26-2
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結構な時間をバスで揺られ、網走のホテルへと辿り着く。
半分くらい寝てたので、実感としてはそれ程長くもないが。
また正確には、網走よりさらに東。
ウトロという場所らしい。
「わっ」
バスを降りた途端、全身を覆ってくる冷気。
飛行機を降りた時以上の、冷たさの固まりに入り込んだ感じ。
荷物を抱え、とにかくホテルに向かって駆けていく。
広く、綺麗なエントランス。
チェックインしているのは私達くらいで、少し離れたロビーに浴衣姿の年配客が数名いる程度。
夕食を摂ってもおかしくない時間だし、これが普通だろう。
第一、人の事に構っているような余裕もない。
とりあえず鼻を拭き、案内されるままエレベーターへと乗り込んでいく。
広い室内。
壁際は全面ガラス張りで、下りたカーテンの隙間からホテル街の明かりが見えている。
それ以外は暗闇で、実際の眺めはよく分からないが。
「ふぅ」
備え付けの梅茶を飲み、一息付く。
しばらくは動きたくない気分で、実際に動けない。
何をした訳でもないが、精神的に疲れたのだろうか。
さんざん寝たのに、未だに眠いし。
「お風呂は?」
「ご飯食べた後でいい。動きたくない」
座布団を敷き詰め、その上に寝転ぶ。
ベッドもあるけど、今はそういう気分なので。
どういう気分かは、自分でも分からないが。
「そういえば、今日選挙ね」
「生徒会長の?」
「国政選挙よ」
苦笑するサトミ。
なるほどねと思いつつ、TVを付ける。
投票終了は、もう少し先。
CMの度に、しつこいくらい投票を呼びかけている。
私はまだ選挙権がないし、どこが政権を取ろうと関係ない。
いや。そうでもないか。
「草薙グループが推す候補は出てるのかな」
「何人かいるみたいね。でも今回は、野党有利らしいから。当選しても、国政への影響力は少ないわ」
変な事にも詳しい子だな。
何にしろ関係はないので、チャンネルを変えてサッカーを観る。
グランパス8に、ストイコビッチの子供が加入?
誰よ、ストイコビッチって。
「誰、この人」
「知らないわよ。でも名前からして、スラブ系ね」
知らない割には、引き出しの多い子だな。
とはいえわざわざ調べる事でもないので、北海道の情報を探る。
「ヒグマの活動が活発になっています。郊外を移動する際は、注意して下さい」
なんか、すごい情報を発見した。
まさか大丈夫だとは思うけど、スティックは用意しておこう。
「今日はシベリアから寒波が南下しています。夜半に掛けて、雪もしくはみぞれが降るおそれがあります。車の走行には、注意して下さい」
雪、ね。
名古屋はまだ暑い日もあるのに、不思議な物だ。
なんて思ってると、窓の外で音がした。
お化けにしては騒々しいし、数が多い。
大勢のお化け、という事は考えたくもない。
「わ」
カーテンを開け、窓の外を見る。
暗闇の中。
部屋の明かりに照らされる、降り注ぐ雪。
大きな、名古屋では見た事のない大きな。
窓越しに伝わる冷気。
それでも窓を開け、直に雪を確かめる。
「うわ」
息が詰まりそうな寒さ。
前が見えない程の激しい降り。
雪は名古屋でも年に数度降るが、それとは根本的に違う。
勢いも、大きさも、量も。
真下に見える、ホテルの入り口辺り。
道路はすでにうっすらと雪が積もり、その前に広がる庭は白くなっている。
視線を左へ移すと、山のような影が微かに見える。
しかしこれ以上は耐えきれず、窓を閉めて暖房にかじりつく。
「本当に降るんだね」
かじかむ指を何度も動かし、冷たくなった頬に当てる。
自分達は遊びに来ているから、この寒さも一時のもの。
だが住んでいる人は、これが日常。
多分常識というものが、私達とは完全に違うだろうな。
それは向こうから見た、私達にも言えるだろうが。
がたがた震えてても仕方ないので、内側から暖めに行く。
正確には、ご飯を食べる。
昨日同様、やはりバイキング。
こちらの方がより観光目的で作られた場所とあって、メニューは豊富。
品数は数えきれず、食べられない物の方が多いくらい。
ここは慎重に選ぶに限る。
「へい、何握りましょう」
はちまきをした、いなせな板さんが手を叩く。
お品書きを見て、少し思案。
「えーと。マグロにカニ、小さめで」
「へい、毎度」
手際よく握っていく板さん。
余ったシャリを捨てるなんて事はなく、一連の動作は流れるよう。
気付けば目の前に、2貫並んでいた。
「へい、お次」
「一通り全部」
馬鹿げた注文を背中で聞き、暖かい物を探す。
海鮮汁か。
湯気も立ってるし、匂いもいいし間違いない。
「一つ下さい。少なめで」
お椀を受け取り、トレイに乗せる。
ちょっと重いので、一旦テーブルへ。
「漁師汁一つ」
また後ろから聞こえる、馬鹿げた注文。
それって、氷水をぶっかけた料理じゃない。
ちびちびと食べて、次を探す。
ショウは寒くもないのか、半袖でがっついている。
もう、意味不明だな。
「またグラタン?」
「美味しいのよ」
言い訳っぽく告げるサトミ。
というより、味覚がそれにしか反応しないんじゃないの?
でも高級料理の味は分かるそうだし、どうなんだろう。
いいけどね。私は安っぽい物専門で。
「カニある、カニ」
ざるに盛られた、カニの足。
すでに包丁が入っていて、後は食べるだけの状態。
考えようによっては、かなりむごい光景でもある。
とりあえず2本持って、テーブルへ戻る。
「……何してるの」
「カニ食べてる」
それ用のスプーンで、かき込んでいるケイ。
しかしカニの肉はどれ程も出ず、フォークだけが空回りしてる。
「食べるの止めたら」
「飢え死にしろって言うのか」
今のままの方が、飢え死にするじゃない。
お腹が一杯になったので、早々に食堂を後にする。
どれだけ美味しくても、人間食べられる量には限界がある。
無い人も、いるにはいるようだが。
お土産にもらってきたミカンをテーブルに置いて、着替えを持って再び廊下へ。
お腹が一杯になって、気分も落ち着いてきて。
後はお風呂に入るだけ。
脱衣場で手早く脱いで、手早く浴場へ。
裸でふらふらしてても、仕方ないしね。
第一、鏡なんて見たくもない。
「っと」
じゃぶっと湯船に沈み、首まで浸かる。
縁からあふれるお湯。
湯煙にかすむ浴場内。
窓の外は、完全な闇。
また曇っているため、外からは勿論こちらからも何も見えない。
晩秋とはいえ、平日。
客も少ないのか、浴場内もいるのは数名。
大きな湯船に浸かっているのは私だけ。
という訳で、手足を伸ばして泳ぎ出す。
何せ裸なので、プールとは開放感が段違い。
でもってすぐに熱くなり、外に出る。
「ほら、泳がないで」
私にではない。
目の前を犬かきで泳いでいった幼い女の子に対しての、そのお母さんからの言葉。
当然女の子は聞いてもいなく、すいすいと泳いでいく。
私の方を時折見ては、すいすいと。
何となく、勝ち誇った顔で。
所詮は子供。
まだまだ、物事が分かってないようだ。
とりあえず、シャワーでも浴びるかな。
体を冷やし、再び湯船に沈み込む。
そうでもしないと、長い間泳げないので。
女の子は丁度、湯船の縁で佇んでいる所。
すっとその隣へ並び、前を向く。
何を悟ったのか、縁を蹴って泳ぎ出す女の子。
しかし結局は、勢いだけの泳ぎ。
フォームもなってないし、ペース配分も分かってない。
「よっと」
こっちも縁を蹴り、大きく手足を横へ動かす。
クロールは大人げないので、平泳ぎで。
すぐに並ぶ、細い足。
その横をあっさりパスし、ひと掻きで華奢な体を追い抜いていく。
どうだと思い、振り返る。
呆気にとられた、そして物悲しげな顔。
とりあえず足を止め、手の動きを小さくする。
さっきよりはゆっくりと、しかし確実に前へ進む女の子。
無駄が減る動き、バランスのいい一連の流れ。
女の子は腕の差で、反対側の縁へと辿り着いた。
「やったー」
勝ちどきを上げ、湯船から上がる女の子。
それをぼんやりと眺め、こちらも湯船から上がる。
結局長く浸かっていたので、すっかり茹で上がった。
「優しいのか何なのか、意味不明ね」
目の前を過ぎていく、長くて綺麗な細い足。
言葉を返す気力も無く、這うようにしてシャワーへ向かう。
部屋に戻り、窓を開けて腕を組む。
吹き込んでくる、肌を刺すような冷気。
のぼせた今には丁度いい。
いや。多少、冷た過ぎる空気。
ただでさえだるいところへ、この寒さ。
かなり、訳が訳が分からなくなってきた。
「鳴ってるわよ」
放られる端末。
さすがに窓を閉め、暖房にかじり付きながら通話に出る。
「何……?え、だるい。……いや、目は大丈夫だけど。……風邪でもない。……ただ、だるいだけで。……あ?今行くっ」
丹前を着込み、端末と財布を持ってドアへ走る。
「どこ行く気」
「ゲーセン。すぐ戻る」
「戻ってこなくてどうするの」
脇目もふらず、裾がはだけるのも気にせず地下にあるゲーセンまでやってくる。
何せ場所は、観光ホテル。
置いてあるのは、一昔前の物ばかり。
懐かしい物だったり、見た事も無いような物。
ずっと探していた物、なんて場合もある。
「これ、これ」
喜々として、筐体に触れるショウ。
人型をしたサンドバッグと、その奥にある大きなモニター。
中等部の頃、さんざん遊んだゲーム。
一時期は、暇さえあればこの前に張り付いていた。
これに関しては色々あったけど、今となってはいい思い出だ。
「はは。まだ、あるんだね」
私はサンドバッグの方へ触れ、その感触を確かめる。
昔と変わらない、手首へのダメージを吸収する適度な柔らかさ。
奇妙に動く左右の腕。
足は駄々っ子のように、前後へ揺れている。
「もうやった?」
「いや。取りあえず、俺から」
差し込まれるID。
表示される、「玲阿 四葉」の名前。
ランクは言うまでもなく、世界チャンピオン。
未だに記録は残っていたようだ。
ストリートモードを選択するショウ。
すぐに聞こえ出す、懐かしい音楽。
登場するのは、柄の悪い男が一人。
今のゲームと比べれば、多少雑なCG。
動きも若干ぎこちない。
ただそれが、言いようもない感慨を思い起こさせる。
過ぎ去った過去。
遠い、もう戻る事はない。
だけど確かに通ってきた。
「あれ」
そんな感慨を打ち消す、間の抜けた声。
モニターに映る、ゲームーオーバーの大きな文字。
あっさりと、完全に負けたらしい。
「何してるの」
「いや。ちょっと、強くなってないか」
「ショウが強くなってるんじゃないの、普通に考えれば。いいから、交代」
彼をどかせ、自分のカードをスリットに差し入れる。
表示されるランクは、「マスター」
ショウと比較対象が違うのは、お互いのプレーモードが違うから。
彼はより戦いを求め、私はよりストーリーを求めたため。
「お帰りなさいませ。マスター」
「元気そうね」
「お陰様で、息災に努めております」
難しい、でも今は分かる言葉。
ショウの場合はただなぎ倒すだけなので、出迎えどころか敵しかいない。
「軽くやる?」
「承りました」
不意に伸びてくるジャブ。
それをかわし、前に出る。
その途端、死角からフックが飛んできた。
「申し訳ありません」
画面に表示される、ゲームーオーバーの文字。
どうも、勘が鈍っているようだ。
「もういい」
「それでは、失礼致します」
消える画面。
出てくるカード。
すべては遠い思い出。
懐かしさだけに留めておけばよかったな。
「その内、買い取ってやる」
もぞもぞ呟くショウ。
本気じゃないだろうな、この人。
「こっちやろう」
もっと古い、パンチングマシーン。
簡単な、ただ殴るだけのタイプ。
今やっているのは、半分酔っているような浴衣姿のおじさん達。
袖から見える腕には、派手な模様が見えている。
間違いなく、その業界の人間らしい。
「普通、こういう人って入れないんじゃない?大浴場にいた?」
「いや。別な風呂を貸し切ったんだろ」
こそこそと話し込んでいる間に、マットを殴り出すおじさん達。
スコアは大した無く、体もかなり流れ気味。
ある意味プロなのだが、アルコールが入るとまた違うのだろう。
「なんだ、やるのか」
すごい顔で振り返る、はげたおじさん。
町中でこうされたら、逃げるか殴るかどっちかだ。
「やるよ」
特に臆する事もなく、前に出るショウ。
体格ではずぬけているので、威圧されるのは向こうだろう。
「下がっててくれ」
「何でだ」
「危ないから」
無造作なストレート。
きしむ筐体。
間違いなく、少し浮いた。
「いまいちか」
叩き出された数値は、当然ながらトップの記録。
何がいまいちかは、彼にしか分からない。
「お、お前、ボクサーか」
「いや。高校生」
「嘘だろ。うちの組来るか」
「行かないわよ」
きっと睨み、ジャブで立て続けに3発叩く。
早すぎたのか機械はそれを判断出来ず、一発と感知してショウと似た記録を叩き出す。
「うわ」
「なんだ?」
一斉に下がるおじさん達。
全く、冗談じゃないって言うの。
「お、俺達はそういう組とはちょっと違うんだって」
「テ、テキヤだ。屋台の、あれ」
「ああ。でも、入らないの」
「そ、そうか。邪魔したな」
逃げるように去っていくおじさん達。
残ったのは私達と、異状を告げるパンチングマシーンだけ。
どうやら、私達も逃げた方がよさそうだ。
部屋に戻って、拳を冷やす。
今頃になって、多少痛んできた。
どうも、かなりむきになってたみたいだな。
「お風呂は?」
「もういい。それより、喉乾いた」
冷蔵庫のを飲むと高いので、テーブルの上を物色する。
お茶と、ジュースと。
また、北海道ビールか。
ただ名前は熊ビールじゃなくて、鮭ビール。
何がどう違うのかは、全く分からない。
「好きだね、これ」
「そうじゃなくて、これしか売ってないの」
空き缶を積んでいくモトちゃん。
低アルコールだから大した事は無いと思うが、水分だけでも結構な量だと思う。
「まあ、いいか」
一本もらい、ふと疑問が沸いてくる。
備え付けの冷蔵庫は、かなり小さめ。
中はビール以外の物も入っていて、ここにある空き缶だけでも収納出来ない。
「このビール、どうしたの」
「観光地は嫌ね。すぐに、物を売ってくるから」
だからって、ビールを箱ごと買うか。
「あーあ」
敷き詰めた座布団の上に寝転び、TVを付ける。
やる事はないし、何もやる必要はない。
後はただ、寝る事くらい。
伸び伸びとした、全ての煩わしさから解放された気分。
実際には名古屋に帰れば、元の面倒ごとは残っている。
それでも今くらいは、この気楽さを満喫したい。
選挙速報の特番を見つつ、うつらうつらとする。
誰が当選したとか、誰が落選したとか。
時には地元。
つまり北海道エリアの当落情報も流すため、余計に訳が分からない。
名古屋の議員も、誰がいるのか知らないけどね。
「今、何時」
「もう日付が変わってるわよ」
腕時計を指さすサトミ。
机には卓上端末が置かれ、TVと端末を交互に見ながら何か作業中。
旅行中まで、あれこれと忙しい事だ。
「モトちゃんは」
「お風呂。好きね、あの子も」
こんな真夜中に、温泉ね。
彼氏でも来てるんじゃないだろうな。
「どこ行くの」
「外行ってくる」
「え?」
「雪見に」
当たり前だが、一人で出る訳はない。
がっちりサトミの腕を掴み、恐る恐る玄関を出る。
露天風呂以上の、尋常ではない寒さ。
それこそ、顔を上げているだけで固まりそうになる。
「も、戻ろう」
すぐに玄関へ戻り、二人してロビーのソファーへ崩れこむ。
これも当たり前だが、外に出るような状況ではなかった。
でも、出たかったのよ。
「どうぞ」
すっと差し出されるティーカップ。
私達の馬鹿げた行動を見かねてか、フロントの人が用意してくれたようだ。
お礼を告げて、ありがたく口を付ける。
熱過ぎず、ぬる過ぎず。
かすかな桜の香りが付いた、体の中から暖まるお茶。
「ここって、熊出ます?」
「熊は、さすがにいませんね。でも、ウサギや鹿はたまに見かけますよ」
たまに鹿、ね。
しかし今の外は、吹雪とも呼べるような雪。
ここに出るのは、せいぜい雪女くらいだろう。
目覚めのいい朝。
適当に動いてお風呂に長い間入っているのがいいのだろうか。
荷物を全部部屋の外へ出し、リュックを背負ってエレベーターに乗る。
送迎のバスが来るのは、まだ少し後。
それでも急ぐ理由はある。
エントランスを出て、緩やかな坂を下りていく。
下りても下りても、まだ着かない。
おかしいな、窓からはすぐそばに見えたのに。
「来た」
緩やかな坂の終わり。
切れる建物の列。
つまり、その先には何もない。
温泉施設の横を抜け、さらに進む。
朽ちた木や、葉のない木々を通り抜け。
人気のない林を抜けていく。
「あれ」
予想していたのは、一面の海。
押し寄せる波と、果てしない潮騒。
砕けた波が飛沫を上げ、風に乗って飛んでいく。
なんて映像を、頭の中で描いていた。
少なくともホテルの部屋からは、北の海が見えていた。
今も一応、見えてはいる。
崖の下に、漁港と漁船が。
海と言えば、海。
ただ下へは当然だが、かなりの段差。
下りていくような場所も見あたらず、そんな事をしていたら日が暮れる。
仕方ないので、北の海と戯れるのは諦める。
というより、バスが来る時間じゃないの。
緩い坂を、ゆっくりと上る。
気持ち的にはもう少し急ぎたいが、リュックもあるので限界がある。
置いてこれば良かったんだけど、そこまで頭が回るようならここまで下りては来ない。
まだ朝早いため、坂の途中にあるお土産屋さんも半分は閉まっている状態。
それらを横目に眺めつつ、ホテルへ急ぐ。
角を曲がれば、もうすぐそこが……。
「わっ」
思わず飛び退き、後ずさる。
目の前に現れる茶褐色の動物。
いや、動物かこれ?
「え、ええ?」
じりじりと下がり、すぐに端末のカメラをポケットから出す。
おかしいな、まだ目の調子が悪いのかな。
「う、動かないでよ」
当然だが私の言葉など気にせず、草を食べている。
大きな鹿が。
鹿といっても、奈良にいるあれじゃない。
何というのか、夢でも見てるんじゃないかというサイズ。
小さい車が止まってるのかと思えるくらい。
私が背中に乗ってても、間違いなく気付かないだろうな。
「う、動いた?」
生きてるから、当たり前か。
慌てて後ろへ下がり、逃げ道を確保する。
このサイズで突っ込まれたら、冗談抜きで交通事故だ。
重量感のある足取り。
威厳すら漂う、勇壮な姿。
角は左右に張り出していて、雄々しさという言葉がそのまま当てはまる。
「あれ」
道路を横断し、ホテルの裏へと歩いていく鹿。
刺激しないよう、ゆっくりとその後に付いていく。
しかし何せ、サイズが違う。
向こうの一歩は、こっちの三歩。
あっという間に引き離され、鹿はホテルの裏へと消え去った。
つかの間の邂逅。
名古屋ではあり得ない、夢のような。
だけど間違いない現実。
それはこの寒さが、雄弁に物語る。
ホテルの前に戻り、止まっているバスの行き先を確かめる。
これはツアー客のか。
まだ時間がありそうなので、ホテル内に戻り暖を取る。
一気に暖かくなる体。
ロビーには、優雅にお茶を楽しむサトミの姿がある。
「のんきだね。鹿見てきたよ」
「だから、変な動きしてたの?」
「何が」
「ここから見えてたの、ユウが。他の人も、笑ってたわよ」
ロビーの窓から見える眺め。
部屋からも見た遠くの海。
そして緩やかなカーブの坂。
つまりは、さっき私が鹿と出会った場所。
「鹿は見えた?」
「全然。飛び跳ねるユウは見えたけど。写真撮ってた人もいたわよ」
悪かったな、馬鹿で。
大体あんな大きいのがいたら、誰だって慌てるに決まってる。
慌てない人は、多分気を失っているんだろう。
「カモシカかな」
「エゾシカでしょ。そんなに大きいなら」
「街中でも出るんだね」
「熊が出るくらいだもの。ユウも出るし」
うるさいな。
というか、鼻が出てきた……。
バスに乗り、ぼんやりと外を眺める。
今は間近に見える、深い色の海。
道路には昨晩の雪の名残が残っている。
低い位置にたれ込める、暗い雲。
窓の隙間から伝わる冷気は変わらず、情景としては重いという言葉が当てはまる。
ガスが掛かったような道行き。
低い雲は下の方にまで届き、どうやら雨を降らせているらしい。
かなりの速度で走っていくバス。
乗客は私達と、地元の人が数名。
交通の便が良くないため、そういった人達の足代わりにもなっているらしい。
いつしか海は切れ、バスは市街地へと入っていく。
車を降りていく、地元の人達。
市街といっても店や住宅の数はまばらで、歩いている人の数も少ない。
そういった町の眺めもすぐに終わり、広い畑が広がり出す。
収穫時期は終わったらしく、畑は掘り起こされた後ばかり。
時折収穫された野菜が、山積みされているくらい。
徐々に寂しくなっていく眺め。
車内に会話はなく、寝ているか外を眺めているか。
標識は、どこへ行くのも何十キロという距離。
つまりはこういった眺めが、果てしなく続く。
どこまでも並ぶ白樺の木。
その間を流れる、細い川。
昨日と変わらない、単調で寂しげな眺め。
道はカーブを繰り返し、徐々に坂を上っていく。
空はいつの間にか晴れ。
青く、澄み切った空。
青と言っても名古屋のそれとは違う、濃い色。
雲は薄く、どこまでも青い空が広がっている。
「あ」
一瞬見える湖。
青く、広い。
今見た空と見間違えるような。
でもそれは、すぐ白樺の木々に覆われる。
繰り返されるカーブ。
この後何度曲がっても、湖は現れる事はなかった。
ようやく下りに入る道。
少しずつ木々も切れ間が増え出し、牧場の看板が現れ出す。
古ぼけた、赤い屋根のサイロ。
朽ちた木の柵。
さっきと変わらない、寂しげな眺め。
だがそれらの不安は、杞憂に終わる。
白と黒。
今朝見たのと似たようなサイズ。
土の上で丸くなる、牛の群れ。
子牛は草をはみ、こちらを見ている牛もいる。
鳴き声はなく、動きも殆どない。
だけど普段は見るはずもない眺めに、目を奪われる。
距離としては、かなり離れているはず。
それでいて、この大きさ。
近付けば、間違いなくあの鹿と同じ事になる。
再び坂を登り出すバス。
景色はさっきと同じような感じ。
違うのは、その間隔が長い事か。
近くなる空。
さらに濃くなる青。
バスは駐車場へと入っていく。
バスを降り、上着を着て展望台へと急ぐ。
売店を過ぎ、手すりへとしがみつく。
濃く深い、空よりも青い湖。
眼下一面の水面。
その彼方には、雪を被った形のいい山がそびえている。
右手にはやはり雪を被った、急な斜面。
しかし何より、この深い青に目を奪われる。
手すりの横にある、撮影用のスペース。
そこにある看板は、「摩周湖」の文字。
霧の摩周湖というくらいだから、普通は霧で覆われているんだろう。
だけど見えているのは、深い青。
何というのか、言葉がない。
「こんなに青いのね」
「霧なんでしょ、大抵は」
「ええ。大体初めて見た摩周湖が晴れてたら、晩婚なのよ」
物騒な事を言い出すサトミ。
空には雲一つ無く、湖の上は澄み切った空気だけ。
遠くに聞こえるツアーのガイドさんは、こんなに晴れているのも珍しいと説明している。
霧が出るどころか、本当に驚くくらい晴れている。
「じゃあ、みんな晩婚?」
「そういう言い伝えというだけで、根拠も何もないわよ」
「あ、そう」
などと納得も出来ず、一旦売店へ退避する。
お昼には早いし、少し軽めに食べてみる。
フランクソーセージだって。
食べると、ソーセージの中にジャガイモが入ってた。
美味しいけど、何を食べてるのか意味不明だな。
名物はジャガイモの串刺しらしく、ただそれを食べる程の食欲はない。
暖かい店内で、お茶を片手に外を眺める。
手すり越しに見える、澄み切った青い空と深い湖。
それを、食べ物片手に見られる贅沢さ。
こういうチープな食べ物だからこそ、気分はよりいい。
「あれ」
手すりの上にいる、小さなリス。
距離も近いので、まさか軽トラのようなサイズではない。
第一、それはリスじゃない。
寒いけど外に出て、リスを眺める。
しかし警戒してか、低い植え込みの下から出てこない。
「これか」
かごの中に、袋に入ったひまわりの種が売っている。
その横には、小銭を入れるための小さな箱も。
とりあえず一袋買って、種をそっと投げてみる。
反応なし。
よく見たら、手も付けてない種が地面にたくさん落ちていた。
なんだ、とてつもなく虚しくなってきた。
「それにしても、綺麗な湖ね」
手すりから身を乗り出すモトちゃん。
なにせ背が高いので、その分湖が近付く事になる。
たとえ気持ち程度だけだとしても、そうする価値は十分あると思う。
階段を上り、もう少し高い位置に立つ。
視点は摩周湖から、もっと右手。
南の方へ顔を向ける。
広く、どこまでも続く平原。
その奥には山の尾根が、見渡す限り広がっている。
きりがない、果てしない光景。
視界を遮る物は何もなく、ただ平原と山が見えるだけ。
実際平原ではなく、釧路湿原らしいが。
何にしろ、この雄大な眺めは見飽きない。
方や青く深い湖。
方や果てしない湿原。
それを顔を動かすだけで、どちらも見る事が出来る。
贅沢以外の言葉が思いつかないな。
「で、どうする気」
フードを被り、ポケットに手を突っ込んだままのサトミ。
どうしようって、何もして無いじゃない。
「バスの時間よ。まだ来るのは、何時間も先」
顎で示される時刻表。
本数は1日に数本。
次に来るのは、お昼過ぎ。
「タクシーもないか。まあ、のんびり待てばいいんじゃないの。急ぐ旅でもないんだし」
「良かった。歩いて街まで行こう、なんて言い出さなくて」
さっさと売店へ戻るサトミ。
いくら私でも、そこまでの元気はない。
確かに暇は暇だけど、来た道を考えれば二の足を踏む。
「さてと」
リュックを背負い直すショウ。
顔は間違いなく、釧路湿原。
つまりは、バスに乗って上ってきた道へと向けられている。
「お前、馬鹿だろ」
鼻で笑うケイ。
ショウは構わず、手袋をして体を解し始めた。
「時間はまだ大分あるんだ。行くぞ」
「行けよ、どこにでも」
「お前も来るんだ」
「面白いな、それ」
即座にフードが掴まれ、強引に引っ張られる。
そのまま大騒ぎしつつ坂を下りていく二人。
どうでもいいけど、リュックは置いていけばいいんじゃないの。
静かな湖畔。
観光客は全く来ず、いるのは私達とリスくらい。
ゆっくりと流れる薄い雲。
店内にいるため風の冷たさはなく、青い空と湖をぼんやりと眺める。
雲同様、ゆっくりと過ぎる時。
紙コップの湯気が流れ、湖の上に掛かっていく。
「バスは、まだ大丈夫ね」
こまめに時間を確認し、駐車場を覗き込むサトミ。
そこまで心配しなくていいと思うし、多分売店の人が教えてくれる。
バスの代わりに来たのは、大型のバン。
降りてきたのは、私達より少し年上風の男の子達。
暇を持てあました大学生といったところか。
「寒いなー」
「ああ」
それ以上続かない言葉。
店内にいる客は、私達だけ。
自然と視線は、こちらへと向けられる。
暇そうな、女の子3人へと。
正確には、私が見えているかどうかは不明だが。
「バス待ってるの?」
声を掛けてくる、長い髪の男の子。
私にではなく、セオリー通りにサトミへと。
どうも無視しそうな雰囲気だったので、肘をつついて車を指さす。
すぐに目線で応じるサトミ。
この辺は彼女が天才と言うより、付き合いの長さだな。
「ええ。でも、全然来なくて困ってたんです」
「良かったら、街まで乗っていく?いや、大丈夫。何もしないから」
当たり前だ、されたら困る。
無論、される気もないけどね。
「3人なんですけど、大丈夫ですか?」
「ああ。10人は乗れるから」
なるほど、いい事聞いた。
緩やかなカーブを下っていく車。
軽めの音楽と、暖かい飲み物。
男の子達の会話へ適当に相づちを打ちつつ、外に注意する。
「みんな可愛いね。いや、本当に」
「また。冗談ばっかり」
へらへら笑い、お茶を飲む。
お世辞だろうがサトミ達がメインだろうが、誉められて悪い気はしない。
何より、暖かなのが嬉しいね。
「はは。歩いてる奴がいる」
笑い出す、運転している男の子。
街から摩周湖までは一本道。
ただし、かなりの長さの。
歩く理由がないし、登ってくる時もそんな人は見なかった。
「ゆっくり走ってもらえます?」
静かに、しかし逆らえないだけの迫力を込めて告げるサトミ。
私は外を見るのに忙しくて、それどころじゃない。
「え、ああ」
言われるままに速度が落ち、歩いている二人連れの後ろに付く。
緩い下り、外気温は四度。
人気はまるでなく、白樺が延々と続くだけの眺め。
何も面白くないし、ただ疲れるだけだ。
「はは。馬鹿」
窓を開け、指をさして笑う。
顔を上げたのはショウだけ。
ケイは無言で、俯いたまま歩いていく。
聞こえない訳ではなく、構う余裕がないのだろう。
距離としては、もう少しで街に着く辺り。
それにしても、よく歩いたな。
「乗せてもいいですか?」
「え」
「構いませんよね」
強い押しで攻めるモトちゃん。
駄目だよと言える雰囲気でもなく、車が止まり二人が乗り込む。
「はい」
お茶を受け取り、それをすぐ空にするショウ。
ケイに至っては無反応で、荒い息を繰り返すだけ。
時間の割には下まで降りてたし、どうも走ったみたいだな。
何がやりたいのか分からないし、大体どうして歩いて行こうと思ったのかが分からない。
それは何より、ケイの台詞だろうが。
街まで来て男の子達に別れを告げる。
向こうは騙されたという顔をしてたけど、それは半ばお互い様だ。
大体そう都合良く、女の子が車に乗り込む訳はない。
再び電車に揺られ、今度は阿寒湖を目指す。
閑散とした車内。
やはり同じような景色。
旅情という趣か、それとも寂寥感か。
どちらにしろ静かで、日差しもかげり気味。
暖房が効いている車内も、何か寒い感じがする。
延々と続く峠道。
下に見える、自分達が過ぎてきた道。
緩やかに曲がる、果てしなく長い道。
過ぎてしまえば一瞬の、だけど今は高い頂にいる。
かげっていく日差し。
消え始める道。
そこを走るバス。
自らのヘッドライトで照らされた道を。




