表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第25話   2年編前編最終話
279/596

エピソード(外伝) 25   ~ショウ視点~






     支え




 刃のように鋭い岩肌。

 眼下には鬱蒼とした森が生い茂り、上を仰げばその岩肌が空を目指してどこまでも続いている。

 腰に装着してあるワイヤーを調整し、降下の速度をより早める。

 この状況で慌てるのは良くないが、空は一層暗くなり稲光も時折見える。

 岩肌の振動からして、決して遠くもないだろう。

「え」

 光って揺れたのか、揺れて光ったのか。

 気付けば岩肌が遠ざかり、支える物など何もない場所で完全に宙づりとなる。

 飛び降りれば即死は間違いない高さ。

 でもって当然だが、ワイヤーは断崖の上で固定しているため岩肌目掛けて突き進む事となる。

「っと」

 岩肌を両足で受け止め、衝撃が伝わる前に横へ回る。

 耳元を鋭い岩肌が通り過ぎ、髪が少し切れた気もする。

 それでも靴を突き破られるよりはましで、どうにか事なきを得た。

 などと思っていると、轟音と共に大粒の雨まで降って来た。

 どうやら、もう少し急いだ方が良さそうだ。



 光などまるで差し込まない深い森。

 その分足元に草は殆ど生えてないが、ライトがなければ一歩前に進むのも難しい。

 背負っている大きなリュックを担ぎ直し、GPSで座標を確認する。

 父さんから聞いた場所は、ほぼこの辺り。

 ハンドライトを何度か周囲へ振るが、時折動物の目が光る程度。

 これだけの森なら熊もいるだろうし、少し警戒した方がいいだろう。

 端末で音楽を流し、こちらの存在をアピールしつつ先を急ぐ。

 ただ、座標はあくまでも10年前の物。

 川が消えるとは思わないが、枯渇する事はある。

「頼むぜ、父さん」

 そんな呟きが聞こえたのか、突然足元を取られて地面へ転がった。

 咄嗟に掴んだ木の枝が単なる弦で、それでも岩や石が下になかっただけ良しとするか。

「あれ」

 ささやかな、おそらくは転ばなければ気付かなかっただろう小さな川。

 いや。水の流れは殆ど無く、地面の上を撫でていくような感じ。

 それでもこの水がどれだけ澄んでいるかは、十分分かる。

 取りあえず濡れた顔を拭い、ペットボトルと簡素なポンプを取り出す。

 後はそれを設置して、水が貯まるのを待てば良いだけだ。

 出来ればもう動きたくないが、どう考えても人が泊まるには不向きな場所。

 ペットボトルが満杯になり次第、戻るとするか。


 重さは行きの何倍か。

 3Lが10本で、30kg。

 行きとは違い、気だけが急く。 

 深い森を走るようにして抜け、ワイヤーの下がっている岩肌に辿り着く。

 雨は未だ降り止まないが、雷はどうにか収まったらしい。

「嘘だろ」

 ワイヤーをウインチに取り付け作動させるが、反応無し。

 もう一度試しても、同じ事。

 それ程精密機器ではないが、直す技術も道具もない。

 方法は二つ。

 断崖を迂回するか、断崖を上るか。

 早いのは、当然断崖を上る方。

 だがそれでは間違いなく、途中で力尽きここへ舞い戻ってくる。

 落下という方法で。

「仕方ないな」

 ウインチを操作して、断崖の上にある接着部分を切り離す。

 どうもその機能だけは無事だったらしく、考えたくもない程の長さのワイヤーが降ってきた。

 それを巻き取り、リュックを背負い直して歩き出す。

 頑張れば、明日の夕方には着くだろう。




 急いだおかげか、昼に着いた。 

 その代わり、少しも動けなくなった。

 車の後部座席で横たわり、とにかく息だけをする。

「だらしないな。レンジャーの訓練は、二週間山にこもるんだぞ」

 そんな事は知らないし、レンジャーもまさか熊や野犬に追いかけられはしないだろう。

 父さんの訳が分からない話を聞き流し、靴を脱いでペットボトルに手を伸ばす。

 あそこで汲んできた水ではなく、中身は普通のお茶。

 水は雨で散々飲まされたが、味が付いているのは久し振りだ。

「大体、どうしてあそこの水なんだ」

「え。じ、自分が、眼病に良いって」

「俺、そんな事言った?願掛けって言わなかったか」

 俺をからかっている訳ではなく、かなり真に迫った口調。

 足元から全てが崩れそうになってくるような感覚。

 とはいえこれ以上悪い状況など考えられないし、願掛けならそれでもいい。

「しかし、ここはすごい道だな」

 今走っているのは、おそらく何年も人が通ってなかったはずの狭い林道。

 最近は行きに俺達が使ったのと、帰りに使っているだけか。

 左右からは木の枝がせり出し、道路には大きな石が転がっている。

 時折左右のどちらかが断崖となり、地獄の底のような光景が広がる。

 それでも父さんは構わず、鼻歌交じりで車を走らせる。

 ラリーか何かと勘違いしてるじゃないだろうな。

「昔はこの辺りに、ゲリラが立てこもってたんだ。きついぞ、こういう場所でのゲリラ狩りは」

「除隊してたんじゃないの」

「戦争も終わったのに、そんな事やりたがる馬鹿はいなくてな。おかげで、何度死にかけたか」

 突然叫び出す父さん。

 ゲリラが飛び出てきた訳ではなく、目の前の道に大きな川が流れていた。

 行きにそんなのはなかったから、あの大雨で出来たのだろう。

 でもって右手は、それなりの断崖が続いている。

 川の流れは、右へ向かう。

「突っ込むから、シートベルトしろよ」

「流されないだろうな」

「どうしてこの車を軍から借りたと思ってるんだ。水没しても、3時間は走るんだぜ」

「じゃあ、その崖から落ちたら」

 答えない父さん。

 代わりにアクセルが踏み込まれ、何の躊躇もなく水の中に入っていく。

 幸い水没する事はなく、しかしそれでも窓の上まで水が来ている。

 泥水のため視界は悪く、フロント部分は完全に何も見えない状態。

 これでは断崖に突き進んでいても、全く分からないだろう。

「父さん」

「落ちないから気にするな。それに、落ちたら落ちただ」

「おい」

「抜けるぞ」

 不意に視界が晴れ、加えて少しの浮遊感が伝わってくる。

「あれ」

 間の抜けた声を上げる父さん。

 俺は咄嗟にベルトを押さえ、足元のペットボトルも押さえつけた。

 しかし落下はどれ程も続かず、激しい衝撃と共に車は一旦停まる。

「落ちないんじゃなかったのか」

「ショートカットって言ってくれ」

 鼻で笑い、車を降りる父さん。

 俺もよろめきながら外に出て、状況を確かめる。

 車自体に問題はなく、汚れが目立つだけ。

 装甲車のような外観なので、これが故障する時は俺達が死んだ時。

 また父さんの言った通り、断崖を落ちた分かなりの距離は稼いだと思う。

 先程までは気付かなかった村の集落が、遠目にではあるが見え始めている。

 それでもつづら折りはまだまだ続き、村から名古屋までもかなり遠い。

「急ぐか、のんびり行くか。どうする」 

 世間話のように尋ねてくる父さん。

 俺の答えは、一つしかない。

「出来るだけ早く帰る」

「任せろ。さて、楽しくなってきた」



 ボロ雑巾のようになりながら、ペットボトルの入ったリュックを背負って玄関をくぐる。

 良く死ななかったというか、今でもここにいるのが夢のような気がする。

「あら。何か大変そうね」

「色々あって」

「それは?」

「綺麗な水。よかったら、ユウに」

 玄関先にペットボトルを並べを、靴を確認する。

 ユウの靴はあるが、その姿もなければ声も聞こえない。

 いつもなら廊下を駆けてくる足音と共に、弾けるような笑顔が近付いてくるんだが。

「優は、寝てるわよ。疲れてるみたいね、精神的に」

「そう、ですか」

「自分も疲れてるみたいね」

「いえ。大丈夫です」

 軽く食事は取ったし、風呂にも入った。

 ただし寝たのは車の中で少しだけ。

 最後は崖を何度も落ちたため、寝るどころか意識を保つだけでやっとだった。

「よかったら、上がっていって」


 廊下に、点々と置かれる大きなクッション。

 後片付けをする気力も無いとは思えず、整理整頓はまめにする方のはず。

 それでもクッションは、家のあちこちに散乱している。

 いや。散乱と呼ぶには、あまりにも数が多すぎる。 

「お父さんが買ってくるのよ。優が転ぶと危ないからって」

「ああ。そういう事で。でも、余計転ぶんじゃ」

「何度も言ったんだけど、聞かなくて」

 肩をすくめ、リビングへ案内してくれるおばさん。

 そこにはタオルケットを膝に掛け、黙って床に座っているユウがいた。

 俺の存在には気付かず、それどころか意識があるのかどうかも分からないような状態。

 もしかして今彼女には、自分の内側しか見えていないのではないだろうか。


 刺激するのも良くないと思い、ユウとは距離を置いて部屋の隅で膝を抱える。

 彼女はヘッドフォンをしていて、外の音が聞こえない状態。

 目は言うまでもなく、小さな顔に似合わない大きな眼帯が付けられている。

「さっきの水は、一体何?」

「え、ああ。願掛けに」

「意味が分からないけど。飲んでも大丈夫かしら」

「それは勿論。体にも良いって聞いてる」

 成分はチェックしていて、毒性はないと確認済み。 

 どちらかといえば軟水で口当たりも良く、飲んでいて安心出来る味ではある。

 あの努力に見合うかどうかは、ちょっと判断出来ないが。

「優」

 肩を揺らし、ユウの注意を引くおばさん。

 彼女は今まで見た事もない緩慢な動きでヘッドフォンを外し、分かるか分からないかくらいの動きで頷いた。

「紅茶飲む?」

「飲む」

 感情の交じらない、虚ろな口調。

 正直聞いているだけで辛くなる、彼女の今の心情をそのまま表したような。

 ユウはすぐにヘッドフォンを付け、膝を抱えて床へ横たわった。

 単に体を休めているのか、それとも寝ているのか。

 どちらにしろ彼女の意識は、ここにはない。

「ずっとこんな感じよ」

 俺にマグカップを渡し、再びユウを起こすおばさん。

 彼女は無言でマグカップを受け取り、一度だけ口を付けそれをテーブルに置いた。

 いつもなら幸せをそのまま形へ表したような笑顔を浮かべるが、今は微かな表情の変化も見られない。

 再びその体は床へ戻り、膝を抱えたまま動かなくなる。

「大丈夫?」

「目の方は問題ないようだけど、精神的にはちょっと追い込まれてるみたい。でもこの子、カウンセリングは嫌がるから」

「嫌がるだろうな、さすがに」

「何か、理由でも?」

 どうやらサトミと例のカウンセラーとの話は聞いてないらしい。

 ちょっとためらいつつ、それでもその一件を簡潔に説明する。

「なるほど。でも、それこそ放っておいて大丈夫なのかしら」

「一度、ヒカルに相談しようか。あいつ、一応臨床系だし」

「お願い。あら、お帰りなさい」

「ああ。ただいま。やあ、四葉君」

 大きなビニール袋を背負い、リビングへやってくるおじさん。

 どうやら今日も、クッションを買ってきたらしい。

「買ってこないでって、朝言わなかった?」

「優が危ないと思って」

「クッションにつまづくわよ」

「大丈夫。柱にも緩衝材を取り付けるから」

 手に提げていたホームセンターのビニール袋から出てきたのは、今言った品物。

 確か小さい子が柱で怪我をしないように取り付ける物で、用途としては間違っていない。

「知らないわよ。優の目が見えるようになった後、どうなるか」

「その時は、全部片付ければいいだけだから」

「クッションは、どこに片付ける気」

「え」

 しゃがみ込んで緩衝材を巻き付けていた体勢のまま動かなくなるおじさん。

 今でも店が開けそうな量。

 この調子で増やせば、問屋が開けるだろう。



 雪野家を後に、寮へ戻ってくる。

 さすがに何をする気もなく、シャワーだけもう一度浴びてベッドに倒れこむ。

 朦朧とする意識の中で思い返されるのは、さっきのユウの姿。

 生気に欠け、心ここにあらずといった態度。

 抜け殻という言葉がそのまま当てはまる、俺の知っている彼女とはあまりにも違う姿。

「あー」

 意味もなく叫び、すぐにそのまま倒れこむ。

 苛立ちとやるせなさばかりが胸の中に募り、だけど自分にはどうしようもない。

 彼女の目を治す事も、多分今は相談にも乗れない。

 強いだ何だと言われても、所詮自分はただの高校生。

 どれだけ思おうとも、何一つ彼女の役には立たない。

「ああ。忘れてた」

 端末を手探りで?み、ヒカルへ通話する。

「……俺だ。……いや、ユウの事でちょっと。……ああ。……悪いけど、頼む。……え」

 やけに声が良く通ると思っていたら、ベッドサイドにそのヒカルが立っていた。

 他人の気配には敏感な方だが、今日は全く駄目らしい。

「いつからいる」

「今来たばかりだよ」

 まだ端末で話してくるヒカル。

 何をやってるんだと思っていたら、自分も端末を耳に当てたままだった。

 今日というか、何もかもが駄目になってるな。

「もういい。それより、ユウはどう思う」

「鬱状態じゃないかな。反応性鬱って言うんだけどね。病気って程でもないけど、嫌な事があってそれに対してのって意味」

「危ないのか、それ」

「悩みの原因が解消すればいいんだけど。それはユウ本人しか分からないだろうし。カウンセリングは?」

 首を振り、それを否定する。

 素人なので全然分からないが、多分無理に受けさせるのは逆効果だと思う。

「受けた方がいいよ。本当は」

「嫌なんだ」

「ショウが答えなくても。それも、むきになって」

 少し笑い、後ろを振り返るヒカル。

 そこにいるのは、彼と全く同じ顔。

 かげりを帯び、醒めた瞳の色をした。

「サトミやモトが泊まり込んでるんだろ。放っておけ」

「冷たいな、お前は」

「俺が落ち込んでる訳じゃない」

 冷たいどころか、冷酷とも言える言葉を放つケイ。

 それに反発を覚えつつ、ベッドに横たわる。

「大体本当に危険な兆候があるなら、眼科なり神経外科が精神科に診せる。というか、多分精神科が同席してる」

「嘘」

「何が、何に対して嘘なんだ。おばさん達も冷静さを欠いてるんじゃないのか」

 あくまでも落ち着いた態度で話すケイ。

 そう言われればそうかと思うが、親の心理としては心配し過ぎてし過ぎる事はない。

 俺は親ではないため、ちょっと立場は違うにしろ。

「気になるなら、泊まり込めば」

「え」

 俺だけではなく、ケイも声を上げてヒカルを見つめる。

 しかし本人は意外な事を言ったつもりはないらしく、いつも通りの明るい笑顔を浮かべている。

「泊まるって、その。それは、どうだ」

「一緒に寝る訳じゃないんだし、問題ないと思うよ。僕は」

 最後に微妙な逃げを用意するヒカル。

 しかしすでに彼の言葉はあまり耳に入らず、考えが深く沈み込んでいく。

 非常識、あり得ない、断れる。

 だけど、俺の気持ちは揺るがない。

「よし、そうしよう」

「馬鹿、簡単に乗るな。お前、髪の毛切った時もこうやって騙されたんだろ」

「人聞きの悪い。僕はいつも、ショウの事を思ってアドバイスしてるんだよ」

 春の日差しのように明るい、天真爛漫な笑顔。

 一方でケイは、不審そうな眼差しで兄を睨む。

 言っている事は分かるが、あの時俺は酔ってた。 

 何より精神状態が、普通でもなかった。 

 あっさりケイに負けて、何より裏切られたという思いが強くて。

 とはいえ、今も決して普通の精神状態ではないけれど。

「いい。一回、おじさん達に聞いてみる」

「それがいいよ」

「馬鹿が」



 客間の隅に荷物を置き、ふと我に返る。

 本当に自分は、ここにいていいのかと。

 ユウの両親はあっさり許可してくれて、こうして部屋まで用意してくれた。

 しかしサトミかモトのどちらかは大抵泊まり込んでいて、世話をするのは彼女達やユウの両親。

 俺がやる事など、何一つ無い。

 明らかに早まったという気はするが、今から帰るのはもっと間が抜けているだろう。

「何しに来たの」

 腕を組み、壁にもたれながら俺を見上げるサトミ。

 質問は簡潔だが、かなりの難問。

 いや。答え自体は一つしかない。

 それが、どの程度の意味を持つかはともかく。

「お昼に来た時に分かったでしょうけど、ユウは殆ど動かないわよ」

「でも、泊まる」

「世話をする事も、殆ど無いし」

「でも、泊まる」

 同じ言葉を繰り返し、しかし荷物を担ぎはしない。

 例え役に立たなくても、ここにいる意味が無くても。 

 俺の居場所は、ここしかない。

「馬鹿ね」

 おかしそうに、優しく微笑むサトミ。

 多分、俺がそう答えると分かっていた表情。

 そう答えて欲しかったと言っている、彼女の眼差し。

「早速仕事よ。寮の荷物を運んできて。何を持ってくるかは、着いた後で伝えるわ」



 結局仕事はあるらしい。

 すでに中身が詰まっている大きなボストンバッグを担ぎ、女子寮の廊下を歩いていく。

 しかし何度来ても慣れない場所というか、居心地が悪い。

 男もいるにはいるが、女子寮なので当然女の子ばかりが集まっている。

 たまに服を持ってないのかと言いたくなる服装の子もいて、正直目のやり場に困る。

 加えて気付くと周りに人が集まり、だけど一定の距離を置いて歩いてくる。

 晒し者というか、見せ物というか。

 ユウがいればここまで露骨な事は無いが、今はかろうじて前の視界が保たれているだけ。

 この騒ぎに興味を持った子まで現れ、廊下の左右は人垣が出来つつある。

「相変わらず、人気者ですね」

 少し甲高い綺麗な声。

 おそらくは有名ブランドのカーティガンと、黒のタイトスカート。

 身に付けているいくつもの装飾品は、その一つだけで車が買えるらしい。

「どうかなさったんですか」

「ユウの荷物を取りに来た。今、家で静養してるから」

「雪野さん。そういえば、毒物を目に浴びたとか」

 特に同情めいた言葉や思いやる態度は見せない矢加部さん。

 ただ二人の今までの経緯を考えればそれも当然で、お見舞いに行くと言い出す方がどうかしている。

「よろしければ、眼科医を紹介致しましょうか。勿論、私の名前は出さずに」

「いいのか」

「私も、別に鬼ではないので。確か第3日赤でしたね。診察日さえ教えて下されば、その日に合わせて診てもらうよう手配します」

 端末を取り出し、英語で何やら話し出す矢加部さん。

 流暢かつ早口なので会話の内容は殆ど理解出来ず、分かったのは彼女が親身になってくれている事だけ。

「診て下さるようです」

「ありがとう。助かった」

「お気遣い無く。それでは、また」

 最後にごきげんようと付け加え、お供の女の子を連れて去っていく矢加部さん。 

 あれこれ批難を浴びる事が多いが、話してみれば普通の子とどれ程も違いはない。

 育った背景や、周りの環境が特殊だったために誤解を招きやすいだけで。

 その辺りは自分も似た部分があるので、他の人間よりは彼女を理解しやすい立場にはある。


 女子寮をようやく脱出し、ロータリーに停めてあった車に荷物を積み込む。

 普段は駐車禁止の場所だが、今回は事情を話して許可を得ている。

 その事情を考えるたび、気が重くはなるにしろ。

「こんな所に車止めやがって。邪魔だな」

 玄関の方から聞こえる罵声。

 出てきたのは、柄の悪そうな何人かの男。

 後ろに数名の女の子を従え、その彼女達をさながら所有物のように扱っている雰囲気。

「今どかす」

 深呼吸して感情を抑え込み、荷物を全部詰め終えたのを確認して運転席へ乗り込む。 

 その前にドアの前をふさがれ、にやけた顔で睨まれた。

「いい車だな。貸してくれ」

「おい。後ろに乗れ」

 横柄な口調で女の子達を呼び寄せる男達。

 しかし彼女達は、玄関先で固まったまま動こうとはしない。

 間違いなく俺が誰だか知っている顔付きで、俺がこの場面でどうするのか分かっているらしい。

「早く来い。馬鹿野郎」

「馬鹿はお前だろ」

 目の前にいた男の襟首を掴み、足を払って地面に転がす。

 左右に立っていた奴らは膝を蹴り、首に掛けていたネックレスを外して右手へ巻き付ける。

 こういうのが似合う柄ではないが、使い道は幾らでもある。

「急いでるんだ。これ以上邪魔するな」

「俺達にたてつく気か。この馬鹿が」

「車は没収だ。まずは、土下座だな」

 ナイフを取り出しながら立ち上がる男達。

 警戒感はまるでなく、自分達の体格と人数だけでどうにかなると考えている。

 あながち間違えた考え方ではない。

 ただし自分は、そういう事を想定して日々トレーニングをしている。

 また今は何より、苛立ちだけで全てを解決したい気分である。

「殺す気か」

 ストレートが伸びきる前に、拳が手の中に収められる。

 そのままひねって相手を投げ飛ばそうとしたが、顔を確認して拳を引く。

「屋神、さん」

「お前は、物覚えがいいようだな」

「だ、誰だ。仲間か」

「仲間ですか、だろ。礼儀がなってないな」

 良く分からない文句を言いつつ、長い足で男達のこめかみに回し蹴りをヒットさせていく屋神さん。

 やっている事は無茶苦茶の一言で、俺を止める必要があったかどうかも理解出来ない。

 気付けば地面には男達が血を吐いて横たわり、呻き声を上げるだけとなる。

「根性のない連中だ。お前の顔を知らないから、最近転入してきた連中かな」

「さあ」

「興味無しか。そういえば、相棒の小さい奴は」

「ちょっと、体調を崩してまして」

 小声で伝え、車に乗り込む。

 話し込む程親しかった訳ではないし、とにかく今はすぐにでも戻りたい。

 例えは悪いが、優先されるのは先輩よりもユウだから。

「愛想のない野郎だな。せっかく女と遊ぼうと思ったのに、これじゃ俺もまずい。ちょっと、乗せてくれ」



 いつの間にか屋神さんが運転して、俺は助手席でぼんやりと前を眺めている。

 今この瞬間にもユウの体調が悪くなっているのではないかとか。

 自暴自棄になっているのではと、悪い方ばかりへ意識が向かう。

 以前のユウならそんな心配は必要なかった。

 だけどあの姿を見てしまった今、考えは彼女の事にしか至らない。

「暗いな、お前。弾けろよ」

「はあ」

「女が病気じゃ、それも無理か」

 鼻で笑う屋神さん。

 それを否定する気にもなれず、ため息を付いて目を閉じる。

 よく考えれば、おとつい辺りから殆ど寝ていない。

 だけど緊張しているためか、体は疲れているのに眠気はあまり訪れない。

「俺は、あまり近くにいたくないけどな」

「え、何が」

「病気の女の側にさ。結局自分は何の役にも立てなくて、気ばかり滅入ってくる」

 遠い目で語る屋神さん。

 指はBGMに合わせて小さくハンドルを叩き、その動きもやがて止まる。

「まあ、人それぞれだ。お前は、そういうのが似合いそうだしな」

「はあ」

「俺はタイプ的に無理がある。女の世話を焼くっていう絵が、想像出来ん」

 何が面白いのか、突然大笑いし出す屋神さん。

 とはいえそういうタイプでないのは確かで、尽くされるというか貢がれる人だろう。

「病気は、重いのか」

「目が見えなくなってて。時間が経てば、治るらしいんですけどね」

「大変だな。目にいい湧き水があるらしいが、汲みに行くか」



 その話を丁重に断り、駅で彼を降ろしてユウの家へとようやく戻る。

 家の中は活気が無く、廊下を誰かが駆けてくる事もない。

 リビングに入っても会話は聞かれず、空気は果てしなく重い。

「これ」

 ボストンバッグを床へ置き、部屋の隅で丸くなっているユウを確かめる。

 いつもの寝姿とは違い、そこに人の形が横たわっているだけの雰囲気。

 思い起こされる屋神さんとの会話。

 確かにずっとこの姿を見ていれば、俺の方が参ってくるかも知れない。

「丁度良かったわ。ユウを私達の寝室へ運んでもらえる?」

「え」

「ご飯も食べたし、お風呂も入ったから。寝てるのに起こしたくないの」

 少し疲れた顔でそう告げるおばさん。

 サトミは力ない顔でユウの側に座り、おじさんはキッチンで一人お酒を飲んでいる。

 火が消えたという例えがあるけど、今がまさにそれだろう。


 軽い。

 軽すぎる体。

 寝ている人間は普通重く感じるが、猫の子でも抱いているような感覚。

 寝顔はどこか苦しそうで、見ているだけでこっちが苦しくなってくる。

 ベッドに彼女を寝かせ、タオルケットを体に掛ける。

 わずかに上下する胸元。

 すぐに体が横になり、その苦しげな表情も見えなくなる。

 エアコンを睡眠モードにチェックして、その背中をじっと見つめる。

 屋神さんの言っていた通り、俺には何も出来ない。

 何の役にも立てない。

 今改めて、それを思い知る。


 ドアを閉め、階段の途中で腰を掛ける。

 理科の授業で、俺が薬品を取りに行けばそんな事にはならなかった。

 悔いてどうにかなる話ではないと分かっていても、何度と無く考えてしまう。

 準備室の異変に気付けば、地震と同時に駆けつければ。

 壁を叩きそうになったのをかろうじて堪え、階段を降りる。 

 リビングの空気は先程までとあまり変わらず、TVの音だけが流れている。 

 誰もそれを観てはいなく、だからといって何かをしている訳でもない。

 俺もする事がある訳ではないし、する気力もない。

 ため息を付き、床へ座って新聞を読む。

 大きな事件や出来事は数多くある。

 だけどそれがどうだという話で、ユウの事程大切な出来事は乗っていない。

 とにかく何もかもに疲れた。

 そして、だるい。


 夜。

 明かりの消えた客間で天井を見上げる。

 眠いはずなのだが意識は冴え、ただ気分は重い。

 すぐ近くにユウはいて、だけど自分は少しも彼女の役には立てない。

 気持ちがどれだけあっても、思いを募らせようとも。

 屋神さんが言っていた通り、このままでは間違いなく自分がどうかなるだろう。

 そんな事を考えていると、部屋の外から物音が聞こえた。

 真夜中は行かないまでも、今は家中の誰もが寝静まっている。

 嫌な予感を抱きつつ、部屋を出て暗がりの中を慎重に歩く。

 一階へ下りていくと、パジャマ姿のサトミと出会った。

 彼女は口元に指を当て、声を出さないよう合図してくる。

 その視線の先を追うと、ユウが両親に抱えられて床から起き上がっていた。

 思わず駆け出しそうになり、やはりサトミの制止を受ける。


「何で止めるんだ」

「あなたは、この家にはいない事になってるのよ。今あの子は、人に気を遣われるのが一番辛いの。それでも両親や私達ならまだいいにしても、あなたは別でしょ」

「それは」

「一人でトイレに行こうとしたみたいね」

 今俺達がいるのはキッチン。

 サトミはため息を付いて椅子に座り、そのまま腕を枕にしてテーブルに顔を伏せた。 

 眠いというより、精神的に疲れている感じ。

 看病疲れという言葉が、そのまま当てはまる。

「大丈夫か」

「私はいいのよ。明日は、モトと交代するから。でも、ショウはどうする気」

「いていいなら、毎日来る」

「倒れても知らないわよ」



 何が辛いといって、授業中が一番辛い。

 この数日間寝たのは、ほんの一時。 

 正直時間の感覚が無く、今どこにいるかもはっきりしない。

 本当にここが、教室かどうかも分かってない。

「痛い」

 後頭部に何かが当たった感触。

 木刀や警棒ではなく、もっと平面の。

「起きなさい」

 俺を見下ろしていたのは、バインダーを持ったキータイプの教師。

 いつもはユウが叩かれる役というか、怒られる役。

 とはいえ妹をからかう姉という風情もあり、多分ユウ以外は誰もが微笑ましくその光景を眺めていた。

「あの小さい子は、今日も休み?」

「え、ええ。当分来ません」

「ふーん」

 少しつまらなそうな顔。

 やはり、かなり個人的な感情でユウと関わっていたようだ。

「薬品を浴びたって聞いてるけど」

 この授業は、半ば自習に近い内容。

 各キーの特殊な機能を教えるとはいえ、その後は各自の練習。

 だから彼女もユウをからかったり、俺と話し込んだり出来る訳だ。

「教師の不手際だって?」

「薬の瓶のふたが開いてたみたいです」

「姉さんに頼んで、首にしてもらおうかしら」

 物騒な事を言い出す彼女。

 まさかとは思うが、彼女の姉とはこの学校の理事長。

 一介の理科教師の首を切るなど、造作もないだろう。

「冗談よ。生真面目な子ね」

「はあ」

「あーあ、面白くないな」

 そう呟き、教壇へ戻る教師。

 授業中に面白い面白くもないとは思うが、ユウがいない影響はここにも現れている。



 昼休み。

 重い気分のまま食堂へやってくる。

 普段ならユウが今日のメニューを説明してくれ、俺の前で飛び跳ねていた。

 でも今その姿はどこにもなく、友人同士で楽しそうに食事を取る生徒達が目に付くだけだ。

「小食だな」

 そう呟き、俺の前に座るケイ。

 彼はシンプルに、ラーメンとチャーハンだけ。

 俺はそれと、唐揚げをプラス。

 普段は最低大盛りにするし、せめてもう一品は頼む。

「食べ過ぎなのよ、いつも」

 そういうサトミは、かけそばだけ。

 カロリーが足りない気もするが、食欲がないのもよく分かる。

 どちらにしろすぐに自分の分を食べ終え、水を飲む。

 何かが足りない気分。

 量や品数ではなくて。

 普段なら、気付くと何かが俺の皿に置かれていた。

 優しい笑顔と共に、時には気まずそうに。

 だけど今あるのは、空の器が並んでいるだけだ。


 食事を終え、中庭で芝生の上に座り込む。

 思い出されるのは、全てがユウと繋がった記憶。

 完全に良くない兆候ではあるが、考えがそこにしか辿り着かないから仕方ない。

「あー」

「叫ぶな」

「え。誰が」

「処置なしだな、お前」

 あっさり俺を見捨て去っていくケイ。

 サトミは始めからいなく、どこかで寝ているのだろう。

「駄目だ」

 自分の駄目さ加減はとっくに分かっている。

 だけど、このまま落ち込んでいたって何の解決になる訳もない。

 午後の授業が始まるまではまだ時間があるし、距離も決して遠くはない。

 取りあえず、行ってみるか。



 土の地面と大きな鳥居。

 限りなく連なる背の高い木々。 

 樹齢数百年というのも珍しくはなく、熱田神宮の歴史を実感されられる。

 お百度ではないが、出来るだけ毎日来よう。 

 どうせ俺には何も出来ないんだし、だったら自分に出来る事をするだけだ。

 それが神頼みだとしても、中庭で悶々としているよりははるかにいい。

 本殿に向かって手を合わせ、ユウが一日も良くなるように願う。

 正式な作法は分からないが、大切なのは気持ち。

 そう自分にも言い聞かせ、もう一度願って顔を上げる。

「眼病には、あそこじゃて」

 なにやら、すごい言葉遣いが聞こえてきた。 

 振り返ると、年配の男女が何やら呟きながら本殿を拝んでいる。

 あそこがどこだか聞きたいが、彼等が顔を上げる様子はまるでない。

 咄嗟に辺りを見渡すと、左手に売店が見えた。

 すぐさまそちらへ駆け寄り、愛想良く微笑んでいる巫女さんに今の話を聞いてみる。

「眼病ですか。それでしたら、ここを回り込んで左手に曲がった突き当たりの清水社の事だと思いますよ」

「清水社」

「ええ。湧き水が沸いていまして、昔より眼病に良いとされています」

「どうも、ありがとうございました」



 細く人気のない小径。

 空は左右から伸びる木の枝と葉に覆われ、心地のいい木漏れ日が差し掛かる。 

 人気は無く、やがてすぐに言われた突き当たりへと辿り着く。

「これ?」

 小さな社と、短い階段の下に広がる水の流れ。

 左手から湧き出た水が右へと流れ、再び地面へと戻っている。

 泉と呼ぶ程の大きさもなく、水深は膝までもない。 

 水自体は澄んでいるものの、一つの立て看板が目に入る。

「飲用は出来ません」

 飲めないくらいだから、目を洗うなど以ての外だろう。 

 それでも水に手を付け、冷たさに少し驚く。

 水道水とは違う、例えようもない感覚。

 あの森で汲んだ水よりも、この場所柄のせいか神聖な気すらする。

「何だ、これ」

 水の中に見える、赤い固まり。

 とはいえゴミではなく、大きなハサミを持った細い顔。

 間違いなく、ザリガニだ。

 これもまた眼病に良いというし、偶然とはいえ何か感慨深いものがある。

 しかし捕まえる訳にはいかないし、それこそ罰が当たる気もする。

 食べるなんて、あり得ない事だ。


 放課後。

 ユウの家へとやってくる。

 こう言っては何だがガーディアンをやってる気分ではなく、それどころではない。

「お帰りなさい」

「え、ああ。ただいま」

 何か違和感を覚えつつ家に上がり、客間に自分の荷物を置く。

 すぐに着替えて一階に降り、ユウの様子を確かめてみる。

 昨日同様、床に寝転んでいる。

 時折寝返りを打ちはするが、体を起こそうとはしないし何かをする雰囲気もない。

 ただ横になり、じっとその場に留まっている。

「変わらないわよ、何度見ても」

 少し疲れ気味の口調でそう呟くおばさん。

 逆を返せば、自分は何度も見ているという事になる。

「ちょっと買い物行ってくるから、ユウの事お願いね」

「あ、はい」


 リビングに二人きり。

 普段なら少しは緊張したり、照れる状況。

 だけど今はそんな感情は沸き上がらず、不安と焦燥感だけが募っていく。

 ユウは何もしない。

 本当に何もしない。

 だからこそ、不安ばかりが大きくなる。

 もしかして一生このままだったら、どうしようと。

 自分の意志を示さず、動こうともせず、何もしようとしない。

 他人の存在も、自分の存在も気にしない。

 俺の存在も、勿論。

 今だけでなく、この先も同じなら。


 考えるまでもない。

 俺はユウの側に居続ける。

 ただ、それだけだ。

 彼女がどう思うと、どういう状態だろうと。

 俺は、彼女のために側にいる。

 迷う理由も必要もない。



 しかし、俺が決意しようが何を思おうが彼女の体調に変化はない。

 その物静かで、生気のない生活も。

 起きるのは食事やお風呂の時くらい。 

 それ以外はソファーや床に横たわり、ヘッドフォンをしてたまに寝返りを打つ程度。

 何かをしようとする素振りも意志も見られない。

「どうしたのっ」

 突然起き上がり、ソファーにつまづいて床に倒れるユウ。

 すぐにサトミ達が駆け寄るが、彼女は緩慢な動きで引き起こされるだけ。

 自分で自分の行動を把握していないのか、衝動的な行動なのか。 

 どちらにしろ彼女はソファーに座らされ、そのまま動かなくなった。

 目の当たりにする、彼女の普通でない行動。

 見ている自分の胸が詰まってしまうような、あまりにも切なく苦しい光景。

 変われる事なら、俺が変わってやりたい。

 だけどそんな事は不可能で、虚しさだけが募っていく。


 自分の目の前が暗くなり、先が見えなくなるような気分。

 でもユウは現実に何も見えず、俺以上の憂鬱な気持ちのはずだ。

 そう。俺が落ち込んでいても仕方ない。

「ちょっと、出掛けてくる」

「どこに」

「すぐ戻る」


 真夜中の熱田神宮。

 見当たるのは警備員の姿くらいで、24時間開放されているとはいえこの時間に来る人もそうはいないだろう。

 薄暗い街灯だけを頼りに境内を駆け抜け、本殿に一礼する。

 そのまま売店の脇を抜け、明かりすらない小径を歩いていく。

 葉の間から漏れる月の明かり。

 淡く輝く澄んだ水面。

 神宮の奥にある清水社で改めて頭を下げ、ユウの事をお願いする。

 自己満足と言われればそれまでだが、今の俺に出来るのはこれくらい。

 だったら俺は、それをするだけだ。



 肉体的な疲労は大して無い。

 あるのは精神的な疲労、心労と言うのだろうか。 

 ユウは何もしない。

 しないからこそ、こちらは不安になり心配する。

 相変わらず俺に出来る事はなく、荷物を運んだりユウを寝室へ移動させる手伝いをするくらい。

 自然とみんなの口数は少なくなり、疲れが目立つ。

 俺も同様で、つい弱音を吐いてしまいそうになる。

 だけど誰も、それは口にしない。

 ユウを悪く言う事も、病状を悲観する事もしない。

 自然とは言わないが、出来るだけ普段通りユウに接している。

 ただ彼女がそれに応えない分、こちらの心労が募っていく。

 そんなユウでも、大きく反応する時がある。

 症状を緩和させるための目薬をさす時は。


 恐怖、不安、苦痛、嫌悪。

 あらゆる悪感情を凝縮した態度を見せる。

 目薬をさされた後は見ているこちらが苦しくなるように体を丸め、呻き声を上げる。

 そうしなければ病状が悪化するのは誰もが分かっているから、例え本人が嫌がろうと目薬を使うしかない。

 悪夢と思いたくなる、絶望的な光景。

 だけど、間違いもない現実。

 目を背けようと、耳をふさごうと。 

 彼女がその苦痛を一身に受けているのは間違いない。

 俺はただ、それを見ているだけでしかない。

 そして今日もまた、彼女の病状が悪化した。


 いつも通り目薬をさされ、体を折るユウ。

 心を押しつぶされたのではないかと思うような苦しげな表情。

 速い呼吸がいつまでも続き、喘ぐように空気を求める。

 永遠に続くかと思われた悪夢にも似た光景がようやく終わり、病院へ行くためユウが着替え始めた。

 顔を背け、床に座ってその経過を待つ。

 背中に聞こえる、苛立ち気味の声。

 最近のユウが見せる、唯一の感情。

 それは俺達への苛立ちというよりも、自分自身へ苛立ちに思える。

 おばさんは文句も言わずユウの言うままに着替えを交換しにいった。

 いつもなら冗談を言い合い、楽しげな笑い声が聞こえる状況。

 今は重苦しく、冷えた空気だけが流れている。


 シャツのボタンがはめられず、余計に苛立っている様子のユウ。 

 目が見えなければ難しいのは当然で、どうやら掛け違えたらしい。

 さらに伝わってくる彼女の苛立ち。

 それに対しておばさんが手伝おうと改めて申し出る。


 声を荒げるユウ。

 少し驚いた声を出すおばさん。

 ユウが手を振った調子に、手をはたかれたらしい。

 あっては欲しくない光景。

 あるはずがなかったはずの状況。

 でも俺の背中越しには、それが現実として行われている。

 すぐに小声で謝るユウ。

 彼女の感情は痛い程分かる。 

 自分でも何をやっているのか分からず、その感情すら自由に出来ない。

 謝っても悔いても、した事は覆らない。

 だからこそ余計に、心が痛む。


 ふと止まるユウの声。

 それに変わって聞かれる、おばさんの優しい声。

 怒る訳でも無く、悲しむ訳でも無く。

 温かくユウを包み込む。

 思わず目頭が熱くなり、咄嗟に上を向く。

 結局俺は何も分かって無くて、やはりおばさんには敵わなかった。

 俺がどう思おうと、ユウがどうなろうと、彼女はユウを信じている。

 理屈も何もなく、一心に彼女を愛している。

 ただそれだけ。

 そして、それだけで十分だ。


 和やかに着替えを済ます二人。

 久し振りに聞こえる、ユウの明るい笑い声。

 振り向いた先には、あの朗らかな笑顔が待っている。

 丁度帰ってきたおじさんはやはりクッションを買ってきて、おばさんに怒られている。

 床を埋め尽くす、無数のクッション。

 おじさんの愛情が、そのまま形になった。

 俺に出来る事は、何もない。

 無いと思っていた。



 軽い体。

 柔らかく、温かく、俺の気持ちを安らげてくれる。

 ずっとこのままでいたいと思わせる、少し不謹慎な自分。

 背負われいるユウは、何も知らない。

 その事を告げる必要もない。

 俺はただ、ユウの側にいられればいいのだから    






                            了











     エピソード 25 あとがき




 第25話でショウが泡を食っていたのは、こういう事情があったようです。

 献身的というか、健気というか。

 つまりは、ユウに対する気持ちの表れなんですけどね。

 人が良すぎるのも程ほどにです。


 ちなみに作中でショウが訪れた、熱田神宮内の清水社は実在します。

 本殿を正面にして右へ向かいそのまま小径を前に。

 わずかながらも水を湛えていて、参拝に訪れる方も意外と多い場所。

 私も熱田神宮に赴いた際は、大抵足を運んでいます。

 ああいう場所は実際の効能などより、その場を訪れる事の大切さ。

 それは静謐な空間に身を置く事の大切さ。

 そして、人への思いを改めて認識する貴重な時であり場所だと思います。


 何にしろ、目の調子も良くなっているようでめでたしめでたし。

 予定調和のありがちな展開と言いますか、結局そういう内容しか書けないんです。

 敢えて書かないという理由も、一応はありますが。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ