26-1
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リビングのソファーに座り、お茶をすすってゆっくりと息を付く。
温かいお茶が美味しい時期になってきたと思いながら。
「優。準備はいいの」
「いいの」
時計で時間を確かめ、残りのお茶を一気に飲み干す。
隣に置いてあったリュックを背負い、ジャケットを両手で抱える。
「空港まで送ろうか?」
優しい事を言ってくれるお父さん。
すでに着替えは済ませていて、車のキーも手にしながら。
「じゃあ、学校までお願い」
「あなた旅行に行くんじゃないの。大丈夫?」
学校の補助金による旅行の季節。
前回はケイの怪我もあり近場で済ませたが、今回は少し遠出。
目の調子も良くなってきてるし、問題はない。
「そこはそれ、色々とね。お母さんも来てみたら」
「私も、色々と忙しいのよ」
人の横で、きゃっきゃと騒ぐ小柄な女性。
なんとなく、私のお母さんに見えなくもない。
「過保護だな」
車から降りてきた私達を見て、鼻を鳴らすケイ。
なるほどと思い、脇腹を突いて厳しく接する。
「な、なにを」
「ごめん。はっきり見えなくて」
サングラスを直し、口だけで謝る。
前程疲れる事はないが、明るい光はまだ辛い。
「集合して行く訳?」
「さあ。詳しくは、そこのお兄さんへどうぞ」
ショウを顎で示すケイ。
黒の革ジャンにジーンズという、普段とあまり変わらない恰好。
何を着ても似合うから、関係ないけどね。
「どういう事かしら」
「俺もよく知らないけど。あそこへ行かないと」
外来の駐車場から程近い建物を指差すショウ。
ますます意味不明という顔をするお父さん達。
エレベーターで、一気に屋上へとやってくる。
すでにサトミは到着済み。
茶色いジャケットと、スリムジーンズ。
髪は後ろで束ねられ、例のキャップを被っている。
「おはようございます」
「ええ、おはよう。待合室、ここは?」
お母さんの指摘通り、ロビー風の広い部屋にはソファーが幾つか置かれてある。
後は無料の自販機と、大人しめの観葉植物。
大きなモニターに映るのは気象情報と、それと同一地域のライブ映像。
壁は全面ガラス張りで、屋上からの良い眺めが見えている。
「らしいですね。私も、よくは知らないんですが」
「こんな場所の待合室って」
小首を傾げるお母さん。
お父さんは窓に手を添え、口を開けて空を見上げている。
「来たよ」
「何が」
「さあ。何かな」
何を言ってるんだか。
仕方ないので外に出て、空を見上げる。
澄み切った青い空に見える、小さな点。
それは徐々に大きさを増し、強い風が吹き付けてきた。
何というのか、押し潰されそうな勢いで。
「うわー」
当然、安全な場所には立っている。
それでもこの風圧。
でもって、この轟音。
出てくるんじゃなかったな。
取りあえず膝を抱え、顔を埋めて耳を腕でふさぐ。
「何してるんですか」
真上から聞こえる、スピーカーの声。
答えられる状況ではないし、答えても聞こえないだろう。
冗談ではなく風に煽られ、地面に転がった。
ダルマだね、まるで。
「大丈夫ですか」
手が持たれ、引き起こされる。
顔を上げると、ゴーグルの付いたヘルメットを被った水品さんがにこやかに笑っていた。
「だって、見たくって」
「ロビーでも見られるでしょう」
「近くで見たかったんです」
「それで、感想は?」
風と音がすごくて、それどころじゃなかった。
などと答えられる訳はなく、むにゃむにゃ言ってこの場をごまかす。
大きい。
横にも大きいジェットヘリ。
というか、この大きさは尋常じゃないな。
家一つ丸ごと入りそうなサイズで、私一人隠れていても一生気付かれないくらい。
隠れないけどさ。
「これ、本当にヘリですか?」
「輸送用ですから。戦車や装甲車も運べますよ」
「はぁ」
「速度は無いですけどね。扱いやすい機体ではあります」
愛おしそうにヘリへ触れる水品さん。
機械に愛着を感じても、どうかと思うが。
「これで空港へ行く訳ね」
ようやく納得した顔をするお母さん。
お父さんは水品さん同様、ヘリの側面に触れている。
「ショウ、荷物お願い」
「ああ」
バッグをどんどん放り込んでいくショウ。
戦車が運べるらしいので、私達の荷物くらい軽々運ぶ。
放り込む作業自体は、人力だけど。
「では、皆さん乗って下さい」
「はーい」
「あれじゃないかしら」
窓に張り付き、真下を覗き込むお母さん。
私もその隣へ張り付き、真下を見る。
「上から見た事無いからね」
地図をGPSを併用し、場所をチェック。
座標は間違いない。
屋根や庭の感じ、周りの家から見ても雪野家に間違いない。
「忘れ物は?まだ、間に合うわよ」
「お母さんこそ、洗濯物取り忘れてない?」
二人きゃっきゃとはしゃぎ、自宅を眺める。
ちなみに今は上空1000mで、帰りたくても帰りようもない。
もう少し低い位置なら別だけど。
「大体、どうして付いてくるの」
「過保護なのよ」
自分で認めてどうするんだ。
いや。嬉しいけどさ。
「四葉さん。操縦してみますか?」
「講習を受けてないから」
すぐに断るショウ。
本当に生真面目というか、何というか。
「オートパイロットですから、安全ですけどね。弾も入ってませんし」
何か、物騒な事を言い出したな。
しかし左右にミサイルポットみたいなのも付いてたし、軍事用なのは間違いない。
「これで、玲阿家本邸を襲いましょうか」
馬鹿な事を言い出すケイ。
水品さんは首を振り、前を見たまま助手席にいるショウを指差した。
「あそこは、対空ミサイルを隠し持ってますからね。上空に近付くだけでも危険です」
「本当?」
「俺に聞くな」
否定はしないショウ。
しばらく、あの家へ行くのはよそう。
「このまま北海道は行けないんですか」
「給油さえすれば可能ですよ。ただジェット燃料が高いですし、航路を申請してないので。それに、この音ですからね」
天井。
つまりは、ローターを指差す水品さん。
私達は全員、インカムで会話をしている。
もしヘッドフォンが無ければ、隣の声も聞こえないだろう。
眼下は市街地から、すぐに海へと変わる。
サングラス越しに見える、波立つ海。
小さな釣り船が、波の谷間に浮かんで見える。
ヘリの航路と並行して走る東海へリポート。
当然というか速度はこっちの方が早く、小さな点をみるみる追い越していく。
「これがあれば、どこでも行けるね。ショウも、講習受けたら」
「ヘリは、どこから調達するんだ」
「実家にないの」
「さすがにないだろ。RASはともかく」
あるじゃない。
後は、どこに行くかを決めるだけだな。
その時点で、根本的に間違ってる気もするが。
「でもこれって、チャーターするのは高くないんですか」
「軍の練習機ですから、今回は無料です。私としてはVTOL機を借りたかったんですが、今日は空いている機体が無くて」
しかし無料というのも、ちょっと怖い。
後で徴兵されたりしないだろうな。
「借りると、いくらなんです」
「私の年収を超えるでしょうね」
馬鹿決定だな、この人。
大体、これはどうやって無料で借りたんだ。
ヘリポートで水品さん達へ別れを告げ、お母さん達を見送る。
この距離なら車とそれ程大差はないが、体感的には相当早い。
何より、空を飛ぶというのが面白い。
「へへ」
売店へ立ち寄り、お菓子を物色。
常滑名物、焼き物あられだって。
意味不明だけど、試食する。
味は当たり前だが、普通のあられ。
製品は、お茶碗の形か。
「ユウ。手続きするわよ」
次に挑もうとしていた瓦せんべいに別れを告げ、サトミに手を引かれ歩いていく。
今でも視界がぼやける時もあるため、人の助けが必要となる。
それ以前に、迷子防止という気がしないでもないが。
「個室を御利用ですね」
「ええ」
「ありがとうございます。すでに到着していますので、お早めにどうぞ」
さすがにさっきのヘリよりも大きな飛行機へ乗り込み、案内された個室へ入る。
個室といっても相当広く、私達だけが利用するには贅沢な程。
設備も一式揃っていて、二三泊なら出来るくらい。
料金は高いが、学校の補助も出るし人数が多ければ普通の席との差は少なくなる。
「へへ」
冷蔵庫を開け、中をチェック。
ジュースに、お茶に、果物と、チーズか。
軽食ばっかりだな。
「いちいち、見ないで」
「嫌だ、見る」
その隣にある小さな棚を開け、こっちも探る。
お菓子と、レトルト食品、お酒が少し。
取りあえず、飴を一つ。
「釧路行き374便。間もなく出発致します。乗客の皆様は、シートベルトの着用をお願い致します」
「はいはいと」
聞こえるはずもないが返事をして、窓際に座ってベルトをはめる。
誰かがはまらないとか言ってるが、気にしない。
気付いたら、浮いていた。
窓の外に見える、学校。
さっきよりも高い位置からの眺め。
やがて名駅のクワーズタワーも、栄の第二TV塔も見えてくる。
理屈は未だによく分からないけど、すごい事には間違いない。
「はは」
「どうしたの?」
「雲、雲」
窓の横に見える、白いもや。
普段は手も届かない、そばにある事なんてあり得ない存在。
それが今、窓を隔てたとはいえすぐ横にある。
「高い所を飛んでるんだから、当たり前でしょ」
感動も何もない台詞。
これだから、頭の良い子は。
「はは、雲だ」
げらげら笑ってるケイ。
なんか、嫌な気分になってきたな。
「ただいまの高度は3万2千フィート。約1万メートル上空を飛行中です。速度は毎時1200km/h。釧路への到達は、定刻を予定しています」
現在見える景色は、一面の雲。
その上に見えるのは、果てしない青い空。
それが延々と続くため、高さも速度も実感がない。
本当、慣性の力は偉大だな。
「ちょっと、何寝てるの」
「空港へ着いた後も移動なのよ。体を休めないと」
シートを完全に倒し、タオルケットをかぶるサトミ。
他の子も同様で、動こうとする気配なし。
「もっと弾けたら」
「まだ、飛行機が飛んだだけ。あなた、弾け過ぎ」
無慈悲なモトちゃんの指摘を受け、仕方なくサトミを揺するのを止める。
何よ、もう。
「すごいな、これ」
窓に張り付いたまま動かないショウ。
景色はさっきと、全く変わりなし。
青い空と、白い雲。
それだけが続く、さすがに私でも眠くなりそうな景色。
「すごいな、これ」
もういいって。
とはいえ同好の士には間違いなく、私もその隣へ並ぶ。
窓の高さが高さなので、背伸びして。
もっと大きい窓を、たくさん作ればいいのにさ。
「あれ」
「ん」
青い空に浮かぶ、黒い点。
後ろにたなびく白い雲。
私達を追い越し、空の彼方へと飛んでいく戦闘機。
「おーい」
笑顔を浮かべ、手を振ってみる。
しかし聞こえる訳はないし、こっちへ来られても困る。
「何やってるんだ」
冷静かつ、素朴な口調。
真面目に聞かれても困るので、窓から離れて椅子に座る。
なんか、寒いな。
「私も、埋もれよう」
タオルケットを肩に掛け、正面にある大きなモニターを点灯させる。
現れたのは、コクピットからの眺め。
当然だが視界は広く、それこそ雲を切って飛んでいる。
自分が操縦している訳ではないにしろ、単純に気分はいい。
激しい揺れ。
それも尋常ではない。
「じ、地震?」
とっさに飛び起き、お腹を押さえる。
何だ、このベルト。
……ああ、飛行機か。
「じゃあ、乱気流」
見上げた先にいるのは、髪の毛を逆立たせそうなサトミ嬢。
言いたい事は、大体分かる。
「もう着いたんでしょ。はいはい、今起きます」
「分かってくれればいいの。もうみんな、外に出てるわよ」
だったら、もと早く起こせばいいじゃない。
なんて答えた日には、このまま名古屋へ戻される。
「へへ、そうだね」
愛想良く笑い、上着を抱えて通路へ出る。
その途端感じる寒気。
風邪を引いた訳でも、サトミの圧力でもない。
綺麗なスチュワーデスさんに別れを告げ、飛行機の外へと出る。
「わ」
さっきとは比較にならない、全身を覆いつくす刺すような寒さ。
慌てて上着を着て、ポケットに手を入れる。
秋だから大丈夫と思ってたけど、北海道をなめてたな。
「寒いですね」
丸くなってる私がよほどおかしかったのか、後ろから付いてきたスチュワーデスさんに笑われた。
しかしこの人は、機内同様の制服姿。
それでも笑顔を絶やさず、優雅な足取りで私の隣へと並ぶ。
どうも、気構えみたいなのが違うようだ。
「北海道って、いつもこんな寒いんですか?」
「ええ。夏も短いですし。ただ食べ物は美味しいし、過ごしやすい所もありますよ」
食べ物はともかく、この寒さはちょっと辛い。
「では、楽しいご旅行になるといいですね」
「あ、はい。どうも、ありがとうございました」
カウンターでもらった、空港会社のロゴが入ったキャップを被る。
どうやら私を、子供だと思ったようだ。
いいけどね、別に。
現に、被ってるし。
「どうするの、ここから」
「ホテルまでの送迎バスが来てるから、それに乗るのよ」
足を踏みならし、肩を押さえるサトミ。
元気そうなのはショウくらい。
他の子もみんな、震えているか俯いている。
「中で待てばいいじゃないの」
「飛行機の到着に合わせて、来るはずなのよ」
いつもそう、規則正しく物事が進む訳はない。
本当に分かってるのかね。
思った通り、遅れてやってくるバス。
サトミは時計を気にしてるが、急ぐ理由は何もない。
というか、眠い。
「網走に行くの?」
「来たのは、釧路。網走はもっと北。洒落じゃないわよ」
顔を赤くするモトちゃん。
そんな事、言われてやっと気付くっていうの。
「えーと」
リュックを漁り、お菓子を探る。
夕食までは間がありそうだし、何より私の間がもたない。
「もう食べる気?」
「食べるよ」
ホワイトチョコを一欠片口にして、残りはしまう。
出したのは、精神的に満足させるためだ。
「もう暗いね。まだ、夕方なのに」
「北の日暮れは早いのよ」
欠伸して、リクライニングを倒すサトミ。
他の子も寝ているか、大人しくしている状態。
元気なのは、やはりショウくらいか。
「景色も見えないね」
軽く揺れるし、ちょっと疲れてきた。
寝ない方が、どうかしてるか。
どうにか揺すられるより早く目を覚まし、のろのろとバスの外へ出る。
暗闇の中に浮かぶ、ホテルのエントランス。
ただ出迎えの人はなく、遠くに見える受付に一人女性が立っているだけ。
時間はそれほど遅くないが、事務的な応対をするホテルなんだろう。
またあまり大仰にされても困るので、この方がいいとも言える。
とにかく受付を済ませ、部屋へと向かう。
ちらっと売店が見えたけど、とりあえずパス。
一人で残ると、迷子になるし。
広く、設備の整った室内。
半分は和室、半分は洋室の作り。
正規の料金は知らないし、知りたくもない。
今はベッドの上に転がればいいだけだ。
「荷物、片付けなさい」
「後でね」
ふにゃふにゃ答え、枕に顔を埋める。
柔らかいし、暖かいし。
ここでだったら、いつまでも寝ていられるな。
という訳にも行かず、欠伸をしながら起き上がる。
バッグの中を適当に漁り、着替えと洗顔グッズを外に出す。
「ご飯って、まだ?」
「もう少し先ね。売店でも行く?」
「当然」
何が当然かはともかく、こういう所へ来ないと旅は始まらない。
下らない物が多い分、楽しさも倍増される。
しかし今時ペナントって。
「熊の剥製あるよ。サトミ、買えば」
「何のために」
「理由は関係ないでしょ」
「それ以外に、何が関係ある訳」
生真面目に尋ね返してくるサトミ。
見栄えはいいし、迫力もあっていい品物なのに。
理由とか置き場所以前に、買える値段じゃないけどね。
「仕方ない。お土産でも探すか」
「誰に?」
「お母さん」
買わないと、何かとうるさいからな。
「あら、優ちゃん。北海道へ行ってきたの。お土産?そんな物いいのよ。あなたが、無事に帰ってくれば。カニなんて、全然。ホタテなんて、別に。優は向こうで、さんざん食べたんでしょ。私はもう、それだけで十分だわ」
くらい言ってくる。
小食なのに、食い意地だけは張ってるからな。
本当、親子とはよく言った物だ。
「高いのはパスしてと」
「これは」
サトミが指さしたのは、いかにも観光地っぽいおまんじゅう。
とはいえ美味しそうなので、それにする。
北海道名産って書いてあるし。
何が名産かは、ともかくとして。
「モトちゃんは」
「あそこ」
あごを振るサトミ。
彼女がいるのは、アクセサリーのコーナー。
何となく、察しは付いた。
「どうかした?」
「別に」
モトちゃんの手先を覗き込み、一人頷く。
でもって、鼻で笑う。
「あのね」
「気にしないで。買ったら」
「か、買うわよ。二つ下さい」
とうとう言った。
楽しそうでいいね、全く。
大体名雲さんに、狐のマスコットでもないでしょ。
「そろそろ、食堂が開くわよ」
腕時計を指さすモトちゃん。
人を追っ払いたいらしい。
でもって、素直に追っ払われる。
彼氏への買い物を、いつまでも見てても仕方ないしね。
「バイキングか」
どこまでも並ぶ料理
漂う湯気。
行きかう人々。
いいにはいいけど、残った分はどうするのかといつも思う。
「もう少し、考えて選んだら」
「何を」
肉と揚げ物山盛りの皿を抱えるショウ。
分かってないようなので、半分くらい戻してサラダを追加させる。
熊だって、ここまでカロリーは摂らないと思う。
「今度から、全部チェック入れるからね」
「バ、バイキングだろ。俺の好きなのを」
「食べればいいじゃない。野菜を全部食べたらね」
「見てろよ」
訳の分からない捨て台詞を残して、テーブルに着くショウ。
さすがに付き合ってられないので、自分の分を選んでいく。
ホタテの刺身と、海藻サラダと、ワカサギの天ぷらと、お寿司を少し。
他にも色々あるけど、見ているだけで満足出来た。
「頂きます」
程よい歯応えと、コクのある味。
サラダも美味しいし、天ぷらもからっと揚がってる。
もうお腹はふくれ気味だけど、もう少し食べてもいいくらい。
「さてと」
のそりと立ち上がるショウ。
山盛りの料理は、すでに空。
味わうって言葉を知ってるのかな。
「サラダも食べるのよ。野菜も」
「分かってる」
「つまみ食いも駄目だからね」
びくっとして料理のコーナーへ消える大きな背中。
本当に、今いくつなんだ。
「あなた、母親?」
グラタンを食べつつ、くすくす笑うサトミ。
そんな訳はないが、世話は焼ける。
焼かなくていいとしても、焼いて悪い理由もない。
「モトちゃんは」
「まだ、お土産選んでたわよ。まめな子ね」
「サトミはいいの」
「いいの。赤福でも買っていけば、喜ぶから」
何だ、それ。
赤福なんて、伊勢名物じゃない。
ヒカルなら、確かに喜びそうだけどさ。
「ワインでも飲んだら」
「お風呂入ってからね。……ちょっと」
「野菜もあるだろ」
それとは別に、大きなステーキを咥えて戻ってくるショウ。
やっぱり、ワイン飲もうかな。
部屋へ戻り、準備を済ませてお風呂へ行く。
若干目の調子が良くないので、壁に手を付きながら。
いっそ、目にいい温泉にでも行った方が良かったのかな。
そんなのがあればの話だけど。
服を脱ぎ、タオルを背負って浴場へ入る。
「何だ、これ」
大きいお風呂が一つ。
一つだけ。
後は洗い場と、シャワーが幾つか。
「寂しいな」
「都心だから、温泉じゃないのよ」
事も無げに言い放ち、体を洗い出すサトミ。
黒髪がお湯でしっとり濡れ、妙に艶めかしいな。
いいか、そういうのも見れたし。
「よいしょと」
サトミの隣へちょこんと座り、ばしゃばしゃとお湯を浴びる。
でもって、ごしごし洗う。
こうしているだけで、ちょっと疲れてくるな。
「ユウ、寝てるの?」
「大丈夫。多分」
よろよろと立ち上がり、湯船へと沈み込む。
暖かいお湯。
軽くなる体。
立ち上る湯煙と、揺れる水面。
温泉でも何でもいいか、もう。
「外は、ちょっと見えるか」
曇った窓に張り付き、外を眺める。
目元の部分だけを手の平で拭き、もう少し顔を近付ける。
無数の明かり。流れていく赤い列。
こういうのも、たまにはいいか。
「よいしょと」
もう一度湯船に浸かり、手足を伸ばす。
一日座ってしかいなかったけど、それなりに疲れていたようだ。
手足を揉んで、端に寄って背をもたれる。
「暑い」
すぐに出て、シャワーを浴びる。
サトミは今から入る所。
この子は延々と入るので、付き合ってもいられない。
前世がタコじゃないのかな。
ベッドにへたり込み、ちびちびとお茶を飲む。
もう今日は、何もしたくない。
する事といえば、寝るくらいしかないけど。
「ユウ、ビールは」
手を振って、いらない事を告げる。
今飲んだら、間違いなくひっくり返る。
「美味しいのに。北海道は、熊ビールッ」
酔ってるのか、この人は。
仕方ないので起き上がり、テーブルの方へ這っていく。
モトちゃんの言う通り、ビールの缶には熊の絵が描いてある。
度数0.2%か。
とりあえず一口付け、貝柱の干物をかじる。
苦みで上書きされる、適度な塩気。
炭酸の感覚が、疲れた体に心地いい。
「美味しいな、これ」
もう一口飲んで、缶を振る。
一滴出てきた。
「無いじゃない」
「売店で買ったの。欲しいなら、売店行ってきて」
今からなんて、部屋から出たくもない。
他に、何か無いのかな。
もぞもぞと室内を這って、飲み物を物色する。
「あった」
小さな、北米の映画に出てくるような小瓶。
一口飲んで、洗面台へ向かう。
「何してるの」
「こ、これ。シ、シロップ」
「ああ、カクテル用の。よく、そんなの飲むわね」
誰が好きで、そんなの飲むんだ。
テーブルの上にあったペットボトルをひったくり、口の中を洗い流す。
これがビールなら、明日の朝まで寝てただろうな。
「明日は、どうするの」
「電車で釧路湿原を抜けて、知床まで」
缶を傾けながら説明するモトちゃん。
まだ飲むのか、この人は。
「じゃあ、もう寝る」
「子供は寝なさい」
何を言ってるんだか、酔っぱらいが。
気持ちのいい目覚め。
適当に疲れて、早く寝たのが良かったんだろう。
カーテンを全部開け、釧路の町並みを眼下に見下ろす。
ラッシュ時間帯前か、大通りには少し車の列が出来ている。
空には雲もなく、名古屋とは違う澄んだ青い空がどこまでも広がっている。
「朝だよ、朝」
動かないサトミを揺する。
人を呪いそうな顔で、それでも起き上がった。
「おはよう」
「モトは」
挨拶もしないな。
とはいえ寝起きはこんなのだから、放っておいてモトちゃんを揺する。
「朝だよ。起きたら」
「どうして」
なるほど、そういう理屈もあったか。
などと納得出来る訳もなく、布団をはがしてもう一度揺する。
「時間がないの。今日も予定が詰まってるんだから」
「昨日、遅かったの。私は放っておいて」
寝ぼけてる割には、面白い事言うな。
かろうじて起きてきたモトちゃんを連れて、駅まで歩く。
昨日は自分が寝てたので気付かなかったけど、かなりの繁華街。
ホテルの部屋から見ていた眺めとは、頭の中では合致しないが。
「ホテルの上から見てた建物がないけど」
「あれは、この裏」
だるそうに告げるモトちゃん。
今知ったよ、そんな事。
とりあえず駅の構内へ入り、売店へ向かう。
旅と言えば列車。
列車といえば、駅弁。
イカ飯か。
もう少し、品数の多い物を食べようかな。
「電車来るわよ」
腕時計と、時刻表の横にある大きな時計を指さすサトミ。
来ないと困るじゃない。
なんて答えると間違いなく置いて行かれるので、駅弁を諦めて改札を通る。
駅弁は、どこでも売ってるからね。
ゆっくりと動き出す列車。
昨日の飛行機とは違う、慣れた加速。
ホームの景色が少しずつ流れ、やがて市街地が見えてくる。
後は運転手さんに任せて、のんびりとすればいい。
「湿原に寄るの?」
「時間がないから、通るだけ。でも、そこを通過するから十分でしょ」
事務的に答えるサトミ。
何も、そこまで決めなくてもいいと思うんだけどね。
適当に寄り道して、一休みして、ゆっくりと移動する。
それで、泊まる所が見つかるかどうかはともかくとして。
景色はすぐに郊外のそれへと変わる。
変わらない、単調な眺め。
自然と瞼も降りてくる。
起きたら目の前に、駅弁が置いてあった。
どうやら、完全に寝ていたようだ。
「もう、お昼よ」
「湿原は」
後ろ。
つまりは、進行方向とは逆を指さすサトミ。
見えるのは葉のない寂しげな木々の列。
単調だが、さんざん寝たので眠気はない。
「鱒寿司、ね」
北海道名物かどうかは知らないけど、このくらい軽めの方がいい。
程よい酢の締め方。
鱒の食感もそうだし、笹の風味が申し分ない。
景色は殆ど変わりない。
時折小川に沿って走るくらいで。
林の間を縫って流れる、土手の整備もされていない。
名前すらあるかどうか分からない、細い川。
川の周りには落ち葉が散り、朽ちた木があちこちに倒れている。
寂しいとも取れる、都心ではまず見られない眺め。
本当に遠くへ来たんだと、実感させられる。
「ごちそうさま」
きちんと分別して、客車の連結部分にあるゴミ箱へ捨てる。
向こうの客車に見える、小さなワゴン。
どうやら、車内販売をしているようだ。
長い時間走るので、こういった物が不可欠なのだろう。
「何か、お買い求めになりますか?」
メイドさんっぽい格好をした女性が、にこやかに微笑んできた。
「おい」
「美味しそうでしょ」
「今食べたばっかりだ」
ショウの前に置かれる、イカ飯一つ。
いいじゃない。旅と言えば駅弁なんだし。
それを食べたと、彼は言ってるんだけどね。
「食べないの」
「食べる」
何を言ってるんだか。
馬鹿馬鹿しいので放っておいて、窓の外に視線を移す。
やはり先程と変わりない眺め。
少し日が傾き、日差しが弱くなったくらいで。
こうなると寂寥感なんて、普段は考えもしない言葉が思い浮かぶ。
南に旅したら、きっとこうは思わないだろう。
「まだ着かないの?」
「もう少し。網走を抜けて、その先で終わり」
時計をチェックし、一人頷くサトミ。
車掌さんか、この人は。
多少飽きてきたので、リュックの中を漁ってみる。
特にこれといった物はなく、目に付くのは着替えとお菓子。
「暇だね」
「旅行は、こういうものなのよ」
「あ、そう。なんか無いかな」
「どうしてそう、刺激を求めるの」
刺激以外、何を求めるんだ。
平凡な毎日もいいけど、退屈な毎日には興味ない。
「ねえ」
ヘッドフォンをして目を閉じているケイをつつく。
しかし反応なし。
反応したくないとも見える。
「ねえって」
ヘッドフォンを強引に外し、もう一度つつく。
長い、わざとらしいため息。
そんなのにめげていては始まらないし、めげる気もない。
「暇」
「じゃあ、次の駅で降りたら。で、他の方法でホテルまで行けば」
「馬鹿じゃない」
「だったら、馬鹿なんだろ」
ヘッドフォンを戻すケイ。
誰が馬鹿かは語らずに。
仕方ないのでもう一度外し、自分の膝を叩く。
「うるさいな。ショウといちゃついてろよ」
「いちゃつくって、何。それと、私はもっと軽い刺激を求めてるの。辛子舐めろとか言わないでよ」
「鋭いな。じゃあ、トランプでもやろうか」
「芸が無いね」
なんかすごい目で睨まれたが、悪くはない考えだ。
椅子を向き合わせ、備え付けのテーブルを出してカードを配る。
「負けたら、絶対払ってもらうからね」
自分の手札をチェックして、思わず鼻を押さえる。
勝負以前の問題だな。
「全部変えるのか」
げらげら笑うケイを無視し、新しい手札を見てみる。
かろうじて、ワンペア。
これではブラフの掛けようもない。
「ベット」
低い声で告げるケイ。
それに乗るサトミ。
ショウもやはり。
モトちゃんは寝てるので、パス。
「ユウは」
「コ、コール」
手札を変えられるのは、もう一度だけ。
3枚変えて、慎重にめくる。
「下りるわ」
手札を伏せるサトミ。
ケイも札を伏せる。
「ショウは」
「やるさ。ユウは」
「敵に背を向けろって言うの」
「じゃあ、コール」
二本放られるマッチ棒。
仕方ないので4本放り、手札を見せる。
「3カード。どうよ」
「ストレート。悪いな」
ごっそりマッチ棒を持って行くショウ。
なんか、汗が噴き出てきた。
暖房が効き過ぎじゃないの。
「うー」
両手にバッグ、背中にリュック。
ふらつきながら、北の大地を踏みしめる。
「大丈夫か」
苦笑気味に尋ねてくるショウ。
こちらは答える余裕もなく、バスの横にあるトランクへ荷物を放り込んでいく。
負けがこんだというか、負け以外の言葉が見あたらない結果だったので。
現金払いだったら、とんでもない事になっていた。
今現在も、相当な状況だけど。
「暇だな。また、何かやろうか」
わざとらしく呟くケイ。
この子、結局全部下りたのよ。
どうやら、ショウが強いって分かってたらしい。
前はそんな印象無かったけど、どうやら人は日々進歩するようだ。
「な、何が入ってるのよ」
私同様、よろめくサトミ。
頭が良い割には、私並に負けたので。
計算や駆け引きが得意でも、運が悪ければこういう時もある。
「ほら、早くしないとバスが来る」
欠伸しながら、腕時計を指さすモトちゃん。
何がいいって、ギャンブルなんてやらない方がいいという見本だな。
バスに乗り込み、背もたれを倒す。
乗客は私達以外は、数人といった所。
車内にさっきまでの喧噪はなく、車外はすでに闇の中。
景色は何も見えず、街灯すらない道路をバスは疾走していく。
窓の隙間から伝わる冷気。
遠い、遠い所へ来たんだと実感させられる。
旅情の楽しさとは違う、切ない気持ち。
知らない土地、冷たい空気、物悲しげな眺め。
普段では味わえない、遠くへ来たからこその気持ち。
かすかな揺れ。
だけど眠気は訪れない。
私はただ、何も映らない窓の外を見続ける。




