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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第29話
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     29-4




 休日の午後。

 何もせず部屋でぼんやりと過ごすのも良いが、今はこもっていると思考が落ち込んでくる。

 外に出たからといってそう簡単に解決する訳でもないものの、一人で沈み込んでいるよりはましだろう。

「湯葉?」

「池上さんのお土産」

「ああ。実家に帰ったとかいってたな」

 眠そうな顔で、ベッドサイドに腰掛けたままの舞地さん。

 訪ねてきた時から起きていたはずだが、ずっと低調なのは変わりない。

 放っておけばそのまま寝てしまいそうで、今もどの程度意識があるか分からない。

「食べないの?」

「何も食べたくない」

 湯葉とは別に持ってきたシュークリームは平らげたようだけど、それは多分気のせいだろう。

「舞地さんの実家って、草薙高校に寄付してるよね」

「それが」

「学校と戦う時、最後の手段として有力者を味方に付ける必要があるって先輩が言ってた」

「金があればいい訳でもないだろ。映未じゃないから詳しくないが、教育庁に圧力を掛けた方が早い気もする」

 眠そうな割には、意外と真剣な答えが返ってくる。

 ただし半分寝ているようなので、明日同じ事を尋ねても始めて聞いたという顔をしそうだが。

「じゃあ舞地家は、教育庁に圧力を掛けられるの?」

「親戚に国会議員はいるが、教育族じゃない。金融関係と、国防や外交だから」

「だったら、戦車借りてきてよ」

「私は眠いんだ」

 突っ込みもせず、そのままベッドに倒れる舞地さん。

 虚しい以外の言葉が見つからないな。


 少しして、舌を出した名雲さんがやってきた。

 いや。舌を出しているというのは私の心象で、彼自身はちょっと笑い気味に革のジャケットを脱いでいるだけだ。

「湯葉か。久し振りだな」

「久し振りって、自分で作ればいいんじゃないの」

「作る?お前、料理人か」

 不思議そうな顔で私を見つめ、刺身湯葉の袋を開ける名雲さん。

 醤油はと尋ねるより早く、彼はそのまま湯葉を飲み込んだ。

 この人、ヨウカンか何かと勘違いしてないか?

「一人で食べないでよ。ねえ、」

「僕はいいよ。名雲さんの余りで」

 何とも殊勝な事を言ってくる柳君。

 名雲さんと一緒にいて、よくこの性格で生き残れたな。

「じゃあ、そんな柳君にはこれあげる」

「シュークリーム?……中に、プリン入ってるよ」

「変でしょ」

「うん。でも、美味しいね」

 ジャブのような素早さで伸びてきた名雲さんの手をはたき落とし、フルーツ入りのシュークリームも柳君へ渡す。

 名雲さんは、ヨウカン食べてればいいのよ。


「ドラッグ?ああ、浦田の話か」

 鼻で笑う名雲さんと、一転して険しい物腰になる柳君。

 舞地さんはベッドに伏せたままで、少しも反応しない。

「実際どうかは知らないんだけど、習慣性の強いドラッグって聞いてる」

「やばいにはやばいだろうが、病院に通っていればその内治る。後は、本人のやる気だな」

「やる気?」

「通うのが面倒。薬が辛い、だるい。どうして俺だけが。こういうのが積もり積もると、まずい事になる」

 具体的にどうなるとは言わない名雲さん。

 柳君は先程からずっと無言で、ただ視線だけが鋭くなっていく。

「別に、今あいつがおかしな事をやってる訳でもないんだろ」

「うん。今は大丈夫」

「注意するのは態度や体調もそうだが、金遣いが荒くなったり金を欲しがったら気を付けた方が良い。何しろ高いからな」

 面白くなさそうに笑い、最後の湯葉を飲み込む名雲さん。

 確かに面白くも何ともなく、気分が重くなるだけだ。 

「ドラッグ絡みは金もだし、人間関係も壊すからな」

「そういう経験でもあるの?」

「俺達の仲間にはいなかったが。周りには何人もいた。簡単に手に入るから、初めは気にもせず使う。体調は良くなるし、意識も冴える。後はドラッグ無しではいられなくなって、仲間を売り飛ばしてでも手に入れようとする」

「浦田君次第、なんだけどね」 

 小さく、祈るようにしてささやく柳君。

 そう。

 結局は彼が言うように、ケイ自身を信じる以外にない。 

 信じる事以外に、何も出来ない訳でもあるが。

「やりあうとなったら、殺す気で行け」

 唐突にそう告げる舞地さん。

 しかしそれが決して冗談ではなく、彼女が真剣なのは名雲さんと柳君の顔見れば分かる。

 彼等の、私には知り得ない数多くの経験。

 そこに隠された幾つもの出来事に、今回のような事もあったのだろう。

 親しい間だけど。 

 親しい間だからこそ、情に流されては自分の命にすら危険が及ぶ。

「そうなったら、の場合だ。今は大丈夫なんだろ」

 慰めるように話しかけてくる名雲さんへ笑いかけ、シュークリームを口に運ぶ。 

 控えめな甘さが口に広がり、バニラの香りが鼻をくすぐる。

 ただし決して気分は晴れ渡らず、ため息が漏れるだけでしかない。

「後は柳の言ってたように、浦田の問題だ。という程、簡単な問題でもないんだが」

「そう、だよね」

「何があっても良いように、武器は常に携帯してろ。出来れば普段からプロテクターも着用しろ」



 忠告。それとも警告。

 気分の重いまま、寮ではなくて自宅へ戻る。

 狭い庭の草木は枯れ気味で、冷たい風に細い木の枝が揺れている。

「なんか、元気ないわね」

 玄関先を掃除していたお母さんは、竹ボウキを背負って私の顔を覗き込んできた。 

 今は冗談を返す気にもなれず、曖昧に笑って低い階段を上り家へと入る。

 しかし中に入っても体は温まらず、気温は外と大差ない。

「エアコン掃除してるの。窓も開けてるから、寒いわよ」

「あ、そう」

 玄関先の階段に膝を抱えてしゃがみ込み、掃除するお母さんを眺める。

 意識はそこには向いて無く、視線もお母さんを通り越して向かいの家の先を行く。

 何を見てるのか分かって無くて、何をしてるかもはっきりしない。

「目の調子でも悪いの?」

 不安げに尋ねてくるお母さん。 

 ストレスが掛かってる分いつもより調子が悪いのは確かで、少し疲れ気味ではある。

「ちょっとね。今日、病院行ってくる」

「休みでしょ」

「救急の外来なら、いつ来ても良いんだって。車借りるよ」


 正直自分が運転するには大きすぎるワンボックスを運転し、八事の第3日赤病院へとやってくる。

 近くに大学もあれば斎場もある、やや変わった土地。

 この先はすぐに市外で、お店が建ち並ぶのは今上っている坂の手前まで。

 休日のせいもあってか車の流れは殆ど無く、平日なら少し待つくらいの駐車場へもすぐに入れる。

 車を降り、病院の正面ではなく裏手の緊急外来へと向かう。

 薄暗く、多分救急車や急病の人を運んできた車しか通らないような道。

 正直あまり気分の良い場所ではなく、記憶としても当たり前だが良い思い出はない。

 ベッドや担架の搬入を想定してると思われる大きなドアをくぐり、簡素な受付でIDを渡す。

「雪野さん。……眼科でよろしいですね」

「はい、お願いします」

 IDを受け取り、ソファーではなく壁際で背をもたれる。

 ソファーは重苦しい顔をした年配の夫婦や、疲れ切った顔をしている作業服姿の男性が座っている。

 間違いなく彼等の場合は急病や事故のはずで、その側にいるのは辛くなる。



 何人かの急患が先に治療を受け、少し眠くなってきた所で名前が呼ばれる。

 ただし私は看護婦さんに連れられ、救急の外来から狭い通路を通ってエレベーターへと乗り込んだ。

 別な場所で診察するなら順番もないと思うが、この辺りの事情はよく分からない。

「杖は、大丈夫ですか」

 エレベーターを下りたところで声を掛けてくる看護婦さん。

 私が廊下の手すりを伝っているのを見て、気を遣ってくれたらしい。

「半分、癖みたいなものなので。それに、歩けない程でもないですから」

 若干無理に笑顔を浮かべ、それでも手すりから手を離さない。

 今言ったように歩けない程ではないが、離してしまった場合のリスクを考えれば多少遅くても安全に歩いていたい。

「こちらでお待ち下さい」

 眼科の外来前でソファー示され、改めてそこで待つ。

 左右に長い廊下に人はなく、看護婦さんが診察室へ入った後は物音一つしない。

 平日の混み具合が嘘のような、もの悲しさすら覚える眺め。

 やはり病院は好きにはなれず、誰もいない廊下で一人座っているのは恐怖心すら感じてしまう。



 名前を呼ばれて診察に通され、ようやく人心地付く。

 休日に何度も来た事はあるが、この閑散とした寂しさには未だに慣れない。

 それは人気のない病院内だけではく、これから始まる診察にも言える。

「対人関係のストレス、ですか。……若干視神経の伝達が鈍いかな」

 頭に付けた電極から脳波を読み取り、一人頷く医師。

 私は画面に現れる白い点を目線で追うだけで、どう鈍いかは分かっていない。

「ただ十分許容範囲で、問題はないですね。頭の痛みや吐き気は?」

「そういう事は別に無いです」

「分かりました。採血しますので、そちらのベッドへ」

 予想していたとはいえこれこそストレスの元であり、知らない内にため息が漏れる。

 痛みよりも体に異物が射し込まれる事の感覚が嫌で、一生慣れる事は無いだろう。

「一応目薬を追加で出しておきますね。精神安定剤みたいな物も必要ですか?」

「いえ。それは」

「分かりました。では、目薬だけで」

 卓上端末を操作し、目薬を処方する医師。

 何も無いという診断に少しだけは気分が軽くなり、今度は安堵のため息が漏れる。

「……あの、目の事とは関係ないんですが。いいですか」

「ええ、何でも聞いて下さい」

「ドラッグの習慣性って、どのくらいなんですか?」

「精神依存と身体依存があって、勿論そのどちらも良くはないんですけどね。身体依存の場合は薬物の効果が切れると、体調が悪化します。逆に精神依存とは、とにかくそれが欲しくてたまらなくてまた何か嫌ながあると薬物に逃げるパターンですね」

 卓上端末に表示される簡単な説明。

 医師の言う通り、どちらの場合も救いようがない。

「痩せたいとか一日中遊んでいたいといった利用で使用したり、友達から勧められるケースも多いんですが。一度手を染めると、止めるのは難しいんですよね」

「え」

 何気ない質問から出てきた、唐突な言葉。

 今までの知り合いからのアドバイスではなく、医師という専門家からの意見。

「習慣性が強い場合は、ですか?」

「無論それも大きな要因ではあります。ただ今は比較的容易に薬物を手に入れられる環境が整ってますからね。本人が仮に止めようと思っても、夜街へ出ればいくらでも売買されている訳です。さっきの話通り身体依存や精神依存に陥っている場合では、その止めようと言う本人の意志などたやすく吹き飛びますから」



 家に戻り、リビングのソファーに埋もれて腕を組む。

 気分は重く、目の調子も優れない。

 苛立つまでとはいかないが、これでは病院に行ったのも逆効果だった。

「機嫌悪そうね」

「え」

 向かいのソファーに座り、TVを見出すお母さん。

 私も流れてている映像に視線は向けるが、内容はいまいち理解出来ない。

 それはお菓子工場をレポートしているタレントが悪い訳ではなく、私の意識がそちらへと向いてないためだ。

「学校で、何かあった?」

「どうして」

「そこ以外で、あなたが機嫌悪くなる理由があるの」

「そういう意味」

 少しだけ笑い、しかしすぐにため息を付く。

 まだ何かあった訳ではなく、単なる取り越し苦労に終わる可能性だって十分にある。

 何より彼を疑っているようで、気分が優れないのはそれが一番の原因かも知れない。

「私は分からないけど、もう少し気楽になったら」

「性格上、ちょっとね」

「あなた。落ち着きが無いのに、意外と内向的だものね。やっぱり、お父さん似なのかしら」

 娘を分析し、お菓子をかじるお母さん。

 確かにそれ程深刻な素振りを見た記憶は今までもなく、落ち込むという言葉とは無縁の気もする。

 ただお父さんが内向的かと聞かれればそれも疑問で、思慮深いの方が合っていると思う。

「私の事はいいとして。この家って、学校に寄付してないよね」

「あなたが補助金をもらってるくらいよ。第一寄付なんて、お金持ちの道楽でしょ」

 意味が分からないとでも言いたげに大袈裟に肩をすくめるお母さん。

 道楽ではないと最近の情勢を見る限り私は思うが、そういう側面があるのも事実だろう。

「寄付でも強制された?」

「いや。ただ、学校と戦う時に最後の手段として有力者を頼る場合もあるって聞かされて」

「心配しなくても、雪野家は無力だから関係ないわよ。大体相手は草薙グループと教育庁でしょ。あなた本気で学校と戦うとか思ってる訳?」

 逆に質問されて、答えに詰まる。

 そういう聞き方をされれば誰だって答えようがないし、その無謀さは自分達が一番理解してるつもりだ。

 とはいえ諦めるという選択肢はなく、学校の体制が変化してる今はその決断が正しかったとも思っている。

「優は高校生なんだから、分相応の事をしてなさい」

 諭しているのか、心配してくれているのか。

 笑いながらそう言ってくれるお母さん。 

 その気持ちは素直に嬉しく、だけど私は曖昧に笑うしかない。

「あなたはヒロイックな部分があるけど、我が家はそういう家系じゃないのよね」

「何、それ」

「雪野家も白木家も、平々凡々と今まで過ごしてきたという意味。先頭に立って運動するとか、立ち向かうとかはタイプとして違うのよ」

 確かにお父さんもお母さんも普段は大人しく、人目に付くような行動はしない。

 ヒロイックなご先祖様もいないし、逆にいないからこそ私自身も今まで平穏な生活を送ってこられた。

「何をやりたいは分からないけど、ほどほどにしなさいよ」

「そういう事は、学校に文句を言ってもらえる?」

「退学になりたいの、あなた」

 物騒な台詞を残し、お菓子の袋を持ってキッチンへ消えるお母さん。

 普段は大人しいんだけどね、普段は。



 時間があるので、カメラ片手に熱田神宮へと向かう。

 七五三の時期は過ぎたが、少し遅れて参拝に訪れている家族連れも意外と多い。

 広大な土地を包む無数の常緑樹。

 冬に入りかけている今も葉は緑に輝き、私達の頭上にまで生い茂って木漏れ日を優しく投げかけている。

「うまそうだな」

 ぽつりと呟くショウ。

 右手にあるきしめんのお店を見てではなく、日だまりの中で目を閉じて丸くなっている鶏に対してのコメント。

 気持ちは分からなくもないが、口に出して欲しくもない。

「罰が当たるわよ。第一、さばける?」

「出来なくはない。技術としては」

 怖い事を言って鳥居をくぐるショウ。 

 見上げるどころか天を突くようなサイズで、私が腕を回しても回りきらない程。 

 それこそ罰当たりだが、よじ登って一番上まで辿り着いたら相当の眺めになるだろう。

「……どうして飲むの」

 お祓いや清めるため、長方形の台に水が湛えられて柄杓が何本も備えられている。

 普通の人は手を洗い、後はせいぜい口をすすぐくらい。

 それを飲み込むのは、多分子供だけだと思う。

「飲んでも良いだろ」

 良くは無いと思うけどね。


 さらに先へ進み、本殿を前に手を合わせる。 

 初詣のような立錐の余地もない程の賑わいではないが、人の流れがとぎれる事はなく中にはいつまで経っても本殿前から離れない人もいる。

 私はそうお願いする事もないし、そこまで神様に頼る気もない。

 あくまでも気持ちを伝えるくらいの感覚で、ここで頼んだ事が本当に叶ったらその方が問題だろう。

 それに大切なのは気持ちで、参拝の形式やお賽銭の額で決まる物でも無いと思っている。

「向こう行こうぜ」

「向こう?」

 ショウが指さしたのは本殿の右へ続く道。

 熱田神宮の敷地は広大で、学校同様立ち入った事のない場所の方が多いくらい。

 当然この右手に何があるかは、知識すらない。


 細い小径と、今まで同様の緑と木漏れ日。

 人の姿はまるでなく、私とショウの足音だけが森に響く。

「小川?」

 小径の突き当たり。

 正面は石の壁で、ただその下には水が湛えられている。

 しかしよく見ると流れは殆ど無く、水位も低い。

 澄んだ水の上には落ち葉が浮いていて、それが時折微かに揺れるくらい。

「清水社さ」

「何、それ」

「俺も良くは知らないけど、目にはいいらしい」

「ああ、なるほど」

 ここの由来は分からなかったが、彼の気持ちは理解出来た。 

 私から顔をそらし、少し赤らんでいる耳元。

 彼はすぐ側にいて、私達には木漏れ日が降り注ぐ。

 聞こえるのは自分の鼓動。 

 早く、急かすような。

「……わっ」

 突然声を上げ、私を引き寄せるショウ。

 こっちは完全に気が動転し、呆然として彼の胸元に抱きすくめられる。

 心の準備が出来てないという余裕は無く、今は彼に身を委ねるだけだ。

「や、止めろっ」

 今いちロマンチックさに欠けた言葉。

 明らかに意志のすれ違いがあり、彼にはそういう気持ちはなかったらしい。

「ここの水は、それ程綺麗じゃないんだ」

「え、そうなの?」

 目に良い水だから、こここそ飲めるのだと思っていた。

 しかしよく見ると立て看板が備え付けられていて、「飲用不可」と書いてある。

 熱田神宮とはいえ、都心の中心に位置する地形。

 地質は汚染されていると考えるのが普通だろう。

「飲んでないよな」

 私の顔を真上から見つめるショウ。

 どこからといえば、彼の胸元から。

 こういう体勢だと、お互いの身長差を改めて理解してしまう。 

 一応抱き合うには抱き合ってるが、前を向けば彼の胸どころかお腹しか見えてない。

 喜び半分、落胆半分だな。

 ため息を付いて彼から離れ、改めて水を覗き込む。

「ため息って」

「え、何か言った?」

「い、いや。落ちるなよ」

 気弱に笑い、私の手を握るショウ。

 多分さっきよりは自然で、私もそれを恥ずかしいとは思わない。

 二人きりだからとか、不安定だからという理由だけではなくて。

 彼とこうして手をつなぐ事に、以前程の気恥ずかしさは感じない。

 あくまでも、以前程は。

「ここの水を持ってきた事ある?」

「いや。飲めないのは知ってたから。願掛けだな、せいぜい」

「ふーん」

 水が湛えられている場所は用水のように舗装され、頭上に広がる木々の葉を映し込んでいる。

 落ち着きのある静けさ。

 ゆっくりと時が流れていくような感覚。

 湛えられた水の表面に浮かぶ葉が時折揺らぎ、時は止まっていないのだと分かるくらい。

 私は水を眺め、ショウの手を握る。

 そのぬくもりを確かめるように、慈しむようにして。



 一通り写真を撮り、家に帰ってレポートを書く。

 熱田神宮が、日本という国と同じ長さの歴史を持っているのは分かった。

 ただ、草薙の剣はどこにあるんだろうか。

 江戸時代の古文書には神官が密かに覗いたとはあるものの、真偽は不明。

 何しろあまりにも歴史が古すぎて、それを確かめる術もない。

 結局世の中、分からない事の方が多い気もする。

 レポートを日本史の教師に送信し、ようやく全ての宿題を終える。

「あ、ご飯か」

 ショウと別れたのは夕方前。

 お母さんの呼びかけに返事をして、部屋を出て階段を駆け下りる。

「調子が悪い割には、平気に下りてくるわね」

「家の中なら、目隠ししてても大丈夫なのよ。鍋か」

 大きな土鍋と立ち上る湯気。

 鍋の縁は泡が吹き出て、真っ赤なカニの足がはみ出している。

「もう、そういう時期なんだね」

 鍋の前に漬け物を囓り、お茶を飲む。

 お腹は空いているが、少し余裕を持って食べたい気分なので。

 白菜をポン酢で食べて、カニのダシに満足する。

「病院はどうだったの」

「問題ない。また、血を抜かれたけど」

「あなた。それ嫌がるわね」

「だったら、平気?」

 私の問いには答えず、お玉で鍋のアクをすくうお母さん。

 とはいえ平気な人はいないだろうし、好きという人がいたらその人間性を疑いたい。


 大きなまんじゅうを前にお茶を待っていると、たまたま持ってきていた端末が着信を告げた。

 小さなディスプレイには沙紀ちゃんの名前と顔が表示されている。

「……あ、こんばんは。……うん、今は家にいる。……あ、うん。それはいいけど。……分かった。……じゃ、また後で」

 湯飲みに注がれた緑茶を少しだけ飲み、席を立って振り返る。

「出かけてくる。それ、とっといて」

「今日は帰ってくるの?」

「……寮に行くかも知れない。後で、連絡する」

「夜遊びも、ほどほどにしなさいよ」



 スクーターで冷たい夜の風を浴びながらやってきたのは、学校の近くにある洋食屋さん。

 私もよく利用する店で、ショウと始めて二人きり出来たのもこの店だ。

 可愛らしい内装と、リーズナブルな値段。

 何よりその味が一番のポイントだろう。

 名前を告げて通されたのは、店の奥にある個室。

 こんな場所があったのかと思いつつ、ブーツを脱いで中に入る。

「ごめん。何か食べる?」

「いや。今食べたところだから。……ホットチョコレート下さい」

 室内は6人掛けのテーブルが置かれ、黒を基調としたシックな内装。 

 店内のイメージとは若干違い、おそらくはクリスマスシーズン用にしているのだろう。

「個室なんて、あったんだね」

 笑いかけるが、反応は無し。

 ホットチョコレートが届いたところでコートを脱ぎ、一口飲んで体の中から暖める。 

 優しい味というか、これを飲むだけで自然と幸せな気持ちになれる。

 正面に座っている沙紀ちゃんは、そんな心境とは程遠い顔をしているが。

「何か、あったんだよね」

 薄々とは分かっていつつ、気付いてはいつつ。

 慎重に、そっと尋ねる。

 沙紀ちゃんは伏せていた顔を少しだけ上げ、しかし気まずそうに視線をそらした。

「浦田の事なんだけど」

「うん」

「生徒会の予算を流用してるみたいなの。額としては大した事無くて、交際費みたいな物だから問題はないんだけど」

 いかにも彼がやりそうな、また過去何度も行っていた不正。

 無論それには理由があり、彼が個人的に使っていた訳ではない。

 ただここで思い出されるのは、名雲さんの言葉。

 お金に関する事態には気を付けろという。

「それを何に使ってるか分かる?」

「いいえ。額が少ないし、派手に使ってるという話も聞いてない」

「本人には聞いた?」

「一応」

 すぐに返ってくる意外な反応。

 ためらって尋ねていないと思ったが、勇気もあれば責任感もあるようだ。

「流用した事は認めたけど、理由は言わなかった。必ず返すってだけで」

「ドラッグを買ってるとは言わないか」

 この単語を口にするのもどうかと思ったが、これを前提に話をしているのは間違いない。 つまり私も、今更ためらっていても仕方ない。

「ちょっと待ってね。人を呼ぶから」

「浦田を?」

「ん。まあ、浦田は浦田だね」



 穏やかな表情と大人しげな顔立ち。

 弟とは違い愛想の良い笑顔を浮かべ、人を和ませる雰囲気も併せ持つ。

「この店、久し振りだな。……ナポリタン下さい」

 オーソドックスな、またこの店での人気メニューを頼む光。

 この件を彼に解決してもらうのは不可能で、私もそれを求めてはいない。 

 ただ一度でも話は通しておくべきではあるし、本人も聞いておいた方がいいだろう。

「ケイが、ドラッグを盛られた話は聞いた?」

「知ってるよ。僕のアパートに来て、何日間か寝てた」 

 それは始めて聞く話で、この辺りはやはり兄弟なのだと気付かされる。

「最近は、どう?」

「お金欲しいって言うから、手持ちの分だけ渡した」

 本人にとっては何んでもない、しかし私達にとっては息を飲みたくなるような話。

 ヒカルは備え付けのお茶をグラスへ注ぎ、怪訝そうに私をみてきた。

「そのお金で、ドラッグを買ってるとか?」

「いや。分かんない」

「縛ってどこかに監禁した方がいいと思うよ」

 例えは冗談じみているが、顔つきは至って真剣。

 それは兄としての顔であり、弟を憂う家族としての心境の表れだろう。

 何か答えようとした所で、ヒカルはなおも話をつないだ。

「珪本人が、どう考えてるかは知らないけど」

「どういう事」

「それは、僕も知りたい。あの子に常識は通用しないからね」

 仕方なそうに笑い、運ばれてきたナポリタンを食べ出すヒカル。

 私も冷めてきたホットチョコレートを飲み、停滞気味の時間をやり過ごす。


 二人の前にも飲み物が運ばれて、ヒカルが少し姿勢を正した。

「丹下さんは、珪に聞いてみた?」

「ええ」

「答えた?」

「いいえ」

 すでに答えが分かっているような聞き方。

 言うなれば、それを再確認させるとでも言うのだろうか。

「聞いて答える人間じゃないし、隠そうと思ったら絶対に口を割らないからね」

「それは分かってるけど」

「珪が何も言わない理由は、いくつか考えられる。1 自分一人で解決出来る。 2 周りの人間を巻き込みたくない。 3 言えないような、ひどい事をしてる。 4 本人もよく分かってない」

「3はともかく、4って何よ」

 あまりの下らなさに突っ込み、チョコケーキを口に運ぶ。

 甘さは抑えられ、むしろ苦みを強く感じる。

 多分ケイは普段から、こういう生き方をしているんだろう。

「本人のやりたいようにさせればいいんだよ」

「ケイに何かあったら、どうするの?」

「それも本人に任せればいい。自分一人でやろうとしてるんだから、そのくらいの責任は取ってもらう」

 いつにない険しい、弟に酷似した顔。 

 ただしそれは兄としての彼の意見であり、友人としての私がたやすく頷ける話でも無い。

 沙紀ちゃんにとっても、無論。

「ユウ達に被害があるようなら、僕も行動するけど」

「ケイを止めるっていう意味?」

「普段なら放っておいてもいいんだけど。ドラッグ絡みともなれば、さすがにね。止まるかどうかはともかくとして、最低限の事はさせてもらう」

 低い声で、あまり彼には似合わない事を言い出すヒカル。

 逆に言えばそれだけの決意の表れであり、そこまでの事態でもある。

「それに、ドラッグをやってるって決まった訳でもないんだし。今はまだ、兆候が現れてるに過ぎない」

「決まった後では遅いでしょ」

「まあね。僕もお金は渡さないようにするよ。明日早いから、今日はもう帰る」



 店の外でヒカルと別れ、私達は寮へ戻る。

 寮に着くまで会話は殆ど無く、視線を交わす事もない。

 ただ景色が通り過ぎ、時だけが経過する。

 寮について一旦沙紀ちゃんと別れ、服を着替えて彼女の部屋へ向かう。

 しかしそこでも会話はなく、TVから流れるニュースをぼんやりと眺める。

「……犯人は以前からドラッグを常用していて、購入資金に充てるため犯行に及んだと供述しております」

 耳をふさぎたくなるような、嫌なニュース。

 その後のスポーツの結果は全く頭に入らず、今の内容だけが繰り返される。 

 地域も年齢も違う。

 当然、ケイでもない。

 ただ一つ共通する事柄。

 そのただ一つ共通する事柄が、私の意識を重くして沙紀ちゃんの顔色を悪くさせる。

 犯行は窃盗と軽微な傷害。

 問題は、怪我を負ったのは犯人の顔見知り。

 それが何を意味するかは、もう考えたくもない。

「お酒飲む?」

 疲れた顔で立ち上がり、キッチンへ向かう沙紀ちゃん。

 彼女は私の言葉を待たず見慣れないボトルとグラスを二つ持ってきて、それをテーブルの上に置いた。

「私もお酒に逃げてるのかな」

「どうだろう」

 グラスに注がれる茶褐色の液体。

 ただ私は気が滅入った時にお酒を飲む習慣はあまりなく、それ程感心はしない。

 沙紀ちゃん自身、その事は痛い程分かっているだろうが。

「……まずい」

「薬膳酒。殆ど度数はないわよ」

 息を止め、グラスをあおる沙紀ちゃん。

 そういう事は、飲む前に言って欲しい。

「全然逃げて無いじゃない」

「精神的に依存してる気がして」

「言いたい事は分かるけどね。それと、これはもういらない」

 グラスに残っている分を全部沙紀ちゃんのグラスに移し、お茶で口の中を洗い流す。

 これだと逃げていると言うより、自分を罰しているような気にすらなってくる。

 ただしそれは私の気持ちであって、沙紀ちゃんがどんなつもりでこのまずいお酒を飲んでいるかまでは分からない。

「結局様子見しかないのかしら」

「ヒカルも言ってたように、本人は絶対口を割らないから」

「どうしてあの子は、ああなの」

 苛立ち気味にテーブルへグラスを叩き付ける沙紀ちゃん。

 その中でお酒が激しく揺れ、すぐに収まる事はない。

「さっきのヒカルじゃないけど、何を考えてるかは私も分からないから。というか、実の兄ですら分かってないんだし」

「だとしても」

「寝る」

 呆れる沙紀ちゃんをよそに、ベッドへ飛び込み毛布を被る。

 眠い訳ではないが、思考が働かなくなってきた。

 苛立ちと焦燥感。 

 実際にまだ何かあった訳ではなく、しかし少しずつ足下に水が貯まっているような心境。

 気付けばそれは膝を越え、歩きづらくなってきている。

 喉元に来るのはまだ先だとは思うけど、そうなった後ではあまりにも遅い。



 横になって、少しだけ楽になった。

 あくまでも体がであって、精神的にはおもりがのし掛かっているような気分。

 床を見ると沙紀ちゃんがタオルケットを被って、寝息を立てていた。

 ベッドに移してあげたいが、不可能な事を試しても仕方ないので明かりを消して部屋を出る。

 時刻は日付を越えたばかりで、多少ではあるが廊下を歩く生徒の姿も見かける。

 パジャマやジャージ姿ではなく、コートやジャケットを身にまとった暖かそうな服装。

 日曜日を最後の最後まで満喫してきたようだ。

「……バイヤー?」

「声が大きいって」

「あ、ごめん。でも、本当?」

「いるらしいわよ。寮にも」

 すれ違った女の子達の、声を潜めた会話。

 静かな廊下ではそれでも自然と、私の耳に入ってくる。

「ちょっと、待って」

「あ、え?」

「わ、私は何もしてません」

 真っ青な顔で頭を下げる二人。

 おそらくは1年生で、相当誤解をされているな。

「そうじゃなくて。今の話。バイヤーって、ドラッグの?」

「え、ええ。わ、私達から聞いたって言わないで下さいよ」

「どうして」

「それは、その。ねえ」

 顔を見合わせ、怯え気味に頷き合う二人。

 ちょっと意味が分からないし、少し話を聞く必要があるようだ。



 遅い時間だが自分の部屋に招いてお茶を出し、彼女達が口を付けたのを待って話を続ける。

「ここでなら話せるでしょ。バイヤーの話の、何がまずい訳」

「扱ったり買うのは高校生でも、バックにはマフィアや暴力団がいるって」

「噂にするだけで命に関わるとか」

 真に迫った顔で説明する二人。

 まさかと一笑に付す事柄でないのは私も分かっている。

 ただ、寮にバイヤーがいるというのは少し意外だった。

「それって、寮でドラッグが売ってるって事?」

「本当かどうかは知りませんけどね。この前男子寮で一騒ぎあったし、今はもうやってない気もするけど」

「なるほどね」

「バイヤーに手を出すとか。まさか、ね」

 やはり顔を見合わせ、引きつった顔で笑う二人。

 私も馬鹿ではないし、マフィアがどういう存在かくらいは分かっている。

 ただケイの事を抜きにしても、自分が住む場所でそんな物を扱わせる訳にはいかない。

「大丈夫。二人には迷惑掛けないから。私達は会いもしなかったって事にして」

「でも」

「本気ですか」



 執拗に止めてくる二人を帰らせ、パーカーを頭まで被り寮の見取り図を確認する。

 これを見て何か分かる訳ではなく、第一女子寮の建物は複数存在する。

「そういう話は、もっと人数を集めてからお願い」

 ため息混じりに端末を眺めるサトミ。

 モトちゃんはビールをあおり、やる気の欠片も見せていない。

「お酒飲んでないで、真剣に」

「マフィアにケンカ売ろうって言うのに、しらふででやれって?」

「大袈裟だな」

「もう一度言ってもらえる?」 

 低い声を出し、怖い顔をするモトちゃん。

 どうも、あまり逆らわない方がいいらしい。

「それに、ユウがうろうろしても絶対バイヤーなんて出てこないわよ。あなた、有名すぎるから。サトミも、私もね」

「あ、そう」

「後、自警局にも話を通して。事が事だから、私達単独でやる訳にはいかない」

「制約が多いね」

 当然でしょという顔の二人。

 それはそうだが、自警局に話を通すというのはひっかかる。

「沙紀ちゃんでいいの?」

「駄目。出来れば局長に」

「嫌」

「だったら、矢加部さんね。北川さんでも良いけど、今東京に出張してるから」

 矢田君と、矢加部さん。

 最悪の選択とはこの事だが、今は心情的に矢加部さんの方がまだましか。

「だったら、後の方」

「分かった。この時間に掛けるのは非常識か……」

 そう言いつつ、端末を操作するモトちゃん。

 すぐに彼女はそつのない会話を交わし、玄関へ向かって指を向けた。



 彼女は自宅に住んでいるため、この真夜中に出かける事となる。

 朝話をすれば良かったと思いつつ、全身を震わせながらスクーターを走らせる。

 真夜中だけあって大通りにも車はなく、タクシーやトラックが目立つくらい。

 5車線で信号待ちしているのは自分だけという、ある意味贅沢な状態。

 無論少しも嬉しくはなく、ただひらすらに寒いだけ。

 市内の中心部から外れ、坂を上って北東へ向かう。

 この辺に来ると一気に気温が下がり、正直思考は止まりがち。

 何も考えられず、ただスクーターを走らせる事だけが自分の全てになる。

 矢加部家に着いたのは、震えでハンドルを握るのも危うくなってきた頃。

 どこまでも続くコンクリートの塀と、私の背よりも高い巨大な門。

 それが自然と開き、厚手のコートを着込んだ大男が何人か現れた。

「雪野様、どうぞ」

「あ、はい」

「スクーターは、こちらでお預かりします」

「はぁ」

 逡巡したのは所有権を主張している訳ではなく、体格の関係上タイヤがへたると思ったから。

 それは向こうも分かっているらしく、小柄な女性が現れて私に改めて確認を取ってスクーターを車庫へと走らせていった。

「矢加部さんは?」

「離れの方でお休みになっています。こちらへどうぞ」


 広い日本庭園を抜けて連れられたのは、平屋建ての小さな家。 

 とはいえこれでも普通の家族が住むには十分のサイズで、多分敷地内にあるゲストハウスなんだろう。

 ショウの家もすごいけど、ここはやはり格が違う。

 建物の中は思った通り接待用の設備が整っていて、逆に言えば生活感はあまりない。

 応接間に入ると、ワンピースとタイトスカート姿の矢加部さんが待っていた。

「仰って下されば、迎えを差し向けましたのに」

「先に行ってよね。それと、話なんだけど」

「大まかには、元野さんから伺っています」

 何だ、それ。

 だったらこの真夜中に、のこのこやってこなくても良かったんじゃないのか。

「賛成は出来ませんが、許可はします。ただ最悪の場合は警察に通報し、寮が捜索される可能性もありますので」

「生徒の自治って言う意味?分かるけど、それにこだわっていていいのかな」

「私には、分かりかねます」

 にべもない返事。

 私も彼女とこの件に関して語り合うつもりはないので、特に腹が立つ事はない。

「それと我々がこの件に関して積極的に関与する事もありません」

「いいよ。多分、その方がいいと思うし。何せ、マフィアだからね」

「自分の力を、あまり過信なさらずに」

 忠告なのか、嫌みなのか。

 または、そのどちらかなのだろう。

 とにかく適当に頷き、コートを着てマフラーを巻く。

「お帰りですか」

「明日も学校だし、もう寝る時間なのよ」

「よろしければ、ここでお泊まり下さい。必要な物は、おそらく揃っていますから」

 それ程歓待するという態度ではなく、淡々と告げてくる矢加部さん。

 どうしようかと思ったが、今は彼女の行為に甘える方が自然だと思う。

「ありがとう。じゃあ、泊まらせてもらう」

「何か必要になりましたら、内線で告げて下さい。私は、これで」

 しなやかな仕草で立ち上がり、応接間を出て行く矢加部さん。

 広い窓から日本庭園を眺めていると、大人達に囲まれて端末を使っている彼女の姿が目に入った。

 多分好きにはなれないし、この心境が将来に渡って変わる事もまずないと思う。

 ただその頑張りや努力は、以前よりは分かってきたつもりだ。

 そうでなければ、私はこのソファーに寝転んでないだろう。



 朝。 

 香りのいいクロワッサンとチーズ。

 ジューシーな生ハム、新鮮な野菜。 

 コーンスープはコクがあり、つい食べ過ぎてしまいそうになる。

「矢加部さんは?」

「もう、お出かけになりました」

 私の右後ろに控える、綺麗な女性。

 いわゆるメイドさんかとも思ったが、スーツを着ているしお父さんの秘書か執事かもしれない。

「おじさんは、のんびりしてて良いんですか」

 大きくはないがいかにも高そうな木製のテーブル。

 その対面で湯飲みを傾けていた矢加部さんのお父さんは、小さく欠伸をしてはだけていたガウンの前を直した。

「矢加部家は経営者と言うより、オーナーの面が強いからね。仕事は皆さんにして頂いて、我々はより良い待遇と環境を用意するだけだよ」

「へぇ」

「優ちゃんも、うちで働けばいいじゃない。お菓子屋さんもケーキ屋さんもあるわよ」

 朝から華やいだ声を出す、可愛らしい感じの年配の女性。

 矢加部さんのお母さんであり、詳しくは知らないがやはり名家の出とか。

 両親がおっとり型だからこそ、逆に矢加部さんは肩肘を張っているのかも知れない。    本人の持って生まれた性格、という気もするが。

「矢加部さん……。娘さんは、何してるんです?」

「銀行で臨時の株主総会があって、それの準備をしてると思う」

「そういう事もするんですね」

「美帆お嬢様は、いつも真摯に生きていらっしゃいます」

 真後ろからの、対抗心すら感じさせる口調。

 秘書さんは綺麗な瞳で、しかし少し怖い目付きで見下ろしている。

「何か」

「常々お嬢様が、小柄な女性には気を付けろと仰ってます」

 何だ、それ。

 あの子、誰に何を愚痴ってるんだ。

「おじさん、この人怖いんですけど」

「彼女は美帆の筆頭秘書だよ。良い子だから、大丈夫」

「有名な大学院を主席で卒業して、頭も良いのよ」

 綺麗で頭が良くて、少し怖くて。

 言ってみれば、矢加部さんに対するサトミと言ったところか。

 通りで敵愾心を燃やしてくる訳だ。

「食べないんですか」

「秘書ですので」

「いいじゃない、食べれば。パン嫌い?」

「そういう問題ではありません」

 話にならないという顔をして、鼻で笑われた。

 悪かったわね、秘書の扱いに慣れて無くて。

「いつも、こう愛想がないんですか?」

「そうでもないんだけど。どうも、雪野さんと相性が悪いのかな」

「美帆ちゃん、玲阿君の事であれだから」

「あのね」

 何か言い返そうと思ったが、おばさんがきゃーきゃー騒いでいるので言う気力が消し飛んだ。

 朝から元気が良いというか、女子高生顔負けだな。

 根っからのお嬢様だというし、苦労を知らないまま純粋にこの年まで至ったのだろう。

 それはある意味羨ましいし、理想的な生き方かも知れないが。

「じゃ、私もそろそろ寮に戻ります。どうも、ありがとうございました」

「いやいや。よかったら、また来て下さい」

「おばさん、もう一人子供が欲しかったなー」



 軽自動車の助手席で、半分眠りながら流れていく景色を眺める。 

 運転しているのは矢加部さんの筆頭秘書という女性。 

 送ってくれるのは正直ありがたく、スクーターも後で届けてくれるとの事。 

 至れり尽くせりとは、まさにこういう事を言うのだろう。

「矢加部さんとは、親しいんですか」

「幼少の頃から、お仕えしております」

「お仕え、ね。その辺が、よく分からないんだけど」

 少なくとも私に仕えてくれる人はいないし、いても困る。

 自分の事は自分で出来るし、自分でやりたい。

 つまり自分では出来ない事柄が多いからこそ、矢加部さんには秘書が付いているんだろうけど。

「我が家は古くから矢加部家に仕えていますので」

「何時代なの、一体」

「無論時代錯誤という意見は耳にしますが、私は疑問にも不満にも思っていません」

 ごく落ち着いて、自然に答える女性。

 家柄に縛られるようなタイプにも見えないし、彼女個人としても矢加部さんに好意を抱いているらしい。

 その点については、もっと理解出来ないが。

「お嬢様の事、よろしくお願いします」

 唐突な申し出。

 信号で止まったと同時に、その反動ではなくその言葉でつんのめりそうになる。

「私に言われても困るんですけどね」

「お願いします」

 強い、真上から人を押しつぶしそうな頼み方。 

 それには相当反発を感じるが、多少は彼女の心情は分かるのでとりあえずは頷いておく。

「……あ、ここでいいです。どうも、ありがとうございました」

「いえ」

 寮の前で車を降り、彼女に向かって軽く手を振る。

 しかし手を振り返す事は無く、一礼して去っていった。

 大人としての対応と態度。 

 矢加部さんへの見方を変えるには十分な存在。


 自分の知らない、他人の別な一面。

 無論私の知っているのは、その人にとってのごく一部に過ぎないだろう。

 だとしたら彼は。

 ケイは私の知らない、どんな面を持っているのだろうか。









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