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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第29話
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29-7






     29-7




 即座に旧クラブハウスを飛び出したはいいが、北風に吹かれ途方に暮れる。

 居場所が分かる訳はないし、分かっていれば今頃彼と会っている。

 彼が何をしたいのか、何を目的としているのか。

 今の自分に理解出来るのは、彼が自分一人で行動しようとしている事。

 それが自分の欲求を満たすだけの身勝手な行動だとしても、私達を思っての行動だとしても放っておく訳にはいかない。


 すぐ建物の中へ戻り、ショウを呼び寄せる。

「車……。いや、バイク用意して。ケイを探す」

「どうやって」

 監視カメラは勿論、衛星の画像を使っても彼は見つからない。 

 それをただの高校生が、どうやってと言いたいのだろう。

「もう、躊躇しない。徹底的に聞き込む」

「聞くって。……バイヤーにか」

「一番手っ取り早い。今まで聞かない方が、どうかしてた」

 勿論聞かなかった事には理由がある。

 バイヤー自体が危険な存在であり、彼等の背後には暴力団やマフィアが付いている。

 リスクは相当な物だろうし、場合によっては生命にすら関わってくる。

「その格好で行くとか言うなよ」

「準備してくる」

「よし。俺はバイク持ってくるから、阿川君にも連絡してくれ」


 無愛想な顔で学校の正門前に現れる阿川君。

 急な呼び出しという理由ではなく、私が呼び出した理由に対してだろう。

「関わる気は無いって言わなかったかな」

「事情が変わったんです。悠長に事態を見守ってる時期は過ぎました」

「皮肉なのか何か分からないけど、マフィアを相手にする気か」

「場合によっては。責任は、私が取ります」

 どうとるとは答えず、ジャケットの上から体に触れプロテクターの具合を確かめる。

 ジーンズ生地を利用したパンツも問題はなく、頭にはキャップで目元はサングラス。

 顔を隠すという意味より、防御的な面を考慮しての服装。

 素肌が出ているのは口元ぐらいで、俯けばそれもジャケットの襟に隠れるくらい。

「これは貸しだからな。……阿川だ。……いや、バイヤーの動向を探れ。……いや、こちらから手を出す必要はない。……ああ。後は君達の端末に、連絡が入ってくる」

「ありがとうございます」

「礼を言われるような事でもない。バイヤーと接触するのは、君達だけか」

「サトミ達には無理でしょうし、向こうは向こうで捜索してもらいます」

 端末に入ってくる幾つものメール。

 それには地図が添付されていて、バイヤーの位置が把握出来るようになっている。

「ショウ」

 リアシートへ飛び乗り、彼のお腹に手を回す。

 ヘルメットのシールドにはメールの内容がいくつも展開され、バイクのデータと共にそれをチェックする。

「せいぜい、気を付けて」



 愛想のない見送りを受け、まずは栄のセントラルパークへとやってくる。

 名古屋一の繁華街であり、夜が更けても人の流れが途切れる事はない。

 飲食街のある錦も近いが、こちらはむしろ若者が集まる場所。

 適度なイルミネーションと、人の背の背丈程の植え込み。

 南北に長い遊歩道というか公園で、場所によっては周囲から完全に隠れる事も出来る。

 そのためドラッグの売買が盛んな事でも有名で、以前は名古屋港以上にバイヤーがいたという。

 バイクは少し遠くの歩道へ置き、セントラルパークの中を歩いていく。

 昼はカップルや家族連れで賑わうが、今は若者の集団がやたらと目立つ。

 ストリートミュージシャンや街頭パフォーマンス目当ても多いだろうが、この場所に集まるのが目的の集団も多い様子。

 特にあてはなく、ただ仲間と一緒にいる。

 無為に、ただ時間が過ぎるのを待つだけのような。

 ただそういった心境は私にも理解出来るし、場所こそ違え仲間と集まる事はある。

「いる?」

「ここは人が多いから、移動したかもな」

 私達が歩いているのは、街灯沿いの遊歩道。

 昼間のようにとは言わないが明るさとしては十分で、誰が何をやっているかははっきりと見て取れる。

「少し、外れるか」


 遊歩道の脇道へ逸れ、階段を下りて植え込みを上に見る。

 街灯が遮られ、たった数歩歩いただけで辺りは闇に包まれる。

 すぐに目は慣れてくるが、少し離れた人間が何をやってるかは全く分からない。

 軽く私の肩に触れてくるショウ。 

 微かに手を挙げてそれに答え、グローブの具合を確かめる。

 植え込みの奥にある、一本だけ背の高い杉の木。

 その下で、やたらと耳元のピアスに触れるドレッドヘアの男。

 こちらからは何度か左腕の肩口をさすり、男の前に近付いていく。

 向こうも無言で歩を進め、やがて私達の進む先が交差する。

「Mなら1、Lは3」

「他は」

「ダウナー系なら、よそに行け」

 男の言動から、バイヤーであるのは確認出来た。

 周辺に仲間はいなく、端末も手元にはない。

 マイクを付けている様子もなく、むしろ無防備と呼べる程。

 警戒するのは警察くらいという訳か。

「ぐっ」

 小さく呻き声を上げる男。

 膝に続けてすねを軽く蹴り、足の甲を踏みしめ急所を突く。

「端末出して」

「け、警察か」

「二度は言わない」

「だ、出す。すぐ出す」

 逆に男は私の言動から何を思ったのか、ジーンズのバックポケットから端末を取り出した。

「顧客のリストは」

「な、縄張りは守ってる。い、いや。あれは、向こうから声を掛けてきたから、仕方なく」

「……無いな。偽名を使ってるのか」

 男の話を無視してリストを読んでいくショウ。

 私も転送されたリストを読むが、彼の名前は表示されない。

「この男に見覚えは」

 ケイの写真を取り出すショウ。

 男は脂汗を流しながら写真を見つめ、すぐに首を振った。

「全員を覚えてる訳じゃないし、こんな奴見ても忘れる」

「分かった。だったら、俺達の事も忘れろ」

「え」

「忘れろと言ったんだ」

 低い声を出し、男の目元に指を向けるショウ。

 それは精神的な圧迫となって男にのし掛かり、彼の言葉をより理解する事となる。



 その後数人を当たるが、手がかりは無し。

 仕方なく、今度は名古屋港へとやってくる。

 先日訪れた観光スポットが集まる箇所ではなく、巨大な倉庫が建ち並ぶ埠頭の方へ。

 昼でも車道を走るのはトラックが大半で、夜にはカーレースに興じるスポーツカーやバイクが混じる。

 もしくは、ドラッグ目当ての連中が。

 長い橋を渡って埠頭に辿り着くが、景色はどこまでも同じような倉庫が並ぶ。

 細い路地には何台もの車が止まり、ただ駐車しているのか何をやっているかは分からない。

 以前舞地さんを助けに訪れた時以上の緊迫感。

 付け狙われたり襲われる事はないが、今は自分達がその襲う側である。

「地図の表示で行くと、この辺か」

 一旦バイクを左端へ寄せ、微かに赤いペンキの後が残る倉庫の脇にパッシングする。

 その光は路地の奥へと届き、黒のライトバンを照らし出した。

「あれが、そう?」

「みたいだな」

 返ってきたパッシングを手で遮り、私をバイクへ残したまま歩いていくショウ。

 私の安全のためだけではなく、いざという時はこれを使って自分を救出してくれと言う意味もあるだろう。


 幸いそういう事にはならず、バンのフロントガラスが砕け散るだけの結果に終わった。

「手がかりは」

「端末だけだ。データは、サトミに送ってある」

「バイヤーを当たる事自体、無理があるのかな」

「バイヤー以外から手に入れる方法がない以上、これしかない。もう少しここを当たって、その後で神宮の駅前に行くか。あそこにも、バイヤーはいるみたいだし」

 私に向かって拳を繰り出すショウ。

 それは耳元をかすめ、私を抱き込むようにして弧を描く。

 すぐに後ろで人の倒れる音がして、ショウが後ろにまたがったのを確かめてバイクを走らせる。

 バックギアがないためアクセルターンで方向を変え、ウイリーさせて人の波を強引に割る。

 これに突っ込んでくる人間はいないだろうし、いたとしてもすぐに目の前から飛んでいく。

「どうする?」

「やっぱり無理っぽいから、このまま神宮前に行くか」

「了解」

 一気にギアを上げ、エンジンに悲鳴を上げさせながら無人の車道を疾走する。

 車とは違うスピード感と緊張感。

 バックミラーに男達の姿は全く映らず、すれ違ったパトカーすら一瞬にして消え去っていく。

 しかしそれを楽しむ余裕は、今の自分には微かにもない。

 バイクを駆り、突き進む。

 全てをすぐに終わらせる。

 ただ、その思いしか。 



 神宮駅前の駐輪場にバイクを停めて辺りを見渡した所で、異変に気付く。

 さっきまでは、自分達がバイヤーを探していた。

 でも今は、それっぽい連中がそれとなくこちらの様子を窺っている。

 端末で連絡を取る者や、仲間を呼び寄せようとしている者もいる。

 それが何を意味するかはともかく、今の私達にとっては好都合だ。

「準備は?」

「問題ない」

 ヘルメットをバイクへロックしながら答えるショウ。 

 屈み気味に背を丸めたその姿は隙だらけに見えるが、襲いかかればどうなるかは身に滲みて分かっている。

「10人いないね。監視だけかな」

「分からん。適当に一人捕まえてみるか」

「適当、ね」

 JR、名鉄、地下鉄、バスの総合ターミナルである神宮駅前駅。

 そこを中心として熱田神宮や草薙高校へ掛けては飲食店やファッション関係のビルが建ち並び、夜が更けてきたこの時間でもかなりの活況を呈している。

 栄や名駅とまではいかないが、地元である分愛着は深い。

 駅前のロータリーにはやはり若者がたむろし、私達も短い階段を上ってロータリーに向かう。

 そのままビル上のターミナル駅へと入り、電車の改札やおみやげ屋さんを横目に見つつコンコースを歩いていく。

 寒さを避けるように集まっていた若者達も少しずつ姿を減らし、広いコンコースの左右にあった売店や改札も減り始める。

 やがて人気が無くなり、左右に見えるのは薄いクリーム色の壁だけ。

 すぐに冷たい風が吹き込み、行く手には見慣れた闇が広がっている。



 駅の中を抜け、神宮駅前の東口へとやってくる。

 一般的に神宮前と呼ばれるのは、熱田神宮に面した西口。

 東口側は住宅街であるが、店が並び人が行き交うのは西口である。

 つまりこちら側は利用する者が少なく、客待ちのタクシーが数台街灯の下に停車しているだけだ。

「せっ」

 素早く腕を横に振り、私達を追い抜こうとした人影の鼻を叩く。

 無茶な行動ではあるが、普通の乗降客が来ていないのは確認済み。

 アスファルトの上に転がったのは案の定、髪を青く染めた柄の悪い男。

 私達より少し年上風だが、親しみを持てるタイプではない。

「な、何を」

「この男に見覚えは」

「し、知らん」

 ショウが出した写真を見るなり、即答する男。

 明らかに知っているという顔で、ようやくピースが一つ見つけられた気分になる。

「いつ、どこで見た。何を売った」

「し、知らん。……知らん」

 ショウの足が喉にめり込んでも、男は頑として否定する。

 今はそれこそ死んだ方がましという苦痛を味わっているはずだが、口を割るのはそれ以上の恐怖が待っているという訳か。

「待って。質問を変える。だったら、この男に付いて詳しい人間を紹介して」

「い、いや。それも」

「この男を裏切るのがいいか、仲間を売るのが良いか。早く選んで」

 一瞬左右する男の瞳。

 だが結論はあっさり出たらしく、私に踏まれてままならない腕を動かし住宅街の方を指さした。

「タクシーが停まってる所の少し後ろに、多分黒のセダンが停まってる」

「よし」

「お、俺が喋ったとは」

「復讐が怖いなら、どこかへ行けば。ここからなら、どこでも行けるでしょ」

 男を解放し、改札の並ぶ駅の構内を指さす。

 それを本気にしたのか、男は飛ぶような勢いで走り出し改札を過ぎてその姿を消した。

「車に乗ってるのなら、バイヤーの元締めって所か。マフィアに近付いてきたな」

「名古屋港でマフィアを殴ったから、こうして付け狙われてるんじゃないの」

「そういう考え方もある。よし、行くぞ」



 姿勢を低くして、後部座席の窓をスティックで叩く。

 サイドミラーからは死角。後部の車載カメラからも見えない位置。

 確認するためには、結局降りてくる以外にない。

「この寒いのに、用があるなら端末で……」

 わめきながら降りてきたスーツ姿の男に足払いをして、前向きに倒れた所で腰にかかとを落とす。

 感覚からいってプロテクターを着ているようだが、急所についての打撃は十分に効果があったらしい。

「そっちは」

「寝てる」

 運転席に突っ込んでいた腕を引き戻すショウ。

 彼の言う通りジャージ姿の男がハンドルを枕に横たわっていて、当分は起きる気配がない。

「お、お前ら。さっき名古屋港で」

「俺達が何をしようと関係ない」

「ガキが。ヤクザを相手にして、生きて……」

 男の話は最後まで続かず、かすれた呼吸音が微かに漏れるだけ。

 これ以上は問題が多いため、腰からかかとを少しだけ離す。

「この男を知ってるか」

「……知らん」

 さっきのバイヤーと同じ反応。

 人の嘘を見破る技術はないが、ここまで即答されれば私でも分かる。

「ガキ共、もう一度言ってやる。お前らの住所や名前を調べるくらい訳無いんだぞ。家族を追い込んで」

「こっちだって、お前の住所や名前は分かってるんだ。ガキに殴り倒されて、この先仕事が出来ると思ってるのか。それとも、自殺願望でもあるのか」

 延髄にかかとを乗せるショウ。

 あまり聞いた事のない音がして、首が見た事もない早さでせり上がる。

「……バイヤー?」

 声が聞き取れなかったらしく、ショウが一旦足を戻す。

 男はかすれた呼吸を繰り返し、小さな声でささやき始めた。

「て、手下のバイヤーがドラッグを売ろうとしたら、金を見せてきて大量に取引したいって言い出してきた」

「続きは」

「こ、この先は幹部しか知らない話だ。額も扱う量も多すぎる」

「じゃあ、その幹部の居場所を教えろ」



 徐々にエスカレートする展開。

 とはいえ予想していた範囲ではある。

 良い方ではなく、悪い方への予想だが。

「あれか」 

 神宮駅西口にある高級中華料理店。

 その前に停まる、黒塗りのリムジン。

 周りには何人かスーツ姿の男が立っていて、通行人も多い。

 先程みたいな手は使えないが、方法はどれだけでもある。

「じゃあな」

「ちゃんと戻ってきてよ」

「ああ」

 リアシートから降り、猛スピードで失踪するバイクを見送る。

 リムジンの周囲にいた男達はすぐに気付き、腰に手を添えスーツの中に見える警棒を取り出した。

 バイクの情報は事前に入っているだろうし、不意をつくのは難しい。

 それでもショウは構わずリムジンへ突っ込み、男達の血相を変えさせる。

 護衛の責務と間近に迫った自分の危機。

 それを天秤に掛ける余裕すら無い状況では、本能に従い逃げるのが普通である。

 男達が逃げた所でショウもバイクを急停車させ、サスが沈み込んだのを利用してフロントタイヤを持ち上げる。

 そのまま加速してリムジンのトランクに乗り上げ、屋根を乗り越えてボンネットから降りていった。

 そこでバイクを停め、リアタイヤを滑らせて黒煙を上げるショウ。

 挑発に乗り、近くにあった車へ乗り込む男達。

 ゆっくりと路地へ入っていったバイクを、怒号と共に車が追っていく。


 残った護衛は二人。

 殺到する野次馬に混じり、小太りの小柄な男が現れる。 

 事前に聞いていた情報通りの容姿で、こそこそと逃げていく事からもターゲットであるのは間違いない。

「ショウ」

「今行く」

 気付くと後ろからバイクが現れ、その後ろへ素早く飛び乗る。

 器用に人混みをすり抜けていくショウ。

 私はスティックを取り出し、やり投げのように肩へ担ぐ。

「一気に抜けるぞ」

「了解」

 突然加速するバイク。

 片手でショウのお腹へしがみつき、右腕を伸ばしてスティックを突く。

 それは正確に護衛の脇腹へ突き刺さり、その隙にショウが腕を伸ばして小柄な男の襟首を掴み上げる。

 バイクはさらに加速し、人の顔が意識するまもなく後ろへ流れる。

 怒号や叫び声はもう届かず、景色は全く違う物へと変わる。

 唯一聞こえる悲鳴は、ショウに引きずられている男のそれだけだ。



 追っ手がないのを確認し、路地の奥へ入り込んで男を解放する。

 とはいえすでに息絶え絶えといった様子で、抵抗どころか動く気力もないようだ。

「大きな取引の情報を聞きたい。いつ、どこである」

「お、お前ら。警察か。こ、こんな方法で、立件出来る訳」

「聞いてるのはこっちだ」

「チャイニーズマフィアには話を通したって言っただろ。第一名古屋港のテリトリーは、うちとあんたの所で五分のはずだ」

 聞いてもいない話を続ける男。

 聞き馴染みのない単語が並べられ、私の知っている日常とはあまりにも違う内容に一瞬意識が遠ざかる。

 今のケイが、こういった世界に足を踏み入れている事に。

「取引の場所と時間。早くしろ」

 彼という存在を誰よりも理解しているはずの自分でも逃げ出してしまいたくなるような冷たい声。

 その言葉を掛けられた男に取っては、今は死を現実の物として感じ取っているだろう。

「きょ、今日だ。今日、すぐ近くで」

「それを証明しろ」

 男の端末を取り出し、強引に耳元へ当てるショウ。

 声を震わせながら、男がたどたどしく取引についての会話を始める。

 私達も自分の端末で会話を聞き、時間と場所を改めて確認する。

 手刀を下へ向けて振るショウ。

 男は顔を青くして、自分の首を血走った目で睨みながら慌てて通話を終えた。

「場所や時間が変更する可能性は」

「も、もう。相手は取引場所に来てる」

「よし」

 改めて手を振り立ち去るよう促すショウ。

 一瞬硬直し、しかし男はすぐに立ち上がって路地から飛び出していった。

「今更場所を変える、なんて事無いよね」

「あの調子なら、当分人前には出てこないだろ」

 怪我は大した事ないし、私もショウもこれからの行動について何かを言った訳ではない。

 しかしもし取引現場に現れればどうなるかくらいは、あれだけの恐慌状態に陥っていても分かるだろう。

 いや。恐慌状態に陥っているからこそ。

「とにかく急ごう。取引がされる前に」

「大体、取引って何よ。元締めになって、どうする気」

「今から本人に聞いてやるさ」



 熱田神宮を右手に眺め、やがて現れた学校を通り過ぎる。

 そのまま国道1号線を西へ向かい、今まで意識した事もなかった交差点を左折する。

 どこにでもあるような住宅街。

 ヘルメットに表示される地図をチェックして、間違いがない事を確認する。

「普通の所だね」

「こういう場所の方が、代えって分かりにくいって事かもな。……こっちか」

 一旦右折し、今度は左折。

 大通りからはかなり離れ、普通の住宅街ではあるがその分車の流れは殆ど無く人に至ってはすれ違いもしない。

 昼間ならともかく、この時間では出歩く人間もいないだろうが。

「やっぱり、工場か」

 舌を鳴らし、バイクを停めるショウ。

 ヘッドライトの先にあるのは、古ぼけた小さな町工場。

 普段なら気にも留めないありふれた建物だが、幾つもの情報を頭に入れている今はそれがとてつもない不吉な物に見えて仕方ない。

「ちょっと待って。サトミに連絡する」

「ああ」

「……サトミ。場所が分かったから、今……。ええ?」

 民家の塀の壁に隠れ、声を潜めて改めて尋ねる。 

 ショウは怪訝そうに私を眺めつつ、腰に提げた警棒をチェックし始めた。

「見つけたって。……衛星の画像に?寮の部屋にいた?……いや。それで、今どこに」

「どうなってるんだ」

「今聞く。それで、サトミはどこに……。ちっ、切れた」

「おい、あっちに誰かいるぞ」

 塀に隠れつつ、工場の向こうに見える民家を指さすショウ。

 正確には、そこに立っている人影を。

 髪の長い女性が二人と、スーツ姿の男が数名。

 それと対峙して、やや背を丸めてパーカーのポケットに手を入れている男が一人。

「おい」

「間違いない。サトミと沙紀ちゃん」

「じゃあ、あれは」

「勿論、ケイでしょ」



 サトミや沙紀ちゃんの行動。

 その心情を否定する事は出来ない。 

 私もここにいる以上、同罪だ。

 しかしケイは何を思って、何を考えてあそこにいるのか。

 いや。今はそれよりも、サトミ達の安全を確保する方が先か。

「私はあっちに行くから、ショウは後からどうにかして」

「一緒に捕まるとか言うなよ」

「言う」

「簡単に言いやがって。武器は全部預かるぞ」

 私が持っていても取り上げられるのは分かっているので、スティックや閃光弾を彼に渡す。

 やや不安感は増すが、素手でも特に問題はない。

「ほどほどにな」

「お互いに」

 軽く拳を重ね、お互いの顔に指を向ける。

 言葉はもう必要ない。

 今までの経験、彼への気持ち、彼からの思い。 

 言葉が無くても通じ合う。

 それを取り戻すために、私達はここに来ているのだから。




 両手を上げ、ゆっくりと歩く。

 不用意な不信感を抱かせないよう、一定の速度でかつ真っ直ぐに。

「止まれ」

 低い制止の声。

 すぐに足を止め、目だけを動かし周囲を確認する。

 工場前だけではなく、路地に数名。

 民家の二階に人影が見えるので、おそらくそちらも仲間だろう。

「その子達の友達よ」

「何しに来た」

「助けにね」

「縛れ」

 無駄口を叩かず、即座に私の腕を後ろに回して縛り上げる男達。

 正面に見えるサトミは愛想の欠片もない顔で、沙紀ちゃんが少し申し訳なさそうにしている。

「ごめなさい。私が様子を見に来て」

「私は付き添いよ」

「どうして捕まってるの」

「周辺を警戒するのは当然だろ。ここは目立つから、中に入ってもらおうか」

 愛想良く笑い、工場の入り口に顎を向けるケイ。

 この状況に感情を動かされている様子はまるでなく、学校で出会った時と何も違わない。

 だからこそ、私の心は苛まれる。




 工場といっても機材は殆ど無く、壁際に鉄材が少し積んである程度。

 唯一あるのは天井から吊された小型のクレーンで、ただそれもさびが浮き使い物にはならないだろう。

 ケイは被っていたキャップを後ろ向きにして、その鉄材の上にしゃがみ込んだ。

「色々あったようだけど、俺は興味ない。取引を優先しよう」

「金は」

「ここにある」

 足元にあった小さいアタッシュケースを開け、中を見せるケイ。

 照明は高い天井にある蛍光灯の頼りない光だが、そこに札束が詰め込まれているのは誰の目にも明らかだ。

 ケイはその束をいくつか取り、近付いてきた男に手渡した。

 男は札束の端を指で滑らせ、めくられていく札の真贋を確かめ始める。

「今度は、そっちのを確かめさせてもらう」

 札端と交換で渡される錠剤のシート。

 ケイはそれを開け、液体の入っている小瓶の中へと放り込んだ。

「……純度80%か。もう少し質の良い物をって頼んだはずなんだけど」

「いきなりそこまで集められん。期限が早すぎるんだ」

「じゃあ、取引は中止って事で」

「待て……。あれを持ってこい」

 ジャージを着た男が粉の詰められた袋を差し出し、ケイは覚めた顔でそれを受け取る。

「開けたいんだけど、ナイフは」

「これを使え」

「どうも」

 果物ナイフを左手で受け取り袋へと突き立て、少し笑うケイ。

 それに怪訝そうな顔を向ける男。

「何がおかしい」

「いや。ヤクザが果物ナイフっていうギャップに、ちょっとね。さて、調べるか」

 ケイはナイフに付いた粉をさっきと同じような小瓶に入れ、チェックシートらしき物をそれへ近付けた。

「純度94%。まあ、妥協するか。それで、量は」

「十分用意した。おそらく、市内にある分の9割はここに集まってる。お前、ここの元締めにでもなる気か」

「利益を上げる基本は独占だろ。別にいいよ。俺と取引せず、今まで通り自分達でさばいても。ただ、学生へのルートはこっちで抑えてるから。将来の有望な顧客を」

「貴様」

 後ろを振り返り、誰かを捜すような素振りを見せる男。

 手下達は首を振り、探している人物がいないという顔をする。

「叔父貴はいつ来るんだ」

「風邪を引いたとかで。取引は任せると、連絡がありましたが」

「それでマージンだけ取る気か」

 舌を鳴らす男に追従して笑う手下達。

 男はもう一度舌を鳴らし、腕を組んで歩き出した。

「俺とお前だけ、というルートでもいい訳か」

「そっちの組織内で折り合いが付くのなら」

「……付くさ」

「卸値をもう少し下げてもらうのなら、にしようか」

 男の言質を引き出してからの、後出しとも言える注文。

 男の顔は赤く染まり、しかしケイは普段通り覚めた表情を見せている。

「あまり調子に乗るなよ」

「お互い様だろ。第一名古屋市内でドラッグを扱うのは、組の内規にも触れるって聞いてる」

「気付かれなければ同じ事だ。後は、上納金さえ納めればな」

「トップに立てば、その内規も変えられる。変えるためには金がいる。それで今俺達は、金の話をしている」

 熱弁を振るうという訳でもなく、淡々と語るケイ。

 交渉のルールやテクニックは分からないが、現状において彼が有利な立場にあるのは間違いない。

 ただ有利だからといって、喜ぶような状況である訳でもない。

「話をする気がないなら、よそに持って行くだけだ」

「待て。もう一度聞くぞ。俺とお前で独占的に扱うというのは、間違いないな」

「今日持ってきたのは、どれだけだった?」

「市内の約9割。おそらく年間の消費量に近い」

「だったら独占は簡単だ。それと契約の前に、少し彼女達と話をしたいんだが」

「良いだろう。ただし身柄は、俺達が預かるからな」

 一瞬下品な笑みを浮かべる男。

 ケイは大袈裟に肩をすくめて鼻を鳴らし、建物の奥の柱に縛り付けられている私達の所へとやってきた。



「放っておいてくれって言わなかったかな」

「言ったかもね」

「じゃあ、どうしてきた。友達だから、なんて台詞は聞きたくない」

「友達だから」

 迷う事無く、気負う事無く。

 素直に自分の気持ちを彼に告げる。

 沙紀ちゃんは訴えかけるような眼差しで、サトミは咎めるように彼を見つめる。

 しかしケイの表情は微かにも変わらず、微かに顔を後ろへ向ける仕草をした。

「あいつらは学校の不良とか街のチンピラとは、根本的に違う。人を殺すくらい、訳無いって考える連中だ」

「だから」

「もう良いよ。人の忠告を無視した報いは、今から嫌という程味わうんだから」

 私達一人一人に指を向けていくケイ。

 それに対する反応は三者三様で、ただ分かったのは彼がここで私達を助け出してくれる意思がないという事だ。

「取引はもうすぐ終わる。後はせいぜい、頑張ってくれ」

「あなたはどうする気」

 手を縛られたまま。

 この先どんな運命が待ち受けてるのかも分からない状況。

 それでもサトミは毅然とした態度を崩さず、ケイを詰問する。

「俺は俺のやりたいようにやる。みんなはせいぜい後悔でもしててくれ」

 陰惨な笑みを浮かべ、右手でサトミの頬を軽く叩くケイ。

 サトミは身じろぎ一つせずそれを受け入れ、さらに険しくなった顔で彼を睨み付けた。

「本当に、それでいいの」

「さあね。さて、話は終わった。取引が終わったら俺は帰るから、後はよろしく」




 私達から離れ、先程の男達と向かい合うケイ。

 今度はあっさりとお互いのケースがやりとりされ、取引はあっけなく終わる。

「どうする気」

 その様子を見たまま私に尋ねてくるサトミ。 

 こっちが聞きたいくらいの心境だが、腕を柱に縛られているこの状況で出来る事はそういくつもない。

 男達の野卑な視線と意味ありげな笑い方。

 その意図はたやすく想像が付き、今更ながらここに来た事を後悔する。

「ショウは」

「さっき別れた。自分こそ、名雲さん達は」

「いないわよ」

 はかばかしくないやりとり。

 表面上で上滑っているだけの。

 この現状を回避するには、大して意味のない会話。

「ごめんなさい」

 そんな中、消え入りそうな声で謝る沙紀ちゃん。 

 視線を落とし、目元を赤くして。

 ここに来るべきではなかったと、私達を巻き込むつもりはなかったと。

 彼女が何も言わなくても、その気持ちは十分に分かる。

 仲間を案じ、悪いと分かっていても。

 だけど動かずにはいられないその気持ちは。 

 だからこそ私もここにいるし、サトミもすぐそばにいる。

 彼女を責める資格は誰にもないし、むしろ責められるのはケースを足元に置いて薄笑いを浮かべているケイだろう。

「それで、どうする気」

 改めての質問。

 縛られているのは細いロープで、指錠よりはましだが簡単に解ける物ではない。

 また男達は当然武装しているだろうし、サトミ達をかばって逃げるのもそうたやすくはない。

 何よりここを逃げ出したからと言って、暴力団と対峙した事実は変わらない。

 むしろ問題は、そちらの方が大きいだろう。

「向こうの出方次第でしょ」

「場当たり的ね。聞くんじゃなかったわ」

 鼻を鳴らし、顔を背けるサトミ。

 人に話を聞いておいてこういう態度を取られると、余計に苛立ちが募る。

 しかしここで文句を言っても仕方ないし、この状況では暴れようもない。

 結局私達は、縛られたまま事の推移を見守るしかない。



 ついにと言うべきか。

 男達がこちらへと近付いてくる。

 下品な笑顔と下らない会話。

 手にはカメラと、注射器。

 これから何が行われるのか、考えるまでもなく悟らせる。

「3人か。まあそっちのガキはともかく、こっちの二人は使えそうだな」

 蛇のような視線で私達を見ていく男。

 サトミはそれへ微かにも意識を払わず、声すら聞こえないといった様子で顔を背けている。

 沙紀ちゃんは顔を伏せ、ため息を付くばかり。

 私は次の一手をどうするか、ただその事だけを考えている。

「俺の店に出すか、ヨーロッパに送るか。おい、こいつらにまで値段を付けるとか言うんじゃないだろうな」

「当然だろ。捕まえたのはそっちでも、一応は俺の知り合いだ。人身売買でリークされたいなら、また別だけど」

「ちっ」

 殺気に満ちた視線を向ける男。

 ケイは平然とそれを受け止め、沙紀ちゃんとサトミを交互に指さした。

「この二人は同額。これだけだ」

「……よし。そっちのは」

「こんなの、一山いくらだろ。おまけで持って行ってくれ」

 私の頭に右手を置き、失笑するケイ。

 見下ろしてくる彼を強く睨み上げ、言いたい事をかろうじて堪える。

 今はまだ動ける状況にないし、サトミ達の無事も確保出来る自信がない。

「本気で、こんな事を」

 突然顔を上げ、訴えかけるような眼差しを向ける沙紀ちゃん。 

 ケイは無造作に彼女へと歩み寄り、その頬を勢いよく叩いた。

 サトミへやったのとは根本的に違う、暴力と呼べる程の強さ。

 頬を赤くした沙紀ちゃんの視線と、右手を握りしめるケイ。 

 二人はしばし見つめ合い、しかしケイの方が先に視線をそらした。

「女の扱いには慣れてないようだな」

 下品に笑う男と、それに追随する手下達。

 ケイは手を何度か握り返し、つまらなそうに鼻で笑った。

「まあ、しつけるのも楽しみの一つだ。後はこっちの仕事だからな」

「気が変わった。この女達は、もう少し俺が預かる」

「おい」

「金は無しでいい。その代わり、少し商品に傷が付くが」




 冷たい、感情の欠片もない声。 

 顔には怜悧な表情が浮かび、口元だけが微かに緩む。

「ナイフを」

 後ろを振り返り、低い声で命じるケイ。

 男達は一瞬後ずさり、少しして一人が先程の果物ナイフを差し出した。

「お、おい。傷は」

「心配するな。殺す訳じゃない。多分」

 手首を返してナイフを振るケイ。

 弱々しい照明に鈍く輝くナイフの刃。

 それは間違いなく、沙紀ちゃんへと向けられている。

「ちょっと付いてるな」

 ナイフの刃を確認し、照明にかざすケイ。

 何がと思って見てみると、そこには白い粉が微かに付着している。

 さっき袋を開けた時に付いた物が、そのまま残っているのだろう。

「軽く」

 なんのためらいもなく、あっさりとナイフを口に運ぶケイ。

 見間違い、全然違う動作、勘違い。

 そう思いたいという私の気持ちはあっけなく砕かれ、ケイはドラッグを口に含んだ。


 演技、何かの深い考え、彼なりの理屈。

 それらは完全に否定され、俯いて体を震わせる彼の姿が目の前に見えている。

「来るな、これは」

「純度94%だ。これからは、俺とお前の物だ」

 馴れ馴れしくケイの肩を抱く男。

 今まであった疑いの表情は消え失せ、仲間を見つけた。

 それとも、獲物を見つけたと言わんばかりの顔でケイにささやきかける。

「面倒だ。このガキ達は全員始末しろ。その後は俺達で処分する」

「その方が早いかな」

 うつろな目で尋ねるケイ。

 男はさらに陰惨な顔になり、何度と無く頷いた。

「その時はお前を幹部に迎えてもいい。高校生で幹部なんて、あり得ないぞ」

「約束だからな」

「ああ、約束だ」 

 明らかにその意思がないと分かるくらいの、上っ面の口調。 

 しかしケイは機械的に何度か頷き、口元を動かした。

 ただ漏れてくるのは言葉ではなく、唾液だけ。

 膝は揺れ、ナイフを握り続ける事すらままならない様子である。

「おいおい、大丈夫か」

「え。ああ。ちょっと、ドラッグがききすぎた」

「仕方ない奴だな」 

 ケイの肩へ触れ、そのまま後ろを振り返る男。

 その顔から見て私達を始末した後は、ケイもといった所か。

「まあ、少し待て」

 千鳥足で歩き出したケイを制し、傲慢な顔で私達の前へと出てくる男。

 瞳は黒い光を宿し、私達を人としてではなく物として見ているとしか思えない。

「さっきはああいったが、死体の処理って言うのもそう簡単じゃない。それにガキを殺すと、警察が何かとうるさくてな」

 そこでだと呟き、男は一旦間を置いてケイの後ろに回って両肩に手を置いた。

「このジャンキーは、もう用済みだ。今は、俺の話も殆ど分かってない。あれは本来10倍に薄めて使う物だしな」

 男が少し手に力を加えると、ケイはそのまま膝から床へ崩れて動かなくなった。

 聞こえてくるのは浅くて早い呼吸音と、意味の分からない呟き。

 先程までの冴えどころか、自分すらコントロール出来ていない。

「取引は駄目になったが、ルートが途絶えた訳じゃない。女のバイヤー3人が増えたんだからな」

「私達が、それに従うとでも」

 事務的に問いかけるサトミ。

 男は膝を付いたまま動かないケイを後ろから軽く蹴り、その首に足を置いた。

「こいつの命と引き替えにっていうのはどうだ。それと、お前達の無事は保証してやろう。今日は返してやるし、そうだな。売買にノルマも貸さない。売り上げの20%をマージンとして取ってもいい」

「拒否したら」

「言うまでもないだろ」

 足を前に押し出し、ケイを押し倒す男。

 しかし彼は少しうめいてそれに反応しただけで、床に顔からぶつかるのを防ぐが精一杯ったらしい。

「これはあくまでも、俺の厚意だ。薬漬けになってビデオに出るって方を選んでも、俺は構わないんだぞ」

「一つ聞いていいかしら。今まで学校にあった売買のルートとバッティングする可能性は」

「ないさ。お前達の学校にあったルートは、どうやらこいつがジャンキーになったのが問題になって潰された」

「その売買ルートを、私達が利用してもいいの」

「そこはお前達の自由さ。ただしマージンの分配はそっちで決めろよ。リストは後で送ってやる」

 積極的に質問するサトミに好感触を抱いたのか、気軽に何でも話して来る男。

 ただその内容は予想の範囲内であるが、それらが現実の事としてあったのかとショックを受ける話でもある。

「学校の職員にも協力者はいる?」

「当然だろ。でなけりゃ、いくらなんでもそう簡単に売りさばけるか」

「そのリストも?」

「ああ、見せてやる。俺達に協力してくれたらな」

 改めての確認。

 狡猾で、残忍な笑顔。 

 人の最も悪い部分を凝縮し、それを形作ればこういう人間になるのか。

 それともこれが、人間という存在の本質なのだろうか。


「する訳無いでしょ。馬鹿が」

 サトミが答えるより早くそう言い放ち、足をもがいて抵抗する。

 交渉、理性、理屈。

 それらの大切さは十分に分かっているし、縛られている私達にはなんの選択しもない。

 だけどもうこれ以上は耐えきれない。

「ガキは黙ってろ。こっちは、仕事の話をしてるんだ」

「そのガキ相手に必死になってる自分はなんなのよ。ガキ以下じゃない」

「威勢の良い奴だな。少し、お仕置きが必要だな」

 陰惨な笑みを浮かべ、懐から短刀を取り出す男。

 銃を取り出される不安もあったが、住宅街という点も向こうは考慮しているだろう。

「耳が一つ無くても、気にしないだろ。人の話を聞くのが苦手みたいだしな」

「そっちは頭から上が無くても良いんじゃないの。何も考えないみたいだから」

「殺すぞ」

「がたがたうるさいな」

 男の台詞を遮るように、床からゆっくりと起き上がるケイ。

 けだるげな顔付きと、鈍い動き。 

 それが何を意味するのか、男は喉の奥から声を出し数歩後ずさった。

「人が寝てると思いやがって、好き勝手な事を言ってくれたな」

「あ、あれは。軽い冗談で。こ、この女達を」

「お前の処分は後で決める。耳くらいで済むと思うなよ」

 淡々とした無機質な口調。

 そこに感情が感じられない分、言葉には迫力と真実味が付け加えられる。

「そっちの女もだ。バイヤーは俺で、お前らじゃない」

「だったらどうするの」

「殺せば良いだけだろ。そうすれば、バイヤーは俺だけになる」

 無表情のまま鼻だけを鳴らすケイ。

 彼は手にしていた果物ナイフを右手へ持ち替え、腰にためて歩き出した。

 ややおぼつかないながらも、彼は確実に私達との距離を詰めてくる。

 うつろな瞳と口元から垂れ続ける唾液。 

 膝は依然として震え、しかしその足は止まらない。

「さてと」

 私達の目の前で足を止め、ナイフの先端を向けてくるケイ。

 鋭い切っ先と鋭利な刃。

 果物ナイフとはいえ刃は厚く、その切れ味も先程ドラッグの袋を切った時点で証明されている。

「私からお願いって意見は」

 誰も反応はなく、ケイも仕方なさそうに口元を緩める。



「じゃ、自分から」

 無造作に体を運び、そのままサトミにぶつかるケイ。

 それと同時に鮮血が床にこぼれ落ち、二人の足元を真っ赤に染めていく。

 反応も対処も出来ない、なんのためらいもない動き。

 精神的なブレーキも、躊躇する気持ちも何一つ無い。

「めり込ませすぎたか。代えのナイフくれ」

 血まみれのまま引き返すケイ。

 うなだれたサトミは身動き一つせず、赤く染まったジャケットから血が滴り落ちていくだけだ。

「ほ、本当に殺す気か。あれは、脅して」

「じゃあ、代わりに死ぬか」

 受け取ったナイフをちらつかせ、男達に悲鳴を上げさせるケイ。

 彼はすぐに振り返り、改めて私達の元へ戻ってくる。

「次は私って意見は。無いか、やっぱり」

 先程同様、沙紀ちゃんへ無造作に体をぶつけるケイ。

 今度も血が床を塗らし、見た事のない色に染まり出す。

 沙紀ちゃんはうなだれたままで、少し体を揺らしただけ。 

 ただそのまま、ジャケットから血が滴るだけで。

「ナイフ」

 振り返るケイ。

 今度は一人の男が血相を変えて走ってきて、彼に細身のナイフを手渡した。

「鼻、削いでやろうか」

「やってみなさいよ」

「怖い女だ。土下座すれば、自分だけは許してやるのに」

「寝言は寝て言えば」

 おかしそうに笑うケイ。

 そしてその笑顔のまま、私に体が預けられる。

 お腹に感じる生ぬるい感覚。

 滴っていく鮮血。

 工場に木霊するケイの高笑いだけが、ただ耳に残る。













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