エピソード(外伝) 4ー1 ~丹下沙紀視点~
過去と現在と
前編
「あ、お帰りなさい」
「ただいま戻りました……」
笑顔で出迎えてくれた映未さんに袋を渡し、そのまま椅子へと崩れる。
今はワンレングス風の髪型に、グレーのスーツ。
女性の雰囲気を漂わせた、いつ見ても綺麗な人だ。
「何だ、お疲れだな」
軽い調子で声を掛けてくれる名雲さん。
玲阿君よりも甘く、大人びた精悍な顔立ち。
ジーンズとTシャツというラフな服装が、またよく似合う。
「ええ。かなり疲れました」
「買い物行っただけなのに、何でだ」
「この人が、どうしようもなくて」
袋の中からジャーキーを取り出している浦田の背中を指差した。
「私達、映未さんから聞いたチャーシューメン食べたんです」
「美味しかったでしょ、あれ。脂肉付いてるのが、また良いのよね」
「ええ……」
繰り返すのもだるくなってくるが、取りあえずさっきの経緯をみんなに話してみた。
二桁の計算を間違えて、自分の分まで私にお釣りを渡してきた事を。
「どこか、おかしいのか?」
タンクトップとショートパンツから伸びる、すらりと長い手足。
黒のキャップが取られ、野性味を秘めた端正な顔が現れる。
そして、真剣な眼差しを浦田に向ける舞地さん。
私もそれは聞きたい。
「だから、冗談だって。その程度の引き算間違える高校生が、どこにいるんです」
浦田からジャーキーを渡された柳君が、その顔を指さす。
繊細な可愛らしい顔立ちで、彼に会いに来る女の子が多いのも頷ける。
コットンパンツに、洗いざらしのコットンシャツ。
一度、ジーンズをはいたところを見てみたい。
「じゃあ、僕も質問。123引く38は?」
動きを止め、目線を泳がす浦田。
「80……6?」
「ほらね」
一斉に罵声が飛び、猫背がさらに丸まっていく。
「引き算なんて、端末でやればいいんだ。人が無理にしなくたって」
「さっき、それでも間違えたじゃない」
「済みません……」
かすれるような声で呟き、柳君からもらったジャーキーをかじる。
今は少し、放っておこう。
そうでないと、こっちも疲れてくる。
「私達がいない間のトラブルはどうなってます?」
「13件あったわ。その内私達が出動したのは3件、報告書は提出済みだから後で目通しておいて」
「分かりました。それと、優ちゃん達の動きなんですけど」
「大人しくしているようだ。遠野はどこかへ行っていて、雪野と玲阿はトレーニングしている」
「脅し過ぎたんだよ、こいつが」
名雲さんが細長く丸めた紙で、浦田の頭をつつく。
「学校か生徒会長の考えかは知らないけど、ユウ達を退学させる訳には行かないんで。名雲さん、その辺はどうなってるんです」
「多分、学校側らしいって感じはするんだけどな。池上はどう思う」
「さあ。理事とかに接触すれば少しは分かるんだろうけど、駄目なんでしょ」
「まだそこまで切羽詰まってませんから。それをネタにこっちが退学させられたら、意味無いし」
皮肉な、しかし生き生きとした笑みを浮かべる浦田。
さっきまでの、みんなにからかわれていた時の弱いイメージはまるで無い。
「でも、どうして優ちゃん達が狙われてるのかな」
「悪い事したんだよ、丹下さん。雪野さん達、無茶するから」
「お前が言うな、司。何にしろ、出る杭は打たれる。具体的な事情はともかく、その辺を疎まれているんだろう」
「俺はひっそり生きてきたんですけど。みんなは綺麗だし目立つから」
「俺は、お前が原因だと疑ってる」
「同感ー」
大笑いする名雲さんと映未さん。
私も一緒になって、その輪へと加わった。
ここにある、もう一つの仲間の輪へと。
「前、雪野とやり合ったらしいな」
「え、誰から?」
「丹下の部下だった、自警局長直属のガーディアンだ。雪野達を襲った時に加わったメンバーとも言っていた」
からかうような舞地さんの視線に、私はポニーテールを抑えて答えた。
「やり合ったといっても、私の一方的な負けですよ。全体でも、私個人でも」
「確かに、あのメンバーとやり合うのはきついな。直属班の連中も腕は立つけど、常識の範囲内で動くから」
「対して理性の聡美ちゃんと、非常識の浦田君ペアだもんね。しかも玲阿君と雪野ちゃんの最強タッグか」
「俺達なら……。っと、浦田の前では言えないな。お前らとやり合う時に困る」
「いつやりあうんですか。それに俺はもう、ユウ達の仲間じゃない」
しかし名雲さんは鼻で笑っただけだ。
映未さんも、探るような笑顔を彼に向けている。
「それはともかくとして、どうして雪野に負けたと思っている」
真っ直ぐ私を見据える舞地さん。
冗談や何かではぐらかす雰囲気ではない。
「私が弱いからじゃないんですか」
「違うな」
あっさりと言い切られた。
そしてみんなも、それに頷いている。
「丹下はその時、警棒を使った。対して雪野は素手。そのどちらが思い切った行動を取れる」
「それは」
「私が見たところ、腕にそれ程の差はない。後は精神的な問題だ。相手に怪我をさせまいと、心のどこかでセーブしたんじゃないか」
「分かりません。でも、そうかもしれません……」
あの時の事は、よく覚えている。
心の動きを除いては。
優ちゃんが前に現れて、咄嗟に警棒を構えた。
普段なら軽く打ち込んで終わり。
しかし彼女はそれをさせないだけの気迫と実力を持っていた。
高ぶる感情、熱くなっていく体。
振りかぶり、優ちゃんの肩を狙う。
だけど、次の瞬間目の前が暗くなっていた。
その時何を考えていたのかは、全く覚えていない。
「口で説明するより、動いた方が早い。司を殴ってみろ」
「え?」
「大丈夫。当たらないから」
平然と言われる。
別に侮辱とは感じないが、それなりには自信があるのでいい気持ではない。
「分かりました」
「僕は、いつでも」
立ち上がり、やや空いたスペースに移動して対峙する私達。
柳君は、腰の辺りに手を置く独特のスタイル。
やや開いた脇は、肘打ちを出しやすい構えとなっている。
男の子だけど華奢な柳君、女だけど一応は引き締まった体の私。
体格としては同じくらい。
ブーツの分、私の方が大きく見えるくらいだ。
「司は手を出さないから、好きにやってみて」
「はい」
胸元のジッパーをやや開け、ハイネックの襟を少し折る。
上はハイネックのシャツ足元はミニスカートだが、足を上げなければ大丈夫だろう。
息を整えながら、軽くステップを踏む。
上体を振りつつ、牽制気味にジャブを放ってみた。
あごを引いてそれをかわす柳君。
さらに踏み込み、ストレートにつなぐ。
やはり当たらない。
まるで空を打つような空しさが伝わってくる。
「くっ」
思うようにならない事に、つい声が出る。
左右にステップを踏み、左と見せかけ右フック。
当たらない。
全て、あごを引く事でかわされる。
結局どれだけ打ち込んでも、私の攻撃は一つも当たらなかった。
肩で息をする私を、柳君が申し訳なさそうに見つめてくる。
「いいの、当たらなかったのは私なんだから」
「でも、丹下さんには少し悪い事したかな」
咎めるような視線を舞地さんに向ける柳君。
その意味は、すぐに彼女自身から語られた。
「さっきの話と同じだ。メンタルな部分で、ブレーキが掛かってる。顔見知りの司を怪我させまいとな。本気になり切れてない」
自分の弱さ、甘さへの的確な指摘。
私自身は当てるつもりで拳を放ち続けたのに。
でもそれは「つもり」でしかなかった。
疲労感と虚無感が、心身を追い込んでいく。
「私はそれでもいいと思うわよ。人間、そんな優しさもなくっちゃ。厳しいだけなんて、辛すぎるわ」
「池上さんは優しいからね」
「あ、嬉しいそれ」
映未さん達の会話に、沈み掛けた心が和む。
そう、ただ落ち込んでいても仕方ない。
「ただ、現実はそうもいかなくてな。どこかで踏み切らないと駄目な時もある。丹下も、その覚悟だけは持っていた方が良いぞ」
言葉とは裏腹に、優しい口調で語りかけてくれる名雲さん。
私ははっきりと頷いて、拳を固めた。
「一つ、面白い物を見せようか。浦田、司とやってみろ」
「俺が?」
顔をしかめた浦田は、ニコニコ笑っている柳君を指差した。
「実力が違い過ぎますよ。ライオンと毛虫くらいの差があるんだから」
「だったら針で刺せ」
手を振って促す舞地さん。
「ハンディで、俺は警棒使っていいかな」
「いいよ」
明るい笑顔。
対して浦田は、ため息を付いて席を立った。
「司も遠慮するな」
「え。柳君も手出すの」
「当然だ」
きっぱりと言い切る舞地さん。
「ったく」
体を解しながら、浦田はさっき私が立ったスペースへと移動する。
その手は、警棒へ触れ続けている。
「柳君、気を付けてね」
「俺は?」
「君は、まあ気を付けてもいいんじゃない」
素っ気ない映未さんの答え。
鼻を鳴らし、柳君の前に立つ浦田。
すでに構えている彼の気迫に押されてか、じりじりと下がる。
後ろは窓ガラス。
下がり過ぎれば、行動範囲が狭められる事になる。
それを狙っているのか距離を詰める柳君。
浦田は警棒から手を離さない。
そしてもう片方の手が、ズボンの後ろにあるポケットへと動く。
何か道具でも持っているのだろうか。
柳君は一瞬だけ立ち止まり、すぐ間合いを狭めていく。
彼なら、軽く踏み切っただけであごを捉えられる距離。
追い込まれた浦田は、苦しげな顔で左右を見渡す。
ここまでか……。
「ピピピッ」
不意に静寂が破られる。
全員の視線が、私へと集まる。
「あ、ごめんなさいっ」
机に置いていた端末が鳴っている。
「丹下」
緊張感が途切れたのか、呆れた声を出す浦田。
柳君も構えこそ解いてないが、笑っている。
「だって、急に……」
画面に視線を落とし、掛けてきた相手の名前を確認する。
「誰から?」
浦田が、関心なさそうに尋ねてくる。
私はもう一度画面を見て、それを前へ差し出した。
「あなたから」
鈍い音がして、柳君が床に倒れる。
足元にしがみついていた浦田は、そのまま膝を抱え一気に極めの体勢に入った。
さらに警棒を振りかぶり、それを鳩尾へと突き立てようとする。
「そこまで」
苦笑して宣言する舞地さん。
浦田はすぐに柳君を解放して、その場から引き起こしてあげた。
「ひどいな」
「本当、やり過ぎよね」
映未さんが、可愛らしく頬を膨らませる柳君の服をはたいている。
「ハンディ、ハンディ」
「まあ、柳とやり合うならあのくらいはな」
「その辺は後にするとして。丹下、どうして浦田が司を倒せたと思う」
笑いを含んだ舞地さんの視線に、ようやく悟る。
「……さっき言っていた、精神的な部分ですか」
「当たり。司の攻撃を恐れず、また傷つける事も恐れない手加減抜きのタックル。だから毛虫は、ライオンを倒せた訳だ」
「針を刺しただけですよ。ね、柳君」
「さあ」
まだ拗ねている柳君。
「だから丹下も、今度雪野とやる時はそれを考えておくといい」
「私はもう、優ちゃんとやり合う気なんてないですよ」
「そう。ただ友情は大事だが、それに縛られると足をすくわれる」
「あ、はい」
私は微笑んでいる舞地さんに頷き、その言葉を胸の中で考えてみた。
言っている意味は分かる。
だけど私に、そこまで割り切った行動が出来るかどうか。
いや、一体誰がそんな事を出来るのか。
「大体浦田君、小細工し過ぎなのよ」
映未さんのやや高い声が、私の思考を妨げた。
顔を上げると、映未さんはさっき浦田が立っていた位置に付いている。
「まず壁際に下がって、窓ガラスを背にする。日差しはないけど、ガラスがあるせいで柳君は思い切って拳が振るえない」
今度は手を下げて、腰に持っていく。
「最初に警棒を使うような事を言っておいて、手もそこに当てる。でも後ろのポケットにも手を動かして、別な道具がある事を印象付ける。窓ガラスによって、それが柳君に見えるようにしてね」
次に端末を取り出し、それをみんなに見せてみる。
「急に沙紀ちゃんの端末が音を立てた。しかも非常呼び出しで。当然みんなの視線はそちらに向くわ」
そしてしなやかな仕草で、ほっそりとした指を浦田の顔に向ける。
「それなのに呼び出した本人が「誰から?」って。演技派よね」
「そのくらいしないと、浦田の勝ち目はないだろ。メンタルな部分は別として」
「そうそう。名雲さんの言う通りですよ。実力が違い過ぎるんだから、俺だって少しくらいは手を打たないと」
映未さんは「分かってるわよ」とばかりに苦笑して、舞地さんの隣に座った。
「じゃあ浦田、相手が雪野だったらどうする」
あごを押さえ薄い笑みを浮かべる名雲さん。
「痛いところ付くな。今の状況ならそれもあり得るけど、ユウにはさすがに俺も遠慮しますよ」
「僕は遠慮しないの」
「男にはね」
平然と答えるその様からは、彼の心の中をうがかい知る事は出来ない。
元々何を考えているのか分かりにくい人でもあるし。
「さてと。俺の事はどうでもいいから、舞地さん達には仕事へ行ってもらいましょうか」
「ガーディアンの指導か」
表情一つ変えず呟く舞地さん。
「生徒会の内偵もかなり終わったし、今日はそっちをお願いします」
「悪い、俺授業でないと」
「名雲さん。あなたが抜けると、池上さんに負担が掛かり過ぎるんですよ」
「だから謝ってるだろ。特殊機器操作講習なんて、他の学校じゃやってないんだぜ」
教本と、綺麗に書かれた手書きのルーズリーフが机の上に出される。
「変な所で真面目よね、名雲君。授業出なくても、単位は取れるでしょ」
「まあな。ただみんな休まず出てるのに、俺だけさぼるのもあれだろ」
「だから真面目って言ってるの」
仕方ないといった顔で頷き合う映未さんと舞地さん。
「そういえば、その授業玲阿君も出てるんだよね」
「ああ。だから、余計出ないと……」
「燃えてるよ、名雲さんが」
何とも嬉しそうな顔をする柳君に構わず、名雲さんは本をリュックに詰め出した。
「という事だ。悪いな、浦田」
「分かりました。じゃあ名雲さんはパスと。ショウとケンカしないで下さいよ」
「そこまで子供じゃないさ。俺も、あいつも」
軽く手を振って、元気よく部屋を出ていく。
普段より楽しげな感じで。
「見た目とは違いますよね、名雲さんって」
「お父さんが軍人だから。今でも、その影を追ってるんじゃない。目標って言うのかな」
遠い目をして名雲さんが出ていったドアを見つめる柳君。
彼には似合わない、寂しげな眼差しで。
「さて、それで私達はどうすればいいの」
突然映未さんが、明るい調子で手を叩く。
沈みかけていた柳君の表情がふと変わり、普段の朗らかな笑みに戻る。
「例によって、各ブロックに行ってもらいます。D-1は後で丹下が行くから、D-2からD-5に分かれて。名雲さんがいなくて一つ余るけど、その辺は、池上さんにお任せします」
「任されるのも良いけど、私達の口座に契約金以上のお金が振り込まれた理由も聞きたいわね」
「見間違いでしょう。俺は請求通りの額を振り込んだんだから」
「……まあいいわ。マリッペ、行きましょ」
「そういう呼び方は止めろ、エミリン」
何だかよく分からない呼び合いをして出ていく二人。
柳君は例の笑顔で私達に手を振り、彼女達の後を追った。
「何だあの、エミリンって」
「舞地さん、結構とぼけてるのよね」
「見た目程クールじゃないのは分かってたけど」
新たな舞地さんの一面を見せられ、さすがに彼も戸惑っているようだ。
彼女も女の子なので、私はさほど不思議には思わないが。
「でも、こんなやり方いつまでも続けられないでしょ。いくら委員会が生徒会の指導下にあるといっても、トラブルの通報係をさせるなんて」
「委員会の人間はどこにでもいるから、一番いいんだよ。他のガーディアンより早く現場へ着くためには、オフィスで常駐するだけじゃ」
今浦田が行っているトラブルへの対処法。
私達生徒会ガーディアンズは授業にも出ず、基本的に帰宅までオフィスに常駐。
委員会に属する生徒やパトロールをしている人達からの連絡を受け、即座に現場へ向かう。
現場での指揮権が生徒会ガーディアンズにあるとはいえ、後から来て指揮権を奪われては誰も気分が良くない。
そのために、出来るだけ私達の方が早く駆け付けるようにしてるのだが。
ただ今言ったように委員会の生徒は、実際には別な組織。
それなのに生徒会の名で彼等に何かをさせるのは、多少無理がある。
「心配しなくても、委員会の連中から不満が出る前には止める。俺が生徒会長とかわした条件さえクリアすれば」
「生徒会スタッフの不正摘発と、ヒカル君の在籍データ回復でしょ。めどは付いてるの」
「さっきも言ったけど、内偵は大分進んでる。後はどれを生徒会に申請するかの判断」
「恨まれそうね、大丈夫?」
浦田は軽く肩をすくめ、書類や端末を机の上に広げた。
「慣れてる。丹下だってずっとガーディアンやってたんだから、そういう手のリストには載ってるだろ」
「多分ね。襲われたのも、一度や二度じゃないし」
今度は私が肩をすくめる。
はっきり言えば逆恨みだ。
とはいえ話して分かってもらえない場合は、それなりにこちらも対処している。
「ただ問題は、ユウ達の処分なんだよ。それは条件に入ってないから、無理しなくてもいいとは思うんだけど」
「まさか、退学なんてさせないでしょうね」
「肉親の情を取るか、それとも友情を取るか。訳分からないから、自殺しようかな」
「気味悪いから、化けて出ないでよ」
「その前に、止めてくれ」
机を叩いて笑いあう私達。
聞きようによってはひどい話だが、お互い別に気にしてはいない。
「さてと、丹下もみんなの所へ行ったら。俺は申請する奴を選ばないと」
「あら、私には選ばしてくれないの」
「恨まれるって、自分で言ってただろ」
「慣れてるって聞いたけど」
少しだけ口元を緩め、端末をリンクしてくる。
画面には、名前と生徒会の所属のリストが。
また机の上に浮かぶ疑似モニターにも、同じ物が表示されている。
ホログラフィーに似た物で、宙に浮かんでいるのは不思議な感じがする。
優ちゃんがこれをお気に入りで、この部屋に来ると必ず起動させる。
「この前の、傷害未遂を揉み消してるっていうスタッフは?」
「申請書はもう作ってある。ユウ達の前でわざわざ捕まえたのに、みんな何も言わないんだよ。いくら何でもおかしいって気付いてないのかな」
「やらされてるんじゃなくて、好きでやってると思われたんでしょ」
「いいけどね。変に騒がれると、在籍データが完全に消されかねない。舞地さん達に、それとなく伝えてもらうとするか」
「素直に言えばいいのに。友達を巻き込みたくないの」
「丹下は巻き込んでるだろ」
何となく済まなさそうな顔。
今まで殆ど見た事がない、気落ちした表情。
夏休み、海でこの話を聞いた時以来かもしれない。
私はその丸まった背中を軽く叩き、隣からその顔を覗き込んだ。
ポニーテールがなびき、前髪が目元を覆う。
「だったら私は、あなたの何なのかしら?」
今度は戸惑いの表情が現れる。
言葉の意味を考えているのか、それとも答えを捜しているのか。
「……ごめん、変な事聞いて」
答えが返ってくるより前に、自分から終わりにする。
ためらい、焦り、緊張。
そんな言葉が思い浮かぶ。
私の中に、そしてきっと……。
「悪い事をしてる人は、と」
大きな声を出して、画面をスクロールさせる。
向こうもいつもの顔付きに戻り、疑似ディスプレイを見入っている。
「っと、これは」
名前、所属、その後に続く備考欄。
課長の地位を利用した、女子生徒の恫喝。
キーを操作し、詳細な情報を見てみる。
「学内限定発売品を扱う立場を利用し、女子生徒に関係を迫る?なお、全ては未遂。現場を発見したので、未然に防いだ例もあり」
「ふざけ過ぎだろ。そいつは申請確定」
即決する浦田。
私も勿論賛成だ。
「もし処分されなかったら、闇討ちしてやる。簀巻きにして、校門に転がすかな」
「街の方が良くない?駅前とか」
「俺が車を用意するから……。いや、そんな事考えてる場合じゃない」
「あ、そうね」
我に返りリストのチェックに戻る私達。
名前と顔は、取りあえず覚えておこう。
もしどこかで会ったら、個人的に……。
「どうかした」
「別に。次行こう、次」
「乗ってきたな。さて他には」
リストをチェックする事しばし。
モニターと書類を見続けていて、さすがに少し疲れてきた。
「後どれくらいあるの?」
「舞地さんが調査した分は全部終わった。次は、池上さんが調査した分。来週くらいには対象を入れ替えて調査した分を、もう一度チェックする」
「見逃しや、誤認を防ぐためね。これは、大変だわ」
体の上に、疲れが覆い被さってきた感じ。
「少し休もうか?」
「ええ」
私はポットに手を伸ばし、今日3回目のお湯を注いだ。
前はコーヒーばかりだったけど、最近はこの人の影響で紅茶をよく飲んでいる。
「……またトイレが近くなる」
「体おかしいんじゃない?飲むたびに行ってるでしょ」
「吸収されないんだな、これが」
といって、残っていた紅茶を一気に飲み干す。
飲む量が多過ぎると言ってやりたいが、対抗上私も飲んでいるので言う事は出来ない。
「申請するのは舞地さん達の意見も聞いて、その後かな」
「結局、あの人達のと生徒会長はどういう関係なの?」
「未だにアシスタントスタッフ。一応籍は自警局長の元にあるけど、それもどうだろ」
「裏があるって?」
「意味が無い。あんな使える人達を、ただの局長直属ガーディアンにしておくなんて。あ、前は丹下もそうだったか」
「失礼しました」
わざとらしく頭を下げ、紅茶をあふれんばかりに注ぐ。
またトイレに行けばいいだけの事だ。
「確かに直属班は優秀だけど、仕事は局長の護衛や生徒会ガーディアンの応援だものね。あの人達の能力を考えたら、おかしいと言えばおかしいかな」
「今は俺が契約主だから、逆に生徒会長へ探りを入れてもいいんだけど」
「本当は、生徒会長から派遣されてきたんでしょ。舞地さん達は。監視か何か知らないけど」
「それを封じるために、こっちが先に契約したんだよ。おかげでせっかく儲けたお金が殆ど飛んでいった」
鼻を鳴らして、やはりマグカップを傾ける。
だから、飲み過ぎなの。
「ただそのおかげで他の監視は防いでもらえるし、仕事も手伝ってくれる。生徒会ガーディアンズも指導してくれて、言う事無い」
「私は助かるわよ、舞地さん達がいてくれて。みんなも前よりは、自分の行動に自信が持ててる見たい」
「舞地さん達が教えてるのは、判断と決断だけさ。いつどこででも、どんな状況でも考える事から始めろって。そして、その時最適と思える行動を即座にとれって。自分が最適と思える行動を、自分の判断によって」
それは、誰も頭の中では分かってるだろう。
ただ、実行に移すとなるとそう簡単にはいかない。
責任、結果、感情、相手……。
様々な要素が複雑に交差する状況で、自分が思った通りの行動をすぐに出来る人間はそういない。
自分の考えに、揺るぎない信念を持てる。
結果を、自分の行動を恐れない。
それに耐える勇気。
そんな人は、一体どれだけいるのだろうか。
「俺には無理な話だけど」
「さっき柳君にタックル決めたの誰?」
「あれは、丹下の端末に驚いて」
「自分で非常呼び出しをしたのに?決断力と行動力があるのも困りものね」
知らぬ顔で画面を操作し出す浦田。
「んー、これは」
すると、突然笑い出した。
気になって、私も画面を見てみる。
「運営企画局所属の2名。横領になってるわ」
「備考欄」
言われるまま、備考欄の詳細なデータを見てみる。
企画局の仕事で、学校に居残る例が多々あるとの事。
その際、企画課に備え付けられている冷蔵庫から食材を無断で持ち出している。
特に多いのが焼きプリンと冷凍グラタン、オレンジジュース。
深夜の夜食に使われている模様。
「規則違反だが、軽微に付き処分は不要と思われる。池上映未……。って、処分不要なら調査するな」
「でも分かるわ。食堂も閉まって食べる物が何もない時って、つい冷蔵庫とか捜すもの。食べ物の事で書類を書き込んだり、端末を使うの面倒でしょ」
「まあね」
情報局のデータベースにアクセスして、彼女達の情報を引き出す。
生徒会の関係者なら、ある程度の個人情報は閲覧が可能だ。
無論それの悪用は、厳しく罰せられる。
「好物、焼きプリン、ヨーグルト。こっちの子はグラタンとラザニアか。そのままだな」
「遅くまで学内行事の企画をして、何度も没になって、それでもまた企画して」
私は、彼等が今までに手がけた企画の一覧を見てみた。
着なくなった服を生徒間で交換する催し、食堂やラウンジでの1時間限定フリーマーケット、なりきり期間限定クラブ……。
どれも大きな目立つ企画ではない。
小さな、だけど紹介を読んでいるだけで顔がほころんでくるような物ばかりだ。
彼女達の考えや気持が、何となく分かる気がする。
横目で、彼の様子を窺ってみる。
普段の皮肉っぽい笑顔や醒めた顔付きは、そこには全く見られない。
たやすく声を掛ける事がためらわれるような真剣な表情。
滅多に見せない、彼のもう一つの顔。
「……ちょっとやってみようかな」
端末を操作して、自警局のアドレスを表示させる浦田。
「これは俺の一存でやるから、丹下は見なかった事にしてて」
「何する気」
「小細工、という程でもない」
頬の辺りを触れ、彼女達の顔写真を指差す。
「軽く差し入れでもしようかと思って。自警局長名義で」
「着服じゃないの、それ」
「生徒会内部のお金じゃないと、冷蔵庫に補充してくれないから」
「彼女達と共犯になる気?万が一の場合は、自分が罪を被るとかじゃないでしょうね」
しかし問いには答えず、通話キーを押す。
「……あ、I棟Dブロック隊長補佐の浦田です。……ええ。それで運営企画局に差し入れして欲しいんですけど」
彼女達の好物を次々口にする。
「ええ、これから週1のペースで毎週。支払いは矢田局長名義で。備品扱いではなく各個人が自由に食べられるように、好意の品として送って下さい。……はい、彼の了解は得てます。……ただ、請求書は俺宛にしてもらえますか」
向こうも当然不審に思ったのだろう、会話にかなりの間が空く。
「……はい、分かりました。……お願いします」
キーを押し、通話は打ち切られた。
「成功、じゃないけど差し入れはしてくれる。矢田君にも連絡はしないって」
「すぐに気付かれるわよ。そういう事には厳しい人なんだから」
「それを処分するなら仕方ない。その程度の人の部下にいたんだなって」
「会った事もない彼女達をかばって、自分が退学になってもいいの?それなら、私の交際費を使えばいいじゃない」
「俺は矢田君の度量を試してるだけだよ」
「とてもそうは思えないわ……」
収まらない気持ちのままリストをチェックする。
殆どの人は何の問題点もない。
ただそんな中に、さっきの彼女達のように心に引っかかる報告が幾つかあった。
「……取りあえず終わった」
背伸びをして、お礼代わりに軽く手を上げてくる浦田。
私も手を上げ返し、いくつかのレポートを画面に広げた。
オンライン授業しか受けられない入院している生徒へ、図書センターから持ち出し不可の本を貸している厚生局の男の子。
時間制限がある施設の利用を、自分の責任で認めている女の子。
本当は許可されていない他校の生徒を、幾度と無く交流学生扱いにして受け容れている渉外局の子達。
そのどれもが見つかれば咎められ、軽微な処分を受ける。
でも彼等を責める事は、一体誰に出来るのだろう。
「……済みません、図書センターの定見さんお願いします」
「丹下」
私はかまわずキー操作する。
「あ、お久し振りです。今送っているデータの本。私が持ち出してますので、一言断っておこうと思って……。ええ、持ち出し禁止なのは分かっています。……はい。……分かりました」
レシーバーを離し、紅茶を一口含む。
砂糖なしの、少し苦い味。
でも今は、それが心地よかった。
「怒られたわ」
「当たり前だろ」
「人の事言えないでしょ。それに、向こうも何となく事情は分かってるみたい。追加があれば、また連絡してくれって」
「俺達が不正の輪を広げてどうするんだ」
ため息を付く浦田。
その顔には、紛れもない笑顔が浮かんでいる。
楽しい遊びを見つけた、子供のような笑顔が。
「施設の利用許可って、どこの管轄」
「場所にもよるけど、厚生局か学内活動局、内局ね」
「了解。……えと、厚生局のアドレスはと」
「私は内局に連絡するわ」
これは決して正しい事ではない。
彼が言ったように、不正を助長する事に繋がるかもしれない。
でも間違いだとは思わない。
それを分かってくれる人が、この学校にはいる。
そして、私の近くにも……。
「さー、どうするよ」
「誰かから告発されないように祈ったら」
「面白くないな、それ」
再び画面にレポートが広がる。
先程のまでのとは違うデータのようだが。
「丹下沙紀。自警局警備課所属、生徒会ガーディアンズI棟Dブロック隊長。元局長直属ガーディアン隊長。中等部より自警局警備課に所属……。ふーん、出世っていうのはこういうのを言うんだ」
私の履歴を見て感心している。
そう、今表示されているのは私の調査レポートである。
「そんなにすごくないわよ、あなた達の経歴に比べたら」
「逆だって。俺達は確かに無茶してきたけど、何の役職にも付いてないただのガーディアンなんだから。生徒会幹部への道を確実に歩いてきた丹下とは、全然違う」
「誉めてるの、それ」
「当然」
その隣に表示されたのは、浦田の調査レポート。
中等部で自警局に所属、1年の終わりに生徒会を除籍。その後ガーディアン連合に所属。先日生徒会に復帰した所で終わっている。
「方や生徒会をクビになって、ガーディアン連合でも組織の運営に携わろうともしてない。勿論何の委員会にも参加してない」
机の上に浮かぶ疑似ディスプレイを指でなぞる。
「丹下のように、努力して頑張っている人もいるっていうのに。いや、別にひがんでる訳じゃない。ただ丹下は、もっと自分に自信を持っていいんじゃないかと思ってさ」
「私は、そんな」
「俺達エアリアルガーディアンズは、中等部から他のガーディアンに一目置かれる存在だった。だからそれに所属するユウやサトミに、一歩引くような気持があるのも分かる」
彼の瞳が、真っ直ぐ私を見つめてくる。
「……でも丹下は、決してあの二人に負けてない。俺はそう思ってる」
はっきりとした、言い聞かせるような口調。
私はゆっくりと頷き、その言葉をその眼差しを胸の中で受け止めた。
はにかんだ笑顔を見つめながら……。
外はもう暗く、生徒の姿も見当たらない。
ただ見上げる特別教棟の窓には幾つも明かりが灯っていて、まだ頑張っている人達がいるのだと教えてくれる。
「副会長、今日も学校に泊まるのかな」
「学校が好きなんでしょ、色んな意味で」
「通う手間はないけど、何か違う」
端末のキーを操作し、オフィスのホストコンピューターへ連絡を入れる浦田。
私を寮まで警護してくれる人の義務で、今は建物を出たという定時連絡だ。
そして私からの連絡が合わさって、ようやくそれは正式に確認される。
つまりどちらか一つでもなければ、私の身に異変が起きていると判断される訳だ。
まずはDブロックの生徒会ガーディアンズに非常招集が掛かり、次いでI棟、最終的には全生徒会ガーディアンズにまで。
勿論そこまでの事態になる事は無く、せいぜいブロック止まりで、連絡の入れ忘れというオチが付く。
また私は警備無しで帰る事が大抵なので、そういう事にはならないが。
「さすがに夜は涼しいわね」
「マンガ読む暇もない、最近忙しくて」
「あなたが会議や会合を減らした分、これでも早くなった方よ」
「話し合っても結論が出ない事を会議しても仕方ないのに」
「分かっていても、慣習は変えられないの」
校門にいる守衛さんに挨拶をして、寮へ続く道を歩く。
この辺りは住宅街で、夜ともなれば車も殆ど走っていない。
勿論人の姿も無く、あるのは私達の足音と影だけだ。
「中等部の時って、どうだった?」
「漠然とした質問だな。別に今と同じだよ。ユウ達と一緒にいて、無茶して怒られて、馬鹿みたいに騒いで」
「ふーん。その時に一度会いたかったわね。あなた達の事は前から知ってたけど、地区が違ったから話す機会もなくって」
「そっちは俺達の事知ってて、俺はそっちの事知らないのか。何かやだな」
「いいじゃない。悪い評判は、……あまり聞かないから」
「あまり」という言葉に、二人して笑う。
夜風がポニーテールを揺らし、一瞬前を覆い隠す。
そう言えば、この髪型にしてどれだけになるだろう。
あの日から。
「どうかした」
「昔の事思い出してた。前はポニーじゃなかったのよ。結んでなくて、それにもっと短かったわ」
「そういえば、ショウも髪切ってないな。あいつも、昔は短かったはずだけど」
「知ってる。もてたわよね、彼」
「格好良いから、先生は。でも、丹下もそうじゃないの」
「いえ、私は……」
足を止め、腰を落とす。
寮はもうすぐそこ。
しかし、角から現れた人影が少し気になった。
「丹下、定時連絡」
その意味を即座に理解し、端末を操作する。
これで私が寮に着いたとホストに連絡が行く。
もしこの後一定時間内に浦田が連絡を入れなければ、ホストがDブロックの生徒会ガーディアンズを招集してくれる。
いわば軽い保険だ。
「殺気めいたものは感じられないわ……」
「無い奴の方が、却って怖い」
私の前にさりげなく立ち、周囲に目を配る。
「あいつだけだな、多分。車が来る気配もなしと」
「どうするの」
「話し合って、駄目なら逃げる」
「それでも駄目なら?」
「丹下の考えてる通りにするだけさ」
一瞬、彼の背中が大きく見えた。
彼自身が発する、強い気迫。
決して格闘技の腕では私にも及ばない彼が、あの柳君を事も無げに破った理由。
それが今、目の前にある。
相手との距離、約20m。
道具があれば、それは0にも等しい。
「手、振ってる」
「顔がまだ見えないから、ちょっと」
「知り合いなら、問題ないんだけど」
お互い、緊張は解かない。
あれが演技でないという保証は、誰もしてくれない。
自分の身は自分で守る。
今私は、彼にも守られているが。
「名前呼んでない?」
「そこまで耳は、良くないんだよ」
苦笑する彼をよそに、私の頭には幾つもの光景が広がっていた。
古い、古い記憶が。
「大丈夫。私の……、知り合い」
「分かった」
警棒から手を離し、私の後ろに下がる。
知り合いだからといって油断は出来ない。でも彼は、私の言葉に従ってくれた。
それに感謝する余裕もなく、私は古い記憶を見続けていた。
「沙紀だろ」
甘い、少し鼻に掛かったような声。
その声が似合う甘い、モデルのような顔立ち。
私からしても見上げるような長身。
また背が高くなったようだ。
「久し振りだな、まだガーディアンやってるのか」
街灯の下で輝く笑顔。
私はぎこちなく頷き、そのまま彼を上目遣いで見上げた。
「木村君は、まだバスケ部?」
「ああ。一応レギュラーだぜ」
「すごいわね、まだ1年なのに」
「それ程でもないさ」
謙遜、とも思えない口振り。
そんな彼の態度に慣れている、いや慣らされた私は曖昧に微笑んだ。
「綺麗になったな。凛々しいって言うのかな」
「そんな」
「いいだろ、本当の事なんだから。……後ろの子は」
私の背中に視線が向けられる。
「申し遅れまして。俺、浦田といいます。丹下さんと一緒にガーディアンをやっていて、今日は彼女を寮まで送ってるんです」
丁寧な態度と口調。
視線が交錯するが、浦田が会釈する事でそれは終わった。
「……そんな小さい体で、護衛なんて務まるのか」
「木村君っ」
「俺は、事務が主なので。丹下さんにも迷惑掛けてばかりです」
「まあいいや。それより沙紀、今度試合見に来いよ」
差し出されるチケット。
私はそれと木村君の顔を交互に見つめた。
「ずっと見てないだろ、俺の試合」
「でも、私」
「俺とお前の仲だろ」
肩に手が回される。
中等部の頃なら、それがどれだけ嬉しかっただろう。
今は、無性に重さが感じられる。
「分かった」
腕から逃げるように、チケットを受け取る。
「2枚あるから、よかったら浦田君も」
「済みません、わざわざ」
会釈する浦田に、木村君はにやけた顔で頷いた。
「せっかく久し振りに会ったんだ。今からどこか行こうぜ」
「……私、今日は疲れてるから」
小さなかすれそうな声で、どうにか呟く。
顔は伏せられ、とても上げられない。
「じゃあ、また連絡する。それくらいはいいだろ」
「え、ええ」
否定出来ない自分がいる。
あの時と同じ自分が。
彼の視線が、私を捉えているのが分かる。
肌を刺すように、それが伝わってくる。
「試合、絶対見に来いよ」
肩を軽く叩き、来た道を戻っていく木村君。
その足音が、耳の中で強く響いていた。
顔を上げると、そこに彼の姿はなかった。
壁にもたれ、端末を見ている浦田以外には。
「俺の定時連絡も入れたから、ここまででいいだろ」
「そうね」
頷き、一歩踏み出す。
何も考えなくても歩く事は出来る。
いや、他の事を考えていても。
「それじゃ、また明日」
「ええ」
景色も、音も、明かりも。
何も感じない。
古い、忘れようとしていた記憶以外には。
寮の部屋に戻り、取りあえずシャワーを浴びた。
そしてバスタブに浸かり、長いため息を付く。
ようやく意識が戻った気持。
もやの掛かったバスルーム。
その向こうにある曇った鏡。
しばらくしてバスタブを出た私は、鏡の前に立ってみた。
体型は変わった、顔も少しは。
ここに映っている姿は、確かに昔とは違う。
でもその中身はどうだろう。
曇った鏡は、勿論何も答えてはくれない。
そして私も、それを望んではいない。
答えなんて、自分で見つけるものだから。




