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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第4話
29/596

エピソード(外伝) 4ー2 ~丹下沙紀視点~





     過去と現在と



     中編




 私はI棟Dブロックの隊長。

 その上にはI棟の隊長、全ガーディアンのトップであるF棟の隊長。

 ガーディアンは自警課に所属するため、自警課課長、事務局長そして自警局長と続く。

 生徒会ガーディアンズは他のガーディアンを統轄する立場にあり、例えば優ちゃんや沢さんも名目上は私の指揮下にある。

 という訳で、私はいわば中間管理者であるともいえる。

 ただ胃の痛むような思いやストレスを感じた事はなく、その意味でも仲間に恵まれていると思う。

 優ちゃんや沢さんだけでなく、上にいる人についても。


「失礼します」

 ドアをくぐり、会釈をする。

「相変わらず颯爽としてるわね、丹下さん」

 静かな、よく通る綺麗な声。

 ショートカットに鋭さを湛えた瞳。

 凛とした雰囲気を持ち、遠野ちゃんに厳しさを加えた感じ。

「お互い様ですよ」

 私はくすっと笑い、報告書の入ったDDを彼女に渡した。

 生徒会自警局、I棟情報管理担当。

 北川麗那きたがわ れなさんに。


 中等部の頃からの知り合いで、私と同じ1年生。

 その時から上下関係にあり、今のように敬語を使う事もある。

 彼女とは色々あったが、それもいい思い出と笑いあえる間柄となっている。

「Dブロック隊長直々に持ってくるなんて、どうかしたの」

「え、ええ。少し話を……」

「ふーん。何だか可愛らしいじゃない、五合ごんごうさん」

 からかうような声が掛けられる。 

 声がした方を見ると、卓上端末の向こう側から元野さんが顔を覗かせた。

「私も提出物を持ってきてたんだけど、ふーん」

「だから五合じゃないって。飲んだくれ姉さんには言われたくないな」

「あら、怖い。ねえ北川さん、今のどう思う」

「知らないわよ、私は。知り合いだったの、あなた達?」

 私達はお互いに首を振り、相手の顔を指さした。

 夏休みの間は彼女と遊ぶ機会が多かったため、今ではこういう事になっている。

「えと。本当は優ちゃん、雪野優さんを通じて知り合ったんです」

「ああ。彼女達の監視、いえ彼女達と同じブロックに移動して……」

「いいのよ、私もユウも知ってるから。自警局長を退学させるような人達だもの。生徒会が警戒するのは当然よね」

 私達の肩に手を置き、机の方へと促す元野さん。


 北川さんと元野さんは、お互いガーディアン組織の幹部という事で付き合いがあったらしい。

「で、話って」

「いえ。昔の知り合いに会ったので」

「席、外そうか」

 自分の顔を指差す元野さん。

「いいの。別に隠すような事でもないし」

「そういう雰囲気じゃないわよ。訳ありなんでしょ」

「丹下さんが気にするような知り合いって……。例えば、木村君とか」

 表情に出てしまったのか、二人は軽く視線をかわす。

 そして私が答えるより先に、北川さんが口を開いた。

「木村君はバスケ部のフォワードで、中1の頃からレギュラーになった人なの」

「何となく、聞いた事ある」 

「顔もスタイルも良くて、口も上手い。当然女の子が放っておかないというか、いつも彼の周りには取り巻きがいたわ」

 一瞬私に視線を向け、話を続ける。

「試合や練習には黄色い声援が飛んで、本人もそれを当然と思ってるような感じ。分かるでしょ」

「ええ」

「そしてその取り巻きの中に、丹下さんもいたという訳」

 肩に手が置かれ、机の上にあった端末が一枚の写真を映し出す。


「今の彼よ。また格好良くなったみたいね、外見は」

 笑顔で平然と言ってのける北川さん。

「バスケ選手としての実績は、確かに一流。でも情報局の調査レポートを読む限りでは、あまり感心しないわね」

 元野さんは目を細め、木村君の個人データを読み耽っている。

 レポート自体は性格検査やごく一般的な情報で、彼の表面的な事が分かるだけだ。

「感心しないって、どうしてそんな事言えるの?」

 彼を弁護する気はないが、つい口に出してしまった。

 私だって、彼の事はよく分かっているのに。

「……何ていうのかな。軽く、視てみたのよ」

「視てみた?」

「古い言い方をすればプロファイリング。今は、データを見ただけでの判断だけど」

 彼のデータを指でなぞる元野さん。


「入学当時バスケ部は部員が不足していて、それなりの実力があればレギュラーを約束してくれた。そして地区大会で優勝を重ねてレギュラー候補も多いサッカー部には入らなかった。小等部ではサッカー部に所属していたのに」

 指がさらに動く。

「初出場の試合で、20得点獲得。備考にはこうあるわ、相手側のファウルによるフリースローが14点。中学1年生。そして当時ディフェンダーの彼に、あえてファウルする必要がどこにあるのか」

「目立つため、故意に?」

「……続けましょう。その際、ファウルをした相手に物が投げられるハプニングがあった。同じだけど中一で初出場の子に、そんなすぐファンが付くのか」

「自作自演って事ね」

 北川さんに頷き、今度は私に視線を向ける元野さん。

「実力は認めるわよ。その後の試合では、ファウル無しでも高得点を重ねてる。とにかくシュートを狙うタイプとあるわ。無理なポジションからでも、強引に。それが彼の魅力とは言われている」

「逆を返せば、自分が自分がという姿勢」

「ごく簡単に言えば、こんな所。本人と話をしていないから、実際とは違うかもしれないけど」

 再び視線が向けられる。

 私は一呼吸間を置いて、口を開いた。


「……間違ってはない。木村君、自分が中心でないと気が済まない性格だから」

 苦笑して北川さんが席を立つ。

「確かにそうね。ごめん、私ちょっと仕事が残ってるの」

 彼女はやはり席を立った私の目を見つめ、その鋭い目元を緩めた。

「誰か、私達以外で頼れる人はいる?」

「いなくもないけど。ただ、その人に話してもあまり意味無い気がして」

「話してないのに、自分で決めつける事無いでしょ。自分の力だけで頑張るより、人を頼った方が楽な時もあるわよ」

「さすが生徒会幹部。言う事が違うわね」

「そういうあなたは、ガーディアン連合幹部。塩田代表の右腕って評判じゃない」 

 元野さんは肩をすくめ、その穏やかな顔をほころばせた。

「塩田さんのお気に入りは、雪野優とその仲間達。私は実務をやるから、塩田さんが使いやすいだけ。あの人、素敵な彼女もいるしね。しかも、年上」

「それ初めて聞いたわ。面白そうだけど、本当に仕事しないと。二人とも、また」


 私と元野さんはI棟生徒会ガーディアンズ統轄オフィスを出て、I棟のCブロックへと向かっていた。

 元野さんの所属するオフィスがそこにあり、私も時折顔を出す。

「先輩と一緒にやってても、元野さんはガーディアン連合の幹部なんでしょ。気を使わない?」

「丹下さんだって局長直属班の隊長だったり、今でもDブロックの隊長じゃない。同じよ、同じ。それに分かってもらえないなら、分かってもらえるように努力する」

「大人ね、それ」

 共感めいた気持を抱きながら、ちょっと笑う。

「それに連合は同好会的な雰囲気で、上下関係も緩いの。先輩後輩という立場は勿論あるけど、それより仲間意識の方が強いわね」

「完全にヒエラルキーの出来た、生徒会のシステムとは違うって訳か。そうでなければ、学校全体を運営出来ないんだろうけど」

「ただその確立されたシステムが、生徒会だけでなくて一般生徒にまで及ぶのが問題ね。生徒会はあくまでも生徒のために活動するべきで、生徒を統制するためじゃないんだから」

「その反発が、生徒同士の抗争や暴力に向かってるのかな。統制が反発を生み、更なる統制を課してしまう。生徒会に所属する身としては、複雑な所ね……」

 お互い相手を友人というよりは、組織を運営する立場になっている。

 冗談を言い合うのも楽しいし、こういうのもまた別な意味で楽しい。

 そんな事を話している内に、元野さんのオフィスへと到着した。



 私達はオフィスの奥に行き、応接室のような所で二人きりとなった。

「仕事、いいの?」

「お互い様。私はケイ君がいないから、相棒にお願いしておいたわ」

「相棒って、木之本君?」

「そう。最近彼女出来たって話。ユウにも今度言っておかないと」

 木之本君とは元野さんと同じガーディアン連合に所属する男の子で、やはり優ちゃん達とも中等部からの知り合い。

 優しい感じの子で、「気が弱いから駄目なのよ」と優ちゃん達がよく言っている。

 ただその言い方もお互いが親しいからであり、私から見れば優しくて気の付く男の子だ。

「恋人、か。いいわね、そういうのも」

「あら、意味深な発言。その木村君とは、やっぱり駄目だったの?」

「私は取り巻きの一人。顔と名前は覚えてもらったけど、デートした訳でもないし」

 何人かで一緒に遊びに行った事は何度かあるが、あれをデートと言うにはかなり無理がある。

「丹下さんを振るなんて、もったいない。私なら、拝んでも付き合ってもらうのに」

「それはどうも。自分で言うのも何だけど、今と大分外見が違ったのよ。髪型も、体型も、顔付きも」

「中身は一緒じゃない」

「それも、どうかしら」

 私は背もたれに寄りかかり、昔の自分を思い返してみた。  


 何となく毎日を過ごしていた。

 目先の事に喜び、悲しみ、笑っていた

 大勢の中の一人。

 みんなと同じになろうと、そうなるように振る舞っていた。

 それはそれで楽しかった。

 今でもそう思っている。

 でもあの日、あの雨の日に私は……。


「何黄昏れてるの」

 春の風のような笑顔。

 私はポニーテールの前髪をかき上げ、古い記憶を頭の中から消そうとした。

「丹下さんも、視てあげようか」

「さっきの木村君みたいに?遠慮しておくわ。恥ずかしいし、何か怖いから」

「怖い、か。なるほど」

 笑顔が消え、真面目な顔で何度も頷く元野さん。

「あ、ごめん。怖いって言うのは言い過ぎたわ。ただ……」

「いいのよ。心の中を覗かれるみたいって、よく言われるもの。エスパーじゃないんだから、そんな事出来ないんだけどね」

「元野さん」

「本当に大丈夫。慣れてるって意味じゃなくて、丹下さんの気持ちは分かってるって事」

 今の言葉が、私の心を視たからでないのは私にも分かった。

 彼女の優しさが、今私の心にも流れ込んできたから。

 人の心を視るのは彼女だけではない、誰もが持っている。

 例えば今の私だって……。


「それにしても、恋人か。私もそんな人いたらなー」

 のんきな声を出して、伸びをする元野さん。

 何となくおかしくなって、声を出して笑ってしまった。

「失礼ね。丹下さんはどうなのよ」

「いたらいいけど、いなくても別に」

「辛い恋をした人は悟ってるわね」

「そ、そんなのじゃないのよっ。私が一方的に好きだっただけなんだからっ」

 今度は私が笑われた。

 確かに、声を張り上げて言う事ではない。


「でも、私達の中で付き合ってる人は少ないのよね。ヒカル君とサトミ。後は木之本君くらいだから」

「優ちゃんと玲阿君は?」

 元野さんは頬に手を当て、小首を傾げた。

「最近は結構いい感じなんだけど、もう一歩が踏み出せてないのよ。本当、はっきりしないんだから」

「中等部の頃はどうだったの」

「もっと曖昧だった。玲阿君は色々あったし、優ちゃんは塩田さんに憧れてたから」

「玲阿君、もてるから」

 ここは頷き合う私達。


「それでもみんな、玲阿君には告白とかしてこないわね」   

「だって、ユウがいるもの」

 くすっと笑い、優しい顔になる。

 愛しい妹の思い出を語る姉のような顔に。

「あの子、自分ではスタイルが貧弱とか顔が丸いとか気にしてるわよ。でも、やっぱりすごい可愛いじゃない」

「そうね。性格もいいし、私が男の子なら、絶対放っておかないわ」

「そこ。そんな子が、殆ど一日中ショウ君の側にいるのよ。ただでさえ可愛くて良い子なんだから、みんなどうしてもユウに遠慮しちゃう訳」

「逆に優ちゃんには玲阿君がずっといる訳だから、今度は玲阿君に遠慮するのか」

 なるほど。

 謎でないけれど、一つ納得出来た。

 後は優ちゃん達を、それとなくいいムードにさせてみよう。

 でもあの二人、変に照れる所があるからな。

「ちなみにサトミとヒカル君は相思相愛。卒業したら結婚するって言ってるし」

「子供出来たら、どうするんだろう」

「大丈夫、だと思うけど。その時は、私達がみんなで面倒見るからいいわよ」

「それいいわね。授業中は廊下でおんぶしてるの?」

 遠野ちゃんの子供なら、すごい綺麗な子になりそうだ。

 ただ相手が、外見は似ている例のお兄さんだから。

 そこは心配の種というか、問題というか。

 とにかく、人柄は似ていなくてよかった。


「……思い出は、綺麗なまま取っておきたい。そう考えてない?」

「かもしれない。結局私は振られたんだから、もう終わってるんだけど」

 しかし元野さんの顔は「まだ引きずってる」という笑顔が浮かんでいる。

「さっき北川さんも言ってたけど、他の人にも相談したら」

「誰に」

「あなたはI棟Dブロック隊長。それを助けてくれる人がいるでしょ」

 直接には言わないが、遠回しという訳でもない。   

「ただあの子に恋愛感情や男女の関係が分かるかと言えば、疑問だけど」

「それ、ひどくない?」

「丹下さんだって、少しはそう思ってるから相談してないんでしょ。それとも、他の理由でもある?」

 返す言葉を考えている自分に気付く。

 即答も、否定もせずに。

 机に肘をついて、体を前に傾ける元野さん。

 私の気持ちを読みとったかのような間を空け、微かに笑う。

「確かに、あの4人の中に割って入るのは少し難しいかな。ヒカル君を含めれば5人だけど」

「元野さんは含まれないの?」

「付き合いが長いって事くらい、私は」 

 優ちゃん達の元野さんに対する態度を考えるとそれは否定したいが、今は彼女の言葉を聞く方が先だ。

「私達も多少は協力したけど、あの子達は4人で色々な困難を乗り越えてきた。分かるでしょ、その絆がどれほどかは」

「ええ。さっきの優ちゃんと玲阿君の話も、それが多少は関係してるんじゃない。長い間、お互いを仲間として見ていたから」

「そうね。ただ、私達が騒いでどうとなる事でもないし。っと、今は丹下さんの話だった」

 わずかに体を起こし、私の顔を上目遣いで覗き込む。

「……でもあなたなら、あの4人と一緒にやっていけるかもしれない。勿論、友達としてなら今でもそうだけど」

「あの人達と肩を並べるなんて、私には荷が重いわよ。でも、一人くらいなら追いつけるかな」

 頭の中で、並んで歩く姿を思い浮かべる。

「もう追い越してるんじゃないの。それとも、どこかで生き倒れてたりして」

「かもしれない」

 顔を見合わせて笑い合う私達。

 そんな事を言われても、全然気にしない人を思い浮かべて。



 廊下を歩きながら、元野さんの言った意味を考えてる。

 隣を駆け抜けて行く女の子達の笑い声が、何となく心地いい。

 確かに、友達という事なら今でもそうだろう。

 ただ仲間と呼べるかと言えば、強い絆があるかと言えばどうなのか。

 一度は戦った間柄でもあるし、付き合いも短く、組織も別。

 そんな表面上の事だけではない。

 同じ思いを抱いて過ごした彼等と、それとは別な所で自分の思いを抱いていた私。

 時間や距離はすぐに埋められる。

 でも気持は、思いはどうなのか。

 そして私は、彼女達とどうしたいのか……。


「また会ったな」

 顔を上げると、木村君が前にいた。

 周りには例によって、女の子が取り囲んでいる。

 無論彼の男友達も一人や二人はいるが、彼等もどちらかといえば取り巻きに近い。

 この数年出会わなかったのに、これで二日連続だ。

 それが偶然か故意なのかはともかく、私の胸が高鳴っているのは確かだ。

 どうしてなのかは、あまり考えたくもないが。

「誰、この子」

 ロングヘアのきつい顔立ちの子が、私を睨んでくる。

 何人かの子も、敵意を満ちた視線を向けてくる。

 後は後ろの方で、おどおどと私と木村君の様子を窺っている。

 私は、どちらかといえば後者の方だった。

「昔の知り合いさ。なあ、沙紀」

 馴れ馴れしい口調。

 女の子達の顔が強ばるが、私もきっと同じ顔をしているだろう。

「そうね……」

 つい同意してしまう。

 否定も、抗う事もせずに。

 昔もそうだった。

 彼の何でもない一言に喜び、動きに見入り、後を追っていた。

 ただ彼に付き従っていたあの日々。

 決してそれを後悔はしないが、無為に過ごしたと思えなくもない。

 「青春って、そんなものかな」と冗談めいた声が聞こえてきそうな程に。


「さっき、連絡入れたんだけどな」

「……忙しくて、端末見てないの」

「まあいい。こうして会えたんだし」 

 昔なら、その言葉がどれだけ嬉しかっただろう。 

 彼は誰にでも、そんな事を言っていた。 

 でも、それが自分だけに向けられた時の喜びはまた別だ。

 そして今、私はどうなのだろうか。


 彼を取り巻く女の子達は、訝しげに私の様子を窺っている。

 当時の顔見知りはいなく、代替わりでもしたのだろうかと思えてくる。

 ファンが多いのでたまたまいないのかもしれないが、そんな事を考えてしまった自分がちょっとおかしかった。

「……何笑ってるのよ」

 最初に声を掛けてきたロングヘアの子が、一歩前に出てきた。

 顔だけでなく、性格もきついようだ。

 誤解を解こうと思って私も前に出たら、下がられた。

 身長は頭一つ、体格は二周りくらい違う。

 当然、大きいのは私の方だ。

「ちょ、ちょっと背が高いからって、いい気にならないで」

 怒るというより、ここまで来ると笑えてくる。

 頭を下げ小さな声で謝ると、彼女達も少し安心したようだ。

 こんな所で揉めても仕方ないし、その揉める原因を考えると余計何事も無く済ませたい。

「それじゃ、用事があるから」

「ああ。またな、沙紀」

 背中に掛けられる甘い声。 

 それがどこまでもついてくるような感覚にとらわれながら、私は自分のオフィスへと向かった。



「辞めたいって、ガーディアンを?」

「ああ。俺には向いてないような気がして」

 高等部から生徒会ガーディアンズに参加した男の子が、今私の前に座っている。

 背もたれに軽く寄りかかり、彼の顔を眺めてみる。

 固い決意という訳ではなく、不安と焦りが感じられる。

「みんな頑張ってるのに、俺は付いていくのがやっとなんだよ。逃げるようで嫌だけど、これ以上ここにいても……」

「みんなは、あなたの事を何も言ってない。それにまだ後期が始まったばかりじゃない。卒業までは、後2年以上。結論を出すのが、少し早過ぎないかしら」

「うん……」

 気持の揺らぎが、手足の動きとなって現れる。

 元野さん程ではないけれど、これくらいなら私にも分かる。

「辞める辞めないは個人の自由よ。ただ私は、絶対に引き留めるから」

「丹下さん」

「今は駄目でも、明日には出来るかもしれない。明日が駄目なら明後日って。まずは限界まで頑張ってみて、結論を出すのはそれからにしたら?」

 彼は何も言わない。

 とはいえ、それが前向きな兆候だと私には思えた。

 自分の中で、考えを整理しているのだろう。


 さらにしばらくの間があり、彼の顔に明るさが戻ってきた。

「私だって、ガーディアンなんて向いてないって思った時もある」

「そうなんだ……」

「でも今は、一応Dブロック隊長という肩書きもついてる。何が自分に向いてるかなんて、すぐには分からない。それにもしあなたが向いてないとしても、ここで努力するのは決して無駄じゃないと思う」

 男の子は照れ気味に頷き、席を立った。

「ありがとう。俺、もう少し頑張ってみる」

「こっちこそありがとう。明日第2体育館周辺のパトロールがあるから、お願いね」

「分かった」

 ここへ入ってきた時とは全然違う、明るい笑顔。

 彼は頭を下げ、元気よくドアを出ていった。 


 軽くため息をつき、マグカップを手に取る。 

 するとドアがノックされ、声が外から掛けられた。

「どうぞ」

 入ってきたのは浦田。 

 手には各種の報告データの入ったDDや書類が抱えられている。

「人生相談は、もう済んだ?」

 皮肉っぽい言い方に、私はドアを閉めるよう促した。

「聞かれたらどうするの」

「もうオフィスを出ていった。鼻歌交じりで」

「よかった。前から辞めたいなんて言ってたから、どうしようかと思ってたんだけど」

 報告書に電子サインを入れていると、苦笑している彼の顔が目に入った。 

「辞めたいなら、辞めさせればいいのに。生徒会に入りたい人はいくらでもいるんだから」

「そう言うと思って、あなたを同席させなかったのよ」

「それはどうも」

 悪びれる事もなく、自分の仕事をこなしていく。

 スケジュール管理や、各種会議の議案関係はほぼ彼に一任している。

 それ以外も色々とやってもらっていて、かなりの空き時間が出来た。

 私はその時間を、今みたいにみんなと話をする時間などへ当てている。


「また、この会議やってるのか。キャンセル、と」

「それはI棟じゃなくて、生徒会全体の会議じゃなかった?」

「備品の使用状況と購入選定なんて、みんなで話し合わなくてもいいだろ。それに話し合っても、結局はその通りの備品を買わないんだから。無意味、無意味」

 勝手に私のスケジュールを作り、会議の欠席を連絡する浦田。

 意見としては同じなので、私も反対はしない。

「この報告書のサイン、どうして岩瀬君になってるの?あなたがまとめたんでしょ」

「俺は手伝っただけで、まとめたのは岩瀬君だから」

「またそうやって、人にサインさせて。あなたが仕事してないと思われるわよ」

「人から評価されるためにやってる訳じゃない」

 淡々と答え、キーを叩いていく。


 少しすると、端末の端に小さな画面が現れた。

 そこに映っているのは、受付とオペレーターも兼ねている女の子。

「丹下さん、お客様が来てるわよ」

「誰?」

「木村さんって名乗ってる。名前さえ言えば分かると仰ってるけど」

「ああ……。ここへ案内してくれるかな」

 そして、席を立ちかけた浦田を見上げる。

「まだ仕事残ってるでしょ」

「忘れ物を思い出した」

「いいから、座ってなさい」

 何も言わずに席に戻ったのを見届け、気持を落ち着ける。

 本当は、落ち着けようとしているだけなのだが。


「どうぞ」

「失礼します」

 ドアが開き、受付の女の子とその後から木村君が入ってくる。

 受付の子はすぐに戻り、木村君は空いていた席にすぐ座った。

 向かい合って座っている私達を見渡せる、その斜め前の席に。

「さっきは人が多かったから、沙紀とあまり話せなくってさ。だから、こうやって会いに来たんだよ」

「そう」

 平気でこんな事を言え、また相手にそうだと思わせるだけの存在感を持っている人である。

 私は一言答えるだけで精一杯だった。

「反応悪いな。わざわざ会いに来たんだから、もう少し喜んでくれよ。昔みたいに」

 にやけた、意味ありげな笑み。

 前に座っている浦田の顔を見てみたが、特に変化はない。

 普段から変化に乏しいので、今も何を考えているかは分かりにくい。

「昔って、もう2年も前の事じゃない。それから私達は、一度も会ってないんだし」

 かろうじて、そう言う。

「そうだな。でも俺は、ずっとお前の事を覚えてたぜ。分かるだろ、その意味」

 頭の中が熱くなる。

 いや、冷たくなっているのだろうか。

 激しく動揺している自分。

 あんな事があったのに、それでもまだ私はこの人をひきずっている。

 憎しみや、怒りだけではない。

 例え淡くても、確かに抱いていた恋心を。


「今から、遊びに行かないか」

「私、まだやる事があるの」

「いいよ、俺がやれる範囲でやっておくから」

 それまで黙っていた浦田が、突然口を開く。

 何か言おうとするより先に、木村君が私の手を取って立ち上がった。

「浦田君、だったか。じゃあ、沙紀は借りてくから」

 頭を下げる浦田。

 そしてオフィスから出ていく私達を見送る彼に、強い眼差しを送る。 

 でも彼は頭を下げただけで、何も言おうとはしなかった。



 学校からすぐ側の喫茶店に入り、窓から街路樹を眺める。

 秋はまだ遠く、緑が残る木々。

 特に感慨めいたものはなく、何となく視界に収まっているだけの光景。 

「彼氏でも出来たか?」

 ストレートな質問。

「いないわよ」

「作らない、の間違いだろ」

 軽く返され、続ける言葉がない。

「俺も、いないんだよ。ファンはいるぜ。でも、特定の女の子はな」

 問い掛けるような視線から目を逸らし、昔の事を思い出す。

 この人に名前を覚えてもらうのに、3ヶ月は掛かった。

 二人きりになった事は数える程だ。

 いつも私は後ろの方で彼を見つめ、声援を送っていた。

 彼が手を振るのはみんなに対してで、それを分かっていて私は手を振り続けた。

 何にしろ、古い話だ。


「だったら、そのファンの子と付き合えば。それ以外でも、いくらでも相手はいるでしょ」

「……分かってるだろ、俺が言ってる事」

 甘い表情が引き締まり、真剣な眼差しが向けられる。 

 私はそれを逸らす事が出来ず、微かに頷いた。

「確かに、何を今さらって言われても仕方ない。でも、別に悪い事言ってる訳でもないだろ」

「それはそうだけど。私は、もうあの時に……」

「何だ、あの時って」

「1年の終わりの時に、大曽根ドームでやった対抗戦。雨が降ってた、あの試合」

 ぽつりぽつりと呟き、彼の様子を窺う。

 頷いてはいるが、私の言っている事は分かっていないようだ。

「ああ。観客同士が大乱闘した、あの試合か。俺が30点くらい取った。あれがどうしたんだ」

「分からなければいいわ」

「そういえば、それからお前いなくなったな。はっきり言えよ」

 しかし私は何も答えず、立ち上っていくクリームソーダの泡を見つめ続けた。


「よく分からないけど、俺が悪いなら謝るよ。悪い」

 テーブルに手を付き、頭を下げる。

 例えスタンドプレーに見えるにせよ、それが彼の真摯な態度であるのははっきりと分かる。

 心苦しくなった私は、顔を伏せて呟いた。

「何も、謝ってくれなくても……」

「気分的なもんだ。俺の自己満足って奴だな」

 爽やかな、彼にふさわしい綺麗な笑顔。

 それも彼の演技かどうかはともかく、私の胸が締め付けられたのは確かだ。

「とにかく。今の話、考えておいてくれよ」

「考えるって」

「今日はお互い、頭冷やそうぜ。また連絡する」

 レシートを取りレジへと向かう彼。 

 その姿が窓の外に見え、遠ざかっていく。

 テーブルに残った彼のアイスコーヒーが、初秋の日差しを受けていた……。


「もう戻ってきたの」

 さっきの女の子が、含み笑いで出迎えてくれる。

 いつでも笑顔を絶やさない彼女。

 そんな彼女に会うと、私はいつも胸が暖かくなる。

 そして今も、重かった気分が少し軽くなった。

「喫茶店で話してきただけよ。あなたが期待してるような仲じゃないの」

「そうですか。私だったら、もう自分から告白しちゃうけど」

「彼のアドレス教えようか」  

「本当?」

 目を輝かせ、端末をリンクする彼女。

 彼は女の子にだらしないが、悪い事をするタイプではない。

 元ファンとして、新たなファンの勧誘といったところか。

「ありがとうっ。さて、早速……」

 端末を操作しだした彼女の背中を見守り、自分の善行に満足する。 


 一応私のために割り振られている、隊長室へ入る。

 そこには出掛けた時と同じようにしている浦田の姿があった。

 私に気付いた彼が、体を解しながら顔を上げる。

「決済とサイン以外は、何とか終わった。後はみんなの意見を聞いて、スケジュールを再調整するくらいかな」

「ご苦労様。ちょっと見せて」

 端末をリンクさせ、初めからチェックしていく。

 殆どはこの人が関与してる報告書やレポートなのだが、その署名はどこにもない。

 私は最後の一つに電子サインを入れ、DDにプロテクトを掛けた。

「DDは全部良しと。手書きの書類の方は?」

「こっち。頑張ってサインして」

 手渡された書類に目を通し、不備をチェックする。

「……何も聞かないの」

 何気ない調子で尋ねる。

「木村君の事?格好良いなとは思うよ。ナルシストな部分があれだけど」

「あなた、あの人の前では妙に丁寧よね」

「俺は丹下の部下だから。それをわきまえてるだけさ」

「部下という前に……」

 自分でも何を言うのか分からなくなったので、強引に口を閉ざした。

 浦田は気にした風もなく、肩口にある生徒会ガーディアンズのIDを眺めている。

「聞かれたくない事や、話したくない事ってあるだろ。今の丹下がそうとは言わないけど」

「その気遣いは嬉しいわよ。でも、だからって」

「俺だって、例えば中等部の事は聞かれたくないと思う時もある」

 日差しの加減か、その顔が微かに翳りを帯びる。

 自分自身に向けられたような、皮肉な笑み。


「昔の俺は、今の丹下や舞地さん達と同じさ。言ってみれば監視役として、ユウ達の所へ送り込まれたんだ」

「それは知らなかった……」

「丹下達と違うのは、俺は監視だけじゃ済まなかったって事。ユウ達の退学、解散、妨害、情報収集。そんな命令ばかりされて、でもみんなは俺と一緒にいてくれてた。さすがに、自己嫌悪って言葉が頭にちらついた」

 SGと書かれたIDをさする浦田。

 苦笑、それとも自嘲。

 薄い笑顔が、窓の外に向けられる。

「で、今もこんな事やってる。しかも今度は、丹下にまで迷惑かけて。楽しくないだろ、こんな話。聞かされるのも、話すのも」

「だから、私の話は聞かないっていうの」

「それと、俺みたいな奴に話しても意味無いって事さ。モトやユウ達ならともかく」

 醒めた、感情を感じさせない表情。

 日差しに細める眼差しは、遠い空を見上げている。


「どうして、そうやって一歩下がるのよ。相手を気遣ってるから?それとも、自分の中に立ち入って欲しくないから?」

 無遠慮な質問。

 気分を害するかもしれない、聞かれたくない事かもしれない。

 でも、言わずにはいられなかった。

 その理由は自分でも分からない。

 それでも私は、彼の横顔を見つめ続けた。

「今度の事だってそうよ。例えば遠野ちゃんに一言言えば、何かいい考えを出してくれるかもしれないわ。でもそうしない。自分だけで解決しようとしてる」

 顔を戻した彼と目が合う。

「みんなに迷惑が掛かると思って、あなたはそうしてるんでしょ。だけどみんなだって、あなたを心配してるのよ。自分だけ犠牲になってみんなを助けるなんて、誰が喜ぶの?」

「別に、そういうつもりじゃないさ」

「だったら、どんなつもりよ。私は遠野ちゃんみたいに頭は良くないし、優ちゃんのような行動力がある訳でもない」

 高まる気持ちを抑え、大きく息を付く。

「でもね。理屈だけじゃ駄目だって分かってる。突き進むだけでも駄目だって。現実に、自分は何が出来るのかって。何をするべきなのかって」

 真っ直ぐ彼を見据える。

「普段のあなたは、その現実を誰よりも分かってる。でも今は、自分自身が過ごしてきた過去を否定してるだけ。自分自身の存在を」

「そうかな」

「過去から目を逸らして、今の自分も否定して。過去だって、あなた自身の現実でしょ。それがあったから、今のあなたがいるんじゃない」

 自分でも思っていなかった言葉があふれてくる。

 何を言っているのか、何を言おうとしているのか。

 それすらも分からない。

 でも彼の考えが間違っているのは、はっきりと分かる。

 それは自分自身にも言える事なのだから。

 少なくとも私は、自分がおかれている現実を今の彼よりも把握している。

 そして彼の現実も。


「あなたは辛いなら逃げればいいって言うわよ。それも悪くないと思う。でも、逃げられない事だってあるはずでしょ。例えば昔優ちゃん達を処分する立場にいた事。それを行動に移したかはともかく、その事実は認めなさい」

 身を乗り出し、真っ直ぐ彼を見据える。

 そこに、いつも見る皮肉な表情は無い。

 力無い、気弱な笑顔しか。


「……何ていうのかな。あの時の気持は、ユウ達にも殆ど話してない。面白くないし、話したくも無かったから」

「じゃあ、私に話して」

「何で」

 顔をしかめる浦田。

 私は席を立ち、彼の隣に腰を下ろした。

 そしてその肩を、ぐいと引き寄せる。

「この距離なら、誰にだって聞かれないでしょ」

 私は受付の子に連絡を入れ、しばらく立ち入り禁止とした。 

 ついでにキーも掛ける。

 苦笑して、彼がその顔を伏せる。

 間近な、それこそ頬が触れ合うような距離。


 少しずつささやかれる彼の心情。

 この人だって、悩み苦しんでいる。

 当然だ、悩まない人などいないのだから。

 そして今、それを私に語ってくれている。

 これでこの人の気持ちが楽になるかどうかは分からない。 

 だけど、私は自分のしている事を間違っているとも思わない。

 今私に出来るのは、彼の話を聞く事。

 一人で悩む必要は無いと分かってもらう事。

 淡々と語る彼の肩を抱きながら、ふと思いだした。

 あの雨の日。

 私の肩を抱き、話を聞いてくれた人の事を。

 遠い、夢の話を……。


「……という事」

 話を終え、小さく息を洩らす浦田。

 すぐ側に見えるその顔は、普段よりも幼く見える。

 あるがままの、15才の少年がそこにはいた。

 子供のような、あどけない表情を浮かべて。

「ごめん。無理に聞いちゃって」

「いや。話を聞いてくれて、俺も気が楽になった。人に頼る事って慣れてないから、ちょっと恥ずかしいけど」

 素直に、その気持ちを告白してくれる。

 俯く彼の顔が、何故か私の心を締め付けた……。



 しばらくして、私達は元の仕事に戻った。

 別にそれまでの事を照れるとか、恥ずかしく思う気持ちは無い。

 目が合うと、つい笑ってしまうのは仕方ないにしろ。

「これ、サインが抜けてるわよ」

「ん?」 

 I棟合同訓練、それの進行予定をまとめたレポート。

 最後のレポート作成者の欄が、空欄になっている。

「ちょうどいいわ。サイン書いて」

「いいよ。これは佐藤さんが担当してたから、ちょっと行ってくる」

「佐藤さん、今はパトロール中」

 ペンを添えて、書類を差し出す。

 それは、嫌な顔で受け取られた。

「何、それ」

「あのさ。これも言いたくなかったんだけど」

 伏し目がちになり、書類を指差す。

「俺、字が下手なんだよね」

「知ってるわよ。でも、自分の名前なら問題ないでしょ」

「さあ、どうだろう」

 浦田はペンを握り、書類へ体を向けた。

「……鉛筆ある?」

「何に使うの」

「その。下書きしようかと思って」

「自分の名前を?」

 真顔で頷かれた。

 ケースから鉛筆を出して、それを渡す。

「まあ、これがあれば俺も」

 やや表情を和らげ、書類に鉛筆を走らせる。

「あ……」

「どうしたの。まさか、間違えたなんて言わないでよ」

「あ、あのさ。消しゴムある?」

 私は消しゴムを渡すより前に、書類を手に取った。

 浦田の「浦」が、「蒲」になっている。


「……どうして草かんむり付けるの」

「いや、その。勢いというか、字が似てるから。頭の中で「浦」と書こうとはしてるんだけど、この手がさ」

 消しゴムで字を消し、もう一度書き直している。

「あ……」

「今度は何」

「はは」

 笑っている。

 書類を見てみると、また「蒲」になっていた。

「……あなた、誰?」

「誰って、浦田珪だよ」

「本当に?ちょっとID見せて」

 自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うが、こうでもしないと納得出来ない。

「浦田珪になってる」

「当たり前だろ」

「だったら、どうして「蒲田珪」になるの」

 答えは戻らず、お互いのため息だけが耳に残る。

「大体この「田」も、「甲」に読めるんだけど」

「気のせい、気のせい」

「サインしたがらないのが、やっと分かったわ」

 鼻を鳴らし、下書きを終える浦田。

 今度は、どうにか書けたようだ。

 というか、書けて当然なのだが。

「さてと、問題は」

 ペンを握り、よろよろと走らせる。

「もっと、力入れたら」

「入ってない?」

 自覚無しである。

 書き上がったのを見てみたら、取りあえずは「浦田 珪」になっている。

 私はアルファベットの筆記体で書く時もあるけど、この人には絶対に進められないだろう。

「あ、まだ消しゴムかけないでよ。インクが滲むから」

 消しゴムを持つ彼の手が止まる。

 不器用プラス、妙なところでせっかちなんだ。

「まずあなたの場合は、自分が不器用だという現実を認めた方がいいわね」

「改めて言われなくても分かってる」

 使わない書類を封筒に入れようとしているらしいが、いつまで経っても入らない。

「冗談はそのくらいにして」

「ああ」

 しかし、書類が入る気配はない。

「……あの、丹下さん。お願いがあるんですけど」

「何でしょうか、浦田君」

「これ、入れてもらえますか」

 おずおずと差し出される書類と封筒。

 別に手間取る事もなく、私は書類を収めた。

 封筒と同じくらいのサイズで入れにくいとは思うが、あそこまで困る物でもない。

「お」 

 感心された。

 顔を見る限り、本気のようだ。

 何だか、急に疲れた。


 ようやく書類のチェックも終わり、気付くと窓の外は暗くなっていた。

「陸上部から、来週の試合に警備依頼があったでしょ。あれ、どうなってる」

「カップルっぽい子達に頼んだ。規模が小さいし、荒れる試合じゃないからデート気分で大丈夫だと思って」

「人の世話焼いてないで、自分はどうなのよ」

「ひっそり孤独に生きてます」

 下らない事を言って、端末の電源を落とす。

 私も電源を落とし、書類をバインダーやファイルケースにしまっていく。

「今日は早く終わったわね。食堂もまだ開いてる時間だし、早く行きましょ」

「いいけど、木村君とご飯食べに行く予定とかないの」

 何気ない感じで尋ねてくる。

「あなたと一緒で、私もひっそりと生きてるの」

 彼の腕を取り、ちょっと強引にドアへ向かう。 

 その顔が、珍しく動揺しているように見えたのは気のせいか。

 端末のディスプレイに映る、木村君からのメッセージ。


 「気が変わった。夕食食べに行こう。タイ料理が……」

 とある。 


 それを消し、さっきから何度も私を見ている彼を窺った。

「何?」

「いや」

 その視線が、私の腕に落ちる。

 彼の腕に絡めた、私の腕に。

「あ、もしかして意識してる?」

「多少」

「何よ、今までそんな事無かったのに」

「俺も、男なんでね」

 素っ気なく呟き、視線を逸らす。

 その無表情な横顔を見ながら、ふと思った。

 木村君なら、どうなんだろうと。

 何て言うんだろう、どうするんだろうと。


 いつの間にか彼と木村君を比べている自分が、そこにはいた。

 私の中で、やっぱり大きな存在だった木村君。

 出会わなくなった後も、思いを抱いていたと思う。

 初恋、あれ程好きだった木村君。 

 そして、今隣を歩いている人。

 そんな二人を比べている自分。

 その意味を、私は考えていた。 











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