エピソード(外伝) 28 ~玲阿風成視点・RAS(レイアンスピリッツ)トーナメント編~
誰のために
鼻先を正確に捉える、鋭いジャブ。
カッとなった相手が飛び込んで来たところを、引き戻した腕を畳んでの肘で迎え討つ。
そこにローで追い討ちを掛け、あっけなく勝負は終わる。
「また、見てるんですか」
苦笑気味に声を掛けてくる親父。
俺が見ていたのは、おじさんが10年前に出場したRASのオープントーナメント。
玲阿流が10年間出場禁止となった理由が分かる、あまりにも圧倒的な実力差。
トリッキーな事や、特別な技を出している訳ではない。
だからこそ、おじさんの強さがより強調される。
「親父は、なんで出なかったんだ」
「そういうタイプではないですし、二人出ても仕方ないでしょう」
首を振り、ソファーへゆっくりと座る親父。
外国人にも負けない程の立派な体格だが、一つ一つの動きに無駄は無く時には気配すら感じさせない。
それは情報将校という過去から来ているのか、本人の資質なのかまでは分からない。
「あまり褒められた事でもないですしね。主催者側の人間が出ると、八百長だと騒ぐ人もいますし」
「だからって、こんな機会は滅多に無いだろ」
トーナメントに出場するのは、RASの選手だけではない。
他の総合格闘技団体は勿論、空手、柔道、ボクシング。
普段それらの選手のトップクラスと戦う事などまずあり得なく、この大会に出るのは俺にとって一つの夢でもあった。
「流衣さんは、まだ怒ってますか」
「怒るも何も、口もきいてくれない」
思わずため息を付き、ソファーに寝転ぶ。
あいつが怒る理由は、言うまでも無く俺の体を気遣っての事。
それが痛い程分かるからこそ、気分が滅入る。
結局は試合に出るのを優先してしまった、自分の馬鹿さ加減に。
「ため息を付いても仕方ありません。仮にも玲阿流として出場するんですし、それなりの成績は残してもらわないと」
「どんな成績だよ」
「優勝以外にあり得ません。道場へ行きましょうか」
玲阿流に決まった胴着は無く、動きやすい服装なら何でも自由。
俺はTシャツとショートパンツ、親父も似たような格好。
一応オープンフィンガーのグローブと、エルボーパットを確認して道場の真ん中で親子向き合う。
「では」
軽く伸びてくる拳。
それに自分の拳を添え、さらに前へ出す。
卑怯だとか礼儀に反するという言葉は玲阿流に存在せず、勝つ事。
さらに言うならば、相手を殺すのが目的とされる。
玲阿流に理念無しとは他流派からよく非難されるが、少なくとも俺は他流試合で送れを取った経験は無い。
「くっ」
攻めても攻めても受け流す親父。
リズムを変え、フェイントを交え、緩急をつけ。
それでもまともに当たったのは、一発も無い。
逆に向こうからの攻めは、俺を徐々に追い込んでいく。
死角からの、急所を突く正確な打撃。
俺のフォームを完全に把握した、弱点を攻める動き。
例えるなら巨木へ素手で立ち向かっているような心境で、全くいいようにあしらわれている。
ただ昔はかすりもしなかったから、親父に攻めさせる程度は進歩しているのだろう。
なんとも後ろ向きな、情けない進捗状況ではあるが。
「ここまで。試合前に怪我をしても困りますからね」
軽く手を上げて、動きを制する親父。
ここで不意を突いても問題は無いが、そういう心境にはとてもなれない。
「あー」
「調子は悪くないと思いますが」
「精神的に、ちょっと」
「出場は取りやめても良いんですよ」
「いや。それもちょっと」
好きにしろといわんばかりに笑う親父。
こっちとしては笑い事ではなく、再びため息を付いて道場の畳に転がる。
「寝るな」
耳元を掠めるかかと。
少し位置がずれれば、俺の顔に大穴が空くような一撃。
ため息を付き、四つんばいになってから起き上がる。
「その不抜けた様はなんだ」
「流衣がさ」
愚痴ろうとしたら、俺を踏みつけようとした祖父さんに鬼のような顔で睨まれた。
「お前が試合に出るなどと言うから、流衣の機嫌が悪いぞ」
「だって」
「私まで怒られるし、お前は何を考えてるんだ」
だからって、俺に怒らなくても良いだろう。
なんて口答えをした日には真剣を持ち出すので、腰を低くして祖父さんの前から離れていく。
「どこへ行く」
「さあ、俺もちょっと」
「もういい。少し外で遊んでこい」
俺は子供か。
とはいえ家にこもっていても面白くないので、服を着替えて外に出る。
「ご機嫌はいかがですか」
笑い気味に尋ねてくる水品さん。
結局来たのは、RASのトレーニングセンター。
これでは家にいるのと大差ないが、少なくとも敵はいない。
「いや、どうにも。流衣の機嫌が悪くて」
「自業自得ですね」
何とも素っ気ない発言。
だが返す言葉は見つからず、床に正座して小さくなる。
「だってさ。水品さんだって、出たいと思うだろ」
「面白いメンバーは出場しますけどね。流衣さんを悲しませてまで出る価値はありますか?」
鋭い、本質を突く質問。
やはり答えようはなく、床に転がり丸くなる。
「邪魔なんですが」
「だってさ」
「もういいです。私は練習生を見ますから、大人しくしてて下さいね」
人を見捨てて、練習生の方へ向かう水品さん。
ますます面白くないな。
道場の隅に寝転び、うだうだ過ごす。
何もやる気になれず、それ以前にやる事がない。
「おい」
揺すられる背中。
顔を上げると、四葉が俺を覗き込んでいた。
甘い、思わずため息が漏れそうな顔立ち。
従兄弟ながら、誤解しそうになるな。
色んな意味でため息を付き、それでも壁伝いに起き上がる。
時計を確認すると、大して時間は過ぎていない。
「何しに来たんだ」
「ユウが来たいって言うから」
「こんにちは」
四葉の後ろから可愛らしく出てくる優ちゃん。
体型も顔立ちも小学生と見間違うくらいだが、実力はここの練習生が束になっても敵わないレベル。
しかし、随分味気ない所でのデートだな。
「試合の練習とか良いんですか」
「良いんだ。俺はもう、寝て過ごす」
「最近、ずっとこれなんだ。試合に出るのを止めたらどうだ」
生真面目に諭してくる四葉。
姉である流衣と俺が仲違いしているのが辛いという顔で。
本当に人が良いというか、なんというか。
「試合は出るんだ。でも、流衣がさ」
我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつ、同じ言葉を繰り返す。
本当、誰か何とかしてくれ。
「お前は出ないのか」
「出ません」
怖い顔、今にも食い殺しそうな顔で俺を睨み付ける優ちゃん。
冗談ではなく、冷や汗が吹き出てきた。
「私もショウの時で経験がありますけど、やっぱり面白くは無いですよ。分かってます?」
「はい」
声を小さくして答える俺。
と、四葉。
従兄弟揃って、物悲しいな。
「本当、馬鹿なんだから」
それを言われると、心底辛い。
しかし、試合に出ないという選択肢もあり得ない。
他流試合は普段でも可能だが、トップクラスの選手と戦える機会は皆無。
あってもスパー程度で、真剣勝負とは程遠い。
トレーニングセンターを後にして、家へと戻る。
行く手に見えるコンビニの看板。
水品さんのトレーニングセンターからの帰りに、よく流衣とここへ立ち寄ったのを思い出す。
なんて昔話にする程の古い出来事でもないんだが。
車をコンビニの駐車場へと入れ、そのまま一気に駆け出す。
コンビニの手前に止めてある、黒のRV車。
その前で向かい合っている大勢の男と一人の女。
どう見ても尋常な様子ではなく、何より女の顔には見覚えがある。
いや。見覚えどころか、物心ついた時から俺の心に焼きついている。
武器を取り出す男達。
それに反応して懐に手を入れた所で、事態は急展開を見せる。
柔らかいステップで振り下ろされた木刀をかわし、上体をそらして2撃目もやり過ごす。
華麗な、さながら踊るような動きで男達を軽くあしらっていく流衣。
しかし見入っている場合ではなく、懐から取り出した警棒を投げつけ男の一人の背中に突き立てる。
相手が状況を飲み込めない間に飛び蹴りで割って入り、流衣を背中にかばって腕を横に大きく振る。
即座に俺を中心とした周囲には、何人も寄せ付けない空間が出来上がる。
「ちっ」
突然走り出す車。
中にも人がいて、倒れている連中を見捨てて逃げるつもりらしい。
流衣が俺の車に乗り込んだのを確認し、加速しつつある車と平行して走る。
速度を上げつつ幅を寄せてくる車。
ガードレールとの距離はすでにどれだけも無い。
「よっ」
右へ飛んでガードレールを蹴り、宙に舞う。
そのまま車へと体の向きを変え、サイドミラーの上に飛び乗って手を付かずに側転。
全体重を掛けて、かかとをボンネットの上に叩き落す。
ブーツの底から熱い感覚が伝わり、ボンネットの端からは湯気が上がる。
構わずフロントガラスを蹴り付け、運転手と助手席に乗っていた男を仰け反らせる。
「もういいでしょ。そのくらいで」
破壊された車に追撃を加えようとしたところで、後を追ってきた流衣が静かな口調でたしなめてきた。
仕方なくボンネットから降り、なんとなく気まずさを感じつつ顔を背ける。
「ありがとう」
素っ気無い、ただ俺には何にも代えがたい一言。
思わず小躍りしそうになった所へ、もう一言掛けられる。
「怪我は無い?」
「俺は」
ブーツのせいでやけども無く、かすり傷一つ無い。
コンビニの前で倒した連中や、車の中の連中は知らないが。
「試合は、大丈夫そうね」
「え、それって」
喜びもつかの間、流衣は車のキーを俺に放ると黙って背を向け歩き出した。
「お、おい」
「コンビニに、自分の車を置いてあるの。それと、試合に出るのは今でも反対よ」
遠ざかっていく背中。
崩れていく足元。
歪む景色。
天国から地獄とは、多分こういう時の事を言うんだろう。
試合当日。
必要そうな物をバッグに詰め、ため息を付く。
あれ以来流衣とは口をきいていなく、今日は顔すら見かけてない。
あいつはRASの代表なので会場にはいるだろうが、それはあくまでも仕事のため。
愛想を付かした俺に会うためではない。
「お弁当は?」
ちょこちょこと歩いてくるや、間の抜けた事を言い出すお袋。
体型はかなり小柄だが、薙刀道宗家の長女であり棒を持たせれば俺でもたやすくは近づけない。
親父とは、許婚とも知らずに付き合っていたのんき夫婦でもある。
「運動会じゃないんだ。大体、食欲は無い」
「あなた。今日、朝ご飯はどれだけ食べたの」
どれだけって、覚えてもいない。
大体、食べたっけ。
「食パンを一斤食べたでしょ」
「そうかな」
「もういいから。はい、お弁当」
結局、大きな弁当箱を手渡される。
その気持ちは嬉しいが、ちょっと恥ずかしいというか間違ってないか。
「なんで、弁当なんだよ」
「試合だから、敵に勝つ」
おい。トンカツ入れてないだろうな。
「見ちゃ駄目」
手刀で俺の腕をはたき落とすお袋。
一瞬腕全体が震え、痛みが頭の先まで突き抜けた。
「あのな」
「お昼に開けなさい」
「はいはい」
弁当箱もバッグに入れ、それを担いでリビングを出る。
窓から見える空は、冬の凍てつく寒さを感じさせる薄い雲がたなびいている。
ただ少なくとも、このリビングはぬくもりの中にある。
「頑張ってね」
「ああ」
ナゴヤドームへ車で乗り付け、選手の控え室へと向かう。
その手前。
ドアの所で行く手を遮る大男。
「この先は、関係者以外立ち入り禁止となっています」
「ああ、これ」
ジーンズのポケットからカードを取り出し、それを見せる。
男は端末のような装置にそれを近付け、大仰に頷いた。
「失礼しました。他の選手もいますので、ご了承下さい」
「ああ」
「お連れの方は」
「え、俺一人だけど」
そう答え、大男と見つめ合う。
その間に別な選手がやってきた。
取り巻きを、10人くらい従えて。
「あれ。普通、ああ?」
「トレーナーやスパーリングパートナーの帯同は許可されています」
「ふーん」
そんな事今知った。
というか、何も考えてなかったな。
「後から誰か来るかも知れないけど、それは大丈夫?」
「問題ありません」
「じゃ、頼む」
多分四葉達は来るだろうし、俺にも一応見栄はある。
大勢の選手やトレーナー達で賑わう控え室。
彼等の話し声や息づかいを背で聞きつつ、ソファーに寝転ぶ。
スパーリングの相手もいなければ、やる気もない。
後はさっさと試合をやって、さっさと帰るだけだ。
「……玲阿流。あれが?」
「寝てるぞ」
聞こえてくるささやき声。
それに反応する気力もなく、横たわったままじっとする。
「所詮カビが生えた古武道だろ。相手になるか」
これ見よがしに話している誰か。
今までさんざん聞かされた話で、カビが生えているというのは間違ってない。
ちなみに玲阿流は理念がない分、人を殺すための研鑽を何百年も続けてきた。
つまりはそのカビの分、血まみれの技術が俺の体に流れてもいる。
「ここのRASにしたって、分派だろ。カスばっかりだぜ」
調子に乗ってくる話。
立ち上がるには、まだ早いか。
「代表が玲阿流の人間らしいけど、どうせ八百長でもやるんだろ」
結局話はそっちに向かう。
これも出場すると決めてからさんざん言われた事で、八百長かどうかは試合で判断すればいい。
何か流衣に文句を言いたそうだが、その時は試合前に全てが終わるだけだ。
幸か不幸かそういう事にはならず、選手達の出入りが激しくなる。
そろそろ開会式だが試合が始まるらしい。
開会式だから、流衣も来るのかな。
とりあえず起きあがり、Tシャツに肩からタオルを掛けて控え室を出る。
そこで改めて、さっきの警備に止められる。
「その格好で、参加されるんですか」
「別に裸じゃないぞ」
「TVカメラも入ってますので、あまり目立たない場所でお願いします」
釘を刺された。
RASって、こんなに固かったかな。
試合会場はすでにセレモニーが始まっていて、子供が瓦を割っていた。
観てる分には楽しく、俺もつい笑顔がこぼれる。
人間、あのくらいの時期が一番楽しいのかも知れないな。
深刻な悩みは何もなく、自分は何にでもなれる気がして。
世の中は、幸せな事だけで出来上がっているように思ってた。
年を取れば、良くも悪くも現実を知る。
保身を計り、将来を想定し、物事を計算して行動するようになる。
それ自体は悪くない。
心に感じるわだかまりが何を意味するかはともかく。
子供の演舞が終わり、きびきびとした動きで彼等が通路を戻ってくる。
だるそうに壁へもたれている俺とは正反対の、輝くような笑顔をたたえ。
本当に、俺は何をやってるんだか。
「よろしいですか」
「いつでも」
声と背後からの気配に合わせ、そう答える。
腑抜けていても、殺気などは自然と感づく。
もしくは、虎の気配には。
「初めまして。私は、彼のボディガードを勤めている者です」
天を突くような長身の白人。
その隣には、やはり長身の黒人。
俺が見上げるくらいなので、子供が見ればまさに巨人としか思えないだろう。
「彼って、誰」
「私、です」
彼らに比べるとぎこちない日本語。
甘さと精悍さの絶妙なバランスで整えた顔立ち。
体型的には二人に劣るが、雰囲気はこっちが上。
「カレン・ロドリゲスと申します」
「ああ。前の大会の優勝者。怪我したんだって」
気が乗らないのは流衣の機嫌の悪さもあるが、彼が出場しない事。
いわばメインディッシュの無いディナーコースのようなものだ。
「ここで、軽く良いですか」
「ん、ああ。いいよ」
黒人の申し出に、適当に答える。
血沸き肉踊るといった感慨は薄い。
ここにいる事自体が今は辛く、気分を苛む。
「調子悪いですか」
「いや。そうでもない」
彼を手招きして、組むよう促す。
体型ではかなり後れを取っていて、身体能力もおそらく向こうが遥か上。
お互い正面から肩に手を掛けて、相手と組む。
プロレスラーではないが、これだけでも相手の実力はある程度分かる。
どのジャンルでも、間違いなく世界チャンピオンにはなるレベル。
試合ともなれば、こいつから勝ちを拾うのは相当難しいだろう。
ただそれは、あくまでも試合。
スポーツでの話だ。
「え」
小さく声を出し、膝から床へ崩れる男。
大した事をやった訳ではなく、自分の膝で男の膝の急所を軽く突いただけ。
鍛えて強くなる箇所ではないし、そこを叩かれれば熊でも倒れる。
「お、俺も」
「どうぞ」
今度は白人と組み合い、お互い腕に力を込めていく。
さっきの動きを警戒してか、腰はかなり引け気味。
またリーチが段違いなので、そうされると膝はとても届かない。
腕力に任せ、ぐいぐい俺を押し下げようとする男。
車の一つくらい押しつぶすような勢いで。
「え」
再び上がる小さな声。
今度は鎖骨の辺りを軽く押し、右腕を痺れさせた。
そちら側の力が抜けた所で投げを打ち、柔らかく床へと転がしてみる。
いわゆる正攻法のタイプに有効な手段で、この二人の育ちや戦い方が想像出来る。
日の当たる、真っ当な道を歩んで来たのだと。
やはり警戒すべきは、俺が組み合っている間男達の背中越しに笑っていた虎の方か。
こちらは二人と違い闇の部分を濃く感じる。
無論オープントーナメントに出場するくらいだから経歴は綺麗だろうが、普通な生き方をしてないのも間違いない。
「お邪魔をしても何なので、我々はこの辺で」
「ああ」
「では、御武運を」
「押忍」
深々と頭を下げて去っていく3人。
まさかとは思うが、日本人が変装してるんじゃないだろうな。
控え室に戻り、タオルケットにくるまる。
やる事はないし、知り合いもいない。
何よりやる気が全くない。
「玲阿風成さん、試合の準備をお願いします」
「え、ああ」
タオルケットから顔を出し、ため息を付いて起き上がる。
控え室内は緊迫した空気が張りつめ、気を抜いているのは俺くらい。
とりあえず近くのパイプ椅子に座り、意識を覚醒させる。
そこへ、ようやく四葉や優ちゃんがやってきた。
彼らに少し愚痴って、多少気を楽にする。
「私達、セコンド用のタオルとか買ってきますね」
「ああ、悪い」
「後で行きますから、頑張って」
笑顔で手を振り、四葉と共に出ていく優ちゃん。
それに手を振り返し、のろのろ立ち上がって自分も控え室を出る。
狭く薄暗い廊下。
硬い顔をした選手やトレーナー達。
今日の試合に全てを懸けている者もいるだろう。
俺とは気構え、意気込みからして違う。
ただ、別に自分を卑下するつもりもない。
大切なのは勝つ事であり、悲しいかな努力や背負っている背景は何一つ関係ない。
彼等とは視線を交わす事も無く、廊下を抜けて試合会場にへと躍り出る。
華やかな歓声や拍手。
明るく、目もくらむような照明。
観客席のヒートアップした熱気に煽られ、選手達も自ずと高揚していく。
今は本予選のため、試合は幾つかを同時進行。
人でごった返す会場内を歩いていき、自分の試合場の近くまで来る。
ここでも選手には当然取り巻きがいて、肩を揉んだり水を渡したりと世話を焼いている。
手ぶらでふらふらやって来るのは俺くらいか。
「あーあ」
寝る訳にはいかないがやる事もなく、マット敷きの床に座って試合を見る。
空手対柔道という、典型的な日本武道対決。
どの武道が強い弱いという議論はあまり意味が無く、結局は個人の強さに尽きる。
柔道家が襟を取る動きでアッパーを入れ、空手家がそれに肘を叩き込む。
観てる分には楽しいが、選手達はたまらないだろうな。
結局お互い血反吐を吐き、マットに倒れて両者KOとなった。
本当、泣けてくるぜ。
「間に合ったか」
タオルを首に掛けて現れる四葉。
とりあえずペットボトルを受け取り、水を一口含んで口の中を湿らせる。
「相手は、……あれか」
苦笑する四葉。
その視線を辿り、試合スペースを挟んだ反対側を見る。
小山というか、巨大な肉まんじゅうが汗だくになって張り手を繰り出している。
「大相撲から参戦してるらしい。三役、関脇か」
「アップしすぎだろ」
見てるこっちが暑くなって来るというか、汗を拭けと言いたい。
今なら棄権しても、あまり後悔はしないだろう。
「姉さん、怒ってるだろうな」
ぽつりと漏らす四葉。
試合前に言う事ではないと思うが、こいつはこいつなりに考えて言ったんだと思う。
俺がここにいる意味。
流衣の気持ちを改めて確認するために。
「それはそれだ。さっさと終わって、さっさと帰る」
「さっさと謝った方がいい気もするけど」
「う」
強烈なボディーブローー。
俺のためを思って言ってるんだと思いたい。
始まる試合。
とりあえず汗は拭いてきた肉まんじゅう。
しかし顔には汗が浮かび出していて、どちらにしろ早く終わらせるのが得策か。
にやりと笑う肉まんじゅう。
俺でも見上げるくらいの体型で、策を弄する必要もないという顔。
伸ばしたグローブを強く押し返し、もう一度笑いやがった。
面白い。
ここは一つ、挽肉にしてやるか。
吹き出てくるアドレナリン。
高揚してくる意識。
足の指に力を込め、肉まんじゅうを睨みつつ腰を落とす。
「始め」
おざなりに手を交差させるレフリー。
それと同時にマットを蹴り、ガードも関係なく突進する。
肉まんじゅうの肘や腕が伸びてきても関係ない。
ふざけるなって言うんだ。
肩ごと当たって肉まんじゅうを吹き飛ばし、宙で腹を踏みつけ駆け抜ける。
戻って膝を叩き込もうとしたが、白目を剥いて身動き一つしない。
本当に関脇か、こいつ。
「関脇クラスの実力。幕下の岩力」
なんて垂れ幕が、観客席に下がってた。
おい。
嘘でも良いから、横綱クラスって書けよな。
完全にやる気がなくなった。
それでも試合は行われる。
本当、さっさとやってさっさと帰るか。
「始め」
相手はテコンドーの全日本チャンプ。
細かいステップと小刻みなジャブ。
テコンドーでジャブも珍しいが、一発一発は意外と重め。
当たれば卒倒してもおかしくはなく、肩と足の運びを注視して距離感を計る。
正確に急所を狙って繰り出されるジャブ。
だからこそ逆に狙う箇所は想定しやすく、かわすのもたやすい。
一つ間違えれば卒倒するのはともかくとして。
相手の瞳に宿る、純粋なまでの殺意。
ステップが微妙に変わり、軸足がわずかに開く。
腰が返り、ジャブの速度が一気に増す。
蹴り足が浮きかけたのを確認し、ジャブをかわして前へと出る。
下から首を抱え、突進の勢いのまま相手を引き倒す。
後頭部に蹴りが跳んでくる感覚を意識しながら、腕の力を強めていく。
足の甲が微かに後頭部を捉え、相手の体から力が抜ける。
紙一重でも、勝ちは勝ちだ。
何をやっていたかは、自分でもあまり分かってない気もするが。
今日の試合はこれで終わり。
とりあえず本予選は突破し、決勝トーナメントへの出場も決まった。
優ちゃんの友達も決勝へ進んだらしく、みんなはそっちの方を喜んでいる。
それは勿論喜ばしい事だが、だからといって俺の気分が晴れる訳でもない。
実家のリビングでソファーに寝転び、タオルケットにくるまって丸くなる。
実際は丸くなる程のサイズはなく、手足を軽く引き寄せるだけ。
あくまでも、精神的に。
「よう、ヒーロー」
近くで聞こえる馬鹿笑い。
タオルケットから顔を出すと、瞬叔父さんが腹を抱えて笑っていた。
誰でもない、寝転んだ俺を見下ろして。
「流衣が、角出して怒ってたぞ。どうするよ」
何とも楽しそうな顔ではやし立てる叔父さん。
言うなれば仲間が出来たという態度。
玲阿家には珍しいタイプなんだろう。
俺も、叔父さんも。
「叔父さんは、叔母さんに怒られた?」
「それはお前。怒られるも何も、毎日包丁を研がれてた」
何とも物騒な話。
流衣は幸いそういう真似をしないので、俺はまだ幸せな方か。
「試合が終われば終わればで、他流派の連中も押しかけてくるし。大変だぞ、本当に」
「だけど」
「試合に出たいって気持ちは分かるけどな。俺も、今は後悔してる」
それは、もういいよ。
「四葉を見習え。あいつは試合に出るなんて、一言も言わないぞ」
「そうだけどさ」
「全く、誰に似たんだか」
しみじみ語る叔父さん。
叔母さんもどちらかと言えば強気の性格で、明らかに個人的な部分だろうな。
「出て、何か得した?」
「全然。今言ったように鈴香は怒るは馬鹿は襲って来るはで、良い事なんて何もない。本当、何もないぞ」
改めて言われても困る。
「じゃあ、何で出たんだよ」
「あの時は面白いと思ったんだ。若気の至りって奴だな」
ますます落ち込んできた。
そうなると俺は一体なんだって話になってくる。
「若い内の苦労は買ってでもしろって言う」
「でも、いい事は何も無いんだろ」
「それは間違いない」
一体、何を言いに来たんだか。
庭に出て、芝の上に座り込む。
雲は薄く、風は冷たい。
空気は澄んでいても、気持ちは少しも晴れ渡らない。
「ワン」
吠えながら近付いてくる大犬。
ボルゾイという狩猟犬だが、人なつこく誰に対しても愛想が良い。
とはいえ相手を見る面もあり、俺よりは四葉。
四葉よりも優ちゃんになついているが。
「お前はいつも楽しそうだな」
「ワン」
大口を開けて顔を近付けてくるボルゾイ。
今、食べようとしなかったか?
「この野郎」
脇の下に手を差し入れ、体を強く抱きすくめる。
しかし肩に前足を置かれ、上からのしかかってきやがった。
「くっ」
とてつもない、まさに野生の力。
昨日の試合相手よりも手強いんじゃないのか。
「この野郎」
「女の子よ、その子は」
しっとりと落ち着いた声。
顔を上げると、流衣が醒めた顔で見下ろしていた。
「だってこいつが、俺を食べようと」
「食べないわよ」
一言で終わらせる流衣。
ボルゾイは俺から離れ、彼女の足元で丸くなった。
「何してるの」
「何って、それは」
流衣に相手にされなくて黄昏れてた。
などと言える訳もなく、芝生に寝転がり空を見上げる。
相変わらず空は澄んでいるが、俺の気持ちは荒む一方だ。
「ナー」
野太い声を出し、腹の上に乗ってくるヤマネコ。
明らかに肉食だし、食べるとしたらこっちの方か。
「これも、昔は可愛かったのにな」
「今は違うの?」
怖い声を出す流衣。
今の自分とヤマネコを掛けたと思ったらしい。
「さあな」
ヤマネコを背負い、そのまま縁側へと上がる。
外で寝るには寒い季節で、いくら俺でも風邪を引く。
ガラス窓を閉め、日に当たりながら横になる。
今はヤマネコも大人しく、クッションの上で丸くなっている。
しかしいまいちリラックス出来ないのは、背中に視線を感じるから。
流衣は何も言わず、だけどリビングから俺の様子を窺っている。
「なんだよ」
「別に」
思わず尋ねてしまったが、返事は素っ気ないもの。
またこう言われては、話の続けようがない。
「時計は」
不意に話を振ってくる流衣。
腕時計はしてないし、壁の時計は正確に時刻を刻んでいる。
ただ時計という言葉には、時を告げる以外の意味もある。
少なくとも、俺達にとっては。
「覚えてる?」
改めて尋ねてくる流衣。
醒めた表情の奥に、微かに宿る暖かさ。
言われなくても忘れる訳はなく、居間でも寝室の枕元にはその時計が置いてある。
簡素な、アラーム付きの置き時計。
装飾がされている訳でも、アラーム以外の機能が付いている訳でもない。
本当に時間を刻むだけの黄色い時計。
俺にとっては、何にも代え難い時計。
流衣の父親である瞬叔父さんが破門になり、セキュリティコンサルタントの仕事に就き始めた頃。
報復を避けるために叔母さんと流衣が、この家に住む事となった。
戦争で英雄となったが非難も多く浴びた事や、破門になった事で風当たりが強くなったのも理由だと思う。
身内は何も気にしなかったが、叔母さんは肩身の狭い思いをしていた。
その子供である流衣も同様に。
家の中は問題ない。
だけど外に出れば、見ず知らずの連中からもある事無い事を言われていた。
二人はそんな生活を強いられ、耐えていた。
可愛い従兄弟。
俺の流衣に対する印象は、その程度だった。
それが少しずつ変わり、流衣の表情には憂いが宿り口数も少なくなっていった。
胸の奥が痛くなるような、苦しくなるような思い。
どうすればそれが解決するのか。
結論に至るまでには、大して時間は掛からなかった。
来る者は、誰だろうと倒していった。
大人だろうと軍人だろうと、誰だろうと。
流衣を守るために。
ただ、そのためだけに。
少々やりすぎて、短い間ではあったが病院に入院をした。
見舞いに来た流衣が持ってきたのは、花と時計。
意味は全く分からず、時間を知るには端末さえあればいい。
「家の時計と、同じ時間」
流衣はそう告げて、病室を出て行った。
時間も何も、端末の時計なら毎時に時間のずれを調整する。
現に流衣が持ってきた時計の時間は、少し遅れていた。
端末を見ながら直そうと思った時、その言葉を思い出した。
「同じ時間」
そう。同じ時間。
この時計は、家と同じ時間を刻んでいる。
そして家には流衣がいる。
流衣もまた、この時と同じ時間を過ごしている。
一旦壊しかけたが、時計は今も時を刻む。
「時計だろ。覚えてるさ」
「そう」
素っ気なく呟き、きびすを返して去っていく流衣。
結局何が言いたかったのかは分からず、聞きに行く度胸もない。
一気に疲れが溜まってきたな。
数日後。
ついに決勝トーナメントが開催される。
トーナメントと言っても、予選は終わってるので後は数回勝てばいいだけ。。
たださすがに演出は凝っていて、試合も一試合ずつ行われる。
派手な入場曲やスポットライト。
観客達はボルテージを上げっぱなしで、選手達は逆に緊張を高めていく。
その分アドレナリンが吹き出る訳で、決して悪い事ではない。
俺はアドレナリンの欠片も感じられないが。
「始め」
唐突に始まる試合。
いつリングに上がったのか、いつここまで来たのかの記憶が飛んでいる。
顔を上げると、目の前には均整の取れた大男が構えを取っていた。
観客席からは悲鳴にも似た歓声が聞こえ、強烈なライトが降り注ぐ。
ボクシング、キック系の動き。
そう思った途端、姿勢を低くして足元へ飛び込んできた。
軽く跳んでそれをかわし、上から首筋に肘を落とす。
それきり相手は動かなくなり、代わりに担架がやってきた。
普通に打撃で来れば良かったのに、策を弄したのが失敗だな。
どちらにしろ、これで残すは決勝のみ。
早く終わらせて、さっさと帰るか。
閑散とした控え室。
あれだけいた選手やトレーナー達はどこにも見当たらず、今は俺が寝ているだけ。
決勝に出場出来た者だけが味わえる特権でもあるが、優越感に浸る程の感慨もない。
「まだ寝るのか」
「寝るよ」
唯一残っている四葉に、そう答える。
他のみんなは、優ちゃんの友達のセコンドへ付いている。
俺は一人ここで丸くなる。
「水無いな。ちょっと買ってくる」
「逃げるのか」
「あのな。すぐ戻るから」
駄目な子供をあやすような台詞を言い残し、控え室を出て行く四葉。
こうなると完全に俺一人。
とはいえ今更気にしても仕方なく、いてもいなくても寝るだけの話。
微かなドアの開く音。
四葉とは異なる、若干すり足気味の足音。
気配を消しているつもりらしいが、かなり雑。
一人、二人、三人か。
ソファーの周りを囲み、意思確認をしている様子。
この前流衣を襲った連中と同系列か、今回の試合関係者が。
決勝相手の関係者が一番有力かもしれないな。
「な」
スタンガンが押しつけられる前に床へ転がり、ソファーの下へと潜り込む。
そこヘスタンガンや木刀が降ってくるが、当然俺には触れる事もない。
ソファーの下から足を振り、見えている足を全部刈る。
さらにソファーを担ぎ上げ、視界に入った男めがけて放り投げる。
「誰だ、お前ら」
質問するが、返事無し。
全員気を失っていた。
「買ってきた。……なんだ、これ」
ペットボトル片手に、もっともな感想を漏らす四葉。
とりあえずペットボトルを受け取り、一口含む。
「分からん」
「相手の妨害かな」
「どうでもいいさ」
一気に興味が無くなった。
元々モチベーションが下がっていたところへこの仕打ち。
綺麗ごとを言うつもりもないが、試合以外でのこういった事は馬鹿馬鹿しいの一言に尽きる。
いっそ棄権した方がいいのかと思ったくらいだ。
「大丈夫なのか」
「ああ。さっさとやってさっさと帰る」
「その方が良いのかな」
裏返っているソファーを直し、ため息を付く四葉。
俺以上に正義心の強い奴で、それこそ相手の本部なり道場に殴り込みかねないタイプ。
そうしないだけの自制心も、当然持ち合わせてはいるが。
「本当、俺はどうしてここにいるのかな」
「何だよ、今更」
「本当だよな」
何もかもがぐずぐずというか、下らない。
試合相手は初めから腰が引けていて、裏では馬鹿げた策を仕掛けてくる。
もっと純粋に、戦いだけを追い求めてる奴が来てると思ってた。
それがこの様とは、ここにいる意味すら無い。
派手な入場テーマとスポットライト。
リングまでの通路を囲む観客席からは色んな声が飛んでくるが、聞こえないし反応したくもない。
後悔するとは叔父さんから何度も聞かされたが、本当先に立たずとは良く言ったものだ。
それでもリングに上がり、体を解してエルボーパットやグローブを確認する。
「選手は中央へ」
ため息を付き、リングの中央へ進み出る。
相手は大柄な男。
雰囲気や体格からして、柔道か柔術。
なんか、RASに文句を付けてる奴だったかな。
「お互いに敬意を示し、全力を尽くすように」
レフリーが話す、おざなりなコメント。
それへ適当に頷き、グローブを合わせる。
「強いんだってな、玲阿流って」
「あ?」
「前の戦争の英雄なんだろ、親父も叔父さんも」
無遠慮に話しかけてくる相手。
しかしレフリーはそれを制止せず、TV関係者と何やら話している。
仲間か、こいつら。
「楽しみだぜ。そういう人間とやれて」
「何が言いたい」
「人殺しの子供を殺しても、誰も困らないだろ」
そっちの話か。
何を今更というか、この手の事は聞き飽きている。
親父達が人殺しなのは否定しないし、それは本人達が一番分かっている。
俺自身、その血を継いでいる事も。
「レフリーは止めないからな。TV放送付きの、公開処刑だ」
グローブの中に見える細い刃物。
チェックの段階でレフリーは気付いているはずだが、男の言葉通りという訳か。
決勝だし、このくらいのイベントが合っても良いだろう。
というか、ナイフくらいで逃げ出すようなら俺はここまで困ってない。
「では、両者コーナーへ」
軽く水を含み、ため息を付く。
茶番と策謀か。
RASが主体でやればいいのに、外部の人間を運営に入れすぎたな。
不用意な批判は受けないだろうけど、こういう問題は起きている。
今更、どうでも良い話だが。
「大丈夫だろうな」
不安げに声を掛けてくる四葉。
心配が必要な相手ではないが、それとも俺が余程頼りなく見えているのかもしれない。
「すぐ終わる、すぐ。荷物片付けろよ」
「おい、まだ終わってないぞ」
「え。ああ、そうか。あれ、みんないつの間に?」
「おい」
少し怖い声を出す四葉。
リングサイドに集まっている優ちゃん達は苦笑して、私達に手を振っている。
そういえば、通路を一緒に歩いてきた気もするな。
どちらにしろ、流衣はいないんだけど。
「なんだよ」
「流衣がさ」
「もういい。それと」
「ナイフだろ。分かってるよ」
物言いたげな四葉を下がらせ、振り返って相手と向き合う。
照明が眩しいな。
「おい」
「え、ああ。これって決勝だったか」
「もういい、好きにしてくれ」
無慈悲な言葉。
そのくらい、教えてくれても良いだろう。
鳴らされるゴング。
地鳴りのような歓声。
相変わらず照明は眩しく、さっきまで見えなかった観客席がよく見える。
突進してくる相手。
だけど意識は、ここにはない。
2階席の奥。
通路の出入り口の脇。
腕を組み、壁に背を持たれている人影。
小さく振られる手。
少し緩む口元。
仕方なさそうな笑顔。
流衣は、俺に向かってもう一度手を振った。
「うおーっ」
両手を挙げて、感情を爆発させる。
アドレナリンが吹き出てきて、今なら山でも叩き割れるくらいの気分。
相手が何をしようと、何を持ってようと関係ない。
目の前に立ちふさがる者は叩きのめす。
しかし、どこを見ても相手がいない。
ゴングが鳴った記憶はあるが、勘違いだろうか。
「四葉、相手は」
「何の話」
歓声越しに聞こえる素っ気無い声。
こんなに愛想の無い奴だったかな。
「え、試合の相手だぞ」
仏頂面で指差されるマット。
そこに横たわる、どこかで見た顔。
「あれ」
「知らんぞ、俺は」
ため息を付き、リングサイドから降りる四葉。
変わってレフリーが俺の勝利を告げ、TVカメラとインタビュアーがやってくる。
「それでは、RASヘビー級を制しました玲阿選手にお話をお聞きします。最後は、すごいアッパーでしたね」
「え」
「あのカウンターは狙ってたんですか」
興奮気味のインタビュアー。
その後ろにいる水品さんは、呆れたをして俯いている。
叫んだ時両手を上げたから、多分それが相手の顎を偶然捉えたんだろう。
「いや、どうかな。タイミングが良かっただけで」
「これで玲阿流の強さが改めて証明されたと思いますが、今後の予定は」
当然出てくるだろう質問。
一気にボルテージの上がる観客達。
だが、俺の瞳に映るのは流衣ただ一人。
「今回は周りに支えられてやっと勝てたようなものだし、RASの経営もあるからそっちに専念します」
「惜しいですね、非常に」
「いや。俺よりも良い選手はいくらでもいるから」
リングサイド下に見える、幾つもの笑顔。
その中の一つ。
華奢で、あどけなさを残す可愛らしい一人の少年。
これからの格闘技界を背負っていくだろう逸材。
彼の光り輝く道への第一歩は、今日始まった。
「では、この勝利をどなたに伝えたいですか」
「俺を支えてくれた家族や友人」
リングサイドに手を振り、四葉達に感謝の気持ちを伝える。
あの精神状態で勝ち上がってこれたのは、日々の鍛錬よりも彼らがいたから。
俺を見捨てないでいてくれたから。
視線を上げ、軽く拳を掲げる。
席を埋め尽くす大勢の観客。
試合会場にいる選手やトレーナ達。
惜しみなく注がれる、歓声と拍手。
だが、それに応える意味ではない。
俺の瞳に映っているのは、ただ一人だけ。
今も、昔も。これからも。
流衣だけだから。
玲阿家本宅。
静まり返った道場。
蛍光灯の明かりを引き裂く強烈なジャブ。
前チャンプは不敵に微笑み、俺に向かって一礼した。
試合の時も思ったが、当たればの話。
鉄砲の弾でも、当たらなければ意味が無い。
つまりは、当たればどうなるかは言うまでも無い。
「怪我してるんじゃないのか」
「スパーリング程度ですよ」
右膝のサポーターと、若干鈍い右足の動き。
フェイクでは無く、またその理由もあまりない。
道場にいるのは、玲阿流一門。
前チャンプのボディーガード。
後は優ちゃんと柳君。
これだけの相手。
見ているだけでも学ぶ分は多く、またそれを吸収し生かす事が出来る子達だ。
「奥さんは?」
「ケンカは嫌いでね。ここには来ない」
おざなりに答え、素手を何度か握り返す。
グローブもなければルールもない。
だからこそ体中の血が沸騰するような、強烈な高揚感を味わえる。
流衣が怒るのも無理ないな。
不意に鼻先を通り過ぎるつま先。
当てる気は無いが、当たってもおかしくない一撃。
顔を軽く撫で、過ぎていった風圧の感覚を確かめる。
卑怯なんて言葉は何の意味も持たず、勝者だけが発言する事を許される世界。
体中の細胞が活性化し、その一つ一つが戦う意志を備えていく。
戦うべき相手は、目の前にいる前チャンプ。
だがそれは、経緯であり結果にすぎない。
俺の力はただ一つ。
流衣を守る。
そのためだけに研ぎ澄まされているのだから。
了
エピソード 28 あとがき
何というのか、結局は彼女のために戦ってたんですね。
本当、お疲れ様でした。
風成はショウから見て、従兄弟。
伯父さんの息子。
流衣はショウから見て、姉。
二人は従兄弟同士で、作中にもある通り子供の頃は一緒に住んでました。
恋愛ゲームみたいな設定ですが、その辺りはご了承を。
彼はRASの経営にも関わっていて、軍には入隊していません。
これこそ、流衣が望まなかったんだと思います。
ちなみに玲阿家は、先祖代々軍人の英雄を排出してきた家系。
ショウから見ての曾祖父は、おそらく中国東北部~シベリアでの戦闘経験がある軍曹。
祖父は、琉球クーデターを鎮圧した大佐。少将になったのは、除隊前です。
父はシベリア戦線、伯父はヨーロッパ戦線で活躍した英雄。
ただし彼等は全員現場レベルでの英雄で、名指揮官や参謀ではありません。
ショウはどんな道を進むのかは、この先の話。
すでに腹案はありますが、それはまたいずれ。
風成は、ショウにとっての兄的存在。
実際今は、義兄ですし。
お父さんが従軍していたりセキュリティコンサルタントの仕事で留守がちだったため、彼の背中を見て育った面もあります。
性格は似なかったというか、学ばなかったようですが。
彼については、自治制度確立編でメインとなります。
話数としては、第46話ですね。




