30-9
30-9
クリスマス・イブ。
夜になっても雪は降らず、空を見上げると星の瞬きが見えるくらい。
体が冷える前に窓を閉め、肩を抱きながらリビングへ戻る。
ショウとのデートは色々あったけど、最高の時だったとしておこう。
「あ、こんにちは」
「やあ」
「こんにちは」
穏やかに挨拶をしてくるモトちゃんの両親。
二人はお父さん達とお酒を飲んでいて、手元にはトランプを持っている。
でもってテーブルには、爪楊枝が何本か。
「お金掛けてるの?」
「イブくらい、弾けないとね」
明るく笑うお父さん。
この人が弾けた所なんて今まで見た事無いし、多分今日も弾けないとは思う。
ただ、そういう気持ちになるのがクリスマス・イブだろう。
「ポーカーか」
手札は5枚で、場の中央に捨てたカードと裏返しに積まれたカードが置かれている。
知略と運が勝負のゲームだけど、ポーカーフェイスの言葉通り駆け引きも重要。
私はそういうセンスは0なので、こういうゲームはやらないに限る。
でも面白そうだし、お母さんの手札でも見てみるか。
「わ」
3・6・7・11・13。
これでは、何をやろうと勝てる訳はない。
「優」
「分かってる」
お母さんの制止を受け、口を閉じて展開を見守る。
わ、爪楊枝投げた。
「優」
「何も言って無いじゃない」
「もういい」
モトちゃんのお母さんと張り合って、爪楊枝を追加していくお母さん。
私より熱い性格だとは思ってたけど、度が過ぎるんじゃないか。
「降ります」
手札を伏せ、テーブルに置くおばさん。
お母さんも微かに頷き、手札を伏せてテーブルに置いた。
それを見せ合う必要はないし、だからこそ駆け引きに深みが生まれる。
もしかしておばさんのは3カードかも知れないし、フラッシュだったかもしれない。
でも、結果としては引き分け。
優雅にワインを飲んでる場合じゃないよ。お母さん。
騒ぎすぎてお母さんに怒られたので、場所を移動。
庭に面した部屋に置かれたツリーの前で座っている木之本君に近付いていく。
顔の傷はまだ痛々しく、頬のガーゼも取れてはいない。
「大丈夫?」
「あ、うん。体はプロテクターを着てて守られてたし、殆ど擦り傷だから」
「ならいいんだけど」
不平や不満は聞かれず、私の取った行動を責める事もない。
今も穏やかに微笑んで、ツリーの絵を描いている高畑さんを優しい眼差しで見守っている。
「少しは弾けないの?」
「え、誰が」
「木之本君」
押し黙る彼。
しばし見つめ合う私達。
高畑さんの走らせる鉛筆の音だけが虚しく響く。
「い、いや。イブだしさ。たまにはね」
「多分今日弾けても、明日凄い自己嫌悪に陥ると思う」
なんだ、それ。
じゃあ私は、毎日自己嫌悪に陥らないと駄目って事か。
「まあ、いいや。で、絵はどうよ」
鉛筆を置いてジュースを飲んでいる高畑さん。
その膝に乗っているスケッチブックを覗き込む。
ラフなタッチのツリー。
鉛筆だけの単色で、だからこそ優しさが伝わってくる。
「上手いね」
「描きますか?」
「いや。いい」
この絵を見た後で描く度胸はない。
センスに打ちのめされるという程大袈裟な話では無いけどね。
「玲阿君は?」
「な、何が」
「絵を描くために動かしたんだけど、元の場所に戻したくて」
ツリーを指さす木之本君。
まさか彼が皮肉を言うとは思ってないが、少し汗が吹き出てきた。
「キッチンで、ケーキの切れ端を食べてたはず。呼んでくるね」
廊下を抜けてキッチンへ入る。
いたにはいたが、まだ食べてる。
今度はパンの切れ端か。
この人さっき、ディナーを食べてなかったかな。
「レストランで食べたでしょ」
「美味しいんだ」
美味しいって、食パンの耳じゃない。
なんか、気が遠くなってきたな。
「それより、ツリー動かして」
「今行く」
ちくわを持つな。
ツリー自体は大した重さではなく、木之本君がやらなかったのは怪我のせいだと思う。
大した事は無いと言っていたが、打撲くらいはしているかも知れない。
あの子こそ、自分の事を他人に語らないな。
「ポーカーは」
「何、それ。今や時代は、神経衰弱よ」
鼻で笑い、裏返しのカードをめくるお母さん。
爪楊枝は小山になっていて、どうやらかなり勝ったようだ。
まさしく度胸だけで切り抜けたな。
「あれ」
間の抜けた甲高い声。
これは駆け引きも度胸も必要ない。
必要なのは記憶力、ただそれだけだ。
「優」
「私に振らないでよね」
それでもお母さんの隣に座り、めくられていく札を覚えていく。
いや。覚えようとして、すぐに忘れていく。
「巡行抑制ね」
お父さんの隣に座り、そう呟くサトミ。
なんだか知らないけど、あの子がいる時点で勝負あった。
「待った、ちょっと待った。サトミがいるんじゃ、圧倒的に有利じゃない」
「そうでもないわよ」
口元に手を添え優雅に笑うサトミ。
つられて笑う元野夫妻。
分かってないな、この小悪魔の事を。
「駄目駄目。これからは、一回めくるごとにカードを混ぜる」
「何ですって」
目を剥くサトミをよそに、裏返ったカードを混ぜていく。
記憶力には自信がないが、動体視力ならお手の物。
誰がどう動かそうと、目を付けていたカードを忘れる事はない。
ただサトミは一度めくった全カードを把握してるので、これでも互角以下か。
「これ、かしら」
サトミがめくったのは、ハートの2。
次がハートの5。
効果てきめんだな。
「いいよ、サトミちゃん」
「くっ」
むきになってカードを混ぜていくサトミ。
自分の思った位置に配置しているのなら感心だが、そこまでは手先が器用じゃない。
「じゃ、いただき」
ハートの2と、ダイヤの2。
こうなると、もうお父さんとお母さんは関係ない。
私とサトミとの戦いだ。
「ちょっと待ってなさい」
ソファーから立ち上がり、どこかへ消えるサトミ。
でもって戻ってきた時には、ショウを引き連れてきた。
「私が指示したカードの位置を覚えて」
「え、俺が?」
「親友の言う事が聞けないの」
さながら鬼のような顔。
親友って、どういう意味かな。
「という訳らしい。悪いな」
この言葉は、多分私に対してだろう。
サトミの記憶力とショウの動体視力。
ちょっとハンディがありすぎるな。
「じゃあ私も、悪魔を召還するわよ。おーい」
手を叩き、TVゲームに興じていたケイを招き寄せる。
記憶力も動体視力も二人には及ばないが、そこはそれ。
「なんか、私達は圧倒的に不利だね」
「誰か、助けてくれないのかしら」
苦笑気味に呟く元野夫妻。
そこに、サンタの帽子を被ったヒカルが近付いていく。
「不詳浦田光。及ばずながら力になりましょう」
低い物腰で現れ、床にしゃがみ込むヒカル。
正直敵ではないと思うが、このメンバーの中では一番底知れない人間でもある。
悪い予感が的中したと言うべきか。
結果は元野夫妻の勝利。
私もサトミもお互いを潰す事ばかり考えて、カードを覚えるなんて忘れてた。
その間にヒカルが黙々とカードを当てていき、爪楊枝は大半がそちらへ移行した。
「イブに賭け事なんて」
責めるような口調で現れるモトちゃん。
じゃあ、肩に担いでいるワインボトルはなんなんだ。
「いいから、モトちゃんも。次、7並べやろう」
「随分軽いわね」
そう言いつつ、サトミの隣へ座る彼女。
さすがに先日までのわだかまりは引きずっていないようで、サトミも困惑気味にワインボトルを受け取っている。
「チームは?」
「くじくじ」
端末を使い、あみだくじを用意。
木之本君達も呼んで、チームを3つ作る。
まずは、サトミ、モトちゃん、その両親のインテリチーム。
私の両親、ショウ、木之本君、高畑さんの穏やかチーム。
で、浦田兄弟に私の出がらしチーム。
「じゃあ、サトミ達からね」
「パス」
「おい」
パスは5回まで可能。
しかし、初めからパスってありか。
明らかに計画的反抗だな。
次のお母さん達は無難にカードをテーブルに置いて、私達の番が回ってくる。
「さて、どうする」
置けるカードはあるけど、敵はサトミ。
こちらもパスで対抗するか。
「これ、出せるよ」
私が持っていたカードを無造作にテーブルへ並べるヒカル。
いや。別に悪くはないけど、少しは考えて出して欲しい。
ババ抜きじゃないんだからさ。
「パス」
来たよ。
本当に出せないのか、あえて止めてるのか。
お母さん達はきゃーきゃー騒ぎながら、それでも普通にカードを置いていく。
高畑さんを間に挟んで、ショウと木之本君がソファーの後ろから見守って。
なんか楽しそうで羨ましいな。
「次は?少し考えてよ」
「変に考えるな。切れ切れ」
またも勝手にカードを置くケイ。
でもって取るカードを間違えて、関係ない手札を一枚晒した。
「ユウ達は1を持ってると」
「了解」
喉元で笑うサトミとモトちゃん。
なんか、嫌な汗が出てきたな。
結果は惨敗。
サトミ達は私達の持ってるカードを全部ブロック。
お母さん達も負けなんだけど、一番楽しそうだったのは彼女達。
やっぱり、こういうのが一番いいんだよね。
気付いたら、爪楊枝を借金してる自分達よりも。
「ちょっと休憩」
色んな意味で疲れてきた。
大体今日は朝からばたばたしてて、よく考えたらずっと動き通し。
少し休んだ方が方がいいだろう。
とはいえ2階に行くのは寂しいので、リビングの隅でタオルケットにくるまる。
さっきよりちょっとだけ遠くに聞こえる笑い声。
視界の先にある、明かりの消えた部屋にあるクリスマスツリー。
クリスマス・イブという事を、何故かこの瞬間強く実感する。
寝てた時間は大して長くなかったとも思う。
しかし気付くと高畑さんはいなく、木之本君が送っていったとの事。
つまり彼もいない訳だ。
真夜中という程ではないが、騒ぐ時間はやや過ぎた。
「良く寝た。お茶飲もう」
誰かに持ってきてとか、何か理由がある訳ではない。
単なる一人言で、まだ少し寝てるんだろう。
グラスを口に運び、ウイスキーの匂いに顔を歪める。
飲めなくはないけど、寝起きに飲む物でもないと思う。
「あー」
烏龍茶をグラス半分くらい飲んで、それを抱えたままソファーに埋まる。
テーブルに散乱した食事や飲み物。
トランプやゲームのカード。
宴の後とでも言った、寂しげな光景。
片付けるのは分かっているけど、少し切ない気持ちになってくる。
「サトミ達は」
「2階で寝てるわよ」
天井を指さすお母さん。
お父さんは幸せそうな顔をして、ソファーの上で横たわっている。
「お酒の飲み過ぎだね。あー」
「何、それ」
「え。何が」
しばし見つめ合う私とお母さん。
理由は一生分かりそうにないので、残りのお茶を飲んで立ち上がる。
「さてと、玲阿家にも行ってくるか」
「お酒飲んでるでしょ、あなた」
「大丈夫。運転手を呼ぶから。おーい」
やはり手を叩き、注意を喚起する。
TVゲームをやっていたケイは面倒そうに振り向き、嫌そうな顔を見せてきた。
「車運転して」
「なんのために」
「友達のために。私のために」
「光栄だね、それは」
皮肉っぽい視線を受け流し、その辺にあった上着を羽織る。
やけに大きいから、モトちゃんのだな。
「ヒカル、ショウ連れてきて」
「仰せのままに」
皮肉っぽい事を言っているが、他意はない。
この子に他意があった試しがない。
緩やかに流れるクラッシック。
いくつもの大皿に盛られた、高級食材の並ぶオードブル。
クリスタル製の小さなツリー。
手も付けられていない、大きなクリスマスケーキ。
サンタが抱いたキャンドルには灯がともり、その周りを淡く輝かせている。
クリスマス・イブを家族で過ごすというのは雪野家と同じだが、品というか落ち着きがある。
私は雪野家のクリスマスも好きだけどね。
ただそれは、この場に集まっている人達の年齢にもよるだろう。
玲阿家の兄弟夫妻と、水品夫妻。ユンさん夫妻。
いるのは大人ばかりで、この人達にはしゃがれてもちょっと困る。
「ケーキ、残っちゃうわね」
もったいなそうに指差す、月映さんの奥さん。
私の顔より大きい、デコレーションのほとんど無いタイプ。
表面はホワイトチョコでコーティングされていて、その上に紅いベリー系のソースが掛けられている。
シンプルな、だからこそ食欲をそそる外観。
無論味の面でも最高なのは間違いない。
「雪野さんが持って帰るそうですよ」
くすくすと笑う水品さん。
私は何も言っていないが、顔には出ていたかも知れない。
ずっとケーキ見てたしね。
「先生は食べないんですか」
「年を取ると、そういうのはちょっと。私はもう、枯れていく一方です」
なんか寂しい事を言い出すな。
大体先生が枯れるなら、瞬さんなんて朽ち果ててるんじゃないのか。
「そんな事言わないで、弾けましょうよ」
「私はそういうキャラではないので」
あくまでも物静かな水品さん。
一方瞬さんは、窓を隔てて庭にいる羽未に何やら吠え立てている。
大丈夫かな、この人は。
「父さん、恥ずかしいから止めてくれ」
「お前の犬が、俺を睨むんだ。こんな犬、ミカン箱に詰めて川に流せ」
「何だ、それ。大体、父さんの犬だろ」
「あのどら猫もこの犬も、全部お前のだ」
はっきり言い切り、ドアを開ける瞬さん。
その途端羽未が上半身を伸ばし、彼に飛びかかった。
しかし瞬さんは即座に懐へ手を回し、羽未を抱きすくめたまま庭に飛び出ていった。
何をやりたいのかは分からないけど、笑い声が聞こえるし大丈夫だろう。
「寒いので、閉めてもらえますか」
苦笑する月映さん。
この人がそういう真似をするのは想像出来ず、というかああいう事をする人は誰も思い付かない。
「あの男は、落ち着きって言葉を知らないのか」
ため息を付き、やるせなさそうに首を振る尹さん。
水品さんも月映さんも尹さんも、全員年相応の落ち着きがある。
尹さんや意外に水品さんも昔は武闘派だったらしいけど、今はこの通り。
またそれが普通だと思う。
「瞬さんは、昔からああなんですか」
「軍ではずっと、ああだったが。子供の頃は?」
「さすがに、子供の頃よりは落ち着いてきましたよ。子供の頃よりは」
その部分を繰り返す月映さん。
結局は大差ないという訳か。
「俺もそれ程偉そうな事を言えた立場じゃないが。子供もいて、孫でも出来る年だろ」
「そこが瞬さんの良い所なんですよ」
「どの辺が」
答えない水品さん。
というか、答えようがないんじゃないの。
「四葉君は、あいつに似なくて良かったな」
「はあ」
「気楽で本人は楽しいんだろうが。回りは苦労する」
しみじみ語る尹さん。
ショウはどう答えて良いのか分からないという顔で、曖昧に頷いている。
この子の場合は、似て無くても苦労してるけどね。
ゆったりとお酒と食事を楽しむのは、今の私にはまだ早い。
という訳で、コーシュカを伴って庭に出る。
ダッフルコートを着ていても震えが来るような寒さ。
足元の芝は枯れていて、乾いた音が辺りに響く。
昼間とは違う、闇に包まれた広い庭。
あちこちに照明はついているが、それが届く範囲は限られている。
逆に都心部よりも明かりがない分、星の瞬きははっきり見える。
冬の澄んだ空気のせいもあるだろう。
今年ももう終わり。
来年は何が待っているのか、なんて事を思ったりもする。
「なー」
突然声を上げるコーシュカ。
敵意のあるそれではなく、挨拶程度といった感じ。
私には何も見えていないが、そこは山猫。
また仮に敵が潜んでいたとしても、彼女がいれば特殊部隊の一人や二人は退治出来る。
「誰かいる?」
「父さん」
並びとしては、コーシュカ・私・ショウ。
暗いと視力がより落ちるため、今は彼の腕にすがっている状態。
少し、さっきまでの余韻が残っているのかも知れない。
「何してるんだよ」
「犬に逃げられた」
ようやく見えてくる、あぐらを掻いた瞬さん。
冷たい風が吹きすさぶ中、シャツとスラックスだけで。
それ程寒そうな様子はなく、空を仰ぐ視線は遠く切なげである。
「寒くないんですか」
「寒いけどね。シベリアはこんな物じゃない。まあ、どうでもいい事か」
枯れた芝生を払いながら立ち上がる瞬さん。
その足元にまとわりつくコーシュカ。
彼はコーシュカを抱きかかえ、その顔を覗き込んだ。
「これも昔は可愛かったんだが。最近は、寝首を掻こうとしやがる」
「じゃれてるんだろ」
「お前は女に騙される口だな」
なんだ、それ。
確かにコーシュカはメスだけど、そういう問題じゃないと思う。
「いいか。騙すより騙されろって言うし」
「そういう経験でも?」
「さて」
曖昧に微笑む瞬さん。
それこそ、女絡みじゃないだろうな。
さすがに寒くなったので、家へと戻る。
大人達はさっきと変わらず、ゆったりとお酒を楽しんでいる所。
慌てず、騒がず、仲間との時を大切にする。
大人というのは、多分こういう事を言うんだろう。
「親父はどこ行った」
「道場に」
「また訳の分からん」
コーシュカを抱きかかえ、にやにや笑う瞬さん。
結構気に入ってるんじゃない。
「ちょっと見てきますね」
この家で迷わず行けるのは、リビングとショウの部屋とキッチン。
後は離れの道場。
近付く度に緊張感が高まり、ただ心は澄んでいく。
薄暗い道場の入り口。
そこで一礼して、中に足を踏み入れる。
木製の壁と、床は畳敷き。
正面には神棚があり、お祖父さんはそれに向かって正座をしている。
私達の気配に気付いたのか、お祖父さんはゆっくりと立ち上がり歩み寄ってきた。
「どうかしたかね」
「いえ。少し気になっただけです」
「クリスマス・イブもいいんだがね。これは、毎日の習慣だから」
神棚を振り向くお祖父さん。
それに対して向き合い、心を研ぎ澄ますという意味か。
「我が家の場合は、熱田神宮だが」
「確かに」
普通は勝負の神様である香取大明神であったり、武道の神様である鹿島大明神。
ただ名古屋に根付いた古武道だから、別に悪くはないとも思う。
少なくとも、私個人としては。
「何にしろ、クリスマスというのは幸せでいい。宗教も人種も関係なく、みんなが楽しめる」
「そうですか」
「戦争中は、なかなかそうはいかなくてね。本当、この国も良く立ち直った」
遠い、遙かな過去を振り返る眼差し。
私がたやすく言葉を返す事の出来ない話であり、また耳を傾けるに値する事柄。
今が戦時中だったら、確かにクリスマスどころか食べる事すらやっとだろう。
「さて、昔話をしていても仕方ない。私ももう少し飲むとするか」
少し疲れたため、ショウの部屋で一休みする。
普段住んでいる訳ではないせいもあり、私物は殆ど無くて雑誌とトレーニング器具が転がっているだけ。
ただそれは、寮や彼の実家でも同じだが。
ベッドサイドに座り、たまたまあった雑誌をめくる。
「イブはこうして過ごせ。100完璧マニュアル。マニュアル通りで、何が悪い」
開き直れれてもちょっと困る。
大体こういう事が出来るのは、お金にも時間にも余裕がある人だけ。
とはいえ参考にしても悪くはないと思う。
「今年はダイヤで決まりだって」
「怖い事言うな」
苦笑するショウ。
確かに高校生が送るプレゼントでもないな。
結局は、普段のクリスマスと同じ過ごし方。
私の家に集まって騒いで、この家にやってきて。
少し疲れて、一休みするという。
勿論今年はそれだけではなく、大切な一生の思い出になる出来事もあった。
ただ私は、この変わらなさも決して嫌いではない。
「はぁ」
ため息を付いてベッドに倒れこむショウ。
怪我は絶えないが病気とは無縁で、風邪を引いた記憶すら殆ど無い。
今日の事で、かなり気疲れしたのだろう。
「眠い?」
「いや。そうでもない」
気持ちが高ぶって、むしろ目は冴えてるかも知れない。
それでもベッドに伏せたまま動こうとはせず、背中だけが早く上下している。
「マッサージしようか」
「頼む」
疲れの混じった口調。
こういう彼を見るのは久しぶりで、負担を掛けた原因は私。
その恩返しという訳ではないが、何かをするのは当然だ。
自分もベッドの上に乗り、立て膝を付いて太ももの辺りから軽く揉んでみる。
マッサージの知識は殆ど無いが、どこをどうすれば痛むかは理解している。
ショウのように力だけで相手を倒す事が出来ない自分は、より急所を狙っての攻撃が必要。
逆を言えば、その辺りを理解しつつマッサージをすればいい。
鍛えこまれた体ではあるが無駄に固い事は無く、体脂肪もそれなりに付いている。
相手からの打撃を想定した体の作り方で、あの食べすぎもこういった面では必要なのかも知れない。
今は多少張りがあり、お酒を飲んでいる割には血の巡りも悪いようだ。
「冷えた?」
「そうでもない」
だるそうに呟くショウ。
顎を枕の上に乗せて気持ちよさそうにはしているが、精神的な疲労は短時間では癒せない。
太ももから膝、ふくらはぎへとマッサージの場所を移動する。
今はショートパンツとTシャツ姿。
素足のため、よく見れば傷だらけなのが見て取れる。
この一つ一つが彼の努力の証であり、私からすれば尊いとすら思えてくる。
傷付き、血を流し、幾度と無く地を這い。
それでも彼は前を向き、遥かな頂を目指している。
私はその裾野をゆっくりと歩いている程度で、彼には到底及ばないけれど。
歩む道は同じで、少しでもその近くに行きたいと思っている。
「傷は多いけど、肌自体は綺麗だよね」
「あまり気にした事無いな」
それもそうだ。
男の子が美容に気を遣って悪いとは言わないが、ショウがそういうタイプとも思えない。
というか、ちょっとそれは止めてほしい。
「うわっ」
足の裏をくすぐったら、上半身がまっすぐ上にのけぞった。
普段はこのくらいでは動じないので、疲労の分逆に過敏な反応になるのかも知れない。
「あのな」
「冗談だって。上乗っかるからね」
彼の体をまたぎ、腰からお尻の辺りにしゃがみ込む。
両手を腰に添え、体重を乗せて押していく。
いっそ踏んでも良いくらいで、これでもどの程度効き目があるか分からない。
「気持ちいい?」
「ん、ああ」
ゆったりとした反応。
体もさっき以上に柔らかく、力が抜けている。
「眠くなってきた?」
「いや、どうかな」
少し間を置いての返事。
背中の上下は緩やかに、よりゆっくりとなっていく。
「今日は色々あって疲れたもんね」
「そうだね」
なんか口調まで変わってきた。
「私も少し疲れたかな」
欠伸をして、肩の方を押していく。
気疲れと、少しのお酒。
楽しい、一生の思い出となる一日。
「あーあ」
そのまま伏せて、目を閉じる。
柔らかくて暖かくて、気持ちが安らいでいく。
幸せって、多分こういう時を言うんだろうな。
頭を軽く撫でられる感覚。
良い夢を見ていた気もするけど、内容は覚えていない。
幸せという言葉以外は。
「起きた?」
上の方から聞こえる落ち着いた声。
それが何を意味するか分からず、顔を埋めてこの心地よさを満喫する。
「起きなさい」
少し怖くなる声。
ようやく意識が戻ってきて、目元を抑えながら顔を上げる。
「おはよう」
照明を背負って微笑むサトミ。
端正な顔に陰が宿り、普段以上にすごみがある。
「おはよう」
それに動じるようでは彼女と付き合えないし、何より今は眠くて仕方ない。
今はただ、この心地よさに浸っていたいだけだ。
「あなた、どこに寝てるの」
「どこって、ベッドの上に。……わ」
思わず声を上げて転げ落ちそうになる。
私の下にはベッドがある。
正確には一つ間を置いて。
その間には何があるか。
「何がしたいの」
「さあ」
小首を傾げつつ、ショウの背中から床へと降りる。
どうやらマッサージをしていて、そのまま寝てしまったらしい。
「いつ来たの」
「さっき、モトと一緒にタクシーで。ユウがいないから探してたら、もう」
「はは」
明るく笑い、さっきまでの自分を思い出す。
ショウはうつ伏せで、私もその上にうつ伏せ。
親ガメと子ガメだね、まるで。
「寝苦しそうよ、ショウ」
ショウの顔を指さすサトミ。
よく見ると寝汗をかいている。
軽いとはいえ、私一人ずっと背中に乗せていただけだから。
「はは」
もう一度笑い、その辺にあったタオルで額を拭く。
彼の表情は少し軟らかくなり、口元が緩んでくる。
「おかしな事になってるかと思って損したわ」
「悪かったわね。良く寝た」
体を解し、軽く目元を押さえる。
痛みは無く、物が見えにくくなっている訳でもない。
この辺は無意識の行動に近く、完全に治っても癖となって残ると思う。
「デートはどうだった?」
笑い気味に話しかけてくるサトミ。
とはいえからかうようではなく、あくまでも優しげに。
隠すような事ではなく、また彼女に隠すような事は何一つとしてない。
「まあ、普通かな。ただ、一生の思い出にはなると思う」
「幸せね、あなたは」
「そうかな」
「そうよ」
微笑みながらそう言ってくれるサトミ。
私も彼女に微笑み返し、眠り続けるショウの頭をそっと撫でる。
「それと、これ」
紙袋を差し出してくるサトミ。
何かと思って中を開けたら、丁寧に畳まれた白のシャツが出てきた。
刺繍を施した、彼のシャツが。
「ああ。すっかり忘れてた」
「枕元に置いておいたら」
「サンタじゃないんだから」
笑いつつ、サトミの言う通り枕元にシャツを置く。
靴下に入るサイズではないが、雪野サンタからのプレゼントという事で。
もう一度彼の頭を撫でて、部屋の明かりを落とす。
ショウが起きる様子はなく、健やかな寝息が聞こえるだけ。
そんな彼に別れを告げ、心の中でお礼を言う。
今日はありがとうと。
そしてこれからもよろしくと。
ヒカルの運転で家に戻り、後片付けをする。
残った食事は明日の朝食や昼食で、それはそれで楽しみの一つ。
玲阿家からもらってきた分もあるし、また当分は楽しめそうだ。
「ツリー片付けないと」
ため息を付くお母さん。
私はあえてその事を念頭から遠ざけていたが、やっぱり逃れられないか。
「いいよ。明日、ショウにでも頼むから」
「またそういう事言って」
「じゃあ、お母さん片付ける?」
「お昼はカレーでいいのかしら」
なんだ、それ。
喜ぶには喜ぶだろうけどね。
「あれ」
テーブルに積まれた、爪楊枝の山。
どうやら清算はせず、うやむやに終わったようだ。
その辺がいかにも宴の後といった感じで、おかしくも少し切ない。
「今年も、もう終わりだね」
「急に何」
食器を片付けながら、戸惑い気味に振り返るお母さん。
爪楊枝に物の哀れを感じていたとは言えず、カレンダーを指差して適当にごまかす。
「後一週間だから、そうだけど。その代わり、新しい年がまるまる1年待ってるじゃない」
「前向きだね」
「その分私は、また1年年を取るのよ」
グラスに残っていたワインを飲み干し、ため息交じりにキッチンへ消えるお母さん。
まさかと思うが、そっちで飲み直すんじゃないだろうな。
さすがにそういう事は無く、少しずつ洗い物も片付けていく。
「ごめん。すっかり寝てた」
眠そうな顔でキッチンに現れたお父さんは、お母さんが差し出した水を飲み干してシャツの袖をまくった。
「僕も手伝うよ」
そう言いながら、もう洗っているお父さん。
この辺の人の良さというか優しさを、私はどのくらい引き継いでいるのかな。
なんて事を、皿に残っていたジャーキーをかじりながら考える。
別に遊んでいる訳ではなく、親子3人で並ぶには多少手狭なキッチンなだけ。
たまには夫婦水入らずもいいだろう。
いつもって気がしないでもないけど。
リビングへ戻り、再び後片付けを始める。
食器やグラスは残っているが、床やテーブルが汚れている事は殆ど無い。
昔はテーブルクロスに食べ物やジュースのこぼした後が残り、床にも色んな物が落ちてお母さんが少し怒っていた気もする。
また、それを怒りながら笑っていた気も。
今は汚れも見当たらず、仮にこぼしても食べている途中に片付けるくらい。
以前のように騒いだり、部屋の中を走り回る事もいつのころからかしなくなった。
玲阿家程ではないが、私達も少しずつ落ち着き始めているのだろうか。
食器をトレイに載せ、誰もいなくなったリビングを眺める。
胸に感じる寂しさ。
庭に通じる部屋に置かれたツリーは、暗闇の中で電飾を灯し淡い光を辺りに投げかける。
いつかこうして集まる事も無くなり、これはただの思い出として語られるだけになるのかも知れない。
そう思うと、胸の奥がすぼまっていくように苦しくなる。
「うなー」
遠くから聞こえる乾いた鳴き声。
窓辺に歩み寄り、闇に包まれている庭へ視線を向ける。
そこにいたのは一匹の猫。
黒の背中に白のお腹。
暗いのと視力が落ちているため、今はかろうじて輪郭が把握出来るくらい。
後は緑色に輝くその瞳か。
「何、ご飯欲しいの?」
人恋しい気分。
いや。この場合は猫ではなく、私の方が。
今日はクリスマス・イブ。
お母さんは怒るかも知れないけど、余っている食べ物をあげても罰は当たらないだろう。
それがだたの自己満足に終わるとしても、私の気持ちは軽くなるんだから。
「ふっ」
鼻で笑い背を向ける猫。
なんか、一気に腰が砕けてきた。
猫に感情移入した自分が馬鹿というか、もともと向こうには私に対して何の気持ちも無かったはず。
それを私の独りよがりで感情を高めてしまっただけだ。
「しっ。二度と来るな」
「うにゃーっ」
突然の唸り声。
慌てて窓を閉め、カーテンも閉めてその隙間から様子を伺う。
すでに猫の姿はどこにもなく、唸り声だけが遠くから響く。
多分、他の猫とケンカでもしてるんだろう。
とにかく、疲れた。
リビングの床に座り、食器の山をぼんやりと眺める。
朝から大騒ぎして、気疲れして。
家に帰ってきても、また少し騒いで。
さっき寝たばかりだけど、疲れが一気に出た感じ。
大体、猫とは相性が悪いんだ。
「優、残りは。……何してるの」
「黄昏れてる」
「そんな年じゃないでしょ。夜通し弾けるんじゃないの」
赤いエプロンを振ってステップを踏むお母さん。
いい年して元気だな。
「何よ」
「いや、別に。さてと、片づけるか」
大きめの皿に小皿を乗せて運び出す。
これで食器はかなり片付いて、後はテーブルを拭くだけか。
「後は、グラスくらい」
「分かった」
青いエプロンをして洗い物をするお父さん。
妙に似合うというか、しっくり来るな。
「ツリーは、明日ショウに頼むから」
「頼んでばかりで、悪くないの?」
「無いよ」
「言い切るね」
苦笑して大皿を受け取るお父さん。
私は終わった物を乾いたタオルで拭いて、食器棚へと戻していく。
「今年ももう終わりだね」
「確かに、年の暮れは少し寂しいかな。今年も無事に1年過ごせて良かったよ」
しみじみと呟くお父さん。
私としては色々あったけど、結果的には無事に過ごしたと言っていい。
何より、今こうしてお父さんの隣で笑っていられるんだし。
「目の調子は?」
「波があるけど、とりあえずは大丈夫。みんな、助けてくれるから」
「本当、良かった」
もう一度呟き、水を止めるお父さん。
私も食器を棚へしまい終え、リビングへと向かう。
リビングの片づけも殆ど終わり。
お母さんは床に座り、台ふきでテーブルを拭いている。
「全部洗ったよ」
「ご苦労様」
笑顔と共に差し出されるグラス。
テーブルに残っているのは、3つのグラスと少しのお菓子。
お父さんもお母さんの隣に座り、グラスを受け取る。
「では、ささやかながら乾杯」
「乾杯」
3人でグラスを重ね、お茶を飲む。
ささやかな、雪野家だけのクリスマス・イブ。