エピソード(外伝) 26 ~雪野沙耶(ユウのお母さん)視点~
気持ちは高校生
掃除を終えて、庭に水を撒いて、洗い物を済ませて。
ソファーに座り、お茶を飲む。
主婦としてやるべき事は一通り終え、後は自由な時間。
今日は料理教室もないし、何をしようと誰からも文句は言われない。
暇を持て余した主婦というフレーズで、悪い遊びでもしてみようか。
窓に映る自分の姿。
中学生と見間違うくらいの小柄な体型。
自分でも笑ってしまえる、幼すぎる顔立ち。
若く見られるのが嬉しい年頃ではあるにしろ、夜に補導されるとかなりの苛立ちが募ってくる。
第一浮気という柄ではないし、睦夫君よりもいい男がこの世の中にいるとは思えない。
外見や能力は、探せばどれだけでもいるだろう。
でも、睦夫君という存在はただ一人だけだ。
一人でにやけていても仕方ない。
ティーカップを洗い、衣装部屋で服を探す。
ジーンズと、シャツと、ベストと、キャップ。
全部優の服だけど、あの子は北の大地を踏みしめている最中。
何にしろ、サイズが同じなのは非常に助かる。
むしろ、私の方が小さいくらいではないだろうか。
若干落ち込みつつ、草薙高校へやってくる。
授業中なのか、正門をくぐるのは自分一人だけ。
警備員が不審そうな顔をしたけど、そこは持ち前の愛想笑いで切り抜ける。
「さてと」
警備員の目が届かない位置に着たところでキャップを被り直し、端末で学内の地図を確認する。
今自分がいるのは、正門から真っ直ぐ来た所にある花壇。
なかなか手入れが行き届いていて、秋が深まったこの時期でも綺麗な花が咲き誇っている。
「幾つ教棟があるのよ」
一般教棟だけで5つ。
特別教棟と呼ばれるものが2つ。
特定の授業に使用される教室の入った教棟が、さらに幾つか存在する。
体育館や講堂も複数あり、これでは優が迷うのも無理はない。
第一自分が、すでに迷い加減である。
それ以前に、どこへ行くという目的もないのだけど。
「雪野さん?わっ」
突然叫ぶ大男。
こっちも驚いて、思わず太い幹にしがみつく。
「ああ。御剣君。何してるの、あなた」
「いや。それは、俺の台詞だと思うんですけど」
「たまには、学校見学も良いじゃない」
「危ないと思うけどな、俺は」
ぽつりと漏らす御剣君。
最近学内が荒れてるらしいので、その事を言っているのだろうか。
「だったら、護衛して」
「俺も色々忙しいんです」
「つまらない男ね。女の誘いを袖にするなんて」
「意味が分かりません。それと、気を付けて下さいよ」
大男と別れ、当てもなく学校の中を歩いていく。
白鳥庭園の跡地を利用しているため今でも緑が非常に多く、場所によっては本当に庭園を散策している気分。
今日は風がないため日差しの暖かさがそのまま伝わってきて、何とも気持ちが良くなってくる。
「あら」
小径から外れた森のような場所。
太い木の根本で、固まって丸くなる何匹もの猫。
彼等は何をするでもなく、お互いの体にもたれ日だまりの中で溶け合っている。
あの中に混ざって一緒に寝られたら、この上なく幸せだろう。
猫は昔からの天敵なので、叶う事のない夢ではあるが。
「あいつ。旅行じゃないのか」
「知るか。一人だぞ」
「どうする」
正面から歩いてくる何人もの男。
思わず道を譲りたくなるような、態度も悪く柄も悪い。
何より気になるのは、連中が私に視線を向けている事。
当然顔見知りではないし、今何かをした訳でもない。
これが御剣君の言っていた心配事か。
つまり、私を優と勘違いしての。
あの子は一体この学校で、何をやっているんだろう。
まさかとは思うけど、優自体がトラブルの元なのかもしれない。
「止めとけよ」
どこから声がするかと思ったら、木の上から声がした。
でもって、そこに人の姿も見えている。
「し、塩田?」
「に、逃げろ」
「わー」
完全なパニック状態になり、転げるようにして逃げていく男達。
塩田君は猫の子さながらに、柔らかい動きで木の上から降ってきた。
「何してるんですか」
「みんな、同じ事言うのね」
「それ以外、何を言えば良いんですか」
「あなたも、つまらない男ね。丁度いいわ、食堂に案内して」
一応は良い男のエスコートで連れてこられたのは、一般教棟の食堂。
丁度お昼時とあってか、食堂内は大勢の生徒で賑わっている。
楽しげな笑い声と切れ間無い会話。
食欲をそそる香り、心地よい暖かさ。
これを見ているだけで、十分お腹が一杯になった気分。
「食券制?」
「IDカードで全部済ませます。娘さんから、聞いてません?」
「メニューはしつこいくらい聞かされるわよ。天ぷらがあるわね」
カウンター脇にある今日の献立を表示するモニターをチェックして、具を確かめる。
キノコとキスと、スルメイカ。
ちょっとそそられる。
「私、天ぷら」
「了解」
支払いを彼に任せ、モニターで別オーダーのメニューも確認する。
食べたい物は幾つかあるが、おそらく天ぷらだけでも多いくらい。
いや。待てよ。
「プリン」
「はい?」
「プリン、プリン」
「え、ああ。頼めば良いんですね」
戸惑い気味にプリンも追加する塩田君。
別におかしな事を言った覚えはないが、どうも意味が通じなかったらしい。
天ぷらは若干冷めていた物の、味としては申し分なし。
大量に注文が来る中、これだけの質を保つのは大変だろう。
ただし、問題はこちら。
優が家に帰ってくるたびに説明してくる、食堂のプリン。
高級ホテルのパティシエが偵察に来るという噂もあるらしいが、さて。
「あら」
甘みは抑えめ。
濃厚なコクがありながら、しかし後味はさっぱり。
素材の良さがそのまま生かされた、何とも言えない風味。
食感はまさにとろけるようで、口に含んだ途端形が変わる。
だからといって形がない訳でもなく、絶妙な凝固具合である。
「優が褒めるのも分かるわ。テイクアウト出来る?」
「駄目らしいですよ」
「敵もやるな。ちょっと、メモ取ろう」
一口食べてメモを取り、写真を撮ってメモを取る。
同じ味にするのは不可能でも、これに近い味にはアレンジ出来る自信はある。
「まだ食べてるんですか」
「先に帰って。私、忙しいの」
「娘と同じだな」
何やら聞き捨てならない台詞を残し、トレイを持って去っていく塩田君。
しかし今は、プリンの方が優先される。
カルメラは、ちょっと洋酒が入ってるな。
気付くと食堂内は閑散として、数名の生徒が寂しげに食事を取っていた。
ちょっと集中し過ぎたか。
「満足、満足」
トレイを下げて、厨房の中を覗き込む。
覗き込もうとして、諦めた。
従業員にガードされた訳ではなく、背が届かなかっただけの事。
優がレシピを詳細に伝えてこないのは、この辺りも関係ありそうだ。
授業中のせいか、学内にはあまり人気がない。
あまりというだけで、いるにはいる。
自分が学生の頃は、授業中に教室以外で生徒を見かけるなどあり得なかった。
でもここでは、それが逆に普通らしい。
中には一日授業に出ない生徒もいると言うから、時代は変わったとしか言いようがない。
教棟の廊下は日が差さず、歩いていると少し寒いくらい。
暖房も入っているようだが、一人きりで歩いていると何となく物悲しくなってくる。
「あなた、北海道に行った……。誰」
人を真上から見下ろす綺麗な女性。
どう考えても私より年下で、しかし威厳と自信に溢れた佇まい。
一体何をしようとしていたのか、彼女は私の頭上に伸ばしていたバインダーを慌てて引っ込めた。
「優と勘違いしました?」
「ああ、お母様ですか。一体、ここで何を」
もう、それはいいのよ。
自分が知りたいと答える程間が抜けてはいないので、愛想良く微笑んでどうにかごまかす。
「うちの娘はどうですか」
「友達も多いし、みんなからも好かれている様子ですよ。明るいし、ちょっとした人気者ですね」
「成績はどうでしょう」
「少し落ち着きはないけど、問題はありません。落ち着きはないですけど」
どうして二回言うのだろうか。
しかしそれに関しては思い当たり過ぎるので、こちらも反論のしようがない。
「よろしければ、お茶でもいかがでしょうか」
彼女の案内でやって来たのは、特別教棟の最上階にある見晴らしのいい応接室。
正面に熱田神宮、右手には宮の渡し。
天気さえ良ければ、この角度なら御岳の方も見えるだろう。
「はは、高い」
窓に手を付き、少しはしゃぐ。
熱田神宮を上から見るという珍しい体験に、ついテンションが上がってしまった。
「お待たせしました。高嶋瞳と申します」
丁寧な物腰でやって来たのは、やはり綺麗な落ち着きのある女性。
さっきの彼女より数才年上といった感じで、ただ顔立ちは似ているから親戚だろうか。
「さっき、案内して下さった方は」
「妹は、私の代わりに仕事をしています」
柔らかく微笑む高嶋さん。
彼女もやはり威厳と自信に満ちあふれ、紺のスーツも様になっている。
こうなるとジーンズにシャツという自分の出で立ちが、いかにも子供っぽいな。
「失礼ですが、娘とはどういったご関係でしょうか」
「浅からぬ縁、とでも言いますか。向こうはそれ程親しくは思ってないはずです」
「はあ」
なんとも曖昧な回答。
高嶋さんはティーカップを優雅に傾け、白い湯気越しに笑い気味の視線を向けてきた。
どうやら、何か含むところがあるようだ。
とはいえ私を騙して良い事など特に思い当たらず、好意的な事だとは思うが。
「娘さんの事なのですが。非常に学内では微妙な位置にいるとお気付きでしょうか」
「学校と対立するような事柄に関わっているとは聞かされてます。確かに問題でしょうけど、あの子がそれを信じるのなら私から言う事は何もありません」
「退学、という事態になったとしても?」
「優が正しいと思って行動した結果なら、それは学校が間違っているんでしょう」
そう断言し、紅茶に口を付ける。
少し冷めた、それでも気高い香りは失われない。
人もかくあるべきだろう。
などと、紅茶程度で悟ってみる。
「娘さんを信頼なさってるんですね」
「親なら、誰でも当然ではないでしょうか。信じる信じない、という以前の問題の気もします」
彼女の意図は分からないが、別に遠慮する気もない。
これだけの部屋を使用出来る権限と、ゆとりある物腰。
学内でもそれなりの立場にいるとは思うが、それと優の事とは関係ない。
「私も、足元をすくわれないよう気を付けましょう」
笑い気味にそう答える高嶋さん。
それ程の深刻さはなく、しかしおごっている訳でもないようだ。
ドアがノックされ、スーツ姿の壮年の男性が数名現れた。
彼等は一様にかしこまった態度で、彼女に向かって恭しく頭を下げる。
「理事長。おくつろぎの所申し訳ありませんが、そろそろ会議のお時間です」
「妹がいるでしょ」
「教育庁の審議官とお話ししています」
「仕方ないわね、今行くわ。では雪野さん、またお会いしましょう」
屋上で風に当たったお陰で、どうにか冷や汗も引いてきた。
相手が誰だろうと、優のためなら一歩も引く気はない。
でも彼女は理事長で、その気になれば優を退学させるのもたやすい立場。
向こうにその気は無いようだけど、大見得を切る必要も全くなかった。
陰り始めた日差しも、改めて物悲しい。
それに周りはカップルばかりで、面白くない事この上ない。
そういう事がしたい時期とはいえ、自分が一人だとどうにも苛立ちが募ってくる。
「何黄昏れてるの、雪ちゃん。というか、どうしてここに」
後ろから人の頭を撫でてくる誰か。
でもって、うしゃうしゃ笑っている。
私も一応雪ちゃんの部類ではあるが、そう呼ばれた事は皆無である。
「わっ」
叫び声を上げて後ずさる、人の頭を撫でていた綺麗な女の子。
確か、池上とかいう名前だったか。
「どうも」
「こ、こちらこそ。お母様、ですよね」
「雪ちゃんと呼んで」
「はは。で、何をしてるんですか」
落ち着きを取り戻し、当然の質問をしてくる彼女。
おそらく禅問答よりも答えが難しいため、適当にもごもごいって手すりにしがみつく。
「良い眺めだけど、男がいないと面白くないわね」
「そうでしょうか」
「高校生なら、そう思ったって事。よいしょと」
手すりの下の低い段差に登り、少しだけ景色を高くする。
あくまでも気分的な物であり、実際はどれ程の違いもない。
「雪ちゃんみたいにやらないんですね」
「何を」
「娘さんなら、その手すりの上に乗りますよ」
指さされる、胸元よりも高い位置にある手すり。
その先は少しだけ床がせり出していて、さらに前を行けばぽっかりと空間が空いている。
「私は、そういう事は出来ないのよ。お父さんの家系にもいないから、多分突然変異ね」
「外見は?」
「さあ。お父さん似じゃないかしら」
「まさか」
彼女の後ろにいた、キャップを被った女の子がぽつりと呟く。
この子も綺麗だけど、愛想もないな。
「いいのよ。私の事は放っておいて、子供は勉強してなさい」
どうも優は、ろくでも無い事ばかりやっているらしい。
評判が悪い訳ではないが、それ程良い事をやってもいない。
「はぁ」
ため息を付き、ベンチに座る。
授業が終わったのか目の前には大勢の生徒で賑わう購買があり、彼等はジュースや駄菓子を買って喜んでいる。
体格は大きくてもその辺は子供。
少し安心した。
取りあえずお茶を買い、ペットボトルを傾ける。
玉露入りと書いてあるが、そういう味はまるでしない。
騙してないか、これ。
とはいえ抗議するのも馬鹿らしいし、私の舌が鈍っているだけかも知れない。
「何か」
あまりにもペットボトルを見ていたせいか、キャンペーンをやっていた飲料会社の営業マンらしい若い男性が近付いてきた。
「玉露入りで、高級感があるかと思いますが」
「玉露、ね」
自信を込めて言われると、さすがにむっと来る。
前言撤回。
私の舌は間違ってない。
「入ってないでしょ、これ。いや。入ってるにしても、本当に少しじゃない?」
「な、何を。失礼ですが、どうしてそういう事をおっしゃられるのでしょうか」
「味に決まってるじゃない。茶道部。それか、調理系のクラブの子集まって」
手を叩き、購買全体の注意を喚起する。
普段ならこんな真似はしない。
でも今は雪野沙耶ではなく、雪野優。
後は全部、あの子の問題だ。
ぞろぞろと集まってくる女の子達。
不審そうな顔をする彼女達にペットボトルを一本ずつ渡し、味を確認させる。
「どう」
腕を組み、全員を見渡す。
彼女達はお互いに顔を見合わせ、何とも気まずそうな顔をする。
まさか、玉露100%とか言わないだろうな。
「そう言われてみると、風味が足りないかな」
「甘くないよね。とろみも無いし」
次々と上がる同意の声。
逆に顔を青くする、営業マン。
購買か納品に関わる誰かが、この会社からリベートをもらってるんじゃないだろうな。
「あ、あの。これは手違いがありまして」
「無いのよ。即刻撤収。お金は全部返して」
いきなり前後左右を囲まれ、拉致された。
無論かなり丁寧な扱いではあるけれど、私の意志はどこにもない。
「どういうつもり」
「い、いえ。我々は、お連れするように指示を受けているだけですので」
アメフトのようなプロテクターを着けた大男が、ぺこぺこと頭を下げる。
他の子もかなり怯え気味で、こちらを見ようとしない。
これは私への対応ではなく、優に対しての対応のはず。
つくづく頭が痛くなってきた。
最終的には応接室のような部屋へ通され、紅茶とお菓子が運ばれてくる。
「ご足労をお掛けして、申し訳ありません」
柔らかい物腰で現れる、大人しそうな感じの男の子。
彼が手を振ると周りにいた無骨な男達が引き上げ、彼と数名の女の子が部屋に残る事となる。
「私に、何か用」
「いえ。雪野さんに問題は無いのですが、関係機関との軋轢と誤解を生まないための措置とお考え下さい」
「良く分からないけど、私も優も悪くないわよ」
「承知しています」
余計な事は言わず、すぐに理解する彼。
物分かりが良いというか、話の早い子だな。
「あなた、優の後輩?」
「申し遅れました。小谷と申します。雪野さんには大変お世話になっています」
「お世話してる、の間違いじゃないの」
「いえ。そんな事は」
苦笑する小谷君だが、完全には否定しない。
大体あの子が誰かの面倒を見るなんて、あり得ないというか想像出来ない。
「……失礼します。良かった、何も無かったみたいですね」
息を切らして部屋に駆け込んで来くるや、あまり楽しくない事を言ってくる木之本君。
とはいえ彼に悪気がある訳ではなく、あくまでも私を気遣っての言葉。
もしくは優の日頃の行いか。
「木之本さん。飲料会社の広報から、クレームが来てますが」
「全部僕の方へ回して。それと、お茶の成分分析は」
「こちらをどうぞ」
「ありがとう」
私にも分析結果を見せてくる木之本君。
一応栄養士の資格はあるし、多少の知識は持ち合わせている。
「玉露はビタミンAが他のお茶に比べて豊富なのよ。数値を見る限り、入ってないと考えるのが妥当ね。テアニンも少ないし」
「分かりました。これについては、僕の方で処理しますから」
「あら、私じゃ駄目って事」
「そういう事です」
笑い気味に答える木之本君。
何か色んな意味で信用されて面白くないが、彼の判断が間違ってないのも確かだろう。
ようやく解放されて、建物の外へと出る。
少し日差しが陰り、風も肌寒くなってきた。
並木道には影の列が並び、私の行く手を示している。
「わ」
切なさが胸を締め付ける前に、猫が飛び出てきた。
毛並みの良い黒猫だが、私を見る目は鋭く険しい。
優は動物が好きで、向こうからも好かれるタイプ。
私はどちらでもなく、ただ猫は庭を荒らすので敵だと思う。
「おぅ」
「フーッ」
姿勢を低くして、毛を逆立たせる黒猫。
こちらも対抗上姿勢を低くするが、少し腰が引け気味になる。
なんと言っても向こうは野生で、私はか弱い中年女性。
襲われればひとたまりもない。
「フワーッ」
「わっ」
猫の一鳴きに、背中を向けて慌てて逃げ出す。
走って走って、地の果てまで駆け抜ける。
そのつもりで走ったが、すぐに限界に達して並木道沿いのベンチにしゃがみ込む。
「猫と追いかけっこか」
大笑いして声を掛けてくる、大きな体の男の子。
悪意はないらしく、単に私の行動が面白かっただけらしい。
でもって私が優とは違うと気付いたらしく、しかし笑うのを止めはしない。
「そんなにおかしい?」
「猫に追いかけられる人間なんて、初めて見たので」
確か名雲とか言ったっけ、この子。
彼の隣にはもっと華奢で可愛らしい男の子が寄り添っている。
こちらも笑ってはいるが、天使の微笑みというか甘くて柔らかいそれ。
思わずおかしな気を起こしそうだな。
「雪野の」
「母親よ。あの子、学校で評判良くないわね」
「色んな意味で有名ではありますよ。悪いと言っても、普通の人間には好意を持たれてると思うし」
確かにあの子は愛嬌があるというか、人に好かれやすいタイプではある。
その分血の気が多いため、相殺されれてる気もするが。
「しかし、物騒な学校ね。前は、こんな事無かったのに」
「雪野さんがその中心にいたりして」
くすくす笑う華奢な男の子。
笑い事ではないが、私としても笑うしかない。
「どこかで育て方を間違ったのかな」
「雪野さんは良い子だよ」
意外と真剣な顔で反論された。
それはそれで嬉しくて、何となく彼の頭を撫でてみる。
すると彼は猫の子のように目を細め、そのまま頭を委ねてきた。
何か、家に連れて帰りたくなるな。
「いや。まったりしてる場合じゃない。早く帰って、ご飯作らないと。じゃ、またね」
「ああ。さようなら」
「落ち着き無いのは、遺伝なんだね」
嫌な台詞を聞き流し、学校の近くにある大型スーパーへとやってくる。
品揃えが充実していて、価格もお手頃。
優のような学生割引は効かないが、ここでしか手に入らない食材もあり私の利用度は意外と高い。
カートに買い物かごを入れ、それを後ろから押していく。
量は買わなくても、体力的にかごを持ってうろうろするのは不可能なので。
鯨のベーコンか。
ちょっとパスだな。
ラム肉も、そういう気分じゃない。
「お嬢さん、マグロのカマがあるよ」
魚屋の前を通ったら、そう呼び止められた。
お世辞でもそう言われるのは嬉しいし、嬉しい年頃になってきた。
「カマか。頬肉は?」
「通だね、お客さん。あるにはあるけど、値が張るよ」
「それは問題ない。目玉もあったら、そっちもお願い」
「負けたよ。持ってけ泥棒」
人聞きの悪い言葉を背に受け、用意をしてくれるよう頼んで肉屋へ移る。
パック売りとは違い、こっちは対面販売のコーナー。
鶏の売り場をチェックして、面白い物を発見する。
「ボンポチか」
「鶏の尻尾です。コラーゲンたっぷりで、美味しいですよ」
「じゃあ、二人前焼いておいてもらえますか」
「はい、毎度」
お酒のコーナーで品定めをしていたら、ガードマンと目が合った。
万引きの素振りはしてないし、怪しまれるような事は何もない。
ただそれは私の考え方であり、向こうには向こうの考え方があるだろう。
「お使いかな。でも、お父さんかお母さんと一緒じゃないとお酒は買えないよ」
丁寧な説明口調。
この手の誤解は100年経っても無くならないし、正直大して悪い気はしない。
無言でIDを取り出して誤解を解き、平謝りも止めてもらう。
本当、勘弁して欲しい。
「お酒ですか」
重々しい、私の家系にはいないタイプの声。
天崎さんは例により、ダブルのスーツ。
着こなしは様になっているが、教育庁のエリート官僚の割には変な所に現れたな。
「妻に、買い物を頼まれましてね」
「キャリア官僚自ら、ネギでも買いに?」
「そうではないんですが、大差はありません。ボンポチって、ご存じですか」
発音すら怪しい天崎さん。
高級食材ではないし、エリート官僚の会食の席に出てくる物でもないだろう。
「肉屋さんに売ってます。鳥の尾っぽで、要は脂身ですね。酒飲みにはたまらないかも」
彼の奥さんも料理好きなので、嗜好も思考も私に近い。
マグロの頬肉の事も告げ、それとなく優について探りを入れる。
「最近、草薙高校はどうですか。生徒の成績とか、素行は」
「教育モデル校だけあって、全体のレベルは非情に高いですよ。無論、雪野さんの娘さんも成績優秀です」
教務管理官からの太鼓判。
学校での成績は中の上といった所なので平凡なんだと思っていたが、私が思っている以上に出来る娘らしい。
今度帰ってきたら、ホットケーキでも作ってあげよう。
「ただ、出席率が少し悪いですね」
「はあ」
「遊んでる訳ではないようなので、それ程問題にはなってませんが。出来れば、授業には出席してもらいたいです」
やぶ蛇って多分こういう事を言うのだろう。
とりあえず愛想笑いでごまかし、腕時計を確認してこの場から逃げ出す。
向こうも私を追ってくるほど暇ではないらしく、とりあえずは事なきを得た。
天崎さんに見つからないようボンポチと頬肉を回収し、急ぎ足でデースーパーを出る。
出たまでは良いが、意外に荷物が多かった。
多少よろけ気味になりながら、夕暮れの迫る中バス停へとたどり着く。
切ないというか物悲しいというか、荷物の重さが妙に辛くなってくる。
言いたくはないが、いくら周りから若く見られようとこういう所に老いを感じる。
一昔前なら、人生の下り坂。
何より今でも、上り坂でないのは確かだろう。
バス停の影を受け、バスの到着を待つ。
並んでいるのは、有り余る元気を抑えきれない高校生ばかり。
大声で話し、笑い、時にはじゃれ合い。
それに苛立ちを覚えるよりも、憧憬が先に立つ。
自分の学生時代は戦争の影が付きまとい、大学に入ってからは完全に戦時下の体制だった。
生活の制限も受けたし、食べ物にも事欠くような苦労もした。
ただだからこそ、ここにいる彼等には健やかで伸びやかに育って欲しいと思う。
すぐにバスが到着し、先頭に立っていた私から中へと乗り込む。
幸い手前の方の席が空いていて、買い物袋を提げてよろよろとそこへ辿り着く。
「はぁ」
生徒達もすぐにバスへ乗り込み、車内は大声での話し声と嬌声がひっきりなしに行き交っている。
うるさいにはうるさいが、それを疎ましいと思う程私は枯れてないようだ。
ドアが閉まり、ほぼ満員になったバスが走り出す。
意識する間もなく流れていく夕暮れに包まれた町並み。
優は中等部の頃、しばらくこのコースで学校に通い家へ帰ってきた。
あの子が家を出て寮に住むと言い出してから、もう何年経つだろう。
今でも毎週のように家へは帰ってくる。
だけど優は、また寮へと戻っていく。
頼もしく、ただ親にとっては少し切ない事。
気付かない内にあの子は大人になり、一人で生きていくようになっている。
親としては嬉しい、そして悲しい事実。
肩が揺すられ、それに反応して顔を上げる。
どうやらすっかり寝ていたようだ。
「雪野さん。もうすぐバス停よ」
見知らぬ女子生徒が、私の肩に手を置いて窓の外を指さしている。
言われた通り自宅のそばで、降りるバス停はもう3つ先だ。
「ありがとう」
若干の違和感を感じつつ礼を告げ、口元を手で拭う。
薄暗い外の景色を眺め、ようやく今の出来事が何だったのか理解する。
窓に映り込む自分の顔は、うっすらと陰りを帯びている。
自分で見ても、優に似てると思える顔。
この暗がりなら、間違える人も出てくるだろう。
「良く寝た。最近どう?」
「何がどうなのか、全然分からないけど」
屈託無く笑う女の子。
多分優と話している時もこんな感じで、私自身自然に今の状態を受け入れる。
「今日は、玲阿君と一緒じゃないのね」
その台詞に、周りの子達もくすくす笑う。
とはいえあくまでも好意的に、親しみを持って。
これだけで優と四葉君。
彼女達の周りにいる人達の雰囲気が理解出来る。
「私は、あの子の世話を焼いてるために生きてる訳じゃないのよ」
「はは。遠野さんが良くそんな事言ってるわね」
もう一度起こる笑い声。
私も一緒になって笑い、彼女達の肩に触れる。
伝わってくるぬくもり、暖かさ。
いつまでもここにとどまりたいと思う。
でもそんな事はあり得ないし、私はもう降車のボタンを押している。
これはかりそめの時。
つかの間の幻でしかない。
バス停を降り、薄暗い路地を一人歩く。
街灯によって出来た影が地面に落ち、頼りなく私の前を先導する。
大きな笑い声も、私を優と間違える人もいない。
ただ一人、暗い道を歩いていく。
明かりの灯る家々の窓。
この一つ一つに幸せが宿り、人の気持ちが詰まっている。
優にそう話していたのは、一体いつの事だろうか。
「ただいま」
玄関のドアを開け、一人そう呟く。
そこでふと気付く。
鍵を開けなかった事と、玄関にも廊下にも明かりが灯っている事に。
「お帰りなさい」
何故かエプロン姿で現れる睦夫君。
意味が分からないが、買い物袋を渡して夕食だと告げる。
「買い物はしてくるだろうから、みそ汁でも作ろうかと思って」
「ああ。今日は早く帰って来るんだった」
「大丈夫?」
「勿論。私はいつでも絶好調よ」
彼の腕に抱きつき、そのぬくもりを確かめる。
私は一人きりでしかないけれど。
こうしてそばにいてくれる人がいる。
優だって、一緒に住んでいないだけの事。
そして優の周りには、大勢の人がいる。
私はもうあの子に多くの事はして上げられないし、その必要もなくなっている。
それでも私はあの子の親で、何かあれば自分の全てを懸けても構わない。
本人には言いにくい、少し気恥ずかしい思い。
だけど紛れもない、私の思い。
その思いに免じて、今日の色々な出来事は許してもらうとしよう。
了
エピソード 26 あとがき
この母にしてこの娘ありといった所。
性格的に似ているのは遺伝というより、環境のせい。
幼い頃はお父さんがシベリアに抑留されていたため、母子で過ごしていましたから。
容姿は間違いなく、お母さん似ですけどね。
ただ年齢のためか、視野は広くユウよりは冷静。
戦争を体験しているのも、理由の一つかも。
何をおいてもユウを守り、彼女のために生きているのはお父さんと共通した思い。
ケンカ友達といった風情ですが、それだけ仲が良いという事で。
この家庭では父性と母性が逆転気味。
お父さんが甘くて優しく、お母さんは叱り役。
なんにしろ、幸せ家族なのは間違いありません。




