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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第31話
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31-1






     31-1




  右頬をかすめていく疾風。

 それに合わせて体を進め、ローからミドルへつなぐ。

 即座に後ろへ下がり、鼻先を何かが通り過ぎた気配を感じつつ小さく左肘を振ってそれを打つ。

 腰をかがめて頭上に意識を払いつつ、水面蹴りから床に手をついて倒立の体勢で蹴りを二発。

 背中が壁についたところで、「そこまで」という声が聞こえてくる。


「ふぅ」

 目元に付けていたアイマスクを取り、顔に浮かんだ汗をぬぐう。

 身体的な疲労よりも、精神的な発汗。

 手の平は、水へ漬けたように濡れている。

「やや、踏み込みが甘いですね」

 相変わらずの事を言ってくる水品さん。

 ここはRASのトレーニングジム。

 今やっていたのは、視覚を遮った状態での自由組み手。 

 組み手と言っても、私一人に対して数名が掛かってくるんだけど。

「相手の動きを、何で判断してます?」

「音とか、空気の振動。後はマットの揺れ。気配も多少」

「牽制は、どの程度」

「いや。そんな余裕は無いんですけど」

 練習とはいえ、相手もある程度は本気で私に掛かってくる。

 一人ずつ倒していくだけでも大変なのに、余計な動きを加える余裕なんてある訳が無い。

「見えてないという相手の油断を誘うためにも、見当違いの場所を蹴るのも有効ですよ」

「そこに壁があったら?」

「無い事を祈りましょう」 

 なんだ、それ。

 まずは、水品さんを蹴った方が早いんじゃないか。

「どちらにしろ、目にも負担になるので今日はここまで。皆さん、ご苦労様でした」

 マットに転がっていた練習生達は水品さんと私に挨拶をして、道場を出て行く。

 プロコースの人やプロがいたように見えたけど、多分気のせいだ。


「こういう練習は好まないと思ってたんですが」

「好き嫌いを言ってられないと思いまして。相手が、私の都合を考慮してくれるなら襲ってこないし」

「なるほど。達観してますね」

 そうなのかな。 

 自分では、半分やけになってる気もするんだけど。

「それと大晦日なのに、ここで遊んでていいんですか」

「大丈夫。大掃除は、ショウに手伝ってもらいましたから」

「四葉さん自身の掃除はどうなってるんです」

 その突込みには答えず、タオルで顔を拭きながら荷物をまとめる。

 確かに、年の瀬だというのにこんな事をしてる場合じゃないな。

「私も帰りますね。では、良いお年を」

「雪野さんも、そういう事を言うようになりましたか」

「私も、いつまでも子供ではありませんから」

「では、来年のお年玉は無しと言う事で」

 前言撤回。

 私は10年先まで子供でいよう。



 実際水品さんの言う通り、いつまでも遊んでいたって仕方ない。 

 また目や神経への負荷を考えれば、長時間出来る練習内容でもない。

 だったら始めからするなという話にもなるが、実戦で経験を積むにはあまりにも危険が多すぎる。

 練習でも、危険は高いけどね。

「ただいま。ご飯は」

「今用意してるわよ。リビング片付けて」

 キッチンから聞こえるお母さんの声。 

 その側からは、お父さんの笑い声も聞こえてくる。

 こっちはこっちで、いつまで経っても仲が良いな。

 私が、いつまでも子供のままでいる訳だ。

 などと勝手に理由を付け、部屋で着替えてリビングに入る。

「お帰りなさい」

 ソファーの真中に座り、くつろいだ態度でTVを見ているサトミ。

 番組は、シスタークリスを扱った内容。

 ただ以前見たような気もするので、おそらくは再放送だろう。

「前、見たよね」

「何度だって見るわ」

「面白い?」

「黙って。今、いいところなんだから」 

 語気を強め、身を乗り出すサトミ。

 別に感動的なシーンという訳でもなく、近付いて来た子猫をシスター・クリスが腰をかがめて撫でただけの事。

 ただしサトミには何がしかの感慨があるらしく、自分が撫でられているように目を細めている。

 とはいえこの子がクリスチャンになりたいと言い出した事は無く、またキリスト教自体にも傾倒はしていない。 

 その崇拝と言うか敬意は、あくまでもシスター・クリスに対してだけ向けられている。

 私も彼女。クリスティーナさんは好きだが、猫を撫でるシーンに感動する程は思い入れてない。

 という訳で、テーブルの上を片付けて食事の準備をする。


 その間にシスター・クリスの番組が終ったらしく、今度は小難しい番組を見始めた。

 宇宙の始まりとチャイルドユニバースだって。

 どうやらこの世の中には、言うなれば別次元の宇宙があちらこちらに存在するらしい。

 太陽系とか銀河系ではなくて、宇宙そのものが。

 にわかには信じられない話しだし、実際行って帰って来た人もいない。

 あくまでも仮説、推測の段階。 

 立証されても、ちょっと怖いし。

 第一別な宇宙にも雪野優がいて、そっちの方が優秀だったらかなり気まずい。

 同レベルでも、やっぱり気まずいけどね。

「本当に別な宇宙なんてあるの?」

「ワームホールを通過出来る手段があるなら、調べられる可能性もあるわ。抜け道自体は、そこかしこに存在しているらしいから」

「吸い込まれない?」

「量子レベルの話よ。今はまだ、宇宙人を探す方が早いかも知れない」

 夢物語。

 科学者の壮大なロマンといった所か。

 私は日本国内どころか名古屋に付いてすら未だによく分かってないので、宇宙がどうなっていようと関係ない。



 夕食と一緒に年越しそばを食べ、一息ついたところでモトちゃんがやってきた。

「初詣、どうする」

 今日は大晦日。

 別にお参りしなくても神様は怒らないが、それはまた別問題だ。 

「あまり遠くはちょっとね。暗い所を運転したくないし」

 去年というか今年は多度大社まで行ったが、正直夜道を運転したくは無い。

 不意に目の調子が悪くなって。 

 その時、運転するのがこの二人だったら。

 正月早々お父さん達を悲しませ、新聞の片隅に載る可能性がある。

「ユウ、後でひどいわよ」

 低い声を出し、私を睨みつけるサトミ。 

 どうやら、あっさりと考えを読まれていたらしい。

 だけどひどいって、いつもひどいじゃないさ。

「熱田神宮でいいでしょ。ここからは近いし、バスも地下鉄もあるから」

 穏やかな声を出して、そう提案するモトちゃん。

 確かに無難な選択で、賢い選択であるとも言う。

「ショウ君達も呼べば」

「あの子、暇かな」

 実家か玲阿家の本邸にいるとは思うが、旧家なので私達とはまた違う時の流れで生きている。

 それでも端末を手に取り、ショウのアドレスをコールする。

「……私。……あ、そう。……いや。初詣に行こうかと思ってさ。そう、熱田神宮。……あ、分かった。じゃあ、また後で」

「来るって?」

「うん。ヒカル達も一緒みたいだよ」

 ヒカルはともかく、ケイに信心があるかはかなり疑わしい。

 というか、神社に行ったら雷が落ちてくるんじゃないだろうか。



 コタツに入ってみかんを食べながら待つ事しばし。

 少し眠くなってきたところに、ショウ達がやってきた。

「寝てるのか」

「誰が」 

 ふにゃふにゃと答え、TVのチャンネルを変えようとして湯飲みを掴む。

 大晦日だし、このくらいの事は許して欲しい。

「熱田神宮は車じゃ無理だな」

「良いよ、地下鉄で行くから。えーと、何すればいいのかな」 

 まずは床に転がり、コタツに肩まで埋もれて目を閉じる。 

 後は、春が来るのを待つとしよう。

「おい」

「……冗談だって。上着取ってくるから、少し待ってて」

 欠伸をしながらコタツを這出て、少し冷え込む廊下へとやってくる。 

 薄暗い階段を、手すりに伝いながら上って部屋へと到着。

 ベッドがにっこり笑ってるけど、その誘惑はきっぱり断る。

「えーと」

 クローゼットを開け、端から適当な物を探していく。

 暖かくて、おめでたくて、可愛い物。 

 そんな都合の良い上着はそうそう無いが、全くという訳でもない。

「これは、ちょっと」

 カシミヤか何か、高級そうな生地の赤いコート。

 悪くは無いんだけど、矢加部さん経由で手に入れたためちょっとパス。

 同じようなコートで、フード付きの方を取り出して着込む。

 北海道にも持っていった、この時期にはぴったりの上着。

 決して高級な生地ではないが防寒には問題なく、フードを被ればより暖かい。

 恥をかいて熱くなるのかも知れないけどね。




 外に出た途端、身を切るような夜風に吹かれて思わず叫ぶ。

 上はともかく、下はミニスカート。

 冷気がこれでもかという程攻め立ててくる。

「さすがに静かだな」 

 トレンチコートを風になびかせ、綺麗な星空を見上げるショウ。

 工場は休みで、国道や主要な幹線道路を走っている車も普段とは比較にならない。

 空気は澄み、静けさが街全体を包み込む。

 勿論、郊外の静けさに比べればかなり騒がしいんだけど。

「痛いよ」

 脇とお腹を押さえ、よろよろと歩くケイ。

 寒いとどうしても傷に触るらしく、実際それ程楽しそうな顔ではない。

 とはいえこの人が楽しそうな時は周りが不幸な時なので、こっちの方がいいかもしれない。

「地下鉄も混んでない?」 

 もっともな事を言ってくるサトミ。

 ここから熱田神宮、神宮西駅まではどれ程も無い。 

 しかし初詣に来るのは名古屋市内からだけでなく、東海地区。ひいては全国から。

 最寄の駅はいくつかあるが、地下鉄もその内の一つ。 

 混むのは間違いないし、乗らない事には始まらない。


 路地を出て大通りに抜けると、真夜中だと言うのに人の流れが出来ている。

 私達もその流れへと乗り、地下鉄の駅へと向かう。

「結構いるわね」

「神様頼みなのよ、結局」

 欠伸をして、体を伸ばしながらそう言うモトちゃん。

 今の彼女を見たら、神様がどう思うかな。

「名雲さんは良いの?」

「実家に帰ってる。九州に」

「付いていけば」

「そういうタイプに見える?」

 小首を傾げ、意見を求めてくるモトちゃん。

 家庭的な方だし、そういうタイプと言えばタイプ。

 ただいつも一緒にいないと気が済まないという訳でも無いと思う。

「一生の別れじゃないんだから。それに、柳君が付いて言ってるわよ」

「柳君は実家に帰らないの?」

「その後寄るとは聞いてる。ねえ、ケイ君」

「ああ」

 脇腹とお腹を押さえ、無愛想に答えるケイ。

 それは痛みだけのせいか、それとも対馬にいる彼女に嫉妬してか。

 まさか後者では無いと思うけど、この二人の仲もかなり不明だからな。



 ようやく地下鉄の駅へと着き、長い階段を下りて発券機の前までやってくる。

 IDカードでも改札は通れるが、切符を買うのがまた楽しみの一つ。

 多少出来ている行列に並び、今か今かと自分の順番を待つのがより旅の面白さを引き立たせる。

 なんて子供の頃は思ってた。

 今でも多少。

 自分の番が回ってきたところで、所定の区間の切符を買って改札へと向かう。

 結局、切符を買ったのは私だけ。

 みんなは、IDカードで済ませるようだ。

「買うなよ」

 無愛想な男を睨み、その鼻先へ今買ったばかりの切符を突きつける。

「これがあればどこにだって行けるのよ。夢の国へのパスポートなのよ」

「3つ先の駅までだろ」

「ああ?」

「付き合いきれん」

 首を振り、カードを出して改札を通るケイ。

 通ろうとして、センサーの前でカードを落として止められた。

 それ程混んでないから笑い話だけど、ラッシュ時だったらケンカ騒ぎになるんじゃないの。

「いつも楽しそうだね」

 ニコニコと笑い、その横を通っていくヒカル。

 それは自分じゃないのと思いつつ、私も彼の後に続く。

 まずは細いスリットに切符を通す。

 パタリと音がして通行を制限するバーが引っ込み、改札の通過を許される。

 通った先の改札機から出てきた切符をしっかり取って、大切に財布の中へとしまいこむ。

 ただ私はノスタルジックな気分でやっているが、切符の取り忘れや手間を考えればIDカードの方が便利なのは間違いない。

 実際切符制を取っている鉄道や地下鉄はごく一部と聞くし、誰かつぼを心得た人がいるんだろう。 

 相当な経費の無駄使いという気はしないでもないが。


 初詣客に合わせて、今日から明日の早朝に掛けては終日運転。

 ホームで待つ人も、振袖姿の女性が目立つ。

 それに憧れを抱かなくも無いが、この寒さや動きにくさを考えると二の足を踏む。

 何より、お稚児さんになりそうでちょっと着たいとは思わない。



 やがて黄色の電車がホームへと滑り込み、正確に所定の停止位置で停車する。

 ゆっくりと開いたドアから中へ乗り、席を確保する。

 のは止めて、運転室の後ろへ張り付く。

「暗いだけだろ」

 どこからか聞こえてくる陰気な声。

 それに聞こえない振りをして、発車のベルと共に滑り出した景色を眺める。

 最後にホームへ立っている駅員さんへ確認の合図を出し、ここからは一気に加速。

 いや。私がではなく、運転手さんがね。

 後はケイの言う通り、ただひたすらに暗いだけ。

 ここは先頭車両だからライトがある分、行く手は多少明るくなる。

 ただし見える景色は、柱と壁。

 別に面白い事はありはしない。

 あっても困るしね。

「あーあ」

 すぐに飽き、やや混み合っている車内を見渡しながらドアのそばに固まっているサトミ達の所へ向かう。

 ドアの窓から外を見れば、運転席よりは面白い光景が繰り広げられている。

 地下鉄と並んで走る、やたらに大きい真っ白な猫。

 勿論実際に猫がいる訳は無く、壁のモニターへ連続で表示される絵のせい。

 地下鉄の流れにより、それが動いて見えるだけ。

 運転席からは角度とライトの関係で、運転操作を妨げないよう見えない仕組みになっている。

「はは、この猫早い」

「猫の早さは、地下鉄の速さでしょ」

 ごく冷静に事実を告げてくるサトミ。

 どうやら彼女は、これに何の感慨も抱かないようだ。

「黒猫だと面白いのにね」

 なんて事を言うヒカルとは対照的に。

 ある意味真逆の二人だけど、だからこそ上手く行ってるのかも知れないな。

 どう上手く行ってるかは知らないし、知りたくもないけどさ。



 ひとしきり楽しんだところで、地下鉄は神宮西駅へ到着。

 地上に出れば、熱田神宮はすぐそこ。

 という訳で、ホームから上へ向かう階段やエスカレーターはラッシュ時並みの混雑。

 なんか、気が重くなってきたな。

「ショウ、ユウの手を取って。危ないから」

「え、ああ」

 おずおずと、それでもしっかりと私の手を握るショウ。

 私もそっと握り返し、気分を良くする。

 本当、我ながら現金なものだ。


 なんて喜んでたのもつかの間。

 それこそ人の波に揉まれるような体感で、手をつないでなければどこへ行くか分かったものじゃない。

 これを離せば、命もそこまで。

 という程大げさではないが、迷子になるのは間違いない。

「み、みんなは」

「見えてる」

 やや背伸びしてそう答えるショウ。

 私が見えているのは、綺麗な振袖の大きな帯。 

 本当、小さいどころの話しじゃないな。

 勿論、私の身長がさ。

「出口は」

「この階段を上った先。みんな、そこで待ってる」


 しかしこうなると、甘酸っぱい気持ちとか風情とは全然別の話だな。

 とにかくこれが命綱といった心境で、知らない内にかなりの力を込めていた。

「ふぅ」

 どうにか階段を上りきり、圧迫死は免れた。

「離せよ」

 だるそうに呟くケイ。

 小噺でも話せって言ってるのか、この人は。

「まだいいじゃない。この先も混んでるでしょ」

「良いけどね、別に」

 急にニヤニヤとして、背を丸めながら歩き出すケイ。 

 何の事かと思いつつ、額の汗を拭こうと手を上げる。

 すると、ショウの大きな手もついて来た。

 なるほどね。 

 とはいえサトミの言う通り、この先もかなりの混雑。 

 ここは好意に甘えるとしよう。

 すでに左手は熱田神宮で、うっそうとした森が生い茂る。

 時折場違いな鶏の鳴き声も聞こえたりして、ここに来たんだなと変な所で実感する。

 歩道は車が並行して走れる程広いんだけど、そこを初詣客がどこまでも埋め尽くす。

 切れ間が無いどころか増えていく一方で、ただ自分もその混雑の要因でもある。

「たこ焼きか」

 もう一つの混雑の要因。

 歩道の右側にずらりとならぶ露天商。

 たこ焼き、綿飴、チョコバナナ。 

 さすがに金魚すくいは無くて、代わりにおでんが置いてあったりする。

 食欲は満たされているし、値段の割に味はいまいちというのが屋台の相場。

 お祭りならこの雰囲気を楽しむんだけど、今はもう少し厳かな気分な方が良い。


 未練がましそうに後ろを振り返るショウを引っ張り、大きな鳥居の下をくぐる。

 この場合の大きさは、相対的ではなく絶対的に。

 それこそ天を衝くような高さでそびえ、灯篭と月明かりに照らされて上の方は滲んだようにぼやけている。


 参道を埋め尽くす人の流れに乗り、ゆっくりしたペースで本殿へと向かう。

 急いで良い事は何一つ無く、転んで怪我をするくらい。

 別に一番乗りだからって、神様が順番を付けている訳でもないし。


 今入ってきた門をある程度進んだところで、本殿へ向かう道へと合流する。

 こちらはさらに輪を掛けた混雑振りで、流れに乗るのも一苦労。

 私一人だったら、完全に見当違いの所へ押し出されてる。

「手、洗う?」

 左手にある清水と柄杓。

 そう言いながら、もう手を洗っているモトちゃん。

 信心深いタイプではなかったと思うし、知り合いにも何かを信仰してる人は誰もいない。

「冷たい」

 言わずもがなの事を言い、ハンカチで手を拭くモトちゃん。

 人がやってるのを見てると、つい真似をしてしまいたくなる。

「へへ」

 手袋を外し、湧き出る清水を柄杓ですくって手に掛ける。

 清水と言っても実際は水道水で、中には口をすすぐ人もいる。

「あー」

 頭の先まで伝わってくる冷たさ。

 風に吹かれて指先はしびれる程で、思った通り後悔した。

「これで、身も心も清まったかな」

「どうかな」

 モトちゃんと二人でくすくす笑い、まだ冷えている手をお互いに揉み合う。

 こういうぬくもりも、また楽しい。

「じゃ、後はショウ君よろしく」

「え。ああ」

 手袋をした私の手をしっかりと握り締めるショウ。

 私も負けずに、ひしと握り返す。

 返そうとしたが、痺れてるので全く力が入らない。

「どうも、ふにゃふにゃするな」

 予定変更。

 彼の腕にしがみ付き、体を少しだけ寄せていく。

 かなり恥ずかしいと言うか、間違いなく恥ずかしい。

 でも迷子になるよりはましだし、この暗がりの中一人出歩くには色んな意味で不安が大きい。

 視覚的な事は勿論、暗がりから何かが出てきた時のためにも。



 大きな鳥居を再びくぐり、人混みの彼方先に本殿が見えてきた。

 これ以上前に進むのは不可能に近く、多分迷子どころの話ではなくなってくる。

「えいえいっ」

 軽く振りかぶり、本殿へ向かって小銭を投げる。

 時間的にはまだ大晦日。

 新年を迎えるのは少し先。

 とはいえ神様も、このくらいの時間差は許してくれるだろう。

 それに釣られたのか私同様気が早いのか、あちこちから小銭が飛んで本殿を目指す。

「来た来た」

 丁度目の前に落ちてくる数枚の小銭。

 ケイはそれを拾い上げ、どうするかと思ったらポケットの中にしまい込んだ。

「ちょっと」

「別に、持って帰るとは言ってないだろ」

 だけど、ポケットからも出てこない小銭。

 私が神様なら、いますぐ鉄槌を食らわすな。



 人混みに疲れ、人の流れから外れて道端にしゃがみ込む。

 その間にも次から次へと人が押し寄せ、独特の熱気が辺り全体を包み込む。

 年越し前の、何とも言えない緊張感。

 大晦日も正月も、ただの一日。

 普段と違う事は何もないと言う人もいる。  

 確かに時間という流れにおいては、何も違いはないだろう。

 違うのはそれぞれの心の持ちよう。

 心構えや気持ちの問題だ。

 それが分からないという人には何を言っても仕方ないし、向こうもこちらを相手にしないと思う。


 突然の歓声。

 一斉に舞う小銭。

 時計を見ると、1月1日。

 どうやら新年を迎えたようだ。

 本当に、何かが違う訳ではない。

 ついさっきまでの単なる連続。

 だけど私の心には、新たな決意や覚悟が芽生えている。




 「明けましておめでとう」

「おめでとう」

 いつもやや固い、気持ちの込めた挨拶をお互いに交わす。

 今年も1年よろしくという思いも込めて。

「終ってみれば、あっという間ね」

 しみじみと呟くサトミ。

 私としても色々あった1年。

 振り返れば決して甘く楽しい事ばかりではない。

 傷付き、挫折し、苦い思いを味わった時もあった。

 それでも今は、こうして新年を迎えられる。

 みんなと一緒に笑っていられる。

 良い1年だったと、私は思いたい。

 胸元に抱いたままのショウの腕。

 その感覚を確かめながら、そう思う。


 行く年来る年ではないが、熱田神宮に来る人も言れば帰る人もいる。

 押し寄せる波と引いていく波とでもいうのか、警備員さんがいなければ今頃どうなっているのか分からない。

 一応細いロープで順路は指定されているものの、たまには帰り道を遡って行く横着者もいる。

 本人は良いとして、周りにとっては単なる迷惑。

 何よりこれだけの人込みでは、大きな事故にも繋がりかねない。

「ちょっと」

「ああ」

 ちょうどロープを越えようとした男女に近付き、行く手をふさいで軽く押し返す。 

 あくまでも人の波に押される格好で。

 ただし、眼光は鋭く。

 次にロープを越えようとしたらどうなるか、はっきりと伝える。

「放っておけよ、そんな馬鹿」

 なんて意見もあるけどね。

「だって、危ないじゃない」

「どうしてこの世の中が、大勢の人の色んな意見があるのに案外スムーズに動いてるか」

「何、それ」

「あの手の馬鹿は、自然に淘汰されるから。馬鹿が主流になった時は、この国が滅ぶ時。今のところその兆候は無いから、さっきの馬鹿達もいずれは消えてなくなっていく」

 世間話のような口調で話すケイ。

 気付くと後ろの方で拡声器が使われ、「確保した」という言葉が聞こえてきた。

 おそらくはあの二人が性懲りも無くロープを越えようとして、警備員さん達に捕まったんだろう。

「だったら、学校にいる馬鹿はどうなるの」

「放っておけば卒業する」

「私達もするじゃない。でも、理事は残るのよ」

「言っただろ、馬鹿は淘汰されるって。最後に正義は勝つんだよ」

 この人に言われても、説得力が感じられない。

 大体その理屈で言ったら、自分も淘汰されるじゃない。

 私が何を考えてるか分かってるという顔で睨むケイ。

 それとも、この辺で私が間引いてやろうかな。



 正月早々、この手を血で染める事も無い。

 というのは大げさで、夜中に歩き回ったせいかさすがに疲れがたまってきた。

 こういう時ショウの腕にしがみついているのは、非常に楽と言うか頼りがいがある。

 半分寝ていても置いてけぼりを食らう事は無く、上手く行けば目が覚めた時には家へ着いている。

「ユウ、カード」

 軽く揺すられる肩。 

 どうやら知らない間に、地下鉄の駅に着いたらしい。

 少し予定が狂ったかな。

「まだ混んでるね、当たり前だけど」

 光景としては、熱田神宮のそれと変わりない。

 今から向かう人の流れと、帰っていく人の流れ。

 ラッシュ時と違うのは服装の明るさと、浮き立った全体の空気。

 仕事や学校ではなく、目的は初詣。 

 この世の終わりみたいな顔をする必要はどこにも無い。


「少し休ませて」

 欠伸をして、目元を押さえながら壁に背をもたれる。

 それ程負担が掛かった訳ではないが、体より精神的に疲れている。

 ここで無理をすると、絶対ではないが目の調子は悪くなる。

「ござでも引こうか」

 地面に正座してにっこり笑うヒカル。

 最近の若者を疎む声として、地面にしゃがみ込んで騒ぐ事が上げられる。

 ただ、正座はその内に入らないだろう。

 大体、ござってなんだ。

「空き缶でも置けよ」

 鼻を鳴らし、突然歩き出すケイ。

 怒ったり一人で先に帰るという様子ではなく、なんらかの意図を持った行動。

 やや丸まった背中は何も語らないが、普段とは違う明確な意思をはっきりと感じ取る事が出来る。


 彼が歩み寄ったのは、改札のそばで立ち尽くしている二人の子供。

 お姉ちゃんと妹だろうか。

 小学生低学年と行った感じで、真っ赤なダウンジャケットと青のベンチウォーマー。

 この子達だけで初詣をするとは思えず、迷子なのは間違いない。

「親を探すのかな」

「そういうタイプじゃないわよ」

 腕を組み、その様子を見守るサトミ。

 ヒカルは正座したまま、にこにこしている。

 私も様子を窺っていると、ケイはポケットから小銭を取り出して彼らに渡した。 

 それで切符を買わせ、改札口にいる駅員と二言三言会話を交わした。

「あ、改札くぐった。二人で行かせる気?大丈夫?」

「駅員に話を通したから、問題ないでしょ。それに、甘やかしすぎてもね」

「そう?そうかな」

 どうも私とは考え方が違うようだ。

 私なら家までとは行かないが、せめて自宅近くの駅までは送る。

 そうしないと気持ちが収まらない。

 彼女達の心境を自分に置き換えてみれば、今どれだけ不安で悲しい気分かは手に取るように分かる。

 知らない場所で親はいなく、まわりにいるのは知らない人ばかり。

 それなのにみんな楽しそうで、自分達は何一つ楽しくない。

 なんか、泣きたくなって来た。

「まあ、いいけどね」 

 鼻をすすり、そこでようやく彼が小銭を拾った意味を悟る。

 こういう事態を予想してた訳ではないが、万が一を想定しての行動。

 使う必要が無ければ、駅にある募金箱にでもいれるつもりだったかもしれない。

「お待たせ」

「随分親切じゃない。今年は生まれ変わった?」

「勿論。神様も、俺の立派な姿に満足してるんじゃないの。多分、プラス1くらいは加算されるね」

「そういう打算で行動する人は、マイナス1じゃなくて」

「珪のマイナスは今更だから、痛くも痒くもないよ」

 明るく笑い、やはり正座を崩さないヒカル。

 この人は基本的にプラスしかない人生なので、兄弟を合わせれば釣り合うのかも知れない。




 その後の記憶は、コタツで丸まっていたとしか覚えていない。

 結局起きたのはお昼前。 

 初日の出どころの騒ぎじゃないね。

「あー」

 体を起こし、少し寝ぼけたままコタツの上を確かめる。

 今自分がいるのは、ささやかな庭に面した小さな部屋。

 リビングはその隣で、そちらではなにやら楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 それに耳を傾けつつ、コタツに浸かるのも正月の楽しみだろう。

 いや。分かんないけどさ。

「なー」 

 窓の向こうから聞こえる、やや野太い声。 

 のろのろと起き上がって窓から庭を見ると、数匹の猫が陽だまりの中で丸くなっていた。

 お母さんは猫達を敵と呼んでるけど、向こうはそう思ってないかもしれない。

 猫の心境には詳しくないので、はっきりはしないけど。

 それとも、お正月は休戦なのかな。


 少し寒いが窓を開け、腰を屈めて猫を呼ぶ。

「おーい、おめでとう」

「なー」

 返事をしたのか、うるさかったのか。

 とにかく、コミュニケーションらしき事は出来た。

「お餅食べる?」

「ふっ」

 一匹の猫が鼻で笑い、背を向けて去っていく。

 残りの猫も少し時間を置いて、それぞれ全然違う方へと歩いていった。

 この辺がいかにも猫らしいというか、なんとも微笑ましい。

「猫?」

 いつのまにか私のそばに立ち、怖い顔で庭を睨みつけていたお母さん。

 少なくとも今は悪さをしてなかったが、どうやらお母さんは手打ちにするつもりは無いらしい。

「お正月だから、挨拶に来たんじゃないの」

「どうだか。そう油断させて、寝首を掻きに来たのかも知れないわよ」

「誰の、なんのために」

「理由なんて、必要あるの」

 なんか、天地がひっくり返るような事を言う人だな。

 とはいえ猫に油断が禁物なのは私も日々痛感してるので、窓を閉めてリビングへと向かう。

 お母さんはまだ睨んでるけど、放っておこう。

 もしかしてここに釘付けにするのが、猫の企みじゃないのかな。


 一方リビングは和やかなもの。

 おせち料理に雑煮。

 おとそも進み上機嫌。

 何の予定も無く、何かに追われるような用事も無くただ時を過ごす。

 イベントやハプニングも良いけれど、こうしてゆったりと過ごすのも私は好きだ。

 波乱万丈な人生より、平凡な生き方を望みたいし。

「年賀状来てるよ」

 少し赤い顔でテーブルを指差すお父さん。

 いまどき律儀な人もいるんだな。

 私も何人かには出したけどさ。

「こっちがニャン達、高畑さん、柳君の彼女か。……誰だ、これ」

 差出人は「村井」となっている。

 文面はそっけなく、加えて機械印刷。

 ただ最後の部分に手書きで数行書き加えられている。

「寝るな」

 なんだ、これ。

 というか、寝たって良いじゃない。

「……ああ、キーボードの教師」

 住所を教えた記憶は無いが、向こうは教師なので調べれば分かる事。

 ちょっとこれは予定外だったので、後で返事を出しておこう。

 よく見ると、連名で「高島瞳」とも記されている。

 こっちはお姉さんで、理事長だったはず。 

 大した意味は無いんだろうけど、ちょっと汗が出てくるな。

「どう思う」

 自分では判断が付かなかったのとまだ半分寝てるので、年賀状をサトミに見せる。

 お父さんからお年玉をもらっていた彼女は送り主と文面を読んで、小首を傾げた。

「他意は無いと思うわよ。あなた、あの先生に好かれてるから」

「いつもバインダーで叩いてくるじゃない」

「それは、ユウが寝てるからでしょ」 

 今度はお母さんがぎろっと睨んでくるが、それを無視してサトミ宛てに届いた年賀状を確認する。

 彼女の現住所は女子寮だけど、年賀状はこちらへ転送してもらう事になっているので。

「来てないね」

「私は単なる一生徒に過ぎないから」

 一生徒の所に、教育庁や中部庁から年賀状が届くかな。 

 こっちは企業で、こっちはシンクタンク。

 大学、大学院からも山のように届いている。

「まあ、いいや。くれたんだから、返事は出すか」

「そういうところは律儀なのね」

「礼儀よ、礼儀。ねえ、お母さん」

「あ、何が」

 おとそをグラスでぐいぐいと飲んでいたお母さんは、少しとろんとした目でこちらを見てきた。 

 正月だし、良いんだけどね。

 良いのかな。   


 負けずに飲むと言う習慣は無いし、刺激物は控えるよう医者からも言われている。 

 あくまでも口をつける程度に飲んで、おせち料理を堪能する。

「いや、待てよ」

「何、雑煮が食べたいの?」

「そうじゃなくて。お年玉は」

 完全に気を抜いていたというか、忘れてた。 

 大体サトミに渡しておいて、私に渡さないってあるんだろうか。

「あなたも、もう大人でしょ」

「サトミはもらったじゃない。それに年齢から言えば、この子の方が年上だよ。大体子供の頃のお年玉は」

「はい、どうぞ」

 人が話を継いだタイミングで、お年玉袋を差し出すお母さん。 

 言いたい事もころっと忘れ、にへにへ笑ってそれを受け取る。

「……サトミはいくらだったの」

「同じよ、同じ」

 数の子をかじりながら返事をするお母さん。 

 まさかとは思うが、お姉ちゃんだから少し上乗せなんて可能性も無くは無い。

 本当、一度家系図を調べた方が良さそうだ。



 翌日。

 今日は玲阿家の本邸へとやってくる。 

 出てくる食事やお酒は超一級品。

 だからといって雪野家が駄目という訳ではなく、どちらが良いという事でもない。

 キャビアを少しつまみながら、そう思う。

「どうぞ」 

 月映さんから渡されるお年玉袋。

 これに関しては、おそらくサトミと同額。

 何より、もらえるだけでありがたい。

「お前もやれよ、爆弾男」

 げらげら笑いながら、御剣さんのお父さんに視線を向ける瞬さん。

 どうやら古い話らしく、それにはこの場にいる大人全員が笑い出した。

「何ですか、それ」

「あれ、言ってなかったかな。こいつの、戦時中のあだ名さ」

 やはりそっちの話だったか。

 御剣君のお父さんは聞こえないという顔で、黙々とごまめを食べている。

 瞬さんはそれに構わず、ミカンをテーブルへ3つ並べて包装紙に包まれた小さなチョコを手に取った。

「第2次ミッドウェー海戦。御剣機が、魚雷弾を発射。で、一隻撃沈」

 どかされる一つのミカン。

 続いてチョコが、少し前に動いていく。

「何しろ空母を沈めるくらいの爆弾だから、爆撃機に詰める数も限界がある。この時は無理矢理10発積んでて、まずは5発発射。内3発命中。空母なんて普通、一隻沈めるだけで英雄だ」

「瞬さん」

「再度5発発射。内3発が命中。この時点で、二隻撃沈」

 改めてどかされるミカン。

 残ったのはミカンが一つと、チョコが一つ。 

 まさかと思いたい。

「何を考えたのかな。何も考えてなかったのかな。だけど空母は真下にあって、戦闘機も満載されてる。海戦は潜水艦が主流とはいえ、制空権を考えれば空母は絶対に落としたい。で、どうするか」

 真っ逆さまに落ちていくチョコ。

 それはミカンにぶつかって、二つともテーブルからどかされた。

「お前、良く生きてたな」

「ちゃんと脱出しました。特攻した訳ではありません」

 それもどうだか疑わしい。

「第一水品さんの前で、飛行機の話なんて出来ませんよ。ヨーロッパの虎の前では」

「私は空母を3つも沈めませんから」

「撃墜王が何を。それに航空母艦は、20機以上落としたでしょう」

 というかこの人は戦争中に、一体何をやっていたのかな。

「そう考えると、お父さんはほのぼのしてるよね」

「僕は駄目な兵隊だったから」

 はにかみ気味に笑い、磯部餅をかじるお父さん。

 とはいえこれも、どちらがどちらという話でもない。

 瞬さん達が、自分達の行動を決して誇らないという意味においても。



 おめでたいお正月。

 ただそれだけでは済まない事もある。

 彼等が築き、守り通したこの国。

 そこに生まれ生きていく自分。

 私は何をすべきか。

 それを考えても良いのかも知れない。











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