25-4
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笑われた。
それも、かなりの勢いで。
「何よ」
「だって、それ何」
笑いながら尋ねてくるサトミ。
そう聞かれても、自分では見えていないので分からない。
「見えてないんだけど」
「それもそうね。つまり、そのサングラスは何かと聞いてるの」
つつかれるサングラスのフレーム。
ガーゼと眼帯は、今はない。
視力はまだ殆ど回復していないが、無くてもいいと言われたので。
その代わりに、サングラスを掛けている。
良く分からないが、光を遮るためだろう。
多分。
「見えないの、まだ?」
「たまに、ぼんやりと輪郭が見えるかどうか。前より、少しましな程度
「それに、その色は何」
「色?」
「あなた、知らないの?」
手渡される何か。
私の腕ごと、それを顔の前に持ってくる。
「ほら」
「だから、見えてないって」
「残念ね。綺麗な碧眼なのに」
「碧眼って。青?」
まさかと思い、目を見開く。
しかし見えるのは、暗い闇。
青いもなにも、あったものではない。
「どうして青いのかな」
「さあ。有機リンの影響か、薬の影響か。どちらにしろ、色素が少し抜けたのかしら」
「何か、意味がないな」
サングラスをしているし、第一自分では確認が出来ない。
青くても赤くても、言ってしまえば意味がない。
「喉乾いたな」
手を動かし、コップを掴む。
置いた場所さえ覚えていれば、空を掴んだり落とす事はない。
移動する際の空間把握は苦手だけど、近接距離なら問題ない。
「あーあ」
もう片手でクッキーを探り当て、口に運ぶ。
後はティッシュで口を拭いて、息を付く。
「あなた、見えてるの」
「見えてない。サングラスもしてるし」
「さながらイルカね」
褒めてるのかな、それは。
とはいえそれにこのくらい出来ないようでは、今の自分は生きていけない。
自分で出来る事は、自分でする。
例えば、今したような事くらいは。
「ご飯まだかな」
「太るわよ。動かないで、食べてばかりだと」
聞きたくはない台詞。
それは分かっているが、動き回れないのも分かっている。
とにかく、これを食べて止めるとするか。
まめに時間を確認し、体内時計を調整する。
そう簡単なものでもないと思うが、何もしないよりはましだろう。
後は同じ時間にご飯を食べて、お風呂に入って、寝ればいい。
少しずつリズムを取り戻していけば。
「あーん」
「何よ」
「ご飯」
膝の上に手を置き、口を開ける。
開けたままで待つ。
「あなたね。鳥の子じゃないんだから」
「あーん」
「全く」
口の中に運ばれるミートボール。
それを食べて、また開ける。
しかしこれでは、埒が開かないな。
テーブルの上で軽く手を動かし、それぞれの配置を確かめる。
湯気や冷気、器の形や手触り。
よし。大体は把握した。
「ドレッシングは……、これか」
瓶を手に取り、フタを開けて匂いを確認する。
こっちじゃなくて、オニオンドレッシングはと。
「あった」
どれだけ掛けるかは、瓶の先端に添えた箸で判断する。
そこへの振動を意識して、適量と思った所で瓶を上げる。
「固いな、これ」
トマトをかじり、箸を舐める。
後はその箸を動かし、次に食べる物を探す。
それこそ探り箸だが、こればかりは仕方ない。
最後に、小梅を掴んで少しかじる。
ちっ、煮豆だった。
薬を飲んで、小さくため息。
でもって時間を確かめ、目元を軽く押さえる。
痛い訳ではなく、半ば無意識に。
気分的には、悪い所へ手を当てているようなもの。
無論それで良くなる訳ではないが、特にやる事もないし気持ちが落ち着く。
「ん」
鼻を引く付かせ、顔を動かす。
でもって立ち上がり、キッチンへ向かう。
「ちょっと」
「何よ。喉乾いたの?」
「私も食べる」
「何を」
すっとぼけるお母さん。
仕方ないので椅子に座り、机を叩く。
「梨。梨を食べる」
「どうして分かったの」
「匂い」
「梨に匂いなんてあった?」
そんな事、私が知りたい。
とにかく何かを感じたのは確かで、それ以上は説明のしようがない。
「今剥いて、持っていこうとしてた所よ。ブドウは」
「食べる」
手探りで探そうと思ったが、ナイフが怖いので止めた。
しかし、何か野生じみてきたな。
「はい。あーん」
言われるまま口を開け、そのまま待つ。
でもって、口をすぼめる。
「なっ」
「どうかした?」
やはりすっとぼけるお母さん。
何を言ってるんだ、この人は。
「レ、レモンじゃない」
「ああ、砂糖漬けにしようと思って。砂糖、掛かってなかった?」
完全に人で遊んでるな。
愛してるとか言ったのは、どうも気のせいらしい。
とはいえ口に入ったのは、数滴の果汁。
こういう事で楽しめるのも、お互い余裕が出てきた証拠なんだろう。
食欲も満たされたので、お風呂に入る。
これこそ一人でも問題なく、誰かいる方が恥ずかしいくらい。
バスルームの広さはたかが知れているし、配置も分かっている。
裸で手足をばたつかせるのはかなり間が抜けているが、誰も見ていないので問題はない。
シャワーを浴びて体を洗い、湯船に浸かる。
軽くなる体。
そして、気持。
何も考えず、ただこの心地よさに身を任せる。
一瞬見える景色。
ぼやけた、弱い光。
元々湯気があるせいか、結局何も見えてはいない。
ため息を付き、湯船に深く浸かる。
暖かな。
だけど、少しの不安が残る状態。
その事を感じつつ、見えなくなった景色を思い返す。
ヘッドフォンを耳へ当て、オンライン授業にチャンネルを合わせる。
時間帯が遅いため、内容は録音の繰り返し。
それでも内容に耳を傾け、音声でメモを取る。
今までの分を取り返すまでは行かないが、少しずつは埋めていく。
疲れたら音楽を聴き、体を休める。
気分が切り替わった所で、またオンライン授業へと戻る。
分からない部分は明日講師に聞くか、サトミにでも尋ねればいい。
ベッドへ横たわり、サングラスを外して目を閉じる。
閉じていても開けていても代わりはないが、精神的に。
お風呂の中とは違い、色んな事が頭へ浮かんでくる。
楽しい事、辛い事。
面白かった事、嫌な事。
古い思い出。
最近の出来事。
将来の事。
消えては浮かび、浮かんでは消える。
何か一つへ考えを巡らしている内に、次の考えが浮かんでくる。
やがて何を考えてるのか。
何を思い出しているか分からなくなっていく。
幾つもの記憶がつながって、溶けて、消えていく。
薄れていく意識。
抜けていく体の力。
その内、何も思い出せなくなってくる。
記憶も意識も失せていく。
自分という存在の確かさも。
今日もその事に気付かされながら、眠りに付く。
明日の朝には忘れている事と思いながら。
上体を起こし、ベッドサイドを手で探る。
すぐにサングラスを探し当て、目に掛ける。
今までとは違う感覚。
暗闇が薄れたような。
でも視界の先は、以前として暗い。
一旦サングラスを外し、その前で手を動かす。
何となく見える、手の動き。
良く分からないが、前よりはかなり見えるようになっている。
ただすぐに疲れて、目を閉じる。
完全に治るまでには、まだしばらく掛かるだろう。
慌てても仕方ないし、良くなっているのは実感出来る。
後は、気長に待てばいいだけだ。
車に揺られ、病院へ向かう。
以前のような、気分の悪さはない。
体調が良くなってきたのと、視覚が多少でも戻ったのも関係あると思う。
それによって、若干だが平衡感覚が保たれてるんだろう。
少し開いた窓からの風が、今はただ心地いい。
駐車場に車を停め、スロープを登る。
手すりを掴み、一歩ずつ慎重に。
慌てる必要はないし、ここで転んでも仕方ない。
ゆっくりでも確実に前へ進めばいい。
「っと」
体を開いて、子供を避ける。
子供と判断したのは、甲高い声と早い足音。
ふらつく前に誰かを掴み、倒れるのを掴む。
「い、いきなり」
うめく、お母さん。
どうも、向こうも倒れそうになったらしい。
「仕方ないじゃない。危なかったんだから」
「あなた、本当に目が見えてないの?」
「ぼやーとは見える。でも、疲れるから、閉じてる」
無理をしたくはないし、無理も出来ない。
出来る事はする、出来ない事はしない。
視覚が無くても、十分に生きていける。
見えていた時でも、迷子にはなってたし。
さすがに病院内は腕を引いて誘導され、診察室へと連れて行かれる。
いつも通り採血されて、検査を受けて、医師から診察を受ける。
「かなり良くなってますね。サングラスは?」
「いつもしてます」
「だったら、結構です。邪魔でしょうが、もうしばらくは掛けて下さい。ただ瞳の色は、んー」
多分、腕を組んでいるだろう医師。
こっちは目を閉じているので、唸り声しか聞こえない。
「青が気になるなら、薬を出しましょうか」
「いえ。自分では見えてないので」
「なるほど。これもいずれ元に戻るので、安心して下さい。ちょっと、サングラスを」
サングラスを持っていく医師。
何をしてるのか分からないので、座ったままじっとする。
最近こういうのには慣れているので、いつまででも座っていられる。
苛立つ事はないし、この間に色々と考える事も出来る。
何にしろ、慌てても仕方ない。
少なくとも今は、のんびりするのが一番だ。
「デザインとか、気になります?」
「いえ。見えてないので」
さっきと同じ事を答え、目元を押さえる。
痛む訳ではなく、半ば無意識に。
しばらくは、気付けば触れる事が続くと思う。
「なるほど。お母さんは、どう思いますか」
「もう少し、細いのはありませんか」
何、注文を付けてるんだか。
それとも、そこまで間抜けなデザインだったのかな。
「ありますよ。光を遮ればいいんでしょうけど、彼女くらいの年齢だと見た目も大切ですから。提携してる眼鏡屋さんに、連絡しておきます」
そこまでする必要はないと思うが、眼鏡屋さんでサングラスを選ぶ。
私がではなく、お母さんが。
私は与えられたのを掛けて外す。
それだけだ。
さすがに手触りだけでは、判別不能。
何となく細い、というくらいで。
どれを選んだか知らないがそれを掛け、店を出る。
今までの物と変化はなく、多少目元に当たる風が増えたくらい。
元々人の視線などは感じないので、外見は意味がない。
ただそれは私がであり、一緒にいるお父さんやお母さんは知らないが。
「ここ、どこ」
例により手をばたつかせ、付近の物に触れる。
尖った物は無し。
足元も問題なし。
「公園よ、公園」
「あ、そう。へぇ」
その場にしゃがみ込み、足を横へ伸ばす。
日射しに暖まった、芝の感覚。
少し冷たい風。
遠くに聞こえる、車の走る音。
静かで、落ち着いた雰囲気。
いつまでもここで、こうしていたいような。
「座らないで」
「どうして」
「サッカーグラウンドのど真ん中よ」
慌てて立ち上がり、顔の前に腕を上げる。
しかしボールが飛んでくる気配はないし、それ以前に人もいない。
と思う。
「今は、ハーフタイム中みたいね」
「こんな所にいていいの」
「真ん中じゃなくて、コーナーの隅。ちょっと危ないけどね」
私の腕を引いていくお父さん。
ボールがないなら、危ないも何もないんじゃないの。
それでもすがりつくけどね。
「ご飯でも食べに行こうか」
「こんな寒い所で?」
「少し先に、売店があるの。ホットドッグ売ってるから、それにしましょ」
ガラスを隔てた中と外。
風が無く日射しが当たっていると、意外と暖かい。
こういう時は、ホットミルク。
砂糖多めが嬉しかったりする。
「ツナポテト?何、それ」
「美味しいよ」
「あまり聞いた事は……。あら、いやだ」
何が嫌なんだか。
私からすればツナポテトを知らない事自体、罪だと思うけどな
立ちっぱなしもなんなので、ベンチへ座る。
ただ見えていない上、いきなり座るのは危険。
まず果てを差し伸べ、安全確認をする。
……妙に柔らかい手応え。
非常に馴染みのある、そして生暖かさも伝わって来る。
「にゃー」
猫か。
尻尾を掴み上げなくてよかったな。
「少しどいて。もうちょっと、そっち」
猫を押し、座る場所を確保する。
でもって座ったら、ぐにゃっとした。
どうも、違う猫がいるらしい。
「にゃー」
「にゃーじゃないの」
手をばたつかせ、後ろに飛び退く。
見えてないので、攻撃を避けにくいから。
だったら落ち着けという話だが、食べる事に関しては譲れない。
「この、猫の癖に。この、この」
「あなた、何を言ってるの」
「だって、猫が」
「いいじゃない、放っておけば」
他人事のように突き放すお母さん。
自分が食べられれば、それでよしか。
いや。猫に構わなくても、食べられるんだけどね。
「優、こっち」
私の手を引いていくお父さん。
猫と遊んでいても仕方ないので、手を引かれて歩いていく。
しかし、ここはここで柔らかいな。
「犬だよ」
「あ、そう」
やはり手で押して少しどいてもらい、椅子に座る。
猫のように刃向かっては来ないし、どけと言えばどいてくれる。
やっぱり犬が一番だ。
何かやろうかな。
「ほら」
ソーセージを抜いて、その辺に突き出す。
それが持って行かれる感覚。
「はは、食べた」
「猫がね」
「あ?」
「私に怒らないで。犬の上によじ登って、手ではたいて持っていったわよ」
それは一体、何事だ。
冗談じゃなく、泥棒猫だな。
「器用だね、この猫は」
のんきに感心するお父さん。
この犬同様、人が良いな。
食べる時は、食うか食われるか。
そのくらいの気概を持って欲しい。
「じゃあ、これだ」
ピクルスを抜き、やはり差し出す。
しかし今度は、手応え無し。
犬も食べようとはしない。
残しても何なので、自分で食べる。
これはかなり虚しいな。
「優。遊んでないで、早く食べなさい」
「だって」
「だってじゃないの。お父さんも、何か言って」
「お腹一杯なら、テイクアウトにする?」
そういう事じゃないと思う。
でも、それはそれで素直に嬉しい。
本当、お母さんとは大違いだな。
「また、甘っちょろい事を言って。そういう事ばかりだから、こういう子になるのよ」
悪かったな、こういう子で。
いいもん。これからは、お父さんの子供として生きるから。
いや。今までも生きて来たけどさ。
「しかし、大きい犬だね」
「え。どのくらい」
「ハスキー犬かな、これは。優より大きいくらいだよ」
それだけの大きさで、猫に良いようにやられている訳か。
それとも逆に、度量が広いのかも知れない。
もしくは、何も考えてないかだろう。
食事が済んだところでそのまま家へと戻り、ソファーの上でだらりとする。
しかし多少は動かないとまずいので、取りあえずハンドグリップを握り込む。
極端に落ちているとは思わないが、いつもよりは重い感じ。
右が疲れた所で左に変え、それを繰り返す。
激しく動くのはまだ先で、今は少しずつやっていけばいい。
次に足を伸ばし、上体を前へ倒す。
息をしながら、ゆっくりと体を解す。
それ程固くなってはいなく、膝の上に額が付く。
腰を左右に何度かひねり、足を開いてその間に頭を入れる。
いつもならこのまま後ろへ飛び起きるが、そういう訳にもいかず静かに体を起こしていく。
今度は数字を数え、リズムを刻む。
一定の早さで、4拍子を繰り返す。
不意に3拍子へ変え、また4拍子へ戻る。
大して意味はなく、フットワークのリズムをイメージしているだけ。
実戦に使える程でもないが、今はこのくらいで丁度良い。
小さく腕を振り、実際の動きをイメージしながら数字を数える。
かなり暖まって来たので、立ち上がって腰を落とす。
胸の前で、球体を抱くような恰好で。
気功の構えに近い立ち方。
実際に深呼吸を繰り返し、意識を落ち着ける。
宇宙への一体感といった大袈裟なレベルではなく、あくまでも体へ多少の負荷を掛ける感じ。
膝が震える前に足を伸ばし、軽く腿の辺りを叩く。
片足を上げて、ふらつきがないのを確認する。
むしろ、以前よりも安定している感じ。
今まで、どれだけ視覚に頼っていたかを実感する。
タオルで顔の汗を拭き、手探りでペットボトルを探し当てる。
きつい酸味が、疲れた体に心地良い。
「疲れた」
一人で呟き、ソファーに横たわる。
すっとやってくる睡魔。
しかしここで寝ると、またリズムが狂ってくる。
立ち上がって深呼吸を繰り返し、軽く両頬を叩く。
「楽しそうね」
不意に掛かる、お母さんの声。
どうやら、少し前から見ていたようだ。
「楽しいよ。ごはん、まだ?」
「さっき食べたばかりでしょ。太るわよ」
また、聞きたくもない事を。
仕方ないのでもう少し動き、余分に付いた贅肉を落とす。
「安静にしてないと駄目でしょ」
「太ったらどうするの」
「私は平気よ」
それはそうだろう。
困るの私だけだ。
とはいえあまり動くのも、確かに問題だろう。
「動くのも良いけど、勉強の方は大丈夫?」
「勉強、ね」
しかし、それももっともか。
端末を引き寄せ、オンラインの授業を聞く。
言っている事は難しく、これはこれで眠くなる。
「よだれ垂らさないで」
「あ、え。何?」
「仕方ない子ね」
口元を柔らかい何かで撫でられる感触。
何が、どうしたって?
「あ、ああ。寝てたのか」
「大丈夫?」
「これは、あれ。まだ有機リンが抜けてないから」
「いい言い訳ね」
娘に対する信用0だな。
勿論、お母さんの思ってる通りなんだけどさ。
なんとなく、周りが騒がしい。
お母さん達だけではなく、サトミ達もいるようだ。
「何だ、それ」
げらげら笑う男の子。
誰かはすぐに分かったので、手元にあった端末を放り投げる。
すぐに聞ける呻き声。
どうやら、勘は鈍ってないらしい。
「あ、あのな」
「何よ」
「いや。似合ってるなと思って」
今頃、何を言ってるんだか。
しかし手元に何もないので、取りあえず止める。
あくまでも、取りあえず。
「あれだ。あれ。ザリガニ」
「え?」
「眼病にはザリガニがいいらしい。いや、本当に」
何が本当なのか知らないし、それこそ嫌だ。
大体、ザリガニって食べれるの?
「という訳で、取り寄せろ」
「え、ああ」
素直に返事を返しているショウ。
いいけど、かなり嫌だな。
「それと、眼病にいい水だな。フランスから、ルルドの水を取り寄せろ。向こうに、RASくらいあるだろ」
「それは、もう。あ、いや。良い。誰かに頼む」
何を簡単に請け負ってるんだか。
勿論、その好意は嬉しいけどさ。
「ケイは、何やるの」
「熱田神宮にお参りしてくる」
何だ、それ。
勿論悪くはないにしろ、熱田神宮はここから歩いても行ける距離じゃない。
「喉乾いたな」
手を動かし、ペットボトルを掴んで口元へ持ってくる。
後はふたを閉めて、テーブルへ戻すだけ。
「わっ」
なんか、間の抜けた声を出している男の子。
見えてはいなくても、状況は大体分かる。
「あなたね。見えていても、こぼすの?」
「ああ、こぼすさ」
開き直るケイ。
サトミは何やら文句を言いつつ、テーブルを拭いている様子。
「まだ見えないの?」
「見えるよ。ただ、疲れるから目を開けてないだけ」
「それに、太った?」
どうも、人によって言う事がかなり違う。
というか、かなり気になるな。
ショウの手を借りて、体重計へ乗ってみる。
病院で計ったのは、かなり前。
ある意味、目を開けるより怖いかも知れない。
「どれどれ」
「見なくていいの」
腕を横へ振り、膝を上げる。
叫び声が上がったようにも思えたけど、気のせいだ。
少なくとも、私には何も見えてないし。
「どう?」
「35。減ったくらい」
「軽いわね、あなた。ショウの1/3じゃないの?」
そこまででもないだろうが、半分はないだろう。
しかしそうすると、どうして太って見えるのかな。
「……分かった、髪型。少し伸びてるわね」
「美容室なんて行ってないから」
「私が切って上げましょうか」
何を切る気だ。
私の眉毛か。
それとも、耳か。
「誰か、器用な子呼んできて」
「じゃあ、俺が」
「鼻を削ぐわよ」
「へっ。座敷童が」
異様にむかつく男だな。
取りあえず、リストに入れておくか。
目が治ったら何をするかリストへと。
「動かないで」
「うー」
結局サトミが切り始めた。
少なくとも手先の事に関しては、器用な方なので。
あまり積極的に頼みたい相手でもないが。
「前の写真を見ながらの方が良いわね」
当たり前だろう。
想像だけで切ろうとしてたのか、この子は。
「だから、動かないで」
「だって、耳元が妙に涼しい」
「秋だからよ」
面白い事をいう子だな。
カットし過ぎた訳ではなく、ピンで留めているだけだろうけど。
見えてないのは、こういう点が問題だな。
「あら」
何だ、魚のアラか。
といった冗談を言ってる場合じゃなく、見えない視線をさまよわせる。
「大丈夫だから。心配しないで」
「見える時には伸びてるから。なんて言うんじゃないでしょうね」
「面白いわね、それ」
どこかうわずった声。
やっぱり美容室へ行けば良かったな。
「はは、何それ」
「何よ、お母さん」
「だ、誰がお母さんなの」
「ああ、ごめん。見えてないから」
適当な事を言って、いい加減に手を振る。
モトちゃんは何やら言いながら、どうも近くに座ってきた。
「短くない?」
「ど、どこが」
私よりも先に聞くサトミ。
どうやら、この子もリストに入れた方がいいな。
「全体的に」
「また智美ちゃん。冗談ばっかり」
「冗談で済めば、私も安心だけど。でもいいわ、私の髪でもないし」
おい。
私の友達、という言葉は出てこないのか。
「ちょっと、鏡」
「見えないんでしょ」
「少しは見えるの」
手探りで床に触れ、鏡らしく物を掴み取る。
サングラスを外して、慎重にゆっくりと瞼を上げる。
おぼろげに見える、みんなの輪郭。
髪の長さや雰囲気で、誰が誰かを何となく想像する。
懐かしいという感覚にとらわれるより先に、まずは自分の姿をチェックする。
「分かんないな」
「でしょ」
安心したような、サトミの声。
目を凝らしても、それ程はっきりとは見えない。
瞳の色が、何となく青いのが分かるくらいで。
これ以上は疲れるので、すぐに目を閉じサングラスを掛ける。
「心配しないで。大丈夫だから」
どう考えても、慰めにしか聞こえない台詞。
一度、写真に撮っておいた方が良さそうだな。
今度は手で触れ、長さを確認する。
極端に短いという気はしない。
多少、額がいつもより出ている感じだが。
というか、何か揃っている。
言うまでもなく、前髪が。
「これ、どう?」
「ど、どうって。今から、シャギーみたいにするから」
「こんなに短いのに、まだ切るの?」
「大丈夫。あなたは何もせずに、安心してなさい」
インチキな藪医者みたいな事言うな。
実際自分では見えてないから、恥ずかしいも何もないんだけどさ。
キャップがあるかどうか、探した方が良さそうだな……。
部屋に入ってきたお母さんがそれ程笑わなかったので、多分大丈夫。
笑えない程の状態だったら、かなり困るが。
「みんな、旅行はどうするの?」
「行きますよ。北の大地へ」
のんきな調子で答えるケイ。
旅行の出発日は、もうすぐ。
でも私は、こんな状態。
何も出来ないし、何も見えない。
思わずため息が漏れ、顔が下がる。
「別に、俺が背負ってもいいんだし」
ささやくような声。
静かになる室内。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
この場にいるのは、彼と自分だけだと感じる。
下らない、子供じみた思い込み。
今の自分には、何よりの言葉。
「サトミかモトが手を引けばいいだけだろ」
「え、ああ」
「青春ドラマの見過ぎだな」
一言で切って捨てるケイ。
ショウの発言は、全く聞かれない。
発言のしようも無いか。
「良いわね。北海道なんて」
「付いてきたらどうです」
「そこまで暇じゃないのよ。悪いけど、優の事お願いね」
頭を撫でてくるお母さん。
私もさすがに、そこまで過保護にされても困る。
来てくれるならそれで、嬉しいけれど。
実家を離れて、別な所へ移動する。
目は開けていないが、ナビの音声で大体の場所は把握出来る。
それ程も走らず、車は停まる。
「よう」
どこから聞こえる軽い声。
顔を動かす間もなく、肩にそっと手が置かれる。
「意外と、元気そうだね」
「目が見えないだけですから」
「見えないのが、困るんだよ」
明るく笑う瞬さん。
私も笑って、手をさまよわせる。
危険が迫っている訳ではないが、事前に何があるかは知っておきたいので。
特に尖った物や動きそうな物はなく、足元も同様。
手の届く範囲なら、歩いてもそれ程問題はない。
「目、開いてるの?」
「いえ。疲れるので、閉じてます」
「ある意味、達人の域だな」
何故か感心された。
良く分からないし、自分では特別な事をやってるとも思えない。
「っと」
肘を中心に腕を回し、半身を開く。
自分でも意識しない動き。
それが拳を避けたと分かったのは、少し後の事。
「何やってんだっ」
「がっ」
誰かの叫び声と、呻き声。
地面に倒れた音も続く。
「ユウッ。大丈夫か?」
「へ」
「この馬鹿親父が」
妙に興奮しているショウ。
どうも今の拳は、瞬さんが放ったものらしい。
とはいえ勢いは無く、仮に当たっても触れたと思う程度。
危ないような事ではない。
「き、貴様」
「何だよ」
「いや。何でもない。どうやら、親離れの時期らしい」
本当に、何を言ってるんだか。
ようやく、家の中へと通される。
ソファーに埋もれ、お茶を飲む。
落ち着くのは良いけど、眠りそうだな。
「意外と、元気そうですね」
落ち着いた低い声。
こっちは月映さんか。
咄嗟に身構え、顎と胸元をガードする。
「何してるんです」
「え。危険がないように」
「私は殴りかかりませんよ」
苦笑気味の台詞。
とはいえ場所が場所なので、油断は禁物。
月映さんが掛かってくる訳ではなく、瞬さん以外の獣もいるので。
「見えない分、他の感覚が研ぎ澄まされるのかも知れませんね」
「そういう実感は、多少あります」
「敢えて目を閉じて修行する人も、昔はいたそうですから」
何も、そこまでしなくてもいいと思うけどな。
強くなる事と見えない不便さを比較すれば、それ程いい鍛錬とは思えない。
「やあ」
重く渋い声。
今度はお祖父さんだ。
立ち上がろうとしたが、すぐにそれは制される。
「意外と、元気そうだね」
みんな同じ事を聞いてくるな。
それとも私が、そんなに気楽そうなんだろうか。
やはり腕を上げ、ガードを取る。
「私は、殴りかからないが」
「え。ああ、そうですね」
「ただ、その心構えは悪くない」
悪くないのか。
この辺りの価値観は、意味不明だな。
ガードを取ってる、自分も含めて。
「言ってくれれば、眼科医を紹介したんだが」
「大した事ないですし、もう治ってますから」
「そうか。じゃあ、ザリガニでも食べるかね」
どこかで聞いた単語。
当然、聞きたくもない単語である。
「味は、エビみたいな物だよ。四葉が、フランスから取り寄せたらしい」
「ザリガニなんて、その辺の池にいるんじゃないんですか」
「フレンチで有名らしい」
らしいばかりだな。
ただ、どこからか良い匂いは漂ってきた。
醤油を焦がした、芳ばしい香りが。
「軽く揚げてみた。私も、昔はよく食べた」
「フレンチで?」
「いや。池で採ったのを」
やっぱりな。
それでもフォークを持たされ、口元へと運ばれる。
香りは問題ない。
見えてないので、形も怖くはない。
気になるのは名前くらいだろうか。
「……あれ」
まずくない。
というか、結構美味しい。
海老と言われれば、そのまま信じてしまう味。
ビールでも欲しくなる所だな。
「するめが欲しいな」
「おつまみですか?」
「いや。するめで釣るんだよ」
何の話をしてるんだか。
お腹も膨れたので、庭に出る。
当然だが一人ではなく、ショウに手を引かれて。
「ばう」
足元を過ぎる、柔らかな毛並み。
頬を撫でる、太い腕。
羽未が、足元に来ているようだ。
「相変わらず大きいね。っと」
背中に手を回し、しっかりと抱きしめる。
温かくて、良い香り。
自然と気持が落ち着いていく。
「気持ちいい」
「寝るなよ」
「あのね。っと」
のそのそと歩き出す羽未。
さすがに危ないのですぐに手を離し、芝生の上にしゃがみ込む。
温かい日射し。
遠くから聞こえる小鳥の鳴き声。
芝はまだ柔らかく、体の力が抜けていく。
「あーあ」
「寝るな」
「いいじゃない」
芝の上に寝転び、手足を伸ばす。
ジーンズを履いているし、別に恥ずかしい事はない。
自分では何も見えていないので、余計に。
「気楽だな」
「悪い?」
「悪くはないさ」
小さなため息。
少しの振動。
隣りに彼が座ったらしい。
「何か、疲れ気味だね」
「気のせいだろ」
「あ、そう」
「俺も寝る」
横たわるような振動。
もう一度、ため息。
良く分からないが、疲れているようだ。
「どうかしたの?」
「別に。俺だって、疲れる時くらいあるさ」
苦笑気味の声。
すぐに聞こえてくる、規則正しい寝息。
掛ける物もないので、手を叩いて羽未を添い寝させる。
私は、羽未を挟んでその隣へ。
初秋の午前。
うららかな日射し。
何も考えず、眠りに付く。
いつにない、安らかな気持で。




