28-1
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提出されるエントリー用紙。
硬い表情で、受付に佇む柳君。
広いロビーを占めるのは、ケンカ自慢というタイプの人達ばかり。
大柄で、柄が悪く、高揚した雰囲気の。
柳君のように、気弱で頼りない顔をしてる人は殆どいない。
「元気ないね」
「僕は、やっぱり」
今更逃げようとする柳君。
しかし彼はすぐに足を止め、華やぐような笑顔を浮かべた。
「エントリー、終わった?」
だるそうに、うつむき加減でロビーへやってくるケイ。
そんな事には構わず、彼の腕にしがみつく柳君。
かなり誤解を受けそうな眺めだが、この際は良しとしよう。
「まだ、今から」
「そう。試合は」
「これが終わったら、すぐ。見ていく?」
「ああ。見るよ、最後まで」
ぼそぼそと、しかしはっきりと言い切るケイ。
最後までとは、おそらく今からの予選という事ではないだろう。
本選。引いては決勝という意味で。
「エントリーが完了しました。試合は、今すぐ行われますが。準備はよろしいでしょうか」
「え、はい。えと、どこに」
「正面のドアを抜けた所が、試合会場。館内放送がありますので、着替えられるのでしたらお早めに」
事務的な案内を受けて、ドアをくぐる。
学校からも近い、笠寺のレインボーホール。
普段はコンサートや各種のスポーツイベント。
こうした格闘技の試合も行われる場所。
広い敷地に何面も取られた試合スペース。
ボクシングのようにコーナーポストやロープは無く、柔道の試合会場に近い感じ。
それを囲むようにある、2階や3階の観客席。
大きなイベントなら、1万人は収容されるだろう。
しかし今は、人の姿は殆ど無い。
むしろ試合をしている人の方が多いくらいか。
それでもここは、紛れもない試合会場。
例え予選の一回戦だとしても。
栄えあるRASオープントーナメント。
その戦いの場である。
「柳司君」
試合会場に響くアナウンス。
柳君は気弱な表情でケイを振り返り、そっと手を伸ばす。
無言で、しかしその手を握り返すケイ。
しばし見つめ合う二人。
沈黙と、静けさ。
ケイの手を離し、肩を回しながら指定された試合場へ進む柳君。
その顔には、すでに気後れも迷いもない。
普段と彼とは違う、闘志溢れる厳しい表情。
間違いなく戦士へと、彼は変わる。
「でか」
呆気に取られたに呟くケイ。
反対側からやってきたのは、小山のような大男。
体重は柳君の二倍はありそうで、ここから見ていると後ろの景色はまるで見えない。
「ライト級じゃないのか」
「飛び入りの予選は、階級に関係ないんだって。勝ち残った人だけ、エントリーしてる階級に出られるらしいよ」
「ふーん。まあ、相手が誰でもいいか」
あっさりと納得し、その場で正座するケイ。
別に改まった訳ではなく、彼なりの余裕の証だろう。
私も同じように、その隣へ正座する。
「始め」
合図と同時に突っ込んでくる男。
これだけの体格差と体重差。
力尽くで押し切れば終わりと判断したのだろう。
意外に早い出足。
その目の前から消える柳君の姿。
気付けば地鳴りのような音と共に、男はマットの上に崩れ去る。
「え。あ、えと。勝者、柳司」
気の抜けた声で宣言するレフリー。
彼もまた、この体格差による固定観念を抱いていたようだ。
柳君が勝つ訳がない。
ましてや、こんな結果などあり得ないと。
動きとしては単純で、横に動いて脇の下を突いただけ。
相手の動きを十分に見極められるだけの動体視力。
無論言うまでもなく、それを可能にする身体能力。
何よりも、臆さないだけの気力。
逆にそれらがどれ一つ欠けても、今の光景はあり得ない。
静まり返る、私達の周囲。
それはすぐに、どよめきへと変わる。
あくまでも、今の試合を見ていた人達だけの。
しかし、紛れもない感嘆と驚嘆。
それとも畏怖、だろうか。
「お疲れ」
「そうでもないけどね」
ケイからタオルを受け取り、声を潜める柳君。
またそれは、無論虚勢でも強がりでもない。
彼にすれば、軽いウォーミングアップ。
自分の調子を計るバロメーター代わりくらいだろう。
「では、次の試合を開始します」
「え、もう?」
「参加者が多いので。今の勝者の方は」
後ろを振り返るレフリー。
おそらくは、隣の試合場で戦っていたはずの男性はその場にうずくまって膝を押さえ出した。
「い、痛い。ちょ、ちょっと、試合は無理みたいだ」
何ともわざとらしい口調。
どうやら今の試合を見て、完全に戦意を喪失したらしい。
「では、棄権でいいんですか」
「残念だ」
言葉通り、何とも悔しそうな態度で首を振る男性。
引きずり出してやろうかとも思ったけど、そこまでの理由もないし勝ちは勝ちだ。
「では、次の試合を開始します。第3試合場の勝者はこちらへ」
「え、でも」
「時間がないんです。では、始め」
勝って、不戦勝、勝って不戦勝。
これを繰り返して、午前中の日程を終える。
後はご飯を食べて、午後に備えると。
「スープだけ?」
「お腹膨れると、動きが鈍るでしょ。ショウの時も、そうだった」
「あいつは、がつがつ食べてただろ」
そう指摘して、コーンスープをすするケイ。
どうやら、スープしか飲めない柳君に付き合っているようだ。
「後は、決勝だけでしょ」
「まあ、ね。それに勝っても、審査があるみたいだけど」
「何、それ。聞いてないわよ」
「ユウに話す必要も無いんじゃないのか」
もっともな事を教えてくれるケイ。
そうですかと納得出来るなら、私は今まで生きてない。
ロッカーを飛び出て、階段を降りて、廊下を走る。
で、どこへ行けばいいのかな。
「どうかしましたか」
「あ、先生」
書類を抱えながらすれ違う、珍しくスーツ姿の水品さん。
いいところで、いい人に会った。
単に私の先生というだけではなく、今回のオープントーナメントの実行委員長。
つまりは最高責任者だ。
「審査ってなんですか。勝ったら、本予選に出られるって思ってたのに」
「ああ。そういえば、雪野さんの友達は決勝まで来てましたね」
「審査、審査」
「単語で話さないように。別にあら探しをする訳ではありません。簡単な薬物検査と、面接ですよ。TV放映もありますし、あまりおかしな人間を出場させる訳にはいきませんから」
何だ、そういう事か。
一人で慌てて、損したな。
薬物検査は勿論、柳君の人柄なら問題ない。
むしろ誰にでも好かれるタイプ。
いや。そうなると、TVが逆にネックだな。
「放映って、絶対にするんですか?」
「放映権料を頂いてますから。何か、問題でも」
「柳君は、間違いなく人気が出ると思って」
あの外見と、あの強さ。
出ない方がどうかしてる。
「雪野さんには、四葉さんがいるでしょう」
「それは、その。でも、あれ。なんというのか、また別な話ですから」
「よく分かりません。私は忙しいので、また今度。それと、間違っても試合には出ないように」
最後に釘を刺してくる水品さん。
そんな事、改めて言われなくても分かってる。
第一出る理由がないし、エントリーもしていない。
「あーあ、戻ろう」
人でごった返す廊下を歩く。
観客は少ないが、出場者はかなりいる様子。
また、その友達や関係者も多いようだ。
とにかく全員、体格だけはやたらといい。
それでも本選に出場出来るのは、ごく限られた一部の人だけ。
こうして、初めから選考もされない人達の方が圧倒的に多い。
RASの知名度と実力を、改めて思い知る瞬間でもある
そんな人達が集まる中で、決勝まで進んだ柳君の実力も。
突然の、前からの強烈なライト。
いくつかのハンディカメラと警備員。
どうやら、今回の試合を放送するTV局が来ているらしい。
TVに写る気は別にないので、脇に避けて人混みに紛れる。
隠れなくても、大男の山に埋もれてるけどね。
「どうですか。今回の大会は」
「大した事無いな。せいぜい、あいつくらいだろ」
偉そうに顎を振る、横柄な顔立ちの男。
その先にいたのは、やはりカメラと警備員に囲まれた男。
向こうもすぐに何かを、向けられたカメラに向けて話している。
「RASだかなんだか知らないけど、優勝は俺とあいつだな」
「彼はまだ、予選の出場権を得てませんが」
「所詮素人だろ、他の奴らは。最後は俺達が勝つんだよ」
自信。それともおごりに満ちた顔付き。
視線は常にカメラと、マイクを向けているタレント風の女の子へ向けられる。
「他の連中は屑。RASも屑。俺達が一番強いんだ」
ドアを叩き、机を叩き、太ももを叩く。
「エントリー、エントリー用紙っ」
「落ち着いて下さい。それとエントリーは、もうとっくに締め切ってます」
「だって、馬鹿が。馬鹿が出る。何、あれ。あれは誰」
壁を叩き、足を踏みならして、部屋の中を歩き回る。
もうあいつだけは、絶対に許さない。
何があろうと、誰がどう言おうと。
RASがどういう存在が、私が直に教えてやる。
「落ち着いて下さい。遠野さんも来てるんですよね。誰か、彼女を」
「私に、何か。……どうしたの、ユウ」
眉をひそめ、呆れ気味に人を見つめるサトミ。
胸元で手を動かし、口を動かして、足を踏みならす。
もう怒れて怒れて、言葉も何も出てこない。
「さすがに私でも意味不明ね。水品さんは、何かご存じですか?」
「雪野さんが怒るとすれば、これですか」
卓上端末に表示される、団体名と何人かの所属選手。
私が見た男も上の方に載っている。
「こいつ、こいつ。私が出場して」
「だから、エントリーは締め切りました。前から、何かとRASに対抗しようとしてる団体ですね。一人はそれなりに活躍してる選手なので、一応招待しました。もう一人は、どうやらTV局が大会を盛り上げるために予選から出場させたようですね」
冷静に説明する水品さん。
そうですかと頷ける程余裕はなく、棚や引き出しを漁ってプロテクターを探す。
「ユウ、落ち着いて」
「嫌だ」
「また、そういう事言って。大体出ていって、あなた勝てるの?」
「当たり前じゃない。プロだろうとなんだろうと、人を馬鹿にしておいてただで済むと思ってたら大間違いよ」
なんだこれ、ガムか。
取りあえず、確保しておこう。
「TVも来てるんでしょ。あなた、全国に恥を晒す気?」
「恥も何も、別に」
「試合に乱入して、相手の選手を倒して。それをTVで放映されて。そういうの、好き?」
小首を傾げ、可愛らしく微笑むサトミ。
好きか嫌いかと言えば、嫌いな方。
ケイじゃないけど、どちらかといえば目立たずひっそりと生きていきたい。
「多分、ビデオで何回も放送されるわよ。新聞にも載るでしょうし、場合によってはスポーツニュースでも取り上げられるわね。超新星、天才格闘少女現る。マットに咲いた一輪の白い花、その名も雪野優」
「それは、その」
「今日はミニスカートだけど、それで暴れる気?」
ここまで言われて、それでもやるとはとても言えない。
さすがに私の事に詳しいというか、理詰めでこられるとどうしても負けるな。
「だけど、むかつく。実力はどうなんです」
「あなた、今勝つって言ったじゃない」
「心情的にはね。それに、誰だか知らないし」
サトミの冷たい視線をかいくぐり、端末に取り付いてデータを調べる。
総合ルールを取り入れた柔道団体か。
他流派や、異種格闘技も積極的に行ってるとデータにはある。
戦績はいいものの、反則すれすれの強引な試合運びが目立ちまた試合外のトラブルも後を絶たないと書いてある。
本予選へ招待されている男と柳君と今から対戦するのは、団体のトップ選手。
どうやら、人格と実力は比例しないらしい。
「TV局は、RASの味方じゃないんですか」
「中立公平が、報道の基本ですよ。ただ向こうからすれば、最強とも呼ばれるRASの敗北の方が視聴率は稼げるでしょうね」
なかなかに面白くない状況。
これはもう、柳君にがんばってもらうしかない。
「失礼します」
礼儀正しい挨拶、下げられる頭。
身内ばかりの場所へ、物静かに入ってくるショウ。
この人の場合は、人格も実力も正比例してる。
「決勝は、まだ終わってないんだ」
「終わるわよ。あっという間に終わる」
「何怒ってるんだ」
「怒ってない」
太鼓を叩く要領で、拳の下で壁を叩く。
思い出すだけで、今すぐにでも爆発しそうだな。
「意味が分からん。何か、TVが来てるみたいだけど」
「有名な団体の選手が、出場してるんです。一応、決勝まで来ましたよ」
「じゃあ、そいつと柳君が?ふーん、早く見たいな」
至ってのんきな台詞と態度。
とはいえ彼は、あの場にいなかったから仕方ない。
もしいたら、私より先にショウが男を倒していただろう。
「で、試合は?」
「そろそろですね。私も立ち会いますので、みなさんもどうぞ」
広い試合会場。
その中央に四角く仕切られた試合場。
下はやや堅いマットで、グラウンドにも対応出来る。
さっきよりまでは埋まった観客席。
それでもやはり、試合会場の方が人は多い。
審判団やRAS関係者。
後はTVクルーと、相手選手の取り巻き達。
一方の柳君側は、私とサトミとショウにケイ。
確かに人数では負けるが、そんな事は関係ない。
今大切なのは、彼を信頼し応援する事。
彼の勝利を待つ事だ。
「RASオープントーナメント。本予選出場権トーナメント決勝を行います。選手は双方前へ」
マットの上に進み出る柳君と男。
私達はセコンドに付き、腰を下ろす。
いつかの、ショウと三島さんとの試合を思い出す状況。
違うのは、あの時が感情による戦いだった事。
今はより、スポーツとしての面が強い。
つまりはより純粋に勝利を目指すという。
ただしそれは理念と理想であり、TVカメラを意識してポーズをとっている男はどうか知らない。
「実戦空手……」
男の後ろから起きる、拍手と歓声。
ライトが強まり、カメラが一斉に男を向く。
上げられる両手、自信満々の笑顔。
体格から見て、ライトヘビーかヘビー級か。
「チーム草薙所属。柳司選手」
拍手と声援を送る私達。
柳君ははにかみ気味に振り向いて、少しだけ手を挙げた。
どこからか上がる嬌声。
自然と彼に向けられるカメラ。
カメラはそのまま、しばし彼を追い続ける。
「何か、雰囲気があれだね」
「当然だろ」
苦笑するケイ。
これだけの容姿と、この仕草。
横柄な男とは違い、謙虚で控えめな態度。
また相手が大男なので、小柄な彼に自然と肩入れしたくなるのだろう。
「再度ルールを確認します。膝、肘、頭突きはOK。相手をホールドしての打撃も認めます。目、指、急所、耳への攻撃は禁じます。また爪、指を使用した攻撃も同様に禁じます。ただし、貫手はそれに含まれません」
説明されるルール。
基本的にルールは、あってないような物。
倒れている相手への打撃も認められるし、間接をとっての打撃も可。
制約がないからこそ言い訳も出来ず、ストレートに各自の実力が試される。
「それでは、グローブを交えて」
軽く重なる、両者の右拳。
レフリーの合図でその距離が開き、後は自然と周りが静かになっていく。
意識するしないに関わらず。
戦いの意義を知らなくても、人間性も何も関係ない。
この瞬間だけは、この場は二人のためにある。
今までの柳君の動きを研究していたのか、不用意には飛び込んでこない相手。
明らかに彼より長いリーチを生かし、離れた位置から牽制気味なジャブをとばす。
パーリングでそれをかわし、戻っていくところをフック気味な動きで横から捉える柳君。
半身をずらし、相手が腕を引くよりも速い速度で前に出る。
自分の動きと柳君の動きが重なり、バランスを崩しながら下がる男。
このままでは不利と判断したのか、反対側の膝が柳君の脇腹に突き進む。
即座に手を離し、その膝の上に飛び乗る柳君。
振り上げられる足。
天を仰ぐ愛くるしい、しかし今は精悍に引き締まった顔。
彼の体は軽やかに宙を舞い、会場内にどよめきを起こす。
小さな後方宙返りを終え、しなやかに着地する柳君。
そこを男が狙ってくる事はなく、また柳君も警戒する素振りを見せようとはしない。
どよめきは静寂へと代わり、すぐに大歓声へと移っていく。
「しょ、勝者。柳司君」
爆発するような拍手と歓声。
決して多くはないはずの試合会場内が、大きなコンサートにも負けないだけの熱気と興奮に包まれる。
「担架、早く」
腰を付いたまま動かない男は、肩を担がれ担架へと乗せられる。
気絶しなかったのは、柳君の蹴りが浅かったから。
逆に言えばそれで脳が揺れ、立っている事もままならなくなった。
もう少し深く蹴れば気絶。
さらに深く蹴れば、頸椎へのダメージもあっただろう。
「今回の予選の優勝は、柳司君に決定しました」
さっきよりも落ち着いた、より好意的で暖かい拍手と歓声。
それが収まったのを待って、事務方らしい人が話を続ける。
「それに伴い、RASオープントーナメント本予選出場の権利が与えられます。ちなみに彼はライト級に出場するため、第1シード選手との試合が義務付けられます」
どちらにしろ、まだ道半ば。
当たり前だが、むしろこれからの方が大変になる。
素人か、それに近い人達相手の今日の試合。
しかし今度からは、各団体のトップ選手相手。
賞金、名誉、プライド、意地。
いくつもの要素が絡み合う、ただの強さだけでは勝ち残れない世界。
カメラと取材陣に囲まれ、もじもじしながら話している柳君。
少し遠くにいってしまったなと思いつつ、ケイを振り返る。
「チーム草薙って何よ」
「まさか、ワイルドギースでも無いだろ。エントリーには所属する団体が必要だって言うからさ」
「だったら、RASでいいじゃない。センス無いな、もう」
「エアリアルって付けたの、誰だった」
醒めた目で見返してくるケイ。
あれは間違いなく、いいセンスなのよ。
我ながら、今でも良く付けたと思ってる。
「すっかり人気者ね」
人事のように話すサトミ。
あれを見てて、良く平気でいられるな。
「何か、不満?」
「だって。せっかく、今まで。ねぇ」
「いいだろ、人の事は。まずは、自分の事を気にしたら」
ごく真顔で指摘してくるケイ。
私ではなく、壁に背をもたれてだるそうにしているショウを見つめながら。
「私は、その、あれ。感情は感情、気持ちは気持ち」
「一緒だろ。さて。柳君はともかく、馬鹿兄貴はどうなってる」
「練習は一応やってる。元気はないけどな」
包帯の巻かれた手を振るショウ。
怪我は、その練習の成果という訳か。
「姉さんが見に来ないのを気にしてるらしい」
「流衣さんは、初めから反対してたじゃない」
「そこまでは知らん。反対までして出る事か、とも思うし」
「あなた、三島さんとの試合を忘れたの?少なくとも、私は反対だったわよ」
即座に反論するサトミへ、全く返せないショウ。
どうやら、本当に忘れていたようだ。
彼のとの試合ではなく、今サトミが指摘した事を。
「少しは、お分かりいただけました?」
「あ、はい。何となく」
「良かった。私はあなたの彼女じゃないから状況は違うけど、知ってる人が各闘技の試合に出るなんてそう楽しい物でもないわよ。例えば、柳君の事にしても」
何となく感じる視線。
どうもあちこちに飛び火してくるな。
「これはこれでいいの。色々考えてるんだから。柳君は当分あのままみたいだし、一旦戻ろうか」
別に、彼一人を残してきた訳ではない。
彼を案じて心配してるのは、何も私達だけではないから。
いや。むしろ彼等の方がその思いは強いだろう。
「そう。……ショウの実家。……はい、はいよ」
池上さんとの通話を終え、ソファーに転がる。
何か妙に柔らかいと思ったら、コーシュカが丸まっていた。
いいか、これはこれで気持ちいいし。
「取材を適当に断って、こっちに来るって」
コーシュカを抱きかかえ、自分の膝に乗せてみる。
何というのか、相当な圧迫感。
肩に乗せてる時よりも重く感じて、なおかつ大きい。
このまま首筋に噛みつかれたら、間違いなくこの子のおやつだな。
「あーあ」
ため息混じりにリビングへとやってくる風成さん。
ショウが言っていたように元気はなく、表情も優れない。
それでもトレーニングは別らしく、堅そうなゴムまりが手の中で何度となく押しつぶされている。
「流衣さんは、まだ反対してます?」
「ああ。止めろとは言わないけど、試合は見に来ないって」
下がる肩、うなだれる顔。
そこまで落ち込むなら、出場を取りやめればいいのにな。
「止めたらいかがですか」
「それは、それ。俺にも一応は、意地がある」
「大切な人を悲しませる覚悟も?」
「え」
固まる風成さん。
薄い微笑みを浮かべ、彼を見据えるサトミ。
少なくとも、この二人に関しては勝負あったようだ。
「いや。言いたい事は分かるけどね。RASの試合なんて、多分この先もう二度と出られないし」
「玲阿流の出場を10年間禁ずるっていう、あれ?」
「そう。おじさんが無茶して勝ったから。今回も変な奴がゴロゴロ出てくるし、面白そうな大会なんだよ。でも、流衣がさー」
結局はこれか。
酒でも飲んでるんじゃないだろうな。
「今なら、まだ棄権出来ますが」
ゆったりとした口調で、諭すように語り掛ける月映さん。
風成さんにとっては実の父であり、玲阿流の師範。
いわば玲阿流の体面を、もっとも気にすべき存在。
でも彼は、あっさりと棄権という言葉を口にする。
「試合に出ても出なくても、玲阿流に影響ないんですし」
「いや。俺は出る。何があっても出場する」
「そうですか。愚痴るのは構いませんが、必ず勝つように」
「当然だろ」
一瞬燃え上がるような目付きをして、しかし次の瞬間すぐに小さくなってソファーにしゃがむ。
今なら、この人がコーシュカのおやつになりそうだな。
「お友達の試合はどうでしたか」
「全試合、圧勝。ライト級は、チーム草薙が優勝です」
「そのセンスは理解出来ませんが、楽しみですね」
にこやかに微笑む月映さん。
やはり突っ込みどころは、そこへ行くか。
「でも、何か怪しげな連中がいましたが。RASとしては問題ないのでしょうか」
サトミの指摘に、月映さんは世間話を聞いたような顔で首を振った。
「世の中、色んな人がいます。時には敵意を向けられる事もあります。それに対しては、我々なりのやり方で対処するだけですよ」
「我々なり」
「遠野さん。そう、怖い顔をしないように。別に力尽くという意味だけではなく、誠意なり礼儀をもって諭す事もあります。ただ、それはRASとしての行動。玲阿流としては、また別ですが」
やはりそこへ行き着く結論。
それはサトミも分かっていたらしく、諦めに近い顔で首を振った。
「流衣がさー」
まだ言ってるのか、この人は。
というか、もう流衣さんが好きで大切でたまらないって感じだな。
こうして愚痴るのはともかく、それはそれで十分に格好いいけどね。
縁側から庭に降り、枯れた芝生の上を歩いていく。
靴底から伝わる、乾いた堅い感触。
周囲を囲む木々は、常緑樹を残して葉が枯れた状態。
落ち葉もすっかり少なくなり、冷たい風にその欠片が飛ばされていく。
「冬だね、もう」
「夏ではないかな、確かに」
足元で寝そべる羽未の背中を撫でるショウ。
体毛は冬毛へと生え替わり、夏よりも堅く暖かい。
また、前よりも少し大きくなった感じ。
寒さに耐えるため、脂肪を体の中に蓄えているようだ。
「羽未も、運動しないと駄目かな」
「毎日、10kmは走ってるぞ。放っておけば、いつまででも走る」
「それで、これ?負荷が足りないんじゃない?」
羽未にまたがり、立つように促す。
すぐに高くなる景色。
流れる風景。
ショウは嫌な顔をするが、これをやらない事には始まらない。
何が始まるのかは、私も知らないけど。
羽未に乗って、しばし庭を散策する。
冷たい木枯らし。力ない白い日差し。
でもこうして大きな背中にしがみついていれば、自然と気持ちは温かくなる。
周囲の目は、、木枯らし以上に冷たいけどね。
「何、してるの」
「乗ってる」
「へぇ」
感心する池上さん。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、うしゃうしゃ笑う事も忘れたらしい。
「柳君は?」
「休ませてる。試合よりも、取材で疲れたみたいね」
「試合なんて、出るから」
後ろからの、刺してくるな口調。
怖いので振り向かずに、羽未の脇腹に触れて歩くよう促す。
「どこへ行く」
「さあ。羽未に聞いて」
馬のようにたずなは付いてないし、羽未に対してそんな事をやる気もない。
大体そんな言う通り動く程、人は犬と意思の疎通が図れない。
「しかも、こんな事して」
とうとう前に回り込んでくる舞地さん。
行く手を遮られた羽未は、自然と足を止めて彼女を見上げる。
といっても、そこはボルゾイ。
元々の目線が高いので、少し顔を上げたくらい。
「ほら、羽未。挨拶」
右の肩に触れ、お手をさせる。
それで軽く舞地さんにタッチさせて、今度は頭に触れる。
すると羽未は姿勢を低くして、そのまま伏せの体勢になった。
「獣使いか」
「そうじゃなくて、触った場所に反応して動いてくれるだけ。ね」
「ばう」
すぐに返事を返してくれる羽未。
この辺に関しては、何に反応してるのかは私も知らない。
「ありがとう。よいしょと」
羽未から降り、最後にその大きな背中に手を触れる。
今度は何かの合図ではなく、ねぎらいと感謝を込めて。
「舞地さんも乗る?」
「乗らない。普通は乗らない」
何も、二回も言わなくてもいいでしょう。
「池上さんは?」
「論外ね。というか、どうして乗る訳」
「この背中と、この体。乗らない方が、どうかしてるんじゃない」
「じゃあ、雪ちゃん以外に誰が乗るの?」
腕を組み、私と羽未を見下ろす池上さん。
誰って聞かれると、誰だ。
「コ、コーシュカは乗るかもね」
「誰、それ。どこの人」
「おーい、コーシュカー」
こう呼べば、羽未ならどこからともなく駆けつけてくれる。
しかしコーシュカは、勝手気ままに生きている。
呼べば来るとは限らないし、呼ばなくても飛びかかってくる。
「あ、良かった。ちょうど、あそこにいる」
「誰もいないわよ」
「あそこだって。おーい、こっち」
あまり何度も呼ぶのでしつこいと思ったのか、仕方なそうな顔で近付いてくるコーシュカ。
この子にそういった感情があるかは知らないけど、私の心情的に。
「な、何、これ」
「コーシュカ。この子なら、乗るよ。……重いな」
脇に手を通し、強引に抱え上げて羽未の上に乗せる。
いや。乗せようとしたけど、重過ぎて止めた。
体格も体重も、おそらく私の半分近く。
でもって今は、力を抜いている状態。
普通以上の重さが掛かってくるため、私程度ではびくともしない。
というか、押しつぶされた。
「ちょっと、重い。何するのよ、この」
真下からコーシュカにしがみつき、脇をくすぐる。
それが気持ちよかったらしく、目の前にある喉がものすごい音で鳴り出した。
見た目も行動も猫だけど、何しろサイズが違うからな。
「お、襲わないの?」
「人に慣れてるから。ちょっと、人のお腹を踏まないでって。この、この」
悠然と人の上を歩いていったコーシュカの尻尾を掴み、ぐいぐい引っ張る。
しかしこれ。太いし長いし、別な生き物にも見えてくる。
「わっ」
手を離した途端、鼻先をかすめるその尻尾。
本人にその意図は無くても、当たればムチに打たれるような物。
やはりこの子は侮れないな。
「雪ちゃんの妹?」
「あのね。どっちかといえば、舞地さんの妹でしょ」
「私の妹は、別にいる」
ごく生真面目に答える舞地さん。
しかも、それほどコーシュカへ近付こうとはしない。
はっきりはしないが、彼女の概念にある猫とは根本的に違う大きさに戸惑っているようだ。
「可愛いのに。ねえ」
触ろうとした途端、その手で叩かれた。
手の甲に残る、肉球の感覚。
前言撤回。この猫だけは許さない。
「何騒いでるんだ。……何だ、これ」
すぐそこまでやってきて、数歩後ずさる名雲さん。
多分猫にしては大きなコーシュカにであって、彼女に飛びかかろうとしている私に対してではないだろう。
「コーシュカ。山猫。リンクスって言うらしいよ」
「飼っていいのか、こういうのは。こっちは、ボルゾイか」
山猫よりは知名度があるらしく、無造作に頭を撫でられる羽未。
勿論コーシュカのように叩きはせず、大人しく芝の上に伏せたまま。
しかし一定の距離というか、それ程気を許した様子もない。
「家が広いと、飼ってるのも変なのが多いな」
「全然変じゃないの。ねえ」
羽未のお腹を撫で、軽く押して横に転がす。
引き締まったそのお腹をもう少し撫でて、仰向けになった羽未の手を持って横に振る。
意味なんて無いし、別に求めてもいない。
私は楽しいし、羽未もきっと楽しい。
それだけで十分だ。
「お前の犬か」
「この家の犬。私になついてるだけ」
「腹を見せるのは、服従の証拠だろ。俺が触ったら、食い殺されるぞ」
「大げさね。名雲君が、逆に食べるんじゃなくて」
嫌そうに呟く池上さん。
よく分からないけど、あまり聞かない方が良さそうだ。
それと、羽未には警戒させた方が良さそうだ。
「人聞きの悪い事を言うな。あの時は、結局止めたんだよ」
「何を。いや、いい。聞きたくない」
「俺も、話したくない。睨んでるぞ、こいつ」
真下からの強烈な視線に、さらに下がっていく名雲さん。
正確には、私が睨ませた訳だが。
なんなら先手を打って、こっちから襲った方がいいのかな。
そんな事をしても仕方ないので、家へと戻る。
縁側に行くと、柳君が座布団の上に座ってた。
初冬の白い日差し。
湯飲みから立ち上る微かな湯気。
柔らかそうな髪がきらきらと輝き、辺りはその光に包まれる。
隣にケイがいなければ、絵に起こしたいくらいの光景だ。
「調子、どう?」
「疲れた。ああいうのは苦手というか、想像してなかった」
ため息と共に告げられる感想。
そう言われると多少辛いが、私の判断は間違えてない。
と、思いたい。
「スケジュールは、取りあえずケイが管理するから。面倒な事は、全部この子にやらせて」
「あのな。大体、俺以外にも口を挟みそうだぞ」
「誰かいた?水品さんが、代わりにやってくれるの?」
「いや。予感というか、確信というか。それに取材はRASを通せば、多少は楽になるだろ」
「任せる。僕は寝る」
座布団をもう一枚敷いて、そのまま横になる柳君。
ケイの膝を枕にして。
何か倒れそうになるけど、本人がいいならそれでいいか。
ケイもはにかみつつ、お茶をすすってるし。
取りあえず、ここにも監視を付けた方が良さそうだな。
あのまま縁側にいても無粋なので、家に上がってキッチンを目指す。
それ以外の場所は殆ど把握してないし、用事もない。
広い、一目で分かる機能的なキッチン。
大きな業務用の冷蔵庫と、いくつものコンロ。
オーブンも二つあり、鍋は寸胴から銅製の小鍋まで揃っている。
包丁の種類を見ただけで、小躍りする人もいるだろう。
そういうマニアではなくて、料理好きな人は。
「何か、無いかな」
一人呟き、テーブルの下の棚を漁る。
野菜には用が無くて、昆布もパス。
お菓子か、するめでも。
「ネズミでもいた?」
その言葉に反応し、棚を閉めてすぐに飛び退く。
間抜けな姿を見咎められた事にではなく、ネズミという言葉に対して。
優しく抱きすくめらえる肩。
流衣さんはおかしそうに笑って、高い位置にある棚からクルミを取り出した。
「食べる?」
「いいけど、割れませんよ」
「ああ、そうか。風成だと、素手で割るから」
なるほどと思い、二つ持って握りしめる。
いや。持とうとしたけど、手から溢れてテーブルに落ちた。
非力以前に、小さいな。
「まだ、怒ってるんですか?」
「そういう事でもないんだけど」
ティーカップを両手で持ち、漂う湯気に視線を落とす流衣さん。
愁いを帯びる、端正な顔。
今の湯気のように、その気持ちの揺れが伝わってくる。
「優さんも、四葉が試合に出るって言い出したら困るでしょ」
「そう、ですね」
多少控えめに、でも素直に答える。
彼女に気を遣っても仕方ないし、取り繕う理由もない。
「去年の事ですけど、一応経験がありますし。正直、あまりいい気分ではなかったです」
「でしょ。私も怒ってるよりは、心配をしてるの。怪我をしたらとか、相手に大怪我をさせたらとか。本人達は、自分がどうなろうが自分の事だと思ってるのかしら」
「そうかも知れませんね。怪我は毎日のようにしてますし、その延長と考えてる気もします」
クルミの欠片を口に含み、その歯応えを味わう。
噛んでいるような、噛んでいないような実感のない堅さを。
「本当、馬鹿なんだから」
「あ、それは分かります」
「いっそ、離婚しようかしら」
薄く微笑み、ミルクをティーカップへ注ぐ流衣さん。
薄茶の紅茶に混じる、白い渦。
それはやがて一つになって、薄茶の綺麗な色になる。
「試合は、やっぱり見に行かないんですか?」
「一応RASの経営者だから、会場には行くだろうけど。私が見ても、仕方ないでしょ」
「風成さんは、見て欲しいんじゃないんですか」
「どうかしら。試合を止めるなら、どれだけでも見に行くわ」
あくまでもその態度を変えない流衣さん。
しかしその気持ちは十分過ぎる程分かるので、私からあれこれ言う事は出来ない。
むしろ彼女に近い考え方とも言える。
「優さんの友達は、どうなった?」
「全部一本勝ち。完璧でした」
「すごいわね。プロとかもいたんでしょ」
「こういうとあれですけど、ベースが違いますから。凶暴な飼い犬と、野生の狼。どっちが強いかって話です」
無論飼い犬でも、土佐犬やボクサーなら強いだろう。
しかし狼相手にどこまで戦えるかは、相当に疑問である。
そしてどちらが飼い犬で狼かは、言うまでもない。
「怖い話ね。その子は、プロに転向する気?」
「さあ。大人しい性格ですし。でも、そのへんはまた色々と」
「色々、ね。悪い事、考えてない?」
「大丈夫です。私はいつも、みんなの事を考えてます」
クルミを割って、中身をティッシュに包む。
これもみんなのために、こうして集めている訳だ。
「何か、ぱっとしないわね」
ティッシュから出てきたクルミを見て、身も蓋もない事を言うサトミ。
人の気持ちがわかんない子だな。
「私は食べるわよ。雪ちゃんが割ったの?」
「ハンマーでね。クルミ割り人形なんて、なかったし」
「チャイコフスキー、ね。真理依は?」
「気楽に、ドボルザークでも聴きたい」
なんか、根本的にずれてないか。
いいんだけどさ、別に。
「名雲さん」
「少ないな。もっとくれよ」
「言うと思った」
まだ殻に入ったままのクルミを、ポケットから取り出す。
この人なら、間違いなく素手で割る事も出来るだろう。
噛むな、噛むな。
「流衣さんは?」
「やっぱり、面白くないって。試合は、見に行かないらしいよ」
「でしょうね。本当、何が楽しいのかしら」
しみじみと呟くサトミ。
そういう言い方をされると、彼を出場させた自分としては肩身が狭い。
とはいえ私も、単なる思い付きだけで行動してる訳ではない。
それ程深い考えがあった訳でもないが。
「何だ、これ。俺にもくれ」
来たよ、飢狼が。
でもって名雲さんからクルミを受け取ると、軽く拳を握りしめた。
後は乾いた音がして、実ごと潰す事になる。
呆れるというか、もう意味が分からない。
「柳君達は」
「縁側で寝てたぞ」
「タオルケット掛けた?」
「座布団掛けてきた」
何だかな。
いや。同じ事だから、いいんだけどね。
「流衣さん、風成さんの試合見ないって」
「らしいな。だけど、どうにもならないだろ。もっとくれ」
「これは、俺のだ。俺のクルミだ」
「俺の家のクルミだろ。俺のだよ」
クルミを取り合う、大男二人。
お姉さんの悩みも何も、関係なしか。
「クルミなんて、どうでもいでしょ」
「どうでもよくない」
声を揃えて抗議してくる二人。
もういいや、どうでも。
「分かったわよ。そっちに、ピーナッツあるから。池上さんはどう思う?」
「男は馬鹿。それだけよ」
一言で終わらせる池上さん。
ただそれには、サトミも私もすぐに頷く。
それは何も、風成さんの事だけじゃない。
目の前で取っ組み合ってる馬鹿二人を見ていれば、誰でも分かる。
いいや。その間に、私達はクルミを食べてれば。




