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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第26話   2年編後編
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     26-2




 結構な時間をバスで揺られ、網走のホテルへと辿り着く。

 半分くらい寝てたので、実感としてはそれ程長くもないが。

 また正確には、網走よりさらに東。

 ウトロという場所らしい。

「わっ」

 バスを降りた途端、全身を覆ってくる冷気。

 飛行機を降りた時以上の、冷たさの固まりに入り込んだ感じ。

 荷物を抱え、とにかくホテルに向かって駆けていく。


 広く、綺麗なエントランス。

 チェックインしているのは私達くらいで、少し離れたロビーに浴衣姿の年配客が数名いる程度。

 夕食を摂ってもおかしくない時間だし、これが普通だろう。

 第一、人の事に構っているような余裕もない。

 とりあえず鼻を拭き、案内されるままエレベーターへと乗り込んでいく。



 広い室内。

 壁際は全面ガラス張りで、下りたカーテンの隙間からホテル街の明かりが見えている。

 それ以外は暗闇で、実際の眺めはよく分からないが。

「ふぅ」

 備え付けの梅茶を飲み、一息付く。

 しばらくは動きたくない気分で、実際に動けない。

 何をした訳でもないが、精神的に疲れたのだろうか。

 さんざん寝たのに、未だに眠いし。

「お風呂は?」

「ご飯食べた後でいい。動きたくない」

 座布団を敷き詰め、その上に寝転ぶ。

 ベッドもあるけど、今はそういう気分なので。

 どういう気分かは、自分でも分からないが。

「そういえば、今日選挙ね」

「生徒会長の?」

「国政選挙よ」

 苦笑するサトミ。

 なるほどねと思いつつ、TVを付ける。

 投票終了は、もう少し先。

 CMの度に、しつこいくらい投票を呼びかけている。

 私はまだ選挙権がないし、どこが政権を取ろうと関係ない。

 いや。そうでもないか。

「草薙グループが推す候補は出てるのかな」

「何人かいるみたいね。でも今回は、野党有利らしいから。当選しても、国政への影響力は少ないわ」

 変な事にも詳しい子だな。

 何にしろ関係はないので、チャンネルを変えてサッカーを観る。

 グランパス8に、ストイコビッチの子供が加入?

 誰よ、ストイコビッチって。

「誰、この人」

「知らないわよ。でも名前からして、スラブ系ね」

 知らない割には、引き出しの多い子だな。

 とはいえわざわざ調べる事でもないので、北海道の情報を探る。

「ヒグマの活動が活発になっています。郊外を移動する際は、注意して下さい」

 なんか、すごい情報を発見した。

 まさか大丈夫だとは思うけど、スティックは用意しておこう。

「今日はシベリアから寒波が南下しています。夜半に掛けて、雪もしくはみぞれが降るおそれがあります。車の走行には、注意して下さい」

 雪、ね。

 名古屋はまだ暑い日もあるのに、不思議な物だ。

 なんて思ってると、窓の外で音がした。

 お化けにしては騒々しいし、数が多い。

 大勢のお化け、という事は考えたくもない。


「わ」 

 カーテンを開け、窓の外を見る。

 暗闇の中。

 部屋の明かりに照らされる、降り注ぐ雪。

 大きな、名古屋では見た事のない大きな。

 窓越しに伝わる冷気。

 それでも窓を開け、直に雪を確かめる。

「うわ」

 息が詰まりそうな寒さ。

 前が見えない程の激しい降り。

 雪は名古屋でも年に数度降るが、それとは根本的に違う。

 勢いも、大きさも、量も。

 真下に見える、ホテルの入り口辺り。

 道路はすでにうっすらと雪が積もり、その前に広がる庭は白くなっている。

 視線を左へ移すと、山のような影が微かに見える。

 しかしこれ以上は耐えきれず、窓を閉めて暖房にかじりつく。

「本当に降るんだね」    

 かじかむ指を何度も動かし、冷たくなった頬に当てる。

 自分達は遊びに来ているから、この寒さも一時のもの。

 だが住んでいる人は、これが日常。 

 多分常識というものが、私達とは完全に違うだろうな。

 それは向こうから見た、私達にも言えるだろうが。



 がたがた震えてても仕方ないので、内側から暖めに行く。

 正確には、ご飯を食べる。

 昨日同様、やはりバイキング。

 こちらの方がより観光目的で作られた場所とあって、メニューは豊富。

 品数は数えきれず、食べられない物の方が多いくらい。

 ここは慎重に選ぶに限る。

「へい、何握りましょう」

 はちまきをした、いなせな板さんが手を叩く。

 お品書きを見て、少し思案。

「えーと。マグロにカニ、小さめで」

「へい、毎度」

 手際よく握っていく板さん。 

 余ったシャリを捨てるなんて事はなく、一連の動作は流れるよう。

 気付けば目の前に、2貫並んでいた。

「へい、お次」

「一通り全部」

 馬鹿げた注文を背中で聞き、暖かい物を探す。

 海鮮汁か。

 湯気も立ってるし、匂いもいいし間違いない。

「一つ下さい。少なめで」

 お椀を受け取り、トレイに乗せる。

 ちょっと重いので、一旦テーブルへ。

「漁師汁一つ」

 また後ろから聞こえる、馬鹿げた注文。

 それって、氷水をぶっかけた料理じゃない。



 ちびちびと食べて、次を探す。

 ショウは寒くもないのか、半袖でがっついている。

 もう、意味不明だな。

「またグラタン?」

「美味しいのよ」

 言い訳っぽく告げるサトミ。

 というより、味覚がそれにしか反応しないんじゃないの?

 でも高級料理の味は分かるそうだし、どうなんだろう。

 いいけどね。私は安っぽい物専門で。

「カニある、カニ」

 ざるに盛られた、カニの足。

 すでに包丁が入っていて、後は食べるだけの状態。

 考えようによっては、かなりむごい光景でもある。

 とりあえず2本持って、テーブルへ戻る。

「……何してるの」

「カニ食べてる」 

 それ用のスプーンで、かき込んでいるケイ。

 しかしカニの肉はどれ程も出ず、フォークだけが空回りしてる。

「食べるの止めたら」

「飢え死にしろって言うのか」

 今のままの方が、飢え死にするじゃない。



 お腹が一杯になったので、早々に食堂を後にする。

 どれだけ美味しくても、人間食べられる量には限界がある。

 無い人も、いるにはいるようだが。

 お土産にもらってきたミカンをテーブルに置いて、着替えを持って再び廊下へ。

 お腹が一杯になって、気分も落ち着いてきて。

 後はお風呂に入るだけ。

 脱衣場で手早く脱いで、手早く浴場へ。

 裸でふらふらしてても、仕方ないしね。

 第一、鏡なんて見たくもない。


「っと」

 じゃぶっと湯船に沈み、首まで浸かる。

 縁からあふれるお湯。

 湯煙にかすむ浴場内。

 窓の外は、完全な闇。

 また曇っているため、外からは勿論こちらからも何も見えない。

 晩秋とはいえ、平日。

 客も少ないのか、浴場内もいるのは数名。

 大きな湯船に浸かっているのは私だけ。

 という訳で、手足を伸ばして泳ぎ出す。

 何せ裸なので、プールとは開放感が段違い。

 でもってすぐに熱くなり、外に出る。

「ほら、泳がないで」

 私にではない。

 目の前を犬かきで泳いでいった幼い女の子に対しての、そのお母さんからの言葉。

 当然女の子は聞いてもいなく、すいすいと泳いでいく。

 私の方を時折見ては、すいすいと。

 何となく、勝ち誇った顔で。

 所詮は子供。

 まだまだ、物事が分かってないようだ。

 とりあえず、シャワーでも浴びるかな。 


 体を冷やし、再び湯船に沈み込む。

 そうでもしないと、長い間泳げないので。

 女の子は丁度、湯船の縁で佇んでいる所。

 すっとその隣へ並び、前を向く。 

 何を悟ったのか、縁を蹴って泳ぎ出す女の子。

 しかし結局は、勢いだけの泳ぎ。

 フォームもなってないし、ペース配分も分かってない。

「よっと」

 こっちも縁を蹴り、大きく手足を横へ動かす。

 クロールは大人げないので、平泳ぎで。

 すぐに並ぶ、細い足。

 その横をあっさりパスし、ひと掻きで華奢な体を追い抜いていく。

 どうだと思い、振り返る。

 呆気にとられた、そして物悲しげな顔。

 とりあえず足を止め、手の動きを小さくする。

 さっきよりはゆっくりと、しかし確実に前へ進む女の子。

 無駄が減る動き、バランスのいい一連の流れ。

 女の子は腕の差で、反対側の縁へと辿り着いた。

「やったー」

 勝ちどきを上げ、湯船から上がる女の子。

 それをぼんやりと眺め、こちらも湯船から上がる。

 結局長く浸かっていたので、すっかり茹で上がった。

「優しいのか何なのか、意味不明ね」

 目の前を過ぎていく、長くて綺麗な細い足。

 言葉を返す気力も無く、這うようにしてシャワーへ向かう。




 部屋に戻り、窓を開けて腕を組む。

 吹き込んでくる、肌を刺すような冷気。

 のぼせた今には丁度いい。

 いや。多少、冷た過ぎる空気。

 ただでさえだるいところへ、この寒さ。

 かなり、訳が訳が分からなくなってきた。

「鳴ってるわよ」

 放られる端末。

 さすがに窓を閉め、暖房にかじり付きながら通話に出る。

「何……?え、だるい。……いや、目は大丈夫だけど。……風邪でもない。……ただ、だるいだけで。……あ?今行くっ」

 丹前を着込み、端末と財布を持ってドアへ走る。

「どこ行く気」

「ゲーセン。すぐ戻る」

「戻ってこなくてどうするの」


 脇目もふらず、裾がはだけるのも気にせず地下にあるゲーセンまでやってくる。

 何せ場所は、観光ホテル。

 置いてあるのは、一昔前の物ばかり。

 懐かしい物だったり、見た事も無いような物。

 ずっと探していた物、なんて場合もある。

「これ、これ」

 喜々として、筐体に触れるショウ。

 人型をしたサンドバッグと、その奥にある大きなモニター。

 中等部の頃、さんざん遊んだゲーム。

 一時期は、暇さえあればこの前に張り付いていた。

 これに関しては色々あったけど、今となってはいい思い出だ。

「はは。まだ、あるんだね」

 私はサンドバッグの方へ触れ、その感触を確かめる。

 昔と変わらない、手首へのダメージを吸収する適度な柔らかさ。

 奇妙に動く左右の腕。

 足は駄々っ子のように、前後へ揺れている。

「もうやった?」

「いや。取りあえず、俺から」

 差し込まれるID。

 表示される、「玲阿 四葉」の名前。

 ランクは言うまでもなく、世界チャンピオン。

 未だに記録は残っていたようだ。


 ストリートモードを選択するショウ。

 すぐに聞こえ出す、懐かしい音楽。

 登場するのは、柄の悪い男が一人。

 今のゲームと比べれば、多少雑なCG。

 動きも若干ぎこちない。

 ただそれが、言いようもない感慨を思い起こさせる。

 過ぎ去った過去。

 遠い、もう戻る事はない。

 だけど確かに通ってきた。

「あれ」

 そんな感慨を打ち消す、間の抜けた声。

 モニターに映る、ゲームーオーバーの大きな文字。

 あっさりと、完全に負けたらしい。

「何してるの」

「いや。ちょっと、強くなってないか」

「ショウが強くなってるんじゃないの、普通に考えれば。いいから、交代」

 彼をどかせ、自分のカードをスリットに差し入れる。

 表示されるランクは、「マスター」

 ショウと比較対象が違うのは、お互いのプレーモードが違うから。

 彼はより戦いを求め、私はよりストーリーを求めたため。

「お帰りなさいませ。マスター」

「元気そうね」

「お陰様で、息災に努めております」

 難しい、でも今は分かる言葉。

 ショウの場合はただなぎ倒すだけなので、出迎えどころか敵しかいない。

「軽くやる?」

「承りました」


 不意に伸びてくるジャブ。

 それをかわし、前に出る。

 その途端、死角からフックが飛んできた。

「申し訳ありません」

 画面に表示される、ゲームーオーバーの文字。

 どうも、勘が鈍っているようだ。

「もういい」

「それでは、失礼致します」

 消える画面。

 出てくるカード。

 すべては遠い思い出。

 懐かしさだけに留めておけばよかったな。

「その内、買い取ってやる」

 もぞもぞ呟くショウ。

 本気じゃないだろうな、この人。

「こっちやろう」

 もっと古い、パンチングマシーン。

 簡単な、ただ殴るだけのタイプ。

 今やっているのは、半分酔っているような浴衣姿のおじさん達。

 袖から見える腕には、派手な模様が見えている。

 間違いなく、その業界の人間らしい。

「普通、こういう人って入れないんじゃない?大浴場にいた?」

「いや。別な風呂を貸し切ったんだろ」

 こそこそと話し込んでいる間に、マットを殴り出すおじさん達。

 スコアは大した無く、体もかなり流れ気味。

 ある意味プロなのだが、アルコールが入るとまた違うのだろう。

「なんだ、やるのか」

 すごい顔で振り返る、はげたおじさん。

 町中でこうされたら、逃げるか殴るかどっちかだ。

「やるよ」

 特に臆する事もなく、前に出るショウ。

 体格ではずぬけているので、威圧されるのは向こうだろう。

「下がっててくれ」

「何でだ」

「危ないから」


 無造作なストレート。

 きしむ筐体。

 間違いなく、少し浮いた。

「いまいちか」

 叩き出された数値は、当然ながらトップの記録。

 何がいまいちかは、彼にしか分からない。

「お、お前、ボクサーか」

「いや。高校生」

「嘘だろ。うちの組来るか」

「行かないわよ」

 きっと睨み、ジャブで立て続けに3発叩く。

 早すぎたのか機械はそれを判断出来ず、一発と感知してショウと似た記録を叩き出す。

「うわ」

「なんだ?」

 一斉に下がるおじさん達。

 全く、冗談じゃないって言うの。

「お、俺達はそういう組とはちょっと違うんだって」

「テ、テキヤだ。屋台の、あれ」

「ああ。でも、入らないの」

「そ、そうか。邪魔したな」

 逃げるように去っていくおじさん達。

 残ったのは私達と、異状を告げるパンチングマシーンだけ。

 どうやら、私達も逃げた方がよさそうだ。



 部屋に戻って、拳を冷やす。

 今頃になって、多少痛んできた。

 どうも、かなりむきになってたみたいだな。

「お風呂は?」

「もういい。それより、喉乾いた」

 冷蔵庫のを飲むと高いので、テーブルの上を物色する。

 お茶と、ジュースと。

 また、北海道ビールか。

 ただ名前は熊ビールじゃなくて、鮭ビール。

 何がどう違うのかは、全く分からない。

「好きだね、これ」

「そうじゃなくて、これしか売ってないの」

 空き缶を積んでいくモトちゃん。

 低アルコールだから大した事は無いと思うが、水分だけでも結構な量だと思う。

「まあ、いいか」

 一本もらい、ふと疑問が沸いてくる。

 備え付けの冷蔵庫は、かなり小さめ。

 中はビール以外の物も入っていて、ここにある空き缶だけでも収納出来ない。

「このビール、どうしたの」

「観光地は嫌ね。すぐに、物を売ってくるから」

 だからって、ビールを箱ごと買うか。

「あーあ」

 敷き詰めた座布団の上に寝転び、TVを付ける。

 やる事はないし、何もやる必要はない。

 後はただ、寝る事くらい。

 伸び伸びとした、全ての煩わしさから解放された気分。

 実際には名古屋に帰れば、元の面倒ごとは残っている。

 それでも今くらいは、この気楽さを満喫したい。



 選挙速報の特番を見つつ、うつらうつらとする。

 誰が当選したとか、誰が落選したとか。

 時には地元。

 つまり北海道エリアの当落情報も流すため、余計に訳が分からない。

 名古屋の議員も、誰がいるのか知らないけどね。

「今、何時」

「もう日付が変わってるわよ」

 腕時計を指さすサトミ。

 机には卓上端末が置かれ、TVと端末を交互に見ながら何か作業中。

 旅行中まで、あれこれと忙しい事だ。

「モトちゃんは」

「お風呂。好きね、あの子も」

 こんな真夜中に、温泉ね。

 彼氏でも来てるんじゃないだろうな。

「どこ行くの」

「外行ってくる」

「え?」

「雪見に」



 当たり前だが、一人で出る訳はない。

 がっちりサトミの腕を掴み、恐る恐る玄関を出る。

 露天風呂以上の、尋常ではない寒さ。

 それこそ、顔を上げているだけで固まりそうになる。

「も、戻ろう」

 すぐに玄関へ戻り、二人してロビーのソファーへ崩れこむ。

 これも当たり前だが、外に出るような状況ではなかった。

 でも、出たかったのよ。

「どうぞ」

 すっと差し出されるティーカップ。

 私達の馬鹿げた行動を見かねてか、フロントの人が用意してくれたようだ。

 お礼を告げて、ありがたく口を付ける。

 熱過ぎず、ぬる過ぎず。

 かすかな桜の香りが付いた、体の中から暖まるお茶。

「ここって、熊出ます?」

「熊は、さすがにいませんね。でも、ウサギや鹿はたまに見かけますよ」

 たまに鹿、ね。

 しかし今の外は、吹雪とも呼べるような雪。

 ここに出るのは、せいぜい雪女くらいだろう。



 目覚めのいい朝。

 適当に動いてお風呂に長い間入っているのがいいのだろうか。

 荷物を全部部屋の外へ出し、リュックを背負ってエレベーターに乗る。

 送迎のバスが来るのは、まだ少し後。

 それでも急ぐ理由はある。

 エントランスを出て、緩やかな坂を下りていく。 

 下りても下りても、まだ着かない。

 おかしいな、窓からはすぐそばに見えたのに。

「来た」

 緩やかな坂の終わり。

 切れる建物の列。

 つまり、その先には何もない。

 温泉施設の横を抜け、さらに進む。

 朽ちた木や、葉のない木々を通り抜け。

 人気のない林を抜けていく。

「あれ」

 予想していたのは、一面の海。

 押し寄せる波と、果てしない潮騒。

 砕けた波が飛沫を上げ、風に乗って飛んでいく。

 なんて映像を、頭の中で描いていた。

 少なくともホテルの部屋からは、北の海が見えていた。


 今も一応、見えてはいる。

 崖の下に、漁港と漁船が。

 海と言えば、海。

 ただ下へは当然だが、かなりの段差。

 下りていくような場所も見あたらず、そんな事をしていたら日が暮れる。

 仕方ないので、北の海と戯れるのは諦める。

 というより、バスが来る時間じゃないの。


 緩い坂を、ゆっくりと上る。

 気持ち的にはもう少し急ぎたいが、リュックもあるので限界がある。

 置いてこれば良かったんだけど、そこまで頭が回るようならここまで下りては来ない。

 まだ朝早いため、坂の途中にあるお土産屋さんも半分は閉まっている状態。

 それらを横目に眺めつつ、ホテルへ急ぐ。

 角を曲がれば、もうすぐそこが……。

「わっ」

 思わず飛び退き、後ずさる。

 目の前に現れる茶褐色の動物。

 いや、動物かこれ?

「え、ええ?」

 じりじりと下がり、すぐに端末のカメラをポケットから出す。

 おかしいな、まだ目の調子が悪いのかな。

「う、動かないでよ」

 当然だが私の言葉など気にせず、草を食べている。

 大きな鹿が。


 鹿といっても、奈良にいるあれじゃない。

 何というのか、夢でも見てるんじゃないかというサイズ。

 小さい車が止まってるのかと思えるくらい。

 私が背中に乗ってても、間違いなく気付かないだろうな。

「う、動いた?」

 生きてるから、当たり前か。

 慌てて後ろへ下がり、逃げ道を確保する。

 このサイズで突っ込まれたら、冗談抜きで交通事故だ。

 重量感のある足取り。

 威厳すら漂う、勇壮な姿。

 角は左右に張り出していて、雄々しさという言葉がそのまま当てはまる。

「あれ」

 道路を横断し、ホテルの裏へと歩いていく鹿。

 刺激しないよう、ゆっくりとその後に付いていく。

 しかし何せ、サイズが違う。

 向こうの一歩は、こっちの三歩。

 あっという間に引き離され、鹿はホテルの裏へと消え去った。

 つかの間の邂逅。

 名古屋ではあり得ない、夢のような。

 だけど間違いない現実。

 それはこの寒さが、雄弁に物語る。



 ホテルの前に戻り、止まっているバスの行き先を確かめる。

 これはツアー客のか。

 まだ時間がありそうなので、ホテル内に戻り暖を取る。

 一気に暖かくなる体。

 ロビーには、優雅にお茶を楽しむサトミの姿がある。

「のんきだね。鹿見てきたよ」

「だから、変な動きしてたの?」

「何が」

「ここから見えてたの、ユウが。他の人も、笑ってたわよ」

 ロビーの窓から見える眺め。

 部屋からも見た遠くの海。

 そして緩やかなカーブの坂。

 つまりは、さっき私が鹿と出会った場所。

「鹿は見えた?」

「全然。飛び跳ねるユウは見えたけど。写真撮ってた人もいたわよ」

 悪かったな、馬鹿で。

 大体あんな大きいのがいたら、誰だって慌てるに決まってる。

 慌てない人は、多分気を失っているんだろう。

「カモシカかな」

「エゾシカでしょ。そんなに大きいなら」

「街中でも出るんだね」

「熊が出るくらいだもの。ユウも出るし」

 うるさいな。

 というか、鼻が出てきた……。



 バスに乗り、ぼんやりと外を眺める。

 今は間近に見える、深い色の海。

 道路には昨晩の雪の名残が残っている。

 低い位置にたれ込める、暗い雲。

 窓の隙間から伝わる冷気は変わらず、情景としては重いという言葉が当てはまる。

 ガスが掛かったような道行き。

 低い雲は下の方にまで届き、どうやら雨を降らせているらしい。

 かなりの速度で走っていくバス。

 乗客は私達と、地元の人が数名。

 交通の便が良くないため、そういった人達の足代わりにもなっているらしい。

 いつしか海は切れ、バスは市街地へと入っていく。

 車を降りていく、地元の人達。

 市街といっても店や住宅の数はまばらで、歩いている人の数も少ない。

 そういった町の眺めもすぐに終わり、広い畑が広がり出す。

 収穫時期は終わったらしく、畑は掘り起こされた後ばかり。 

 時折収穫された野菜が、山積みされているくらい。


 徐々に寂しくなっていく眺め。    

 車内に会話はなく、寝ているか外を眺めているか。

 標識は、どこへ行くのも何十キロという距離。

 つまりはこういった眺めが、果てしなく続く。


 どこまでも並ぶ白樺の木。

 その間を流れる、細い川。

 昨日と変わらない、単調で寂しげな眺め。

 道はカーブを繰り返し、徐々に坂を上っていく。

 空はいつの間にか晴れ。

 青く、澄み切った空。

 青と言っても名古屋のそれとは違う、濃い色。

 雲は薄く、どこまでも青い空が広がっている。

「あ」

 一瞬見える湖。

 青く、広い。

 今見た空と見間違えるような。

 でもそれは、すぐ白樺の木々に覆われる。

 繰り返されるカーブ。

 この後何度曲がっても、湖は現れる事はなかった。


 ようやく下りに入る道。

 少しずつ木々も切れ間が増え出し、牧場の看板が現れ出す。

 古ぼけた、赤い屋根のサイロ。

 朽ちた木の柵。

 さっきと変わらない、寂しげな眺め。

 だがそれらの不安は、杞憂に終わる。

 白と黒。

 今朝見たのと似たようなサイズ。

 土の上で丸くなる、牛の群れ。

 子牛は草をはみ、こちらを見ている牛もいる。

 鳴き声はなく、動きも殆どない。

 だけど普段は見るはずもない眺めに、目を奪われる。

 距離としては、かなり離れているはず。

 それでいて、この大きさ。

 近付けば、間違いなくあの鹿と同じ事になる。


 再び坂を登り出すバス。

 景色はさっきと同じような感じ。

 違うのは、その間隔が長い事か。

 近くなる空。

 さらに濃くなる青。

 バスは駐車場へと入っていく。



 バスを降り、上着を着て展望台へと急ぐ。

 売店を過ぎ、手すりへとしがみつく。

 濃く深い、空よりも青い湖。

 眼下一面の水面。

 その彼方には、雪を被った形のいい山がそびえている。

 右手にはやはり雪を被った、急な斜面。

 しかし何より、この深い青に目を奪われる。

 手すりの横にある、撮影用のスペース。

 そこにある看板は、「摩周湖」の文字。

 霧の摩周湖というくらいだから、普通は霧で覆われているんだろう。

 だけど見えているのは、深い青。

 何というのか、言葉がない。

「こんなに青いのね」

「霧なんでしょ、大抵は」

「ええ。大体初めて見た摩周湖が晴れてたら、晩婚なのよ」

 物騒な事を言い出すサトミ。

 空には雲一つ無く、湖の上は澄み切った空気だけ。

 遠くに聞こえるツアーのガイドさんは、こんなに晴れているのも珍しいと説明している。

 霧が出るどころか、本当に驚くくらい晴れている。

「じゃあ、みんな晩婚?」

「そういう言い伝えというだけで、根拠も何もないわよ」

「あ、そう」

 などと納得も出来ず、一旦売店へ退避する。


 お昼には早いし、少し軽めに食べてみる。

 フランクソーセージだって。

 食べると、ソーセージの中にジャガイモが入ってた。

 美味しいけど、何を食べてるのか意味不明だな。

 名物はジャガイモの串刺しらしく、ただそれを食べる程の食欲はない。

 暖かい店内で、お茶を片手に外を眺める。

 手すり越しに見える、澄み切った青い空と深い湖。

 それを、食べ物片手に見られる贅沢さ。

 こういうチープな食べ物だからこそ、気分はよりいい。

「あれ」

 手すりの上にいる、小さなリス。

 距離も近いので、まさか軽トラのようなサイズではない。

 第一、それはリスじゃない。


 寒いけど外に出て、リスを眺める。

 しかし警戒してか、低い植え込みの下から出てこない。

「これか」

 かごの中に、袋に入ったひまわりの種が売っている。

 その横には、小銭を入れるための小さな箱も。

 とりあえず一袋買って、種をそっと投げてみる。

 反応なし。 

 よく見たら、手も付けてない種が地面にたくさん落ちていた。

 なんだ、とてつもなく虚しくなってきた。

「それにしても、綺麗な湖ね」

 手すりから身を乗り出すモトちゃん。

 なにせ背が高いので、その分湖が近付く事になる。 

 たとえ気持ち程度だけだとしても、そうする価値は十分あると思う。

 階段を上り、もう少し高い位置に立つ。

 視点は摩周湖から、もっと右手。

 南の方へ顔を向ける。


 広く、どこまでも続く平原。

 その奥には山の尾根が、見渡す限り広がっている。

 きりがない、果てしない光景。

 視界を遮る物は何もなく、ただ平原と山が見えるだけ。

 実際平原ではなく、釧路湿原らしいが。

 何にしろ、この雄大な眺めは見飽きない。

 方や青く深い湖。 

 方や果てしない湿原。

 それを顔を動かすだけで、どちらも見る事が出来る。

 贅沢以外の言葉が思いつかないな。

「で、どうする気」

 フードを被り、ポケットに手を突っ込んだままのサトミ。

 どうしようって、何もして無いじゃない。

「バスの時間よ。まだ来るのは、何時間も先」

 顎で示される時刻表。

 本数は1日に数本。

 次に来るのは、お昼過ぎ。

「タクシーもないか。まあ、のんびり待てばいいんじゃないの。急ぐ旅でもないんだし」

「良かった。歩いて街まで行こう、なんて言い出さなくて」

 さっさと売店へ戻るサトミ。

 いくら私でも、そこまでの元気はない。

 確かに暇は暇だけど、来た道を考えれば二の足を踏む。

「さてと」

 リュックを背負い直すショウ。

 顔は間違いなく、釧路湿原。

 つまりは、バスに乗って上ってきた道へと向けられている。

「お前、馬鹿だろ」

 鼻で笑うケイ。

 ショウは構わず、手袋をして体を解し始めた。

「時間はまだ大分あるんだ。行くぞ」

「行けよ、どこにでも」

「お前も来るんだ」

「面白いな、それ」

 即座にフードが掴まれ、強引に引っ張られる。

 そのまま大騒ぎしつつ坂を下りていく二人。 

 どうでもいいけど、リュックは置いていけばいいんじゃないの。


 静かな湖畔。

 観光客は全く来ず、いるのは私達とリスくらい。

 ゆっくりと流れる薄い雲。

 店内にいるため風の冷たさはなく、青い空と湖をぼんやりと眺める。

 雲同様、ゆっくりと過ぎる時。

 紙コップの湯気が流れ、湖の上に掛かっていく。

「バスは、まだ大丈夫ね」

 こまめに時間を確認し、駐車場を覗き込むサトミ。

 そこまで心配しなくていいと思うし、多分売店の人が教えてくれる。

 バスの代わりに来たのは、大型のバン。

 降りてきたのは、私達より少し年上風の男の子達。

 暇を持てあました大学生といったところか。

「寒いなー」

「ああ」

 それ以上続かない言葉。

 店内にいる客は、私達だけ。

 自然と視線は、こちらへと向けられる。

 暇そうな、女の子3人へと。

 正確には、私が見えているかどうかは不明だが。

「バス待ってるの?」

 声を掛けてくる、長い髪の男の子。

 私にではなく、セオリー通りにサトミへと。

 どうも無視しそうな雰囲気だったので、肘をつついて車を指さす。

 すぐに目線で応じるサトミ。

 この辺は彼女が天才と言うより、付き合いの長さだな。

「ええ。でも、全然来なくて困ってたんです」

「良かったら、街まで乗っていく?いや、大丈夫。何もしないから」

 当たり前だ、されたら困る。

 無論、される気もないけどね。

「3人なんですけど、大丈夫ですか?」

「ああ。10人は乗れるから」

 なるほど、いい事聞いた。


 緩やかなカーブを下っていく車。

 軽めの音楽と、暖かい飲み物。

 男の子達の会話へ適当に相づちを打ちつつ、外に注意する。

「みんな可愛いね。いや、本当に」

「また。冗談ばっかり」

 へらへら笑い、お茶を飲む。

 お世辞だろうがサトミ達がメインだろうが、誉められて悪い気はしない。

 何より、暖かなのが嬉しいね。

「はは。歩いてる奴がいる」

 笑い出す、運転している男の子。

 街から摩周湖までは一本道。

 ただし、かなりの長さの。

 歩く理由がないし、登ってくる時もそんな人は見なかった。

「ゆっくり走ってもらえます?」

 静かに、しかし逆らえないだけの迫力を込めて告げるサトミ。

 私は外を見るのに忙しくて、それどころじゃない。

「え、ああ」

 言われるままに速度が落ち、歩いている二人連れの後ろに付く。

 緩い下り、外気温は四度。

 人気はまるでなく、白樺が延々と続くだけの眺め。

 何も面白くないし、ただ疲れるだけだ。

「はは。馬鹿」

 窓を開け、指をさして笑う。

 顔を上げたのはショウだけ。

 ケイは無言で、俯いたまま歩いていく。 

 聞こえない訳ではなく、構う余裕がないのだろう。

 距離としては、もう少しで街に着く辺り。

 それにしても、よく歩いたな。

「乗せてもいいですか?」

「え」

「構いませんよね」

 強い押しで攻めるモトちゃん。

 駄目だよと言える雰囲気でもなく、車が止まり二人が乗り込む。

「はい」

 お茶を受け取り、それをすぐ空にするショウ。

 ケイに至っては無反応で、荒い息を繰り返すだけ。

 時間の割には下まで降りてたし、どうも走ったみたいだな。

 何がやりたいのか分からないし、大体どうして歩いて行こうと思ったのかが分からない。

 それは何より、ケイの台詞だろうが。



 街まで来て男の子達に別れを告げる。

 向こうは騙されたという顔をしてたけど、それは半ばお互い様だ。

 大体そう都合良く、女の子が車に乗り込む訳はない。

 再び電車に揺られ、今度は阿寒湖を目指す。

 閑散とした車内。

 やはり同じような景色。 

 旅情という趣か、それとも寂寥感か。

 どちらにしろ静かで、日差しもかげり気味。

 暖房が効いている車内も、何か寒い感じがする。

 延々と続く峠道。

 下に見える、自分達が過ぎてきた道。

 緩やかに曲がる、果てしなく長い道。

 過ぎてしまえば一瞬の、だけど今は高い頂にいる。

 かげっていく日差し。

 消え始める道。

 そこを走るバス。

 自らのヘッドライトで照らされた道を。













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