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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第24話
268/596

24-6






     24-6




 机に伏せて、ため息を付く。

 はっきりしない思考、重い気分。

 何もやる気がせず、動きたくもない。

「大丈夫?」

「え」 

 顔を上げ、サトミと目を合わせる。

 心配そうな視線を避け、もう一度伏せる。

 今は話す気力もなく、何もしたくない。

「ちょっと」

 軽く揺すられる肩。

 手を振って、それを止めさせる。

「顔上げなさい」 

 ややきつい口調。

 仕方なく顔を上げ、もう一度ため息を付く。

 険しい視線。

 伸びてくる手。  

 それをぼんやりと眺め、視線を上げる。

「熱があるじゃない」

 頬ではなく、額に当てられる手。

 彼女は私の筆記用具をリュックに詰め、席を立たせた。

「早退します」

 そう宣言し、追い立ててくるサトミ。

 こちらはただそれを、ぼんやりと眺める。

「大丈夫?」

「何が」

「もういい。ショウ、早く送って」



 気付くと、家の前にいた。

 途中の記憶が、殆ど無い。

 寝てたのか、どうしてたのか。

 それ以前に、どうしてここにいるのか。

「あら。どうしたの」

 玄関から出てくるお母さん。 

 ショウは小さな紙袋を渡して、何か言っている。

「風邪。まだ冬にもなってないのに。流行の先端を行ってるわね」

 良く分からないが、笑っている。 

 笑ってるからには、おかしいんだろう。

「優、大丈夫?学校から、この調子?」

「ええ。じゃ、俺は学校に戻るから」

「わざわざ悪かったわね。お茶くらい、飲んでいったら」


 ベッドに潜り、天井を見つめる。

 少しクリームがかった、昔から見慣れた眺め。

 子供の頃から見続けた、そして今もこうして。

 壁越しに聞こえる笑い声。

 下では、お母さん達が楽しんでいるようだ。

 自分は思考もまとまらなく、動く気力もない。 

 このままずっとこの状態が続くと思うくらいのだるさ。

 無論今までの経験上、そんな事はない。

 二三日すれば学校にも戻り、今までと同じ生活を過ごすのは。


 理由を考える。

 学校に行って、机に伏せた。

 いや。それは今日の事か。

 昨日は、確か訓練があって。

 訓練があって、疲れた。

 今も、まだだるい。


 ……少し寝ていたようだ。

 薬が効いたせいか、だるさはちょっとだけ抜けた。

 窓から見える、向かいの家の木。

 常緑樹なのか、青い葉が風に揺れている。

 寒そうな眺め。

 窓の、外の。

 ここでようやく、理由に気付く。

 昨日の夜、寮を出てしばらくの間外にいた。

 思っていたよりも寒く、また薄着だったかも知れない。

 今頃気付いても遅い話だけど。

 体を起こし、回りを見渡す。

 机に置かれたペットボトル。

 近いが、今は遠い距離。

 意を決してベッドを抜け出し、机まで辿り着く。

 きしむ関節、痛む筋肉。

 風邪と言うより、インフルエンザだろうか。

「ふぅ」 

 お茶を飲んで、一息付く。

 火照った体に気持ちいい冷たさ。

 もう一口含み、ペットボトルを持ってベッドに戻る。



「おかゆ食べる?」

 部屋に入ってくるお母さん。

 その声で、目を覚ます。

「え」

「おかゆ。うどんでもいいけど」

「じゃあ、おかゆ。少しだけ」

「持ってくるから、寝てなさい」


 ローテーブルに置かれる土鍋。

 中はおかゆと、赤い梅干し。

 添えられたそぼろを少しだけつまみ、レンゲを口に運ぶ。 

 鼻が詰まってるので、味は良く分からない。

 熱いとか、塩辛いくらいしか。

「ショウ君、帰ったわよ」

「え、誰が」

「こっちの話。リンゴすろうか」

 首を振り、お茶で口をすすいでベッドに戻る。

 正直食欲はなく、何を食べたいとも思わない。

 今も作ってくれたから食べただけで、言われなかったらそのまま寝ていた。

 後は、食べなければもたないと分かっているから。

「お父さん、帰りにアイス買ってくるって」

「うん」

「もう少し寝てなさい。後で、また起こすから」



 暗い室内。

 微かに灯る、天井の照明。

 自分で点けた記憶はない。

 おそらくは、お母さんがやってくれたんだろう。

 窓の外はもう暗闇に覆われ、時折通っていく車のヘッドライトが時折輝くくらい。

 部屋の中は静寂そのもの。

 物音も、動きも何もない。

 私という存在がある以外は、何も。

 いや。私自体どうなのか。

 自分でも馬鹿げたと思う考え。

 しかし、完全に否定も仕切れない。

 自分の価値、存在する意味。

 考えても仕方ないのは分かっている。

 分かっていても、考えてしまう。

 熱のせい。

 それとも、根本的な悩み。

 理由は分からない。

 ただ、考えだけが脳裏を巡る。

 何を考えてるのかも分からないまま、考え続ける。



 多分濃厚だろう、バニラアイス。

 それを少し口に運び、喉に流し込む。

 やはり味は分からず、冷たさだけが口の中に広がる。

「薬は飲んでる?」

 優しく尋ねてくるお父さん。

 その意味が初めは分からず、視線をかわす。

 指を指される時計と紙袋。

「優、薬の時間はいい?」

「え。ああ、どうかな」

 紙袋をチェックして、時間を確かめる。

 普通の薬同様、食後の服用とある。 

 カプセルと錠剤が一つずつ。

 しかし風邪の特効薬など存在しないため、あくまでも症状を抑えるもの。

 取りあえずそれを飲み、体温を測る。

 食後のせいもあるが、未だに高め。

 じっとしているだけで、汗が出てくる。

「汗拭きなさい。シャワー行ってきて」

「なに?」

「シャワー。ぬるいのを、ゆっくりと」



 すっきりしたのは一瞬だけ。

 ベッドに入り少し経つと、すぐに汗が出てくる。

 ただ暑いからといって、ベッドを抜け出しては意味がない。

 お茶を飲むのもだるい。

 喉は渇いているが、飲みたくない気分。

 しかし汗を掻いている分、水分を摂る必要はある。

 仕方なくお茶を含み、喉を通す。

 痛みがないため、飲む事自体に苦痛はない。

 全ては義務と作業。

 やらなければならないという、ただその考えだけ。

 照明を落とし、軽めのBGMを掛けて目を閉じる。

 少しだけ楽になる気分。

 あくまでも精神的に。

 実際に体は重く、何もしたくない状態。

 それでも深呼吸を繰り返し、リラックスを促す。



 ふと、目が覚める。

 時計を見ると、日付を越えていた。

 さっきから、この繰り返し。

 一旦シャツを脱ぎ、汗を拭いて替えに着替える。

 椅子の背もたれに掛けられた何枚ものタオルとTシャツ。

 何気なく、窓の外を見る。

 昔と変わらない眺め。

 若干とはいえ背が高くなった分、少しは違うだろうが。

 変わったのは行動。

 いや。考え方か。

 昔は今以上に気楽で、場当たり的だった。

 やりたいようにやって、好きなように生きていた。

 子供だから、という一言で片付けるのは簡単だけど。


 人の中で生きる分、制約は多い。

 年を取った分、思考も変化する。

 それが、いい事なのかどうか。

 分かる訳もないし、分かる人がいるだろうか。

 今の自分には、余計に。



 窓から差し込む日射し。

 あのまま、カーテンを閉め忘れていたらしい。

 重い体を動かし、もう一度窓の外を見る。

 屋根に集う雀の群れ。

 可愛らしい姿と鳴き声。

 朝の白い日射しに映える光景。

 今の自分には、やや眩しい眺め。

 日差しを避けて、ゆっくりとベッドに戻る。

 その上でTシャツを着替え、椅子に掛かっている分も抱える。


「私がやるから、寝てなさい」

「え」

「いいから。取りあえず、ソファーで寝てて」

 持って行かれるTシャツとタオル。

 意味が分からないまま、床にしゃがむ。

 いや。ソファーかも知れない。

 何となく腕を額に当て、仰向けになる。

 あくまでも、昨日よりはいいというくらいの状態。

 学校どころか、外へ行く気にもなれない。

「調子悪いなら、もう一度病院へ行く?」

「いやだ」

「言うと思った」

 テーブルに置かれる小さな土鍋。

 細いうどんと、ちぎられた梅干しにねぎ。

 それを少しずつすすり、食べ終える。

「薬」

「え」

「食後に飲むんでしょ」

 今度は、グラスとカプセルを渡される。

 ここでようやくその意味に気付き、薬を喉に通す。 

「果物は」

「いらない」

 お茶を飲んで、ため息を付く。

 何もしたくないし、何もいらない。

 何も出来ない。

 ただ憂鬱な思いだけが募っていく。



 気付くとお昼のニュースを見ていた。

 そしてグラスに薬。

 同じ事の繰り返し。

 でもこれが、今までの生活とどう違うのか。

 結局今までも同じ事の繰り返し。

 ただ、それに気付かないだけの。

 同じ事を繰り返し、単調に生き、日々が終わっていく。

 不満も何もない。

 ただ毎日を生きているだけで。

 何も出来ず、何をする事もなく。

 そこにいるだけの自分。

「優」

 自分がいる意味。

「優」

「え」

「薬飲まないの」

「え、ああ。飲む」

 慌てて。

 しかしそれはあくまでも、気分的に。

 実際はのろのろと薬へ手を伸ばし、水で飲み込む。

「本当に大丈夫?」

「何が」

「いい。ちょっと来なさい」



 消毒の匂いと白い壁。

 見られない器具と白衣の女性。

 あまり馴染みたくない場所であり、光景。

「昨日の詳細な検査結果も出ましたが、特におかしな点はないですね。ちょっと熱が高いし、そのせいだと思います。点滴を打ちましょうか」

「いやだ」

 小声で答え、ため息を付く。

 白衣姿の女性はおかしそうに笑い、私の顔を下から覗き込んだ。

「それとも、学校で嫌な事でもあるとか」

「誰が」

 身を引く女性。 

 血の気の引いた顔。 

 床に落ちるペンライト。

「ちょっと、優。先生、大丈夫ですか」

 私を見つつ、焦り気味に尋ねるお母さん。

 女性はペンライトを拾い上げ、苦笑気味に手を振った。

「いえ。大丈夫です。一度、カウンセリングを」

「嫌だって言ってるでしょ」 

 もう一度低い声で答え、壁に手を付きドアへ向かう。

 女性は素早く前に回り込み、私の肩に手を置いた。

「落ち着いて。別に話したくない事を聞く訳じゃないの。ただ、今はちょっと気分が不安定みたいだから。……いじめられでも」

「あ」 

 床へ沈み込み、肩に置かれた手を空かして後ろに下がる。

 今度は少し前に出て、前方宙返りで女性を飛び越え腕を振る。

 そのつもりだったが、飛び越えた所で床に転がった。 

 全く体がついて行ってない。

 あるのは、空回りする自分だけだ。

「先生?」

「あ、私は大丈夫です。どうやら、そういう問題じゃないみたいなので」

「え、ええ。ちょっと、優」

「大丈夫だって」

 ベッドの手すりを伝って立ち上がり、ドアを開けて外に出る。

 とにかく今は、ここに一秒だっていたくない。


 勿論家に戻ったからといって、何が解決する訳でもない。

 痛い所を付かれた記憶が消える事も。

 余計重くなる気分。

 薬が効いてきたのか、体は多少楽になっている。

 そのために、考えなくてもいい事まで考えてしまう。

 昨日までよりもより詳細に、より長く。

 無為に過ぎていく時。

 何のためにいるのかも分からない。

 ただここにいるだけの自分。



 翌日。

 着替えを済ませ、玄関へと降りてくる。

「大丈夫?」

「ちょっと書類を出してくるだけ。熱も下がったし」

「そんなの、私が行くのに」

 玄関先で小首を傾げるお母さん。

 構わずリュックを背負い直し、小さく手を振る。

 明るい日射し。

 朝よりは暖かい気候。 

 コートの前を合わせ、道を行く。

 通勤や通学時間は過ぎているため、歩いてる人は殆どいない。


 人のいないバス。

 自分と親子連れと、運転手さんくらい。

 流れていく見慣れた景色。

 見えてくる学校。

 それをぼんやりと見つつ、頬杖を付く。

「お客さん。いいんですか」

 どこからか聞こえるアナウンス。 

 顔を上げると、バックミラー越しに運転手さんがこちらを見ていた。

「あ、降ります」

 のろのろと席を立ち、バスを降りる。

 バス停で、少し待っていてくれたらしい。

「どうも」

 運転手さんに言ったつもりだが、バスはすでに走り去った後。

 ただ、申し訳程度にクラクションが鳴らされた。


 バス停から正門までは、どれだけもない。

 普段はそう思っていた。

 風邪のだるさは抜けたが、動いてなかった分体が重い。

 ここはさすがに、人が多い。

 生徒、職員、出入りの業者。

 彼等に追い抜かれながら、塀伝いにゆっくりと歩く。 

 急げないし、第一急ぐ理由もない。

 診断書を出し、補習の振り替えをしてもらうだけの事。

 今日やらなくてもいい、やる必要すら分からない。


 正門をくぐり、木陰の下にあるベンチで一旦休む。

 持ってきたペットボトルでお茶を飲み、歩いていく人達を眺める。

 楽しげな笑顔、忙しそうな足取り。

 目的を持った表情。

 私には関係のない事だ。

 書類を提出する生徒課は、少し遠い。

 今さら、ここに来たのを後悔する。

 誰か知り合いにでも頼んで、届けてもらった方が……。



 足早に歩く何人かの女性。

 その前にいる、大柄な女の子と小柄な女の子。

 明らかに揉めている様子。


 地面を蹴り、宙に舞って回転しつつかかとを落とす。

 着地様足を払い、倒立気味に立ち上がって顎を蹴る。

 ばたばたと地面に倒れる女達。

 私もバランスを失い、その上に崩れ落ちる。

「先輩っ」

「雪野さんっ」

「え」

 顔を上げると、神代さんと渡瀬さんが心配した表情で見下ろしていた。

 どうしてかは、良く分からない。

 自分が、何をやったかも。

「風邪引いてたんじゃ」

「え?ああ、そう。補習の振り替えで、診断書持ってきた」

「大丈夫ですか?」

「何が」

 軽く手足に触れ、怪我がない事を再確認する。

 痛みはない。

 あるのはだるさと重さくらいか。

「それより、これは誰」

「さあ。聞く前に雪野さんが倒したので」

「あ、そう。……まさか、友達って言わないよね」

「そういう雰囲気では無かった」

 否定する神代さん。

 だったら大丈夫か。

 とにかく深くは考えられないので、納得した気になって立ち上がる。

「手、手貸して」

「あ、はい」

「軽いですね」

 二人に引っ張り上げられ、ちょっと足を動かす。

 だるさが抜けない分、不安定さが増すから。

 今の動きで、はっきり言えば立っているのも辛い状態。

「これ、生徒課に届けて」

「あ、うん。先輩は、どうするの」

「帰る。風邪だし」

「はぁ」

 背中に感じる二人の視線。

 それに構わず、よろめき気味に正門へ向かう。 

 自分でも何をやっているのか分からないままに。



 家に戻り、すぐに休む。

 さっきよりも、少し熱が出てきたようだ。

 分からない自分の行動。

 自分の意思。

 何のために。 

 眠って、目を覚まし。

 その間に、色々と考える。

 考えるだけで、何も進まない。

 同じ問い、同じ考え、また同じ問いに戻る。

 自分でも、何を考えてるのか分からないまま。



 部屋に差し込む白い日射し。

 体を起こし、窓を開けて冷たい風を呼び込む。

 完調とは行かないが、動くには問題のない程度。

 向かいの屋根に止まっている雀に指を指し、跳んでいく姿を目で追っていく。

 手早く着替えを済ませ、階段を下りてリビングへとやってくる。

「優、どうしたの」

「学校に行く。治ったから」

「もう一度、病院へ行ってからにしなさい」

 無慈悲な言葉。

 仕方なく一旦部屋まで戻り、チェックシートを持って戻る。

「病院嫌い」

「好きな人はいません。それと、ちゃんと謝るのよ」

「誰に。お母さんに?」

「まだ、熱でもあるの?」

 額に当てられる小さな手。

 お母さんは小首を傾げ、自分の額にも手をやった。

「私があるのかな。とにかく、先生に謝って」

「分かんないけど、謝ればいいの?」

「いいの。それと、もう飛び跳ねたりしないでよ」



 診察室に入り、頭を下げる。

 お願いしますという意味と。

「済みませんでした」 

 という言葉を添えて。

 女医さんは怪訝そうに私を見上げ、すぐに小さく頷いた。

「ああ。この間の子。大分顔色も良くなったわね」

「ええ、まあ。学校へ行きたいんですけど」

「チェックシート見せてね。……運動をしないなら、行ってもいいわよ。飛び跳ねたりしないなら」

 さっきから、やたらとこの言葉が出てくるな。

 子供じゃないんだから、この年で飛び跳ねるなんて真似はする訳がない。  

「学校では、どう?」

 何気ない、しかし妙に緊迫感をはらんだ口調。

 どうと言われてもこちらとしては、答えようがない。

「最近、変わった事があったとか。友達に何かあったとか」

 多少分かりやすくなる質問。 

 ただ彼女の表情は、より厳しさを増す。

「別に。揉めてるような事もあるけど、それは今に始まった話じゃないし。特に、気にする程でも」

「本当に?」

 何故か椅子を引く女医さん。

 自分の方が、どうかしてるんじゃないの。

「ええ。私、この前何か言ってました?」

「いえ。ただあなたくらいの年齢だと、そういう生活面でのトラブルが精神に強い影響を及ぼすから。だから学校に、わざわざカウンセラーが常駐してる訳」

「はあ。でも私は、そこまで繊細なタイプではないので」

「そう。じゃあ、学校へは行っていいわ。でもさっき言ったように、無理はしない事。それと、今の話。忘れないでね」



 教室の前まで来ると、丁度チャイムが鳴った。

 出てくる生徒の流れを避け、壁に下がってやり過ごす。

 私に気を払う人はなく、知り合いの姿もない。

「あら。あなた、どうしたの」

 ポイント用の細長い棒を振ってくる、タイピングの教師。

 それも避けようと思ったが、無理はしたくないので頬を突かれる。

 あくまでも柔らかく、触れたか触れないかのタッチで。

「避けないの?大丈夫?」

「風邪引いてるので、動きたくないんです」

「だったら、家なり寮で寝てなさい。それと、鼻出てるわよ」

「嘘ばっかり」

 胸元に放られるポケットティッシュ。

 後ろ向きのまま手を振り去っていく教師。

 その背中を見つめつつ、鼻をかむ。

 たまには親切な時もあるようだ。

「ユウ。来てたの」 

 早足で近付いてくるサトミ。

 伸びてきた彼女の手に指を絡め、軽く頷く。

「この前よりは良さそうね。お見舞いに行こうかと思ったけど、おばさんがいいって言ったから」

「ちょっと、ぐったりしてて。ずっと寝てた」

「そう言われれば、少し顔色が悪いわね。座った方がいいのかしら」

「だと、助かる」 

 彼女へ寄り掛かり気味に、廊下を歩く。

 最近会ってなかった事の反動と、単純に足元がおぼつかないために。

「ショウは?」

「機材を運んでる。さっきの授業で使った物を」

「また、あの子は。たまには、自分のために動いたらどうなのかな」

「そういう性格なのよ。あれは、直るとか直らないの問題ではないわね」


 とりとめのない話をしている内に、移動先の教室へとやって来た。

 薬の匂いと、白い壁。 

 ふと甦る、嫌な感覚。

「どうかした?」

「いや。これって、理科の授業だった?」

「ええ。しばらくは、実験をやるみたいね。あなた、そういう選択授業取ってたでしょ」

「あれは授業というか、遊びの延長みたいなものだから」

 取りあえず後ろの方にある、備え付けのテーブルに付く。

 黒塗りの、おそらくは化学処理してある表面。

 壁際には棚がいくつかあり、簡単な実験道具が並んでいる。

「解剖とかじゃないよね」

「もしそうなら、誰もここに来ないわよ」

 苦笑するサトミ。

 その言葉を裏付けるように、楽しそうな笑顔を浮かべたクラスメート達が実験室へと入ってくる。

 確かに今から何かを解剖するのに、あの雰囲気はないだろう。

 解剖するのにあれだけはしゃいでいるなら、私は窓からでも逃げ出すが。

「ケイは」

「昨日からいないわよ。あの子は風邪じゃなくて、どこかへ行ったみたいだけど」

「失踪したの?」

「それとも、年老いた猫みたいに死に場所を探しに行ったんじゃなくて」

 物騒な発言。 

 しかし噂をすればではないが、そのケイがだるそうにやってきた。

「風邪じゃないの」

「治ったのよ。自分こそ、何してるの」

「色々とね。本当、俺も何をやってるんだか」

 一人で愚痴るケイ。

 意味が分からないし、言いそうにもないので放っておく。

 大体、この子に構ってる暇はない。


「ちょっと、痩せたか?」

「大袈裟ね」

「何か、小さくなったような気がする」

「これ以上小さくなってどうするの」

 やや高い位置にある肩へ触れ、くすくすと笑う。

 ショウもはにかんだように笑って、腰を屈めて目線を合わせてきた。

「あんまり、無理するなよ。どうしてやる事がある訳でもないんだから」

「頼りにされないってのも、あれじゃない」

「倒れられるよりはましって事だ。その、あれ。えと、さ。俺を頼ってもいいんだし」

「馬鹿」

 彼の鳩尾に拳を当てる。

 そっと、優しく。

 彼の思いやりの分、温かさの分だけ。

 そして何より、自分の思いを込めて。



 お昼なので、食堂にやってくる。

 食欲はそれ程無いが、食べない事には始まらない。

 精神的にも、今は体調面からも。

「ちょっと、いまいちだな」

 おそらく、お米からちゃんと煮てつくっただろうおかゆ。

 ただ分量や熱の通し方は、それ程細やかではないはず。

 病人用ではなく、中華粥などの流用品のはず。

 それが悪いという訳ではなく、またこれ自体も出来は悪くない。

 しかしこの間食べた。

 お母さんが作ってくれたおかゆとは、何かが違う。

 あの時は鼻も詰まって、味も何も分からなかったけど。

 やはり食事は誰のために、何を思って作るかが大切だ。

「変なの食べてるな」

 奇異な目でおかゆを見てくるケイ。

 別に変ではないと思うが、カツ丼を食べてる人からすればそう見えるのかも知れない。

「まずくはないよ。食べる?」

「そういうのは、俺の食生活には含まれてない。第一、病人じゃないんだし。って、おい」

「え?」

 トレイを持って、彼の隣りに座るショウ。

 土鍋にレンゲ。

 湯気に梅干し。

 白くて柔らかそうな、よく煮込まれたおかゆ。

「真似をするな。お前は子供か」

「いいだろ。……まず」

「馬鹿」

 鼻で笑うサトミ。

 ちなみに彼女は、新そばを美味しそうにすすっている。

「まずいというか、何かもう一つ足りないな」

 私と同じような感想を漏らすショウ。

 塩味が足りないとか言われたら、かなり困るが。

「こうなんて言うのか。母さんが作るのとは違う気がする」

「じゃあ、ママに作ってもらえ。リンゴもすってもらえ」

「そういう事じゃない」

「だったら、どういう事なんだ」

 押し黙るショウ。

 ケイは冷たい目で彼を見つつ、カツ丼を掻き込んだ。

 自分こそぼろぼろこぼすから、よだれ拭きでもしたらどうだ。

「そうだよね。私も、何か違うと思う。お母さんが作ったのと」

「だろ。何が違うのかな」

「愛情じゃないの、愛情」

 蒸せ返すショウ。

 何も、そんな変な事を言った気はないけどな。

「あ、あのな」

「どうかした?」

「い、いや。俺がおかしいのかな」

「あなた、まだ熱があるの」

 額に手を当ててくるサトミ。

 何も、そこまでおかしな事は言ってない。

 最近の言動を振り返ると、断言は出来ないが。



 授業を終え、オフィスへとやってくる。

 今日は、完全に見学。

 今までも大した事はやってなかったけど、今日は実際に何も出来ない。

 せいぜい、書類をめくるとかテーブルの上を整理するくらいで。

 やる事もなくなってきたので、スティックをばらしてパーツを磨く。

 中には私の手出し出来ない精密な機器も含まれているため、その辺りはノータッチで。

 しかし、これの支払いは一体いつになったら終わるんだろう。

 ショウが支払い始めたのは、これを作った時から。

 つまりは、中1の頃。

 それに気付いて私も最近支払いをしてるけど、今はもう高2。

 子供の払う額に限度があるとはいえ、すでに5年。

 ちょっと汗が出てきた。

「ユウ、どうかした?」

「ん、別に。これは、触るの怖いなと思って」

 普段はグリップに内蔵されているスタンガン。

 電源は落としてあるので大して危なくはないが、万が一という事もある。

 これ以外にも色々あるので、迂闊には触れたくない。

「木之本を呼ぶか」

「忙しくないの、あの子」

「忙しいんだろうな」


 いそいそとやってくる木之本君。

 呼ばれたのが楽しいのではなく、スティックをいじるのが楽しいらしい。

「すごいよね、これ」

「危なくないの?」

「確かに危険だよ。ただ、雪野さんには危害を加えない」

 加えないって、生き物みたいな言い方するな。

 それとも、持ち主の私には慣れてるんだろうか。

「要はグリップが、指紋や掌紋を感知するんだよね」

「ああ、そういう事。でも、そんなのあった?」

「システムが起動してないだけ。試してみようか」

 言われる前から端末を接続する木之本君。

 私も言われるまま、グリップを握る。

「本人と確認。感知レベルを設定して、後は握るだけ」

「俺かよ」

 当たり前だが、嫌そうな顔をしてグリップを握るケイ。

 その瞬間、眉間のあたりにしわが寄る。

「ちくっとした」

「流す電圧を抑えたからね。失神するくらいにも出来るよ」

 放られるスティック。

 伸ばしてはいないが、例により奇妙な放物線を描いて私の手の中へと降りてくる。

 無論掴むのは、何の問題もない。

 なんといっても、なついてるからね。

「全然平気。ぴりっともしない。可愛いな、この子」

「どこがだ。燃やせ、捨てろ」

「うるさいな。えーと、これか」

 特殊な動きで手首を返し、スタンガンを作動させる。

 先端から走る、青い火花。

 それはケイの鼻先をかすめ、空中で四散した。

「はは。馬鹿みたい」

「自分がだろ。……これは?」

「GPS。普段は起動させてないから」 

 ケイが指で突いたのは、米粒よりも小さなチップ。

 それこそ、吹けば跳ぶようなサイズ。

 あろうがなかろうが、気付きもしないくらい。

 レクチャー自体は軍で聞いたが、使った事はない。

 GPSは、端末でも事足りるし。

「二次元じゃなくて、三次元での感知が出来るんだよ。高度計も内蔵してるから」

 すごいにはしても、おおよそ必要のないシステム。

 軍用なので、高校生の私に必要ないのは当たり前だが。

「転売は」

「え?」

「転売だよ。マニアが欲しがるんじゃないの、こういうの」

「ま、まあね。機材自体貴重だし」

 喉元で笑うケイ。

 とにかくパーツは、全部揃ってるか確認した方がよさそうだ。

「いや。海外の軍関係者に売った方がいいのかな」

「多分、売れないよ。確か、シリアルが登録されてるから。それに、さっきみたいなギミックも組み込まれてるし」

「ふーん。ちょっと、考えよう」

 何を考えるんだか、一体。

 その前に、この男を転売してやるかな。

「ちょっと、熱があるね」

「スティックが?」

「雪野さんが。さっき指紋を感知した時に、身体データも送信されてきたから」

 そういえば、そういう装置が付いてたとも聞いた事はある。 

 昔は冗談半分で使っていたが、そんな事すら忘れていた。

「私、この子の事全然知らないんだな」

「学校で使う分には、スタンガンくらいしか使わないから。組み立てようか」

「お願い」

 慣れた仕草でパーツを組み立てていく木之本君。 

 その様を眺めつつ、頬杖を付いてため息を付く。

 何も分かってないし、何も分からない。

 結局は、何一つ。



 久し振りに寮の部屋へと戻ってくる。

 冷蔵庫の中身はモトちゃんに連絡して、事前に整理済み。

 洗濯物も無く、サトミ達が掃除もやってくれていた様子。

 取りあえず着替えを済ませ、お茶を飲む。

 まだ、だるさは抜けきらない。

 すぐに薬を飲み、ベッドへ潜り込む。

 眠気はなく、あるのは気だるさのみ。

 宿題やレポート。

 復習に予習。

 やる事は幾つもある。

 学校へ来るとはそういう事だから。

 それらに手を付けず、気楽さだけを求める。

 病気に逃げ場を求める、とでも言うのだろうか。

 ただ、そういった負い目を気にしてベッドを抜け出す気もない。

 少しお茶を飲み、目を閉じて横向きになる。

 多少の眠気。



 目を覚まし、タオルケットを被って窓辺へと向かう。

 この間とは違い、エアコンの効いてる部屋の中。

 寒さはなく、ただ何のためにここにいるのかも分からない。

 街灯に照らされる、女子寮前のロータリー。

 今は誰もいなく、落ち葉が小道を滑っているくらい。

 言いしれない、寂しげな光景。

 単に見た目だけの事だとは思う。

 それでもこの眺めに我慢しきれず、ベッドへと戻る。



 再び目を覚まし、安堵のため息を付く。

 白い日射しと温かな室内。

 夜ではなく、朝の空気。

 あの寂しげな眺めは、もうありはしない。

 夜に怯える子供のような心境。

 あまりにも馬鹿げた、しかし現実的な不安。

 病院で聞いた、カウンセラーの事を思い出す。

 ただそれは、選択肢としてはあり得ない。

 そういう悩みを認め無くないといった事だけではなく。

 サトミの一件を思い出すから。

 彼等自身が悪い訳ではない。

 悪いのはあの個人一人でであって、彼等自体は真摯に人を思って仕事に励んでいる。

 だとしても、あの記憶はなくならない。



 ぼんやりと授業を受け、漫然とメモを取る。

 聞いている内容は、何となく理解している。

 聞いた事だけを。

 そこより先には進まない。

 何故、どうしてという事には。

 点を取り良い成績を得るには、問題無い。

 ただ、勉強としてはどうなのか。

 学生、物を学ぶ態度としては。

 余計な、関係のない事ばかり考えるだけで。


 お昼休み。

 適当に食べて、薬を飲む。

 だるいのは風邪のせいか、それとも薬も関係あるのだろうか。

 お茶を飲んで、ため息を付く。

 目の前でみんなが、何かしている。

 何かも言っている。

 遠い、薄い壁の向こうにいるような感覚。

 それに、すぐ悟る。

 あまり良い兆候ではないなと。

 物事に実感が無く、現実味が薄い。

 自分が何をやってるのかも、あまり理解出来ない。

 これも単に風邪のせいなのか。

 精神状態のためなのか。


「ユウ」

「え」

 顔を上げると、サトミがペンを振っていた。

 いつの間にか、オフィスに来ていたらしい。

 良く分からないが、サインをして背もたれに崩れる。

「大丈夫?」

「え、うん。大丈夫」

 オウム返しに返事をして、ペンを手の中で回す。

 それをただ、繰り返す。

 その内、やっているかどうかも分からなくなる。

「ちょっと」

「え」

「ペン」

「え、ああ」

 ペンを下に置き、頬杖を付いて机を見つめる。

 そこに、何がある訳でもない。

 当たり前だが、私の求めている答えも。

「そんな訳無いか」

「え」

「こっちの話。ちょっと、寝る」 

 机に伏せて、目を閉じる。

 すぐにやってくる睡魔。

 肩に何かが掛けられる感覚。

 それに感謝を告げる前に、意識が薄れていく。

 悩みも、何もかも。

 消えていく。

 そう、思いたい。  






    







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