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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第29話
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29-2






    29-2




 やや遅れて学校に登校してきたが、思った程の反応はない。

 もっと露骨に視線を向けてきたり声を掛けられる事も想像していただけに、拍子抜けという気すらする。

 とはいえ噂そのものは広がっているらしく、こちらを指さして何やらささやき合っているグループも多少はいるが。

 とりあえず教室に入り、後ろの方の席に座る。

 寝不足がたたってかいきなり睡魔が訪れ、タオルだけを出してま机に伏せる。

 騒ぎになってない理由ははっきりしないけど、ケイ自身は元気だったし少しは気が楽になった。 

 細かい事は、起きてからゆっくり考えるとしよう。

「眠いの、あなた」

「昨日、遅かったのよ。……遅かったんです」

 すぐに言い直し、頭を叩かれる前に顔を上げる。

 しかしキータイプの教師はバインダーを振り上げていた様子もなく、危ぶむような視線を私へ向けてきた。

「何か」

「別に。それと、私の授業では寝ないで」

「他の授業は?」

「あなたの好きにしなさい」

 そういう問題なのか。

 どちらにしろ、叩かれなかっただけ良しとするか。

「寝るな」

 眠さの欠片もないという顔で見てくるショウ。

 この様子だと、ケイの話は知らないな。

「聞いてない?」

「何が。それより、ケイがどうかしたのか」

「え、どうして」

「今日来てないから」

 あまりにも簡単な、推理とも言えない答え。

 そこまで考えが及んでいない自分がいる訳でもある。


 休憩時間。

 小声で昨日の出来事を彼に話す。

 叫ぶような事もなければ、うろたえもしない。

 とはいえ冷静に受け止めてもいなく、ショウの拳は何度と無く机に突き立てられる。

 その度に激しい音がして、周囲の生徒が首をすくめていく。

「静かにして」

「あ?」

 険しい物腰で振り向いたショウを、鬼のような形相で睨むサトミ。

 勝負は一瞬にして付き、今度は彼が首をすくめる事となる。

「どこか行ってたの」

「少し、調べ物をね。ケイの事が大して噂になってない理由が分かったわ」

 机の上に滑ってくる、名前の羅列されたリスト。

 よく見ると名前以外に、その人物の所属も記されてある。

「ケイと同じドラッグが検出されたのは、全部で5人。その全員が停学になってる」

「よく調べたね。というか、学校はどうしてこの5人がドラッグを使ってるって分かったの」

 疑問以前の問題にサトミはさらに声を潜め、ショウの鼻に指を突き立てた。

「昨日、寮で何か無かった?」

「医療部で血液が足りないって、急に献血と尿検査をやらされた。……もしかして」

「その検査で引っかかったのが5人。全員素行は良好。分かったのは、昨日彼らが夜に食堂で塩バターラーメンコーン抜きネギ多めを食べた事」

 分かりかけた所で一気に先が読めなくなる話。

 ケイの一件があり、彼が住んでいる寮の住人を検査したのは理解出来た。

 でも、それとラーメンと何の関係があるんだろう。

「その5人の話を総合すると、おとついの夜から体調に異変を感じてる」

「ラーメンなんて他の人も食べてるでしょ」

「全員遅い時間に、同じテーブルで食べてるの。ラーメンを食べる時に、何か入れるとしたら?」

「入れるって、コショウは大抵……。コショウの中にドラッグが混ぜられてたって事?」

 私を見つめたまま、しかし答えは返さないサトミ。

 つまり、確信はないと言いたいんだろう。

「コショウは警備会社が警察へ提出したけど、他のテーブルからも何一つ検出されなかった。すり替えられたと考えるのが自然ね」

「じゃ、何のために」

「無差別なのか。ケイ狙いなのか。その5人狙いなのか。それとも、取引に失敗したのか。結局、推測にしか過ぎないわ」

 話は終わったとばかりに机へ伏せるサトミ。

 間違いなく、この後の授業も寝る気だな。



 彼女が起きたのは、思った通り昼休みに入った後だと思う。 

 私も同じように寝てたので、断定は出来ないが。

 さっきの話を聞いた後で食堂に行く気にはなれず、購買でパンを買ってラウンジへ向かう。

 こちらは手製のお弁当を持ってきている人達で賑わい、混雑具合は食堂以上かもしれない。

 それでもどうにかテーブルを確保して、あまり楽しくない食事を取る。

 周囲の笑い声や話し声がやたら耳に付き、自分が何をやっているのか分かっているようで分かってない。

 思わず漏れるため息。

 ハムサンドを少し食べただけで胸一杯になり、残りをショウに渡す。

「俺もちょっとな」

 彼も今日は普段より少なめの食事。

 私の分を足しても、いつも程は無いだろう。

「サトミは食べないの」

「朝が遅かったのよ。眠いわ、とにかく」

 まずそうな顔で紅茶を口にするサトミ。

 私も同じように、緑茶だけを口にする。

「元気ないわね」

 笑いながらサトミの前に座る沙紀ちゃん。

 正直今会いたくない相手というか、何を話していいのか分からない。

「浦田の事なら、聞いてる」

「え」

「その手の話は、自然と入ってくるの」

 気に病んだ様子もなく、少なくともそういう素振りは見せない沙紀ちゃん。 

 だからこそ余計にこちらが気を遣ってしまう。。

「自分から使った訳じゃないんだし、気にする必要ないわよ」

「そうかな」

「違う?」

「分かんない」

 それでも少しだけ気が楽になり、ショウに渡したサンドイッチを少し食べる。

 ただしサトミは相変わらずで、眠そうに紅茶をすすっている。

「でも、一つ問題があるのよね」

「ケイの事?」

「多少関係ある。その情報に、誰かが不正にアクセスしたみたいなの。痕跡は無いからはっきりしないけど」

 上目遣いでサトミを窺う沙紀ちゃん。

 一方のサトミは一重の瞳に柔和な輝きをたたえ、彼女を見返す。

「怖い話ね」

「警察のネットワークにもアクセスしたって、私は聞いてるけど」

「へぇ、大変」

 大げさに驚き、空になった紙コップを近くのゴミ箱へ放るサトミ。

 それが終わりの合図だとも言わんばかりに。

 本当、誰が一番怖くて一番悪いかって話だな。


「実際は、ケイ狙いなの?」

「さあ。ガーディアンの管轄じゃないし、拘束された人間のリストが届いただけなのよ。私は立場上少しは事情を聞いてるけど、捜査は警察や学校の管轄だから」

 両手を上げ、お手上げという意志を示す沙紀ちゃん。

 結局は分からない事ばかりで、ただしそれはここにいないケイも同様だろう。

 気付けばドラッグが検出され、警察に連れて行かれ、停学になった。

 理不尽としか言いようのない状況。

 悪いのは彼ではなく、そのドラッグを仕掛けた誰か。

 卑劣で狡猾な、人として最低の行為。

 こうした怒りのやり場がないのも、余計に怒りを募らせる。

「ただ、悪い事ばかりでも無いわよ」

 場の空気を変えるように、声のトーンを上げる沙紀ちゃん。

 サトミも物憂げな顔を微かに上げ、彼女に視線を向ける。

「無差別とも言える状況でドラッグを検出された生徒が5名発見された。浦田を合わせると6人ね。学校もこれには何らかの手を打つしかなくなって、対策本部を立ち上げたの。学校と警察。生徒会とガーディアン共同で」

「それで?」

「私もメンバーの一人で、旧連合の幹部にも声を掛けるよう言われてる」

「ケイが警察へ通報した事で、事態が拡大化した訳ね」

 鼻で笑うサトミ。

 つまり彼が自らを犠牲にして、ドラッグの対策に本腰を入れさせたという事か。

「どうして、こういうやり方しか出来ないの」

 小声で、ため息混じりに呟く沙紀ちゃん。

 先程までの明るさや余裕は影を潜め、深く思い悩む表情ばかりがその顔に浮かぶ。

「不器用なのよ、結局」 

 慰めるように彼女の肩へ触れ、ラウンジを出て行くサトミ。

 沙紀ちゃんは人混みの中に消える彼女の背中を眺めながら、静かに尋ねてきた。

「やっぱり遠野ちゃんの方が、浦田の事を分かってるのかな」

 自嘲めいた、重苦しい口調。

 これについて私なりの意見はあるが、上手く説明するのは難しい。

 ただ二人は沙紀ちゃんが思っているような関係ではなく、多分この先そういう事にも発展はしないだろう。

「優ちゃんは、どう思う?」

「何て言ったらいいのかな。サトミの事もそうだけど、ケイが何を思ってるかは私にもよく分かってないし。ねえ」

「俺に振るな。あいつの事を考えると、疲れてくる」

 重々しくため息を付き、口に運びかけたサンドイッチを戻すショウ。

 それはケイが厄介者という意味ではなく、彼の真意や思考が読み取りにくいという意味だと思う。

 私も彼とは長い付き合いだが、その印象は彼と大差ない。

「だったら、遠野ちゃんは分かってるの」

 若干こだわる沙紀ちゃん。

 彼女にとっては複雑というか、かなり気に病む問題ではあるだろう。

「狐と狸の化かし合いみたいなもんだ」

「わっ」

 突然の背後からの声に驚き、スティックを手にして振り返る。

 しかし声の主である塩田さんは、スティックを伸ばしても届かない距離まで逃げた後。

 この人の寝首を掻くなんて事は、一生あり得ないだろう。

「どっちが狐で、どっちが狸なんです」

「例えだ。下らんところに食いつくな」

 あ、そうですか。

 悪かったわね、結構真剣に聞いてみて。

「あいつらを、普通の人間と考えるから色々悩む」

「でも」

「遠野は頭が良いってだけで、俺達でも理解出来る部分はある。でも、浦田はちょっと違う。別にけなしてる訳じゃないからな」

 しかし、何が違うかは答えない塩田さん。 

 とはいえ反論しない事からも、沙紀ちゃん自身その辺りは十分分かっているはずだ。

「第一今回は、ドラッグが検出されたんだろ。これはまた揉めるぞ」

「ケイが暴れるって事ですか?」

「現時点ですでに、対策本部が立ち上げ。この先は多分、全生徒と職員に強制的な検査もある。それも、定期的に。連絡があった以上、警察も今までよりは熱心に捜査や取り締まりをする」 

 少し前までは、ドラッグを遣っている人が多いといった認識だった。

 あくまでも他人事であり、悪い人間もいるんだという程度の軽いもの。

 それが今は塩田さんが言う通り、本格的な対策が講じられるようになっている。

 ケイから、ドラッグが検出されてから。

 今回ドラッグを仕込んだ者の意図は不明だが、間違ってもこうさせるためでは無いだろう。

「ああいう奴は、何もせず放っておくに限る。基本的に他人とは関わらないタイプなんだから、手出ししなければいいんだ。ただ、したくなるような奴ではあるけどな」

「どっちなんだ」

「この野郎、口答えか」

 座っているショウに蹴り掛かる塩田さん。 

 ショウはその足首をたやすく掴み上げ、膝を抱えて床へ叩き付けた。

 いや。付けようとしたところで、塩田さんが軽やかに体をひねって彼との距離を置いた。

「暴れないで下さい」

「こいつが」

「塩田さんが」

「暴れないで下さいって私は言ったのっ」

 テーブルをスティックで叩き付け、大きな音を立てさせる。

 二人はすぐに口をつぐみ、お互いを睨みつつ肘でつつき合っている。

「暴れてるのは……。誰もいないですね」

 気まずそうな顔をして後ずさる数名の男女。

 全員肩口にはIDが付けられ、また腰に提げた警棒からガーディアンだと理解する。

 彼らがここに来た目的は、その前から理解しているが。

「そっちの、ちっこい女を連れて行け」

「え」

「ガーディアンでもないのに、武器持ってるぞ」

 後輩を売り飛ばす塩田さん。

 尊敬する先輩だった気もするが、私の独りよがりだったらしい。

「武器持ってて、何が悪いのよ」

「馬鹿か、お前は。いいから、さっさと連れて行け」

 やけに無慈悲な発言を繰り返す塩田さん。

 冗談にしては度が過ぎているし、それにしては表情が真剣すぎる。

 どうやら塩田さんに、何らかの意図があるらしい。

 やはりこの人は、今でも頼りがいのある先輩だ。

「指錠した方がいいぞ」

 前言撤回。

 その内、同じ目に遭わせてやる。



 連れてこられたのは、生徒会ガーディアンズのオフィスではない部屋。

 部屋の内装や調度品はあまり変わりないが、質が一つ上の感じ。

 ここでようやく、執行委員会の保安部だと理解する。

「あなた達、生徒会ガーディアンズじゃないの」

「そうだけど、俺達の上にいるんだ。連中が」

 声を潜めてささやいてくる男の子。

 当然だがあまり良い感情は抱いていないらしい。

「反抗すれば」

「どうやって。なんのために」

「知らないわよ。理屈で考えないで」

「俺、何か間違った事言ったか」

 不安そうに仲間を振り返る男の子。

 全員がはっきりと首を振り、怪訝そうに私を眺めてくる。

 珍獣じゃないんだけどね、一応は。

「で、どうして私はここに連れてこられたの」

「あそこは、もう執行委員会の管轄なんだ。でも保安部の人間が足りないから、俺達が代行してる」

「下請けな訳」

 社会の縮図というか、何も高校生の時からそんな気分を味わいたくはない。

 私達連合もけっして恵まれた立場ではなかったけれど、自立していたし自分達の意志を持っていた。

 逆を返せば、学内はこれから全てこういう状況になるという訳か。

 執行委員会を頂点として、その下に生徒会や各組織。 

 そして一番下に、一般生徒が存在する。

 つまりは、私達も。 

 いや。学校に反抗している以上、さらにその下か。

 なんか、インドのカースト制を思い出すな。


 罪状が罪状なためか、狭苦しい尋問室に放り込まれた。

 お茶もなければお茶請けも無し。

 とはいえスティックは手放してないし、する気もない。

 これが奪われる時は、大げさに言えば私が死ぬ時だ。

「……雪野さんでしたか」 

 にこやかに現れる、落ち着いた物腰の男性。

 見覚えがある顔で、それ以前に向こうは私の名前まで知っている。

「連合解体の時にお会いしました」

「ああ。そういえば。お世話になりました」

「いえ。ここで改まられても」 

 あくまでも丁寧な物腰で、尋問する側の態度とは思えない。

 私も、尋問される側の態度ではないが。

「あなた達、態度悪いんじゃない。正確に言うと、評判悪いわよ」

「らしいですね」 

 気にした様子もなければ、それこそ改める素振りもない彼。 

 ただ彼は人当たりが良いタイプなので、彼自身は問題ないだろう。

「俺の事はともかく、武器の所持は禁止されているはずですが」

「杖なの、これは」

「……許可申請書、用意しますね」

 相手にするのも虚しいと思ったのか、一枚の紙を差し出す彼。

 どうやら私の下らない言い訳も、初めから予想済みという訳か。

「旧連合関係者に対しては穏健策と、強攻策があります。俺は一応穏健派ですが、主流は強行派ですので」

「そういう話はサトミか、ケイに……。いや、ケイは無理か」

「浦田さんの事は残念でしたね」

 口調とは裏腹に、あまり感情の無い口調。

 面識は殆ど無いし、お互いそう親しむタイプでもないと思う。

「何か知らないの?」

「一応守秘義務はあるんですが、バーターでなら」

「私から渡す情報なんて、何もないけど」

「情報ではなく、あまり暴れないで頂けると助かります」

 結構真顔で頼まれた。

 彼は保安部における責任者の一人で、拘束された私がこんな態度でいられるのもその力のお陰。

 立場的には敵対する関係にあり、仮にそうなった場合手を抜く気はない。

 ただ、無理に彼を困らせる理由もない。

「意味もなく暴れないんだけどね、私達も」

「正直俺は、旧連合とやりあって勝てるとは思ってないんで。仮に勝ったとしても、その時学内は壊滅的な状態になってるでしょう」

「色々考えるタイプ?」

「ここは居心地がいいですからね。ただ、そういう事態になれば全力を尽くします」

 一瞬かいま見える鋭い牙。

 落ち着いた外観、物静かな雰囲気。

 その下には紛れもなく、狼が潜んでいる。

「当面大人しくするのは約束するとして。ケイの話は」

「傭兵が絡んでいるのと、今回使用されたドラッグは常用性が強いという事です」

「常用性?」

「間違いで体内に取り入れたとしても、本人にその気は無くても。体が求めてしまうんです。彼の行動パターンや性格から大丈夫だとは思いますが、注意は必要です」

 強く念を押す彼。

 その言葉に悪気はなく、私が求めたからこその忠告。

 実際私は、何も深く考えてはいなかった。

 いや。考えようとしていなかった。

 ドラッグ。

 それが持つ意味。

 これだけ根絶が叫ばれようと、世の中にはびこっている理由を。

「経験上、彼を24時間監視出来る施設に収容するのが望ましいんですがね」

「病院に通うとは言ってたけど」

「種類としては、まだ麻薬指定されてないんです。無論病院に通って治す方法もありますが、死んだ方がましっていう処置しかありませんからね」 

 酷薄に微笑む男性。

 何を思い出したのかその瞳は異様な輝きを帯び、噛みしめられた唇からは血が漏れる。

「大丈夫?」

「ええ。腕一本差し出す覚悟があるなら、病院通いでも治ります。ただ、俺は施設に収容する方が無難だと思いますよ」

「覚えてはおく。どうもありがとう」



 性質の悪い風邪。

 せいぜいその程度に認識しかなく、時間が過ぎれば治るものだと思っていた。

 でも実際は違う。

 治すための努力、そのための意志が必要になる。

 何より、そのための長い時間が。

 気分は昨日の憂鬱なそれへ逆戻りして、周りの景色はくすんで見える。

 すれ違いに笑っている生徒達に何が面白いのかと疑問に思う。 

 私は何一つ面白くないし、笑いたい気分でもない。

 勿論彼等は悪くないし、笑う事に理由は大して必要ない。

 昼休みも、そろそろ終わり。

 午後からは体育の授業なので、ロッカールームへ着替えに行く。

 普段なら心弾む授業であり、着替える前から気分は高まる。

 今は視線が下がり、ため息が漏れるだけだ。


 遅刻ぎりぎりで着替え、冷たい風の吹きすさぶグラウンドへとやってくる。

 空は青く澄んでいて、かすれたような雲があちらこちらに点在する。

 空気は肌を刺すように冷たく、乾ききっている。

「はい、集合。ジョギングして、ストレッチ。今日はバレーをやります」

 あちこちから上がるブーイングと歓声。

 下手な人は前者で、上手な人や好きな人は後者。

 私は大抵の種目に関して後者であり、普段なら満面の笑みを湛えて手を叩いている所。

 今は教師の話を聞き流し、走り出したクラスメートの後に付いていくだけで。

「元気ないわね」

 息も絶え絶えに横へ並んで来るサトミ。

 彼女にしてみればさっき聞いた話くらいは知っているだろうし、また今更口にしたくもない。

「色々あるの」

「そう。……常用といっても、意志の力によるわよ」

 かすれそうな声で言い残し、後ろに下がっていくサトミ。

 気付けば彼女は最後尾に付き、歩くような速度で足を動かしている。

 意志の力、か。

 私にそんな物は備わっていないけれど、彼に関しては考えるまでもない。

 今まで幾つもの出来事があり、苦しく苦い記憶も一つや二つではない。

 その度に私達は乗り越え、克服してきた。

 間違いなく彼も。 

 いや。彼のお陰で、彼の犠牲によって成し遂げた事も数多い。

 言うまでもなくそれは、彼の意志の力による。

 私達は彼によって助けられ、この場にいると言っても過言ではない。



 ベンチウォーマーを羽織り、コートの端にしゃがみ込んで試合を眺める。

 気の重さと言うより、自分自身の不甲斐なさ。

 私達、私は彼に頼ってばかりで何をしていたんだろう。

 今もただこうして、あれこれ考えるだけで手助けする事も出来ない。

 何をして良いかも、思いつかない。

 足下に転がってくるボール。

 それを抱え、座ったまま地面へ転がす。

 少し体が横に流れ、慌てて体勢を立て直す。

 ボールを投げた事より、視覚に違和感を感じた事による平衡感覚の喪失。

 ストレスが良くないと医者には再三言われているが、今の状態がまさにそれ。

 明らかに悪い兆候であり、ベンチウォーマーのポケットに入れていた目薬をさす。

 今日は病院へ行った方が良いだろう。

「試合しないの」

 クラスメートと交代して、コートから戻ってくるサトミ。

 息は荒れているが、ボールに一度も触ってなかったのは気のせいかな。

「気分的に、ちょっとね。目の調子も悪いし」

「少しくらい動いた方が良くない?」

「そうかな」

 あまり気は乗らないが、じっとしていても寒いし軽く運動するのはいいかも知れない。

 何より、眺めているのももう飽きた。



 緩やかに跳んでくるサーブ。

 それをクラスメートがレシーブし、誰かがトスしておざなりなアタックが返される。

 基本的に、そんなラリーの繰り返し。

 とはいえ授業のバレーなので、文句を言う人は誰もいない。

 私も気楽にボールを追いかけ、息を切らせていればいい。

 真剣さが無いのも、今の自分には良い薬だろう。

「きゃっ」 

 突然叫び声を上げるクラスーメート。

 理由は、目の前で跳ねたボールが頭上を越えていった所で理解出来た。

 この雰囲気をぶち壊す、大人げない人間がいるらしい。

 以前の相撲の時もそうだったが、今回もまた傭兵なり転校生か。

 彼等に偏見はない方だと言いたくても、こう立て続けでは自信がない。

「バレー部でもいるの?」

「さあ。あの背の高い子じゃない」

 クラスメートが視線を向けたのは、手を伸ばせばネットから指先が飛び出しそうなくらいの女。

 ローテで私も前列になったため、物理的にも精神的にも見下ろされている。

 今は決して良好な精神状態ではないし、暴れたい気分でもない。

 だけど、人間怒りを忘れてはおしまいだ。


「あの女は私が止めるから、ボール拾って」

「止めるって、どうやって」

「任せて」

「いや。自信じゃなくて、方法を聞いてるんだけど」

 戸惑うクラスメート達に手を振り、配置に付かす。

 話しても分かってはくれないし、私も出たとこ勝負の面もあるため説明出来ない。

 今はあのアタックを止める事だけに集中したい。

「それと、私にトス上げて」

「どの辺に」

「ネットの上に」

「大丈夫、よね」

 私の身体能力は大抵の子が知っているが、ネットの位置は頭上のはるか彼方。

 しかしそれ以上余計な事は言わず、全員が託すような眼差しを向けてくる。

 人の期待に添える程立派な人間でもないが、今はその時だと思っている。


 緩やかに跳んでくるサーブボール。

 それをクラスメートがレシーブし、誰かが高くトスをする。

 青く澄み切った空に吸い込まれる白いボール。

 高すぎると、誰もが思う程に。

 顔を青くする、トスを上げた女の子。

 逆にさっきの女は、小馬鹿にした顔でこちらのコートを眺めている。

 大丈夫。

 このくらい何でもない。

 そう女の子に微笑みかけ、助走を付けて地面を踏み切る。

 今はもう、迷いも気の重さも置いてきていた。

 後で思い出すかも知れない。 

 忘れられる訳もない。

 だけどこうして空を目指している今は、全てのしがらみを地面へと置いてきた。



「せっ」 

 体のひねりを加え、鋭く右腕を振り抜く。

 女も慌ててブロックしに来たが、その頭上を越えて叩き付ける。

 仮に同じタイミングで飛んだとしても、頭を越す自信は十分にあった。

 ボールは砂煙をコートに残し、再び青い空へと吸い込まれる。

「よしっ」

 小さくガッツポーズをして、クラスメート達とハイタッチする。

 トスを上げてくれた子には、より力を込めて。

「今の調子で、もう一度お願い」

「了解」

「大事に守っていこう」

「おう」

 全員で声を揃え、位置について腰を落とす。

 緩やかに、しかし気迫を込めて放たれるサーブ。

 レシーバーは体勢を崩し、ボールはコートの外へと飛んでいく。

 ただトスを上げる子がかなり上手く、綺麗な弧を描いてボールはネットの中央へと戻っていった。

 目の前で飛び上がる女。

 先程よりも力のこもった、迫力のあるジャンプ。

 彼女の実力は認めよう。

 だけど勝つのは、私達だ。


 すかさず彼女を追い、再び空に向かって飛翔する。

 ネットは目の前から一瞬にして消え去り、女の顔も眼下に消える。

 代わって現れるのは、金属バットのような女の腕。

 それは確実にボールを捉え、私の顔面へと飛んできた。

 ネットを越えて手を伸ばすのは反則だが、アタックに関してはその限りではない。

 ブロックに関しても、当然。

「やっ」

 反対側からボールを抑え、腰を入れて押し返す。

 ボールというより、女の体ごと。

 さながら掌底のような手応えがあり、女はボールを抱えるような格好で地面へと落ちていく。

 私は腕を戻し、膝を曲げて衝撃を和らげながら地面に降り立つ。

 仲間からの歓声と拍手。

 それに応えて小さく手を挙げ、女を一瞥する。

 彼女は背を丸め、小声で審判に何かを告げてコートから消えた。

 胸の中に沸き上がる微かな後悔。

 ただ、それは彼女自身が招いた事。

 ここは弱肉強食の世界ではなく、強い者が上に立つ訳ではない。

 あくまでも人とのつながり、輪を大切にする世界。 

 それを乱すというのなら、私は何度でも飛び立つだろう。

 今は決して調子が良い訳ではないけれど。

 私を必要としてくれる人がいるのなら、何度でも。



 放課後。

 以前のようにオフィスへ急ぐ必要はなく、これといった予定もない。

 家に帰ってもいいくらいで、今はそういう心境でもある。

 バレーの時に味わった高揚感はすでに薄れ、日暮れと共に気持ちも陰っていく。

 教室を出て行くクラスメート達をぼんやりと眺め、自分もリュックを背負い歩き出す。

「サトミ、はいないか」

 彼女はすでに教室を出て行った後。

 連合が解体された今、私達の立場は非常に不安定な物。

 ガーディアンではないが、私も含め武装している人は多い。

 また旧クラブハウスにこもっているので、ここの使用も問題ではあるだろう。

 そういった部分を解決するため、サトミ達は学校や生徒会と交渉している。

 私は大した役にも立たないし、出来る事と言えばお茶くみか書類を届ける程度。

 義務ではなく、また求められてもいない。

 いても良いが、いなくても良い。

 普段なら好意的に考え、サトミ達を邪魔しに行くくらいの心境。

 でも今は、気が重い。


 何となくぐずぐずしている間に教室からは生徒が殆どいなくなり、残っている子達も教室を出て行くところ。

 目的と言うのだろうか、それを少し見失った気分。

 実際は私にも出来る事があり、またすべき事もあるはず。

 それでも足が旧クラブハウスに赴かないのは、ケイの話を聞いたから。

 彼がいない事は、別に珍しくはない。

 いないからといって、突然困る訳でもない。

 ただ、彼は果たして戻ってくるのだろうか。

 胸の奥を鷲づかみされたような心境。

 どれだけ忘れようとしても、忘れた気になっていても。

 彼が切り付けられたあの光景は、今も心の奥に強く焼き付いている。

 今は元気に学校へも通い、普通の生活を送ってはいる。

 だけどもし何かが一つ違えば彼とは二度と会えなかった可能性もある。




 息を切らして男子寮に辿り着き、階段を駆け上って廊下を走る。

 ドアの前で息を整えながら、何度となくドアを叩く。

「インターフォンがあるだろ」

 苦笑気味に出てくるケイ。

 若干顔色は悪いが、彼はそこにいた。  

 一瞬にして全身の力が抜け、床へ崩れそうになる。

「ちょっと」

「走って、疲れただけ。お茶ちょうだい」

「なんだ、それ」


 相変わらず本が山をいくつも作り、その間で生活をしているという感じ。 

 雑然としている訳ではないが物はなく、生活する必要最低限の品物だけが揃っている。

「ほら」

 湯飲みがテーブルの上に置かれ、一緒にクッキーとおせんべいも添えられる。 

 いかにも彼らしい気遣いで、ただ普段は気にもしない事。

 またケイ自身、それに恩を着せるつもりもないだろう。

「病院は、行った?」

「行ったさ。最悪だな、あそこは」

 そう答えた途端やつれた顔になり、ため息を付いてベッドに倒れる。

 顔は壁際を向いていて表情は読み取れないが、相当に嫌な思いをしたらしい。 

 この反応からして、以前の私並に

「痛いの?苦しいの?気持ち悪いの?」

「色々とね。思い出すだけで汗が出てくる」

 ようやく体を起こし、鼻で笑うケイ。

 私のように苛立って当たったりふさぎ込む事はない。

 症状や状況が違うので同列には語れないが、彼が強い人間であるのは疑う余地がない。

「それで、何か用事でも?」

「用事?誰が」

「さあ、誰かな」

 大げさに肩をすくめ、ローボードに置かれてある簡素な置き時計へ視線を向けるケイ。

 以前ならまだ学校にいる時間で、サトミ達は今日も遅くまで残っているはず。

 私はここで、何をやっているんだろうか。

「最近は、寮も居づらいって知ってた?」

 唐突な、また意味が分からない話題。

 ケイは壁に掛けてあった薄いパーカーを羽織り、玄関を指さした。

「なかなか面白いんだ、これが」



 連れてこられたのは、ケイの部屋があるフロアのラウンジ。

 しかし生徒の姿はあまりなく、クラブ活動や委員会で学校に残っている人を除いたとしてもこの数は少なすぎる。

 またラウンジにいるのは、大半が見た事のある顔ばかり。

 要は以前、連合に所属していたガーディアン達だ。

「どういう事?」

「すぐ分かる。狗が来るから」

「いぬ?」

「そう、狗」

 彼が何を言っているか分からないし、この状況も飲み込めない。

 どう考えても普通ではなく、決して良い事は起こらないとしか。

 程なく廊下から怒鳴り声とも叫び声とも付かない声が響いてくる。

 何度も聞いているとそれが掛け声か、何かの点呼だと理解出来た。

「検査でもあるの?例の一件で」 

 辺りを窺いながら小声で尋ねるが、ケイはすぐに首を振って端末に表示させたカレンダーを見せてきた。

「一ヶ月前くらいかな。連合が解体された辺りから、やり始めた」

「何のために」

「俺が知りたいね。一般生徒を管理下に置くつもりだとは思うけど、明らかに空回りしてる。普通の学校ならともかく、ここでこうやり方は無理がありすぎる」 

「どうしてそんな無理矢理なのよ」

 ケイは薄く微笑み、吐き捨てるように呟いた。

「管理案の本質だからさ」

「だから?」

「そう。だから塩田さん達は、学校と戦った」



 ケイが口を閉ざし、それと入れ替わりに武装した集団が入ってきた。

 こちらは全員見慣れない顔ばかりで、例の執行委員会関係者だと理解出来る。

「今日もご協力ありがとうございます。まずは国歌斉唱校歌斉唱に続き、生徒規範……」

 つらつらと言葉を並び立て、突然流れ出したBGMに合わせて歌い出す集団。

 他の人達は冷笑気味にそれを眺めているか、欠伸をするくらい。

 一緒に歌ったり規範を読み上げたりは、誰一人として行いはしない。

「他の生徒は」

「部屋にこもってるか、外へ遊びに行ってる。残ってるのは変わり者か、ここで何をしてるか知らない人間だけ」

「例えば私みたいに?」

「そういう事。ほら来た」

 先頭を切って歩き、今も大声を張り上げて歌っていた男がこちらへと近付いてくる。

 表情はあくまでも愛想が良い。

 また仮にそれが善意からだとしても、決して良い事だとは限らない。

「初めまして。学校生活は、どうですか」

 穏やかな、しかし陰湿さを感じる口調。

 以前の、ディフェンス・ラインを思い出させるとも言える。

 また一部宗教の勧誘が、きっとこんな感じだろう。

「別に。学校の締め付けが厳しくて、面白くないなって思うくらい」

「そうでしょうか?規則正しい生活が送れるのは、素敵な事ではないでしょうか」

「押しつけられるのは嫌いなの。規則だけじゃなくて、考え方もね」 

 ストレートに相手を批判し、ふざけるなとばかり睨み付ける。

 気付けば周りには男の仲間が集まり、一斉に見下ろされていた。

 武器こそ手にしていないが女子供相手に取る態度ではなく、彼等の考え方や行動原理が理解出来る。

「少し、話し合いが必要ですね」

「こっちは一つも話す事なんて無いわよ。説教したいなら、寺でも行けば」

「あまり、大きな口を叩かない方が良い。必ず後悔するぞ」

「あなた達の顔を見た時点で、後悔してるわよ」

 スティックをテーブルの上に置き、軽く転がす。 

 この程度では傷一つ付かず、放っておけば逆にテーブルが傷だらけになる。

「そういう訳だ。帰った方が良い」

 ようやく口を開き、仲裁に入るケイ。

 彼にその気があるのかは、多少疑問だが。

「誰かと思えば。君、ドラッグをやってたそうじゃないか」

 男この言葉を合図に馬鹿笑いする武装集団。

 ケイも一緒になって笑い声を上げ、突然テーブルの上に飛び乗り男の頭に熱いお茶を浴びせかけた。

 叫び声すら上げられないとはまさにこの事らしく、顔を押さえて地面でのたうち回り出す。

「き、貴様」

 武器を取り出し、ケイに挑み掛かろうとする男達。

 しかしそれより早く彼は隣のテーブルへ飛び移り、腰を屈めて椅子を担ぎ上げた。

「ドラッグやってると、とにかく暴れたくなってさ。抑制が効かないんだよな」

 いきなり飛んでいく大きな椅子。

 それは私の頭上をかすめ、壁にぶつかり跳ね戻ってきた。

 武装集団の何人かには当たったらしく、膝を突いて何やら泣き言を呟いている。

「さて。次はテーブルでも行くか」

「わーっ」

 叫び声を上げ、我先にと逃げ出す男達。 

 床に倒れていたリーダー格の男は、その先頭に立って逃げている。

「本当?」

「今なら可能さ」

 そう言って、テーブルに手を掛けるケイ。 

 しかし持ち上がったのは脚の部分だけで、それも一瞬に過ぎない。

「何、それ」

「ドラッグといっても、俺の場合はかろうじて検査に引っかかる程度の量。今は治療も受けてるし、むしろ体調は悪い」

 すぐにテーブルへ腰掛け、だるそうにため息を付くケイ。

 よく見ると顔は激しく汗を掻いていて、息もかなり荒い。

 椅子を投げはしたが、ここまで疲労する運動でもなかったはずだ。

「大丈夫なの?」

「軽い風邪が治らない気分かな。調子は悪いけど、元々がどういう体調だったかはもう忘れた」

 とても大丈夫とは言えない告白。

 ただし本人が気にした様子はなく、だるそうな顔で脚をふらつかせているだけだ。

「ちょっと聞いたんだけど。病院に通うだけで治る訳?」

「施設に入る手もあるけど、そこまでひどい状況でもない。で、誰から何を聞いた?」

「施設に入った方が確実だって。保安部の責任者が。前島君だっけ」

「ああ、あれ。傭兵だし、その辺には詳しいのかな」

 ぶっきらぼうに呟くケイ。

 気分を害したとは思えないが、他人にあれこれ言われたくもないだろう。

「なんか、迷惑掛けてるみたいだな。俺」

「迷惑って。自分から手を出した訳じゃないんでしょ」

「そうだけどさ」

 感情のこもらない、うつろな口調。

 壁際に散乱する椅子の破片を見つめる瞳に力はなく、やるせないため息が微かに漏れる。

 自身の体調に対してではなく、私達への影響を考えての。

「一暴れしたし、少し寝る」

「寝るって?」

「薬のせいで、だるいんだよ。来週には、学校に行けると思うから」

 軽く手を振りラウンジから出て行くケイ。

 私はその後ろ姿を見送る事しか出来ず、掛ける言葉も見つからない。

 彼が何を思っているのか、彼がどうなっているのか。

 大丈夫だと彼は告げ、私もそう思いたい。

 だけど、胸の奥にある不安はどうしてもぬぐい去れない。

 改めて感じる自分の無力さと不甲斐なさ。

 結局自分は何も出来ないんだと、改めて知るだけだった。



 女子寮に戻り、夕食をとる。

 食欲はあるが箸は進まず、後から来た生徒達が次々にトレイを片付けていく。

 ご飯は乾き始め、おみそ汁の湯気も立たない。

 熱かったのは一時で、時が経てば冷えていく。

 テーブルに常備されている梅干しが見当たらず、他のテーブルを見渡す。

 しかし梅干しはどこにもなく、ようやく撤去された事に気付く。

 理由は言うまでもなく、ケイ達の一件があったからだろう。

「どうかしました?」

 明るい笑顔を浮かべて、私の前に座る渡瀬さん。

 彼女は調味料の並んでいるテーブルの中央に視線を向け、訝しげに小首を傾げた。

 並んでいるのは空の瓶で、中身は無し。

「醤油無いですね」

「知らないの?」

「何かあったんですか?」

 噛み合わないお互いの会話。

 あえて口にする事でもないが、もっと噂になっていると思っていただけに意外ではある。

「調味料に、ドラッグが混入されてたって聞いてない?」

「誰か言ってたかな、そんな事。でも、冗談だと思ってたけど」

「本当なのよ、それが」

「随分、物騒な話になってきましたね。お昼も食堂が空いてたけど、そのせいか」

 納得という具合に頷き、冷や奴を見下ろす渡瀬さん。

 彼女はカウンターに戻ってそこに備え付けてある醤油をさし、ため息を付いて戻ってきた。

「食欲が無くなりますね、さすがに」

「まあ、ね」

 彼女が言っているのは、一般論においての話。

 仮にケイからドラッグが検出されたと聞いたら、どういう反応を示すだろうか。

「渡瀬さんは、ドラッグに詳しい?」

「知識として、大抵の人が知ってるのと同じ程度です。でも、どうして」

「いや。こういう事になるとは思わなかったから」 

 あくまでも一般論として話を続け、食べる気の失せた食事を無理矢理掻き込む。



 食堂とは対照的に、ラウンジはかなりの人で賑わっていた。

 噂の伝播とでも言うのだろうか。

 好奇心、自分にどれだけ関わりがあるか。

 それらを考えれば、今回の噂が一瞬にして学内中に広がったのも当然だろう。

「お菓子が一番ですよ」

 包装紙を丁寧に畳み、チョコをかじる渡瀬さん。

 これなら何かが混入される恐れは皆無だし、周りでお菓子を食べている女の子達も同じような心境だと思う。

「ナオ、こっち」

「ああ。先輩もいたんですか」

「いたよ」

「その。あれ。大丈夫なの」

 渡瀬さんの隣へ座り、気まずそうに尋ねてくる神代さん。

 知っているのが当然というか、この辺りは性格の違いもあるだろう。 

 あまり他人に干渉しないタイプの渡瀬さんと、繊細な神代さんの。

「問題ないと思うよ。今も会ってきたばかりだり」

 若干無理に笑顔を浮かべ、とりあえず彼女を安心させる。

 本人も問題ないとは言っていたし、私も自分の言葉を信じたい。

「何かあったの?」

「あんた、知らないの?例の、ドラッグ騒ぎ」

「それくらい知ってる」

「じゃあ。……浦田先輩から、検出されたって事は?」

 私に目線で確認を取り、そう告げる神代さん。

 渡瀬さんはつぶらな瞳を丸くして、小さく口を開けたまま固まった。

「まさか」

 改めて私に確認を取る渡瀬さん。

 私は頷く以外に答えようが無く、曖昧に笑ってお茶を飲んだ。

「大丈夫なんですか?」

「まあ、ね。私はよく分かってないし、どうしてこうなったかも知らないけど」

「そうですか。いつの間にか、嫌な学校になってきましたね」

 しみじみと、感慨を込めて呟く渡瀬さん。

 自由で楽しくて、人と人とのつながりがあって。

 それが今は管理され、制約を受け、ドラッグまで蔓延している。

 まだ、完全に自由が奪われた訳ではない。

 だけど渡瀬さんが言う通り、おかしくなりかけているのは間違いない。

 自分はそれを止める気ではいる。

 本当にそんな事が出来るのか。

 身近な友達すら救えない自分に、その資格はあるのだろうか。

「なんとかするしかないね」

 確信もなければ、その力があるかどうかも分からない。

 だからなんだというんだ。

 私はもう決めた。

 何度と無く迷い、挫折して。

 これからも、きっと同じ思いを味わい繰り返す。

 それでも私は、決めたんだから。

 呆気にとられる二人。

 こういう反応も、慣れている。

「大丈夫。私に任せて」

 力強く、自信を込めて言い放つ。

 理由も何もない。

 自分がそう思い念じた。

 ただ、それだけでしか。



 私にはその気持ちしか無いけれど。

 その気持ちだけはある。

 なにより他に大切な物は、あるのだろうか。












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