表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第29話
307/596

29-1






     29-1




 善と悪。

 それを隔てる基準は、意外と曖昧だと思う。

 人、文化、国。

 何かが違えば、善悪も違う。

 自分が否定するべき事だとしても、他人から見れば肯定すべき事だってある。

 例えば、人を傷付ける事。

 ただ、それも理由があれば肯定される場合もある。

 本人、傷付けられた相手が肯定すればの話だが。




 今日も旧クラブハウスにこもり、ぼんやりと過ごす。

 立場が弱くなれば、出来る事も限られてくる。

 私達の場合はその立場自体が存在しないので、出来る事は何もない。

 いや。モトちゃんやサトミ達は忙しく働いているようだけど、私個人はやる事がない。


 スティックを背中のアタッチメントに取り付け、グローブを装着する。

 レガースとアームガードも欲しいが、予算の関係上今は無し。

 インナーのプロテクターがあるだけ、よしとしよう。

「準備するのはいいけど、どこからも要請とか入電はないんだよね」

 自分で質問し、自分で解決してみる。

 とはいえ他にやる事もないので、スティックを背負ったまま室内を歩き回る。

 モトちゃんやサトミ達は、忙しそうにどこかと絶えず連絡中。

 逆に暇なのは、私やショウ。

 良くも悪くも、戦う場がないと私達はやる事が無い。

「予算が欲しいのよ、予算が。そう、お金」

 インカムに向かって、同じ言葉を繰り返すモトちゃん。

 昔も決して裕福ではなかったが、今思えばそれでも幸せな時期だったようだ。 

 何しろ今は、使われなくなった旧クラブハウスにこもってる立場。

 正式な身分は何もなく、放課後に暇をもてあました高校生でしかない。

「中川さんは?あの人、予算編成局の局長でしょ」

「銀行じゃないんだから。それに、個人的な感情では資金を動かせない」

「ショウの実家は?」

「面白いけどね」

 笑われて、却下された。

 私も、採用されたら困るけど。

 いや。困るのはショウの方か。

「カンパするとか、募金を募るとか」

「もの悲しい話ね」

 長くため息を付くモトちゃん。

 貧乏長屋のおかみさんって、こんな感じだろうか。

「サトミは、どう思う?」

「レジスタンスっぽくていいじゃない」

 ふっと微笑むサトミ嬢。

 そういうスタイルに憧れるのはいいけど、その実情は分かってるのかな。

「ケイは」

「知らん。第一俺は、舞地銀行にたっぷり預けてある」

 まだ言ってるのか、この人は。

 あれってショウが三島さんと試合をした時の払戻金だから、1年以上前の事じゃない。

「そんな事より、予算はどうするの」

「通行税でも取るか。要所要所に旧連合のメンバーを配置して、そこを通る生徒から金をもらう」

「それこそゲリラじゃない」

 一笑に付すサトミ。

 無論ケイも本気では無いだろうし、そんな事をしてたら弾圧される良い口実だ。

「おぼっちゃまは、どう思う」

「あ、俺か。まあ、食べる物さえあればいいだろ」

 大物なのか脳天気なのか、明るく言い放ってくれはした。

 その食べる物にさえ困る状況になりつつあるとは、ちょっと言い出しづらいな。

 私達個人には奨学金が払われているけれど、連合としての収入は0。

 ここにあるお茶やお菓子も、自分達で出し合って買った物ばかり。

 その内、実家からの持ち出しになりかねない。



 旧クラブハウス。

 正式名称や、実際にクラブハウスだったかどうかすら分からない。

 ただしその通称はごく自然に使われていて、この建物がすなわち旧クラブハウスという名前と言ってもいいくらい。

 中は勿論外も出来る限り綺麗にしたため、以前のような寂れた雰囲気はまるでない。

 後は一般教棟へ続く通路の廃材や資材を片付けたいが、ケイ辺りに言わせると外部から攻められた時の障害物としても使えるとか。

 それは分からなくもないけど、私としては防御面だけではなく外観も重視ししたい。

 何より、いつまでもここにこもっていても仕方ないんだし。


 あまりにもやる事がないので、机の上の飴を両手で転がす。

 猫は飽きずに長い間続けているが、人間でも意外と楽しめる。

 私だけ、という意見はともかく。

「暇なら、書類を届けてきて」

「いいよ。生徒会?」

「学校の生徒指導課と、教職課。理事会の事務局もお願い」

 同じ封筒を3つ差し出してくるモトちゃん。

 それを手に持ち、背中には改めてスティックを取り付ける。

 梅雨時の傘ではないが、こういう事態になった今武器の所持は欠かせない。

 仮に取り締まりの対象になるとしても、手ぶらでいる不安よりは余程ましだ。

「それ、持っていくの?」

「いざという時は、杖って言い訳するからいいの」

「アバウトな子ね。後、帰りにアイス買ってきて」

「私、バニラ」

 サトミは文句ある?とでも言いたげにこちらへ視線を送り、分厚い書類の束を両手で振った。

 使いっ走り万歳だな。



 廃材。古くなった机や椅子。

 中にはバスケットゴールなんて物もある。

 捨てないのはこの辺りの治安の悪さもそうだけど、廃棄する費用面もあるのかな。

 そうなると、迂闊に捨てたら費用を後から請求されたりして。

 もしかしてここに私達を追い込んで、ゴミ共々処分するつもりだろうか。

 自分の意志でここに来たつもりだったけど、なんか怪しくなってきたな。

「何やってるんですか」

 木刀を担いで、正面から表れる小谷君。

 それは間違いなく、私の台詞である。

「ああ、これ。最近学校がうるさくて、生徒会関係者でもガーディアンでも、部活に所属するのが義務づけられてるんです」

「私は入ってないよ」

「雪野さん達は、例外と言う事で」

 明るく笑う小谷君。

 当然笑い事ではないが、笑うしかない場合もある。

「木刀だから、実践流剣術?」

「ええ。右動さんが、幽霊部員でもいいと勧めてくれまして」

「あの人もほんわかしてるけど、部員の勧誘なんてやるんだ」

「ノルマがあるって愚痴ってました」

 ノルマに追われる右動さんか。

 ちょっと想像出来ないというか、これこそ笑い事だな。

 また彼がどこまで本気か、また小谷君以外に勧誘した子がいるかは疑問だし。

「じゃあ、沙紀ちゃん達も入ってる訳?」

「大抵は、文化系のクラブに入ってると思いますよ。それこそ、籍さえあれば後は自由ですし」

「結局は、学校の自己満足か。下らないな」

 がーっと吠えて、小谷君から借りた木刀を軽く振る。

 ……なんだこれ。

「ああ、鉛入ってますよ」

「木刀じゃないでしょ、それだと」

「俺に言われても。基本は、これで素振り1000回とか。本当ですか?」

「何を目指すかにもよるけどね。少なくとも部活の範囲なら、普通の木刀をまずは100回振った方がいいと思うよ」

 やっぱりという顔で木刀を受け取る小谷君。

 何しろ右動さんは、鶴木流直系の直弟子。

 ほんわかしているように見えて、どこか世間からずれているのだろう。

「で、小谷君は誰かに用事?」

「ええ。偵察しろと、あちこちから指示が来てまして」

「大変だね。変な人も多いけど、基本的は大人しいから」

「大人しくさせた、の間違いじゃないんですか」


 木刀を振り回すのは止めた。

 そのくらいの自制心はあるし、何より重い。

「済みません。書類を提出したいんですけど」

 教職員用の特別教棟の入り口を固める、制服姿の警備員。

 学外や女子寮にも警備員はいるが、学内にいるのは彼らだけ。

 またこの学校が生徒の自治で運営されているとはいえ、この建物にまでその自治権は及ばない。

 逆に彼らも、私達に不要な手出しは出来ないが。

「生徒指導課、教職課、理事会事務局ですね。少々お待ち下さい」

 生徒会とは違い、威圧してくる事も威嚇してくる事もない。

 あくまで事務的に、淡々と物事は進められていく。

 第一私みたいな小さい女の子にびくつく方が、どうかしてるんだ。


 受付を済ませ、教えられた通りの場所へ向かう。

 迷うのは慣れてるし、どうせ暇なので問題はない。

 あるとしても、気にしない。

「何してる」

 人の顔を見るや、そう尋ねてくる舞地さん。

 普段のGジャンジーンズではなく、紺のスーツ。

 無論キャップも被ってはなく、こうしてみると清楚なお嬢様に見えなくもない。

「私は単なる使いっ走り。舞地さんは」

「理事と会食」

「癒着じゃないの。一部生徒との癒着」

 そう喚いた途端、周りにいた大人達から一斉に視線を浴びた。

 当たり前だが、こういう場所で叫ぶ事柄ではなかったな。

「馬鹿」

「だって。私には、そんなお誘い一度もないわよ」

「あったら、行くのか」

「いや。行かないけどさ」

 見知らぬ、偉そうな大人達。

 堅苦しい空気、豪華な調度品。

 品の良い料理と、それに欠かせないテーブルマナー。

 間違いなく、たこ焼きでも食べていた方が気分はいい。

 好きだしね、たこ焼き。


「へろー」

 舞地さん同様、スーツ姿で表れる池上さん。

 違うのは彼女のスーツは胸元が大きく開いていて、スカートの裾が膝上のかなり高い位置にある事。

 大体、赤ってなんだ。

「その格好は、どうなのよ」

「紺のは、クリーニングに出してたの」

「だからって、赤は無いでしょ」

「私なんて、大人しい方よ。理事の一人なんて、蝶が舞ってたてたんだから」

 腕を小さく横へ広げ、手の平を動かす池上さん。

 冗談かと思ってたら、舞地さんも真顔で頷き出した。

 確かに蝶と比べれば、赤も可愛いものか。

 あくまでも、蝶と比べればね。

「真里依お嬢様のお世話も、色々と大変なのよ。この子が愛想無いから、私がフォローしてばっかりで」

「ふーん。家出はする、仕事はしないでどうしようもないね」

「本当よ。自立しなさい、自立を」

 言われたい放題の舞地さんだが、本人は全く気にする様子もなく長い髪を前へ持ってきて枝毛を探してる。

 でも案外、こういう大らかなところがお嬢様って気もするな。

「なんか貰ってこなかったの。松茸とか、エビとか」

「懐石弁当ならあるわよ」

 大きな紙袋から出てくる、漆塗りの綺麗な重箱。

 所々には金箔も施してあり、蒔絵が描かれているんだと思う。

 箱がこれなら、中は押して知るべしだな。

「欲しいなら上げるわよ。ねえ、真理依」

「ああ」

「いいの?」

「昼も懐石夜も懐石なんて、楽しく無いじゃない」

 そういうものかね。

 何にしろ良いお土産も出来たし、サトミ達と美味しく頂くとするか。

 ただし、ショウ食べさせるのは考えものだな。

 あのこの場合松茸の土瓶蒸しを喜んで食べるけど、塩だけのおにぎりでも大喜びして食べるから。

「さてと。箱の中身はなんじゃらほい」

「開けるな」

「嫌だ。もう開けた」

 思った通り松茸ご飯に栗ご飯。

 こっちは鴨肉と、京野菜か。

 ハモやタケノコ何かも入ってたりして、ある所にはあるんだと強く実感させられる。

「楽しそうだね」

「楽しいよ」

 そう答え、ふと違和感を覚える。

 落ち着きのある、大人の男性の声。

 通路の端で弁当箱を広げる少女に気安く声を掛ける人など、そう数多くはない。

「天崎さん」

「やあ。珍しいね、こんな場所に来るなんて」

「モトちゃんのお使いです」

「智美の。あれも人使いが荒いからな。悪いね」

 苦笑気味に謝る天崎さん。

 私が単に仕事をしてないだけとは、言わないでおこう。

「こちらのお二人は」

「そっちの愛想の無いのが、舞地さん。そっちの派手な人が、池上さん」

「ああ。舞地さんの所の」

「至らない娘ですが、よろしくお願いします」

 何故か舞地さんに変わって頭を下げる池上さん。

 よく分からないがお互いそれを普通に受け入れているので、問題はないのだろう。

 というか舞地さんは、池上さんがいなかったら生きていけないんじゃないの。

「この人達の知り合いが、モトちゃんと付き合ってるんですよ」

「ほう。それは初耳だな」

 若干表情が鋭くなる天崎さん。

 普段は優しくて人の良いおじさんというイメージしかないが、彼の部下は多分こんな顔ばかり見てるんだろう。

「昔は荒くれ者だったし、考え直した方が良いと思います」

「しかし、智美には智美の考えがあるんだろう」

「甘いです、甘々です」

「どうして雪ちゃんがムキになるのよ」

 人の頭を揉み出す池上さん。

 どうして、ムキになっちゃいけないのよ。

「確かに以前は血の気が多かったですけど、今は態度も改めて真面目に過ごしてますよ。よろしければ、内申書などでお調べ下さい」

「いや。娘個人の問題だし、妻とも上手くやっているようだからね。それと聞いた話では、お父さんが玲阿君の父親と戦友とか」

「らしいですね。私も、その辺りはちょっと詳しくありませんが」

 愛想良く話を進める池上さん。

 その傍らで舞地さんはぼんやり立っているだけで、文句は言わないがフォローもしない。

 前から分かってたけど、興味のない事には微かにも反応しないな。

「智美の事はともかくとして。最近、学校について良くない噂を聞いてるんだが」

「噂、ですか」

「書類になってないだけで、口頭では何度か伝えられてる。私は教務管理官なので、専門外ではあるが」

 なかなか本題に入ろうとしない天崎さん。

 それはつまり、容易には口に出しにくい問題という訳か。

「今までも数例あって、ただ最近はその件数が顕著に増えているらしい」

「はあ」

「少し場所を変えようか」



 天崎さんに連れてこられたのは、教務管理官に与えられた執務室。

 舞地さん達はまだやる事があるらしく、すでに特別教棟の外。

 まさか、今度はフレンチとか言うんじゃないだろうな。

「コーヒーでいいかな」

「紅茶お願いします」

「はは。……コーヒーと、紅茶を頼む。後、何かお菓子があればそれも一緒に」

 この辺はさすがに分かっている天崎さん。

 私は大きなソファーの端っこにちんまり座り、紅茶の到着をじっと待つ。

 別に端へ座らなくてもいいんだけど、部屋も広いから落ち着かないのよ。

「失礼します」

 お茶を運んできたのは、スーツ姿の若い男性。

 若干緊張気味で、トレイをテーブルに置く手も何となく震え気味である。

 自分は気付かないが、こういう光景を見ると教務管理官の地位と権限が理解出来る。

 どういう地位とか、どういう権限があるかは知らないけどね。

「それで、お話は?」

「ああ。少し、言いにくいんだが」 

 コーヒーをブラックのまま口にして、なおも言葉を濁す天崎さん。

 私は子供なので、角砂糖を二つ入れてレモンも垂らす。

 でもそろそろ、ミルクティが美味しい季節かな。

「どうも、ドラッグが蔓延してるという報告があってね」

「蔓延?」

 クッキーの袋を開けながら、笑い飛ばす。

 いや。そうするつもりだったが、彼の真剣な表情に袋を開ける手も止まる。

「確かに最近目には付きますけど。蔓延って言葉を使う程では」

「私も、そう思いたいんだけどね。実際書類としては提出されていないし、具体的な数値も見ていない。ただ教務担当の私に報告が届くくらいだから、教職員はそう信じていると思って間違いない」

「蔓延、ですか」

 どうも信じがたいというか、現実感がない。

 ドラッグを使用して暴れていた人間は何人もいたし、実際この目で見ても来た。

 数は確かに増えてはいると思うけれど、十分に対応出来る範囲内だと考えていた。

「私から具体的に何かする権限はないし、今はする気もない。ただこれ以上事態が進めば、教育庁も関わってくるだろう」

「関わると、どうなるんです?」

「生徒の自治、という辺りを確実に突いてくるだろうね」

 頭の上の方で滑っていく言葉。

 そうなると結果として、今学校や生徒会の一部。

 例の執行委員会の思惑通りとなる。

 こういう事は考えたくないが、ドラッグの蔓延も原因はその辺りではないんだろうか。

「常用者や売人がいるという話は?」

「さあ。暴れてる人間を見るくらいで」

「何しろまともな連中ではないし、背後にはマフィアも付いてる。間違っても関わらないように」



 きつく念を押され、解放される。

 わざわざ呼び止めたのはドラッグの蔓延を教えるよりも、最後の一言を言いたかったからじゃないだろうな。

 瞬さんにも言われたが、自分からマフィアに関わる程馬鹿ではない。

 その場の状況、誰が巻き込まれているかにもよるけれど。

 サトミやモトちゃん達に何かあれば、その時は相手がマフィアだろうと中央政府あろうと関係はない。

「お土産」

 相変わらずインカムを相手にしているモトちゃんに紙袋を渡し、ショウがどこにいるか尋ねてみる。

「さっき、屋上に行ったみたい」

「この寒いのに、何しに」

「私に聞かれても。京懐石か。あなた、どこ行ってきたの」

「お嬢様からのお下がり。予算は、学校を襲った方が早いと思うよ」


 物騒な事を言い残し、屋上へと向かう。

 建物内は、旧連合のガーディアンと以前からの住人が同居中。

 連合のガーディアンは解体に伴い、半数近くが生徒会ガーディアンズへ異動。

 残ったのはかなりの変わり者ばかり。

 また以前からの住人も居心地が悪いと思った連中はいつの間にか姿を消し、残っているのは多分元傭兵が大半だと思う。

 未だにぎくしゃくした空気なのは致し方なく、お互いが慣れるまではしばらくかかるだろう。

「屋上って、どこ」

 すれ違った、革ジャンに革のパンツという凛々しい女性に声を掛る。

 今まで学内では見た事のない顔で、雰囲気からして間違いなく元傭兵だな。

 向こうも私から何かを感じ取ったのか、愛想良く笑いながらしかし最低限足が届かない程度の距離は取る。

「この寒いのに、何か用?」

「知り合いが上ってるらしくて」

「そういえば、格好良い男が上ってたかな」

 凛々しい顔がうっすらと赤く染まり、何となく落ち着きがなくなっていく。

 傭兵だなんだといっても、そこは女の子。

 その気持ちはよく分かる。

「あの、屋上」

「ああ、そうだった。でも、あんたは大丈夫かな」

 人を上から下まで見下ろし、今度は天井を見上げる彼女。

 あまり楽しくない反応ではあるが、何を言いたいかは想像出来た。



 やってきたのは廊下の突き当たりにある薄暗い場所。

 さっき彼女の目線が合った位置を改めて見上げると、中途半端な位置にはしごが備え付けられていた。

 天井部分には取っ手が付いていて、そこから屋上に出られるらしい。

「届く?」

 端的に、遠慮なく指摘してくる女性。

 私の身長とはしごの位置。

 手を伸ばしても指先すら届かず、彼女が危ぶんだのも今更ながら理解出来る。

「大丈夫。ちょっと、どいてて」

「脚立でも探してくるの?」

「まさか。飛びつけば良いだけでしょ。その男の子も、そうやって上らなかった?」

「あの子は、背が高かったから。でもあんたは、手も届かないじゃない」

 改めて言わなくてもいいじゃない。 

 第一、手は届くのよ。


 少し助走を付け、壁に激突しそうになった所で床を踏み切る。

 空中で体をひねり、壁を背にして上昇を続ける。 

 手を逆手にしてようやくたどり着いたはしごに手を掛け、引きつけ様足も振り上げ体を引き上げる。

 そこでもう一度手を離し、さらに回転して体もひねる。

 はしごを背にして1回転一回ひねりしたところで、ようやくはしごと向き合い今度こそしっかり掴む。

「ああ?」

 下の方から聞こえる変な声。

 自分としては軽い運動のつもりだったが、彼女はまた違う感想を抱いたらしい。

「な、何それ」

「いいじゃないよ、どうやって上ったって」

「大体、そうやって上る事に意味はあるの」

 聞こえない振りをして取っ手を押し上げ、扉を開ける。

 開けようとして、断念した。

 扉が開く頃には、多分私は床に落ちて潰れてるだろう。

「おーい、開けて」 

 手を離したくないが、離さない事には始まらないので左手を離して扉を叩く。

 少しして、扉がゆっくりと持ち上げられた。

 その隙を付き、取っ手に取り付いてぶら下がる。

「また、何やってるの」

「しー。気付かれる」

「ばればれでしょ、どう考えても」



 夕暮れ前の冷たい風。

 熱田神宮は赤く染まり、空は紺色に暮れていく。

 じっとしていると震えが来る程で、冬は確実に訪れているようだ。

 あまりにも寒いのでグローブを付けて、少し動く。

 これこそ意味のない行動だが、さっきまでの退屈な気分はどこかへ吹き飛んだ。

 やっぱり私はあれこれ考えるより、例え無意味でも動く方が性に合っている。

「こんな所で、何してるの」

「洗濯物を取り込みに来た。自分こそ、何ぶら下がってるんだ」

「洗濯物じゃないの」

 適当に答え、ショウの足下に置いてある洗濯かごをのぞき込む。 

 しかし誰がここに干そうと考えて、実際干したんだか。

「忘れたとか言うんじゃないだろうな」

「だってこれ、私の服とは違うでしょ」

「仮眠室用にって、シーツが何枚かあっただろ。それが汚いって言ったの、誰だった」

 もしかすると、私かもしれないな。

 でもいいじゃない、汚いシーツで寝るよりは。

「シーツやかごは、どうやって運んだの?」

「紐に吊して持ち上げた。間違いなく、下で干した方が楽だぞ」

「洗濯物を干すのは屋上って決まってるの。そう言わなかった?」

「聞いたさ。嫌になる程な」

 何となく物騒な顔になったので、床にある扉に手を掛け引っ張り上げる。

 しかし持ち上がったのはほんの一瞬で、すぐに閉じて二度と開かなくなった。

「……いや。普通の入り口があるでしょ。前はそこから出入りしたよ」

「改装中だ。潜るしかないぞ」

「そういう言い方で合ってるの?でもここを閉められたら、相当困るね」 

 民家の屋根ではなく、人によっては足がすくむ程の高い位置。

 出口をふさがれたら、途方に暮れる以外にない。

 ちなみに私やショウは例のワイヤーがあるため、口で言う程は困らない。

 最悪ショウは建物の出っ張りを伝って降りるだろうし、私はその背中にぶら下がればいい。

 3階くらいの高さなら、怪我もなく飛び降りられるしね。 


 扉が開かなかったのは、単に私が非力だったせい。

 結局ショウに開けてもらい、まずは自分が先に降りる。

「オーライ、オーライ」

 紐に吊されて降りてくる洗濯かご。

 別にかけ声は必要無いんだけど、気分的にね。

 ようやく床に着地したかごの中を覗き込み、自分の体に触れてみる。

「私が入っても、持ち上げられそうだね」

「そういう事はやらん」

 はしごに取り付き、扉を閉めるや素早く飛び降りてくるショウ。

 何よ、つまんない子だな。

「寒い、腹減った」

「もう、夕方だもんね。終業時間も何もないし、何か食べに行こうか」



 洗濯物をモトちゃんに預け、学校の外に行く。

 ここからだと一般教棟の食堂へ行くより、門から外に出た方が早い気もする。

 その分お金は掛かるけど、背に腹は代えられないという事で。

「パスタか」

 いわゆる食べ放題のお店。

 元々この辺りはこない場所だし、この店自体も初めて。

 学校からはすぐ近くだけど、まだまだ知らない事がたくさんあるようだ。

 気付けばショウはお皿に、カルボナーラを山盛りにしていた。 

 ナポリタンもペペロンチーノも、明太スパもある。

 他にも何種類もある中で、カルボナーラの山盛り。

 この辺の嗜好は理解を超えているため、彼には構わずツナのパスタとほうれん草パスタを少し盛る。

「ちょっと柔らかいかな」

「何が」

 すでにお皿を半分くらいにしてる人には通じない話だと思う。

 アルデンテなんて言葉、知ってるのかな。

「ちょっと」

「何だよ、やらないぞ」

「馬鹿。奥、厨房の方見て」

 彼の肩越しにフォークを向け、後ろを振り向かせる。 

 厨房の手前にある広いテーブルに陣取る、柄の悪い連中。

 どうやらそこは待合室も兼ねているらしく、少しして店員の誘導で店の奥へと消えた。

「あいつらのたまり場か」

 吐き捨てるように呟くショウ。

 店の奥に消えたのは、金髪の傭兵達。

 向こうはこちらに気付いていない様子だったが、あの雰囲気からして常連かこの店にコネがあるんだろう。

 ショウは席を立ち、難しい顔で厨房の奥を睨んでいる。

「なんか、まずくなってきたね」

「何が」

「え。帰るんじゃないの」

「もうすぐ、出来たてのパスタが届く」

 真顔で、重々しく告げてくれた。

 人生に疲れたって台詞は、多分こういう時に使うんだろうな。

「あのね。今の見てなかったの」

「あいつらが料理を作ってる訳じゃないだろ。それにマフィアのたまり場でも無いんだし」

「ここで抗争があるって?映画の見過ぎ……」


 そう笑いかけた途端、何人もの男が声を荒げて入ってきた。

 冗談から駒ではないが、明らかに普通の状況ではないしのんびりパスタをすすってる場合でもない。

「逃げた方が良くない?」

「俺のパスタを」

 怒りはそっちに行く訳ね。

 とはいえ彼もパスタが出てくるのを待つ程のんきではないので、姿勢を低くして出口への退路を確認する。

 厨房の方で叫んでいるため言葉の内容は分からないが、さっきの連中に関係あるのは間違いない。

 お客も全員が逃げ出し、残っているのは自分達だけ。

 逃げた方がいいのは分かっているが、この先どうなるかも興味がある。

 揉め事に首を突っ込むためではなく、さっきの金髪達の動向を探るには都合が良い。

「盗聴器は」

「全部返却しただろ。第一、持ち歩いてない」

「それもそうだね。犬でも連れてこれば良かったな」

「悪かったな、人間で」

 机の下でいまいちに緊迫感に欠ける会話を交わしていたところで、男達の足下が見えた。

 お互い慌てて相手の口をふさぎ、目線で黙るよう合図する。

「今、声しなかったか」

「音楽だろ。あれだけばらまかせておいて、どうするつもりだ」

「金の回収は後からでも出来る。一旦戻るぞ」

 目の前に落ちてくるグラスとお皿。

 パスタが飛び散り、スープが頬をかすめていく。

「次は、売上金だけじゃ済まないからな」

「利子の計算、しておけよ」

 椅子を蹴倒し店を出て行く男達。

 やがて店内には静寂が戻り、軽やかなBGMが虚しく響く。

「あいつら」

 鬼のような形相で彼らが出て行った出口を睨むショウ。

 理由は簡単で、店の中央にあったパスタの盛られていた大皿が全部ひっくり返っていた。

 食べ物を大切にするのは、いい事だとは思うけどね。



 結局男子寮の食堂で、改めて夕食を取る。

 私はサラダとスープだけ。

 ショウはカツ丼と肉うどんを食べている。

 さっき、パスタ食べてたのは誰だったのかな。

「あれ。もう、戻ってきたの」

「俺だって、腹くらい減る」

 ショウとは違い、ラーメンだけをトレイに乗せて私達の前に座るケイ。

 これはこれで、美味しそうだな。

「なんか、具が寂しいね」

「塩バターラーメンコーン抜きネギ多め」

「なに、それ」

「あっさりこってり」

 意味が分からず、またせっかくなので天崎さんから聞いた話を尋ねてみる。

「最近、ドラッグが蔓延してるんだって」

「ふーん」

 返ってきた反応が、これ。

 食事に集中しているショウはともかく、聞こえてるはずのケイは不器用な箸さばきでラーメンを食べている。

「他に感想はないの」

「好きでやってるんだし、とやかく言っても仕方ないだろ。それに、俺達が常用してる訳でもない」

「そうだけどさ」

「いざとなれば警察が乗り込んでくるし、間違いなく内偵も進めてる。誰が蔓延させようとしてるかはともかく、全員こうなる」

 顔の前で手首を揃えるケイ。 

 つまり、逮捕されるという意味か。

 高校生が未成年だとしても、ドラッグに関する刑事罰は厳格。 

 実刑も決して珍しくはなく、最低限退学は免れない。

「……食べないのか」

 飢えたオオカミみたいな顔でケイのどんぶりを睨むショウ。

 ケイはそれを彼の方へ動かし、湯飲みでお茶を飲み始めた。

「調子悪いの?」

「いや。元気は良い。良すぎるくらいに」

 真剣な、普段とはまるで違う鋭い表情。

 調子が良いなら何も気にする必要はなく、むしろ喜ぶくらい。

 でも彼は、彼なりの違う考えを導き出したらしい。

「どうも、調子が良すぎるんだよな」

「何、それ」

「大体は分かってる。ちょっと、病院行ってくる」

「え」



 さすがに放っておく訳にもいかず、彼について病院へとやってくる。

 待合室は意外と混んでいて、季節柄風邪を引いている人が目立つ。

 ケイは待合室の隅で壁にもたれ、腕を組んだままじっとしている。

 体調が悪い訳ではないので待たされても問題は無いが、彼が何のためにここへ訪れたのかが少し気になる。

 病院へ来るという事自体、決して喜ぶような状況ではないのだから。

 何よりここは、彼が斬られた時に担ぎ込まれた場所。

 私にとっても苦い思い出の場所である。

「浦田さん、どうぞ」

 ようやく順番が回ってきたところで、ケイが診察室へと入っていく。

 そこまでついて行く事は出来ないので、待合室で彼の戻りをじっと待つ。

 脳裏をよぎる、あの時の記憶。

 手の平に汗が滲み、喉が激しく渇き出す。

 ソファーから床に伸びている足は微かに震え、視線も定まらない。

「駄目だ」

 軽く頭を振り、ソファーから立って自販機でお茶を買う。 

 じっとしていると悪い事ばかり考えてしまい、重苦しい気分に捉えられてしまう。

 動けばいいという訳でもないが、何もしないよりはましだろう。



 突然待合室に入ってくる、武装したガーディアン達。

 その物々しさに騒然とする中、彼らはまっすぐと診察室へと向かう。

 胸の中に沸き上がる嫌な予感。

 知り合いの顔を見つけ、その子に小声で声を掛ける。

「どうかしたの?」

「警備員が間に合わないので、自分達が呼ばれた。ドラッグを使用してた者がいるらしい」

「その拘束?」

「ああ。暴れてはないが、念のために」

 仲間に呼ばれ、診察室へ入っていく彼。

 ガーディアンが全員中へ入り、待合室にいた生徒達がその入り口に集まってくる。

 不安と好奇心に満ちた、病人や怪我人とは思えない表情。

 しかし彼らの期待に反し堅く閉じられた扉の奥からは物音一つ聞こえない。

 私の鼓動だけが、心の中で鳴り響く中。


 待ったという感覚もないまま、先程のガーディアン達が診察室から揃って出てくる。

 格闘をした様子はなく、暴れた後の殺伐した空気もない。

 ここへ来た時と何一つ変わらない状態に、診察室前に集まっていた生徒達から失望とも安堵感ともとれるため息が漏れる。

 私は一人拳を固め、その間に割って入ろうとする。

「申し訳ありませんが」

 口調は丁寧だが、はっきりと私を制止する先頭を歩いていたガーディアン。

 彼のすぐ後ろ。 

 両腕を後ろに回され、親指に指錠を掛けられている男の子。

 あまりにも物静かで大人しい外見に、周りの生徒達は彼が拘束されたのだとは気付いていない。

 気付いたのは私と、ガーディアン達の間近にいる数名だけ。

 だが彼らが待合室を通り抜けていくに連れ、大勢の人の目に触れるに連れ。 

 自然と明らかになっていく。

 あくまでも静かで、整然とはしているけれど。

 彼らは間違いなく、一人の人間を拘束して連行しているのだと。

「ちょっと、どういう事よ」

 騒ぐのは彼の本意ではなく、人目を余計に引くのも分かっている。

 だけどこのままじっとしていられる心境ではとてもない。

「あくまでも、警備員の代行ですので。それとこの処置は、彼の申し出によるものですから」

「え?」

「詳細に付きましては、警備会社の詰め所でお願いします」



 事務的な対応に反発しつつ、彼らの後に付いていく。

 夜のため学内に生徒は殆ど無く、幸い人目に付く事はあまりない。

 とはいえ医療部でも何人もの人間に見られているし、噂になるのは間違いないだろう。

「ここで、しばらくお待ちを」

 警備会社の詰め所に使われている小さな建物。

 その入り口に入ってすぐのロビーで止められ、ガーディアンが奥へ入っていくのを眺める。

 当たり前だが、拘束されている人間も彼らに連れられていく。

「警察への連絡は」

「もうすぐ来るそうだ。調書は、こっちで取るのか」

「さあな。手錠とスタンガンは用意しておけよ」

 玄関の右手にある、簡素な受付。

 そこに集まっていた警備員が、端末を操作しながら話している。

 聞こえてくる単語は、どれも嫌な言葉ばかり。

 だけど彼らに食ってかかるだけの気力も無い。



 今度は警備員に左右を固められ連行されていく。

 私はその後ろを、黙ってついて行く。

 街灯だけがともる薄暗い学内の通路。

 人目を避けるためと思われる、人気のない狭い通路。

 聞こえるのは自分達の足音だけで、誰一人口を開かない。

「……警察が門の外に来ている。そこで君の身柄を引き渡す」

 事務的に告げる警備員。

 それに対する返事はなく、再び小道には静寂が戻る。


 気付けば塀に突き当たり、先導していた警備員が小さな非常用のドアを静かに開けた。 外に見える人影のシルエット。

 その後ろを車のヘッドライトが通り過ぎ、彼らの示した警察のIDがはっきりとこの目に焼き付く。

「氏名は浦田珪。住所は熱田区白鳥・草薙高校男子寮内。年齢16歳。IDと診断書はこちらです」

「確かに。浦田君、こちらに」

 低い声で手招きするスーツ姿の男性。

 私服の警官か、よく見ればドアの死角になる位置にも何人かの人影が隠れている。

「友達、かな」

「え、ええ」

 不意に私へ話を振ってくる男性。 

 彼はケイの指錠を確認し、それを薬品のスプレーで溶かして解錠させた。

 しかし安心したのもつかの間、改めて見たことのない大きな指錠で彼を拘束する。

「勘違いされると困るけど。これは、暴れた時に対する処置だから。今回に付いても任意同行で、逮捕ではないからね」

「でも」

「明日には帰る事が出来る。連絡があるなら、熱田署の生活安全課に。おい」

「は」

 ケイの左右を囲み、白いワゴンに彼を乗せる若い男性達。

 それに対して彼は少しも抵抗せず、黙って車に乗り込んでいく。

 私と視線を合わせる事もなく、言葉も残さずに。

 車が動きだし、遠ざかる。

 振り返る事も、何かを訴える事もなく。

 彼は私の前から、姿を消した。



 どうしようか迷ったが、結局その日にはサトミ達には連絡しなかった。

 変に心配させても良くないし、彼自身それを求めていなく無いかもしれないので。

 結果として胸の中に憂鬱な気分がたまっていく事となる。

 布団に入っても眠りについては目が覚め、眠りについては目が覚めるの繰り返し。

 眠りについたのは外が白みかけた朝方で、それでもいつもより早く目が覚めた。

 さすがに学校へ行く気にもならず、ベッドサイドに座ってお茶だけを飲む。

 端末を何度も確かめるが連絡は無い。

 彼がそういう柄ではないと分かっていても、気持ちがどうしても収まらない。

 結局早朝からサトミに連絡を取り、マグカップから漂う湯気をじっと眺める。


「どうかしたの」

 眠そうに部屋へ入ってくる、青いパジャマ姿のサトミ。

 普段の気まぐれが始まったという顔で彼女はベッドサイドに座るが、私の話を聞いて顔色を変える。

「診断書は?」

「私は持ってない。医療部か、警察に行かないと」

「それは守秘義務があるから、見られないと思う。モトは」

「サトミの後に連絡したけど。眠いから、少し後で来るって」

 微かに頷き口元を抑えて視線を伏せるサトミ。

 私はこれ以上何も言いたくなく、この部屋にも沈黙が訪れる。



 少ししてやってきたモトちゃんも、サトミと同じような反応。

 実際黙る以外に反応のしようがなく、実際私達には何も出来ない。

 これが学内やプライベートでのトラブルなら、いくらでも考えようはあるし手の打ちようもあるだろう。

 だけど今回は、警察に連行されている。

 すでに高校生の手に余る問題で、自分達には何一つやれる事はない。

「任意だし、帰っては来るんでしょ」

 ようやく口を開くモトちゃん。

 彼女に対して頷き、すっかり冷めたお茶をテーブルに戻す。

「連絡は、無し?」

「全く」

「待って。……あの男、もう帰ってきてるんじゃない」

 舌を鳴らし、私の端末を手に取るサトミ。

 彼女は慣れた手付きでボタンを操作し、ケイのアドレスをコールした。

「……出たわ」

 口元に手を当てるサトミ。

 少しだけ表情が緩んだ所から見て、相手は警察ではなくケイ本人らしい。

「今は、寮?……警察ではないのね。……分かった。……馬鹿じゃない」

 サトミは端末をテーブルに放り、ため息をついて頭を抑えた。

 苛立ちは感じ取れるが、表情は少し緩んでいる。

「逮捕でもないし、あくまでも話を聞いただけみたいね。この先逮捕される事もないそうよ」

「なんだ」

 大きく息をつき、ベッドに倒れ込む。

 一気に疲れてきたというか、眠気が襲ってきた。

 しかし決して意識は薄れてこない。

「症状というか、状態はどうなの?」

「常用ではないと判断されたから釈放されたのよ。泳がせるにも小物過ぎるし」

 ようやくの軽口。

 気付けばモトちゃんは布団に埋まり、寝息を立てている。

「でも、どうして」

「そこまでは私にも分からないわよ。ねえ」

「え?その申請書は今すぐでしょ。……だから、それは去年もやったじゃない」

 何か反論しているモトちゃん。

 反論したい内容はまるで不明だし、緊迫感が一気に緩んだ。

「この子は放っておきましょ。昨日も徹夜に近かったし。寮に行く?」

「行く」



 パーカーとジーンズに着替え、男子寮へとやってくる。

 中に入るまでもなく、玄関前のロータリーに男の子が立っていた。

 彼はこちらを見ると軽く手を挙げ、眠そうにあくびをする。

「帰ってきたって言っても、日付は越えてたんだよ」 

 言い訳っぽく告げるケイ。

 すでに登校時間は大幅に過ぎていて、寮を出入りする生徒はまばら。

 とはいえその少ない人間の何人かは、露骨にこちらを眺めてくる。

「もう、噂になってるじゃない」 

 鼻で笑うサトミ。

 しかし気楽そうな言葉とは裏腹に、彼らを見返す視線は刺すように鋭い。

「医療部でも見られたし、ガーディアンに連行もされたし。号外でも出るんじゃないのか」

「馬鹿じゃない。それで、どこで手に入れたの、ドラッグは」

「何かに混ぜられたっぽいな。医療部の話だと、検知出来るか出来ないかの量って言うから。それも、非合法すれすれっていう軽い奴が」

「だから、停学っていう訳?

 サトミの確かめるような問いかけに頷くケイ。

 ただこれも、ある程度は予想していた事態。

 今回の出来事が故意でなかったとしても、ドラッグの使用はそれだけ重い罪である。

「治療プログラムもあるし警察から監視も受けるし。正直学校どころの話じゃない」

「大丈夫なの」

「人の心配するより、自分の心配してくれ。俺と知り合いってだけで、かなり白い目で見られるから」

 その落ち着いた顔に浮かぶ、微かな後悔の念。 

 他人を巻き込む事を嫌う彼にとっては、最も辛い状態なのかもしれない。

 自分からドラッグが検出された事よりも、私達にまで類が及ぶのは。

「そういう訳で、病院に行ってくる」

「一人で平気?」

「カウンセリング受けるだけさ」

 話は終わったとばかりに手を振るケイ。

 聞きたい事や言いたい事はどれだけでもあるが、今は彼の意思を尊重するしかない。

「余計な事は、しなくていいわよ」

 声を潜め、険しい物腰でそう釘を刺すサトミ。 

 ケイは改めて手を振り、彼女に帰るよう促した。

「ユウ、行きましょ」

「あ、うん。じゃ、またね」



 予想もしなかった事態。

 あくまでも他人事であり、自分には一生縁がないと思っていた。

 でも私はそれをこの目で確かめ、現実だと十分に理解している。

 誰が否定しようとどう理屈を付けようと、彼からドラッグが検出されたのは。

 その理由、その意味。自分に何が出来るのか。

 一つとして考えは思い浮かばない。

 今のこの事実。

 叫びたくなるような重苦しさに絶えるだけで精一杯の自分には。






 







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ