24-6
24-6
机に伏せて、ため息を付く。
はっきりしない思考、重い気分。
何もやる気がせず、動きたくもない。
「大丈夫?」
「え」
顔を上げ、サトミと目を合わせる。
心配そうな視線を避け、もう一度伏せる。
今は話す気力もなく、何もしたくない。
「ちょっと」
軽く揺すられる肩。
手を振って、それを止めさせる。
「顔上げなさい」
ややきつい口調。
仕方なく顔を上げ、もう一度ため息を付く。
険しい視線。
伸びてくる手。
それをぼんやりと眺め、視線を上げる。
「熱があるじゃない」
頬ではなく、額に当てられる手。
彼女は私の筆記用具をリュックに詰め、席を立たせた。
「早退します」
そう宣言し、追い立ててくるサトミ。
こちらはただそれを、ぼんやりと眺める。
「大丈夫?」
「何が」
「もういい。ショウ、早く送って」
気付くと、家の前にいた。
途中の記憶が、殆ど無い。
寝てたのか、どうしてたのか。
それ以前に、どうしてここにいるのか。
「あら。どうしたの」
玄関から出てくるお母さん。
ショウは小さな紙袋を渡して、何か言っている。
「風邪。まだ冬にもなってないのに。流行の先端を行ってるわね」
良く分からないが、笑っている。
笑ってるからには、おかしいんだろう。
「優、大丈夫?学校から、この調子?」
「ええ。じゃ、俺は学校に戻るから」
「わざわざ悪かったわね。お茶くらい、飲んでいったら」
ベッドに潜り、天井を見つめる。
少しクリームがかった、昔から見慣れた眺め。
子供の頃から見続けた、そして今もこうして。
壁越しに聞こえる笑い声。
下では、お母さん達が楽しんでいるようだ。
自分は思考もまとまらなく、動く気力もない。
このままずっとこの状態が続くと思うくらいのだるさ。
無論今までの経験上、そんな事はない。
二三日すれば学校にも戻り、今までと同じ生活を過ごすのは。
理由を考える。
学校に行って、机に伏せた。
いや。それは今日の事か。
昨日は、確か訓練があって。
訓練があって、疲れた。
今も、まだだるい。
……少し寝ていたようだ。
薬が効いたせいか、だるさはちょっとだけ抜けた。
窓から見える、向かいの家の木。
常緑樹なのか、青い葉が風に揺れている。
寒そうな眺め。
窓の、外の。
ここでようやく、理由に気付く。
昨日の夜、寮を出てしばらくの間外にいた。
思っていたよりも寒く、また薄着だったかも知れない。
今頃気付いても遅い話だけど。
体を起こし、回りを見渡す。
机に置かれたペットボトル。
近いが、今は遠い距離。
意を決してベッドを抜け出し、机まで辿り着く。
きしむ関節、痛む筋肉。
風邪と言うより、インフルエンザだろうか。
「ふぅ」
お茶を飲んで、一息付く。
火照った体に気持ちいい冷たさ。
もう一口含み、ペットボトルを持ってベッドに戻る。
「おかゆ食べる?」
部屋に入ってくるお母さん。
その声で、目を覚ます。
「え」
「おかゆ。うどんでもいいけど」
「じゃあ、おかゆ。少しだけ」
「持ってくるから、寝てなさい」
ローテーブルに置かれる土鍋。
中はおかゆと、赤い梅干し。
添えられたそぼろを少しだけつまみ、レンゲを口に運ぶ。
鼻が詰まってるので、味は良く分からない。
熱いとか、塩辛いくらいしか。
「ショウ君、帰ったわよ」
「え、誰が」
「こっちの話。リンゴすろうか」
首を振り、お茶で口をすすいでベッドに戻る。
正直食欲はなく、何を食べたいとも思わない。
今も作ってくれたから食べただけで、言われなかったらそのまま寝ていた。
後は、食べなければもたないと分かっているから。
「お父さん、帰りにアイス買ってくるって」
「うん」
「もう少し寝てなさい。後で、また起こすから」
暗い室内。
微かに灯る、天井の照明。
自分で点けた記憶はない。
おそらくは、お母さんがやってくれたんだろう。
窓の外はもう暗闇に覆われ、時折通っていく車のヘッドライトが時折輝くくらい。
部屋の中は静寂そのもの。
物音も、動きも何もない。
私という存在がある以外は、何も。
いや。私自体どうなのか。
自分でも馬鹿げたと思う考え。
しかし、完全に否定も仕切れない。
自分の価値、存在する意味。
考えても仕方ないのは分かっている。
分かっていても、考えてしまう。
熱のせい。
それとも、根本的な悩み。
理由は分からない。
ただ、考えだけが脳裏を巡る。
何を考えてるのかも分からないまま、考え続ける。
多分濃厚だろう、バニラアイス。
それを少し口に運び、喉に流し込む。
やはり味は分からず、冷たさだけが口の中に広がる。
「薬は飲んでる?」
優しく尋ねてくるお父さん。
その意味が初めは分からず、視線をかわす。
指を指される時計と紙袋。
「優、薬の時間はいい?」
「え。ああ、どうかな」
紙袋をチェックして、時間を確かめる。
普通の薬同様、食後の服用とある。
カプセルと錠剤が一つずつ。
しかし風邪の特効薬など存在しないため、あくまでも症状を抑えるもの。
取りあえずそれを飲み、体温を測る。
食後のせいもあるが、未だに高め。
じっとしているだけで、汗が出てくる。
「汗拭きなさい。シャワー行ってきて」
「なに?」
「シャワー。ぬるいのを、ゆっくりと」
すっきりしたのは一瞬だけ。
ベッドに入り少し経つと、すぐに汗が出てくる。
ただ暑いからといって、ベッドを抜け出しては意味がない。
お茶を飲むのもだるい。
喉は渇いているが、飲みたくない気分。
しかし汗を掻いている分、水分を摂る必要はある。
仕方なくお茶を含み、喉を通す。
痛みがないため、飲む事自体に苦痛はない。
全ては義務と作業。
やらなければならないという、ただその考えだけ。
照明を落とし、軽めのBGMを掛けて目を閉じる。
少しだけ楽になる気分。
あくまでも精神的に。
実際に体は重く、何もしたくない状態。
それでも深呼吸を繰り返し、リラックスを促す。
ふと、目が覚める。
時計を見ると、日付を越えていた。
さっきから、この繰り返し。
一旦シャツを脱ぎ、汗を拭いて替えに着替える。
椅子の背もたれに掛けられた何枚ものタオルとTシャツ。
何気なく、窓の外を見る。
昔と変わらない眺め。
若干とはいえ背が高くなった分、少しは違うだろうが。
変わったのは行動。
いや。考え方か。
昔は今以上に気楽で、場当たり的だった。
やりたいようにやって、好きなように生きていた。
子供だから、という一言で片付けるのは簡単だけど。
人の中で生きる分、制約は多い。
年を取った分、思考も変化する。
それが、いい事なのかどうか。
分かる訳もないし、分かる人がいるだろうか。
今の自分には、余計に。
窓から差し込む日射し。
あのまま、カーテンを閉め忘れていたらしい。
重い体を動かし、もう一度窓の外を見る。
屋根に集う雀の群れ。
可愛らしい姿と鳴き声。
朝の白い日射しに映える光景。
今の自分には、やや眩しい眺め。
日差しを避けて、ゆっくりとベッドに戻る。
その上でTシャツを着替え、椅子に掛かっている分も抱える。
「私がやるから、寝てなさい」
「え」
「いいから。取りあえず、ソファーで寝てて」
持って行かれるTシャツとタオル。
意味が分からないまま、床にしゃがむ。
いや。ソファーかも知れない。
何となく腕を額に当て、仰向けになる。
あくまでも、昨日よりはいいというくらいの状態。
学校どころか、外へ行く気にもなれない。
「調子悪いなら、もう一度病院へ行く?」
「いやだ」
「言うと思った」
テーブルに置かれる小さな土鍋。
細いうどんと、ちぎられた梅干しにねぎ。
それを少しずつすすり、食べ終える。
「薬」
「え」
「食後に飲むんでしょ」
今度は、グラスとカプセルを渡される。
ここでようやくその意味に気付き、薬を喉に通す。
「果物は」
「いらない」
お茶を飲んで、ため息を付く。
何もしたくないし、何もいらない。
何も出来ない。
ただ憂鬱な思いだけが募っていく。
気付くとお昼のニュースを見ていた。
そしてグラスに薬。
同じ事の繰り返し。
でもこれが、今までの生活とどう違うのか。
結局今までも同じ事の繰り返し。
ただ、それに気付かないだけの。
同じ事を繰り返し、単調に生き、日々が終わっていく。
不満も何もない。
ただ毎日を生きているだけで。
何も出来ず、何をする事もなく。
そこにいるだけの自分。
「優」
自分がいる意味。
「優」
「え」
「薬飲まないの」
「え、ああ。飲む」
慌てて。
しかしそれはあくまでも、気分的に。
実際はのろのろと薬へ手を伸ばし、水で飲み込む。
「本当に大丈夫?」
「何が」
「いい。ちょっと来なさい」
消毒の匂いと白い壁。
見られない器具と白衣の女性。
あまり馴染みたくない場所であり、光景。
「昨日の詳細な検査結果も出ましたが、特におかしな点はないですね。ちょっと熱が高いし、そのせいだと思います。点滴を打ちましょうか」
「いやだ」
小声で答え、ため息を付く。
白衣姿の女性はおかしそうに笑い、私の顔を下から覗き込んだ。
「それとも、学校で嫌な事でもあるとか」
「誰が」
身を引く女性。
血の気の引いた顔。
床に落ちるペンライト。
「ちょっと、優。先生、大丈夫ですか」
私を見つつ、焦り気味に尋ねるお母さん。
女性はペンライトを拾い上げ、苦笑気味に手を振った。
「いえ。大丈夫です。一度、カウンセリングを」
「嫌だって言ってるでしょ」
もう一度低い声で答え、壁に手を付きドアへ向かう。
女性は素早く前に回り込み、私の肩に手を置いた。
「落ち着いて。別に話したくない事を聞く訳じゃないの。ただ、今はちょっと気分が不安定みたいだから。……いじめられでも」
「あ」
床へ沈み込み、肩に置かれた手を空かして後ろに下がる。
今度は少し前に出て、前方宙返りで女性を飛び越え腕を振る。
そのつもりだったが、飛び越えた所で床に転がった。
全く体がついて行ってない。
あるのは、空回りする自分だけだ。
「先生?」
「あ、私は大丈夫です。どうやら、そういう問題じゃないみたいなので」
「え、ええ。ちょっと、優」
「大丈夫だって」
ベッドの手すりを伝って立ち上がり、ドアを開けて外に出る。
とにかく今は、ここに一秒だっていたくない。
勿論家に戻ったからといって、何が解決する訳でもない。
痛い所を付かれた記憶が消える事も。
余計重くなる気分。
薬が効いてきたのか、体は多少楽になっている。
そのために、考えなくてもいい事まで考えてしまう。
昨日までよりもより詳細に、より長く。
無為に過ぎていく時。
何のためにいるのかも分からない。
ただここにいるだけの自分。
翌日。
着替えを済ませ、玄関へと降りてくる。
「大丈夫?」
「ちょっと書類を出してくるだけ。熱も下がったし」
「そんなの、私が行くのに」
玄関先で小首を傾げるお母さん。
構わずリュックを背負い直し、小さく手を振る。
明るい日射し。
朝よりは暖かい気候。
コートの前を合わせ、道を行く。
通勤や通学時間は過ぎているため、歩いてる人は殆どいない。
人のいないバス。
自分と親子連れと、運転手さんくらい。
流れていく見慣れた景色。
見えてくる学校。
それをぼんやりと見つつ、頬杖を付く。
「お客さん。いいんですか」
どこからか聞こえるアナウンス。
顔を上げると、バックミラー越しに運転手さんがこちらを見ていた。
「あ、降ります」
のろのろと席を立ち、バスを降りる。
バス停で、少し待っていてくれたらしい。
「どうも」
運転手さんに言ったつもりだが、バスはすでに走り去った後。
ただ、申し訳程度にクラクションが鳴らされた。
バス停から正門までは、どれだけもない。
普段はそう思っていた。
風邪のだるさは抜けたが、動いてなかった分体が重い。
ここはさすがに、人が多い。
生徒、職員、出入りの業者。
彼等に追い抜かれながら、塀伝いにゆっくりと歩く。
急げないし、第一急ぐ理由もない。
診断書を出し、補習の振り替えをしてもらうだけの事。
今日やらなくてもいい、やる必要すら分からない。
正門をくぐり、木陰の下にあるベンチで一旦休む。
持ってきたペットボトルでお茶を飲み、歩いていく人達を眺める。
楽しげな笑顔、忙しそうな足取り。
目的を持った表情。
私には関係のない事だ。
書類を提出する生徒課は、少し遠い。
今さら、ここに来たのを後悔する。
誰か知り合いにでも頼んで、届けてもらった方が……。
足早に歩く何人かの女性。
その前にいる、大柄な女の子と小柄な女の子。
明らかに揉めている様子。
地面を蹴り、宙に舞って回転しつつかかとを落とす。
着地様足を払い、倒立気味に立ち上がって顎を蹴る。
ばたばたと地面に倒れる女達。
私もバランスを失い、その上に崩れ落ちる。
「先輩っ」
「雪野さんっ」
「え」
顔を上げると、神代さんと渡瀬さんが心配した表情で見下ろしていた。
どうしてかは、良く分からない。
自分が、何をやったかも。
「風邪引いてたんじゃ」
「え?ああ、そう。補習の振り替えで、診断書持ってきた」
「大丈夫ですか?」
「何が」
軽く手足に触れ、怪我がない事を再確認する。
痛みはない。
あるのはだるさと重さくらいか。
「それより、これは誰」
「さあ。聞く前に雪野さんが倒したので」
「あ、そう。……まさか、友達って言わないよね」
「そういう雰囲気では無かった」
否定する神代さん。
だったら大丈夫か。
とにかく深くは考えられないので、納得した気になって立ち上がる。
「手、手貸して」
「あ、はい」
「軽いですね」
二人に引っ張り上げられ、ちょっと足を動かす。
だるさが抜けない分、不安定さが増すから。
今の動きで、はっきり言えば立っているのも辛い状態。
「これ、生徒課に届けて」
「あ、うん。先輩は、どうするの」
「帰る。風邪だし」
「はぁ」
背中に感じる二人の視線。
それに構わず、よろめき気味に正門へ向かう。
自分でも何をやっているのか分からないままに。
家に戻り、すぐに休む。
さっきよりも、少し熱が出てきたようだ。
分からない自分の行動。
自分の意思。
何のために。
眠って、目を覚まし。
その間に、色々と考える。
考えるだけで、何も進まない。
同じ問い、同じ考え、また同じ問いに戻る。
自分でも、何を考えてるのか分からないまま。
部屋に差し込む白い日射し。
体を起こし、窓を開けて冷たい風を呼び込む。
完調とは行かないが、動くには問題のない程度。
向かいの屋根に止まっている雀に指を指し、跳んでいく姿を目で追っていく。
手早く着替えを済ませ、階段を下りてリビングへとやってくる。
「優、どうしたの」
「学校に行く。治ったから」
「もう一度、病院へ行ってからにしなさい」
無慈悲な言葉。
仕方なく一旦部屋まで戻り、チェックシートを持って戻る。
「病院嫌い」
「好きな人はいません。それと、ちゃんと謝るのよ」
「誰に。お母さんに?」
「まだ、熱でもあるの?」
額に当てられる小さな手。
お母さんは小首を傾げ、自分の額にも手をやった。
「私があるのかな。とにかく、先生に謝って」
「分かんないけど、謝ればいいの?」
「いいの。それと、もう飛び跳ねたりしないでよ」
診察室に入り、頭を下げる。
お願いしますという意味と。
「済みませんでした」
という言葉を添えて。
女医さんは怪訝そうに私を見上げ、すぐに小さく頷いた。
「ああ。この間の子。大分顔色も良くなったわね」
「ええ、まあ。学校へ行きたいんですけど」
「チェックシート見せてね。……運動をしないなら、行ってもいいわよ。飛び跳ねたりしないなら」
さっきから、やたらとこの言葉が出てくるな。
子供じゃないんだから、この年で飛び跳ねるなんて真似はする訳がない。
「学校では、どう?」
何気ない、しかし妙に緊迫感をはらんだ口調。
どうと言われてもこちらとしては、答えようがない。
「最近、変わった事があったとか。友達に何かあったとか」
多少分かりやすくなる質問。
ただ彼女の表情は、より厳しさを増す。
「別に。揉めてるような事もあるけど、それは今に始まった話じゃないし。特に、気にする程でも」
「本当に?」
何故か椅子を引く女医さん。
自分の方が、どうかしてるんじゃないの。
「ええ。私、この前何か言ってました?」
「いえ。ただあなたくらいの年齢だと、そういう生活面でのトラブルが精神に強い影響を及ぼすから。だから学校に、わざわざカウンセラーが常駐してる訳」
「はあ。でも私は、そこまで繊細なタイプではないので」
「そう。じゃあ、学校へは行っていいわ。でもさっき言ったように、無理はしない事。それと、今の話。忘れないでね」
教室の前まで来ると、丁度チャイムが鳴った。
出てくる生徒の流れを避け、壁に下がってやり過ごす。
私に気を払う人はなく、知り合いの姿もない。
「あら。あなた、どうしたの」
ポイント用の細長い棒を振ってくる、タイピングの教師。
それも避けようと思ったが、無理はしたくないので頬を突かれる。
あくまでも柔らかく、触れたか触れないかのタッチで。
「避けないの?大丈夫?」
「風邪引いてるので、動きたくないんです」
「だったら、家なり寮で寝てなさい。それと、鼻出てるわよ」
「嘘ばっかり」
胸元に放られるポケットティッシュ。
後ろ向きのまま手を振り去っていく教師。
その背中を見つめつつ、鼻をかむ。
たまには親切な時もあるようだ。
「ユウ。来てたの」
早足で近付いてくるサトミ。
伸びてきた彼女の手に指を絡め、軽く頷く。
「この前よりは良さそうね。お見舞いに行こうかと思ったけど、おばさんがいいって言ったから」
「ちょっと、ぐったりしてて。ずっと寝てた」
「そう言われれば、少し顔色が悪いわね。座った方がいいのかしら」
「だと、助かる」
彼女へ寄り掛かり気味に、廊下を歩く。
最近会ってなかった事の反動と、単純に足元がおぼつかないために。
「ショウは?」
「機材を運んでる。さっきの授業で使った物を」
「また、あの子は。たまには、自分のために動いたらどうなのかな」
「そういう性格なのよ。あれは、直るとか直らないの問題ではないわね」
とりとめのない話をしている内に、移動先の教室へとやって来た。
薬の匂いと、白い壁。
ふと甦る、嫌な感覚。
「どうかした?」
「いや。これって、理科の授業だった?」
「ええ。しばらくは、実験をやるみたいね。あなた、そういう選択授業取ってたでしょ」
「あれは授業というか、遊びの延長みたいなものだから」
取りあえず後ろの方にある、備え付けのテーブルに付く。
黒塗りの、おそらくは化学処理してある表面。
壁際には棚がいくつかあり、簡単な実験道具が並んでいる。
「解剖とかじゃないよね」
「もしそうなら、誰もここに来ないわよ」
苦笑するサトミ。
その言葉を裏付けるように、楽しそうな笑顔を浮かべたクラスメート達が実験室へと入ってくる。
確かに今から何かを解剖するのに、あの雰囲気はないだろう。
解剖するのにあれだけはしゃいでいるなら、私は窓からでも逃げ出すが。
「ケイは」
「昨日からいないわよ。あの子は風邪じゃなくて、どこかへ行ったみたいだけど」
「失踪したの?」
「それとも、年老いた猫みたいに死に場所を探しに行ったんじゃなくて」
物騒な発言。
しかし噂をすればではないが、そのケイがだるそうにやってきた。
「風邪じゃないの」
「治ったのよ。自分こそ、何してるの」
「色々とね。本当、俺も何をやってるんだか」
一人で愚痴るケイ。
意味が分からないし、言いそうにもないので放っておく。
大体、この子に構ってる暇はない。
「ちょっと、痩せたか?」
「大袈裟ね」
「何か、小さくなったような気がする」
「これ以上小さくなってどうするの」
やや高い位置にある肩へ触れ、くすくすと笑う。
ショウもはにかんだように笑って、腰を屈めて目線を合わせてきた。
「あんまり、無理するなよ。どうしてやる事がある訳でもないんだから」
「頼りにされないってのも、あれじゃない」
「倒れられるよりはましって事だ。その、あれ。えと、さ。俺を頼ってもいいんだし」
「馬鹿」
彼の鳩尾に拳を当てる。
そっと、優しく。
彼の思いやりの分、温かさの分だけ。
そして何より、自分の思いを込めて。
お昼なので、食堂にやってくる。
食欲はそれ程無いが、食べない事には始まらない。
精神的にも、今は体調面からも。
「ちょっと、いまいちだな」
おそらく、お米からちゃんと煮てつくっただろうおかゆ。
ただ分量や熱の通し方は、それ程細やかではないはず。
病人用ではなく、中華粥などの流用品のはず。
それが悪いという訳ではなく、またこれ自体も出来は悪くない。
しかしこの間食べた。
お母さんが作ってくれたおかゆとは、何かが違う。
あの時は鼻も詰まって、味も何も分からなかったけど。
やはり食事は誰のために、何を思って作るかが大切だ。
「変なの食べてるな」
奇異な目でおかゆを見てくるケイ。
別に変ではないと思うが、カツ丼を食べてる人からすればそう見えるのかも知れない。
「まずくはないよ。食べる?」
「そういうのは、俺の食生活には含まれてない。第一、病人じゃないんだし。って、おい」
「え?」
トレイを持って、彼の隣りに座るショウ。
土鍋にレンゲ。
湯気に梅干し。
白くて柔らかそうな、よく煮込まれたおかゆ。
「真似をするな。お前は子供か」
「いいだろ。……まず」
「馬鹿」
鼻で笑うサトミ。
ちなみに彼女は、新そばを美味しそうにすすっている。
「まずいというか、何かもう一つ足りないな」
私と同じような感想を漏らすショウ。
塩味が足りないとか言われたら、かなり困るが。
「こうなんて言うのか。母さんが作るのとは違う気がする」
「じゃあ、ママに作ってもらえ。リンゴもすってもらえ」
「そういう事じゃない」
「だったら、どういう事なんだ」
押し黙るショウ。
ケイは冷たい目で彼を見つつ、カツ丼を掻き込んだ。
自分こそぼろぼろこぼすから、よだれ拭きでもしたらどうだ。
「そうだよね。私も、何か違うと思う。お母さんが作ったのと」
「だろ。何が違うのかな」
「愛情じゃないの、愛情」
蒸せ返すショウ。
何も、そんな変な事を言った気はないけどな。
「あ、あのな」
「どうかした?」
「い、いや。俺がおかしいのかな」
「あなた、まだ熱があるの」
額に手を当ててくるサトミ。
何も、そこまでおかしな事は言ってない。
最近の言動を振り返ると、断言は出来ないが。
授業を終え、オフィスへとやってくる。
今日は、完全に見学。
今までも大した事はやってなかったけど、今日は実際に何も出来ない。
せいぜい、書類をめくるとかテーブルの上を整理するくらいで。
やる事もなくなってきたので、スティックをばらしてパーツを磨く。
中には私の手出し出来ない精密な機器も含まれているため、その辺りはノータッチで。
しかし、これの支払いは一体いつになったら終わるんだろう。
ショウが支払い始めたのは、これを作った時から。
つまりは、中1の頃。
それに気付いて私も最近支払いをしてるけど、今はもう高2。
子供の払う額に限度があるとはいえ、すでに5年。
ちょっと汗が出てきた。
「ユウ、どうかした?」
「ん、別に。これは、触るの怖いなと思って」
普段はグリップに内蔵されているスタンガン。
電源は落としてあるので大して危なくはないが、万が一という事もある。
これ以外にも色々あるので、迂闊には触れたくない。
「木之本を呼ぶか」
「忙しくないの、あの子」
「忙しいんだろうな」
いそいそとやってくる木之本君。
呼ばれたのが楽しいのではなく、スティックをいじるのが楽しいらしい。
「すごいよね、これ」
「危なくないの?」
「確かに危険だよ。ただ、雪野さんには危害を加えない」
加えないって、生き物みたいな言い方するな。
それとも、持ち主の私には慣れてるんだろうか。
「要はグリップが、指紋や掌紋を感知するんだよね」
「ああ、そういう事。でも、そんなのあった?」
「システムが起動してないだけ。試してみようか」
言われる前から端末を接続する木之本君。
私も言われるまま、グリップを握る。
「本人と確認。感知レベルを設定して、後は握るだけ」
「俺かよ」
当たり前だが、嫌そうな顔をしてグリップを握るケイ。
その瞬間、眉間のあたりにしわが寄る。
「ちくっとした」
「流す電圧を抑えたからね。失神するくらいにも出来るよ」
放られるスティック。
伸ばしてはいないが、例により奇妙な放物線を描いて私の手の中へと降りてくる。
無論掴むのは、何の問題もない。
なんといっても、なついてるからね。
「全然平気。ぴりっともしない。可愛いな、この子」
「どこがだ。燃やせ、捨てろ」
「うるさいな。えーと、これか」
特殊な動きで手首を返し、スタンガンを作動させる。
先端から走る、青い火花。
それはケイの鼻先をかすめ、空中で四散した。
「はは。馬鹿みたい」
「自分がだろ。……これは?」
「GPS。普段は起動させてないから」
ケイが指で突いたのは、米粒よりも小さなチップ。
それこそ、吹けば跳ぶようなサイズ。
あろうがなかろうが、気付きもしないくらい。
レクチャー自体は軍で聞いたが、使った事はない。
GPSは、端末でも事足りるし。
「二次元じゃなくて、三次元での感知が出来るんだよ。高度計も内蔵してるから」
すごいにはしても、おおよそ必要のないシステム。
軍用なので、高校生の私に必要ないのは当たり前だが。
「転売は」
「え?」
「転売だよ。マニアが欲しがるんじゃないの、こういうの」
「ま、まあね。機材自体貴重だし」
喉元で笑うケイ。
とにかくパーツは、全部揃ってるか確認した方がよさそうだ。
「いや。海外の軍関係者に売った方がいいのかな」
「多分、売れないよ。確か、シリアルが登録されてるから。それに、さっきみたいなギミックも組み込まれてるし」
「ふーん。ちょっと、考えよう」
何を考えるんだか、一体。
その前に、この男を転売してやるかな。
「ちょっと、熱があるね」
「スティックが?」
「雪野さんが。さっき指紋を感知した時に、身体データも送信されてきたから」
そういえば、そういう装置が付いてたとも聞いた事はある。
昔は冗談半分で使っていたが、そんな事すら忘れていた。
「私、この子の事全然知らないんだな」
「学校で使う分には、スタンガンくらいしか使わないから。組み立てようか」
「お願い」
慣れた仕草でパーツを組み立てていく木之本君。
その様を眺めつつ、頬杖を付いてため息を付く。
何も分かってないし、何も分からない。
結局は、何一つ。
久し振りに寮の部屋へと戻ってくる。
冷蔵庫の中身はモトちゃんに連絡して、事前に整理済み。
洗濯物も無く、サトミ達が掃除もやってくれていた様子。
取りあえず着替えを済ませ、お茶を飲む。
まだ、だるさは抜けきらない。
すぐに薬を飲み、ベッドへ潜り込む。
眠気はなく、あるのは気だるさのみ。
宿題やレポート。
復習に予習。
やる事は幾つもある。
学校へ来るとはそういう事だから。
それらに手を付けず、気楽さだけを求める。
病気に逃げ場を求める、とでも言うのだろうか。
ただ、そういった負い目を気にしてベッドを抜け出す気もない。
少しお茶を飲み、目を閉じて横向きになる。
多少の眠気。
目を覚まし、タオルケットを被って窓辺へと向かう。
この間とは違い、エアコンの効いてる部屋の中。
寒さはなく、ただ何のためにここにいるのかも分からない。
街灯に照らされる、女子寮前のロータリー。
今は誰もいなく、落ち葉が小道を滑っているくらい。
言いしれない、寂しげな光景。
単に見た目だけの事だとは思う。
それでもこの眺めに我慢しきれず、ベッドへと戻る。
再び目を覚まし、安堵のため息を付く。
白い日射しと温かな室内。
夜ではなく、朝の空気。
あの寂しげな眺めは、もうありはしない。
夜に怯える子供のような心境。
あまりにも馬鹿げた、しかし現実的な不安。
病院で聞いた、カウンセラーの事を思い出す。
ただそれは、選択肢としてはあり得ない。
そういう悩みを認め無くないといった事だけではなく。
サトミの一件を思い出すから。
彼等自身が悪い訳ではない。
悪いのはあの個人一人でであって、彼等自体は真摯に人を思って仕事に励んでいる。
だとしても、あの記憶はなくならない。
ぼんやりと授業を受け、漫然とメモを取る。
聞いている内容は、何となく理解している。
聞いた事だけを。
そこより先には進まない。
何故、どうしてという事には。
点を取り良い成績を得るには、問題無い。
ただ、勉強としてはどうなのか。
学生、物を学ぶ態度としては。
余計な、関係のない事ばかり考えるだけで。
お昼休み。
適当に食べて、薬を飲む。
だるいのは風邪のせいか、それとも薬も関係あるのだろうか。
お茶を飲んで、ため息を付く。
目の前でみんなが、何かしている。
何かも言っている。
遠い、薄い壁の向こうにいるような感覚。
それに、すぐ悟る。
あまり良い兆候ではないなと。
物事に実感が無く、現実味が薄い。
自分が何をやってるのかも、あまり理解出来ない。
これも単に風邪のせいなのか。
精神状態のためなのか。
「ユウ」
「え」
顔を上げると、サトミがペンを振っていた。
いつの間にか、オフィスに来ていたらしい。
良く分からないが、サインをして背もたれに崩れる。
「大丈夫?」
「え、うん。大丈夫」
オウム返しに返事をして、ペンを手の中で回す。
それをただ、繰り返す。
その内、やっているかどうかも分からなくなる。
「ちょっと」
「え」
「ペン」
「え、ああ」
ペンを下に置き、頬杖を付いて机を見つめる。
そこに、何がある訳でもない。
当たり前だが、私の求めている答えも。
「そんな訳無いか」
「え」
「こっちの話。ちょっと、寝る」
机に伏せて、目を閉じる。
すぐにやってくる睡魔。
肩に何かが掛けられる感覚。
それに感謝を告げる前に、意識が薄れていく。
悩みも、何もかも。
消えていく。
そう、思いたい。




