エピソード(外伝) 4ー3 ~丹下沙紀視点~
過去と現在と
後編
「さーきちゃん」
「わっ」
急に後ろから抱きつかれた私は、肘を廻しその人のあごを……。
「ちょ、ちょっと」
鼻先で止まった肘をくすぐる映未さん。
「あ、済みませんっ」
「いいのいいの」
ブローした前髪をかき上げ、元気良く笑ってくれる。
「また髪型変えたんですか」
「いいじゃないよ。沙紀ちゃんも、ポニーテールだけじゃ面白くないでしょ」
「結ぶだけだから、楽なんです」
「もったいないわね」
胸元が覗きそうなニットシャツを撫で、私の前に座る。
今私達がいるのはラウンジで、授業中のためか他の生徒は誰もいない。
「さぼってたら駄目じゃない。隊長はオフィスに詰めているべしって、浦田君に言われなかった?」
「軽い息抜きというところで。それに映未さんだって、オフィスに詰めていないと」
「いいのいいの。最近みんな仕事出来るようになって、私はもう用済みだから」
彼女達の指導により、確かにDブロックの生徒会ガーディアンズはかなり鍛え上げられてきた。
今では私達が指示しなくても、自分の判断で各個が行動出来るようになってきている。
それによる結果がどうあれ、自分の責任において。
実力は自信につながり、その志をも高くする。
舞地さん達の要求は決してたやすい事では無かったけど、彼等はそれに十分応えた。
そして私は彼等を導く立場として、それに負けないだけの働きをしたいと思っている。
「聞いてるわよ。格好良い男の子が言い寄って来てるって」
むふっと笑い、私の顔を指さしてくる映未さん。
「ええ、まあ。でも私は……」
「いまいち踏ん切れないって?昔は昔、今は今。思い出にとらわれるより、今の気持を大切にすればいいじゃない」
「今の気持って?」
「その人がまだ好きなら、付き合ってみるのも私は悪くないと思うわ」
屈託のない明るい笑顔。
彼女の特徴と言っていい、艶を含んだ下がり気味の大きな瞳。
それが真っ直ぐ、私へと向けられる。
「……映未さんって、大人なんですね」
「自分の幸せや気持ちを大事にしたいだけよ。何が良くて何が悪いかなんて、結局は自分自身の判断なんだから」
「ええ」
「……振られた事を気にするのは当然よ。でも沙紀ちゃんがまだ彼の事を好きなら、その気持ちを否定しなくてもいいと思う」
ゆっくりと、諭すように語りかけてくる。
映未さんは物憂げに腕を組み、微かに視線を伏せた。
「私はね。どんな事にも意味があるって思ってる。空き地に落ちてる小石は、子供の大切な宝物。ひび割れた道路の隙間は、草花のちょっとした宿る場所。読み古した雑誌は、何年か後には思い出の留まる品になってる……」
暖かな声で、滔々と語り上げる映未さん。
その情景が目の前に浮かぶと言うよりは、彼女の心を受け止めているような感じ。
彼女が感じた世界を、その視線で私が見ているような。
「……あなたがその彼と再会したのも、彼があなたに告白してきた事も。それだって、きっとあなたには何かの意味があるはずだと思う」
「昔の自分が望んでいた夢、彼と付き合えるという夢が叶うって事ですか」
「そうかもしれない。それとも、今の沙紀ちゃんが気付いてないだけかも」
「気付いていない……」
口元を押さえ、その言葉を心の中で繰り返す。
描かれるのは昔の自分。
木村君を追い続けていた、楽しかったあの日々。
ガーディアンの仕事を休み、遅くまで学校に残り、ただ彼を見続けていた。
時折、ほんの時折掛けてくれる言葉が何よりも嬉しかった。
体がわずかに触れただけで、その日は目が冴えて眠れなかった。
彼の笑顔が、彼の声が、彼の仕草が私の全てだった。
あの雨の日、彼から離れたあの日の後も。
私は彼を、どこかで想っていた。
この間再会した時、それに気付かされた。
いや、忘れようとしていただけだ。
彼への思いを、好きだという何物にも代え難い思いを……。
顔を上げると、いつの間にか舞地さんも前に座っていた。
「あ、あれ。いつからそこに」
「かなり前から。悩める少女を見させてもらってる」
優しい慈しむような微笑み。
私の事を考えてくれている、見守ってくれている。
時に厳しく、時に暖かく、時に冗談めかして。
もし姉と呼べる人が私にいたならば、こうあって欲しいと思えるように。
「映未から話は聞いてる。いいな、もてる女の子は」
普段よりも軽い口調。
トレードマークのキャップを取り、束ねた髪を撫でる。
凛とした顔が、今は和らいで私を見つめている。
「そんな。もてるとかそんなのじゃなくて、私はただ」
「照れなくてもいい。そういう淡い気持なんて、私はもうどこかへ置いていった気がする」
苦笑する舞地さん。
映未さんが、そんな彼女の手をそっと握る。
「私達は一箇所に長い事いられなかったから、常に別れの連続だった。例え恋人でも、友達でも。あの時あそこに残っていればなんて、何度思ったか」
寂しげな表情は浮かばない。
過ぎた過去を振り返る、澄んだ眼差しだけがそこにはあった。
「それでも私達は、全国を渡り歩いている。辛くて悲しい最後があると分かっていても。自分を求めてくれる人がいる限り、私はそれを止められない」
「何も、そこまで深刻にならなくてもいいと思うけど」
くすくす笑う映未さんの顔を、舞地さんが覗き込む。
「思い詰めた顔で、私の後を追ってきたのは誰だった?絵を描きたいって叫んでいたのは、誰だった?」
「へぇ。映未さんの意外な過去を知ってしまった」
「違うわよ。私は格好いい男の子を求めて、全国を回ってるの。そんな、夢見がちな乙女じゃあるまいし。絵を描くための放浪の旅だなんて……」
拗ねたような、子供っぽい表情。
そして彼女の語尾に、いつもの自信はない。
「名雲にも、全国を渡り歩いてるのはそれなりに理由がある」
「柳君はどうなんです」
「司は、……聞かないでやってくれるかな。そこは、あの子の弱い部分だから」
「いつも笑顔の彼だって、やっぱり悩みを抱えてるのよ。その裏返しかもね、あの笑顔は」
私は小さく頷き、二人の言葉を胸に納めた。
この間の翳りある表情が、その「弱い部分」なのだろう。
「舞地さんも、聞いたらまずいんですか?」
「特に理由はない。映未達だけだと何をするか分からないから、その監視」
「失礼ね。私が後を追ったら、嬉しそうな顔したのはどこの誰よ」
「忘れた、そんな古い話は」
今度は、舞地さんが照れた顔をする。
きっと4人とも色々な過去があって、それでもこうして頑張っている。
普段は感じない、彼女達の影の部分。
私や浦田にもある、心の奥にしまっている、そして決して忘れられない……。
「それで、丹下に言い寄ってきてるのはどんな子なんだ」
女の子っといった顔で映未さんに顔を寄せる舞地さん。
この人は本当に、見た目程クールではない。
「これよ、これ」
端末から疑似ディスプレイが現れ、木村君のシュートシーンが再現される。
彼女達が持っている端末は、私達が使っている物など比べ物にならない高性能だ。
と、感心している場合でもない。
「ちょ、ちょっと映未さん。いつこんなビデオ手に入れたの?」
「ほほ、内緒。どう、真理依」
「……悪くない。ただ、多少目立ち過ぎかな。丹下の前だから、あまり言いたくはないが」
殆ど言っているような物だ。
「友達にも、同じ様な事言われました」
「見る目あるな、その子は。映像と実物は違うから、私の言った事は気にしなくてもいい」
「それが、映像も実物も同じなのよ。女の子にだらしないったら」
映像が切り替わり、大勢の女の子に囲まれているシーンになる。
にやけているならまだましだが、それを当然と思っているような顔である。
「少し調べさせてもらったの。無茶はしないみたいだけど、評判はそんなに良くないわね」
「それでも、私が好きなら付き合っていいんですか?」
「言ったでしょ、自分で判断しなさいって。自分の気持ちを貫いて幸せを掴むには、何らかのリスクを背負う場合だってあるの」
落ち着いた、言い聞かせるような口調。
その隣にいる舞地さんは、ずっと木村君の映像に見入っている。
「真理依。あなたも何か言ってよ」
「……丹下が思った通りにすればいい」
「素っ気ないわね」
「私が告白されている訳じゃないから」
「何それ。もしかして、この子が気に入ったの?」
画面を指さす映未さん。
舞地さんは何も答えず、ただ微笑んだだけだ。
「まったく。冗談はそのくらいにして、少しは後輩の気持ちも考えなさい」
「ああ」
その微笑みに優しさが加わり、私へと向けられる。
「やはり結局は、丹下自身がどう思ってるか。他人がどう思うとか、誰が困るとか考える必要はない。自分がそうしたければ、その気持ちに従えばいい」
「同感。私達は、何があっても沙紀ちゃんの味方だから」
そっと私の手を握ってくれる映未さん、そして舞地さん。
その温もりを、私は絶対に忘れない。
この胸に届いた、大きく柔らかな温もりを……。
私達はオフィスに戻り、とりとめもない話を楽しんでいた。
浦田は自警局に行っているとの事で、やりかけのレポートやスケジュール表がたまっている。
「そろそろ終業時間ね。ご飯どうする?」
「名雲が、いい肉を持っている。玲阿にもらったとか言ってた」
「いい話ね、それ。沙紀ちゃんも食べに来なさいよ」
頷き掛けたところで、その報告書が目に入った。
「嬉しいんですけど、あれを片付けないと」
「浦田にやってもらえ。そのための隊長補佐なんだから」
「そうそう。あの子は、仕事させてた方がいいのよ。放っておくと、何するか分からないもの」
なおも断ろうとしたら、私のリュックを映未さんが背負ってしまった。
「大丈夫。ちゃんと浦田君も呼ぶから」
その言葉を受けて、舞地さんが端末を操作する。
「……私だ。……お疲れさま。それが終わったら、映未のアパートに来てくれ。……馬鹿。……今データを送る。……ああ、気を付けて」
端末をしまい、親指を立てる。
「自警局での仕事は終わったらしい。そのレポートは、明日みんなでやればいい」
「急ぐ物じゃないですから、それはいいんですけど」
「それなら結構」
二人に手を取られ、私はされるがままにオフィスを出ていった。
映未さんのアパートは学校の近くにあり、他の3人もこの近くに借りているとの事。
寮住まいではないのが、彼女達らしい。
室内は落ち着いた色彩で統一されていて、シックな雰囲気を醸し出している。
壁には水彩画やラフ画が幾つも並び、それを見ていると時が経つのを忘れてしまいそうな程。
映未さんが描いた物だけでなく、中には舞地さん達のもあるらしい。
テーブルにはお肉の載った皿と野菜を盛りつけた皿、サラダやビールもその隙間に置いてある。
ホットプレートで焼いたお肉を好みのタレで食べるスタイルで、野菜も進むという嬉しい食べ方。
私としては、良く焼いたナスが好きだ。
「玲阿の親父に、ステーキハウスやってる知り合いがいるんだって。その人から貰ったのを、俺達で食べてくれって」
「良い子よね、玲阿君って。勿論雪野ちゃんも、聡美ちゃんも」
「浦田君は?」
柳君の問い掛けに、すっと押し黙る一同。
そしてすぐに笑い声が起きる。
「良い子、じゃないなあいつは。悪い子でもないんだが」
「考えてる事は感心させられるわよ。常識にとらわれないもの」
「頭のネジがどうかなってるのかな」
柳君が、サラダをつつきながら笑う。
優ちゃんも言ってたけど、この愛くるしい笑顔は確かに素敵だ。
人によっては、たまらないだろう。
「んー、ビールが無くなってきた」
「飲み過ぎよ、名雲君」
「気のせいだろ。買い置きはどうした?」
「いつの話してるの、名雲さん」
テーブルの下に、びっしりと並ぶビール缶。
カーペットに直接座っているので、足の置き場が無くなってくるくらい。
お肉はまだ残っているのに、どうもペース配分がおかしい。
「野菜を食べろ、野菜を」
「お、おい。まだ焼けてないって」
「いいから、食べろ」
酔っているのか冗談なのか、生焼けのニンジンを名雲さんの小皿に入れていく舞地さん。
どうも彼女には逆らえないらしく、嫌な顔をしてニンジンを食べている。
「司も」
「え、僕も?」
柳君には、半分ほど火の通ったピーマンが配られる。
「映未はこれ」
「生よ、これ」
と言う割には、喜んでタマネギをかじる映未さん。
優ちゃんが言うところの、「うしゃうしゃ」笑いをして。
「丹下には、……これをあげよう」
「あ、ひいき」
映未さんの言葉を無視して、私の小皿に程良く焼けた霜降り肉が乗せられた。
「ごめん、みんな。私も舞地さんには逆らえない」
「他人行儀だな。真理依と呼べ真理依と」
そう言って、自分はよく焼けたもやしばかり食べている。
やはり酔っているようだ。
「じゃあ、真理依さん。少し飲み過ぎじゃないんですか?」
「飲んでない。いや、飲んでるけど、そんなに飲んでない」
……よく分からない。
確かに、それほど飲んでいたようには見えなかったけど。
「アルコールに弱いんだ、こいつ。酔ってもあまり変わらないけどな」
「私の解説はいい。ほら、沙紀も」
「あ、何その呼び方。私の沙紀ちゃんを呼び捨てにするなんて」
「池上さんも酔ってるんじゃないの」
くすっと笑い、缶をかかげる柳君。
私も缶を上げ、それに応えた。
「そんな事いいから、ビールくれよ」
「だから、もう無いって。そこのコンビニで買ってくれば」
「偉いな、柳は。俺なんかのために」
名雲さんは柳君の手を握り、わざとらしく目元を押さえた。
「僕は駄目。子供にはお酒売ってくれないから」
「ID見せればいいだけだろ」
「だから駄目なの。子供はもう寝る時間だし」
じゃれ合う男の子達。
女の子達はアルコールを必要としない体質なのか、冷えた番茶を楽しんでいる。
「……ん、浦田君来たみたいね」
セキュリティのコンソールに視線を向ける映未さん。
小さな画面には、素っ気ない表情を浮かべる男の子が映っている。
「空いてるわよ、入ってきて」
「……お邪魔します」
スピーカーから遠慮気味な声が聞こえ、ドアの開く音がする。
少しして、その浦田が入ってきた。
背中に、妙に大きな箱を背負って。
「これ、お土産」
箱をおろすと、低いどよめきがわき起こる。
その中身は、みんなが待ち望んでいたビール。
しかもよく冷えていて、ちょうど飲み頃といったところ。
「余っても困らないと思って、持てるだけ買ってきた。さすがに恥ずかしかったけど」
「いや、お前は偉い。良い子だ、うん」
さっきまでの話は何だったのか、嬉しそうに浦田の肩を叩いている。
「ごめん浦田君。今お肉焼くから」
「あ、済みません」
映未さんに軽く会釈して、空いていた私の隣に座る。
「はい」
「ありがと」
私からお茶を受け取った浦田は、例によって一気に飲み干した。
「またトイレ行きたくなるわよ」
「あれだけ背負ってきたんだから、汗かいたんだ。すぐそこで買えば良かったのに、俺学校で買っちゃって」
そして、注いだ分も半分ほど飲んでしまう。
でも、お酒の飲み過ぎよりはいいのかな。
と思っている間に、また飲んだ。
「えーと。確かソーセージがあったわよね」
「いや、もう全部食べただろ」
「私はもやししか食べてない」
「真理依さん、好きだね」
みんなの視線が、私に集まる。
最後のソーセージにかじりついていた私に。
「あ、ごめん」
私はそれをかみ切り、彼の口に差し出した。
「ん、おいしい」
ソーセージを頬張り、頷く浦田。
再び視線が集まってくる。
今度は私と、そして彼に。
「え、どうかした?」
「いや、別に。そこのニンジン取ってくれ」
「あ、はい」
私はよく焼けたニンジンを箸で取り、名雲さんの小皿に乗せた。
「……俺には食べさせてくれないんだ」
「ええ?」
「あんた、何言ってるんですか」
呆れた顔をする私達に、寂しそうな顔を向けてくる。
「いい、いい。自分で食べるから」
「いい年して拗ねて。分かりましたよ」
焦げ始めているネギを、名雲さんの口元に差し出す浦田。
「ほら」
「止めろ」
「何で」
「理由はない」
「いじわる」
訳の分からない事を言って、箸を戻す。
「私ネギ好きだけどな」
そう言ったら、今度は私の前にネギが現れた。
好きなので、当然口にする。
うん、この苦みが何とも言えない。
さっきからみんなが見てくるけれど、どうしてだろうか。
よく分からないので、これ以上考えない事にしよう。
ビールが回ってきて、思考力が落ちているのだ。
とにかく、さっきまで以上にいい気持……。
「ほら、浦田も飲んで」
大吟醸が入った小さな瓶を差し出す舞地さん、いや真理依さん。
「俺、飲めないんですよ。知ってるでしょ」
「これは口当たりがいいから大丈夫」
「口当たりが良くても同じなんだけどね」
苦笑して、浦田はそれを受け取った。
香りを確かめ、小首を傾げる。
「日本酒の匂いがする」
当たり前だ。
深く息をして、案外ためらい無く瓶に口を付ける。
「……日本酒の味がする」
だから、当たり前だって。
「やっぱりお茶の方がいい」
私の前に置かれる小瓶。
ラベルには「東龍」とある。
大吟醸は飲んだ事無いけど、どんな味なんだろう。
「ねえ、どんな味」
「普通のよりは飲みやすいかな。飲めば分かる」
なるほど。
私は小瓶を手に取り、一口二口含んでみた。
限りなく澄み切った、淡い春の風を溶かしたような味。
滑るように喉を過ぎ、潔く余韻が消えていく。
残るのは爽やかな香りのみで、口にしたのがまるで幻のよう。
「美味しい、これ」
「そう?」
「もう一度飲めば分かるわよ。ほら」
顔をしかめ、それでも口を付ける浦田。
その顔が、さらに渋くなる。
「大丈夫?」
「ああ。後は、丹下に任す」
私は残りを傾け、軽く吐息を付いた。
量的にはグラス一杯程もなく、正直物足りないくらいだ。
「私も飲みたかったなー」
お肉をひっくり返していた映未さんが、残念そうな顔をこちらへ向けてきた。
「あ、済みません。まだ、底の方に少しありますよ」
「私に、それを飲めと?」
「いえ、無理にとは」
振っても出てこない小瓶をテーブルの下に隠し、彼女のグラスにビールを注ぐ。
「いいわよ。あなたが木村君と再会した意味が、少し分かったから」
「え。何か言いました?」
「いいえ。はい、ご返杯」
グラスに注がれるビール。
底から、泡が立ち上っていく。
一つ、また一つと。
彼の口に運んだ箸が、目の前に並んでいる。
ぼんやりした意識の中、みんなの視線の意味にようやく気付いた。
それ以前に、気にも止めていなかった。
この人は男の子で、私は女の子なんだと。
やがてお肉も食べ終わり、テーブルの上には余ったビールの缶が幾つか並んでいる。
後片付けは殆ど飲んでいない浦田と、飲んだけど酔っていない名雲さんがやってくれた。
「さて、そろそろ帰るか」
「そうだね」
ややふらつき気味の柳君を支え、ドアへと向かう名雲さん。
「僕が名雲さんを背負うんだ」とか言っているけど、どう見ても無理だ。
「こいつの口癖なんだよ」
「家まで送ってあげてね」
「ああ。舞地は」
「泊まっていく」
真理依さんの前に、映未さんが用意した着替えの服が置いてある。
酔っているからというより、いつもの事のようだ。
「みんな、またな」
「名雲さん。僕の背中に……」
「本当。一度くらい、そうしてくれよ」
苦笑した名雲さんは私達に手を振り、柳君と一緒に出ていった。
「真理依、お風呂どうする?」
「シャワーだけでいい。何なら、沙紀も泊まっていけ」
「思い付きで言わないの。浦田君、酔ってないから大丈夫よね」
「ええ。寮は近いですから」
私のリュックも持って、浦田がドアへ向かう。
「丹下、行くよ」
「あ、うん」
彼の手を取り立ち上がる。
「真理依さん、映未さん。お休みなさい」
「失礼します」
「ああ」
「気を付けて帰ってね。寮に着いたら、連絡くれるかな」
「あ、はい」
ドアの前で頭を下げ、映未さんの笑顔に微笑み返す。
「浦田君、沙紀ちゃんの事お願い」
「はい」
浦田は素直な表情で頷き、私の腕をそっと引く。
彼の腕に寄り添っている私も、歩き始めた彼に続く。
アパートの玄関を出て、振り向く私達。
踊り場に残り見送ってくれる映未さんに、私達は一緒に頭を下げた。
初秋の夜風が、火照る体に気持いい。
街灯の明かり、立ち並ぶ家々から洩れる明かり。
静かな道路を、二人の足音が駆けていく。
どこかの庭に咲いているのだろうか、キンモクセイが微かに香る。
何か話す訳ではない。
周りに見えるのも住宅やお店ばかり。
寮に向かっているだけの、見慣れた景色。
夜空を見上げ、目を細める。
街の明かりにぼやける星々。
感動するような事など別に。
でも、悪い気分でも無い。
何もない、二人きりの帰り道だった……。
端末のレシーバーを耳に近付け、通話キーを押す。
「今から会えるか」
聞き慣れた声。
特に最近は。
「……ちょっと待って」
書類を置き、周りを見渡す。
するとそれに気付いた受付の子が、こっちへ来てくれた。
「どうかした、丹下さん」
「ええ。出掛けたいんだけど、浦田……隊長補佐は?」
場所がオフィスなので、一応肩書きを付ける。
「浦田君なら会議室で、みんなとスケジュール調整してる。来週のI棟総会での警備改善案レポートも、ついでにまとめるとか言ってた」
「そう。忙しいの」
机の上にたまった書類と、保留にしてある端末を同時に見る。
「分かる範囲なら、私がやっておくわ。丹下さんは用を済ませてきて」
「ごめん。すぐ戻るから」
彼女の肩に手を置き、端末を胸に抱え外にでる。
胸の思いを抑え込むようにして。
指定された場所、この間の喫茶店に入る。
その時と同じ席に、彼が座っていた。
ウェイトレスさんに会釈をして、奥へ足を進める。
「早かったな」
爽やかな笑顔。
私は何も言わず腰を下ろした。
「急に呼び出して怒ってるのか」
「そうじゃないけど。木村君、練習はいいの?」
「試合が近いんで、早めに切り上げた。チケット見てないのか」
逆に質問され、口をつぐむ。
試合は今週末、彼の言う事の方が正しい。
「それでだ。この前の返事は」
やはり答えられない。
運ばれてきたアイスティーの、透き通った茶褐色をじっと眺める。
「自分から言うのもなんだけど、早く答え出してくれよ。待たされるのって、結構辛いんだぜ」
「……ごめんなさい」
しかし、何も言えない。
言葉が出てこない。
何でもいい、一言言えば済む事なのに。
私は、その答えを出し切れていない。
「分かった。じゃあ、期限を作ってやる。三日後だ、その時答えを聞かせてくれ」
「でも」
木村君は私の言葉を聞こうともせず、アイスコーヒーを一気に飲み干した。
「場所と時間は、また後で連絡する」
「ちょ、ちょっと待って」
「3日あれば十分だろ。それと、この間面白い物見つけてな」
意味ありげに笑い、小さな封筒をテーブルに置く。
「沙紀の写真だ、昔の。あの日、あの雨の日の」
周りの景色が消え、雨音と闇が蘇る。
痛みと、苦しみも。
忘れたくても忘れられなかった、あの思いが。
「それ、どうするつもり……」
「さあ。お前の答え次第だろ」
意味ありげな深い笑み。
レシートを持ってレジへ向かう木村君。
封筒をテーブルに残したまま。
でも私は、その後を追う気になれない。
足がすくんでいる、体が震えている。
あの時と同じ気持ちが、今の私の中にある。
泣き崩れ、雨に打たれていたあの時の気持が。
窓越しに去っていく彼の背中。
混ざりあう今の光景と、過去の記憶。
私は動く事も出来ず、暮れていく空を見続ける事しか出来なかった。
重い気分の中、私は手を縛られていた。
正確には縛られた振りをしていた。
昨日の木村君の言葉が、まだ頭の中で繰り返される。
結論を出す事、そしてあの写真。
写真は、この際どうでもいい。
辛い物ではあるけれど、そんな事で考え方を変えたくない。
それよりは、自分の気持ち。
……考え方を変えたくない?
どんな考えを?
木村君に告白されても、脅されても。
自分の気持ちは変わらない。
そうなのだろうか。
でも、それは……。
みんなの声に、俯けていた顔を上げる。
倒れている玲阿君、真っ青な顔をしている優ちゃん。
そして二人の前には、凍てつくような表情を浮かべた浦田の姿があった。
「次は……」
「私は遠慮しておくわ」
遠野ちゃんが、ネクタイを解く振りをして私の背中をそっと押した。
「ご、ごめんなさい」
私のせいで、みんなが傷付いている。
自分を人質にして、浦田に今までの経緯を喋らせる。
それで少しは、お互いが分かり合えると思って。
どうしてそんな無謀な事を、私は言ってしまったのか。
木村君の事で、頭が一杯だったから。
違う、それは言い訳だ。
提案したのも、遠野ちゃんの反対を押しきったのも私なのだから。
彼女の言葉が、今さらながら思い出される。
「……この中では多分、私が一番ケイを分かってると思うから」
私は優ちゃん達の事も、そして浦田の事も全然分かっていなかった。
分かったつもりになっていただけだった。
そして今、みんなは私のせいで傷付いている。
体だけでなく、その心も。
「いいの。さ、早くケイの所へ行って上げて。今のあの子には、あなたしか側にいられないのだから」
遠野ちゃんが、労るような声を掛けてくれる。
自分の事よりも、浦田を気遣っている。
彼女達と一緒に傷付いた私をも。
心の中で、何度も謝る。
言葉に出来ない、言葉にならない。
反発した態度をとった私に、そこまで想ってくれる彼女。
……反発?
どうして私は彼女に反発したのか?
「……この中では多分、私が一番ケイを分かってると思うから」
再び蘇る遠野ちゃんの言葉。
「怪我はない?」
その意味を考える間もなく、浦田が心配そうな顔を向けてきた。
「え、ええ」
ネクタイが巻かれていた手首を見せる。
一瞬彼の顔が和らぎ、私を労るように斜め後ろに回る。
「よかった。じゃ、行こう」
「え、ええ」
優ちゃん達を見ようともせず背を向ける。
私は言葉にならない思いを胸に収め、彼女達に背を向けた。
廊下をしばらく歩き、人気が無くなったところで浦田が足を止める。
「……ふぅ」
重荷を下ろしたような、苦しげなため息。
左手を押さえ、壁にもたれる。
「さすがに、ショウの相手はきつかった」
血の気の引いた顔。
足は震え、息が怖いくらいに早い。
「あいつが本気になれないのは分かってたけど、俺程度が向かい合うのは無理があった。軽くかすっただけなのに、これだから」
「……本気になれないって?」
「相手が俺だから、無意識に遠慮するって事。優しいとも、メンタル面が弱いとも言える」
青ざめた顔がわずかに緩む。
痛めたのか、しきりに左手を押さえている。
「大体軽く試しただけなのに、ユウまで出てくるからさ。焦ったよ」
「試したって?あなた、気付いてたの?」
彼の指が私の手に、そして襟元へも向けられる。
「連絡があった時点から疑ってたけどね。それとユウはリボンとか気にするのに、無いなんておかし過ぎる」
「あ……」
「ヒカルの事に気付いたっていう通しサインかと思ったんだけど、そんな雰囲気でもないし。しかたなく、ショウの甘さを付いたって訳さ」
肩をすくめ、震えている足を軽く叩く。
「とはいえあいつに甘さがなかったら、俺がやられてたし。舞地さん達に、ヒカルの事をそれとなく伝えてもらおうかな」
「ヒカル君の在籍データが回復するの?」
「生徒会長にレポートと申請書を提出したら、今週中にはどうにかしてくれるって約束してくれた」
気の抜けた顔付きになり、天井を仰ぐ。
全てを終えた安堵感と、虚脱感を漂わせて。
「あなた、学校辞める気じゃないでしょうね」
「どうして」
笑いを含んだ声が返ってくる。
「優ちゃん達に迷惑かけて、結果的に生徒会の人達を辞めさせる事になるから」
「その責任を取るって?俺がそんな甘い性格だと思う?」
「思わない。それに、あなたの考えてる事なんて何も分からない」
私は言葉を切り、真っ直ぐ彼を見つめた。
「それでもあなたは、学校を辞める気でいる。このまま残ったら、優ちゃん達に迷惑が掛かるから。それに例え悪い事をしたにしろ、辞めさせた人達の気持ちを考えたら」
「だから、俺はそこまで甘くない。全然俺の事分かってないな……」
笑いかけた彼の顔が、戸惑いのそれに変わる。
壁に両手を付き、その間にある彼の顔を上目遣いで見上げる。
息が掛かるくらいの距離。
お互い鼓動すら届くような。
「……人の考える事なんて、結局は分からないわ。でも私は、あなたの事をそう思ってるの。私が、勝手に」
元野さんには分かるのかもしれない。
遠野ちゃんは、分かっているのかもしれない。
でも私は、人の心なんて分からない。
分からなくていい。
自分が、そうだと思えさえすれば。
それは私の独りよがりで、本人の考えと違っているかもしれない。
例えそうでもかまわない。
私の中にいる木村君。
私の中にいる浦田。
それでしか、私は彼等を判断出来ない。
でも、それでいいと思う。
判断するのは私なんだから。
大事なのは、自分の気持ちなのだから。
浦田の表情が、微かに揺れる。
でも、私から目を逸らしはしない。
彼が言葉にならない感情と葛藤していると感じたのは、私の独りよがりな考えだろうか。
「……それで、俺にどうしろって」
小さなささやき。
私の言葉を肯定も否定もしない。
でもそのささやきは、いつになく弱々しかった。
「自分で判断してとは言わないわ。あなたの周りには、相談出来る人がいくらでもいる。だけどもし、優ちゃん達に声を掛けるのがためらわれるのなら」
一呼吸置き、震えそうになる声を抑え込む。
「私に相談して。今あなたの一番近くにいるのは、私なんだから」
壁から手を離し、彼に背を向ける。
「後で、優ちゃん達に謝ってくるわ。さっきのあれ、私が言い出したのよ」
「ああ」
小さな応え。
それに続いて、足音が。
振り向く間もなく、彼が私の前に立つ。
「……丹下に今さら隠す必要はないか」
私は黙って彼の言葉を待った。
「でもこの間も聞いてもらって、またこんな話を聞かせるのもどうかと思って」
済まなさそうな、力無い声。
この人は、人を頼らずに生きて来たんだろう。
そういう性格で、また頼らずともやっていける能力を持っているから。
だから、慣れていない。
戸惑い、逃げようとしてしまう。
頼る事に、自分を相手に委ねる事に。
不器用な人なんだ。
「……不器用なのよね」
「え、何が」
私は微笑んで、彼の顔を指さした。
「こっちの事。それと、明後日まで休むからよろしくね」
「木村君とデート?いいね、青春してて」
大袈裟に肩をすくめ、笑っている。
何も話をしていないので、当然といえば当然だ。
でもこれは、私自身で解決したい問題。
それに、私以上の問題を抱えている彼に負担を掛けたくない。
「……あれ?」
ポケットに手を入れ、封筒が無い事に気付く。
おそらくは「取りあえず」という事で渡された一枚。
「何か無くした?」
「え、ええ。封筒を……」
そこまで言って、口をつぐむ。
まさかあれを、他人に見られる訳にはいかない。
その焦りが伝わったのか、彼の顔が厳しくなる。
「大事な物なら、捜すけど」
「う、ううん。大した物じゃないから」
変に否定しても怪しまれそうなので、適当に笑う。
「そう。じゃあ、俺は帰る。さすがに疲れた」
「そうね。私もオフィスに顔だけ出して、すぐ帰るわ」
「ああ」
去っていく丸まった背中。
話したい事はまだあるのに、聞いて欲しい事がたくさんあるのに。
でも、やっぱり私も逃げてしまっている。
彼が聞かないのを良い事に。
自分で解決するなどと言って、怯えている。
木村君に、そして流されてしまうかもしれない自分に。
私の心は、どこへ行けばいいのか。
それは本当に、自分自身で見つけられるのだろうか……。
「ケイがどうかしたの?」
優ちゃんが、何気ない感じで尋ねてくる。
ここは彼女の部屋。
謝りに来た私は、いつの間にか夕食までごちそうになっていた。
彼女の言葉が、心の中に降りていく。
「……良いかもって思っている」
それほど深い意味で言ったつもりはない。
一緒にいて楽しいし、悪い気持ちはしないという事だ。
すると優ちゃんの動きに落ち着きが無くなり、キッチンを出たり入ったりしている。
彼女の口数も少なくなり、何かを堪えている感じだ。
少しして、その理由が分かった。
目の前にはビールが並んでいる、おつまみも少し。
ハイチェストの上には、私が買ってきたシュークリームが乗っている。
「どういう事?」
隣にいる優ちゃんへ、そしてテーブルを囲んでいる人達を見渡す。
遠野ちゃん、元野さん、真理依さん、映未さんを。
「えー、ごほんごほん。皆様本日はお忙しい中お集まり頂き、誠にありがとうございます」
手を前で組んでいた優ちゃんが、可愛らしい仕草で頭を下げる。
「それでは皆様をお呼びした理由を、今から説明いたします。沙紀ちゃん、立って」
「う、うん」
「さ。それでは先程の言葉を、ここでもう一度再現していただきましょう」
「ええ?」
戸惑いというよりは、驚き。
頭の中が真っ白になり、これは夢じゃないかと思っているくらいだ。
そんな私に構わず、優ちゃんが脇をぐいぐいと押してくる。
痛いというより、くすぐったい。
普段ならやり返すのだけど、今はとてもそんな余裕がない。
「ほら、さっきの台詞。ケイがどうしたって」
訝しげだったみんな視線が、好奇のそれに変わる。
そして私も。
自分の心の中が、目の前に浮かんできた。
気付かなかった気持。
意識すらしていなかった。
ずっと木村君を追い続けていたあの日々。
顔を見れば、声を聴けば心が揺れた。
今も胸に残る、切なく甘い思い。
間違いなく私は彼が好きだ。
いや、好きだった。
木村君を好きだったあの時の私は、この胸の中にある。
それが今の私を作ってきたのだから。
でも。
「……その、いいかもしれないと思ってる」
さっきとは違う、一つの思いを込めた言葉。
友達としてではなく、仲間としてではなく。
一つの思いを込めて、私はそう言った。
そんな自分の言葉に感慨めいたものを……。
感じる前に、笑われた。
しかも、大笑いされた。
「ちょ、ちょっと」
遠野ちゃんなんか、床に伏せてお腹をひくひくさせている。
かろうじて真理依さんが笑っていないが、少しつつけば爆発寸前だ。
そして元野さんと映未さんが下らない事を言って、その真理依さんも落ちた。
追い打ちを掛けるように、遠野ちゃんも変な事を言う。
「そんなにおかしいかなっ」
顔が赤くなるのを感じながら、必死に叫ぶ。
とどめとばかりに、真理依さんまでおかしな事を言ってくれた。
床へ転がり涙を流さんばかりに笑うみんなに、私はもう何も言う事がなかった。
そしてみんなに、心の中で感謝した。
私の心を導いてくれた事に。
もう怯えない、胸を張り前を向いていられる。
例えどんな結末が待っていようとも。
この思いが胸にあれば、そして彼女達の笑顔があれば。
だけど、こうも思った。
いくら何でも、笑い過ぎだと。
特に、テーブルの足で頭を打っても笑い続ける優ちゃんに。
やっぱり彼女とは、もう一度戦った方がいいのかな。




