26-3
26-3
明かりの灯るホテル街。
それとは逆側、右は一転して漆黒の闇。
明かりという存在を完全に拒絶した眺め。
位置としては阿寒湖の奥。
人の立ち入らない。
いや。立ち入るべきではない場所。
聖域と呼ぶのがふさわしいかどうかは分からない。
でもその場所は明らかに、今自分のいる所とは隔絶されている。
分かるのは、そこへ辿り着くのは不可能だという事。
物理的にではなく、精神的に。
温泉を出て、売店をうろつく。
置いてあるのは、典型的なお土産品ばかり。
特に目に付く物はない。
「貝柱、か」
小さな袋に入った、小さな貝柱。
安いは安いが、よく見たらホタテじゃない。
だから安いとも言えるし、こうして並んで置いてないと気付かない。
お土産決定だな。
その売店の隣。
椅子と小さな台だけでこじんまり営業している、フットマッサージ。
こういうのは耐えられないので、すっと通り過ぎる。
いや。待てよ。
「何だ」
近付いてこないケイ。
こっちが近付くと、向こうが遠ざかる。
野良猫だね、まるで。
「お菓子、お菓子あげる」
「誘拐でもするのか」
「いいから、こっち。ほら、飴上げる」
当たり前だが、わずかにも寄ってこない。
彼もこの前を何度か通っているので、この存在に気付いていたようだ。
「やってよ、マッサージ」
「まだ死にたくない」
大げさな子だな。
でもこの手に対しての反応は私以上なので、案外冗談でもない気がする。
だから見てみたかったんだけどさ。
「じゃあ、ショウやって」
「どうしてだ」
「歩いて、疲れてるだろ」
「俺も、こういうのはちょっと」
そう言いつつ、リラックスチェアーに座るショウ。
しかし足が長いので、マッサージのおじさんが少し後ろに下がる。
「い、痛い」
足を揉み出した途端の、普段聞かない言葉。
結構面白いな。
「今のところは、どこが悪いんですか?」
「腰かな」
「い、痛いってっ」
股を叩くショウ。
おじさんは構わず、足の裏を押して回る。
それ程すごい事をやってるようには見えないが、まさしくつぼを突いてるんだろう。
「もっと、強く出来ます?」
「本人が耐えられるなら、別に大丈夫だよ」
「じゃ、限界ぎりぎりまで」
ロビーのソファーに横たわり、ぴくりともしない男の子。
さっきまでは、あれ程暴れまくってたのにな。
今は精も根も尽きたという様子で、微かにすら動く気配はない。
「風邪引くよ」
反応なし。
足の裏をつついてみると、途端に飛び上がった。
どうもここは、敏感になっているようだ。
「あ、あのな」
「風邪引くって言っただけじゃない。大体、こんな所で寝ないでよね」
「誰のせいで」
よろよろと歩いていくショウ。
エレベーターに彼が乗るのを見届け、自分も部屋へと戻る。
本当、世話の焼ける子だ。
やはり今朝も、目覚めがいい。
美味しいご飯と、適度な運動。ゆったりと入るお風呂。
こういうのが贅沢って言うんだろうな。
荷物をバスへ放り込み、よろけるショウも放り込む。
こっちはまだまだ、元気一杯だ。
「早くしないと、時間よ」
また腕時計を指さすサトミ。
今度からは、レンタカーにした方が良さそうだ。
ホテルから空港は、すぐ近く。
早く着いたというか、また時間待ち。
「時間あるし、歩いたら」
「名古屋まで?おい、歩けってさ」
ケイの呼びかけにも無反応のショウ。
時間延長した効果が、てきめんに現れている。
「ご飯でも食べよう。えーと、どこにあるのかなと」
ふと見える、オホーツクラーメンの文字。
オホーツク海は少し遠いと思うけど、それっぽいのでここにするか。
セオリー通りみそラーメンを食べていると、空港内にアナウンスがされた。
「名古屋行き261便へ搭乗予定の雪野優様、雪野優様。恐れ入りますが、空港受付までお越し下さい」
それ程よくある名前ではないし、名古屋行きと限定されれば自分しかいないだろう。
「受付って、どこ」
「一階の右手」
ラーメンの前から離れもしないモトちゃん。
いいんだけど、ちょっと嫌だ。
仕方ないので、階段を下りて受付に向かう。
そこにいるのは、制服姿の凛々しい女性。
こちらも対抗上、来た時にもらったキャップを被る。
「えと、雪野ですが」
「お忙しい中、申し訳ありません。こちらへおこし願えますか」
受付の奥にあるドアを手で示す女性。
なんか、悪い事でもしたかな。
「ご心配なく。トラブルではございませんから」
ただドアには、「関係者以外立ち入り禁止」とある。
これでは、気にするなという方が無理だろう。
おっかなびっくりしつつ、職員のオフィスや倉庫を抜けていく。
やがて出てきたのは、滑走路を見渡せる広い部屋。
初めはVIPルームかとも思ったが、置いてあるのはロッカーくらいで応対するような人もいない。
いや。一人いる。
受付の女性同様、制服姿の女性が一人。
そこで案内役が交代する。
ただ彼女が違うのは、襟に付いてる階級章。
後は、胸元の略章か。
「初めまして」
名前と身分を告げ、敬礼する女性。
私が敬礼するのもなんなので、頭を上げて部屋を見渡す。
「私に何か」
「ご心配なく、こちらへどうぞ」
さっきの女性よりも、よりきびきびした動き。
歩幅は一定で、その背中に隙はない。
ただ全くない訳ではなく、作ろうと思えば簡単に出来る。
その後は、どうか知らないが。
案内されたのは、そこから続く隣の部屋。
もう少し狭い、事務的な。
「お連れしました」
「ご苦労。下がって良し」
「は」
敬礼して去っていく女性。
それに返礼し、こちらに顔を向ける瞬さん。
「何してるんです」
「水品が、ヘリで送ったんだろ。だから、俺も送る」
子供か、この人は。
大体、わざわざ北海道まで。
「でも、おじさんは陸軍でしょ。それに、ヘリでも高いって」
「免許はあるし、金は問題ない。名古屋へ戻る奴に乗るから」
「乗るって、軍は辞めたんじゃ」
「退役軍人は、何かと便宜を図ってもらえる。このくらい軽いさ」
インカムを付けて、どこかと話し出す瞬さん。
たどたどしいけど英語なので、管制か飛行機だろう。
「どうするんですか」
「今言ったように、名古屋まで行く。チケットは、キャンセルした。荷物も積んだ」
馬鹿だな、間違いなく。
でもいいか、言ってみれば客は自分達だけなんだし。
狭い部屋。
激しい爆音。
揺れは収まらず、すぐ隣にいる声も聞こえないくらい。
快適な旅どころか、今すぐ外へ飛び出たいくらい。
高度6000mでは、どうしようもないが。
「降下準備開始。各自最終チェック始め。不備がある者は、後方へ回れ」
「ハッチ開放。第1小隊準備せよ」
「準備完了。降下開始する」
「グッドラック」
親指を立て、外へ飛び出ていく空挺部隊。
思った事を実践している人もいるようだ。
「ここ、うるさい」
「あ、なんだって」
窓を隔てた、降下部隊を眺めるショウ。
かなり楽しそうに、憧れの眼差しで。
付いていけないので、別な場所へ移動する。
「狭い」
コクピットに来たんだけど、結局ここも狭かった。
いるのは瞬さんと、もう二人。
でもパイロットは、パイロットスーツを着た軍人。
もう一人は機関士だろう。
「何してるんですか」
「コ・パイはやる事がないんだよ。特に、俺は」
足を組み、外を眺める瞬さん。
送ってもらうどころか、自分も荷物じゃない。
「馬鹿じゃないの」
その言葉に、顔を引きつらせる二人。
どうやら、この人にこういう口は聞かないのが当然のようだ。
「怖がられてますよ」
「優ちゃん程じゃない」
「あ、そう。これって、ミサイルとか撃つんですか?」
「機銃は付いてるけどね。実際は輸送機だから、装備は殆どない」
なんか、ぞっとしない乗り物だな。
撃たれたら終わり。
撃たれなくても、飛び降りるだけなんて。
「俺も昔は、よく飛び降りたものさ」
「今はやらないんですか」
「楽しいけど、パス。また怒られる」
北海道へ来た時点で、怒られる気がするけどな。
ようやく名古屋へ到着。
長い間轟音の中で揺すられていたため、まだ揺れているような気もする。
最後の最後で、思いっきり疲れたとも言う。
「ここは?」
目の前に見えるのは滑走路。
ちなみにそこを利用しているのは、流線型の戦闘機。
海なんてどこにもないし、私達が名古屋を発った時に利用した東海エアポートには思えない。
「小牧基地さ。さすがに許可無しで、民間空港には乗り入れられないから」
全員の疑問を読み取ったのか、気まずそうに説明する瞬さん。
位置的には、北と南。
もう少し分かりやすく言えば、真逆である。
距離的には、大差ないと思うけどね。
さすがに乗り心地のいい大型バスに揺られ、どうにか自宅へ辿り着く。
「ただいま」
「あら。予定より早いじゃない。お父さん、車の準備してたのに」
「色々と事情があってね。耳痛い」
「目の次は耳?大丈夫なの?」
不安そうに顔を覗き込んでくるお母さん。
心配される事ではないが、それはそれで素直に嬉しい。
一応下らない理由を説明して、お母さんを安心させる。
耳もそうだし、まだ揺れてるな。
「軍用機ね。チケット代は?」
「少し戻ってきた。いいのかどうかは、今は分からない」
ソファーに崩れ、荷物を片付ける。
大半は着替えで、後は洗顔用品の類。
こういう作業も旅の終わりを思わせ、多少の感慨を覚えなくもない。
「これ、お土産」
「貝柱。へぇ、たくさん入ってるじゃない」
例の袋を持って、小躍りしそうなくらい喜ぶ母さん。
ホタテではないと気付くのは少し先みたいなので、とりあえずはどうにかなった。
「後、これ」
「北海道名産まんじゅうって。どの部分が名産なのよ」
「小豆じゃないの。結構大きいな」
一つ開けて、割ってみる。
張りのいい皮と、重い手応え。
中身は普通の餡で、ただ別にそう美味しいという訳でもない。
いや。ちょっと待てよ。
「他、他の開けて」
「誰が食べるの」
「いいから」
今のを元の形に戻し、他のまんじゅうも並べていく。
それを見て、小さく声を上げるお母さん。
「最悪ね。優、知ってて買ったの?」
「まさか」
二人してため息をつき、紙に包み直す。
まんじゅうの表面に描かれた、「北」の文字。
ちなみに、それは先頭。
次が海で、次が道。
後は名に、産。
つまり全部で、「北海道名産」という訳だ。
何というのか、一気に脱力だな。
「やる気なくなった」
「ちゃんと片付けなさい」
「はぁ」
着替えを洗濯機の方へ持って行き、洗面グッズはバスルームと自室へ戻す。
ついでに着替えも済ませ、ソファーに崩れる。
「ご飯、何?」
「お寿司は?」
「向こうで食べた」
「贅沢な子ね。麦飯でも食べてれば」
鉢から山芋を注ぎ、麦飯を掻き込む。
ウズラの卵が嬉しいね。
「明日は?」
「今週一週間は休み。部屋掃除して、後は温泉かな」
「優雅なものね」
じゃあ、部屋の隅にあるまんじゅうは何なんだ。
北海道名産じゃなくて、カニまんじゅうって書いてあるし。
まさかとは思うが、日本海へ行ったんじゃないだろうな。
「輸送機から、人が飛び降りてた」
「ああ、空挺部隊。あそこは、エリート部隊だからね。そのくらい平気でやるよ」
「お父さんは?」
「僕は単なる歩兵だから、銃を担いで歩くだけ。飛び降りる度胸もないし」
それもそうだ。
というか、飛び降りる方がどうかしてる。
清水の舞台から飛び降りるなんて言葉があるけど、やってる事はそれ以上だからな。
「その前にあなた、病院行かないと」
「なんで」
「最低一週間おきに通院しろって言われてるでしょ。北海道で、病院に行った?」
行く訳がない。
大体病院自体を、殆ど見なかった。
そう考えると、身近に病院のあるここは恵まれた環境なんだろう。
サングラスを掛け、慣れた坂を登っていく。
自力ではなくて、車でね。
ただし距離としては、自宅からここまでが多分ショウ達が湖から歩いた距離。
あそこではすれ違う車も数える程だったけど、今はここへ来るまででも一苦労。
無論便利さはこちらの方が上で、私自身離れられないのは分かっている。
ただああいう光景を一回でも見ると、多少は気持ちが揺らがなくもない。
「雪野さん、どうぞ」
アナウンスに応じて、診察室の中へ入る。
未だになじめない消毒の香りと白い壁。
白衣を着た医師が、モニターをチェックしつつこちらを振り返る。
「定期検診みたいなものなので、心配しなくてもいいですよ」
どうやら不安が、顔に出ていたようだ。
診察という行為自体、何度経験しても楽しい事でないので。
「検査結果も良好ですし、問題点は無いですね。今のところは」
嫌な付け足し方。
それは自分でも分かったのか、モニターへ指が向けられる。
「数値的には一定の所まで来ているんですが、標準値には若干及んでないんです。今でも目が疲れるのは、そのためですね」
「大丈夫、なんですか?」
こればかりは、不安にならない方が無理というものだ。
私だけではなく、付き添ってきたお父さん達も。
「少し低いだけで、生活には問題ありません。ただ回復は、緩やかという事ですね。無理に通院する必要はないんですが、時間があれば出来るだけ顔を出して下さい」
なんか、制約を受けたような気分。
それも中途半端な、伸びるけれど解ける事のない紐に絡まれたというのか。
「これ以上悪くなるって事は?」
「絶対とはさすがに言えませんが、まず無いといっていいでしょう。その代わり、あまりストレスをためない事ですね。この辺は医学的にはっきり証明されている訳ではないですが、視神経への負担を掛けないためにも」
もぞもぞとサンドイッチを食べる。
ホットミルクも飲む。
気持ちとしてはあまり面白くないが、お腹はすくので。
これはもう、気長に付き合っていくしかないな。
「今も見えにくい?」
「全然。元がどうだったかも、もう忘れてる」
「鶏、あなた?」
三歩歩いたら忘れるって言いたいのか。
それもそうかなと思いつつ、ホットミルクに蜂蜜を注ぐ。
砂糖とは違う、風味の付いた甘み。
好みはあるだろうが、これはこれで美味しいと思う。
「しかし、名古屋は暖かいな」
今はサンドイッチ屋さんの窓際の席。
店内の暖房と、ホットミルク。
でもって外からの、強い日差し。
半袖でもいいくらいだな。
「向こうは、雪降ってたよ。鹿もいたし」
「鹿なら、動物園行けば。馬もいるわよ」
それは馬鹿って言うんじゃないの。
大体そんな事言い出したら、虎でもライオンでもいるじゃない。
象もいる、ヒョウもいる。
何だ、この熊。真っ白だな。
しかもこの寒空の中、水の中を泳いでるし。
シロクマにとっては、冗談抜きで暑いんだろう。
「はは、氷かじってる」
プールに浮く、大きな氷。
それへしがみつき、牙をたてるシロクマ。
すごいけど、あの氷が自分じゃなくて良かったとも思う。
「優の親戚がいたわよ」
「どこに」
「こっち」
ちょこちょことついて行くと、猿がいた。
猿山というか、猿の群れ。
きゃーきゃー、ぎゃーぎゃー。うるさい事この上ない。
落ち着き無く走り回るし、食べてばっかりだし。
確かに身につまされる光景だ。
ただし私にとっての親戚なら、お母さんにも親戚じゃないの。
「ぎゃー」
柵にしがみつき、吠えてくるお猿。
対抗上、手すりにしがみつき一吠えする。
「おぅ、おぅ」
「止めて、恥ずかしい」
「お猿さんに負けろって言うの?」
「勝ち負けを、どこで判断するの」
なるほど、それももっともか。
きびすを返して立ち去ろうとすると、他のお猿まで一斉に吠え出した。
気のせいだろうが、こっちを見ながら。
許されるなら柵の中に飛び込んで、一頭ずつ誰が強いのか教えてやりたいな。
勿論、そこまで馬鹿じゃない。
手すりにしがみついて吠えるのは、どうか知らないけど。
「お」
広場のような広いスペースを、延々と小走りしている狼。
疲れないのかなと思うけど、向こうにとってはそれが普通なんだろう。
またお猿さんとは違い、態度は至って冷静そのもの。
私の存在には気付いているようだが、特に関心は払ってない。
「愛想がないね」
「犬じゃないんだから。大体、来られても困るでしょ」
肩を押さえるお母さん。
寒いというより、狼がやって来た時の状況を想像したらしい。
私達なんて小さいから、二人で一人分だろうな。
「懐かしいね。僕もシベリアで、何度か見たよ」
「食べられそうになった?」
「いや。狼が頭がいいから。こっちが銃を持ってると、近付いてこない。とはいえ動きが早いから、襲われてたら食べられてたね」
笑いながら話すお父さん。
しかし笑い事でもないと思うけどな。
「こっちは、虎か」
この間見た鹿とは根本的に違う、胸を締め付けてくるような威圧感。
大きさも存在も、何もかもが圧倒的。
やってる事は、ただ地面に寝そべってるんだけど。
とはいえ、向こうは虎。
その気になりさえすれば、この姿勢から一瞬にして獲物へ飛びかかる。
気付いた時には、私なんて骨も残ってないだろう。
大体この腕って、私の腕より太そうだな。
「はは、子供」
大きな虎の胸元で、よたよたと転がり回る小さな虎。
サイズ的には猫よりも二回り大きいくらい。
可愛いには可愛いが、牙もしっかり生えている。
しかしこの手の生き物は、外見だけで判断出来ないのも十分に分かっている。
家に戻り、増えた荷物を片付ける。
食べ物ばかりだから、いずれは無くなる。
いつまでかは、深く考えたくはない。
自分が片付けないだけ、まだましだけどね。
「さてと、部屋でも片付けるかな」
「その前に、キッチンもお願い」
「どうして」
「さあ。あまり考えた事無いわね」
何を言ってるんだか。
仕方ない。適当に物色して、寮に持って帰るとするか。
これがマーマレードで、こっちがピクルス。
日持ちはするし、量も少なめ。
後は、干し肉でも探すとしよう。
「ジャーキーってないの」
「今は無いわね。持って行くなら、もっと大きいのにして」
棚の奥から出てくる、大きな瓶。
何というのか、一抱えありそうな程の。
中は梅干しが、これでもかというくらい入っている。
「売り物?」
「優が食べないから、どんどん増えるんじゃない」
「だったら、漬けるの止めたら」
「私に死ねと言ってるの?」
大げさな人だな。
えーと。これが去年でこれが一昨年。
これは10年物か。
さすがに量は少ないが、しっかりと残っている。
「それに、熟成すると美味しいのよ」
言われるままに、一つ取り出しかじってみる。
塩気や酸味はかなり薄い。
感じるのは梅の風味。
それもこなれた、口当たりのいい。
「売れば?」
「こういうのは、自分で楽しむために作るのよ」
「あ、そう。私が生まれた頃のとか、ある?」
「実家には、あるはずよ」
実家って、ここじゃない。
ああ。お母さんの実家、つまり私にとってはお祖父ちゃんの家ね。
古い棚を開け、壺を探る。
強い、目が痛くなるような匂い。
くらくら来ると、言い換えてもいい。
「お酒?」
「泡盛よ。昔買ったのを、ずっと寝かせてあるの。飲む?」
グラスを振るお祖母ちゃん。
とても飲めるような度数ではないだろうし、匂いがちょっときつ過ぎる。
モトちゃんなら、明日の朝までしがみつくだろうが。
「いらない。それより、梅干し。私が生まれた頃の」
「どこかにあったはずなんだけど。えーと、これか」
出てきたのは、30年前の。
もう梅干しという外見ではなく、種しか残っていないようにも見える。
「あった。これ、これ」
出てきたのは、小さな瓶。
ただ梅は、薄い黄色の液体に漬かっている。
「梅酒じゃないの、これ」
「めでたいから、梅酒も漬けたのよ」
「だから、梅干しだって」
「梅干しなんて、スーパーに売ってるじゃない」
なんか、すごい事を言い出すな。
ふたを開けてみると、さっきの泡盛よりは淡い香り。
心を浮き立たせる、甘く涼しげな。
「ん、美味しい」
10年物の梅干し同様、こなれた味。
お酒というよりも、綺麗な宝石を溶かして飲んでいるような気分。
これだと、薄めなくてもぐいぐい飲めるな。
「子供がお酒飲んでどうするの」
「法律で許されてるのよ」
「私が漬けたのに、どうして飲むって言ってるの」
「うるさいな」
二人して瓶を掴み、奪い合う。
この、年寄りの癖に元気だな。
「うるさいよ」
だるそうにキッチンへ入ってくるお祖父さん。
細くて華奢で、かなり小柄。
間違いなく、体格は遺伝だな。
お祖母ちゃんも小さいけどさ。
「だって、お祖母ちゃんが」
「この子が」
「もういい。それより、飯作ってくれ」
「自分で作れば」
すげなく答え、その隙に人の瓶をひったくるお祖母ちゃん。
仕方ないので、奥の方にあった30年物の梅酒を抱える。
「下らん事はいいから。早く、作ってくれ」
「いい年して、自分でご飯も作れないんだから。本当に、昔の男ってのは」
「そう言うな。優、酒くれ」
グラスを振るお祖父ちゃん。
軽くキッチン内を見渡し、冷蔵庫を開けて鮭の切り身を取り出す。
「年寄りをからかうな」
「はいはい。でも年なんだから、飲むの止めたら」
「人間いつかは死ぬ。だったら、楽しい事をやって過ごせばいい」
アバウトな。しかし、納得も出来る答え。
なるほどなと思い、リュックに梅酒をつめる。
「おい。酒くれ」
「今用意してます。優、お祖父ちゃん連れて行って」
「はいはいと」
年寄りは世話が焼ける訳ではなく、この人は世話が焼けるんだろう。
少なくとも、お父さんのお祖父ちゃんはここまで人に任せっきりではない。
不器用なりに食事は作るし、自分の事は自分でやる。
年代的な男性像もあるけど、箸くらいは自分で持ってきてもいいと思う。
「どうする気、これ」
「の、飲めばいいじゃない」
「誰が」
瓶をつついて、私もつつくお母さん。
つまりは、また増えた食材を見て。
仕方ないじゃない、私が生まれた時の物なんだしさ。
結局、梅干しも梅酒ももらってきたのよ。
自室に戻り、部屋の片付けに取り掛かる。
多少は寮に持って行ってあるが、あちらにあるのは最近買ったのが大半。
ここにあるのは、物心付いた頃からという物ばかり。
だからこそ、何がどこにあるのか分からない状態。
探しても見つからない、なんて物もある。
何を探したらいいのか分からない、とも言えるが。
「さてと」
まずは押入を開け、中を覗き込む。
紙袋に収納ケース。本の山。
どこから手を付けたらいいのかって話だな。
とりあえず手前の紙袋を出し、奥に見えた布袋も出す。
本の山も、何かの箱も。
気付いたら、部屋が物で埋まっていた。
一体、どこにこれだけ入ってたんだというくらい。
勿論、この部屋にあったんだけどさ。
「なんか、疲れた」
一人で呟き、どうにか確保したベッドの隙間にしゃがみ込む。
どうでもいいけど、寝る時はどうするんだろう。
自分の事なのに、かなり人ごとのように考える。
「はぁ」
ため息をつき、滑るようにして床へ座る。
でもって膝を抱え、窓の外を眺める。
開いたままのカーテン。
暗い闇。
明かりのない色。
今自分がいる部屋とは違う。
とはいえ阿寒湖のように、人が立ち入れない世界ではない。
あくまでも、相対的に暗いだけだ。
などと結局人ごとのように考え、膝を抱える。
眠いな、なんか。
「優。さっきの梅酒はどこへしまう……。わっ」
ドアの辺りから聞こえる叫び声。
しかしここへこようにも、荷物が邪魔で近付けないらしい。
「あ、あなた。何してるの」
「片付け」
「ひ、膝抱えてるじゃない」
「そうだね」
やはり人ごとのように答え、上に置いてあった本をめくる。
はらぺこぺこり、か。
懐かしいな、これ。
「今日もカレー、明日もカレー。昨日もカレー。毎日毎日カレー・カレー。かれー、カレーで、彼氏も喜ぶ」
冒頭の文を読んで、内容も思い出す。
カレー屋の子供の話で、毎日カレーばかり食べさせられるという話。
カレーの種類はたくさんあるが、要はカレー。
それがある日、魚を食べられるという事になる。
子供は大喜びするが、出てきたのはカレイのカレー。
昔は意味があまり分からなかったが、下らない駄洒落だったらしい。
「とにかく、片付けなさい」
「どうやって」
「どうやってって、どうやって出したの」
「手前から、一つずつ。でも、どうやってしまう?」
荷物の山と対峙して、二人でしばし見つめ合う。
親子揃えば、少しは知恵が出るのかな。
まず、無理だ。
「ゴミは捨てて、いる物だけ残して」
「何がいるの」
「あ、あなたの物でしょう」
「そうだけどさ。愛着もあってね」
穴の開いた、赤い靴下。
小学校の頃、これという時はこの靴下をはいていた。
いつしか穴が開き、それをほつろい、でもまた穴が開き。
気付けば足が入らなくなっていた。
でもって、今に至る。
要は、捨てられなかった。
「そういうのから、捨てなさい」
「私に死ねと言ってるの」
「どこでそういう言葉を覚えるのよ。とにかく、この辺はいいでしょう」
古い雑誌を、廊下へ出していくお母さん。
背を伸ばしてチェックしてみるが、今見るとそれ程惜しくもない物が大半。
余裕があれば取っておきたいが、どうみても余裕のない状態。
ここは、泣く泣く諦めるとするか。
「古本屋に売れるみたいね」
端末でチェックするお母さん。
でもって額も告げてくる。
お昼ご飯くらいは食べられそうな額を。
それも、私一人分。
まあ、捨てるよりはましと考えるか。
当たり前だけど、片付く訳がない。
十畳の部屋。
そこを埋め尽くす、物の山。
確保したのは、かろうじてベッドだけ。
後は帰るたびに、少しずつやるとしよう。
「ここは」
「服だけ」
「缶詰もあるわよ」
クローゼットの奥から、鯖の水煮を出してくるお母さん。
緊急用に、隠してあるんだって。
今思い出したけどさ。
「大体、自分の部屋も片付いてないのに」
「ここも、私の部屋じゃない」
今いるのは、女子寮の自室。
広い意味でも狭い意味でも、自分の部屋だ。
「まずはこっちを片付けようか。向こうのを少し運んでこれるしさ」
「卒業したら、どうするの」
「その時は家に戻すんじゃない?」
「倍になって戻ってくるだけじゃないの」
真顔で言われると、かなり困る。
とりあえず聞こえなかった事にして、ベッドのマットを剥がしてみる。
若干埃っぽいが、特に隠してある物はなし。
男の子じゃないしね。
「これは、どこへ運ぶ?」
「廊下にお願い」
「分かった」
マットを引きずって、ドアへと向かうお父さん。
やっぱり、持つべき者は親だろう。
タンスの上に指を滑らせ、ホコリを調べている人はともかくとして。
マットを外まで引っ張り出し、スティックで叩く。
あくまでも軽く、柔らかく。
上下、左右。
規則正しく、不意にフェイントも交えて。
「あなたね」
「布団叩きなんてないもん。この、この」
「一人でやってなさい」
ため息をつき、寮へ消えるお母さん。
お父さんの姿もなく、残ったのは私とマット。
後は窓から私を見下ろす女の子くらいか。
見せ物じゃないので、スティックを背負って上を見上げる。
すぐに閉まる窓。どこからかの、謝罪の声。
そうされると、結構困る。
「ユウ、何してるの」
だるそうに、寮から出てくるサトミ。
私が見上げようがスティックを振ろうが、動じる気配はまるでない。
それは付き合いの長さもあるし、人間性もあるだろうな。
「もう済んだ。後は、干すだけ」
「少しは、外観とかを考えたら」
「広いじゃない」
寮の前のロータリー。
その中央にある得体の知れないモニュメントに立てかけられた、私のマット。
別に何も問題ない。
「いいけど。ユウがいいなら」
「私はいつでも大丈夫よ」
「訳の分からない事言わないで。……あれ」
少し高い声を出すサトミ。
マットの上に飛び乗る、小さな黒猫。
でもってサトミの手が伸びてくる前に、小さく鳴いて逃げていった。
愛想が無いどころか、何にをしにきたのかも分からない。
「毛が付いた」
スティックを振って、毛をはたく。
サトミの鼻先をかすめたようにも見えたけど、気のせいだ。
少なくとも、当たってないし……。
ねちねちうるさい子を引き連れ、部屋へ戻る。
当たり前だが、片付いている訳はない。
家と同様、荷物が外に出ただけだ。
量が少ない分、それ程途方には暮れないけどね。
あくまでも、それ程には。
「ゴミはどうするの」
「どれがゴミなのよ」
指さされた袋の中を覗き込み、一つ一つチェックする。
これはいい。こっちは駄目。
いる分だけを確保して、残りは一旦廊下に出す。
「ゴミばかりじゃない」
「片付けてる暇がないの。色々と忙しいのよ、私は」
「ユウは、寝てばかりでしょ」
やいやいうるさい二人。
姑と小姑がいたら、多分こんな感じなんだろう。
一人は実の親だけどさ。
「いっそ、配置換えしようかな」
卓上端末を起動させ、部屋の間取りを表示させる。
動かせる家具は少ないが、こういうのは考えるだけでも楽しかったりする。
「ベッドがここで、ローテーブルがここか。でも、ここだと狭いか。いや、日差しがこっちから来るから」
一通り配置を終え、満足する。
もういい。
これだけで、すでに飽和点に達した。
「で、どれを動かすの」
袖をまくるお母さん。
仕方ないので、ローテーブルの上にあるペンを指さす。
「良かった、軽くて」
笑ってペンを動かすお母さん。
袖をまくったのも冗談で、お互いの体格を考えれば家具の移動なんてまず無理だ。
しかしいっそ、このまま寝てしまいたい気分だな。
それでも一通り片付け、食堂へ向かう。
平日だから、授業は行われている。
そのため寮の食堂は、かなり空席が目立つ。
いる人はいるけどね。
こういう人は、学校を休んで何してるのかな。
煮え立つ小鍋をじっと見つめ、慎重に溶き卵を垂らす。
でもってすぐにふたをして、少し蒸らす。
「よしと」
さっとふたを取り、カウンターに出す。
丁度いい半熟具合で、なかなかいい感じ。
「上手いね」
腕を組んで感心する、厨房のおばさん。
お母さんは口元に手を当て、ほほと笑った。
「全然。偶然ですよ」
それに苦笑しつつ、吹きこぼれそうになっている小鍋の火を弱める。
でもって三つ葉を散らし、卵を注ぐ。
「よしと」
こっちも完成。
これで全部出来たかな。
みんなでテーブルを囲み、ご飯を食べる。
綺麗な眺めもない。
珍しい食材もない。
豪華ではない、だけど美味しい食事。
家族で食べるこその。




