25-2
25-2
朝。
そうと分かるのは、腕時計が告げるから。
後はTVの音声が、それらしい事を言っているから。
実際は今が何時なのか、いつなのかは分かっていない。
いつ寝て、いつ起きているのか。
声を掛けられ移動して、食事を採って、病院へ行って、お風呂に入って、寝るだけ。
自分の意思はない。
言われるままに動くしか。
揺れる体。
より悪くなる気分。
だるさは抜けず、体は重いまま。
勿論目は、暗闇を映し出している。
「止めて」
「どうかした?」
理由を付けず、口元を抑える。
今すぐという訳ではないが、我慢出来なくなった。
視覚を奪われ、平衡感覚が保てない状況。
三半規管は無事だろうが、今まで目に頼っていたため少しの揺れもきつい。
冗談抜きで、体を振り回されているような気分。
何度か深呼吸をして、渡されたペットボトルを口にする。
すぐに良くなる訳ではないが、揺られ続けるよりはいい。
このまま帰りたい心境に駆られ、そう言いかけて思い留まる。
そんな訳にはいかないし、そこまでのわがままを言える立場でもない。
言うまでもなく、理由はあの目薬の不快感。
実際にそうなだけ、口に出す事は出来ない。
病院が休みだったら、混み合って順番が回ってこなかったら。
あり得ない事ばかりを考え、車に戻る。
昨日同様、スロープを登りエレベーターに乗る。
今日も誰かと乗り合わせている。
苦しそうな咳。
誰かを労るような声。
病院。病人という言葉を強く理解させる雰囲気。
自分もその中の一人だと。
嫌でも思い知らされる。
おそらくは、眼科前。
それとも神経外科だろうか。
どちらでもいいし、今の自分には関係ない。
あの目薬が待っている事には、変わりない訳だから。
消毒の匂いと、慌ただしい足音。
事務的なアナウンスと呼び出し。
今日は待たされたと思う間もなく、自分の名前がコールされる。
それが決していい事とは思えず、ため息混じりに立ち上がる。
幾つかドアをくぐり、診察室へとやってくる。
昨日と違う声。
曜日によって、担当医師が違うのだろう。
「カルテを見ると、昨日の目薬が痛かったみたいですね」
「ええ」
「それを和らげる薬があるので、今日はまずそっちを使いましょう。ベッドに寝てもらえますか」
これは昨日同様、かなりの作業。
私はただ、身を任せているだけだが。
「では、差しますからね」
その言葉に身を固め、拳を強く握り締める。
あの嫌な感覚を思い出せば出す程。
「大丈夫ですよ。これは、少ししみるだけですから。では、行きますよ」
瞳に感じる、冷たい感覚。
言われた通り瞳の奥は痛まず、普通の目薬と同じような痛み。
少し安堵感を覚え、息を付く。
どうやら、ずっと息を止めていたらしい。
「じゃ、薬が効くまでに採血をしましょう」
あまり聞きたくはない言葉。
しかし断る理由もなく、断れるはずもない。
事務的な説明を受け、確実な痛みを感じて血が採られる。
普段も注射されている所は見ないようにしている。
ただ、見えないのとは違う。
今は見たくても、見られない状態。
不安というよりも恐怖。
何をされるのか分からない。
何がどうなってるのか。
「あ、動かないで下さいね」
押さえられる肩。
自分でも気付かない内に、起き上がろうとしていたらしい。
血を抜かれる時独特の、腕の嫌な感覚。
そして痛み。
こうなると不安と共に、怒りや苛立ちも混じってくる。
「痛い」
つい出てしまう声。
実際にかなりの痛みが、腕に走る。
見えていないのではっきりしないが、確実にどうかなっている。
「あ、ごめんなさい。針が、少しずれたみたいですね。今、直しますから」
嫌な感覚が少しあり、多少痛みが和らぐ。
浅い呼吸を何度か繰り返し、こめかみの辺りを指で触れる。
今すぐ、ここから逃げ出したい気分。
それに何の意味もないのは分かっている。
だけどこれだけの苦痛が続くのは、耐えられない。
逃げ出す事が出来ないと分かっている分、余計に。
「では、目薬を差しましょうか」
ぼんやりとしていると、そう告げられた。
このまま帰れるなどという、子供のような期待はあっさりと覆される。
いつの間にか抑えられる肩。
自分が信用されてないと思い、唇を噛みしめる。
「動くと、危ないですからね」
そういう問題じゃないと叫びそうになり、シーツを爪で掻く。
口に出す程、冷静さは欠いていないが。
しかし、何もしないままで収める心境でもない。
「じゃ、行きますよ」
息を止め、拳を固める。
肩はすぼまり、足は内側に閉じられる。
「あ、目を開けて下さい」
体に力が入っていた分、自然と目が閉じたらしい。
開けたくはないがゆっくりと瞼を上げ、もう一度息を止める。
「くっ」
肩を押さえていた手を無理矢理剥がし、体を丸くして目元を抑える。
瞳の奥に感じる、あの痛み。
神経をかき回されたような、耐えられない感覚。
痛さの程度は、たかが知れている。
だけどこの部分のこの感覚は、意味が違う。
自分でも分からないような場所の、分からない痛み。
浅い呼吸を何度もして、シーツを掻きむしる。
「大丈夫、なんでしょうか」
不安げな誰かの声。
それを背に聞きながら、肩を強く抱きしめる。
「うーん。局部麻酔と同じで、完全に痛みを取り去る訳ではないんですよね。あくまでも緩和するくらいですから」
「すごい苦しそうなんですけど」
「視神経へ作用するので、これはどうしようもないんですよね。多少効き目が弱まりますけど、明日からは量を減らしてもう少し薄めましょう」
病院を後にして、車に揺られる。
手は目元から離れず、何もしたくない。
とにかく浅い呼吸を繰り返し、時折お茶を飲む。
痛さは多分、もう和らいでいるはずだ。
しかし手は離せない。
あの嫌な感覚が、こびりついている間は。
「優、大丈夫?」
適当に頷き、ため息を付く。
説明しても仕方ないし、それで良くなる訳でもない。
しかしあまりこの恰好でいるとまた何か言われそうなので、手を離して顔を伏せる。
体調は変わらず、よくなる兆しもない。
もしかして、ずっとこのままではないかという不安がよぎる。
そんな訳がないと思いつつ、その考えは消え去らない。
痛みや感覚は忘れ、その事ばかりを考えてしまう。
もしこのまま見えないままなら、どうなるのか。
一生誰かの世話になって、自分では何も出来ないままで。
ずっとこのまま?
「そんな訳」
「優、どうかした?」
「なんでもない」
即座に返し、窓を開ける。
吹き込んでくる冷たい風。
このまま全てが、この冷たさで消え去れば。
勿論そんな訳はない。
何一つ変わらない。
もう、このまま何も。
家に帰って、じっとしたまま動かずにいる。
ヘッドフォンを耳に当て、何もせずに。
出来るだけ余計な事を考えず。
聞こえてくる音楽に、意識を向ける。
もう何も考えたくはない。
このまま日が暮れて、明日になって。
早く良くなればいい。
しかし、本当にそうなるのだろうか。
昨日も、今日も。
何一つ変わらない。
だるさも、気持ちの悪さも。
目が見えない事も。
苦痛と不快感が増すだけで、良くなる気配はまるでない。
明日は、あさっても。その先も。
いつまでもこの状態が続くような気分。
良くなるというイメージが湧いてこない。
こうして目が見えず、体調の優れないのが当たり前のようにすら思えてくる。
目が見えていたのは、ついこの間の事。
何故かそれが、とても昔に思えてくる。
そういう時もあったなという、かすんだ記憶。
遠い、他人事のような。
自分には縁のない、関係ない話。
今はただ、何をする事も無く横たわるしかない。
何も出来ないまま、このままずっと。
何度目かの食事。
TVの音声で、夕食だと気付く。
それ以外の会話も、途切れ途切れに聞こえる。
言っている意味は、何となく分かる。
口を挟む気はないし、自分には関係ない。
適当に食事を済ませ、薬を飲むだけだ。
どういう意味があるのかは知らない。
渡される物を口にして、言われるままに動けばいい。
そうしていれば、全てが過ぎていく。
良い事も、悪い事も。
いや。良い事は何もない。
嫌な事や、辛い事ばかりで。
良い事なんて、何一つ。
今までも。もしかすると、この先も。
このまま単調で、憂鬱な時だけが待っている気がする。
何を得る訳でもなく。
少しずつ、何かを失うだけで。
湯船に浸かり、目を閉じる。
元々開けるも閉じるも無いが、気分的に。
暖かくなる体。
全身に入っていた力が抜け、体は軽くなる。
しかし心は、重く沈んだまま。
それを軽くする要素は、何一つ思い付かない。
病状。
自分の置かれている立場。
そこから辿れる、自分の将来像。
夢も希望も無い。
今と同様、どこを見渡しても果てしない闇が広がっているだけだ。
以前なら、お風呂に入っていれば自然と気分は楽になった。
上がった後はしばらく、良い気分でいられた。
遠い、遠い昔の話だ。
もうその頃に戻るとは思えないし、記憶すら薄れている。
何も考えられないし、考えたくない。
ただ食事を摂り、体を休め、眠りに付くだけの日々。
それに不満はないし、どうだっていい。
何がどうだって。
腕時計で時刻を確かめる。
その後ですぐに、今日の日付と曜日も。
間違いなく、日曜日と腕時計は告げた。
休日なので、病院は休み。
探せば開いている所もあるだろうが、それ程数が多い訳ではない。
特に私が通っている病院は、午前中しか診療しない病院。
日曜日は、確か休診のはずだ。
少しだけ軽くなる気分。
のし掛かっていた重みが無くなった感覚。
「優、病院へ行くよ」
聞きたくはない言葉。
しかも、勘違いしてるのではないと思わせる回りの空気。
明らかに病院へ行くのは決まっている。
「今日は」
「日曜だけど、救急の外来で治療してくれるんだ」
少し考えれば分かる事。
あれ程大きい病院なら、毎日の治療を必要とする患者も多い。
今言われたような事もするだろう。
車に揺られ、病院へ向かう。
さっきぬか喜びした分、重さはよりのし掛かってくる。
このまま事故にでも遭わないかと、意味がない事まで考えてしまう。
そんな事を考えている内に、頭痛がしてきた。
今の気分のせいか。
病状の変化か。
どちらにしろ、気が滅入ってくる。
良くなるどころか、悪くなる一方。
治療は辛く、治る気配もない。
気の持ちようとは、健康な人の言う言葉だ。
今そんな事を言われたら、間違いなく何かを投げ付けるだろう。
何度か車を停め、休みを挟みつつようやく病院に着く。
着いたからと言って、何も良い事はない。
このまま引き返せるのなら、何でもしたいくらいの気分。
とにかく嫌で嫌で仕方ない。
今までのようにエレベーターへは乗らず、手すりを伝って歩いていく。
救急外来なので、一階にあるのだろう。
だからどうしたという事もなく、結局はあの嫌な感覚を味わうだけだ。
今まで以上に慌ただしい空気。
救急の患者でもいるのか、走るような足音も聞こえてくる。
このまま私の事なんて忘れ、放っておいて欲しい。
「お待たせしました」
大して待つ事もなく、診察室に通される。
慌ただしい空気は伝わってくるが、それはそれとして個別に診察はやっているらしい。
「えーと。有機リン酸中毒の治療ですか。何か、症状に変化は」
「頭が痛い」
「なる程。大丈夫だとは思いますが、点滴しましょう」
言うんじゃなかったと、今さらながらに後悔する。
すぐに別な場所へ連れて行かれ、ベッドの上に寝かされる。
腕に感じる冷たさ。
おそらくは消毒で、当然この後は針を刺される。
もう何もしなくて良いから、放っておいて欲しい。
どうせ何をしたって、良くはならないんだから。
こんな事は無意味で、何をしても仕方ない。
病院に来る事も、治療を受ける事も、何もかもが。
「痛いっ」
思わず叫び声を上げ、腕を押さえる。
大袈裟ではなく、激痛が腕に走った。
「あ、ごめんなさいっ」
申し訳なさそうに謝る女性の声。
それもまだ若い、初々しいといった感じの。
新人の医師、それとも看護婦。
呈の良い実験台か。
「あの。済みませんが、もう少し上手い人にやってもらえますか」
丁寧な口調で抗議してくれるお父さん。
しかし今さらという話で、腕は未だに痺れたような状態。
ここで針を刺されたら、這ってでも逃げたくなる。
「あ、はい。じゃあ、ベテランの看護婦を呼んできますので」
「初めから」
「え。何か言いました?」
「別に」
無愛想に答え、拳でベッドを叩く。
態度が悪いとは思うが、今の自分にはこの程度しか出来ない。
それに上手くても下手でも、針は刺される訳なんだから。
腕に刺さったままの針。
仰向けにされる体。
押さえられる肩。
「昨日はかなり薄めても、痛かったみたいですね。これは体質もあって、今は過敏に痛みの部分だけが反応してるのかもしれません」
「目薬を差さないという事は?飲み薬とか」
「それだと効果が期待出来なくて。出来るだけ視神経に薬が浸透しないと,意味がありませんから。逆に痛いのは、視神経が活動している証拠ですよ」
何の慰めにもならない言葉。
どっちにしろ目薬は差され、痛みを味わう。
治るかどうかも分からないまま。
「出来るだけ薄めますからね。じゃ、緩和する目薬を差します」
準備の間もなく、瞳が冷たくなる。
そしてすぐに、次の水滴が落ちてくる。
変わらない奥の痛み。
こうなると、何が痛いのかどうかも分からなくなる。
本当に痛いのか、痛い気がしているだけなのか。
痛いのは目の奥なのか、もっと違う部分なのか。
準備室で浴びた薬品が原因なのか、もしかして違うのか。
確かなのは、この痛み。
気のせいでも本当の痛みでも関係ない。
苦痛と憂鬱。
今日だけでは終わらないという絶望。
このまま全てが終わればいい。
もう、何もかもが。
同じ事の繰り返し。
単調な作業のような。
ただ飽きたとか、退屈とは思わない。
何も感じない。
その事には。
この苛立ちは、それとは違う。
何なのかは、自分でも分からない。
理由なんてどうでもいい。
「ご飯は」
「いらない」
「いらないって事はないでしょう。パンにする?」
「いらない」
反発気味に告げ、ヘッドフォンを耳に戻す。
食欲はないし、食べたい物もない。
食べて何かある訳でもない。
揺すられる肩。
咄嗟に体を丸め、頭を手で覆う。
全身に走る悪寒。
すぐに手を払い、口元に手を当てる。
そしてようやく、地震でないと悟る。
薬品が落ちてくる訳も、棚が降ってくる訳でもない。
「優っ」
ヘッドフォンが外され、耳元で叫ばれる。
顔を上げるが、勿論どこにいるかは分かってない。
「どうしたの」
怒る訳でなく、不安げな声が聞こえてきた。
突然暴れ出したら、だれでもそう思うだろう。
しかし理由を告げる気にもなれず、適当に首を振って体を丸める。
一瞬甦った、あの時の記憶。
思い出したくもない、今まで忘れていた。
鼻を付く匂い。
痛む目元。
吐き気とだるさ。
今、そこまで症状が悪くないのは分かっている。
でも意識の中では、同じ事だ。
身動きも出来ず、廊下に横たわる自分。
何のために、どうして。
やはり理由は分からない。
そして、どうでもいい。
これ以上は、もう何も考えたくない。
夜。
無論時計がそう告げるだけの事。
実際何時なのか、今どこなのかは分からない。
分かるのは、周囲の音と手が届く範囲の世界。
小さく、狭い。
今の自分に与えられた環境。
それはこの先も変わらない。
人の手を借り。
人に従い。
自分からは、何もしない。
出来ない。やれない。
苦しみがただ続くだけの毎日が待っている。
いつまでも、いつまでも。
不意に痛む目元。
これが目なのか、その奥なのかは分からない。
痛む時に与えられた薬はある。
あの嫌な感覚を呼び起こす目薬が。
今の痛みに苦しむのか。
あの感覚を、もう一度味わうのか。
どちらにしろ、良い事はない。
ガーゼを外し、瞳を開けて目薬を当てる。
すぐに感じる、刺すような感覚。
ガーゼを付けて、眼帯をはめて体を丸める。
声を押し殺して。
体を丸めて。
肩に爪を食い込ませて。
ただ耐えるしかない。
過ぎる事のない、この苦痛を。
何のためにかも分からない。
泣きたくなるような心境。
絶望と苦悩。
いつまでも、それに耐えるしか。
永遠に続くような、この苦しみを。
「どうしたの、これ」
焦り気味の声。
どうも、すぐ近くに誰かいるらしい。
「何かあったの?」
別に何もない。
同じ事を繰り返しているだけだ。
「目薬を差したの?」
何だ、そんな事か。
「差した」
そうとだけ答え、寝返りを打つ。
もう痛みはないし、あの嫌な感覚もない。
眠い訳ではないが、いちいち説明したいとも思わない。
「危ないから、そういう時は言いなさい」
「そうだね」
危ないもなにも、もう済んだ事だ。
目元を押さえて、何度か深呼吸する。
痛みではなく、眼帯やガーゼの圧迫感が辛かったので。
自分でやったため、強く巻き過ぎたらしい。
指でガーゼを緩め、仰向けになる。
「大丈夫なの?」
「何が」
言っている意味が分からない。
体調の事を言ってるのなら、何一つ大丈夫じゃない。
でもそれは、ここ最近ずっとの事だ。
いいも悪いも無い。
「……いいわ。ご飯はどうする」
「いらない」
「いらないって、昨日も食べなかったでしょ」
そう指摘され、今頃気付く。
その割には食欲がないし、何かを食べたいとも思わない。
せいぜい、喉が少し乾いたくらいで。
「スープでも飲む?」
小さく頷き、体を起こす。
ここで飲まないとまた揉めそうだし、余計な事で煩いたくない。
とにかく今は何もせず、大人しくしていたい。
どういう味かも分からないまま口に運び、コップを置く。
暖かくなる体の中。
血の巡りが良くなる感覚。
しかし、食欲は戻らないまま。
椅子に座ったまま、じっとする。
やる事はもう終わったし、後は薬を飲むくらい。
そして病院に行くだけだ。
今日の予定の大半は、既に無くなった。
「おにぎりは」
首を振り、拒否を示す。
冗談抜きで、今食べたら戻しそうな気すらある。
「顔色も悪いわね。まだ早いけど、病院へ行く?」
「そうだね」
適当に答え、ため息を付いてうなだれる。
もう何がどうだっていい。
私が嫌がろうとなんだろうと、病院へ行ってあの目薬を差される。
私の意思は関係ない。
だから、言われた通りに何でもやれば良いだけだ。
玄関の土間を降りた所で、バランスを崩した。
すかさず手をさまよわせ、何かに触れる。
しかしそれは布か何からしく、手応えもないまま床に倒れた。
低い姿勢だったので、怪我をする程ではない。
少し汚れたくらいで。
「優っ」
叫び声に近い口調。
近付いてくる足音。
肩に手が掛けられ、体が起こされる。
「少し待ってって言ったじゃない」
「そうだね」
服を払われる感覚。
でも汚れていようが、自分には関係ない。
何も見えていないので、見かけなんて意味がない。
それは私ではなく、人が気にする事だ。
「怪我は大丈夫?」
「じゃないの」
他人事のように答え、壁伝いに歩き出す。
「優、待って」
掴まれる腕。
仕方ないので足を止め、壁にもたれる。
一人でやりたい訳ではないし、やれる訳でもない。
止められたら、それに従えばいい。
「すぐ戻るから、動かないでよ」
小さく頷き、そのままじっとする。
こういうのには慣れているし、一日中だってここにいる。
病院に着き、スロープを登る。
肩に何かがぶつかった感覚。
壁などではなく、人のようだが。
少しよろめき、手をまさぐる。
かろうじて手すりに指が届き、倒れる事をどうにか防ぐ。
「危ないわね」
むっとした感じの声。
私は逆に、何とも思わない。
倒れなくて良かったというくらいで。
人の事なんてどうでもいいし、興味もない。
自分の事すらも。
受付前のソファーに座り、自分の番を待つ。
通り過ぎていく足音。
変わらない、患者同士の会話。
体調が悪い事を自慢するような、下らない話。
だが、所詮は他人事。
その声も、聞こえなくなる。
ここからいなくなったのか、意識しなくなったのかは知らない。
何だっていいし、私には関係ない。
やがて名前が呼ばれ、診察室に通される。
変わらない病状の説明。
繰り返される処置。
いつもと同じ苦痛。
もう慣れた。
どうせ明日もこれの繰り返しだから。
明日もあさっても、ずっとこのまま。
何一つ変わらないままで。
病院を後にして、車に揺られる。
今が何時なのか、どこにいるかは分からない。
どこでもいいし、どうでもいい。
それが今の自分に、関係がある訳ではない。
停まる車。
家に着いたかと思っていると、すぐに声が掛けられた。
「少し買い物するけど、どうする」
首を振って、体を横たえる。
手を引かれて歩いても仕方ないし、見えないのに言っても仕方ない。
「すぐ戻るから。体調が悪くなったら、連絡して」
胸元に置かれる、おそらくは端末。
それを抱え込み、顔を椅子に埋める。
体調は、今さらという話。
気分は悪いし、頭痛も時折襲ってくる。
だるさは抜けず、動きたくもない。
突然苦しくなる呼吸。
胸元を押さえ、ドアに手を当てる。
動かないドア。
その付近を探り、窓を開ける。
ドアに顔を近付け、浅い呼吸を繰り返す。
息苦しくなった理由は分からない。
病気のせいなのか、ただ苦しいと思っただけなのか。
少しは楽になり、もう一度横になって体を丸める。
端末はどこにいったか分からないし、そういう余裕もなかった。
第一呼んだとしても、何も変わらない。
呼吸が楽になる訳でも、体調が良くなる訳でも。
余計な気を使われ、却って疲れるだけだ。
深呼吸を何度かして、目元を押さえる。
涙を拭うようにして。
しかし涙は出ていないし、出ていても拭きようがない。
全ては自分の思い込みと幻想でしかないという訳か。
小さな、自分だけの世界の。
リビングのソファーで横になり、ヘッドフォンを耳に当てる。
いつもの事。
今がいつなのか、いつからこうしているのかも分からない。
何のためににとか、どうしてとかも。
意味が分からない。
分かる必要もないだろう。
それで、何かが解決する訳でもないんだから。
考える理由も必要もない。
ただ毎日を過ごしていけば。
「優。病院へ行くよ」
顔を上げ、耳元に腕時計を当てる。
時刻は朝。
さっき病院へ行ったばかりだと思っていた。
元々時間の感覚はなかったが、完全に崩れたようだ。
あってもなくても、どうでもいいが。
何かが夢、という気もする。
昨日の事が。
今のこの状況。
それとも、今までの事全てが。
目が見えないのはずっと昔からで、体調が悪いのも同じ。
昔からこれを、ずっと繰り返してきた。
治る事なんて無いし、そんな事はあり得ない。
毎日病院に行って、家で横になり、また病院へ行く。
その事だけを繰り返す生活。
そうか。
だったら、いちいち悩む必要もない。
もう、どうでもいい。
自分には関係ない。
遠くで聞こえる会話。
病状の事を話しあっているようも思えるが、興味がない。
何を言ってるのか分からないし、聞く気もない。
聞いてどうにかなる訳ではないし、何も変わらない。
後はあの嫌な目薬を差されて、家に帰るだけだ。
「優っ」
気付くと、床に倒れていた。
どうもベッドから、無理に降りようとしたらしい。
「どこ、ここ」
家にしては、人が多い気もする。
顔を動かすが、何も見えない。
「目が」
思わず目元に手を当て、ようやく気付く。
そういえば、病院に来ていた。
「大丈夫?」
「何が」
「何がって、あなた」
引き上げられる体。
払われる腕や足。
「消毒した方がいいですね。もう一度、ベッドに寝て」
少し歩いて、また転びそうになる。
膝を、何かにぶつけたらしい。
「優っ」
「どうしたの」
ただ歩いただけで、何も騒ぐような事じゃない。
そうしている間にもまた足をぶつけ、転びそうになる。
「ちょっと、落ち着いて」
「何が」
「目が見えてないでしょ、今は」
「え、ああ」
改めて言われ、その場にしゃがみ込む。
そういえば、そうか。
今さらながらそれに気付き、愕然となる。
全身に走る悪寒。
冷たくなる手足。
一気に気分が悪くなる。
「気持ち悪い」
「酸素吸入の準備。モニターも持ってきて」
「大丈夫なんですか?」
「精神的な事だと思います。念のために、病室で休んでもらいます」
ベッドに横たわり、仰向けになる。
家で寝ているのと、何も変わらない。
違うのは、口元のマスクと腕の点滴。
指先に付けられた、バイタルを計る装置くらい。
それ以外は、何も変わらない。
違いは何もない。
人の声がせず、消毒の匂いが立ちこめているくらいで。
不快感は収まり、体調も良くなってきた。
あくまでもさっきよりは、という前提付きで。
上体を起こし、手を動かす。
触れるのはベッドのシーツ。
おそらくは、床へ落ちないための低い柵。
後は小さく長方形の箱。
手触りから言って、院内用の端末だろうか。
しかしナースコールする理由はない。
やりたい事はないし、何かをしてもらっても仕方ない。
せいぜい薬が増えるか、チューブが追加されるくらいで。
「優、起きたの」
すぐ近くから聞こえる、お母さんの声。
どうやら、初めから病室にいたらしい。
「先生を呼ぶわね」
返事を待たずにコールするお母さん。
呼んでも仕方ないとは言いようがないので、横たわったまま上を見上げる。
あくまでも姿勢として。
当たり前だが、視線の先には何もない。
どこまでも続く暗闇しか。
「検査結果の数値は、特に問題ないですね。昨日とさほど変わってません」
「良くなってるんですか」
「ええ、少しずつですが。ただ視覚については、精神的な部分が関わっているとの判断です。今までの疲労と、見えなくなった事のストレッサーが原因ではないかと。出来るだけリラックスして、何もしないでゆっくりするのが一番ですね」
そんな事は、言われなくても分かっている。
今でも何もしてはいない。
ただ、リラックスしているとは思えない。
むしろ神経を張りつめ、気持を高ぶらせている。
だけどこの状態で落ち着ける訳がない。
体調を悪くして、目も見えなくて。
今までの自由を全て奪われ。
何も出来なくなって。
それでもゆとりを持って生活するなんて事は。
「精神安定剤も、善し悪しですからね。それに、あまり薬ばかり使うのもちょっと。精神科医とも、一度相談してみますか」
「嫌だ」
すぐに答え、ベッドから降りる。
いや。降りようとして、柵に体をぶつける。
「この子、どうもそういう事が嫌みたいで」
「そうですか。じゃあ、治療は今まで通りで」
遠くに聞こえる会話。
ただ私の知らない間に、精神科医を連れてこられないとも限らない。
この医師自体が、精神科医という可能性もある。
疑い出せばきりがないし、はっきり言えばどうでもいい。
意地を張る理由は自分でも分かってないし、明らかに今の自分は安定していない。
ただ精神科医の治療を受けたからといって、すぐに良くなるとは思えない。
今、この目が見えないのと同じように。
何をしたって変わらない。
やっても、やらなくても。
いても、いなくても。
私なんて。
病院を後にして、家へ戻る。
今が何時かは分からない。
時間を確かめていないし、今までとはリズムが違ったので余計に判断が出来ない。
とはいえ、今が何時だろうがどうでもいい。
予定がある訳ではなく、何かをする必要もない。
寝て、食べて、薬を飲んで、病院へ行く。
それだけだ。
今が何時だろうと、ここどこだろうと関係はない。
時間なんて、今の自分には何の意味も持たない。
場所も、勿論。
私自身、いてもいなくてもいい。
いても人に迷惑を掛けるだけで。
いなければ、それが無くなる。
自分の存在なんて、意味がない。
大体、今までだって意味があったのか。
自分が誰かの役に立ってきたとは、あまり思えない。
たまたまここに生まれ、ここで育った。
偶然出会い、その中にいる。
出会わなければ、それまでの事。
私は、彼等の意識にすら存在しない。
今は付き合いが長いから、少しは気に掛けるだろう。
でもこの状態が続けば。
ずっとこのままだったら。
いずれ私の事など忘れてく。
そしていつか、ふとした時に思い出すくらいで。
その時もまた、彼等の意識から消えていく。
所詮はその程度の存在でしかない。
何かが出来る訳ではなく。
人の役に立つ事もなく。
ただ、毎日を無為に過ごしていた。
無論、それは今も変わらない。
つまりは、今も昔も。
平凡で、取るに足らない。
いてもいい。
でも、いなくたっていい。
このまま消えていっても、誰も気にはしないだろう。
初めは多少、何か思うとしても。
すぐに忘れていく。
大体、私なんて本当にいたんだろうか。
現実にという意味ではなく。
誰かの心に残るような存在として。
いや。そんな事はどうでもいい。
下らない考えだ。
ここでこうしている限り、何の意味も持たない。
横たわり、何もせず、ただ時が過ぎていくのを眺めているだけの自分には。
誰からも必要とはされていないし、求められもしない。
それは結局、いてもいなくても同じ事だ。
花瓶が置いてあるような物で。
物自体は、そこにある。
でも、誰も気には留めない。
目には見えていても、心には映っていない。
それには何の意味もない。
私の存在も大差はない。




