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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第25話   2年編前編最終話
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     25-1




 理科実験室。

 薬品の匂いと、無機質な内装。

 病院をイメージさせる、親しみづらい場所。

 選択授業で取っている教室はもっと明るく、匂いもない。

 でもここは掃除も真剣にされてないのか、汚れも目立つ。


 教室に入ってくる白衣姿の教師。

 教室同様親しみづらい、神経質そうな顔。

 指は苛立ち気味に机を叩き、黒板に書いた字を即座に消していく。

 授業の内容自体は、教科書とネットワーク上の資料だけで事足りる。

 他の子もそう思ってるのか、メモを取ってる子すら殆どいない。

「次は、機材を持ってこい」

 横柄な口調。

 とはいえ従わない事には単位も取得出来ないため、代表者が席を立って準備室へと向かう。

「行ってくる」

 私も席を立ち、教室を出て行った子達の後に続く。

「俺が行こうか」

「いいよ。重い物じゃないんだし」

 ショウに手を振り、不安そうなサトミに笑いかける。

 ケイは何も言わず、卓上端末の画面に見入っている。



 狭い準備室。

 左右に棚があるため、すれ違うのもやっと。

 用具の揃った子から出ていき、私は廊下でその流れを眺める。

 ようやく空いてくる室内。

 人を避けつつ中へ入り、端末に表示されている機材を専用の小箱に揃えていく。

 必要なのは、薬品が殆ど。

 何をやるのかは知らないが、言われた事をすればいいだけだ。

 小箱に詰めた機材を確認し、もう一度端末と照らし合わせる。

 忘れ物はない。

 後は実験室に戻って……。



 突然の激しい横揺れ。 

 揺れる光景。 

 辺りから上がる叫び声。

 足を左右に開き、棚が倒れてこないのを確認して周囲を見渡す。

 床に倒れる女の子。

 転がる薬品の瓶。 

 ビニールでコーティングされているため、落ちても割れる事はない。

 それでもベストを脱ぎ、ガラス戸の開いた棚から落ちてきた硫酸の瓶へ放り投げる。

 瓶はベストにくるまれ、音もなく床へと着地した。

 ようやく収まる揺れ。

 工事でここまでは揺れないし、おそらくは地震だろう。

 棚が倒れてくる気配はないが、開いているガラス戸が気になる。

 瓶が割れないのは、絶対という訳でもない。

 早くガラス戸を全部閉じて、キーを掛けた方が良さそうだ。


 そう思ったところで、再び揺れが始まった。

 さっきよりも大きい、今度は縦揺れ。

 これは立っているのもやっとで、棚から落ちてくる瓶に気を向ける余裕もない。

 叫び声は止まず、今度は何かが落ちる音もする。

 ビーカー、フラスコ、顕微鏡。

 幸い高さはないので、怪我をする子も無い様子。

 そう安心しかけた途端l視界の隅に瓶が映った。

 遠い、手の届かない距離。

 逆さを向く瓶。  

 しまっていないのか、あっさりと開く口。

 中の液体が、その形通り落ちてくる。

 距離はあるが顔を腕で覆い、目を閉じる。

 殺虫剤を思わさせる匂い。

 閉じている目が、激しく痛む。


「くっ」

 腕を横に振り、プラスチックのカバーを壊して強制排気のボタンを押す。

 すぐに薄れる刺激臭。

 しかし目の痛みは止まず、息が苦しくなる。

 痛む目に映るのは、同じように苦しむクラスメート。

「息を止めてっ。顔を覆って早く出てっ」

 一気に叫び、床に倒れたままの子を引き起こして自分も外へ向かう。

 おぼつかない足取り。

 思い通りに動かない体。

 それでもどうにか廊下に出て、準備室のドアを閉める。

 いや。締めようとした所で思い留まる。

 棚と棚の間。 

 その狭い間で、動けないでいる女の子。

 地震の揺れで倒れたのか、恐怖で動けないのか。 

 とにかくすぐに戻り、女の子の腕を掴んで引っ張り上げる。

 幸い棚に挟まれた訳ではなく、腰を抜かしていた様子。

「ちっ」 

 腕を振り、再び棚から落ちてきた瓶を叩き飛ばす。

 袖に掛かる薬品。 

 鼻を突く異臭。

 顔を覆う事も出来ず、女の子を引きずって外に出る。



 息苦しさとめまい。

 何より目が痛い。

「大丈夫かっ」

 ショウだろうか。

 痛む目を開け、回りを確認する。

 幾つもの足と、人の顔。

 しかし話すのも辛く、手を振って状況を説明する。

「目と喉か?おい、窓開けろっ」

 吹き込んでくる冷たい空気。

 それで、どれ程楽になる訳でもない。

 ただこの冷たさが、少しだけ気分を和らげる。

「何事だっ」

 慌て気味の教師の声。

 ここの管理者は彼。

 つまり開いていた瓶も、この男のせいという訳か。

 吐き気とだるさを堪え、壁伝いに立ち上がる。

 いや。そのつもりだったが、全く力が入らない。

 床に倒れているのか、かろうじて座っているのか。

 自分の事すら分からない。

「ほ、他の子は?」

「今運んでる。ユウが、一番重症よ」

 落ち着いたサトミの声。

 しかしそれは震え、かろうじて見える顔も不安と焦燥感しか読み取れない。

「ま、窓を閉めろっ。汚染された空気が外に」

「新鮮な空気が必要なのは、見れば分かるだろ。黙ってろ」

 低い、苛つき気味のケイの声。

 すぐに消える教師の声。

「ショウ、早く運べ。俺は残って、原因の薬品を調べる。サトミはショウについて、連絡を」

「ああ」

「わ、私も薬を被ったから。ショウは触ると……」

 ふっと浮く体。 

 微かに感じる、大きな背中。

 手に力は入らず、前でしっかりと手が繋がれる。

「目だけでも洗った方がいいんじゃないのか?」

「水に反応する薬品だと怖い」

「分かった」

「ユウ、行くわよ」



 慌ただしい雰囲気。

 飛び交う難しい言葉。

 腕や口元に付けられる機材。

 すぐに血が抜かれ、酸素マスクが口元を覆う。

「連絡を聞いた限りでは、有機リン中毒だね」

「大丈夫、ですよね」

「調べないと何とも言えないが、それ程症状は重くないように見える。これなら、胃洗浄をする必要もないだろう」

 枕元で交わされる会話。

 しかしこちらとしては話す気力もなく、話したい事もない。

 このだるさをを何とかして欲しいくらいで。

「……やはり、有機リン中毒だ。硫酸アトロピンを5mg、モニター同調で投与。パムも500mg静注で」

「目が見えづらいと言うんですけど、関係があるんですか?」

「神経の伝達が阻害されるから、その作用だとは思うんだけどね。念のために、CTも撮ろう」



 幾つかの検査を受ける。

 それでも、理由ははっきりとしない。

 今は完全に見えなくなったというだけで。

「視力については、それ程心配しなくても良いよ。毒素が抜ければ、自然と治るから」

「本当に?」

「ああ。ただそれまではしばらくこの状態が続くから、入院した方がいいね」

 手を振って、拒否の意思を告げる。

 体調はかなり良くなってきた。

 それに目が見えないのも、今の話を聞くなら一時的な事。

 事を大袈裟にしたくないし、何より病院にはいたくない。

「実家は?」

「ここからすぐ側です」

「だったら、毎日病院に通う事を条件に自宅療養にしてもいいよ。その代わり、面倒を見てくれる人がいないと」

「私と友人が付き添います。彼女の両親も」

 話を進めていくサトミ。

 さっきから聞こえるのは、彼女と先生の声だけ。

 後は時折、事務的な連絡が入るくらい。

 ショウやケイ。 

 他の子がいるかどうかは分からない。

 自分が、どういう状態なのかも。

「ここはあくまでも救急の外来だから、通うのは八事の第3日赤に。検査をするだけだから、心配しなくていいよ」

「はい。良かったわね、ユウ」 

 手に感じる、暖かい感触。

 それを握り返し、左手で恐る恐る顔に触れる。

 顎、頬。

 そして目元。

 ガーゼと、何か固い感触。

「眼帯だよ。症状が目に来たのは、そこに薬品が入った事よりも疲労だね。とにかくゆっくり体を休めて、リラックスしなさい。そうすれば、治るのも早くなる」



 手を引かれて車へ乗り込み、揺れに身を任せる。

 目が見えないため方向が分からず、平衡感覚も保てない。

 めまいも残っている分、揺れが気にある。

 車酔いだろうか、気分が悪い。

「窓、開けて」

「分かったわ」

 すぐに吹き込む冷たい風。

 他の人には迷惑だろうが、こうでもしないと苦しさが増していく。

 肉体的にも。

 何より、精神的にも。


 夢。

 それも、悪い夢を見ているような気分。

 何より最悪なのは、醒める気配の無い事。

 単に視覚が、一時失われただけの話。

 だけどこの数時間の間だけでも、不自由さは十分に実感している。

 自分の現在地。

 置かれている状況。

 周囲の景色。 

 自分が、どういう姿かすら分からない。

 時折聞こえるナビの声が、かろうじて自宅への接近を意識させるくらいで。

 これがなければ、どこへ連れていかれるのかも分からない。

「着いたわよ」

 短く告げるサトミ。

 これはさすがに分かる、車の止まった感覚。

 ドアの開く音がして、腕と手が掴まれる。

「段があるから、気を付けて」

「分かった」

 頭の中で、座席から道路までの距離を想定する。

 慎重に、ゆっくりと足を伸ばす。

 しかし足先は、宙に浮いたまま。

 思った以上に距離があるのか、真下に降りていないのか。

 普段なら意識する事もない高さのはず。

 今は、断崖にでも立っているような気分。

 座る位置を少しずらし、足を前に出す。

 ようやく触れるつま先。

 今度も慎重に足首を動かし、かかとを付く。

 残っている右足も降ろし、両足を付いて手を借りる。

 軽く浮き上がる感覚。 

 それに不安を覚え、咄嗟にしがみつく。

「ちょっとっ」

「え」

「いや。大丈夫よ」

 焦り気味の、サトミの声。

 彼女も、まさかこのくらいで私がしがみつくとは思わなかったのだろう。

 たかが車を降りるだけの話。

 荒れた息を整え、全身に感じる汗を厭う。

 思うようにならない体。

 そして状況。

 重い石を、一つずつ上から乗せられているような気分。



「お帰りなさい。大丈夫?」

 不安を押し隠した、お母さんの声。

 声の大きさからして、すぐ側にいるらしい。

「私は、良く分からない。サトミに聞くか、診断書見て」

「病院からは、連絡があったわ。大した事無いとは言ってたけど。とにかく、中に入りましょう」

 支えられる体。

 少し軽くなる気分。

 サトミやモトちゃんが駄目とか、不満という事ではない。

 言葉では説明出来ない、自分でもよくは分からない部分。

 ずっと昔の、懐かしい記憶が蘇ってくるような。

 しかしすぐに、自分の置かれている状況を思い出す。

 何も見えない、人に頼るしかない自分を。

 道路から玄関までは、短いけれど階段がある。

 これもまた、普段は意識もしない長さと高さ。 

 今は一段を上るだけで、息が上がる。

 自分の頭の中にあるイメージと、実際の距離のずれ。 

 支えられているため転ぶ事はないが、心の中は不安しか存在しない。


 どうにか玄関をくぐり、土間を上がる。

 全身に感じる汗。

 上がったままの息。

 平衡感覚が失われ、自分がどうなっているかも分からない。

 苛立ちと不安。

 焦燥感。 

「すごい汗ね。シャワー浴びる?」

 すぐに答える余裕もなく、額に手を当てて指を動かす。

 滴るようなそれではなく、じっとりとした汗。

 運動で疲れたのではなく、精神的な発汗。

「浴びる」



 服を脱ぎ、下着も脱いでバスルームに入る。

 やはり体を支えられたまま。

 体裁を構っている場合ではないし、自分では何も見えていない。

 今はとにかく、この汗をどうにかしたい。

 目の部分にはゴーグルがはめられ、水が浸みる心配はない。

 頭からシャワーを浴び、壁に手を付いたままじっとする。

 ぬるく、弱い水量。

 それでも今の自分には、これくらいで丁度良い。

「お風呂は?」

「いい。それより、今何時」

「もう、7時よ」 

 思わず聞き返しそうになった。

 自分の感覚では、まだ夕方かそれより前くらい。

 理科の授業がお昼過ぎ。

 その後で病院へ行って、すぐ家に戻ってきた。

 どれ程時間が経ったとも思えないし、実際思っていなかった。

「ご飯は?」

「少しだけ食べる」



 手に、おにぎりを持たされる。

 もう片手には、ストローの付いた紙コップ。 

 説明では、おみそ汁が入っているらしい。

 おにぎりをかじり、ストローへ口に付ける。

 ぬるい、火傷をしないくらいの熱さ。

 おにぎりの具には、細かく刻んだ牛肉が入っていた。

「ナスを煮たのがあるけど」

「少しだけ」

 手に持たされるレンゲ。

 さすがにこれの感覚は間違えず、それでも慎重に口元へ運ぶ。

 ナス独特の触感と、カツオのダシ。

 味は分かる。

 無論、美味しいとも。

 でも、何か味気ない。

 見えていない事が、こんな所にまで関わってくるとは思ってなかった。

「サラダは?」

「もういい。お茶ちょうだい」

 肌で感じる、物言いたげな空気。

 だけど食欲は無いし、これ以上食べても変わらない。

 せいぜい栄養をとるために、最低限口にすればいいだけだ。

「気を付けて」

 さっきとは違う、やや大きめの紙コップ。

 下から支えられる手。

 その事に、意味もなく苛立ちつつ紙コップを受け取る。

 自分は病人でも何でもない。

 ただ、目が見えないだけの事だ。

 気を遣われる事が、逆に心を荒れさせる。

 身勝手な発想。

 自分でも嫌になる気分。

「もう、寝る」



 階段は上がらず、リビングの隣にある部屋へ寝かされる。

 そう思ったのはリビングと自分が思っていた場所から、少し動いただけだったので。

「寝にくいなら、部屋に戻る?」

「いい」

 多分、ベッドの上。

 声がするのは、その下。

 おそらくお母さんは、布団を敷いているのだろう。

「何かあったら、すぐ呼ぶのよ」

「分かった」

 短く返し、横を向く。

 目の回りに感じる違和感。

 ガーゼや眼帯が、頭とベッドに圧迫されているためだ。  

 仕方ないので仰向けになり、体勢を変える。

「時計。腕時計は」

「ちょっと待って」

 腕に巻かれる感触。

 手探りでボタンを押し、時刻を確かめる。

 やはり、思っていたのとは違う時間。

 寝るには、かなり早いだろう。

 自分が、眠いのかどうかも分からない。

 今、起きているかどうかも。

 何をやっているかさえ。



 目が覚めたのか。

 ずっと起きていたのか。

 腕時計を耳元に当て、時間を確認する。

 完全な真夜中。

 微かに聞こえる寝息。

 それ程広くない家だし、間取りは分かっている。

 壁伝いに動けば、何とかなるはずだ。

 慎重に足を動かし、床に足を付ける。

 立ち上がるのは怖いので、少しずつ体を下げて床にしゃがむ。

 当たり前だが何も見えず、どこに何があるかも分からない。

 取りあえず四つんばいになり、手探りで前に進む。 

「痛っ」

 額に走る、鈍い痛み。

 予想外に、壁が側にあった。 

 いや。壁ではなく、何かの棚だろうか。

「どうしたのっ」

 焦り気味の声。

「優?」

 少し落ち着いた、お父さんの声。

 お母さんはため息を付き、もう一度声を掛けてきた。

「何か欲しいの?」

「トイレ」

 短く答え、今頭を打った何か伝いに立ち上がろうとする。

 しかし手応えが不安定なので、すぐに止めてベッドにもたれる。

「お母さん。連れて行って上げて」

「ええ。ほら、掴まって」

 掴まれる両手。

 怒る事もなく、嫌がる事もなく。

 逆にそれが、自分を苛んでいく。

「ゆっくり歩くわよ」

「分かった」

 言われるまでもなく、自分はゆっくり歩く以外にない。

 それこそすり足で、少しずつ。

 手を前に出し、障害物がないか確かめながら。

 人に頼って。

 自分では何も出来ないまま。

 迷惑ばかりを掛けて。



 朝。

 そうと分かるのは、腕時計が時間を告げるから。

 朝日も夕暮れも、何も見えてはいない。 

 時間の感覚は既に無く、食欲もない。

「優。病院へ行くよ」

 近くでささやくお父さん。

 病院、か。 

 行ってすぐに治る訳ではないにしろ、行くより他は無い。 

 手に持たされた食事を義務的に食べ、半分以上残す。

 もったいないとか、申し訳ないという気分も薄れていく。

 何より、喉を通らない。



 微かな車の揺れが、気分の悪さを助長させる。

 窓から吹き込む冷たい風。

 風に流されるクラッシック。

 だるい腕を上げ、眼帯を少しずらす。

 回りがうるさいので、本当は触りたくない。

 それでもこめかみの辺りが痛くなったので、仕方なく。

「優、どうかした?」

 思った通り、不安げに聞いてくるお母さん。 

 すぐに首を振り、眼帯が圧迫している事を簡潔に告げる。

「気になるなら、先生に聞いた方が良いわね。無くても構わないように思えるんだけど」

「どうでもいい」

 適当に答え、背もたれに崩れる。

 気分の悪さと気だるさ。

 苛立ちと焦り。

 今すぐに治る事はない。

 言ってしまえば、いつ治るかすらも分からない。

 眼帯がどうだろうと関係ない。 

 それこそ、何もかもが。


 手すり伝いにスロープを登ってエレベーターに乗る。

 患者か見舞客の話し声。

 何でもない、ただの世間話。

 意味もない、関係もない。

 それが妙に気分を苛立たせる。

 眼科の階への到着を告げるエレベーター。

 お母さんの腕を借り、慎重に降りていく。 

 背中に聞こえる笑い声。

 ただ笑っただけ。

 何故か自分が笑われたような感覚に襲われる。

 壁へ拳をぶつけたくなる衝動に駆られ、深呼吸を繰り返す。

 自分が笑われた訳ではないし、第一壁がどこにあるかも分かってない。

 ここに眼科があるかすらも。

 そう聞いたから。エレベーターがそう告げたから、判断しているだけで。


 すり足でゆっくりと進み、ソファーに座らされる。

 アナウンスと呼び出し。

 呼ばれない、自分の名前。

 予約を入れているはずなので、まだその時間になっていないのだろうか。

 すぐに時計で、時刻を確かめる。

 聞いていた時間を、やや過ぎた所。

 前の患者が長引いているのか、急患でもいるのか。

 ただ、別に急ぐ用事もない。

 家で寝ているか、ここで座っているかの違いだけだ。

 何がどうだって、関係ない。


 少しして、診察室へと通される。

 外される眼帯とガーゼ。

 圧迫感が薄れ、目元が軽くなる。

「目を開けて下さい」

 言われるまま、瞼を上げる。 

 だけど、何も変わらない。 

 どこまでも続く闇。

 その向こうには、何もない。

「CTで異常は見られませんでしたし、造影剤で血管を見てみましたがやはり問題はありません。有機リン酸の中毒で、神経の伝達物質が遮断されてるんでしょうね」 

 断言はしない医師。

 原因はどうだっていい。

 結局自分の目は見えないままで、それは変わらない。

 延々と続く説明も、他人事のようにしか聞こえない。

「じゃあ、目薬を差しましょうか。ベッドに寝てもらえますか」

 左右から支えられ、足も持ち上げられて何かに寝かされる。

 胸の奥に沸き上がる、言いようのない不安と恐怖。 

 今から何をされるのか、突然怖くなった。

 ただ目薬を差されるだけの事。

 だけどこの状況では、それを素直に信じられない。

 大体ここは、本当に病院なのか。

 今自分の回りには、誰がいて何をしてるのか。

「優?」

 強ばっているのを察知して、声を掛けてくるお母さん。

 これが、スピーカー越しでないとは限らない。

「何」

 無機質に答え、それでも体を強ばらせる。

 自然と早くなる息。

 噴き出る汗。

「大丈夫ですよ。目薬を差すだけですから。少し、しみますからね」

「はい」 

 瞳に感じる冷たさ。

 微かな痛み。

 目と言うよりも、その奥の部分の。

 思わず目元に手を当て、体を丸める。

 痛さよりも、この嫌な感覚に。

「痛かったですか?」

「目の、奥が」

「瞳ではなく、視神経への薬ですからね。あまり痛むようなら、次からは緩和剤を使いますね」

 初めからと言いたかったが、馬鹿馬鹿しくて止めた。

 怒鳴って痛みが薄れる訳ではないし、今さら何をしたって始まらない。


 簡単な検査を幾つか受け、病院を後にする。

 あるのは安堵感ではなく、憂鬱な気持。

 明日もあの目薬を差され、検査を受ける。

 それでも、何も変わらない。

 嫌な繰り返しが、延々と続くだけで。

 いい事は何一つ無く、思いもつかない。

 いつまで経っても、それは変わらない。

 この先もきっと。


「何食べる?」

 隣で聞いてくるお母さん。

 開いた窓に流れる言葉。

 少しして、昼食の事を言っていると理解する。

「お腹、空いてない」

「また、そういう事言って。食べないと、良くならないわよ」

「そうだね」

 いい加減に答え、窓に手を掛け冷たい風を感じる。

 何がどうだって変わらない。

 やる事はなく、やれる事もない。

 自分で歩く事すら、出来もしない。

 何もかもに、意味がない。

「じゃあ、家に帰りましょうか」

「優、大丈夫?」

 やや不安げに尋ねてくるお父さん。

 やはり適当に答え、窓の外に顔を向ける。

 冷たい風だけを感じて。

 流れる景色を見る事もなく。

 惰性に身を任せ、時を過ごす。



 ソファーに寝転び、音楽を聴く。

 TVは意味がないし、雑誌も同様。

 大体、これ以外やる事がない。

 単調なポップス。

 すぐに切り替え、ジャズを聴く。

 意味は分からないが、下らない歌詞を聴かされるよりはいい。

 時間の感覚はなく、平衡感覚も薄い。

 寝ているのか、起きているのか。

 咄嗟に飛び起き、立ち上がる。

 しかしバランスを失い、あっさりと倒れる。

 慌てて手を伸ばし、掴む場所か付く場所を探す。

 不意に走る、指先の痛み。

 テーブルだと判断して、もう片手も付いて膝を下げる。

「くっ」

 予想とは違う距離感。

 肘が入り、肩にも痛みを感じる。

 付くというより、押し付けてしまった。

 思った以上に前へ出ていたのか、膝も打ったらしい。 

 慎重に後ろへ手をやり、ソファーの位置を確かめゆっくりと腰を下ろす。

 今度も距離感が掴めず、しゃがみ込んだら床に座っていた。

 当然目の前に、テーブルが近付く事になる。

 何も危ない物は無いが、今みたいに動いた拍子に打つ可能性はある。

 もう動くのを諦め、痛む場所を確かめる。

 膝は大した事はない。

 肩と肘も、痛みは薄れている。

 ただ、指と手首にしびれが残る。

 骨折や打撲という程ではないが、しばらく痛むのは間違いない。


「ユウ、どうしたの」

 不安気味な声。

 右側に感じる、人の気配。

 声質と腕に感じる髪の長さからして、サトミだろうか。

「学校は」

「早退したの。怪我?」

「大丈夫」 

 隠すように手を下ろし、顔を伏せる。

 どうしてソファーとテーブルの間に座っているか聞いて来そうなので、手を前にやってテーブルを掴む。

 後は腰を浮かせて、ソファーに座れば良いだけだ。

 しかし今度も距離感が分からず、すぐに諦める。

 間違って膝を打つか、ソファーに座れず腰を打つ可能性が思い浮かんだから。

「ほら、掴まって」

 伸びてくる腕。

 そこにしがみつき、もう片手を後ろで動かしソファーの位置を確かめる。

 ゆっくりと慎重に座り、息を付く。

 たかが、これだけの事。

 腰を浮かせて、座る。

 ただ、それだけ。

 そんな事すら出来ない自分。

 馬鹿馬鹿しいどころか、情けなさに笑えてくるくらいだ。

「お茶は?」

「いらない」

 すぐに断り、ヘッドフォンを耳へ戻す。

 話したい気分ではないし、話す事もない。

 今は自分の世界だけにこもっていたい。

 その方が、サトミ達も気楽だろう。


 退屈と苛立ち。

 何よりも不安と焦燥感。

 このまま、こうしていてどうなるのか。

 目の事も。

 勉強の事も。

 回りのと関係も。

 何もせずに、ただ人に頼るだけで。

 だけど結局は、自分の殻に閉じこもっている。

 それしか出来ないから。 

 そう言い訳をして、逃げている。 

 いいのか悪いのかなんて、考えたくもない。

 何もやりたくない。

 第一、何も出来ない。 

 もう、どうだっていい。



 揺すられる体。

 ヘッドフォンを外し、顔を動かす。 

 そこで、目が見えていない事に気付く。

 激しく打ちのめされた気分。

 普段なら、笑い飛ばす状況なのだろうが。

「ご飯よ」

 近くから、そう告げられる。

 誰なのかは、もう分かってない。

 ため息混じりに上体を起こし、少しそのままでじっとする。

 歩く事への不安と、立ちくらみを抑えるために。

 自然と手は、目元に触れる。 

 これはもう、意識するしないの問題ではない。

 朝まではまだ、周りの目が気になった。

 不用意に気を遣われるのが嫌で、それが煩わしかった。

 でも今は、そんな事を気にしている余裕がない。

 病院でのあの痛みから、何かが変わった。

 ただ目が見えないだけ。

 心のどこかで、すぐに治ると思っていた。

 検査と薬を飲むだけで、大した事は無いとも。

 実際あの目薬が、それ程痛い訳ではない。

 普段なら、十分に我慢出来る程度。


 だけどあれは、目の奥。

 自分ですら触れるはずのない、深く大切な場所。

 そこにいきなり、土足で上がられたような気分。

 加えて、あの神経を苛つかせる感覚。

 自分でも、叫び出さなかったのが不思議なくらいだ。

 そして明日もまた、あの苦痛を味わう。

 鬱々とした、やるせない気持。

 何がどうなって、こういう事になったのか。

 単なる、自分の不注意が招いた結果だろう。

 慌てて準備室に戻る必要はなかった。

 強制排気はされていて、彼女の上に薬品が落ちてくる心配もなかった。 

 それを下らない自己犠牲を発揮して、この様になっている。

 つまりは自分が悪い。

 ただ、それでしかない。


 変わらない、味気ない食事。

 美味しいには美味しいのだろう。

 少なくとも好きな物が揃っているし、不満はない。

 今は、味なんてどうでもいいが。

 倒れない程度に食べて、水分を摂る。

 回りから、あれこれ言われない程度に。

「お茶は?」

「少し」

 飲みたくもないお茶を飲み、食べかけのおにぎりを皿に置く。

 自分では置いたつもりだが、実際にどこへ置いたかは分からない。

 テーブルの下には落としていないとしか。

「もういい」

 短く告げ、ティッシュで口を拭く。

 肌で感じる、物言いたげな空気。

 目が見えなくても。 

 いや。目が見えない分、そういった事は敏感に感じる。

 それとも、自分でそう思い込んでいるだけだろうか。

 どちらにしろこれ以上食べる気はしないし、喉も通らない。

「はい、薬」

 手渡される錠剤とカプセル。

 病院でのあの痛みを一瞬思い出し、それを強く握り締める。

 だがすぐにこれは違うと思い返し、口に運んで水で流し込む。

 何に効くのかは、聞いた気もするが覚えていない。

 昨日と体調は変わっていないので、効き目もよくは分からない。

 顔を伏せ、目元を手で覆う。

 これで痛みや不快感が和らぐ訳ではない。

 それでも自然と、この仕草をしてしまう。

 嫌な癖。

 しかし、止める事は出来ない。

 この痛みと不快感が続く限り。

 いつ終わるとも知れない、この感覚がある限りは。



 湯船に浸かり、ため息を付く。

 さながら、暗闇の中で入っているような物。

 どこまでも続く深い闇。

 自分はその中で、小さくなって座っている。

 明かりはどこからも差し込まない。

 幾つかの声が聞こえはするが。

 実際に闇は、どこにあるのだろうか。

 外に。

 それとも、自分の内側に。

 心の奥。 

 あの目薬でかき回された、自分の奥底に。

 浴槽の縁に手を付き、立ち上がる。

 やはり立ちくらみを抑えるために、ゆっくりと。

「もう出るの?」

 くぐもった誰かの声。

 小さく頷き、慎重に手を動かす。

 倒れる事はないだろうが、裸なので打った時が怖い。

 それは分かっているのか、すぐに腕が掴まれる。

「段があるから、ゆっくりね」

 足が持ち上げられる感覚。

 つま先が段に触れ、その上へと乗せられる。

 今までは気にもしてなかった高さ。

 今となっては、邪魔で仕方がない存在。

 バスタオルを被せられ、取りあえず頭を拭く。

 着替えは手伝ってもらう程ではなく、渡された物をそのまま身に付ける。

 下着と、おそらくはパジャマ。 

 ボタンではなく、頭から被るだけの物。

 面倒ではないが、自分でも馬鹿馬鹿しくなってくる。

 この程度の事も出来ないと思われている自分。

 また実際に、出来るはずもない。

 何がどこになるかは分からないし、間違っても確かめようがない。

 言われたままの事をして、それにただ従うしかない。



 何もやる事が無いので、やはりヘッドフォンを耳に当てる。

 聞き慣れたというより、聞き飽きた曲。

 今日聞いたのか、昨日聞いたのか。

 本当は、もっと前に聞いたのかも知れない。

 しかしつい苛立って、曲を変える。

 今度は聞いた事もない、聞き慣れない曲。

 これにも苛立ちを覚え、曲を変える。

 要は曲の問題ではなく、自分の精神状態だ。

 苛立ちと怒り。

 思うようにならない状況。

 先の見えない現状。

 何も出来ず、やろうともしない。

 チャンネルを替え、オンライン授業を聞く。

 視覚障害者用の番組で、事細かに内容が説明される。

 分からなければ別チャンネルで、補足説明を聞く。

 しかし結局聞く気になれず、クラッシックに変えて体を横たえる。

 スローなリズムと落ち着いた曲調。 

 多少は気分が楽になる。


 寝たのか起きていたのか。 

 やはり分からないまま、上体を起こす。

 ヘッドフォンを外すが、周囲に音は聞かれない。

 手を下に当てると、ソファーよりも固い弾力が伝わってきた。

 はっきりとしないが、ベッドに運ばれたらしい。

 時計を耳元に当て、深夜だと分かる。

 当たり前だが、人は寝る時間。

 私は眠いのかどうかも分からない。

 今まで視覚に頼っていた分、余計に。

 こうして起きているから、多分眠くはない。

 そう勝手に判断し、もう少し手を動かす。 

 指に当たる、ペットボトル。

 どうにか引き寄せ、フタを開けて慎重に匂いを確かめる。

 間違いなく、お茶の匂い。

 それでも恐る恐る口を付け、味を確認してから喉を通す。


 体を動かし、壁に背をもたれる。

 昼間以上の不安。

 孤独感、疎外感。

 実際自分の回りには、何もない。

 目に見えていないだけで、こう思うのか。

 それとも、元々こうだったのか。

 暗い闇の中に、一人いる気分。

 どこまでも続く、深い暗闇。

 いつまでも、どこまでも。

 上も下も、右も左も。

 見渡す限りの暗闇。

 実際には何も見えていないので、そのままだが。

 心の奥を強く握りつぶされたような感覚。

 一気に噴き出る汗。

 苦しくなる息。

 胸元を押さえ、深呼吸を繰り返す。

 少しだけ収まる、息苦しさ。

 不安と恐怖は、しかし消え去らない。

 すぐにタオルケットを被り、横になって膝を抱える。

 全身の震え。 

 悪寒。

 今はただ、夜が明けるのを待つしかない。

 この暗闇が消え去るのを。

 今はただ、願うしか。






  







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