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本部の椅子に、ちょこんと座る。
自分では横柄に座ったつもりでも、体型が体型なので人からはそう見える。
第一ふんぞり返ったら、間違いなく地面に落ちる。
「暇そうね」
「暇だよ」
欠伸をして、パンフレットを開く。
でもってすぐに、飛び上がる。
「来た、来たっ」
「誰が」
嫌そうに顔をそむけるサトミ。
分かってないな、この人は。
「リレー。リレー。ニャン、ニャン」
「単語で話さないで。それと、ここにいていいの」
「いいのって、私は走らないもん」
「当たり前でしょ。いいから、猫ちゃんの所へ行ってきなさい」
送り出された。
追い出されたという気がしないでもないが。
仕方ないので、言われた通り選手の控え室へとやってくる。
ドアの前に立つ、重装備のガーディアン達。
学内のイベントにしては、やや大袈裟な気もするが。
「何か」
私を見て、事務的に尋ねてくる男の子。
揉める理由もないので、IDを見せてニャンの知り合いだと告げる。
「試合前だし、後でまた来る」
「はあ」
「それより、警備をお願いね」
軽く回りを見渡し、不審者をチェックする。
警備、競技員、選手。
おかしい雰囲気はない。
少なくとも、今の所は。
「何してるの」
「わっ」
後ろから突然声を掛けられた。
振り向くと、そこにはニャン立っていた。
などと、のんきに納得してる場合じゃない。
「自分こそ、試合前でしょ」
「部屋にこもっていいタイムが出るなら、一日中でもこもる」
「なるほどね」
彼女からペットボトルを受け取り、その酸味に顔をしかめる。
筋肉にはいいかも知れないが、味は良くない。
「おかしな薬とか入ってないの」
ぎょっとする周囲の人達。
ニャンは至って気楽に笑い、ペットボトルを傾けた。
「ああいうのが効くのは、もっと筋力が発達してる人。興奮剤を飲む手もあるけど、アドレナリンだけで走る訳でもないし」
「抜いておいた血を入れるっていう、あれは?」
「痛いのは嫌。大体、それでどれだけ早くなるのかは良く分かってないの。気休めには、いいかもしれないけど」
身も蓋もないコメント。
ただ、ニャンがドーピングをやってる訳がない。
そんな事は疑う気もないし、考えた事もない。
「そう。とにかく、試合頑張って」
「ありがとう。でもユウユウ達とやった時の方が、大変だった気もする」
本部に戻り、椅子に座る。
少しの緊張感。
自分が焦っても仕方ないが、こればかりはどうしようもない。
「猫ちゃんには会えたの?」
「会えた。少なくとも、あの子は緊張してなかった」
「ユウが緊張してどうするの」
優しく笑うサトミ。
しかし私は笑い事ではなく、手の平の汗をジャージで拭く。
「始まらないな」
女子400mリレーの開始時間は、既に過ぎている。
しかし選手の入場すら、まだ行われていない。
「ただ今、競技の進行が遅れています。今しばらくお待ち下さい」
その疑問を読み取ったように入るアナウンス。
脳裏によぎる、嫌な感覚。
単なる学内のイベント。
それに対する、あの警備。
「ちょっと、行ってくる」
「どこに」
「いいから」
同じ道を一気に駆け抜け、控え室の前へやってくる。
特に変化はない状況。
ただ、警備の数がさっきより多い。
「何かあったの」
さっきの男の子へ、控えめに声を掛ける。
彼は緊張気味な表情で小さく頷き、廊下の先を指差した。
「陸上部の選手が出た所で、武装した集団が襲ってきまして」
「怪我はっ?」
「すぐに俺達がガードしたので、それ程問題はないと……」
言葉を最後まで聞かず、ドアを開ける。
しかしキーが掛かってるのか、びくともしない。
「あ、あの。そこにはいないから」
スティックをしまい、すぐに彼へと詰め寄る。
「どこっ」
「い、医療部へ」
気が付けば、医療部へと辿り着いていた。
人の集まってる場所へ駆け寄り、ニャン達の姿を探す。
「雪野さん」
落ち着いた、良く通る声。
人垣の手前。
壁にもたれ、私を手招きする沢さん。
「どうして、ここに」
「事前に情報が入ってね。猫木さん達が狙われてるという」
「沢さんに?」
「猫木さんは、オリンピック指定強化選手。陸連が、色々気を遣ってるんだ。彼女に何か無いようにと」
助かりはしたが、面白くはない話。
逆に言えば彼女が強化選手でなければ、どうでもいいという訳か。
無論それだけの選手だからこそ、襲われるのだが。
「黒木さん達は、どうでもいいんですか」
「陸連はそうだろう。無論僕は、彼女達もガードしたけどね」
「別に、沢さんを怒ってる訳じゃ」
苦笑する沢さん。
ただその表情とコメントに、少し安堵する。
それに彼が付いていたなら、最悪の状況はないだろうから。
「怪我は」
「かすり傷もない。少し壁際でもつれたから、万が一を考えてね」
「そうですか。済みませんでした」
「いや。それより、彼女達までターゲットにするとは。今回は、根が深い」
薄く微笑む沢さん。
私ですら近付きがたい、尋常ではない緊迫感を漂わせて。
「ニャン……。猫木さん達は」
「大丈夫。今はさっき以上に警備が厳重になってるから、君でも会うのは難しいだろう」
「そう、ですか」
「勿論、会う方法はいくらでもあるんだが。それは、君にとっては言わずもがなだし」
医療部を出た所で、塩田さん達と出会う。
「猫木は」
「会えるのは、少し後みたいです。でも、怪我はないとか」
「心配するな。この件については、きっちりかたを付けてやる」
端末を取り出し、辺りを見渡す塩田さん。
いつにない厳しく、険しい表情で。
「遠野、お前は学校と自警局と交渉。木之本はSDC。元野は現状通り、全体の指揮。浦田は俺の補佐。玲阿と雪野は、陸上部の警備に付け」
「はい」
静かに、全員でそう答える。
彼の指示に従う意思を明確に示し、その通りに行動するために。
「人の後輩に手を出したらどうなるか、じっくり後悔させてやる」
さっきとは違う控え室。
今はその中に入り、張りつめた緊張感を体感する。
それは試合へ対してなのか、襲われた事に対してなのか。
私に出来る事は何もない。
ただこうして、ドアの前で立つ以外は。
「落ち着いたら」
至って冷静に声を掛けてくるニャン。
そう振る舞っているのではなく、実際に落ち着いているようだ。
「海外だと、よくとは言わないけどあるにはあるの。襲う振りをして、動揺を誘うのは」
「そうだとしても」
「怪我人は出なかったし、ここで慌てたらそれこそ相手の思うつぼじゃない」
力強い発言。
自信と、勇気に満ちた。
「気楽でいいわね」
深刻そうなため息を付く黒沢さん。
ただ彼女も、それ程動揺している様子はない。
「何か」
「いや。あまり、緊張してないなと思って」
「私達がするのは走る事であって、慌てる事ではないもの」
当たり前な。
だからこそ、難しい事。
それをするという彼女。
ただ素直に、彼女達を誇りに思う。
それ以外は、何もない。
「だから雪野さんは、警備をよろしく」
「任せて。私はともかく、人材は揃えてるから」
ここは控え室のため、いるのは女の子達だけ。
選手の4人と、何人かの陸上部員。
そして私。
ただ、外は違う。
控えているのは、さっきまでのガーディアンではない。
ショウに御剣君。
柳君と名雲さんも、少し離れて控えている。
そこをすり抜けられる人間を、想像すら出来はしない。
「選手の方は、グラウンドへ移動して下さい」
端末に入る連絡。
私はスティックを背中へ付け、彼女達の様子を見守る。
少しずつ変わっていく表情。
女の子から選手へと。
戦う者達の、気高く美しい様を。
拍手と歓声。
フラッシュの嵐。
その中を、颯爽と歩いていくニャン。
注目は彼女ただ一人。
これを言うには抵抗があるが、誰しもがそれは認めている事実。
同じメンバーの黒沢さんも、その事は認識しているだろう。
表向きの変化はない。
ただ競技員は大半がガーディアンと入れ替わり、観客の前ににも増員される。
私はゴール付近に待機。
感極まった振りをして、何かを仕掛けてくる相手を想定して。
試合前の、興奮を一層煽るようなアナウンス。
さらに大きくなる拍手と歓声。
「アジアGPゴールドメダリスト。高校生女子100m記録保持者。猫木明日香さん」
小さく手を挙げるニャン。
ボルテージを上げる観客。
全員の動きを見るのは不可能。
あくまでも不審な挙動を、印象だけでチェックしていく。
速読術と同じ、意味を読み取るのではなく絵として頭に入れていく。
何人かを発見し、インカムで付近のガーディアンに警戒を促す。
万が一、グラウンドへ降りてきても問題はない。
自分の守備範囲内なら、容赦なく叩きのめすだけだから。
またそれ以外の位置にも、ショウや御剣君が配置に付いている。
来るなら来いとまでは言わないが、今はそのくらいの気分。
とにかく、今回の相手にはそれなりの覚悟をしてもらう。
スターターの音を背中で聞き、観客とトラック内を交互に見る。
襲撃犯が、必ず観客側にいるとは限らない。
疑いたくはないが、スタッフに紛れている可能性もある。
観客の声援。
慌ただしく渡されるバトン。
自ずと高まる緊張感。
それは勿論リレーよりも、襲撃犯に対しての。
完全に集中した顔のニャン。
以前私とやったレース同様、こちらを見る事はない。
私もそうだった。
でも、今は違う。
彼女をただ見守る。
この身を挺してでも、彼女を守る。
一気にトップスピードへ乗るニャン。
引き離される後続。
爆発のような歓声を送る観客達。
私も彼女の走りを目線で追いつつ、意識は周囲にも配る。
危険なのは、走っている時ではない。
問題ない走りでゴールを駆け抜けるニャン。
近付く競技員。
私もすぐに彼女の元へ駆け寄り、背中のスティックに触れつつ周囲へ視線を走らせる。
「くっ」
強い目への刺激。
スプレーなどではなく、強烈な光のようだ。
すぐに目を閉じ、感覚だけでニャンを地面へ伏せさせる。
「今の私から見て、5時の方角っ。黒のシャツっ」
「了解」
インカムに入る、静かな声。
騒然とした空気が、背中越しに聞こえてくる。
「ニャンッ」
「私は大丈夫。ユウユウこそ」
「もう慣れた」
涙をハンカチで拭き、何度か瞬きをする。
少し痛むが、それ以外の異状は感じられない。
おそらく、あの光を微かに見ただけで済んだのだろう。
つまり長時間目に入っていれば、今は目を開けるどころか立っているのも怪しい。
「でも、どうして」
「レーザーポイントでしょ。こういう事は多いから、一定以上の光量を遮断するコンタクトをしてるの」
明かされる事実。
そう言えば、普段より瞳の色がやや暗い感じにも見える。
「まさか、学内でこうなるとは思わなかったけど」
「心配しないで。犯人は、必ず捕まえるから」
「なるほどね。じゃあ私は、優勝するとしますか」
あっさりと言い放つニャン。
私はその肩を抱いて、耳元でささやいた。
「招待選手だった?あの連中は、結構早いわよ」
「らしいね。でも、私はもっと早いから」
「よく言うわね」
少し笑い、彼女を護衛のガーディアンに託す。
彼女のやるべき事は終わった。
後は私の仕事である。
狭い尋問用の部屋。
ふてくされた表情で椅子に座る、黒いシャツの男。
間違いなく、レーザーポイントでニャン達を狙った男だ。
「落ち着ついて。俺が話す」
私を制し、彼の前に座るケイ。
男は鼻で笑い、足を机の上に乗せた。
「IDを見ると、ここの生徒じゃないんだ」
「だから?」
「レーザーポイントで人を狙うのは犯罪。だから、警察に連絡した」
顔色を変える男。
ケイは愛想良く笑い、男にペットボトルを差し出した。
「ただ、まだ誰が犯人かは言ってない」
「取引するって言うのか」
「雇い主は」
「名前は知らない。金とそれを渡されただけだ」
ケイの持っているレーザーポイントを指差す男。
「相手の特徴は」
「知るか。帽子を被ってたし」
「なる程。じゃあ、馬鹿に用はない。後は警察で話せ」
即座に切り捨てるケイ。
左右から男の腕を掴み、強引に立ち上がらせるガーディアン。
「お、おい。約束が」
「約束なんてしてない。せいぜい、少年刑務所で媚びを売ってろ」
卓上端末を起動させるケイ。
そこに表示される、大勢の顔写真とプロフィール。
「誰、これ」
「学校の職員一覧。あの馬鹿息子に雇われたチンピラかも知れないけど、あいつも陸連を相手にするつもりはないだろ」
「学校だって、陸連を相手にしたくはないでしょ」
「なるほど。どっちにしろ、さっきの馬鹿は話にならないし。こっちから辿るのは難しいな」
消える画面。
静まり返る室内。
募るのは、私の苛立ちだけ。
「塩田さんは」
「さあ。あの人は、単独行動が好きだから」
興味なさげに答えるケイ。
ただその言葉通り、彼は人知れず行動するタイプ。
むしろ一人でいる方が、動きやすいのだろう。
「明日のレースは、大丈夫なの」
「中止した方がいいと、俺は思う」
注釈付きの発言。
無論それが、不可能だと知った上での。
100mリレーは、体育祭でもメインの一つ。
ましてそこに出場するのは、国内でも有数の選手。
仮に中止をしたら、それこそ違う意味でのトラブルが起きかねない。
「俺に言ってるのかな」
苦笑気味にケイへ視線を向ける右藤さん。
彼はSDCの代表補佐。
そういった決定に関わる権限を持つ存在である。
「止めた方がいいと思うよ、俺も。ただ君達が思ってる通り、大げさな言い方をすれば暴動の可能性もある。猫木さん目当てで来てる人もいるだろうし」
「ニャン達の安全よりも、優先されるんですか」
「微妙だね。観客の制限も考えるけど、限界がある。今回の相手は、それなりに頭が働くようだ」
他人事のような発言。
飄々とした態度。
彼がどうという訳ではないが、今は落ち着いていられない。
「それに危険なのは、レースだけじゃないだろ」
「え」
「俺なら、寝込みを襲う。夜討ちっていうのかな。人間、寝てる時には無防備になるから」
口に当てられる指。
物音を立てず席を立ち、木刀を手にする右藤さん。
「夜通しドアを叩くとか、さ。その辺も、考えた方がいいんじゃないのかな」
ドアを貫く木刀。
その向こうで上がる悲鳴。
右藤さんは素早く木刀を抜き、肩に担いでドアを開けた。
廊下にいるのは、床に横たわった男。
腕が、おかしな方向へ曲がった。
「別な容疑者も捕まった。本当、君も人が悪い」
「何がですか」
「わざわざ壁やドアの薄い部屋を用意して、盗聴させるように促したんだろ」
「たまたまです。でも、今回の方が情報を持ってそうですけどね」
廊下に控えていたガーディアン達を呼び寄せ、男を運ばせるケイ。
右藤さんはその様子を見届け、彼に木刀を向けてきた。
「やってみる?」
「いえ。荒っぽい事は苦手なので」
「覚えておくよ。今回の件は、SDCとしても全面的に極力するから。何かあったら、連絡して」
何かあった訳でもないが、SDCの本部へとやってくる。
体育祭の、今日の日程は終わり。
私もやる事はない。
気になる事は、いくらでもあるが。
「ニャン……。猫木さんは」
「場所は言えないけど、護衛に守られてる。心配しなくていいわよ」
気楽そうに笑う鶴木さん。
私は笑っていられる心境ではないので、適当に頷く。
「初めに言っておくけど、レースはやる。これはSDCとしてより、猫木さんの希望でもあるの」
ニャンの希望。
彼女がそう思っているのなら、私がとやかく言う問題でもない。
その先は彼女達の世界であり、私が踏みいるべき所ではない。
「対外試合や国際試合では、よくある事なのよ。こういう種の妨害は」
「でも今回は、学校や生徒会が関係してる可能性もあるんですよね」
「可能性はね。ただ他校の仕業かも知れないし、オリンピックで当たる国かも知れない。あまり決めつけて考えない方がいいわよ」
軽く諭される。
ただそれで納得出来るようなら、私は苦労していない。
「とにかく。少しは落ち着いて行動しなさい」
「はあ」
「気のない返事ね。いいのよ、あなた一人で気にしなくても。そんな馬鹿が目の前に来たら、叩き斬ってやるから」
鈍く思い音。
机の上に置かれる剣。
黒い鞘と、がっしりした鍔。
柄は組紐が解れ、幾度と無く握り込まれた跡が見て取れる。
「危ないじゃないですか」
「セルフディフェンスよ。大丈夫、これは真剣じゃないから」
つまり、刃が無いという訳か。
ただ鋼の棒で叩かれれば、軽くても骨折くらいはするだろう。
木刀で、同じ事をやる人がいるくらいだし。
「それと、届け物をして欲しいの」
「どうして、私が」
「他に人がいなくて。これ、お願い」
学校から近い、高級マンション。
高度なセキュリティをパスし、玄関を入ってエレベーターに乗る。
高速で上がっていくエレベーター。
監視カメラを睨みつつ、最上階で降りて廊下のカメラも睨む。
センサー、カメラ、集音マイク。
あまり楽しいとは思えない環境。
そのおかげで、おかしな人間は入り込みにくい。
生活する場所としては、どうかと思うが。
ドアをノックして、少し待つ。
勢いよく開くドア。
飛び出てくる猫。
いや。ニャンか。
「何してるの」
「煙、煙がっ」
蒸せ返すニャン。
ただ火事という訳ではなく、漂ってくるのは芳ばしい香り。
「護衛は」
「このフロアにはいない。ああ黒沢さんは隣の部屋。その向こうにもいる」
どうやらこのフロア全部を、陸上部のメンバーで貸し切ってるらしい。
お金も物も、ある所にはあるようだ。
「それで、どうかしたの」
「これ届けろって」
鶴木さんから託された物を、ニャンへと渡す。
細い筒状の品物を。
「短刀?」
「怖い事言わないで。……なんだ、これ」
首を傾げるニャン。
私も首を傾げ、ため息を付いた彼女の後に付いていく。
出てきたのは、桜色のういろ。
お茶でそれを流し込み、広いリビングを見渡してみる。
「いい所に住んでるね。でも、眠れる?」
「昔は駄目だったけど。最近は転戦に慣れたから」
彼女はアジアの陸上GPに参加している選手。
月に1度くらいのペースで、海外のレースを経験している。
ベッドが変わると眠れないとか、落ち着かないなどとは言っていられないのだろう。
「ユウユウも泊まる?」
「邪魔じゃなかったら」
「じゃあ、邪魔」
「何よ、それ」
彼女に飛びつき、ソファーに転がる。
でもって二人でもつれ合う。
「馬鹿」
軽くはたかれる頭。
私を見下ろす、可愛らしい顔立ちのお下げ髪の女の子。
「誰が馬鹿なのよ」
「ユウユウが」
間の抜けた呼び方をしてくるワン。
乾という苗字もあるが、ワンはワンだ。
「焼き餅?」
「もう、馬鹿馬鹿」
二人してペタペタと彼女の足を叩き、もう一度ニャンともつれ合う。
意味はない。
意味がないから、面白い。
「怪我するわよ。二人とも、ほら」
優しく私達を分ける、ロングヘアの女の子。
この子は、いつまで経っても優しいな。
ワンとは違って。
「何」
無愛想にこちらを睨むワン。
へらっと笑い、ぬるっと床に滑り落ちる。
「別に。ミィはは、いつまで経っても優しいなって」
「ユウユウは、いつまで経っても馬鹿」
この女。
飛びついてやろうと思ったが、ミィが見ているので止めた。
この子も三木という名前があるが、そう呼ぶ事は滅多にない。
「でも、いいの?私達が泊まっても?」
改めて確かめるように問い掛けるミィ。
ニャンはこくりと頷き、腕に付けているサポーターを手でさすった。
モニターの心拍及び血圧の値は正常値。
「非常に落ち着いた状態です」の文字も見える。
「お腹空いたね」
「上げる」
差し出されるバナナ。
の、皮。
今時お猿さんでも、これでは喜ばないだろう。
「ご飯作ったけど、食べる?」
「食べる。おかずは」
「パスタと野菜スープ。明日は試合だし、軽めにね」
キッチンへ向かうミィ。
私も彼女後を、とことこと付いていく。
「肉」
単語で話すワン。
構わず彼女の皿に、玉ねぎを乗せる。
丸のまま一個。
ただし、よく煮てあるので問題はない。
インパクトはともかくとして。
「さっきは、こんなの無かった」
「私が持ってきたの。ニャンはこれ」
パスタに果物。
後は少しだけ、鶏のささみ。
私も同じ物を食べる。
「付き合わなくてもいいのよ」
「好きで食べてるの」
無論付き合いで食べている部分もあるが、こういうあっさりした食事の方が性にあっている。
脂っこい物も好きとはいえ、毎日となればこっちを好む。
「美味しい」
玉ねぎを食べながら、短く漏らすワン。
当たり前だっていうの。
これ一つ作るのに、どれだけ時間を掛けたか教えてやりたいくらいだ。
「ご馳走様」
あっさりと食べ終え、バッグから何やら取り出すニャン。
あまり見たくない名前の書かれた。
「プロテイン、嫌い?」
「それは、私の中で違反項目に指定されている」
「これは、イチゴ味。ユウが飲んだのは、何か知らないけど」
ピンク色に染まっていく牛乳。
見た目はイチゴオレ。
勧められるまま、飲んでみる。
食事を付き合うと決めたので。
「が」
私も短く漏らす。
ワン同様、呻くようにして。
これは味がどうこうではなく、食感というかドロドロ感だな。
「飲めなくはない」
消極的に肯定するワン。
ミィは初めから、手を付けようともしない。
「飲まないの?」
「親に止められてるから」
何だ、それ。
私やワンの反応を見て、じゃないのか。
「残さないで」
「後は、ワンが飲むって」
「いや。私も美味しいとは言ってない」
有無を言わさず渡されるグラス。
量としては半分もないが、私はその半分も飲みたくはない。
「残りは、ミィが飲むって」
「あなた達ね。私はそれを、毎食飲んでるの」
「馬鹿」
「ほら、こぼすから」
気さくな会話。
楽しく過ぎていく時間。
緊張も何もなく。
安らぎと温かさだけの世界。
戦いの前の、ほんの一瞬の休息。
朝靄の坂。
新聞配達の少年。
紺から赤へと移る空。
風はまだ冷たく、だから空気は澄んで感じる。
塀の上を歩く猫。
その向こうに見える木々は、茶色の葉を散らしている。
まだ白くはない息を吐き、少しペースを上げる。
前に見える背中。
一気に詰まる距離。
いつかのレースとは違い、簡単にその隣へ並ぶ。
「元気いいね、朝から」
「軽く」
すぐに応じるニャン。
これもレースの時とは違う。
当たり前といえば、当たり前の事だが。
「二人は」
「がーがー寝てた」
「仕方ないわね、本当に」
安定したペース。
早過ぎず、遅過ぎず。
自分にとって心地いい速度を保ち、意識をリラックスさせる。
「調子は」
「問題ない。犬と競争したいくらい」
「そう。護衛はいいの?」
「ユウユウが来るって分かってたから」
伸びてくる手。
その指先に自分の指先を触れさせ、一緒に走る。
朝靄の白い世界を、二人で一緒に。
揺れる世界。
いや。揺れているのは、私の体か。
「何?朝ご飯ならさっき食べた」
「いつの話をしてるの」
腕時計を指差すサトミ。
朝ご飯どころか、お昼に近い。
でもって、マンションではなくグラウンドだった。 すっかり寝たというか、寝ぼけてた。
「昨日遅くてさ。あーあ」
「猫ちゃんの警備じゃなかったの」
「ああ、そうそう。警備警備」
一緒のベッドで寝たし、それも警備と言うんだろう。
たわいもない思い出話を、延々とするのも。
あの二人が寝過ごすのも、無理はない。
「で、犯人は見つかった」
「親切な小人なんていないのよ」
冷たい台詞。
だいたい小人って、私への皮肉じゃないだろうな。
「ショウは」
「いるわよ」
「どこに」
振り向くと、タオルケットを抱えた彼が立っていた。
人の事は言えないけど、グラウンドで寝る気かな。
「寒いの?」
「い、いや。別に」
もごもご答えるショウ。
思春期の少年は、何かと分かりにくい。
「あなたのためでしょう」
耳元でささやくサトミ。
どうしてと尋ねそうになって、すぐに口元を拭く。
理由は簡単、私が寝てたからだ。
ショウがタオルケットを持ってきたのも、私がよだれを垂らしてるのも。
とはいえ、好意は好意。
それに少し寒いので、タオルケットにくるまってみる。
やっぱり暖かいな、これは。
色んな意味で。
「何っ?」
タオルケットを剥がし、スティックを持って一気に駆け出す。
とにかく走る。
「ちょっと、どうしたの」
「寝てる場合じゃないっ」
「何を今さら……」
遠くで聞こえるサトミの声。
しかし最近、走ってばかりだな。
トラックを横切り、フィードの左端へとやってくる。
大きなクッションと高い位置のバー。
背が高く、華奢な少女達が体を解している。
その中の一人。
明らかに小さく、さらに華奢な体。
しかし凛とした表情で、スタートの体勢を取る少女。
緩いスタート。
左から右への弧を描くラインで。
瞬間早くなる速度。
同時に浮き上がる体。
それはしなやかに宙を舞い、反り返りながらバーの上を越えていく。
微かに揺れるバー。
ただ揺れはすぐに収まり、辺りから控えめな拍手が沸き上がる。
グラウンド全体の注目は、男子100m走。
走り高跳びが行われているフィールドを見ているのは、位置的に近い人達くらい。
私も拍手をして、彼女にエールを送る。
控えめに、だけど今の自分に出来る精一杯の事を。
少しだけ手を上げる青木さん。
あくまでも控えめに。
それでも私に気付いている事を分かるようにして。
私もそれ以上は、何もしない。
今大切なのは、体を休めて跳ぶ行為に集中する事。
だからこれ以上邪魔にならないように、人の後ろに身を隠す。
実際は隠れなくても、勝手に隠れる。
私より小さい人は、どこにもいないので。
すでに競技としては終盤。
残っているのは、5人だけ。
それでもタイミングの関係上、跳ぶ間隔はかなり長い。
つまり時間があるので、色々出来る。
熱田神宮へ、念を送ったりとか。
「何してるの」
笑い気味に現れる鶴木さん。
その隣には、相変わらず木刀を担いだ右藤さんも。
「友達がいるので」
「ああ、青木さん。でも勝つのは、ちょっと難しいわね」
端末に表示される、彼女のベストと平均記録。
それと比較して表示される、今現在残っている他の4人のデータ。
特にトップ三人の記録は、群を抜いている。
「招待選手って、あれね」
「なんとかならないんですか」
「体育祭としては問題だとしても、試合としては当たり前の事だから。やるしかないわ」
厳しい発言。
彼女らしい、また信念に基づいた。
「ただトータルのポイントとしては、3位までに入るといいのよね。SDCの優勝を考えると」
「どっちなんですか」
「私に聞かないで。とにかく全力を尽くす。それ以外にないでしょ」
しかし端末のデータが示すように、彼女とトップ3人はかなりの差がある。
普通にやっていれば、負ける事は必至。
青木さんがベストに近い記録を出せば、勝機はあるが。
「面白くないな」
とはいえ自分にはどうしようもないので、もう一度熱田神宮へ向かい願を掛ける。
「何してるんだ」
「熱田神宮に、お願いしてます」
「お願い、ね」
「悪いですか」
きっと右藤さんを睨み、すぐにもう一度お願いする。
あまり高望みしてもあれなので、青木さんが頑張れますようにと。
「怖い子だ。しかし、あまり雰囲気が良くないな」
私の雰囲気が、ではない。
会場全体の事を言っているのだろう。
ざわめきと歓声。
落ち着きが無く、浮足だったような空気。
さっきの男子100m走の余韻。
次のトラック競技までの、時間的な空白。
退屈と興奮の重なった、嫌な状態。
ジャージを脱ぎ、体を解す青木さん。
今残ってるのは4人。
トップの3人と、青木さん。
しかし彼女は手を振り、パスの意思を示した。
他の3人は、すでにパス。
必然的に、バーの位置が高くなる。
ただ他の3人は、その一つ前をクリアしている。
逆に青木さんは失敗。
つまりここで彼女が失敗すれば、自然と彼女の負けになる。
大きな賭け。
自分の身長以上の高さ。
ベストを越える高さの位置。
無謀。
自分を知らない行為。
そんな事は言わせておけばいい。
戦いの意味を知らない連中は。
落ちるバー。
マットを叩く少女。
おざなりな拍手。
私も彼女の健闘に、拍手を送る。
再び準備を開始した青木さんにも。
前の二人は成功。
一人失敗。
つまりこれを跳ぶ事が出来れば、3位が決まる。
「まずいな」
木刀を担ぎ直す右藤さん。
さっき以上に騒がしくなる観客席。
トラック競技は何も行われていない状況。
フィールドは高跳びだけ。
暇を持て余し、しかし興奮もしている彼等。
無意味な熱気で包まれた、重苦しい空気。
青木さんにとっては、何一つ得もしない。
淡々とスタート位置に着く青木さん。
周囲の喧騒も、人の動き。
彼女にとっての、邪魔でしかない存在。
それでも彼女は、その位置に着く。
自分の、戦いの場所に。
突然打ち上げられる花火。
一瞬にして会場を静寂に戻すだけの爆音。
青い空に残る、白い煙。
「静かにしなさい」
スピーカーから聞こえる落ち着いた声。
会場内が呆然としている間に、青木さんがスタートを切る。
今までと変わらないリズム、変わらないフォーム。
コースも速度も、何一つ乱れはない。
地面を離れる足。
バーをかすめるように浮き上がる体。
渓流を渡る若鮎のようにしなやかに。
反り返る上体。
翳り始めた日射しに照らされる。
バーの上にまで届く背中。
どこまでも跳んで行きそうな、柔らかい飛翔。
だけどそれはつかの間の時。
地面へ向かう前髪。
当然彼女自身も。
バーに迫る細い足。
しかし足は軽やかに跳ね上げられ、天を仰ぐ。
バーを揺らす事も無く、遠ざかる。
マットの上に舞い降りた、青木さんの後を追って。
「よしっ」
小さくガッツポーズをして、拍手する。
静まり返った会場内で、私一人が。
そして一つ、また一つと拍手が起きる。
さっき同様控えめな。
だけど暖かい拍手が。
やはり、さっきと同じく小さく手を上げる青木さん。
ベストを更新して、3位以内を確保しても。
彼女は変わらない。
「よしっ」
もう一度言って、少し跳ぶ。
意味なんて無い。
ただ興奮しただけだ。
「落ち着きなさい」
「どうして」
「もういい」
「君はいつも元気だな」
去っていく二人。
私は残り、手を上げる。
すぐに振り替えされる、小さな手。
高い空へ届いた少女からの。
控えめな、精一杯の贈り物。




