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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第25話   2年編前編最終話
274/596

25-2






     25-2




 朝。  

 そうと分かるのは、腕時計が告げるから。 

 後はTVの音声が、それらしい事を言っているから。

 実際は今が何時なのか、いつなのかは分かっていない。

 いつ寝て、いつ起きているのか。

 声を掛けられ移動して、食事を採って、病院へ行って、お風呂に入って、寝るだけ。

 自分の意思はない。

 言われるままに動くしか。



 揺れる体。

 より悪くなる気分。

 だるさは抜けず、体は重いまま。 

 勿論目は、暗闇を映し出している。

「止めて」

「どうかした?」

 理由を付けず、口元を抑える。

 今すぐという訳ではないが、我慢出来なくなった。

 視覚を奪われ、平衡感覚が保てない状況。

 三半規管は無事だろうが、今まで目に頼っていたため少しの揺れもきつい。

 冗談抜きで、体を振り回されているような気分。

 何度か深呼吸をして、渡されたペットボトルを口にする。

 すぐに良くなる訳ではないが、揺られ続けるよりはいい。

 このまま帰りたい心境に駆られ、そう言いかけて思い留まる。

 そんな訳にはいかないし、そこまでのわがままを言える立場でもない。

 言うまでもなく、理由はあの目薬の不快感。

 実際にそうなだけ、口に出す事は出来ない。

 病院が休みだったら、混み合って順番が回ってこなかったら。

 あり得ない事ばかりを考え、車に戻る。


 昨日同様、スロープを登りエレベーターに乗る。

 今日も誰かと乗り合わせている。

 苦しそうな咳。

 誰かを労るような声。

 病院。病人という言葉を強く理解させる雰囲気。

 自分もその中の一人だと。

 嫌でも思い知らされる。


 おそらくは、眼科前。

 それとも神経外科だろうか。

 どちらでもいいし、今の自分には関係ない。

 あの目薬が待っている事には、変わりない訳だから。

 消毒の匂いと、慌ただしい足音。 

 事務的なアナウンスと呼び出し。

 今日は待たされたと思う間もなく、自分の名前がコールされる。

 それが決していい事とは思えず、ため息混じりに立ち上がる。


 幾つかドアをくぐり、診察室へとやってくる。

 昨日と違う声。

 曜日によって、担当医師が違うのだろう。

「カルテを見ると、昨日の目薬が痛かったみたいですね」

「ええ」

「それを和らげる薬があるので、今日はまずそっちを使いましょう。ベッドに寝てもらえますか」

 これは昨日同様、かなりの作業。

 私はただ、身を任せているだけだが。

「では、差しますからね」

 その言葉に身を固め、拳を強く握り締める。

 あの嫌な感覚を思い出せば出す程。

「大丈夫ですよ。これは、少ししみるだけですから。では、行きますよ」

 瞳に感じる、冷たい感覚。

 言われた通り瞳の奥は痛まず、普通の目薬と同じような痛み。

 少し安堵感を覚え、息を付く。

 どうやら、ずっと息を止めていたらしい。

「じゃ、薬が効くまでに採血をしましょう」

 あまり聞きたくはない言葉。

 しかし断る理由もなく、断れるはずもない。

 事務的な説明を受け、確実な痛みを感じて血が採られる。

 普段も注射されている所は見ないようにしている。

 ただ、見えないのとは違う。

 今は見たくても、見られない状態。

 不安というよりも恐怖。

 何をされるのか分からない。

 何がどうなってるのか。

「あ、動かないで下さいね」

 押さえられる肩。 

 自分でも気付かない内に、起き上がろうとしていたらしい。

 血を抜かれる時独特の、腕の嫌な感覚。

 そして痛み。

 こうなると不安と共に、怒りや苛立ちも混じってくる。

「痛い」

 つい出てしまう声。

 実際にかなりの痛みが、腕に走る。

 見えていないのではっきりしないが、確実にどうかなっている。

「あ、ごめんなさい。針が、少しずれたみたいですね。今、直しますから」

 嫌な感覚が少しあり、多少痛みが和らぐ。

 浅い呼吸を何度か繰り返し、こめかみの辺りを指で触れる。

 今すぐ、ここから逃げ出したい気分。

 それに何の意味もないのは分かっている。

 だけどこれだけの苦痛が続くのは、耐えられない。

 逃げ出す事が出来ないと分かっている分、余計に。


「では、目薬を差しましょうか」

 ぼんやりとしていると、そう告げられた。 

 このまま帰れるなどという、子供のような期待はあっさりと覆される。

 いつの間にか抑えられる肩。

 自分が信用されてないと思い、唇を噛みしめる。

「動くと、危ないですからね」

 そういう問題じゃないと叫びそうになり、シーツを爪で掻く。

 口に出す程、冷静さは欠いていないが。

 しかし、何もしないままで収める心境でもない。

「じゃ、行きますよ」

 息を止め、拳を固める。 

 肩はすぼまり、足は内側に閉じられる。

「あ、目を開けて下さい」

 体に力が入っていた分、自然と目が閉じたらしい。

 開けたくはないがゆっくりと瞼を上げ、もう一度息を止める。

「くっ」 

 肩を押さえていた手を無理矢理剥がし、体を丸くして目元を抑える。

 瞳の奥に感じる、あの痛み。

 神経をかき回されたような、耐えられない感覚。

 痛さの程度は、たかが知れている。

 だけどこの部分のこの感覚は、意味が違う。

 自分でも分からないような場所の、分からない痛み。

 浅い呼吸を何度もして、シーツを掻きむしる。

「大丈夫、なんでしょうか」

 不安げな誰かの声。

 それを背に聞きながら、肩を強く抱きしめる。

「うーん。局部麻酔と同じで、完全に痛みを取り去る訳ではないんですよね。あくまでも緩和するくらいですから」

「すごい苦しそうなんですけど」

「視神経へ作用するので、これはどうしようもないんですよね。多少効き目が弱まりますけど、明日からは量を減らしてもう少し薄めましょう」




 病院を後にして、車に揺られる。

 手は目元から離れず、何もしたくない。

 とにかく浅い呼吸を繰り返し、時折お茶を飲む。

 痛さは多分、もう和らいでいるはずだ。

 しかし手は離せない。

 あの嫌な感覚が、こびりついている間は。

「優、大丈夫?」

 適当に頷き、ため息を付く。 

 説明しても仕方ないし、それで良くなる訳でもない。

 しかしあまりこの恰好でいるとまた何か言われそうなので、手を離して顔を伏せる。

 体調は変わらず、よくなる兆しもない。

 もしかして、ずっとこのままではないかという不安がよぎる。

 そんな訳がないと思いつつ、その考えは消え去らない。

 痛みや感覚は忘れ、その事ばかりを考えてしまう。

 もしこのまま見えないままなら、どうなるのか。

 一生誰かの世話になって、自分では何も出来ないままで。

 ずっとこのまま?

「そんな訳」

「優、どうかした?」

「なんでもない」

 即座に返し、窓を開ける。

 吹き込んでくる冷たい風。

 このまま全てが、この冷たさで消え去れば。

 勿論そんな訳はない。

 何一つ変わらない。

 もう、このまま何も。



 家に帰って、じっとしたまま動かずにいる。

 ヘッドフォンを耳に当て、何もせずに。

 出来るだけ余計な事を考えず。

 聞こえてくる音楽に、意識を向ける。

 もう何も考えたくはない。

 このまま日が暮れて、明日になって。

 早く良くなればいい。

 しかし、本当にそうなるのだろうか。

 昨日も、今日も。

 何一つ変わらない。 

 だるさも、気持ちの悪さも。

 目が見えない事も。

 苦痛と不快感が増すだけで、良くなる気配はまるでない。

 明日は、あさっても。その先も。

 いつまでもこの状態が続くような気分。

 良くなるというイメージが湧いてこない。

 こうして目が見えず、体調の優れないのが当たり前のようにすら思えてくる。

 目が見えていたのは、ついこの間の事。

 何故かそれが、とても昔に思えてくる。

 そういう時もあったなという、かすんだ記憶。

 遠い、他人事のような。

 自分には縁のない、関係ない話。

 今はただ、何をする事も無く横たわるしかない。

 何も出来ないまま、このままずっと。




 何度目かの食事。

 TVの音声で、夕食だと気付く。

 それ以外の会話も、途切れ途切れに聞こえる。

 言っている意味は、何となく分かる。

 口を挟む気はないし、自分には関係ない。

 適当に食事を済ませ、薬を飲むだけだ。

 どういう意味があるのかは知らない。 

 渡される物を口にして、言われるままに動けばいい。

 そうしていれば、全てが過ぎていく。

 良い事も、悪い事も。

 いや。良い事は何もない。

 嫌な事や、辛い事ばかりで。

 良い事なんて、何一つ。

 今までも。もしかすると、この先も。

 このまま単調で、憂鬱な時だけが待っている気がする。

 何を得る訳でもなく。 

 少しずつ、何かを失うだけで。


 湯船に浸かり、目を閉じる。

 元々開けるも閉じるも無いが、気分的に。

 暖かくなる体。

 全身に入っていた力が抜け、体は軽くなる。

 しかし心は、重く沈んだまま。

 それを軽くする要素は、何一つ思い付かない。

 病状。 

 自分の置かれている立場。 

 そこから辿れる、自分の将来像。

 夢も希望も無い。

 今と同様、どこを見渡しても果てしない闇が広がっているだけだ。

 以前なら、お風呂に入っていれば自然と気分は楽になった。

 上がった後はしばらく、良い気分でいられた。 

 遠い、遠い昔の話だ。

 もうその頃に戻るとは思えないし、記憶すら薄れている。

 何も考えられないし、考えたくない。

 ただ食事を摂り、体を休め、眠りに付くだけの日々。

 それに不満はないし、どうだっていい。

 何がどうだって。



 腕時計で時刻を確かめる。

 その後ですぐに、今日の日付と曜日も。

 間違いなく、日曜日と腕時計は告げた。

 休日なので、病院は休み。 

 探せば開いている所もあるだろうが、それ程数が多い訳ではない。

 特に私が通っている病院は、午前中しか診療しない病院。 

 日曜日は、確か休診のはずだ。

 少しだけ軽くなる気分。

 のし掛かっていた重みが無くなった感覚。

「優、病院へ行くよ」

 聞きたくはない言葉。

 しかも、勘違いしてるのではないと思わせる回りの空気。

 明らかに病院へ行くのは決まっている。

「今日は」

「日曜だけど、救急の外来で治療してくれるんだ」

 少し考えれば分かる事。

 あれ程大きい病院なら、毎日の治療を必要とする患者も多い。

 今言われたような事もするだろう。



 車に揺られ、病院へ向かう。

 さっきぬか喜びした分、重さはよりのし掛かってくる。

 このまま事故にでも遭わないかと、意味がない事まで考えてしまう。

 そんな事を考えている内に、頭痛がしてきた。

 今の気分のせいか。 

 病状の変化か。

 どちらにしろ、気が滅入ってくる。

 良くなるどころか、悪くなる一方。

 治療は辛く、治る気配もない。

 気の持ちようとは、健康な人の言う言葉だ。 

 今そんな事を言われたら、間違いなく何かを投げ付けるだろう。


 何度か車を停め、休みを挟みつつようやく病院に着く。

 着いたからと言って、何も良い事はない。

 このまま引き返せるのなら、何でもしたいくらいの気分。

 とにかく嫌で嫌で仕方ない。

 今までのようにエレベーターへは乗らず、手すりを伝って歩いていく。

 救急外来なので、一階にあるのだろう。

 だからどうしたという事もなく、結局はあの嫌な感覚を味わうだけだ。


 今まで以上に慌ただしい空気。

 救急の患者でもいるのか、走るような足音も聞こえてくる。

 このまま私の事なんて忘れ、放っておいて欲しい。

「お待たせしました」

 大して待つ事もなく、診察室に通される。

 慌ただしい空気は伝わってくるが、それはそれとして個別に診察はやっているらしい。

「えーと。有機リン酸中毒の治療ですか。何か、症状に変化は」

「頭が痛い」

「なる程。大丈夫だとは思いますが、点滴しましょう」

 言うんじゃなかったと、今さらながらに後悔する。

 すぐに別な場所へ連れて行かれ、ベッドの上に寝かされる。

 腕に感じる冷たさ。 

 おそらくは消毒で、当然この後は針を刺される。

 もう何もしなくて良いから、放っておいて欲しい。

 どうせ何をしたって、良くはならないんだから。 

 こんな事は無意味で、何をしても仕方ない。

 病院に来る事も、治療を受ける事も、何もかもが。

「痛いっ」

 思わず叫び声を上げ、腕を押さえる。

 大袈裟ではなく、激痛が腕に走った。

「あ、ごめんなさいっ」

 申し訳なさそうに謝る女性の声。

 それもまだ若い、初々しいといった感じの。

 新人の医師、それとも看護婦。

 呈の良い実験台か。

「あの。済みませんが、もう少し上手い人にやってもらえますか」

 丁寧な口調で抗議してくれるお父さん。

 しかし今さらという話で、腕は未だに痺れたような状態。

 ここで針を刺されたら、這ってでも逃げたくなる。

「あ、はい。じゃあ、ベテランの看護婦を呼んできますので」

「初めから」

「え。何か言いました?」

「別に」

 無愛想に答え、拳でベッドを叩く。

 態度が悪いとは思うが、今の自分にはこの程度しか出来ない。

 それに上手くても下手でも、針は刺される訳なんだから。


 腕に刺さったままの針。

 仰向けにされる体。 

 押さえられる肩。

「昨日はかなり薄めても、痛かったみたいですね。これは体質もあって、今は過敏に痛みの部分だけが反応してるのかもしれません」

「目薬を差さないという事は?飲み薬とか」

「それだと効果が期待出来なくて。出来るだけ視神経に薬が浸透しないと,意味がありませんから。逆に痛いのは、視神経が活動している証拠ですよ」

 何の慰めにもならない言葉。

 どっちにしろ目薬は差され、痛みを味わう。

 治るかどうかも分からないまま。

「出来るだけ薄めますからね。じゃ、緩和する目薬を差します」

 準備の間もなく、瞳が冷たくなる。

 そしてすぐに、次の水滴が落ちてくる。

 変わらない奥の痛み。

 こうなると、何が痛いのかどうかも分からなくなる。

 本当に痛いのか、痛い気がしているだけなのか。

 痛いのは目の奥なのか、もっと違う部分なのか。

 準備室で浴びた薬品が原因なのか、もしかして違うのか。

 確かなのは、この痛み。

 気のせいでも本当の痛みでも関係ない。

 苦痛と憂鬱。

 今日だけでは終わらないという絶望。

 このまま全てが終わればいい。

 もう、何もかもが。



 同じ事の繰り返し。

 単調な作業のような。

 ただ飽きたとか、退屈とは思わない。

 何も感じない。

 その事には。

 この苛立ちは、それとは違う。

 何なのかは、自分でも分からない。

 理由なんてどうでもいい。

「ご飯は」

「いらない」

「いらないって事はないでしょう。パンにする?」

「いらない」

 反発気味に告げ、ヘッドフォンを耳に戻す。

 食欲はないし、食べたい物もない。

 食べて何かある訳でもない。

 揺すられる肩。

 咄嗟に体を丸め、頭を手で覆う。

 全身に走る悪寒。

 すぐに手を払い、口元に手を当てる。

 そしてようやく、地震でないと悟る。

 薬品が落ちてくる訳も、棚が降ってくる訳でもない。

「優っ」

 ヘッドフォンが外され、耳元で叫ばれる。

 顔を上げるが、勿論どこにいるかは分かってない。

「どうしたの」

 怒る訳でなく、不安げな声が聞こえてきた。

 突然暴れ出したら、だれでもそう思うだろう。 

 しかし理由を告げる気にもなれず、適当に首を振って体を丸める。

 一瞬甦った、あの時の記憶。

 思い出したくもない、今まで忘れていた。

 鼻を付く匂い。

 痛む目元。

 吐き気とだるさ。

 今、そこまで症状が悪くないのは分かっている。

 でも意識の中では、同じ事だ。

 身動きも出来ず、廊下に横たわる自分。

 何のために、どうして。

 やはり理由は分からない。

 そして、どうでもいい。

 これ以上は、もう何も考えたくない。



 夜。

 無論時計がそう告げるだけの事。

 実際何時なのか、今どこなのかは分からない。

 分かるのは、周囲の音と手が届く範囲の世界。

 小さく、狭い。

 今の自分に与えられた環境。

 それはこの先も変わらない。

 人の手を借り。 

 人に従い。 

 自分からは、何もしない。

 出来ない。やれない。 

 苦しみがただ続くだけの毎日が待っている。

 いつまでも、いつまでも。

 不意に痛む目元。

 これが目なのか、その奥なのかは分からない。

 痛む時に与えられた薬はある。

 あの嫌な感覚を呼び起こす目薬が。

 今の痛みに苦しむのか。

 あの感覚を、もう一度味わうのか。

 どちらにしろ、良い事はない。


 ガーゼを外し、瞳を開けて目薬を当てる。

 すぐに感じる、刺すような感覚。

 ガーゼを付けて、眼帯をはめて体を丸める。

 声を押し殺して。

 体を丸めて。

 肩に爪を食い込ませて。

 ただ耐えるしかない。

 過ぎる事のない、この苦痛を。

 何のためにかも分からない。

 泣きたくなるような心境。

 絶望と苦悩。

 いつまでも、それに耐えるしか。 

 永遠に続くような、この苦しみを。



「どうしたの、これ」

 焦り気味の声。

 どうも、すぐ近くに誰かいるらしい。

「何かあったの?」

 別に何もない。

 同じ事を繰り返しているだけだ。

「目薬を差したの?」

 何だ、そんな事か。

「差した」

 そうとだけ答え、寝返りを打つ。

 もう痛みはないし、あの嫌な感覚もない。

 眠い訳ではないが、いちいち説明したいとも思わない。

「危ないから、そういう時は言いなさい」

「そうだね」

 危ないもなにも、もう済んだ事だ。

 目元を押さえて、何度か深呼吸する。

 痛みではなく、眼帯やガーゼの圧迫感が辛かったので。

 自分でやったため、強く巻き過ぎたらしい。

 指でガーゼを緩め、仰向けになる。

「大丈夫なの?」

「何が」

 言っている意味が分からない。

 体調の事を言ってるのなら、何一つ大丈夫じゃない。

 でもそれは、ここ最近ずっとの事だ。

 いいも悪いも無い。

「……いいわ。ご飯はどうする」

「いらない」

「いらないって、昨日も食べなかったでしょ」

 そう指摘され、今頃気付く。

 その割には食欲がないし、何かを食べたいとも思わない。

 せいぜい、喉が少し乾いたくらいで。

「スープでも飲む?」

 小さく頷き、体を起こす。

 ここで飲まないとまた揉めそうだし、余計な事で煩いたくない。

 とにかく今は何もせず、大人しくしていたい。


 どういう味かも分からないまま口に運び、コップを置く。

 暖かくなる体の中。

 血の巡りが良くなる感覚。

 しかし、食欲は戻らないまま。

 椅子に座ったまま、じっとする。

 やる事はもう終わったし、後は薬を飲むくらい。

 そして病院に行くだけだ。

 今日の予定の大半は、既に無くなった。

「おにぎりは」

 首を振り、拒否を示す。

 冗談抜きで、今食べたら戻しそうな気すらある。

「顔色も悪いわね。まだ早いけど、病院へ行く?」

「そうだね」

 適当に答え、ため息を付いてうなだれる。

 もう何がどうだっていい。

 私が嫌がろうとなんだろうと、病院へ行ってあの目薬を差される。

 私の意思は関係ない。

 だから、言われた通りに何でもやれば良いだけだ。


 玄関の土間を降りた所で、バランスを崩した。

 すかさず手をさまよわせ、何かに触れる。

 しかしそれは布か何からしく、手応えもないまま床に倒れた。

 低い姿勢だったので、怪我をする程ではない。

 少し汚れたくらいで。

「優っ」

 叫び声に近い口調。

 近付いてくる足音。

 肩に手が掛けられ、体が起こされる。

「少し待ってって言ったじゃない」

「そうだね」

 服を払われる感覚。

 でも汚れていようが、自分には関係ない。

 何も見えていないので、見かけなんて意味がない。

 それは私ではなく、人が気にする事だ。

「怪我は大丈夫?」

「じゃないの」

 他人事のように答え、壁伝いに歩き出す。

「優、待って」

 掴まれる腕。

 仕方ないので足を止め、壁にもたれる。

 一人でやりたい訳ではないし、やれる訳でもない。

 止められたら、それに従えばいい。

「すぐ戻るから、動かないでよ」

 小さく頷き、そのままじっとする。

 こういうのには慣れているし、一日中だってここにいる。



 病院に着き、スロープを登る。

 肩に何かがぶつかった感覚。

 壁などではなく、人のようだが。

 少しよろめき、手をまさぐる。

 かろうじて手すりに指が届き、倒れる事をどうにか防ぐ。

「危ないわね」

 むっとした感じの声。

 私は逆に、何とも思わない。

 倒れなくて良かったというくらいで。

 人の事なんてどうでもいいし、興味もない。

 自分の事すらも。


 受付前のソファーに座り、自分の番を待つ。

 通り過ぎていく足音。

 変わらない、患者同士の会話。

 体調が悪い事を自慢するような、下らない話。

 だが、所詮は他人事。

 その声も、聞こえなくなる。

 ここからいなくなったのか、意識しなくなったのかは知らない。

 何だっていいし、私には関係ない。

 やがて名前が呼ばれ、診察室に通される。

 変わらない病状の説明。

 繰り返される処置。

 いつもと同じ苦痛。

 もう慣れた。

 どうせ明日もこれの繰り返しだから。

 明日もあさっても、ずっとこのまま。

 何一つ変わらないままで。



 病院を後にして、車に揺られる。

 今が何時なのか、どこにいるかは分からない。

 どこでもいいし、どうでもいい。

 それが今の自分に、関係がある訳ではない。

 停まる車。

 家に着いたかと思っていると、すぐに声が掛けられた。

「少し買い物するけど、どうする」

 首を振って、体を横たえる。

 手を引かれて歩いても仕方ないし、見えないのに言っても仕方ない。

「すぐ戻るから。体調が悪くなったら、連絡して」

 胸元に置かれる、おそらくは端末。

 それを抱え込み、顔を椅子に埋める。

 体調は、今さらという話。

 気分は悪いし、頭痛も時折襲ってくる。

 だるさは抜けず、動きたくもない。


 突然苦しくなる呼吸。

 胸元を押さえ、ドアに手を当てる。

 動かないドア。

 その付近を探り、窓を開ける。 

 ドアに顔を近付け、浅い呼吸を繰り返す。

 息苦しくなった理由は分からない。

 病気のせいなのか、ただ苦しいと思っただけなのか。

 少しは楽になり、もう一度横になって体を丸める。

 端末はどこにいったか分からないし、そういう余裕もなかった。

 第一呼んだとしても、何も変わらない。

 呼吸が楽になる訳でも、体調が良くなる訳でも。

 余計な気を使われ、却って疲れるだけだ。

 深呼吸を何度かして、目元を押さえる。

 涙を拭うようにして。

 しかし涙は出ていないし、出ていても拭きようがない。

 全ては自分の思い込みと幻想でしかないという訳か。

 小さな、自分だけの世界の。




 リビングのソファーで横になり、ヘッドフォンを耳に当てる。

 いつもの事。

 今がいつなのか、いつからこうしているのかも分からない。

 何のためににとか、どうしてとかも。

 意味が分からない。

 分かる必要もないだろう。

 それで、何かが解決する訳でもないんだから。 

 考える理由も必要もない。

 ただ毎日を過ごしていけば。

「優。病院へ行くよ」

 顔を上げ、耳元に腕時計を当てる。

 時刻は朝。

 さっき病院へ行ったばかりだと思っていた。

 元々時間の感覚はなかったが、完全に崩れたようだ。

 あってもなくても、どうでもいいが。

 何かが夢、という気もする。

 昨日の事が。

 今のこの状況。

 それとも、今までの事全てが。

 目が見えないのはずっと昔からで、体調が悪いのも同じ。

 昔からこれを、ずっと繰り返してきた。

 治る事なんて無いし、そんな事はあり得ない。

 毎日病院に行って、家で横になり、また病院へ行く。

 その事だけを繰り返す生活。

 そうか。 

 だったら、いちいち悩む必要もない。

 もう、どうでもいい。

 自分には関係ない。



 遠くで聞こえる会話。

 病状の事を話しあっているようも思えるが、興味がない。

 何を言ってるのか分からないし、聞く気もない。

 聞いてどうにかなる訳ではないし、何も変わらない。

 後はあの嫌な目薬を差されて、家に帰るだけだ。

「優っ」

 気付くと、床に倒れていた。

 どうもベッドから、無理に降りようとしたらしい。

「どこ、ここ」

 家にしては、人が多い気もする。

 顔を動かすが、何も見えない。

「目が」

 思わず目元に手を当て、ようやく気付く。

 そういえば、病院に来ていた。

「大丈夫?」

「何が」

「何がって、あなた」

 引き上げられる体。

 払われる腕や足。 

「消毒した方がいいですね。もう一度、ベッドに寝て」

 少し歩いて、また転びそうになる。

 膝を、何かにぶつけたらしい。

「優っ」

「どうしたの」

 ただ歩いただけで、何も騒ぐような事じゃない。

 そうしている間にもまた足をぶつけ、転びそうになる。

「ちょっと、落ち着いて」

「何が」

「目が見えてないでしょ、今は」

「え、ああ」

 改めて言われ、その場にしゃがみ込む。

 そういえば、そうか。

 今さらながらそれに気付き、愕然となる。

 全身に走る悪寒。

 冷たくなる手足。

 一気に気分が悪くなる。

「気持ち悪い」

「酸素吸入の準備。モニターも持ってきて」

「大丈夫なんですか?」

「精神的な事だと思います。念のために、病室で休んでもらいます」



 ベッドに横たわり、仰向けになる。

 家で寝ているのと、何も変わらない。

 違うのは、口元のマスクと腕の点滴。 

 指先に付けられた、バイタルを計る装置くらい。

 それ以外は、何も変わらない。

 違いは何もない。

 人の声がせず、消毒の匂いが立ちこめているくらいで。

 不快感は収まり、体調も良くなってきた。

 あくまでもさっきよりは、という前提付きで。

 上体を起こし、手を動かす。

 触れるのはベッドのシーツ。 

 おそらくは、床へ落ちないための低い柵。

 後は小さく長方形の箱。 

 手触りから言って、院内用の端末だろうか。

 しかしナースコールする理由はない。

 やりたい事はないし、何かをしてもらっても仕方ない。

 せいぜい薬が増えるか、チューブが追加されるくらいで。

「優、起きたの」

 すぐ近くから聞こえる、お母さんの声。

 どうやら、初めから病室にいたらしい。

「先生を呼ぶわね」

 返事を待たずにコールするお母さん。 

 呼んでも仕方ないとは言いようがないので、横たわったまま上を見上げる。

 あくまでも姿勢として。

 当たり前だが、視線の先には何もない。

 どこまでも続く暗闇しか。 



「検査結果の数値は、特に問題ないですね。昨日とさほど変わってません」

「良くなってるんですか」

「ええ、少しずつですが。ただ視覚については、精神的な部分が関わっているとの判断です。今までの疲労と、見えなくなった事のストレッサーが原因ではないかと。出来るだけリラックスして、何もしないでゆっくりするのが一番ですね」

 そんな事は、言われなくても分かっている。

 今でも何もしてはいない。 

 ただ、リラックスしているとは思えない。

 むしろ神経を張りつめ、気持を高ぶらせている。

 だけどこの状態で落ち着ける訳がない。

 体調を悪くして、目も見えなくて。

 今までの自由を全て奪われ。

 何も出来なくなって。 

 それでもゆとりを持って生活するなんて事は。

「精神安定剤も、善し悪しですからね。それに、あまり薬ばかり使うのもちょっと。精神科医とも、一度相談してみますか」

「嫌だ」

 すぐに答え、ベッドから降りる。

 いや。降りようとして、柵に体をぶつける。

「この子、どうもそういう事が嫌みたいで」

「そうですか。じゃあ、治療は今まで通りで」 

 遠くに聞こえる会話。

 ただ私の知らない間に、精神科医を連れてこられないとも限らない。

 この医師自体が、精神科医という可能性もある。

 疑い出せばきりがないし、はっきり言えばどうでもいい。

 意地を張る理由は自分でも分かってないし、明らかに今の自分は安定していない。

 ただ精神科医の治療を受けたからといって、すぐに良くなるとは思えない。

 今、この目が見えないのと同じように。

 何をしたって変わらない。

 やっても、やらなくても。

 いても、いなくても。

 私なんて。



 病院を後にして、家へ戻る。 

 今が何時かは分からない。

 時間を確かめていないし、今までとはリズムが違ったので余計に判断が出来ない。

 とはいえ、今が何時だろうがどうでもいい。

 予定がある訳ではなく、何かをする必要もない。

 寝て、食べて、薬を飲んで、病院へ行く。

 それだけだ。

 今が何時だろうと、ここどこだろうと関係はない。

 時間なんて、今の自分には何の意味も持たない。

 場所も、勿論。

 私自身、いてもいなくてもいい。

 いても人に迷惑を掛けるだけで。

 いなければ、それが無くなる。

 自分の存在なんて、意味がない。

 大体、今までだって意味があったのか。

 自分が誰かの役に立ってきたとは、あまり思えない。

 たまたまここに生まれ、ここで育った。

 偶然出会い、その中にいる。

 出会わなければ、それまでの事。

 私は、彼等の意識にすら存在しない。

 今は付き合いが長いから、少しは気に掛けるだろう。

 でもこの状態が続けば。

 ずっとこのままだったら。

 いずれ私の事など忘れてく。

 そしていつか、ふとした時に思い出すくらいで。

 その時もまた、彼等の意識から消えていく。

 所詮はその程度の存在でしかない。

 何かが出来る訳ではなく。

 人の役に立つ事もなく。

 ただ、毎日を無為に過ごしていた。 


 無論、それは今も変わらない。

 つまりは、今も昔も。

 平凡で、取るに足らない。

 いてもいい。

 でも、いなくたっていい。

 このまま消えていっても、誰も気にはしないだろう。

 初めは多少、何か思うとしても。

 すぐに忘れていく。

 大体、私なんて本当にいたんだろうか。

 現実にという意味ではなく。

 誰かの心に残るような存在として。

 いや。そんな事はどうでもいい。

 下らない考えだ。 

 ここでこうしている限り、何の意味も持たない。

 横たわり、何もせず、ただ時が過ぎていくのを眺めているだけの自分には。

 誰からも必要とはされていないし、求められもしない。



 それは結局、いてもいなくても同じ事だ。

 花瓶が置いてあるような物で。

 物自体は、そこにある。

 でも、誰も気には留めない。

 目には見えていても、心には映っていない。




 それには何の意味もない。

 私の存在も大差はない。






  







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