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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第5話
34/596

5-3






     5-3




 昔の人は、色んな事をやっている。

 偉い人も大勢いる。

 立派だ。

 頭が下がる。

 でもそれを覚えるとなると、また話は別になる。


「……分かんない」

 端末に羅列された年号に、一人呟く。

 隣のショウも、難しい顔で腕を組んでいる。

「こんなの無理よ。覚えらえる訳無いじゃない」

「まあな」

 鼻を鳴らし、壇上で説明を繰り返す先生を睨むショウ。 

 説明といっても年号と、その年に起きた事柄を述べているだけだが。

 本人はそれで満足かもしれないけど、聞いているこちらはたまった物ではない。


 勿論授業なのだから、覚える事があるのは分かっている。 

 私自身、テストの時は暗記に走るタイプだから。

 でも勉強っていうのは、それだけじゃない気がする。

 もっと色々考えたり、想像したり、話し合ったり。

 間違えをみんなで笑い合うのだって、私は勉強だって思いたい。

 でも、この教師は……。


「次は、室町時代後期。文化財は、図と名称も覚えるように」

 低い不満の声が上がるが、先生はかまわずボードに年号を羅列していく。

「下らない」

 前に座っていたサトミが、そう言い捨てる。

 無論壇上にいる教師に聞こえるはずもなく、説明は続く。 

 かと思っていたら。

「……遠野、何か言いたそうだな」

 険しい顔が、こちらへと向けられる。

 ボードへの書き込みも無くなり、教室内の空気が張りつめる。

「別に。私にかまわず、授業を続けて下さい」

 静かな醒めた口調。

「端末も出さずに授業を受けている生徒が言う台詞じゃないな」

「記録を取る必要が無いからです」

「頭が良い奴は、言う事が違うじゃないか」

 嫌みな笑み。

 しかしサトミの態度は変わらない。

「データベースを少し検索すれば、分かる事ですから」

 その通りだ。 

 むしろそちらの方が、体系化されているために分かりやすい。

 私達がボードの羅列を写しているのは、それがテストに出るからに過ぎない。


「……教師に反抗する気か」

 怒りを押し殺した低い声。

 サトミは動じず彼を見つめ続ける。

「私は、事実を述べただけです」

「……明日までに、参考書のレポートを作ってこい。テスト範囲じゃない、本全部だぞ」

「何よそれっ」 

 叫んだのはサトミじゃない。

 私だ。

 彼女に文句を言われて黙っている程、大人じゃない。

「こ、こいつが授業を受けないから、その代わりをさせるまでだ」

 こいつ?

 頭に来たので、つい立ち上がってしまった。

 静まりかえっていた室内に、どよめきが走る。

「ユウ、いいのよ」 

 落ち着いた、諭すようなサトミの声。

 下らない教師の事など、何も気にしていない。

 でも、私の怒りは収まらない。

「授業受けてないのは、この子もでしょっ。どうして彼女だけなのよっ」

 私はサトミの隣で寝ているケイを、思いっきり指さす。

 面食らった顔をした教師は、やや間を置いて口を開いた。

「じゃ、じゃあ。そいつもレポート提出だ。起きたら伝えておけ」

 そう言ったと同時にチャイムが鳴る。

 教師はまるで逃げるようにドアから出ていってしまった。



「何よ、あれっ」

 ガーッと吠えて、机を叩く。

 みんなが驚いた顔で振り向いてきたけど、そんなの気にしない。

 今は恥や外聞より、怒りを優先したい。

 絶対すぐに、後悔するとしても……・。

「いいじゃない。あなたがレポート提出するんじゃないのだから」

「他人事みたいに言うな」

「俺は自分事だ」

 ショウに肩を叩かれたケイは、のそっと体を起こして私を見つめてきた。

 恨みがましい、陰険な目で。

「雪野さん。どうして俺までレポート書くんスか」

「だ、だってさ。あんなの無茶苦茶じゃない。それなのに、ちょっと気にくわない事言われたからって」

「だってさ、じゃないの。俺は関係ないだろ」

 ため息を付き、参考書を机の上に置くケイ。

「いいのよ、ユウ。レポートなんて、本当に大した事無いから」

 今度はサトミが端末を取り出す。

 ケーブル接続された机のモニターには、英文が一気に表示された。

「はい、レポート作成終わり」

「え?まだ何もして無いじゃない」

「もしかして、とっくに作ってあったとか言うんじゃないだろうな」

「その、もしかよ」

 端末からDDデジタル・ディスクが抜き取られ、綺麗な字がラベルに書かれる。

「これの採点に何日掛かるかしら。年内は、あの人学校に来られないわよ」

 知性を湛える醒めた笑み。

 腕を組み口元を押さえ、流れていく英文を眺め続ける。

 冷たさすら覚える表情を、私はもう何年見続けた事だろう。

 最近はあまり見なくなった、その表情を。


「あんたはいいスよ。頭良いから」

 肩をすくめ、ケイが端末を操作する。

「ごめん、私が変な事言ったから」

 申し訳なくなって頭を下げようとしたら、気にするなという感じで笑われた。

「いいって。俺も、寝ながら聞いてた」

 サトミのデータを自分の端末に読み込ませ、日本語に変換させる。

 キー操作は手慣れた物で、普段の不器用さはあまりない。

「後は、俺の文体を読み込ませてと」

 何のソフトを使っているのか知らないけど、再変換される文章。

「最後に少し付け足して……。はい、俺も終わり」

 取り出したDDに、下手な字を書いていくケイ。

 下手というか、読み取れない。

 もしかして、文字ではないのかも知れない。

「それは無いだろ」

 苦笑したショウが、新しいラベルとペンを手に取る。

 ラベルには、達筆と言っていい文字が掻き込まれる。

「……ほら。お前はレポートより、ひらがなの書取をやってこい」

「明日までに、5枚持ってきてね」

「私が、採点してあげるわ」

 からかうような笑顔で、ルーズリーフを差し出すサトミ。

 私の好きな笑顔で。

 でもそれは、決して長くは続かなかった。



 放課が終わり、次の授業が始まる。

 時間が出来たからと言って、モトちゃんと沙紀ちゃんも出席している。

 しっかりと、モトちゃんの隣に座るサトミ。 

 昨日の池上さんを笑えないね。

 そして沙紀ちゃんは、ケイの隣に。

 こちらは、取りあえずいいとしよう。 

「んー」 

 小さくあくびをして、机にゆっくりと伏せる。

「寝るな」

 ショウに肩をつつかれた。

 眠いのよと、伏せたまま目線で訴える。

 そうしたら、耳元に腕時計を置かれた。

 古いアナログ式のため、カチカチ音がする。

 目を閉じても、意識を逸らそうとしても。

 静かなんだけど、妙に気になる。

 当然眠れる訳がない。

「……おはよう」

 仕方ないので、体を起こす。

 でもって、耳元にあった腕時計をはめる。 

 サイズが合わないな、これ。

 ベルトを調整してと。

 ちょっと重いけど、いい感じ。

 俺の時計っ、という顔で訴えてくるショウ。

 いやー、いい物もらった。


 などと私達がふざけている間にも、授業は進んでいた。

 今は現国2の授業。

 ちなみにこの間ヒカルがいた時に揉めたのは、現国1。

 日本語教育に熱心な学校らしい。

 今は古典的な名作の解釈を、延々と先生が説明している。

 さっきのサトミじゃないけど、これもデータベースを見ればすぐ分かる事なんだよね。

 前からこんな授業する人だったけど、今日は特にひどいな。

 やっぱり寝よう。

 と思ったら、ショウが隣でうつらうつらしてる。

 何やってるのよ。

 仕方ないので、目覚まし代わりに腕時計を耳元へ持っていった。 

「うー……」

 唸ってる。

 やな夢でも見たのだろうか。

 面白いけど、可哀想だから止めてあげよう。

「うー……」 

 まだ唸ってる。

 もういいって。

 取りあえず、起こした方がいいか。

 私は彼の肩を、ペンでつついた。

 体を震わせ、はっとこちらを振り向く。

 俺寝てた?という顔で。

 頷く私。

「うー……」

 今度は、違う意味で唸るショウ。

 反省してるみたいなので、私の腕時計を代わりにあげよう。

 しかし、眠い。


 目の前に座っているサトミも同じらしく、長い黒髪を手に取り枝毛を調べている。

 この子の場合綺麗な髪で、枝毛なんて殆ど無い。

 暇なんだろう、結局。

 私の場合短いから枝毛を調べようもないし、大抵その前にカットされている。

「……何をやってる」 

 壇上から、苛立ったような声が聞こえてくる。

 伏せかけていた顔を上げると、教師がこっちを睨んでいた。

「聞いてるのか、遠野っ」

 本が机に叩き付けられる。

 一転して緊張の走る教室内。

 前の方の子なんて、目を丸くして先生を見上げている。

「狭い教室ですから」

 受け流すどころか、そのまま通り過ぎていくような態度。

 教師の顔が、朱に染まる。

「何だ、その態度はっ」

 顔すら向けないサトミ。

 今度は彼女の怒りが爆発するかと思ったけど、どうにか堪えたようだ。 

 そして机に叩き付けた本を取り、それを手で叩く。


「……この本に書かれている内容を説明してみろ」

「それで満足するんですか」

 醒めた、冷たい口調。

 怒り続ける教師に何の関心も抱いていないのが、はっきりと分かる。

「言われた通りに説明しろっ」

 本がサトミへと投げられる。

 私達は動かない。

 そして、サトミも。

 彼女の髪を揺らし、本は床を滑っていく。

 サトミはそれを手に取り、軽く埃を払った。

 一切の無駄のない、機能美を思わせる動き。

 人というよりは、造られた美しい人形のような。


 教室内は物音どころか、全てが凍り付いたよう。 

 彼女の美しさに、その冷たさに。

「……ソクラテスの考えに沿って述べさせて頂きます」

 身震いする程の、綺麗な澄んだ声。

 聞き惚れるのではない、意識もせず聞き入ってしまうような。

「タイトルは「足跡」。主人公幸雄をA、その彼女龍子をB、友人清水をCとします。またそれぞれの心情をA’B’,C’、独白をA”、B”、C”と置き換えて考えるのが妥当でしょう」

「ちょ、ちょっと待て。登場人物は……」

「発言しているのは私です」

 静かな、しかし限りなく鋭い制止。

 先生は身をすくませて、椅子に崩れた。

「人は当たり前ですが、現実の発言と思考は一致しています。ですが、それが揺らぐ時があります。例えば嘘をつくのがその際たる例です。ただ一人の人間において、その思考が一致しない事がありうるのか」

 小さな間が開き、注目がサトミへと向けられる。

「自我同一性。その言葉通り、自我は一つであるという意味。ですが青年期などにおいては、それが崩れる時があります。自我同一性障害などと言うようですが」

 紙のめくれる音がする。

「この「足跡」の場合は、その嘘と自我同一性障害によって、各個人がまるで別人格のように書かれています。無論、世間で言われているような2重人格とも違いますが。通常ならA=A’=A”であるはずなのに、ここではそれが成り立っていない」

 紙をめくる音が止む。

「……本棚の前を歩いていた龍子は、奇妙な感覚に襲われた。デジャブと言われる感覚。以前何度もここに来たような。一緒にいたのは、見も知らぬ人。でもそれは、先日清水に聞かされた話かもしれない」

 玲瓏とも言うべき朗読が終わり、本が机に置かれる。


「現実の龍子Bは、ここで現実感を失っています。つまり彼女の心情思考であるB’とのずれが生じ始めています。ただ実際の自我同一性障害は内面の乖離状態と考えるべきで、ここでそれを当てはめるのは妥当ではありません。あくまでも、そのニュアンス的な意味とお考え下さい」

 なんのリアクションも待たず、説明は続けられる。

「戻りますと、龍子の心情B’は、清水の話、現実の彼Cと一致している訳です。つまりここではB’=Cが成り立っています。これも文章的な意味であり、現実に彼等が一致した存在ではないとお考え下さい」

 再び本を手に取り、ページをめくっていく。  

「僕はそう思ってたけど。勿論口では逆な事を言っていた。でも君は、それを分かってくれていた。落ちつきなく指を動かしていた清水は、その指を強く握りしめた。違う。違うんだ。俺は、君が彼女を見ていたから。……ごめん、言い訳だよ」

 本の閉じる音が、教室内を支配する。

「ここでもそうです。現実の幸雄Aと彼の思考A’は一致していない。でもA’はC’が理解してくれたと考えている。そこで問題なのが、Cの発言。俺は、君が彼女を見ていたら。これは現実の龍子Bでもなければ、B’でもない。無論独白のB”でも」

 間を置かず早い口調が続く。

「これは清水Cの中に置ける幸雄Aと考えるべきでしょう。つまりC(A)もしくはCaと置き換えてもかまいません。社会学的な概念とも似ていますが、ここではやはりそのニュアンスのみを採用します」

 説明は終わらない。

「他者同士の思考と発言の連鎖が、一定数重なる事により読者は一種の迷路へ入り込みます。A=C’であり、B=A’であるような事の積み重ねに。また唯一揺るがないと思われる独白も、決してそうではありません。ただこの作品で重要なのはそれではなく、登場人物が出会う場所にもあります」

 続く説明。

「何故ビルの上なのか、何故橋の上なのか。地下室はどうなのか。現実感とは思っている以上に希薄な物で、簡単な電気刺激で操作される物です。感覚は実態を捉えている訳ではなく、刺激をそうと頭で判断しているに過ぎません。例えば触2点閾を調べる実験をすれば明かですが、一定の幅で刺激を与えればそれは2点から1点へと判断される訳です。つまり我々は刺激を現実と考えているだけで、でもその現実を確かめる術は結局刺激を判断する……」



 雪の上に「足跡」が付いたところで、ようやくサトミの話が終わった。

「簡単には、以上ですが」

「そ、そうか……」

 やつれきった顔を頷かせる先生。

 チャイムもなっていないのに、よろよろとドアへと向かう。

「まだ、第2章も終わってません」

「い、いや。それは……」

 飛びつくようにドアへ手を掛けた先生は、すさまじい早さで外へ出ていってしまった。

 そして教室内には、全てが凍り付いたような静けさが残る。


 妬みや嫉妬ですらない。

 恐怖、不安、奇異、異常。

 そんな感情と視線。

 自分達が持てない、持つべきでない能力。

 理解を超えた、自分とは違う存在をその前にして。

 ゆっくりと腰を下ろすサトミ。

 それに、声にならないざわめきが走る。

 彼女を否定し認めない、声にならない声。

 美しく、気高く、しかし決して届かない氷の向こう側。

 その存在が、目の前にいる。


 怯えと恐怖が教室内に広がっていく。 

 まるで、中等部の時のように。

 このままにはしておけない。

 そう思ったのか、モトちゃんも立ち上がりかけた時。  

 すると。

 前の方から笑い声が聞こえてきた。

 サトミの前に座っているのは。

 机を叩きながら、大笑いしているケイ。 

 今度は彼に、注目が向けられる。

「おい。お前、何笑ってんだ」

 呆れたようなショウの質問に、ケイは笑いながら振り向く。

「だって、今の話聞いてたら」

「分かったのか、今の」

「半分くらいだけ」

 それでも半分は分かったんだ。

「サトミが、最初に何言ったか覚えてる」

「ソクラテスがどうのって言ってたわ」

 頷き合う私とモトちゃん。

 彼は笑いを堪えつつ、話を続けた。

「ソクラテスで有名なのは?」

「無知の自覚っていうあれ?」

「モト、頭良いよ」

 どうにか笑いを収めたケイが、肩で息をする。

「それに沿って話すって、この人は言った訳だ」

 身じろぎ一つしないサトミを指さす。

 彼女は前を向いていて、どんな表情をしているか後ろにいる私には分からない。


「無知の自覚っていうのは、自分はそれを知らないって事を自覚するという意味だろ」

「そうね、多分」

「だからこの人は、最初から知らないって言ってたんだよ。それなのに、延々とあんな訳の分からない説明をして」

 再び彼の顔が緩み始める。

「この人は、自分は知らないって事を延々と説明してたんだよ。あんな怖い顔して、先生まで帰らせて。でも、何も知らないって。ば、馬鹿だ」

 堪えきれなくなったのか、再び笑い出すケイ。

 そして、少しの間があって。



 教室内に、笑い声が巻き起こる。

「と、遠野さん、おかしいー」

「あ、頭どうかしてる」

「ふ、普通じゃない」

 内容はともかく、それを言った人は全員笑顔。

 ただひたすらに笑っている。

「な、何よ。そんなに笑う事無いでしょっ」

 サトミが立ち上がって叫ぶと、ようやく笑いが収まった。

 でもそれは、彼女を怖がったからではない。 

 恥ずかしそうにしている女の子を、みんなが気遣ってくれたからだ。

 そして分かってくれたのだろう。

 彼女も、普通の子なんだって。

 すごい綺麗で頭が良くて、だけど照れたりする事もある子なんだって。

 中等部ではちょっと時間が掛かったけれど、今は違う。

 ありがとう、みんな。


 先生がいなくなったので、みんなは教室を出ていったり友達と話をしたりしている。

「何よ、もう……」

 俯いて拗ねているサトミちゃん。

「いいじゃない。誤解が解けたんだから」

 そう言って、サトミの手を握るモトちゃん。

 お姉さんだね、やっぱり。

「だけど、でも……」

「ケイ君がああ言ってくれなかったら、また中等部みたいになったのよ。それを考えれば、ね」

「う、うん」 

 つまらなそうに頷き、振り返るサトミ。

 するとケイは、まだ笑っていた。

 もしかしてサトミに気を遣った訳じゃなくて、本当に可笑しかったからじゃないだろうか。

「ば、馬鹿だ……」

 それはあなたでしょ。

「沙紀ちゃん、この人怒ってやってよ」

 ケイの隣いる沙紀ちゃんの背中をつつく。

 すると、彼女が振り向いた。

「……格好良い」

 あ、顔が赤い。

 しかもサトミを見る眼差しは、少し熱がこもっている。

 池上さんといい、最近みんなあれだな。

「丹下さん。みんなが怖がってたのに、あなた何よ」

 笑うモトちゃん。

「え、えと。その。はは」

 照れ隠しか、まだ笑っているケイの頭を軽くはたく。

「だって、普通はあれを聞いたらそう思うんじゃない」

「丹下さんは、ね。大抵の人は、一歩引くの」

「そうかな」

 納得いかないという顔の沙紀ちゃん。

 サトミは恥ずかしいのか、ひたすらに机を撫でている。

「男にも女の子にももてて。言う事無いな遠野さん」  

「あなたに言われたくないわ。玲阿君」

「いやいや。先生」

 牽制し合うサトミとショウ。

 いいよね、もてる人達は。

 こんな事言いあえるから。

 あーあ。


 するとショウが立ち上がり、リュックを背負った。

「もうオフィス行くの。まだいいでしょ」

「特殊機器操作講習のレポートを出しに行くんだよ。期限が今日なんだ」

「名雲さんも前そんな事言ってたな。真面目だね、あんたらは」

「お前が不真面目なんだ」

「そうよ。真面目な方がいいじゃない」

 珍しくというか、何故かショウの肩を持つモトちゃん。

 急な発言に、みんなの視線が集まる。

「別に、深い意味はないわよ。……私、ちょっと用事があるから」

「じゃあ、私も自警局に行ってくるわ。みんな、またね」

 何やら騒ぎながら教室を出ていくモトちゃんと沙紀ちゃん。

「どうかしたのかな」

「さあね。丹下は、自警課に呼ばれてるって言ってたけど」

「モトはモトで事情があるんでしょ」

 素っ気なく言い、席を立つサトミ。

「私達も、付いていきましょ。ね、ユウ」

 どうして私に振るのよ、とは言わない。

 何故か。

 すでにリュックを背負っているからだ。

 サトミはあくまでも確認をしたに過ぎない。

 いいじゃないよ……。

「過保護だな、二人とも。あんまりかまうと、甘えん坊が出来るよ」

「何、拗ねてるの?ケイもかまってあげようか」

 そうしたら、嫌な顔をされた。

 本当、ひねくれ者なんだから。



 この学校は、基本的に生徒の力が強い。

 生徒の自治という、大前提があるから。

 実際生徒会や委員会など生徒組織が、学校運営を行っている。

 外部委託なのは清掃、食堂、購買部、そして夜間や外部の警備など。

 後は卒業生が中心の医療部スタッフ。

 それと、教育と学校自体の経営。

 とはいえ教師に対するリコール制や、クラスや授業を自由に変えられる制度があるため、教師は無難に知識を教える事が目的となってくる。

 無論いい人や立派な人は大勢いるけど、さっきみたいな変な人もたまにはいる。

 でも、あそこまで露骨なのは久し振りだ。

 少し、嫌な気がする。

 前期から続く、あの感じ。

 生徒会長が前言っていた「学校側」が私達を退学させる、という事と何か関係あるのだろうか。

 ただそういう事を考えるのは、サトミやケイに任せておけばいい。

 私に出来るのは、結論が出た時に動く事だから。 



「失礼します」 

 頭を下げ、ドアを閉めるショウ。

 で、廊下で待っていた私達に手を上げる。

「終わった。帰ろうぜ」

 そう言うや、廊下にある窓を開けた。

 別に暑くはない。 

「何してるの?」

「ここから帰るんだよ」

 爽やかに微笑んで、ドアの外を指さす。

 6階です、ここは。

「馬鹿は、この人なんじゃない」 

「聞こえてるぞ、サトミ」

「聞こえるように言ったのよ」

 呆れて首を振るサトミを指さし、ショウは小さな箱を取り出した。

 これって前期に借りた、相手との距離を埋める装置。

 壁にラインを投げて、引っ張ってもらうあれだ。

「それで下りる気?」

「一度やってみたかったんだ」

 喜々として先端を壁に貼り付ける。

 そして、いそいそとドアに飛びついた。

 動きは危なげないけど、高さ的には相当危ない。

「それじゃな」

 なんの余韻もなくショウの姿が消える。

「ショウッ」

 慌ててドアに駆け寄る私達。


 早い。

 すでにその姿は半分くらい下にある。 

 壁に足を付き、それを蹴りながら素早く下へ降りて行っている。

 レンジャー部隊がビルから降下するのをテレビとかで見るけど、あれと同じ要領だ。

 感心している間もなく、ショウはあっという間に地上へと降り立った。

 なんなんだ、あの人は。

「戻すぞー」

 叫び声が聞こえ、ウインチが巻き上げられる。

 少しすると小さな箱が上ってきて、窓から身を乗り出していた私の手の中に収まった。

 ふーん、こんなのでね。

 下で笑っているショウと、手の中にある箱を交互に確かめる。

 ふーん。

 へー。


「……あなたは、階段で下りるのよ」

 サトミが、すっと私の顔を覗き込んでくる。

「分かってる。分かってるって」

「だったら、それ貸して」

「だ、駄目駄目。これ扱いが難しいの。急に動き出したら、サトミが怪我するわよ」

 嘘じゃない。

 ショウのリュックの中で、「ヒュルルッ」と言う音がたまにしているのだ。

 最初はお化けでも住んでるのかと思ってたら、これだった。

 いや、お化けなんていないけどね。

 いないけど、私は怖かった。

「分かった。ユウも、それを外したら下りてくるのよ」

「うん。先行ってて」

 階段の手前でこちらを振り返り、ため息を付きながら消えていった。

 ケイは振り返る事もなく、何も言わず消えていった。

 何か言ってよ。

「さてと」

 壁に手を付き、ラインを引っ張る。

「あれ。取れないな」

 もう一度引く。

「取れないや。あっ」

 靴の紐が緩んでる。

 いけない、結ばないとね。

 なんか、時間がどんどん過ぎていくな。


 ……はい、結び終わったと。

「よっと」 

 ラインを引っ張るけど、まだ取れない。

 おかしいなー。

「どうしたのかな?」

 首を傾げ、窓の下を見る。

 サトミとケイが、ちょうど出てきたところだ。

 ショウが、サトミに怒られてるのも見える。

 しょっちゅう怒られてるな、あの子は。

 そんな見慣れた光景も、上から見るとまた新鮮。

「あ、やっと取れた」

 ボタンを押し、セーフティを解除したので。

 でもサトミ達は、もう下に行ってしまった。   

 階段を使っていたら、遅くなる。

 エレベーターは壊れてるし。

「仕方ないなー」

 ラインの先端を壁に付け直し、窓に飛びつく。

「やっ」

 軽い軽い。

 まずはスカートの裾をリボンで縛って、見られるのを防いでと。

 今日はまだ、スパッツ履いてないので。


「ユウー」

 おー、怒ってる怒ってる。

「ごめーん、今行くからー」

「そういう意味じゃないでしょー」

 聞こえない振りをして、後ろ向きに身を乗り出す。

 風が下から吹き付けて、大きく体を揺らしてくれる。

 おお、この感じ悪くない。

 それにしても、高いね6階って。

「よっ」

 窓際を軽く蹴り、しっかりと箱を握る。

 ラインなんて握ってたら、指が落ちるから。

 その場合はセーフティーが掛かるとマニュアルにはあるが、試す気にもなれないし。

 ふわっと体が浮き、すすっと降りていく。 

 おお、これは面白い。

 ショウに後でお礼を言おう。

 体が壁際へと寄るので、また軽く蹴る。

 するとラインが伸びて、また下へと降りていく。

 振り返ると背の高い木々が上から覗けて、ちょっと不思議な気分。

「ユウー、ゆっくり降りるのよー」

「分かってるー」

 さすがに手は振れないので、声だけで返事をする。

 ……ん。


 壁を蹴り、箱をぎゅっと掴む。

 正確には、センサーを反応させる。

 あれ?

 壁を蹴って、箱を。

 あら。

「ユウー、どうしたのー」

 返事が出来ない。

 怖いからじゃない。

 壊れたからだ。

 セーフティーボタンを押しても、ラインを引っ張っても。

 動こうとしない。

 ……落ち着こう。 

 まずは、下を見てと。 


 すでにサトミの端正な顔ははっきりと見え、心配そうにしているのも分かる。

 彼女がしてくれたのか、ショウとケイは背中を向けているが。 

 一応私のスカートの中を覗かれないようにとの配慮だろう。

 そして今度は、顔を前に戻す。

 上から下へと、窓の位置を確かめる。

 ちょうど3階。

 少し上には、窓と排水溝か何かの段差がある。

「サトミー、そこどいてー」

「どうしてー」

「飛び降りるからー」

 そうしたら、「わー」とか叫ばれた。

「だ、駄目よっ。危ないじゃないー」

「大丈夫ー。そんなに高くないってー」

「だ、駄目ー」

 髪の毛を振り乱し、懸命に両手を振っている。

 その綺麗な顔は、もう心配でたまらないといった様子だ。

 そんなに心配しなくても、この高さならいいと思うんだけどな。 

 大体、いつまでもこれにしがみついてられない。


「ケイッ。早く上に上がって、ユウを支えてっ」

「何で」

「ユウが、宙吊りになっちゃったのよっ」

「馬鹿じゃないの」 

 サトミにはたかれるより前に、一歩引くケイ。

「ショウは、下でユウを受け止めるの。ほら、早くしてっ」

「見てもいいか」

「……ユウッ」

「いいよー。足閉じてるし、リボンがあるからー」

「見なさいっ」

 強引にショウを振り向かせるサトミ。 

「……なんだよ。飛び降りればいいだろ、あれくらいなら」

「駄目っ。そんなの絶対駄目。怪我したらどうするのっ」

「あ、ああ」

 サトミのとてつもない剣幕に押され、学校最強とも言われる男の子が後ずさる。

「ユウー。ショウに受けてもらうのがいいか、それともケイの方がいいー」

「あのね、サトミさん。俺が受け止められる訳無いって」

「そ、そうね」

 というか、ケイに抱きしめられるなんてぞっとしない。

 しかも、下から覗かれるなんて。

 うう。

「じゃあ。やっぱりケイは、早く上ってユウを支えて」

「はいはい」

 仕方ないといった返事をして、建物へと入っていくケイ。

 ショウはサトミに遠ざけられ、私の下からどかされた。

 確かに、リボンはあるけど覗かれないとも限らない。 

 ショウにならと思わなくもないけど、積極的に見せたい物でもない。


 少しして、上から声がした。

「ユウ、引っ張るよ」

「お願いー」 

 自分でもラインを伝いつつ、どうにか窓枠に手が掛かった。

 天から垂れ下がるクモの糸を上るって、こういう気分かな。

「どうして、この機械をみんなが使わないか知ってる」

「知らない」

 手すりの隙間から私を見下ろしているケイが、ぼそぼそと説明を始める。

「まず、扱いが難し過ぎる。余程運動神経がいい奴じゃないと、怪我するだけだ。それと数が少ない、貸し出しの金額が高い。その割には、使い道が下らない」

 私の手を取った彼の顔が、ニヤリとなる。

「そして最大の理由は、壊れやすいから。例えば、今みたいに」

「そんな」

「矢田君が貸してくれた時、よく使いこなせそうにも無い物持ってるなって思ったんだ。でも、ユウ達ならと思ったんだけど。やっぱり駄目か」

「最初に言ってよ」

 ケイの助けを借り、窓の下にある段差に足を掛ける。

 そして手すりにしがみつき、どうにか落ち着く事が出来た。

 どう表現したらいいのか、檻に入ったお猿さんみたい。

 実際には、私が外にいるんだけど。


「ここからは入れないのね。上の窓は、こんな手すり無かったのに」

「そのおかげで、この様か。どうしようもないな」

 何が面白いのか、ゲラゲラ笑われた。

 でも私は面白くないので、手すりの隙間から彼の脇腹に指を突き立てた。

「がっ」

 変な声を出して、後ろに下がる。

 軽く押しただけであれだ。

 で、やり返される前にラインを掴んで後ろへ飛ぶ。

 つまり、再び空に舞い上がる。

 ケイの手は空を掴み、戻ってきた私に再び脇をつつかれる。

 これは駄目だと思ったのか、鼻を鳴らして睨んできた。

「ったく。何でこんな、ミノ虫女のために」

「失礼ね。天使くらい言ってよ」

「羽根無し、鼻無し、胸も無し。せいぜいカラス天狗だね」

 むっときてもう一度反動を付けようとラインを掴んだら、下から声が飛んできた。

「二人ともー、ふざけてないで大人しくしてなさいー」

 手を振ってサトミが怒っている。

 本当は私を心配してくれてるんだけど、簡単に言えば怒っている。

 これ以上は私も怖いので、箱をケイに渡して手すりにしがみついた。

 ケイも壁に付いていたラインを離し、箱の中へとそれを戻し始める。

「もう、怒られたじゃない」

「自分のせいだろ」

 ぶつぶつ言いながら、こそっとサトミの様子を窺う私達。 

 よかった、もう怒ってない。

 というか、私達が怒らせてるんだけど……。


「いいー。下でショウが受け止めるから、自分のタイミングで飛び降りるのよー」

「分かったー」

「ショウ、ほら」

 サトミに促されて、体を解しながらショウが前に出てくる。

 すると風がリボンを揺らし、どこかへ運んでいってしまった。

「わっ」

 叫ぶも遅し、紺のスカートがはためき始める。

 取りあえず、片手だけでスカートの後ろを押さえる。

 これはまずいと思って、下を見たら。

 ショウと目が合った。

 笑ってるよ。

「……それじゃあ、役得という事で」 

 何故か一礼して私の下に立つショウ。

 その途端、サトミにお尻を蹴られた。

 いい中段回し蹴りだ。

「じょ、冗談だろ」

「それが通じると思ってるの」

 睨み上げての、説教が始まった。

 その大きな体を小さくして、しきりに頷くショウ。

 怖いねー、サトミちゃんは。

「はは、怒られてる」

「大変だなー、先生ー」

 のんきに声を掛けたら、今度はこっちを睨んできた。

「下らない事はいいから、大人しくしてなさいっ」

「は、はいっ」

 慌てて顔を戻す。

 ケイはまだ、サトミの見えない角度からショウの顔を指さしているが。

 この人が懲りるって事は、一生無いんだろうな。


「ユウー、いつでもいいぞー」

「分かったー」

 顔だけ振り向いて、下にいるショウへ返事をする。

 彼なら、どうなっても受け止めてくれるだろう。

 ケイが駄目な理由は個人的な好みとかより、その体力や運動神経という事だ。 

 私はともかく、彼は確実に怪我をする。

「押そうか」

 暗い笑みを浮かべ、手を伸ばそうとしている男の子。

 この人、こういう時は妙に楽しそうだな。

「いやだ。それより、飛び降りた時覗かないでよ」

「ショウはいいの?」

「上見ないと、受け止められないじゃない」

「差別だ……」

 寂しい顔しているけど、あなたには見せられない。

 ケイが壁まで下がったのを確認して、スカートを押さえつつ体を前に向ける。

 改めて見ると、結構高い。

 3階というのは伊達じゃないね。

「行くよー」

「おー」

 両手を振っているショウがやや下に見える。

 心配そうに手を揉みしぼっているサトミも。

 だから、大丈夫だって。

 根拠はないけどさ……。


「やっ」

 特にためらいもなく踏み切る。

 ふわっと体が浮き上がるような、それでいて落ちていく体。

 髪が後ろにたなびき、ブラウスやスカートも激しく揺れる。

 スカートを両手で押さえているので、後はもうショウだけが頼りだ。

 ちょっとした身投げだね。

 あっという間にショウの姿が迫ってくる。

 よかった、何とかなった。

 と思ったら、体が横へと大きく流れた。

 気まぐれな突風が吹いたのだ。

 ちょ、ちょっと、そんなのはいいんだって。

 ショウやサトミもそう思ったらしく、驚きの表情へと変わる。

「わっ」

 さすがにスカートから手を離し、バランスを取りに行く。

 残り3mあまり。

 受け身を取るには十分な距離だ。

 くー、サトミの言う通り素直に階段で下りればよかった。


 後悔も一瞬、下の芝生を影がよぎる。

「いいぞっ」

 両手を広げ、目の前に突如現れるショウ。

 風の流れを読んで、すぐに回り込んでくれたのだ。 

 私も両手を広げていたので、胸から落ちていく格好となる。

「わっ」

 それこそ飛び込むようにショウへと抱きつく。

 そしてしっかりと抱きしめてくれるショウ。

「へへ。助かりました」

 彼の厚い胸板にしがみつきながら、照れてみる。

「ユウは軽いから、風でも飛ぶんだな」

 私の脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げるショウ。

 その分、珍しく彼を見下ろす格好となる。

 何だか、いい気分だ。

「ん、どうした」

「こういう高い視点も良いなって思ったの。ほら、私小さいから」

「肩車してやろうか」

 頷き掛けたところで、上から声がする。

 ケイだ。

「おーい」

 気分がいいので、持ち上げられたまま手を振る。

 すると彼、下を指さしてる。 

 私達じゃなくて、もう少し離れた所だ。

 一体なんだって……。


「あ……」

 声を合わせ、顔も見合わせる私達。

 私はすかさずショウの腕から飛び降り、走り出した。

 大の字になって、芝生の上へうつ伏せになっているサトミの元へ。



「だ、大丈夫っ?」

 サトミの肩を抱き、慌てて起こし上げる。

 すると彼女は無言で立ち上がり、服に付いた芝生を払い始めた。

 私もスカートを払って、そっと見上げる。

 ひょ、表情がない。

 でも、何で倒れてるんだろ。

「……ユウが横に流れたから、すぐ走ったのよ。そうしたら転んだの」

 自分から説明をしてくれた。 

 この人、結構鈍いんだよね。

 っと、そんな事考えてる場合じゃない。

「ご、ごめん」

「いいのよ。私が鈍いだけなんだから」

 あ、拗ねた。

 しゃがみ込んで、芝をむしり始めてる。

「ほら、ショウも謝って」

「ああ、悪い。そのなんだ、芝でよかったな」

「そうね。幸せな二人が戯れるにはいい場所かもね」

 駄目だ、完全に拗ねた。

「何やってんの」

「あ、ケイ。あなたも何か言ってよ」

 するとケイは例の箱を私に渡して、首を振った。

「俺、女心に疎いから」

 すたすたと歩いていく。

 逃げたな。

「俺も、その辺の機微は分からないんだな」

 あっという間に走り去るショウ。

 な、何それ。

「こうして私は、みんなから見捨てられていくのよ」

「だから、そうじゃないんだって」

「じゃあ、何かちょうだい」

「え?」

 唐突に差し出された手をじっと見つめる。


「愛、なんてどう?」

 胸元に手を揃えて、小首を傾げ可憐に微笑んでみせる。

「面白いわね」

 醒めた表情で笑われた。

 へ、どうせ私は笑い者ですよ。

「寒いわ」

「秋だもん、当たり前でしょ」

「コートがあったら、暖かいでしょうね」

 怖い事言うな。

 レインコートでも着てればいいんだ。

「家に帰れば、昔のが幾つかあるよ。それで……」

「私が、ユウのを着れると思う?」

「無理だろうね」

 あっさりと頷き、軽く笑ってみる。

 でも彼女は、笑ってはくれない。

「寒いわ」

 肩を抱き、震え始めるサトミ。

 止めてよ。


「分かった、分かったから。冬になったら、手袋買ってあげる」

「ジャケット」

「マフラー」

「セーター」

 ちっ、仕方ないな。    

「はいはい。セーターね。でも、そんなに高いのは無理よ」

「手編みで作ったら」

「モトちゃんじゃあるまいし」

 端末を取り出し、約束の欄に「サトミへセーター」と書き込む。

 画面をスクロールさせると、前期の始め辺りにおごらされたカルボラーナとかが値段と共に表示された。

 とはいえサトミの端末にも、私への「約束」が幾つもあるからね。

 お互い様である。

「ほら。取りあえず私が暖めてあげる」

 私は両手を広げ、手の平で彼女を手招きした。

「何それ」

 綺麗な顔をしかめ、一歩下がるサトミ。

「いいじゃない。寒いんでしょ」

「暖かくはないわよ。風も出てきたから」

「だったら、ほら」

 呆れたのか、首を振りつつ歩み寄ってくる。

「どうして、こんな所でユウと抱き合うのよ」

「抱き合うんじゃなくて、私が抱きとめるの」

「同じじゃない」

 苦笑しつつ、彼女が私に身を寄せる。

 長い黒髪がたなびき、私の体を覆っていく。

 ベストを着たサトミの背中に手を回し、その手に優しく力を入れる。

「暖かい?」

「恥ずかしいから、少し暑くなったわ」

「あ、それ私も」 


 でも、私達は離れない。

 私の背中に回った手は、しっかりと私を引き寄せてくれる。

 耳を打つ、微かな鼓動。 

 トクトクと、可愛らしい音がしている。

 間近にある端正なサトミの顔は、照れのせいか赤らんで見える。

 無性な愛おしさが、胸の中にこみ上げる。

 私は腕に少しだけ力を込めた。



 伝わるサトミの温もり、そして伝わっていく私の温もり。

 大丈夫、サトミは一人じゃない。

 私達がいる、ヒカルも、モトちゃん達も。

 他のみんながあなたを振り返らなくても、私達は絶対あなたの側にいる。

 こうして抱き合える距離に、いつもいる……。


 で、ふと気づいた。

 彼女の可愛らしい鼓動を聞きながら。

 どうしてそれが聞こえるのかって。

 理由は一つ。

 私が、サトミの胸に顔を埋めているからだ。

 これって私が抱きしめてるんじゃない。

 サトミが、私を抱きしめてるんでしょ。

 もしかしなくても、逆だ。

 小さいな、私は……。

 でもいいか、暖かいから。

 そう思い直し、私は彼女の柔らかな胸に頬を当てた。

 サトミの温もりを、強く感じたくて。

 冷たいとも思われている、でもこんなにも暖かな彼女の温もりを。

 彼女の心から伝わる、私を包んでくれている暖かさを。








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