5-3
5-3
昔の人は、色んな事をやっている。
偉い人も大勢いる。
立派だ。
頭が下がる。
でもそれを覚えるとなると、また話は別になる。
「……分かんない」
端末に羅列された年号に、一人呟く。
隣のショウも、難しい顔で腕を組んでいる。
「こんなの無理よ。覚えらえる訳無いじゃない」
「まあな」
鼻を鳴らし、壇上で説明を繰り返す先生を睨むショウ。
説明といっても年号と、その年に起きた事柄を述べているだけだが。
本人はそれで満足かもしれないけど、聞いているこちらはたまった物ではない。
勿論授業なのだから、覚える事があるのは分かっている。
私自身、テストの時は暗記に走るタイプだから。
でも勉強っていうのは、それだけじゃない気がする。
もっと色々考えたり、想像したり、話し合ったり。
間違えをみんなで笑い合うのだって、私は勉強だって思いたい。
でも、この教師は……。
「次は、室町時代後期。文化財は、図と名称も覚えるように」
低い不満の声が上がるが、先生はかまわずボードに年号を羅列していく。
「下らない」
前に座っていたサトミが、そう言い捨てる。
無論壇上にいる教師に聞こえるはずもなく、説明は続く。
かと思っていたら。
「……遠野、何か言いたそうだな」
険しい顔が、こちらへと向けられる。
ボードへの書き込みも無くなり、教室内の空気が張りつめる。
「別に。私にかまわず、授業を続けて下さい」
静かな醒めた口調。
「端末も出さずに授業を受けている生徒が言う台詞じゃないな」
「記録を取る必要が無いからです」
「頭が良い奴は、言う事が違うじゃないか」
嫌みな笑み。
しかしサトミの態度は変わらない。
「データベースを少し検索すれば、分かる事ですから」
その通りだ。
むしろそちらの方が、体系化されているために分かりやすい。
私達がボードの羅列を写しているのは、それがテストに出るからに過ぎない。
「……教師に反抗する気か」
怒りを押し殺した低い声。
サトミは動じず彼を見つめ続ける。
「私は、事実を述べただけです」
「……明日までに、参考書のレポートを作ってこい。テスト範囲じゃない、本全部だぞ」
「何よそれっ」
叫んだのはサトミじゃない。
私だ。
彼女に文句を言われて黙っている程、大人じゃない。
「こ、こいつが授業を受けないから、その代わりをさせるまでだ」
こいつ?
頭に来たので、つい立ち上がってしまった。
静まりかえっていた室内に、どよめきが走る。
「ユウ、いいのよ」
落ち着いた、諭すようなサトミの声。
下らない教師の事など、何も気にしていない。
でも、私の怒りは収まらない。
「授業受けてないのは、この子もでしょっ。どうして彼女だけなのよっ」
私はサトミの隣で寝ているケイを、思いっきり指さす。
面食らった顔をした教師は、やや間を置いて口を開いた。
「じゃ、じゃあ。そいつもレポート提出だ。起きたら伝えておけ」
そう言ったと同時にチャイムが鳴る。
教師はまるで逃げるようにドアから出ていってしまった。
「何よ、あれっ」
ガーッと吠えて、机を叩く。
みんなが驚いた顔で振り向いてきたけど、そんなの気にしない。
今は恥や外聞より、怒りを優先したい。
絶対すぐに、後悔するとしても……・。
「いいじゃない。あなたがレポート提出するんじゃないのだから」
「他人事みたいに言うな」
「俺は自分事だ」
ショウに肩を叩かれたケイは、のそっと体を起こして私を見つめてきた。
恨みがましい、陰険な目で。
「雪野さん。どうして俺までレポート書くんスか」
「だ、だってさ。あんなの無茶苦茶じゃない。それなのに、ちょっと気にくわない事言われたからって」
「だってさ、じゃないの。俺は関係ないだろ」
ため息を付き、参考書を机の上に置くケイ。
「いいのよ、ユウ。レポートなんて、本当に大した事無いから」
今度はサトミが端末を取り出す。
ケーブル接続された机のモニターには、英文が一気に表示された。
「はい、レポート作成終わり」
「え?まだ何もして無いじゃない」
「もしかして、とっくに作ってあったとか言うんじゃないだろうな」
「その、もしかよ」
端末からDDが抜き取られ、綺麗な字がラベルに書かれる。
「これの採点に何日掛かるかしら。年内は、あの人学校に来られないわよ」
知性を湛える醒めた笑み。
腕を組み口元を押さえ、流れていく英文を眺め続ける。
冷たさすら覚える表情を、私はもう何年見続けた事だろう。
最近はあまり見なくなった、その表情を。
「あんたはいいスよ。頭良いから」
肩をすくめ、ケイが端末を操作する。
「ごめん、私が変な事言ったから」
申し訳なくなって頭を下げようとしたら、気にするなという感じで笑われた。
「いいって。俺も、寝ながら聞いてた」
サトミのデータを自分の端末に読み込ませ、日本語に変換させる。
キー操作は手慣れた物で、普段の不器用さはあまりない。
「後は、俺の文体を読み込ませてと」
何のソフトを使っているのか知らないけど、再変換される文章。
「最後に少し付け足して……。はい、俺も終わり」
取り出したDDに、下手な字を書いていくケイ。
下手というか、読み取れない。
もしかして、文字ではないのかも知れない。
「それは無いだろ」
苦笑したショウが、新しいラベルとペンを手に取る。
ラベルには、達筆と言っていい文字が掻き込まれる。
「……ほら。お前はレポートより、ひらがなの書取をやってこい」
「明日までに、5枚持ってきてね」
「私が、採点してあげるわ」
からかうような笑顔で、ルーズリーフを差し出すサトミ。
私の好きな笑顔で。
でもそれは、決して長くは続かなかった。
放課が終わり、次の授業が始まる。
時間が出来たからと言って、モトちゃんと沙紀ちゃんも出席している。
しっかりと、モトちゃんの隣に座るサトミ。
昨日の池上さんを笑えないね。
そして沙紀ちゃんは、ケイの隣に。
こちらは、取りあえずいいとしよう。
「んー」
小さくあくびをして、机にゆっくりと伏せる。
「寝るな」
ショウに肩をつつかれた。
眠いのよと、伏せたまま目線で訴える。
そうしたら、耳元に腕時計を置かれた。
古いアナログ式のため、カチカチ音がする。
目を閉じても、意識を逸らそうとしても。
静かなんだけど、妙に気になる。
当然眠れる訳がない。
「……おはよう」
仕方ないので、体を起こす。
でもって、耳元にあった腕時計をはめる。
サイズが合わないな、これ。
ベルトを調整してと。
ちょっと重いけど、いい感じ。
俺の時計っ、という顔で訴えてくるショウ。
いやー、いい物もらった。
などと私達がふざけている間にも、授業は進んでいた。
今は現国2の授業。
ちなみにこの間ヒカルがいた時に揉めたのは、現国1。
日本語教育に熱心な学校らしい。
今は古典的な名作の解釈を、延々と先生が説明している。
さっきのサトミじゃないけど、これもデータベースを見ればすぐ分かる事なんだよね。
前からこんな授業する人だったけど、今日は特にひどいな。
やっぱり寝よう。
と思ったら、ショウが隣でうつらうつらしてる。
何やってるのよ。
仕方ないので、目覚まし代わりに腕時計を耳元へ持っていった。
「うー……」
唸ってる。
やな夢でも見たのだろうか。
面白いけど、可哀想だから止めてあげよう。
「うー……」
まだ唸ってる。
もういいって。
取りあえず、起こした方がいいか。
私は彼の肩を、ペンでつついた。
体を震わせ、はっとこちらを振り向く。
俺寝てた?という顔で。
頷く私。
「うー……」
今度は、違う意味で唸るショウ。
反省してるみたいなので、私の腕時計を代わりにあげよう。
しかし、眠い。
目の前に座っているサトミも同じらしく、長い黒髪を手に取り枝毛を調べている。
この子の場合綺麗な髪で、枝毛なんて殆ど無い。
暇なんだろう、結局。
私の場合短いから枝毛を調べようもないし、大抵その前にカットされている。
「……何をやってる」
壇上から、苛立ったような声が聞こえてくる。
伏せかけていた顔を上げると、教師がこっちを睨んでいた。
「聞いてるのか、遠野っ」
本が机に叩き付けられる。
一転して緊張の走る教室内。
前の方の子なんて、目を丸くして先生を見上げている。
「狭い教室ですから」
受け流すどころか、そのまま通り過ぎていくような態度。
教師の顔が、朱に染まる。
「何だ、その態度はっ」
顔すら向けないサトミ。
今度は彼女の怒りが爆発するかと思ったけど、どうにか堪えたようだ。
そして机に叩き付けた本を取り、それを手で叩く。
「……この本に書かれている内容を説明してみろ」
「それで満足するんですか」
醒めた、冷たい口調。
怒り続ける教師に何の関心も抱いていないのが、はっきりと分かる。
「言われた通りに説明しろっ」
本がサトミへと投げられる。
私達は動かない。
そして、サトミも。
彼女の髪を揺らし、本は床を滑っていく。
サトミはそれを手に取り、軽く埃を払った。
一切の無駄のない、機能美を思わせる動き。
人というよりは、造られた美しい人形のような。
教室内は物音どころか、全てが凍り付いたよう。
彼女の美しさに、その冷たさに。
「……ソクラテスの考えに沿って述べさせて頂きます」
身震いする程の、綺麗な澄んだ声。
聞き惚れるのではない、意識もせず聞き入ってしまうような。
「タイトルは「足跡」。主人公幸雄をA、その彼女龍子をB、友人清水をCとします。またそれぞれの心情をA’B’,C’、独白をA”、B”、C”と置き換えて考えるのが妥当でしょう」
「ちょ、ちょっと待て。登場人物は……」
「発言しているのは私です」
静かな、しかし限りなく鋭い制止。
先生は身をすくませて、椅子に崩れた。
「人は当たり前ですが、現実の発言と思考は一致しています。ですが、それが揺らぐ時があります。例えば嘘をつくのがその際たる例です。ただ一人の人間において、その思考が一致しない事がありうるのか」
小さな間が開き、注目がサトミへと向けられる。
「自我同一性。その言葉通り、自我は一つであるという意味。ですが青年期などにおいては、それが崩れる時があります。自我同一性障害などと言うようですが」
紙のめくれる音がする。
「この「足跡」の場合は、その嘘と自我同一性障害によって、各個人がまるで別人格のように書かれています。無論、世間で言われているような2重人格とも違いますが。通常ならA=A’=A”であるはずなのに、ここではそれが成り立っていない」
紙をめくる音が止む。
「……本棚の前を歩いていた龍子は、奇妙な感覚に襲われた。デジャブと言われる感覚。以前何度もここに来たような。一緒にいたのは、見も知らぬ人。でもそれは、先日清水に聞かされた話かもしれない」
玲瓏とも言うべき朗読が終わり、本が机に置かれる。
「現実の龍子Bは、ここで現実感を失っています。つまり彼女の心情思考であるB’とのずれが生じ始めています。ただ実際の自我同一性障害は内面の乖離状態と考えるべきで、ここでそれを当てはめるのは妥当ではありません。あくまでも、そのニュアンス的な意味とお考え下さい」
なんのリアクションも待たず、説明は続けられる。
「戻りますと、龍子の心情B’は、清水の話、現実の彼Cと一致している訳です。つまりここではB’=Cが成り立っています。これも文章的な意味であり、現実に彼等が一致した存在ではないとお考え下さい」
再び本を手に取り、ページをめくっていく。
「僕はそう思ってたけど。勿論口では逆な事を言っていた。でも君は、それを分かってくれていた。落ちつきなく指を動かしていた清水は、その指を強く握りしめた。違う。違うんだ。俺は、君が彼女を見ていたから。……ごめん、言い訳だよ」
本の閉じる音が、教室内を支配する。
「ここでもそうです。現実の幸雄Aと彼の思考A’は一致していない。でもA’はC’が理解してくれたと考えている。そこで問題なのが、Cの発言。俺は、君が彼女を見ていたら。これは現実の龍子Bでもなければ、B’でもない。無論独白のB”でも」
間を置かず早い口調が続く。
「これは清水Cの中に置ける幸雄Aと考えるべきでしょう。つまりC(A)もしくはCaと置き換えてもかまいません。社会学的な概念とも似ていますが、ここではやはりそのニュアンスのみを採用します」
説明は終わらない。
「他者同士の思考と発言の連鎖が、一定数重なる事により読者は一種の迷路へ入り込みます。A=C’であり、B=A’であるような事の積み重ねに。また唯一揺るがないと思われる独白も、決してそうではありません。ただこの作品で重要なのはそれではなく、登場人物が出会う場所にもあります」
続く説明。
「何故ビルの上なのか、何故橋の上なのか。地下室はどうなのか。現実感とは思っている以上に希薄な物で、簡単な電気刺激で操作される物です。感覚は実態を捉えている訳ではなく、刺激をそうと頭で判断しているに過ぎません。例えば触2点閾を調べる実験をすれば明かですが、一定の幅で刺激を与えればそれは2点から1点へと判断される訳です。つまり我々は刺激を現実と考えているだけで、でもその現実を確かめる術は結局刺激を判断する……」
雪の上に「足跡」が付いたところで、ようやくサトミの話が終わった。
「簡単には、以上ですが」
「そ、そうか……」
やつれきった顔を頷かせる先生。
チャイムもなっていないのに、よろよろとドアへと向かう。
「まだ、第2章も終わってません」
「い、いや。それは……」
飛びつくようにドアへ手を掛けた先生は、すさまじい早さで外へ出ていってしまった。
そして教室内には、全てが凍り付いたような静けさが残る。
妬みや嫉妬ですらない。
恐怖、不安、奇異、異常。
そんな感情と視線。
自分達が持てない、持つべきでない能力。
理解を超えた、自分とは違う存在をその前にして。
ゆっくりと腰を下ろすサトミ。
それに、声にならないざわめきが走る。
彼女を否定し認めない、声にならない声。
美しく、気高く、しかし決して届かない氷の向こう側。
その存在が、目の前にいる。
怯えと恐怖が教室内に広がっていく。
まるで、中等部の時のように。
このままにはしておけない。
そう思ったのか、モトちゃんも立ち上がりかけた時。
すると。
前の方から笑い声が聞こえてきた。
サトミの前に座っているのは。
机を叩きながら、大笑いしているケイ。
今度は彼に、注目が向けられる。
「おい。お前、何笑ってんだ」
呆れたようなショウの質問に、ケイは笑いながら振り向く。
「だって、今の話聞いてたら」
「分かったのか、今の」
「半分くらいだけ」
それでも半分は分かったんだ。
「サトミが、最初に何言ったか覚えてる」
「ソクラテスがどうのって言ってたわ」
頷き合う私とモトちゃん。
彼は笑いを堪えつつ、話を続けた。
「ソクラテスで有名なのは?」
「無知の自覚っていうあれ?」
「モト、頭良いよ」
どうにか笑いを収めたケイが、肩で息をする。
「それに沿って話すって、この人は言った訳だ」
身じろぎ一つしないサトミを指さす。
彼女は前を向いていて、どんな表情をしているか後ろにいる私には分からない。
「無知の自覚っていうのは、自分はそれを知らないって事を自覚するという意味だろ」
「そうね、多分」
「だからこの人は、最初から知らないって言ってたんだよ。それなのに、延々とあんな訳の分からない説明をして」
再び彼の顔が緩み始める。
「この人は、自分は知らないって事を延々と説明してたんだよ。あんな怖い顔して、先生まで帰らせて。でも、何も知らないって。ば、馬鹿だ」
堪えきれなくなったのか、再び笑い出すケイ。
そして、少しの間があって。
教室内に、笑い声が巻き起こる。
「と、遠野さん、おかしいー」
「あ、頭どうかしてる」
「ふ、普通じゃない」
内容はともかく、それを言った人は全員笑顔。
ただひたすらに笑っている。
「な、何よ。そんなに笑う事無いでしょっ」
サトミが立ち上がって叫ぶと、ようやく笑いが収まった。
でもそれは、彼女を怖がったからではない。
恥ずかしそうにしている女の子を、みんなが気遣ってくれたからだ。
そして分かってくれたのだろう。
彼女も、普通の子なんだって。
すごい綺麗で頭が良くて、だけど照れたりする事もある子なんだって。
中等部ではちょっと時間が掛かったけれど、今は違う。
ありがとう、みんな。
先生がいなくなったので、みんなは教室を出ていったり友達と話をしたりしている。
「何よ、もう……」
俯いて拗ねているサトミちゃん。
「いいじゃない。誤解が解けたんだから」
そう言って、サトミの手を握るモトちゃん。
お姉さんだね、やっぱり。
「だけど、でも……」
「ケイ君がああ言ってくれなかったら、また中等部みたいになったのよ。それを考えれば、ね」
「う、うん」
つまらなそうに頷き、振り返るサトミ。
するとケイは、まだ笑っていた。
もしかしてサトミに気を遣った訳じゃなくて、本当に可笑しかったからじゃないだろうか。
「ば、馬鹿だ……」
それはあなたでしょ。
「沙紀ちゃん、この人怒ってやってよ」
ケイの隣いる沙紀ちゃんの背中をつつく。
すると、彼女が振り向いた。
「……格好良い」
あ、顔が赤い。
しかもサトミを見る眼差しは、少し熱がこもっている。
池上さんといい、最近みんなあれだな。
「丹下さん。みんなが怖がってたのに、あなた何よ」
笑うモトちゃん。
「え、えと。その。はは」
照れ隠しか、まだ笑っているケイの頭を軽くはたく。
「だって、普通はあれを聞いたらそう思うんじゃない」
「丹下さんは、ね。大抵の人は、一歩引くの」
「そうかな」
納得いかないという顔の沙紀ちゃん。
サトミは恥ずかしいのか、ひたすらに机を撫でている。
「男にも女の子にももてて。言う事無いな遠野さん」
「あなたに言われたくないわ。玲阿君」
「いやいや。先生」
牽制し合うサトミとショウ。
いいよね、もてる人達は。
こんな事言いあえるから。
あーあ。
するとショウが立ち上がり、リュックを背負った。
「もうオフィス行くの。まだいいでしょ」
「特殊機器操作講習のレポートを出しに行くんだよ。期限が今日なんだ」
「名雲さんも前そんな事言ってたな。真面目だね、あんたらは」
「お前が不真面目なんだ」
「そうよ。真面目な方がいいじゃない」
珍しくというか、何故かショウの肩を持つモトちゃん。
急な発言に、みんなの視線が集まる。
「別に、深い意味はないわよ。……私、ちょっと用事があるから」
「じゃあ、私も自警局に行ってくるわ。みんな、またね」
何やら騒ぎながら教室を出ていくモトちゃんと沙紀ちゃん。
「どうかしたのかな」
「さあね。丹下は、自警課に呼ばれてるって言ってたけど」
「モトはモトで事情があるんでしょ」
素っ気なく言い、席を立つサトミ。
「私達も、付いていきましょ。ね、ユウ」
どうして私に振るのよ、とは言わない。
何故か。
すでにリュックを背負っているからだ。
サトミはあくまでも確認をしたに過ぎない。
いいじゃないよ……。
「過保護だな、二人とも。あんまりかまうと、甘えん坊が出来るよ」
「何、拗ねてるの?ケイもかまってあげようか」
そうしたら、嫌な顔をされた。
本当、ひねくれ者なんだから。
この学校は、基本的に生徒の力が強い。
生徒の自治という、大前提があるから。
実際生徒会や委員会など生徒組織が、学校運営を行っている。
外部委託なのは清掃、食堂、購買部、そして夜間や外部の警備など。
後は卒業生が中心の医療部スタッフ。
それと、教育と学校自体の経営。
とはいえ教師に対するリコール制や、クラスや授業を自由に変えられる制度があるため、教師は無難に知識を教える事が目的となってくる。
無論いい人や立派な人は大勢いるけど、さっきみたいな変な人もたまにはいる。
でも、あそこまで露骨なのは久し振りだ。
少し、嫌な気がする。
前期から続く、あの感じ。
生徒会長が前言っていた「学校側」が私達を退学させる、という事と何か関係あるのだろうか。
ただそういう事を考えるのは、サトミやケイに任せておけばいい。
私に出来るのは、結論が出た時に動く事だから。
「失礼します」
頭を下げ、ドアを閉めるショウ。
で、廊下で待っていた私達に手を上げる。
「終わった。帰ろうぜ」
そう言うや、廊下にある窓を開けた。
別に暑くはない。
「何してるの?」
「ここから帰るんだよ」
爽やかに微笑んで、ドアの外を指さす。
6階です、ここは。
「馬鹿は、この人なんじゃない」
「聞こえてるぞ、サトミ」
「聞こえるように言ったのよ」
呆れて首を振るサトミを指さし、ショウは小さな箱を取り出した。
これって前期に借りた、相手との距離を埋める装置。
壁にラインを投げて、引っ張ってもらうあれだ。
「それで下りる気?」
「一度やってみたかったんだ」
喜々として先端を壁に貼り付ける。
そして、いそいそとドアに飛びついた。
動きは危なげないけど、高さ的には相当危ない。
「それじゃな」
なんの余韻もなくショウの姿が消える。
「ショウッ」
慌ててドアに駆け寄る私達。
早い。
すでにその姿は半分くらい下にある。
壁に足を付き、それを蹴りながら素早く下へ降りて行っている。
レンジャー部隊がビルから降下するのをテレビとかで見るけど、あれと同じ要領だ。
感心している間もなく、ショウはあっという間に地上へと降り立った。
なんなんだ、あの人は。
「戻すぞー」
叫び声が聞こえ、ウインチが巻き上げられる。
少しすると小さな箱が上ってきて、窓から身を乗り出していた私の手の中に収まった。
ふーん、こんなのでね。
下で笑っているショウと、手の中にある箱を交互に確かめる。
ふーん。
へー。
「……あなたは、階段で下りるのよ」
サトミが、すっと私の顔を覗き込んでくる。
「分かってる。分かってるって」
「だったら、それ貸して」
「だ、駄目駄目。これ扱いが難しいの。急に動き出したら、サトミが怪我するわよ」
嘘じゃない。
ショウのリュックの中で、「ヒュルルッ」と言う音がたまにしているのだ。
最初はお化けでも住んでるのかと思ってたら、これだった。
いや、お化けなんていないけどね。
いないけど、私は怖かった。
「分かった。ユウも、それを外したら下りてくるのよ」
「うん。先行ってて」
階段の手前でこちらを振り返り、ため息を付きながら消えていった。
ケイは振り返る事もなく、何も言わず消えていった。
何か言ってよ。
「さてと」
壁に手を付き、ラインを引っ張る。
「あれ。取れないな」
もう一度引く。
「取れないや。あっ」
靴の紐が緩んでる。
いけない、結ばないとね。
なんか、時間がどんどん過ぎていくな。
……はい、結び終わったと。
「よっと」
ラインを引っ張るけど、まだ取れない。
おかしいなー。
「どうしたのかな?」
首を傾げ、窓の下を見る。
サトミとケイが、ちょうど出てきたところだ。
ショウが、サトミに怒られてるのも見える。
しょっちゅう怒られてるな、あの子は。
そんな見慣れた光景も、上から見るとまた新鮮。
「あ、やっと取れた」
ボタンを押し、セーフティを解除したので。
でもサトミ達は、もう下に行ってしまった。
階段を使っていたら、遅くなる。
エレベーターは壊れてるし。
「仕方ないなー」
ラインの先端を壁に付け直し、窓に飛びつく。
「やっ」
軽い軽い。
まずはスカートの裾をリボンで縛って、見られるのを防いでと。
今日はまだ、スパッツ履いてないので。
「ユウー」
おー、怒ってる怒ってる。
「ごめーん、今行くからー」
「そういう意味じゃないでしょー」
聞こえない振りをして、後ろ向きに身を乗り出す。
風が下から吹き付けて、大きく体を揺らしてくれる。
おお、この感じ悪くない。
それにしても、高いね6階って。
「よっ」
窓際を軽く蹴り、しっかりと箱を握る。
ラインなんて握ってたら、指が落ちるから。
その場合はセーフティーが掛かるとマニュアルにはあるが、試す気にもなれないし。
ふわっと体が浮き、すすっと降りていく。
おお、これは面白い。
ショウに後でお礼を言おう。
体が壁際へと寄るので、また軽く蹴る。
するとラインが伸びて、また下へと降りていく。
振り返ると背の高い木々が上から覗けて、ちょっと不思議な気分。
「ユウー、ゆっくり降りるのよー」
「分かってるー」
さすがに手は振れないので、声だけで返事をする。
……ん。
壁を蹴り、箱をぎゅっと掴む。
正確には、センサーを反応させる。
あれ?
壁を蹴って、箱を。
あら。
「ユウー、どうしたのー」
返事が出来ない。
怖いからじゃない。
壊れたからだ。
セーフティーボタンを押しても、ラインを引っ張っても。
動こうとしない。
……落ち着こう。
まずは、下を見てと。
すでにサトミの端正な顔ははっきりと見え、心配そうにしているのも分かる。
彼女がしてくれたのか、ショウとケイは背中を向けているが。
一応私のスカートの中を覗かれないようにとの配慮だろう。
そして今度は、顔を前に戻す。
上から下へと、窓の位置を確かめる。
ちょうど3階。
少し上には、窓と排水溝か何かの段差がある。
「サトミー、そこどいてー」
「どうしてー」
「飛び降りるからー」
そうしたら、「わー」とか叫ばれた。
「だ、駄目よっ。危ないじゃないー」
「大丈夫ー。そんなに高くないってー」
「だ、駄目ー」
髪の毛を振り乱し、懸命に両手を振っている。
その綺麗な顔は、もう心配でたまらないといった様子だ。
そんなに心配しなくても、この高さならいいと思うんだけどな。
大体、いつまでもこれにしがみついてられない。
「ケイッ。早く上に上がって、ユウを支えてっ」
「何で」
「ユウが、宙吊りになっちゃったのよっ」
「馬鹿じゃないの」
サトミにはたかれるより前に、一歩引くケイ。
「ショウは、下でユウを受け止めるの。ほら、早くしてっ」
「見てもいいか」
「……ユウッ」
「いいよー。足閉じてるし、リボンがあるからー」
「見なさいっ」
強引にショウを振り向かせるサトミ。
「……なんだよ。飛び降りればいいだろ、あれくらいなら」
「駄目っ。そんなの絶対駄目。怪我したらどうするのっ」
「あ、ああ」
サトミのとてつもない剣幕に押され、学校最強とも言われる男の子が後ずさる。
「ユウー。ショウに受けてもらうのがいいか、それともケイの方がいいー」
「あのね、サトミさん。俺が受け止められる訳無いって」
「そ、そうね」
というか、ケイに抱きしめられるなんてぞっとしない。
しかも、下から覗かれるなんて。
うう。
「じゃあ。やっぱりケイは、早く上ってユウを支えて」
「はいはい」
仕方ないといった返事をして、建物へと入っていくケイ。
ショウはサトミに遠ざけられ、私の下からどかされた。
確かに、リボンはあるけど覗かれないとも限らない。
ショウにならと思わなくもないけど、積極的に見せたい物でもない。
少しして、上から声がした。
「ユウ、引っ張るよ」
「お願いー」
自分でもラインを伝いつつ、どうにか窓枠に手が掛かった。
天から垂れ下がるクモの糸を上るって、こういう気分かな。
「どうして、この機械をみんなが使わないか知ってる」
「知らない」
手すりの隙間から私を見下ろしているケイが、ぼそぼそと説明を始める。
「まず、扱いが難し過ぎる。余程運動神経がいい奴じゃないと、怪我するだけだ。それと数が少ない、貸し出しの金額が高い。その割には、使い道が下らない」
私の手を取った彼の顔が、ニヤリとなる。
「そして最大の理由は、壊れやすいから。例えば、今みたいに」
「そんな」
「矢田君が貸してくれた時、よく使いこなせそうにも無い物持ってるなって思ったんだ。でも、ユウ達ならと思ったんだけど。やっぱり駄目か」
「最初に言ってよ」
ケイの助けを借り、窓の下にある段差に足を掛ける。
そして手すりにしがみつき、どうにか落ち着く事が出来た。
どう表現したらいいのか、檻に入ったお猿さんみたい。
実際には、私が外にいるんだけど。
「ここからは入れないのね。上の窓は、こんな手すり無かったのに」
「そのおかげで、この様か。どうしようもないな」
何が面白いのか、ゲラゲラ笑われた。
でも私は面白くないので、手すりの隙間から彼の脇腹に指を突き立てた。
「がっ」
変な声を出して、後ろに下がる。
軽く押しただけであれだ。
で、やり返される前にラインを掴んで後ろへ飛ぶ。
つまり、再び空に舞い上がる。
ケイの手は空を掴み、戻ってきた私に再び脇をつつかれる。
これは駄目だと思ったのか、鼻を鳴らして睨んできた。
「ったく。何でこんな、ミノ虫女のために」
「失礼ね。天使くらい言ってよ」
「羽根無し、鼻無し、胸も無し。せいぜいカラス天狗だね」
むっときてもう一度反動を付けようとラインを掴んだら、下から声が飛んできた。
「二人ともー、ふざけてないで大人しくしてなさいー」
手を振ってサトミが怒っている。
本当は私を心配してくれてるんだけど、簡単に言えば怒っている。
これ以上は私も怖いので、箱をケイに渡して手すりにしがみついた。
ケイも壁に付いていたラインを離し、箱の中へとそれを戻し始める。
「もう、怒られたじゃない」
「自分のせいだろ」
ぶつぶつ言いながら、こそっとサトミの様子を窺う私達。
よかった、もう怒ってない。
というか、私達が怒らせてるんだけど……。
「いいー。下でショウが受け止めるから、自分のタイミングで飛び降りるのよー」
「分かったー」
「ショウ、ほら」
サトミに促されて、体を解しながらショウが前に出てくる。
すると風がリボンを揺らし、どこかへ運んでいってしまった。
「わっ」
叫ぶも遅し、紺のスカートがはためき始める。
取りあえず、片手だけでスカートの後ろを押さえる。
これはまずいと思って、下を見たら。
ショウと目が合った。
笑ってるよ。
「……それじゃあ、役得という事で」
何故か一礼して私の下に立つショウ。
その途端、サトミにお尻を蹴られた。
いい中段回し蹴りだ。
「じょ、冗談だろ」
「それが通じると思ってるの」
睨み上げての、説教が始まった。
その大きな体を小さくして、しきりに頷くショウ。
怖いねー、サトミちゃんは。
「はは、怒られてる」
「大変だなー、先生ー」
のんきに声を掛けたら、今度はこっちを睨んできた。
「下らない事はいいから、大人しくしてなさいっ」
「は、はいっ」
慌てて顔を戻す。
ケイはまだ、サトミの見えない角度からショウの顔を指さしているが。
この人が懲りるって事は、一生無いんだろうな。
「ユウー、いつでもいいぞー」
「分かったー」
顔だけ振り向いて、下にいるショウへ返事をする。
彼なら、どうなっても受け止めてくれるだろう。
ケイが駄目な理由は個人的な好みとかより、その体力や運動神経という事だ。
私はともかく、彼は確実に怪我をする。
「押そうか」
暗い笑みを浮かべ、手を伸ばそうとしている男の子。
この人、こういう時は妙に楽しそうだな。
「いやだ。それより、飛び降りた時覗かないでよ」
「ショウはいいの?」
「上見ないと、受け止められないじゃない」
「差別だ……」
寂しい顔しているけど、あなたには見せられない。
ケイが壁まで下がったのを確認して、スカートを押さえつつ体を前に向ける。
改めて見ると、結構高い。
3階というのは伊達じゃないね。
「行くよー」
「おー」
両手を振っているショウがやや下に見える。
心配そうに手を揉みしぼっているサトミも。
だから、大丈夫だって。
根拠はないけどさ……。
「やっ」
特にためらいもなく踏み切る。
ふわっと体が浮き上がるような、それでいて落ちていく体。
髪が後ろにたなびき、ブラウスやスカートも激しく揺れる。
スカートを両手で押さえているので、後はもうショウだけが頼りだ。
ちょっとした身投げだね。
あっという間にショウの姿が迫ってくる。
よかった、何とかなった。
と思ったら、体が横へと大きく流れた。
気まぐれな突風が吹いたのだ。
ちょ、ちょっと、そんなのはいいんだって。
ショウやサトミもそう思ったらしく、驚きの表情へと変わる。
「わっ」
さすがにスカートから手を離し、バランスを取りに行く。
残り3mあまり。
受け身を取るには十分な距離だ。
くー、サトミの言う通り素直に階段で下りればよかった。
後悔も一瞬、下の芝生を影がよぎる。
「いいぞっ」
両手を広げ、目の前に突如現れるショウ。
風の流れを読んで、すぐに回り込んでくれたのだ。
私も両手を広げていたので、胸から落ちていく格好となる。
「わっ」
それこそ飛び込むようにショウへと抱きつく。
そしてしっかりと抱きしめてくれるショウ。
「へへ。助かりました」
彼の厚い胸板にしがみつきながら、照れてみる。
「ユウは軽いから、風でも飛ぶんだな」
私の脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げるショウ。
その分、珍しく彼を見下ろす格好となる。
何だか、いい気分だ。
「ん、どうした」
「こういう高い視点も良いなって思ったの。ほら、私小さいから」
「肩車してやろうか」
頷き掛けたところで、上から声がする。
ケイだ。
「おーい」
気分がいいので、持ち上げられたまま手を振る。
すると彼、下を指さしてる。
私達じゃなくて、もう少し離れた所だ。
一体なんだって……。
「あ……」
声を合わせ、顔も見合わせる私達。
私はすかさずショウの腕から飛び降り、走り出した。
大の字になって、芝生の上へうつ伏せになっているサトミの元へ。
「だ、大丈夫っ?」
サトミの肩を抱き、慌てて起こし上げる。
すると彼女は無言で立ち上がり、服に付いた芝生を払い始めた。
私もスカートを払って、そっと見上げる。
ひょ、表情がない。
でも、何で倒れてるんだろ。
「……ユウが横に流れたから、すぐ走ったのよ。そうしたら転んだの」
自分から説明をしてくれた。
この人、結構鈍いんだよね。
っと、そんな事考えてる場合じゃない。
「ご、ごめん」
「いいのよ。私が鈍いだけなんだから」
あ、拗ねた。
しゃがみ込んで、芝をむしり始めてる。
「ほら、ショウも謝って」
「ああ、悪い。そのなんだ、芝でよかったな」
「そうね。幸せな二人が戯れるにはいい場所かもね」
駄目だ、完全に拗ねた。
「何やってんの」
「あ、ケイ。あなたも何か言ってよ」
するとケイは例の箱を私に渡して、首を振った。
「俺、女心に疎いから」
すたすたと歩いていく。
逃げたな。
「俺も、その辺の機微は分からないんだな」
あっという間に走り去るショウ。
な、何それ。
「こうして私は、みんなから見捨てられていくのよ」
「だから、そうじゃないんだって」
「じゃあ、何かちょうだい」
「え?」
唐突に差し出された手をじっと見つめる。
「愛、なんてどう?」
胸元に手を揃えて、小首を傾げ可憐に微笑んでみせる。
「面白いわね」
醒めた表情で笑われた。
へ、どうせ私は笑い者ですよ。
「寒いわ」
「秋だもん、当たり前でしょ」
「コートがあったら、暖かいでしょうね」
怖い事言うな。
レインコートでも着てればいいんだ。
「家に帰れば、昔のが幾つかあるよ。それで……」
「私が、ユウのを着れると思う?」
「無理だろうね」
あっさりと頷き、軽く笑ってみる。
でも彼女は、笑ってはくれない。
「寒いわ」
肩を抱き、震え始めるサトミ。
止めてよ。
「分かった、分かったから。冬になったら、手袋買ってあげる」
「ジャケット」
「マフラー」
「セーター」
ちっ、仕方ないな。
「はいはい。セーターね。でも、そんなに高いのは無理よ」
「手編みで作ったら」
「モトちゃんじゃあるまいし」
端末を取り出し、約束の欄に「サトミへセーター」と書き込む。
画面をスクロールさせると、前期の始め辺りにおごらされたカルボラーナとかが値段と共に表示された。
とはいえサトミの端末にも、私への「約束」が幾つもあるからね。
お互い様である。
「ほら。取りあえず私が暖めてあげる」
私は両手を広げ、手の平で彼女を手招きした。
「何それ」
綺麗な顔をしかめ、一歩下がるサトミ。
「いいじゃない。寒いんでしょ」
「暖かくはないわよ。風も出てきたから」
「だったら、ほら」
呆れたのか、首を振りつつ歩み寄ってくる。
「どうして、こんな所でユウと抱き合うのよ」
「抱き合うんじゃなくて、私が抱きとめるの」
「同じじゃない」
苦笑しつつ、彼女が私に身を寄せる。
長い黒髪がたなびき、私の体を覆っていく。
ベストを着たサトミの背中に手を回し、その手に優しく力を入れる。
「暖かい?」
「恥ずかしいから、少し暑くなったわ」
「あ、それ私も」
でも、私達は離れない。
私の背中に回った手は、しっかりと私を引き寄せてくれる。
耳を打つ、微かな鼓動。
トクトクと、可愛らしい音がしている。
間近にある端正なサトミの顔は、照れのせいか赤らんで見える。
無性な愛おしさが、胸の中にこみ上げる。
私は腕に少しだけ力を込めた。
伝わるサトミの温もり、そして伝わっていく私の温もり。
大丈夫、サトミは一人じゃない。
私達がいる、ヒカルも、モトちゃん達も。
他のみんながあなたを振り返らなくても、私達は絶対あなたの側にいる。
こうして抱き合える距離に、いつもいる……。
で、ふと気づいた。
彼女の可愛らしい鼓動を聞きながら。
どうしてそれが聞こえるのかって。
理由は一つ。
私が、サトミの胸に顔を埋めているからだ。
これって私が抱きしめてるんじゃない。
サトミが、私を抱きしめてるんでしょ。
もしかしなくても、逆だ。
小さいな、私は……。
でもいいか、暖かいから。
そう思い直し、私は彼女の柔らかな胸に頬を当てた。
サトミの温もりを、強く感じたくて。
冷たいとも思われている、でもこんなにも暖かな彼女の温もりを。
彼女の心から伝わる、私を包んでくれている暖かさを。




