちゃん。

 自然と彼女に視線が向けられ、女も蛇みたいな顔で彼女の方へと近付いていく。



 必然的に対峙する二人。

 モトちゃんは一応愛想良く微笑み、並んでいる持ち物を指さした。

「私物を取り上げる権限は無いと思いますが」

「表現が悪かったですね。一時的に預かり、学内にどんなものが持ち込まれているか統計を取るだけです」

「それなら、メモだけでいいのでは?没収する理由を、私は聞いてるんです」

 周囲から起きる、控えめな拍手と歓声。 

 女はそちらに険しい視線を送り、それでもかろうじて笑顔を作り続ける。

「華美な服装、化粧は慎むようにと通達が出ているはずですが」

「ルージュが爆発するとも思えませんが」

 強烈な皮肉。

 辺りから一斉に沸き起こる笑い声。


 モトちゃんは話は終わったとばかりに席へ付き、自分の目の前に並んでいるハンカチや端末を指で触れた。

「検査をどうぞ。それと一言。こんなやり方で、生徒が付いてくるとでも?」

「なんですって」

「いえ、こっちの話です」

 肝心な部分。

 私達が何者かは告げないモトちゃん。

 私なら一暴れして終わらせているところだが、こういった対応を目の当たりにすると私と彼女の違い。

 行動パターン、人間性、性格の違いを思い知る。

「お名前は」

「天崎智美」

 そう告げて、IDを見せるモトちゃん。

 天崎はお父さんの姓で、だがこんなのまで持ってるとは知らなかった。

「後日連絡します」

「いつでも」 

 それは連絡が付けばの話だろう。

 女は次にショウの持ち物を探り、執拗に彼を見つめ続ける。


「他には何か」

「端末なら」 

 取り出された端末に素早く触れる女。

 一瞬ショウの手と触れそうになり、しかし彼の手はそれより早く引き戻される。

「電源が入ってませんが」

「壊れてるのかな」

 婉曲に、しかし明確に女の質問を拒絶するショウ。 

 女は彼にだけは熱いまなざしを向け、ケイの持ち物をいい加減に見て回る。

「次は」

 テーブルの上に並ぶ機材。 

 ドライバー、テスター、ハンダコテ。

「これは」

「工作用の道具です。規則に触れるような物はありません」

「不必要な物は持ってこないように」 

 とにかく文句をつけない事には気が済まないタイプらしい。

 次にはヒカルを見るが、彼の前には何も無い。


 女の顔色も、自然と変わる。

「持ち物は」

「持ってません」

 明るい、素直な笑顔。

 ただし、若干の威圧感。

 彼にしては珍しく、近付きにくい空気がある。

「本当に、持ってませんね」

「この通り」

 ブルゾンのポケットから内側の布を引き出すヒカル。

 ジーンズでも同様の事をやり、やはり笑顔で女と向き合う。

「まだ見ますか?」

「結構。次」

 声を荒げてこちらに近付いてくる女。 

 良くみんな大人しくしているなと思いつつ、ここで私が暴れては意味が無くなる。

 女の陰険な目つきが自分の持ち物に向けられているというだけで、気分が悪い。


 次に目を付けられたのはサトミ。

 いや。始めから、彼女が狙いだった節もある。

「これだけですか」

「他に何か」

 静かに、さっきのヒカル以上に壁のある口調で答えるサトミ。

 女は一瞬たじろいで、しかし狡猾な笑みを浮かべて彼女と視線を交し合った。

「先ほど持っていた文庫本はどちらに」

「文庫本と分かっているのなら、検査する必要もないでしょう」

 あっさりと返すサトミ。

 この程度では、彼女と駆け引きをするには荷が重いだろう。


 それでも女は諦めず、しつこく絡みついてくる。

「私は全部出すよう、お願いしたはずですが」

「全部出すのと、持ち物を確認する事。どちらが優先されているんですか」

「何?」

「いえ、こっちの話です。どうぞ」

 テーブルの上に置かれる、英文の文庫本。

 女はそれを睨みつけ、鼻を鳴らして嘲笑った。

「こんな古い本を。しかも、英訳ですか」

「個人の嗜好にまで干渉するつもり?この所持品検査は」

「いえ、これは個人的な感想ですよ。今頃こんな陳腐な本を読んでいる人がいらっしゃるとは」

 辺りに響く馬鹿笑い。

 文庫本のタイトルは、数年前話題になった軽い内容の学園物。

 ティーンエイジャーに必須の読み物という、ありがちな取り上げられ方をされていた気がする。


「英訳で大丈夫なんですか」

「英語の授業は出ていますので」

「ネイティブな英語を理解しないと、英訳は難しいのでは」

 この台詞からすると、帰国子女か留学経験ありか。

 ただし、そこからは何も学んでないような気もするが。

「格好つけるのも、程ほどにした方が良いかと思いますよ」

「そうですね」

 気のない返事をして、文庫本をしまうサトミ。

 女は目付きを悪くさせ、手上げてそれを制した。

「身体検査をします。他の物を隠して無いか確かめます」

「ご自由に」

 素っ気無く、一切の感情を交えず答えるサトミ。

 それこそ壁に向かって話すような、冷たさすら帯びない口調で。


 女は顔を赤くして、拳を握り締めてサトミへと詰め寄った。

「私に逆らって、ただで済むと思う?」

「身体検査をどうぞ。午後の授業に間に合いません」

「じゃあ、服を脱ぎ」



 スティックでテーブルを叩き、全てを止めさせる。

 女の発言も、行動も。 

 回りにいる人間の感情も視線も、何もかもを。

「い、今のは」

「止めろっていう意味よ。それ以上やるようだったら、私が相手になる」

 視力は未だに回復しない。

 相手がどこにいるかも、おぼろげに見えている程度。

 だからなんだという話で、サトミを侮辱されて黙っていられるのならこんな学校辞めた方がましだ。

「だ、誰か」

 私と女の前に割って入る銃を持った男女。 

 教室のように反抗する生徒がいなかったのは、このせいか。

 目が見えてなくて、全然気付いてなかった。

 とはいえそれで考え方が変わる事はないし、相手の姿勢に余計苛立ちが募るだけでしかない。




「私の話、聞いてた」

 背中越しに聞こえるモトちゃんの声。

 でもって、ため息。

「サトミがどうされてもいいって言うの」

「あなたは、我慢って言葉を覚えた方が良いわね」

「こんな事が許されるのなら、一生覚えなくて良い」

「もういい。ショウ君、下げさせて。サトミもそうだけど、あなたに負担を掛けるのも面白くは無いのよ」

 肩に手が添えられ、後ろへ優しく下げられる。

 そのまま私の体はサトミへ預けられ、彼女の腕のぬくもりの中に包まれる。

「ありがとう」

 小さなささやき。

 私は彼女の手を握り返して、その言葉に応える。

 理屈、正論。 

 そんな事は知らない。

 友達を傷つける相手は、誰だろうと許さない。 

 今の私を支配する理屈は、ただそれだけだ。




「ぜ、全員捕まえなさい」

 金切り声を上げる女。

 銃を持った男女は顔色一つ変えず、私達との距離を詰める。

 この雰囲気からすると、指揮系統は別なんじゃないだろうか。

「ショウ」

「ゴム弾だろ、所詮」

 顔だけを腕で覆い、やはり前に出るショウ。

 ひるむ素振りは全く無く、それには銃を構えた集団もさすがに顔を見合わせる。

「う、撃ちなさい」

「周りの生徒にも当たる可能性があります」

「それがどうしたのよ」

 なんでもない一言。 

 ただ、絶対に言ってはならない言葉。 


 食堂内の空気は一気に冷え込み、肌が痛くなる程の緊張感に押し包まれる。

 所持品検査なら、まだしも名目は立つ。

 だからこそ、生徒達も従った。

 だけど、無関係な人間まで銃で撃つ事にどんな理由があるだろうか。

 自分の理屈だけを押し通して、それ以外は排除するという考え方に。


「我々は、あなた方の安全を確保するために帯同しています。生徒の拘束や無意味な発砲は、指示されていません」

「わ、私が命令を」

「それ以前に、あなたの命令に従う気もありません。全員銃を下ろせ」

 リーダー格らしい女の子の一言で、私達の前にいた子だけでなく食堂にいた全員が銃を下ろす。

 この雰囲気、この統率。

 前島君の系統か。

「我々は引き上げますが、続きをなさりたいのならどうぞ」

「え」

「では、失礼。それと、弾はこれですよ」 

 逃げ出していった女を無視して、銃の弾倉をショウへ放る女性。

 そこから出てきた弾は、普段目にするゴム弾の数倍はあるサイズ。

 当たればあざどころか、細い箇所なら打撲をするかもしれない。


 ただそれは、普通の人間に対しての言葉でしかない。

「それで」 

 ゴム弾を握り締めるショウ。

 拳が一瞬真っ白になり、やがてその中から鈍い音がして何かが落ちてきた。 

 今のゴム弾と同じ色の、おそらくは破裂したその残骸が。

「さすが玲阿四葉さんですね。ただ、跳んで来た弾を避けられます?」

「顔さえ避ければ問題ない。試しても良いぞ」

「その気はないと言いました。どう考えても、勝ち目はありませんし」

 人数、武装、状況。

 どれ一つとっても、彼女達に不利な条件は無い。

 しかしその言葉に謙遜は全く含まれていないだろう。


「では、また。それと雪野さん、程ほどにしておいた方がいいですよ」

「それは、保安部として?それとも、あなた個人としての忠告?」

「私個人としてです。見てる分には楽しいですけどね」

 最後に子供っぽく笑い、私の前から去っていく女の子。 

 多分彼女達は舞地さん達と同系統。

 規律を守り、契約を遵守するという。

 逆に言えば、私達に敵対する契約を結んでいる場合はそれに従って今のような行動を取る訳だ。



 ふと気を抜いたところで、バランスが崩れる。

 少し足元をよろめかせ、サトミの腕に慌ててすがる。 

 精神的に負荷を掛けすぎたのが良くなかったらしい。

 さっきより少し見えにくいし、体のバランスを視覚に頼っている以上今は不安定になりやすい。

「大丈夫?」

「多分ね。医療部に行って来る」




 サトミとショウの腕にすがり、医療部に辿り着く。 

 最近立て続けなので、あまり良い顔をされないのは仕方ない。

 見てないけどね、殆ど。

「視力以外に変化はありますか」

「多少ふらつきます」

「視力の低下と関係ある事ですか」

「ええ、多分」 

 その辺は私より先生が詳しいだろうから、あれこれ説明する必要も無い。 

 それに集中さえすれば、完全に見えなくなっても立ち回る可能。

 スティックがあればという条件と、その後の疲労を考えなければだが。

「第3日赤でも言われたと思いますが、ストレスを貯めないように」

「はあ」

「今は、どのくらい見えてます」

「輪郭は、おぼろげに」

 明るいところなら、目鼻立ちもなんとなくは理解出来る。

 暗いと完全に駄目で、動きを多少判別出来る程度。 

 なんにしろ、もう慣れたので不自由ではあるが困りはしない。

 嘆き悲しむのも、もう飽きた。


 先生はカルテに何か書き込み、私へと向き直った。

「しばらくは、室内でもサングラスを外さないように。それと、出来るだけ目を休めるようにして下さい」

「分かりました」

「明日来たら、覚悟して下さい」




 医者の捨て台詞というのも、あまり聞きたくはないな。

 これでは授業にならないので、リュックを持ってきてもらい帰る準備を始める。

 障害の程度にもよるが、通常の授業は一定以上の視力を保っているのが前提で進められる。

 さすがに、私一人のためにそれ用の授業もやってくれというのは無理がある。

「帰るなら、ショウに」

「良いよ、出席率がうるさいしね。一人で大丈夫」

「そう、何かあったら連絡して」

 サトミに手を振ったつもりだが、反応なし。

 部屋の隅にあった骸骨に手を振っていた。

 理科室じゃないんだからさ。

「本当に大丈夫?」

「これがあれば、問題ない」

 スティックで床をなぞり、それを頼りに歩き出す。 

 センサーも何も付いてはいないが、段差や障害物は振動や感触ですぐに分かる。 

 ゆっくり歩くという条件はつく物の、移動に困難という程でもない。

「何かあったら、連絡するのよ」

「分かってる。また明日」




 寮よりも家に戻った方が良いと思い、やはりレインコートを着込んでバス停へ向かう。

 雨は降り止まず、濡れはしないが自然と体は冷えてくる。

 ただ雨がレインジャケットを打つ音は、多少面白いといえば面白い。

 子供的な感覚だと、サトミ達からは笑われそうだが。

 正門を出れば、すぐにバス停。

 すでに授業は始まっているため、バス停には誰もいない。

 それとも見えないだけで、少し離れたところにいるのかも知れないが。

「よいしょと」 

 レインジャケットを袋へしまい、ベンチに座って一息つく。

 屋根と風除けがあるため寒さは凌げ、何よりベンチがありがたい。


「東部循環バス、間もなく到着します」

 待つ事しばし、目当てのバスがやってきた。

 今度は押し除けられる事もなく、自分が先頭で車内へ乗り込む。

 センサーにカードを近付けて支払いを済ませ、スティックを頼りに空いている席を下がる。

「よいしょと」

 二人掛けの窓際に座り、リュックを降ろして一息付く。

 後はバスと運転手さんに任せていれば良く、寝過ごさないよう気を付けるくらいだ。



 良く効いた暖房と程良い揺れ。

 ご飯を食べた後なので、自然と眠くなってくる。

 バスは熱田神宮の北側を過ぎ、都市高速の下を走っている。

 この先を右折して少しすれば、家の近くのバス停。

 軽く首を振って目を覚まし、窓の外を見る。

 雨に煙る町並みはおぼろげにしか見えず、サングラスを掛けた憂鬱そうな少女が一人佇んでいるだけ。

 一体自分はここで何をやっているのかと、つい自問しそうになる。

 こういう考え方が良くないのかも知れないが、性格までは変えようがない。


 内向きの意識は、不快な気分と共に破られる。

「彼女、一人?」

 不意に聞こえる、がさつな声。

 やや距離のある感じなので、隣に座っているのではなさそうだ。

 リュックが連れという冗談を言う気にもなれず、顔を窓へ向けたまま無視をする。

「そのサングラス、意味あるの?俺にも貸してよ」

 無神経としか言いようのない台詞。

 少し遠いが、ここで降りた方が良さそうだ。

 手を伸ばしてボタンを押し、次のバス停で降りる事を告げる。

 馬鹿に付き合う気はないし、そういう余裕も今はない。


 しかし男達は、席を立った私の後を付いてくる。

「じゃ、俺も降りようかな」

「俺も」 

 すぐに上がる同意の声。

 仲間連れか。

 どちらにしろバスに乗っていては他の乗客にも迷惑で、降りる以外の選択肢は無い。




 大通りに面したバス停。

 周囲は小さな飲食店が並ぶ商店の一角だが、昼過ぎという時間帯のせいか人は殆どいない。

 降りしきる、この雨のせいもあるだろう。

「さて、どこに行こうか」

「カラオケ行く?ゲーセン?早いけど、飲みに行こうか」

 行く手を阻む男達。

 私の足取りで、すでに目が悪いのは分かっているはず。 

 それでも執拗にまとわりつき、周りから離れようとはしない。


「……雪」

「……おい」

 不意に聞こえた会話の一言。

 今降っているのは雨で、私の名前は雪野。

 ナンパを仕掛けてきたのかと思っていたが、根本的に勘違いをしていたようだ。

 私、もしくは私達目当て。

 どちらにしろ、そうと分かれば遠慮する必要もない。


 手首を軽く返し、スティックのスタンガンを作動。

 声の大きさと方向。足音から位置を特定。

 道路ではなく、商店側を背にして死角を減らす。

「さて、どこに行こうか」

「どこも行かないわよ。傭兵?それとも親睦会?」

「何の話?映画か何か?」 

 一瞬淀む口調。

 空気は一転して鋭くなり、私を囲む輪が狭くなってくる。


 足音と気配で、改めて位置を定位。

 おそらく、実際の位置とのずれはない。

「今車借りてくるからさ。もう少し待ってよ」

「私をさらっても仕方ないと思うけどね」

「それは俺達が決める事だ」

 とうとう認めたな。

 しかし一人で帰ると決めたのは、今更だが不用心すぎたか。

 他人を頼らないようにと思っての事なんだけど、どうやらそういう段階は過ぎてしまっているらしい。


「その棒を捨てろ。大人しくしてれば、それなりに考えてやる」

「警察が来るんじゃなくて、こんな真似をしたら」

「他人が何をやろうと、気にする奴がいるか。見て見ぬ振りっていう、ありがたい風潮なんだよ。今の日本は」

 世間の動向にも詳しいらしく、それにはなるほどと思い当たる節もある。

 現にこうして私が囲まれている間も、助けに入ってくれる人は誰もいない。 

 どう見ても友達同士には見えないし、また実際そうでもない。

 少ないとはいえ多少は人の行き来もあるが、誰もが足早に私達を避けて通り過ぎていく。

 だからこそこういう連中がのさばり、つけあがるという訳か。



 伸びてきた手をスティックで叩き、そのまま地面へ倒す。

 濡れた足元は若干不安定だが、それは相手も同様だ。

「構うな、全員で掛かれ」

 背後の建物以外は、完全に囲まれた状態。

 視力が低下している分制約は多いが、それにつけ込まれていると考えるだけで意識が高ぶってくる。

 心遣いや思いやりという考えとはあまりにも縁遠い行動。

 人を人とも思わないやり口。

 しかし、それは相手が人だから思う事。

 動物相手に、卑劣や卑怯という考え方は持たないから。

「腕の一本くらい折っても良いんだぞ」

「出来るのなら、やってみれば。私も今は、加減出来ないから」

「馬鹿が」


 視界に入る、小さな瓶。

 思わず身をすくめ、我を忘れて後ずさる。

「あ」

 背中に触れる固い感触。

 意識が吹き飛び、叫びながら前に出る。

 目の前に見える得体の知れない影を叩き、叩き。叩きのめす。

 それが何なのか、自分でも何をしてるのか分からないまま。

 自分に迫る恐怖を追い払うようにして、体が勝手に動いていく。



 両手に伝わる、固い手応え。

 気付くとスティックの先端が、歩道を割ってめり込んでいた。

 すでに男子達は全員倒れ、呻き声を上げてのたうち回っている。

 戦ったという意識はなく、パニック状態になって暴れた結果。

 不安。自分自身への不安に押し潰されそうになりながら、無関係な人がいないかを恐る恐る確かめる。

 幸いというべきか、倒れているのは柄の悪そうな男達だけ。

 しかしそれは結果であり、選んで彼等を倒した訳ではない。


 もしここに、関係ない人が通りかかっていたら。

 それがサトミ達だったら。

 顔から血の気が引き、息が苦しくなってくる。

 自分という存在への不信感、疑い、恐怖。

 一番分かっているはずの自分自身がコントロール出来ていない。

 建物の壁にもたれ、息を整える。

 前髪から濡れ落ちる水滴。

 それ越しに見える薄暗い町並み、倒れている男達。

 紛れもなく自分がしてしまった事。

 闇の中に見える、悪夢のような光景。




 喫茶店の看板を見つけ、雨宿りを兼ねて気持ちを落ち着ける。

 ティーカップから漂っていく湯気もはっきりとは見えず、脳裏にはさっきの光景が焼き付いたまま。

 自分でも意識しなかった行動、意識しなかった結果。

 倒した事自体に後悔はない。

 だが、あれが無関係の人だったら。

 サトミ達だったら。

 その事だけが心を苛み、蝕んでいく。


 再び破られる内向きの意識。

 ただ今度は、決して不快ではない。

「入れ直しましょうか」

 耳元でささやかれる優しい声。

 おそらくはウェイトレスさんで、目の前にある紅茶の事を言っているんだと思う。

「いえ、このままで。今、何時ですか」

「そろそろ4時ですね」

 学校を出てから、いつのまにかそんな時間が経ってたのか。

 それとも、ここで考え事をしすぎたのかも知れない。

「雨は、どうなってます?」

「殆ど止んでるみたいですね」

 少し離れた所から聞こえる声。

 多分、ドアの方で外を確認してくれたんだろう。

「済みません、会計をお願いします」



 外を出た途端風が吹き抜け、体がよろめく。 

 雨が上がった後の吹き戻し。

 風自体は暖かいが、決して優しくはない。

 スティックを頼りに、姿勢を低くして大通りを歩く。

 足早に自分を追い抜いていく人達。

 ぽつぽつと灯る街灯。

 時折行く手に現れる水たまりを避け、一歩一歩歩いていく。

 そう、一歩一歩進むしかない。

 何があろうと、何が起きようと。

 前に進むしか、私には出来ないんだから。




 家に着いたのは、日が落ちる少し前くらい。

 遅れるとは喫茶店から連絡していたが、さすがに少し怒られた。

「だから迎えに行くって言ったのに」

「色々あってね。それに、帰って来たから良いじゃない」

「当たり前です」

 また怒られた。

 とはいえ全部自分が悪いので、素直に謝り目を押さえる。

 後で、医者に行った方がいいかもしれないな。

「調子悪いの?」

「最近ちょっとね。でも昨日は、大丈夫だって言われた。良くはないけど、悪くはなってないって」

「ぱっとしない話ね。ご飯食べたら病院に行くわよ」



 昨日に続き、今日も病院へやってくる。

 そこにいたのは、昼に学校の医療部で診察してくれた先生。

 薄暗いのではっきりはしないけど、すごい顔をしていると思う。

「いや、その。あくまでも、念のために来ただけですから。お昼と症状は変わってません」

「では普段通りの検査だけしておきますね。何か、ストレスになるような事はありましたか」

 おざなりで事務的な質問。

 診察の時は必ず聞かれる、ただ今の自分には重い。

「ちょっとパニックみたいになってしまいました」

「それで」

 少し低くなる声。

 多少内容をぼかし、それでも事実を伝える。

 意識せずに体が動いた事。

 それを覚えていない事。 

 その罪を。


 医師は真剣な顔でカルテと私を交互に見て、卓上端末を操作し始めた。

「……分かりました。明日、精神科医の診断を受けて下さい。そちらの治療が必要な程では無いと思いますが、念のため。お父さんかお母さんも出来れば付き添って下さい」

「あ、はい」

 戸惑い気味に頷く二人。

 私はそれを受け入れる。

 もう逃げない。

 もう迷わない。

 今の自分が駄目なら、それを治して前へと進む。

 辛くても苦しくても、私に出来るのは前に進み続ける事だけなんだから。












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