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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第23話
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23-3






     23-3




 アップでかいた汗をタオルで拭き、深呼吸して息を整える。

 それはまた、はやる気持ちを抑えるためにも。

 リュックからヘアバンドを取り出し、慎重に丁寧に額へ合わせる。

 刻々と過ぎていく時。

 一口だけ水を含み、口の中を湿らせる。

 滅多に味わう事のない、体の奥から震えが来るような緊張感。

 ベンチから立ち上がり、ゆっくりと一歩一歩確かめるように歩き出す。

 本当に震えている足を叩きながら。

 戦いの地へと、赴くために。



 グラウンドを囲む、先日までよりは明らかに多いギャラリー。 

 ビデオカメラを持った大人の姿も、何組か見受けられる。

 こちらは緊張というより、期待と興奮だろうか。

 ただ彼等の注目は、誰に対してでもない。

「来たわね、とうとう」

 普段とは違い、引き締まった表情で私を出迎えるニャン。

 いや。猫木明日香。

 アジアGP100m走金メダリスト。

 オリンピック指定強化選手。

 国内女子では数少ない、10秒台前半に及ぶタイムを出す。

 この注目を一身に受ける存在であり、私が倒すべき相手。

「分かってるだろうけど、遠慮しないから」

「勿論」

 軽く手を合わせ、あっさりとすれ違う。

 その後は、もう振り返りもしない。

 この場にいるのは、小等部以来の親友ではないんだから。



 レース開始を告げる放送が、グラウンドに響き渡る。

 私はイン。

 ニャンは、その右側。

 コースによって有利不利はあるというが、私はどこだって関係ない。

 やる事はただ一つ。 

 コースを走りさえすればいい。

 緊張気味の他のアンカーに比べ、至って落ち着いた仕草でストレッチをするニャン。

 黒のタンクトップに、黒のショートパンツ。

 私とどれ程も変わらない体格が、今は何故か大きく見える。

 それは自分が緊張しているせいか。

 取りあえず軽く体を動かし、ヘアバントに触れる。

 少し戻ってくる冷静さ。

 ただこれから走る事を考えれば、多少の緊張でアドレナリンを出しておいた方がいい。

 そこまで器用に、体内のホルモンバランスを調整出来る訳もないが。

「紐」

 短く、素っ気ない一言。 

 何かと思ったら、スパイクの紐が少し緩んでいた。

 走っている最中に踏んだり脱げる程ではないが、その可能性を全くは否定出来ない。

 慌てて紐を結び直し、顔を上げる。

 しかしニャンは何事もなかったかのように、コースの行く手を眺めている。

 そう。

 こうに決まっている。

「ありがとう」

 私も短く、素っ気なく告げる。

 それ以外は必要ない。

 戦う相手に対して掛ける言葉としては。



 静まり返るグラウンド内。

 クラウチングスタートの構えを取る第1走者達。

 小さなクラッカーの音がして、彼等が一斉に飛び出す。

 早まる鼓動。

 すぐに胸を抑え、軽く叩く。

 意味はない。

 ちょっとだけ落ち着こうと、自分に言い聞かせたくらいで。

 悪くはない渡瀬さんのスタート。

 後続はすでに引き離している。

 彼女の前にも、一人走っているが。

 縮まらない陸上部との距離。

 コーナーを曲がり、あっという間にバトンゾーンがやってくる。


 スムーズなバトンパス。

 いい出足で飛び出す土居さん。

 長いストライドと力強い腕の振り。

 即座にトップスピードに乗り、直線を駆け抜ける。

 後続はやっとバトンをパスしたところ。

 無論先頭は、以前として陸上部。

 確かに縮まってはいないが、決して追いつけない距離でもない。

 まだまだ勝機は残ってる。


 バトンを受け取る沙紀ちゃん。

 先日までよりも滑らかでしなやかな走り。

 離れていく後続。

 間違いなく縮まる、陸上部との距離。

 追いつくまでには至らないが、彼女と黒沢さんとの距離は狭まっている。

 一気に上がる観客のボルテージ。

 でも今は、歓声も何も聞こえない。

 ゆっくりと前を向き、もう一度ヘアバンドの位置を直す。

 後は、自分の仕事をするだけだ。


 マーカーの位置を思い出し、沙紀ちゃんが来た所で地面を蹴る。

 一瞬体に掛かる負荷。

 少しずつ上体を起こし、フォームのブレを直しながら速度を上げる。

 すでにニャンは飛び出した後。

 その姿を見ながら、しかし意識は走る事だけに集中させる。

「はいっ」

 手の中に収まるバトン。

 微かに触れる、沙紀ちゃんの指先。

 温もりの残るバトンを握り締め、先を行くニャンを追う。



 第3コーナーの終わり。

 より内側へと切れ込んでいくコース。

 私はイン。 

 ニャンは、私のかなり前を走っている。

 スタートの位置分彼女が先行しているが、それを考慮しても離れ過ぎか。

 景色を後ろへ流し、足首を返す。

 少しだけ浮き上がる体。

 すぐに伝わる着地の衝撃。

 それを感じつつ、腕の振りを前進する力へと変える。


 第4コーナー。

 詰まってくるニャンとの距離。

 ただそれは、スタートのハンディが無くなっただけに過ぎない。

 ここを曲がり終えれば、後は純粋にお互いの実力勝負になる。

 変わらないニャンのフォーム。

 落ちるどころか、早くなる速度。

 しかし、それはこちらも変わらない。

 頬を打つ強い風。

 ヘアバンドの前で揺れる前髪。

 きしみを立てる全身の筋肉。

 苦しくなってくる呼吸。

 でもこれは、走っていればこそ。

 この場にいればこその苦痛である。



 第4、最終コーナーの立ち上がり。

 開ける視界。

 どこまでも続くストレート。

 足首の感覚、太ももの上がり具合。

 頭をぶらさず、体の振りをリズミカルに。

 意識をしている訳ではなく、体が自然とそう動く。

 今はもう、苦しさも何もない。

 純粋に走るだけ。

 この先どこまでも。

 ただ走る事だけのために。

 でも、何のために。

 ここって……。



 肩に掛けられるタオル。

 それで顔を拭き、視線をさまよわせる。

 大勢の人。

 拍手と歓声。

 手を上げている4人の女の子。

 見慣れた、よく知っている顔。

 同時に襲ってくる疲労感。

 すぐにしゃがみ込み、手渡されたスポーツドリンクを口にする。

「大丈夫?」

 苦笑気味に話しかけてくるニャン。

 ニャンって誰だ。

「え」

「え、じゃないでしょ。親友に向かって」

 頬を撫でる小さな手。

 親しげな、懐かしさを覚えるような。

「ああ。リレー」

「大丈夫じゃないみたいね。誰か、酸素のスプレー持ってきて」

 小さなマスクを口に当て、深呼吸を繰り返す。

 ようやく戻ってくる意識。

 ただ体の方は、未だに動きたくはないらしい。

「でも、良くやったわよ」

「負けは負けじゃない」

 軽く地面を拳で叩き、ため息を付く。

 元々無謀なのは分かっていたが、現実として突き付けられるとやはり悔しい。

「あのね。私達はこれで生きてるのよ。負けたら、恥ずかしいでしょ」

「黒沢さんは、負けそうだったのに」

「私の事は放っておいて」

 ジャージを肩に掛け、私を見下ろす黒沢さん。

 彼女もまた、若干悔しそうに見える。

「ハードル。ハードルで勝負しましょう」

 何を言ってるんだか、この人は。

 陸上部次期部長って話は、多分嘘だな。

「そういう話は、個人間でやって。私はもう、何もしたくない」

「チョコ食べます?」

 差し出される小さなチョコ。

 労うように笑っている青木さん。

 そこでようやく、さっきから世話を焼いてくれた人が彼女だと気付く。

「あ、食べる」

「いや。そういう意味じゃなくて。……いいんですけどね」 

 開けた口に、チョコを入れてくれる青木さん。

 いいなら、いいじゃない。

「とにかくユウユウ達の分まで頑張るから」

 明るく笑うニャン。

 私も彼女に笑いかけた所で、ふと思い出した。

「変な連中がいるの知ってる?学校が招待した」

「知ってます。でも、相手にならないわ」

 強気な黒沢さん。

 さっき追いつかれそうになってたのに、どうしてこうかな。

「何か文句でも?」

「別に。二等賞とか無いの」

「ありません」

 はっきりと、情け容赦なく一斉に言い切られた。

 ノートくらいくれたって、罰は当たらないと思うけどな。

「何か」

「別に。とにかく帰る」

 よろりと立ち上がり、ぐらりと倒れる。

 腰が抜けたというか、体に力が入らない。

「ちょっと、誰か」

「帰ったわよ、みんな」

「どうして」

「私達がいるから気を遣ったんじゃない?」

 私を置き去りにしてか。

 だったら、私にどうしろっていうんだ。 

 というか、どうしようもないんだけど。

「ニャン」

「ごめん。私達も、色々用事があるの」

「ではまた」

「頑張って下さいね」

 何を頑張るんだ。

 ここから這って帰れっていう意味かな。



 勿論そんな訳はなく、見に来ていたサトミ達の手を借りてどうにか帰宅。

 それから一日経っても、体調は全く変化無し。

 むしろ痛みは増している。

「何してるの」

「動きたくないの」

 ソファーに寝たまま、手だけを伸ばしてペットボトルを取る。

 それを落として、落としたままにする。

「拾いなさい」

「嫌だ。出来ない」

 別にわがままで言ってる訳じゃない。

 筋肉痛がひどくて、全身がきしむように痛むからだ。

 じっとしていれば大丈夫だけど、それこそ箸を持っただけでも叫びたくなる。

「干物みたいになってるわね。大丈夫?」

 言葉とは裏腹に、くすくす笑うお母さん。

 こちらは言い返す気力もなく、手を伸ばしてお母さんにすがりつく。

「何とかして」

「何を」

「痛いんだって」

「子供みたいな事言わないで」

 じゃあ、どんな事を言えばいいんだ。

 大体、子供だっていうの。

「クールダウン用のスプレーは」

「あれは、ひりひりする。何か無いの?」

「病院は?」

「安静にするしかないって」

「だったら、大人しくしてなさい。大体、学校は」

 痛い所を付かれてしまった。

 確かに病気や怪我ではないにしろ、この状態では歩く事もままならない。

 結局休む以外にない。 

 いや。自分でそう決めたんだけど。

「私はね。忙しいの。あなたに構ってる暇はないの」

 TVを観ながら、そうのたまう沙耶さん。

 私のお母さんだったはずだが、気のせいかも知れない。

「娘が困ってるんだから、何とかしてよ」

「筋肉痛なんて、治しようがないじゃない。……ちょっと待って、思い出した」

 キッチンへ消えるお母さん。

 何か、嫌な予感がするな。



「あったあった」

 持ってきたのは、細い小瓶。

 一瞬包丁を疑ったが、考え過ぎだったようだ。

 何故包丁かは、自分でも理解不能だが。

「足出して」

 床に正座するお母さん。

 その太ももに、足を乗せる。

 指先に走る、生ぬるい感触。

「な、何?」

「大人しくしなさい」

「で、出来る訳が。ひゃ、ひゃっひゃっ」

「ちょっと、動かないで」

 出来るか、そんな事。

 く、くすぐるなっていうの。

「な、何してるの。うひゃっ。ひゃっひゃっ」

「オイルマッサージ。オリーブオイルを塗り込んでるの」

「パ、パスタじゃないんだから。ひゃっ」

 もう駄目。

 駄目というか、耐えきれない。

「や、止めてって」

「優がやれって言ったんでしょ。我慢しなさい」

 いつにない力強さで足を押さえ込むお母さん。

 しかし足の裏を撫でる感覚は、妙に優しくて丁寧。

 だからこそ、ひっくり返りそうになる。



 ペットボトルのお茶をがぶ飲みして、息を付く。

 何というのか、余計疲れた。

「左は?」

「絶対嫌」

 膝を抱え、防御の態勢を取る。

 ようやくケイの気持が、少しだけ分かった。

 これからのやりがいも、改めて見いだしたとも言える。

「オイルは、まだ残ってるのに」

「だから、それはパスタに使って。娘にじゃなくて」

 まだなんか、足の裏がむずむずする。

 しばらくはこれで、思い出し笑いをしそうだな。

「誰か来てる」

「出て」

「だから、動けないっていうの」

「あなた、太るわよ」

 怖い台詞を残し、セキュリティをチェックするお母さん。

 少し変わる表情。

 セキュリティの解除を待たず、リビングに入ってくる来客。

「何寝てるの」

 私を見下ろす、小柄な老女。 

 お母さんのお母さん。

 つまり、私からすればお祖母ちゃん。

「筋肉痛でね」

「どこが」

 いきなりつつかれた。 

 こっちはそれだけでも苦しいので、身をよじる。

「はは、面白いわね」

 笑った。 

 それも、げらげらと。

「止めて」

「止めない」

 無慈悲に突く真似をするお祖母ちゃん。 

 絶対これは、血統だな。

「お母さん。恥ずかしいから止めて」

「うるさい子ね。大体、いつになったら大きくなるの」

「来年じゃない」

 馬鹿げた会話を交わす二人。

 こっちは構わず、テーブルに置かれた小さな紙袋を開ける。

 何だ、これ。

「ポテトのパンケーキ。美味しそうでしょ」

「器用だね。年の割には」

「一言多いわよ。私はまだまだ、これからなの」

 60を過ぎて、まだまだか。

 何か、気が遠くなってきた。

「睦夫さんは?」

「さあ。朝からどこか行ったみたい」

「会社じゃなくて?」

「知らない。私は私の事で忙しいから」

 キッチンへ消えるお母さん。

 お祖母ちゃんは不安げな表情で、耳元に顔を寄せてきた。 

 しかし、どう見てもお母さんと同じ顔だな。

「ケンカしてるの?」

「知らない。朝起きたら、もういなかったから。でもケンカはないでしょ。お父さん、優しいし」

「ならいいけど」

 納得出来ないという顔。 

 少なくとも私はお祖母ちゃんより睦夫さんには詳しいので、気にはならない。


「ただいま」 

 パンケーキを食べていると、そのお父さんが帰ってきた。

「あ、お義母さん。こんにちは」

「ええ、こんにちは。元気そうね」

「僕は問題ありませんよ。優は?」

「以前変わらず。電器を流されてるみたい」

「はは」

 笑うお父さん。

 差し出される小さな小瓶。

「オリーブオイルじゃないでしょうね」

「え?」

「いや。こっちの話。……ああ、ビタミン剤」

 ビタミン剤といっても、モトちゃんのお父さんが持ってくる得体の知れない物ではない。

 第3日赤の文字が見える。

「病院へ行ってきたの?」

「優の学校の先生に、処方箋を書いてもらってきた」

「ありがとう」

「いいよ、気にしなくて」

 優しく笑うお父さん。

 控えめな甘みが、喉を通って体に染み込んでくる。

「やっぱり、こうだよね」

「何が」

「足をくすぐるのとは、根本的に違うって事」

「あ、そう。好きにしてよ、もう」

 拗ねるお母さん。

 その傍らに寄り添い、何かを渡すお父さん。

「何よ、もう」

 ニヘニヘ笑い、小瓶を飲んだ。

 私のではなく、お母さんに渡された分を。

「まめね、相変わらず」

「はい?」

「こっちの話。じゃ、私は帰るから」

 慌ただしく荷物をまとめ、玄関へ向かうお祖母さん。

 落ち着きのない大人というか、老人だな。

「ご飯くらい食べていったら」

「色々忙しいのよ。あなたと違って」

 高校生より忙しいって、一体何をやってるんだか。




 ビタミン剤を飲んで元気回復。

 という訳にもいかず、終日安静にして過ごす。

 動けるようになってきたのは翌日から。

 用を済ますため、よろよろと這うようにして寮へ戻る。

「元気そうね」 

 廊下で、山下さんとすれ違う。

 かなり笑い気味というか、意味ありげに。

「見てたの、リレー」

「ああ」

「土居さん達は平気だったのに。無理し過ぎたんじゃなくて?最後、すごかったものね」

 そうかな。 

 自分では何の実感もないというか、記憶が飛んでいる。

「休んでたって聞いたけど」

「多少回復しました」

「そう。警備の事で、みんな探してたわよ。人気者ね」

 また笑われた。

 そんなにおかしいかな。

「土居さんの走る姿は、なかなか笑ったけど」

「はあ」

「ほら、あの子普段は大人しいというか冷静じゃない。人前に出たがらないし」

 確かにそういう面はありそうだな。 

 誘った時は、深く考えてもみなかったけど。

「何にしろ、当分楽しめそうね」

「そうなんですか」

「私達としてはって話。じゃ、またね」


 一気に部屋へ行くのは辛いので、ラウンジで一休みする。

 普段は気にもしない距離なのに、意外と遠いんだな。

「やあ」

 物静かな調子で声を掛けてくる阿川君。

 ちなみにここは、女子寮である。

「知り合いに、頼まれ事をされてね」

 私の疑問を読み取ったらしく、ここにいる理由を告げる阿川君。

 クールな魅力が、女の子にはいいのかも知れない。

 いや。知らないけどさ。

「しかし、笑ったよ」

「……ああ、土居さん」

「あの子は冷静というか、自分を前に出さないタイプだからね。ああいうのは、珍しい」

 実際イン、声を出して笑い出した。

 私には何が面白いのか理解不能なので、ただその様を見つめるだけだ。

「悪い。とにかくこれで、当分彼女をからかうネタが出来た」

「山下さんも、同じような事を言ってました」

「笑える土居さんなんて、滅多に無いからね。まあ、迂闊に笑えば殴られるのがオチだけど」

 そうなのか。

 ただそれは、思った通りだな。



 ラウンジでテーブルに伏せていると、聞いた事のある声が聞こえてきた。

 聞き馴染んだというより、聞きたくないと言うべきか。

 少しだけ顔を上げ、伏せたまま周囲の様子を探る。

 隣のテーブルに出来ている、女の子の輪。 

 笑い声とどよめき。

 中心に誰がいるかは、考えるまでもない。

「あら」

 今気付いたという感じの声。

 誰に気付いたかは、考えたくもない。

「どうかなさったんですか」

 見れば分かるでしょ。

 などと言う程、子供ではない。 

 相手にする程、大人でもないが。

「雪野さん」

 とうとう、名前を呼ばれた。 

 さすがにここで無視するのは度が過ぎるので、のろのろと顔を上げる。

 ブランドっぽいシャツと、テーブルの上に置かれたバッグや装飾品。

 全く、こんな所に持ってくるなっていうの。

「お疲れみたいですね」

「そうよ。眠たいの」 

 話を早く打ち切りたいので、理由を簡潔に告げて欠伸をする。

 取り巻きの女の子から鋭い視線が飛んでくるが、微かにも気にならない。

 眠いのもあるし、気にするような連中でもない。

 などとケイのような発想をしつつ、腕を揉む。

「リレーをしたそうですね」

「したよ。だから、疲れてるの」

「あなたは、ガーディアンではなかったんですか」

 うるさいな。

 私が何をしようと、関係ないでしょ。

「そうね。これからは、改める」

 とにかく事を荒立てる心境ではないし、体調でもない。

 今はじっと大人しくして、ゆっくりと体を休める時だから。

「子供ではないんですから、もう少し自分の立場という物を自覚なさったらいかがですか」

 ああ、悪かったわね。

 考え無しに行動して、結局何も出来なくなって。 

「どうしようもありませんね」

 その辺の物を投げたくなったが、我慢して顔を伏せる。

 端的に言えば、動く気力もないので。


 静まり返るラウンジ内。

 伏せていても分かる、女の子達の動揺。

 熊でも出たのかな。

「眠いのか」

 笑い気味の、だけど優しい声。

 ただ声を聞かなくても、誰かは大体分かってた。

「まだ、疲れが抜けないの」

「リレーは、3日前だろ」

「なんとでも言ってよね」

 のそりと起き上がり、渡されたペットボトルを受け取る。

 すぐに周囲から上がる、地鳴りのようなどよめき。

 お茶を受け取っただけだっていうの。

「ここはうるさいから、部屋行こう」

「え、ああ」

「こんにちは」

 優雅に挨拶をする矢加部さん。

 さっきまで私に嫌みを言っていた人と似ているけど、気のせいだろうか。

「ああ、こんにちは」

「雪野さんはお疲れみたいですから、よろしくお願いしますね」

「分かってる。気を遣わせたみたいで、悪いな」

「いえ、全然」

 たおやかな微笑み。 

 全く、誰が悪いんだか。



 周囲の注目を浴びつつ、部屋へ戻る。

 自室だと余計うるさいので、別宅へ。

「意外と元気そうね」 

 優しく歓迎してくれるモトちゃん。

 でもって、苦いお茶でもてなしてくれた。

「疲れた時には、これが良いらしい」

「飲んだ事あるの?」

「え、聞こえない」

 キッチンへ逃げる、多分親友。

 どう考えても人の飲む味ではないので、ショウの湯飲みへ全部注ぐ。

「おい」

「いいから、飲んで」

「俺は疲れてないんだぞ」 

 文句を言いつつ、顔をしかめて湯飲みを空にするショウ。

 本当にいい人だな。

 だけどこれだと、毒を出しても飲むんじゃないの?

「リレーはもう無いんだから、体育祭の警備はお願いね」

「当分は、動きたくない」

「聞きたくない。大体その調子だと、仮に勝っても棄権するしかなかったんじゃない?」

 何だ、棄権って。

「リレーよ、リレー。それだと、次のレースには間に合わないでしょ」

「次って、ニャンと戦って終わったけど」

「たまにすごいわね、あなた」

 心底感心したという口調。

 もしくは、呆れたというべきか。

 ただ、それも今更だ。


 かなり動いたせいか、はや限界。

 ため息を付いて、ベッドに寝転ぶ。

 こうすると、もう二度とここから動きたくないな。

「面倒だな、もう。警備って何よ」

「俺に聞くな」

「あー、うー」

 ベッドの上で寝返りを打ち、壁に当たって戻ってくる。

 意味はない。

 意味がないから面白い。

「止めて」

「止めろ」

 同時に止められた。

 本当に、面白みのない生き方をしてる人達だな。

 人の部屋で転がり回るのが面白いのかは、私にも判断しかねるが。



 夜に目が覚めた。

 喉が渇いたので、キッチンへ向かい冷蔵庫を開ける。

 ビール、カクテル、冷酒。

 貝、マグロ、角煮の缶詰。

 何か、お酒とその肴ばっかりだな。

 隅にあった時季外れの麦茶を手に取り、一口含む。

 少しずつ、暗闇に目が慣れてくる。

 違和感のある光景。 

 夢でないのは、膝の痛みからも明らかだ。

 いいか。

 お茶も飲んだし、まだ眠いし。

 細かい事は、朝にでも考えよう。


 次に目が覚めたら、朝になっていた。

 最近は、一日の過ぎるのが早いな。

「あれ」

 やはり違和感のある光景。

 いや。見慣れた事のある眺めなんだけど、何かが違う。

 いいか。

 さっさと着替えて、学校へ行こう。



 笑われた。

 それも派手に。 

 誰からも。

「何よ」

「あなた、誰」

 真顔で指摘するサトミ。

 誰って、雪野優じゃない。

「じゃあ、もう一つ質問。それは、誰の服」

「何が」

 手首より長いシャツ。

 腰より下まである、ジャケットの裾。

 スカートは膝の下に届いている。

「あれ」

「おはよう」

 陰気な声でやってくるモトちゃん。

 朝から授業に出てくるなんて、珍しいな。

 しかも、私服だし。

「何、それ」

 ボディーラインにフィットした、青いセーター。

 同じく足にフィットしたジーンズ。

 サイズが合っていないように見える。

「どう思う?」

「分かったけど、分からない事にする」

 取りあえずジャケットを脱ぎ、彼女へ渡す。

 向こうからはセーターを。

 ようやく昨日からの違和感が理解出来た。

 あそこはモトちゃんの部屋で、来ていたのはモトちゃんの制服。

 まだ、かなり疲れてるみたいだな。



 休憩時間中に全部交換して、ようやく元の私に戻る。

 しかしモトちゃんが来てた時はぴちぴちだったのに、私が着るとだぶだぶだな。

 いや、違う。

 あの子が着たから伸びたんだ。

 そう思って、一生生きていこう。 

「よう。笑ったぞ」

 何だ、私の服装をか。 

 塩田さんは嫌そうな顔をして、私の前から少し下がった。

「リレーだ、リレー。お前の恰好じゃない」

 ああ、そうか。

 でも、どうしてあの恰好の事まで知ってるんだ。

 やはり忍者は、得体が知れないな。

「お前、陸上部に入ったら……。無理か」

 机に伏せたままの私を見下ろす塩田さん。

 対抗上、こちらもすぐに睨み返す。

「怖いんだよ。とにかく、暇になったんだから警備頼むぞ」

「動く気力も無いんですけど」

「お前や御剣は、いるだけで馬鹿連中の抑えになる。悪いが、立ってるだけでもいいんだ」

 私は魔除けか。 

 大体、御剣君と一緒にされても困る。

「なんだ。文句でもあるのか」

「あり過ぎて、訳が分かりません」

「幸せだな、お前は。今日は早く帰って、ゆっくり休め」 

 最後には優しい言葉を残し、教室から出ていく塩田さん。 

 じゃあ、さっさと帰るかな。

「何よ。サトミも帰るの」

「悪い?」

「悪いっていうか。仕事は」

「今日はオフ。全ガーディアンも、生徒会も」

 みんな疲れてるのかな。

 などと考えていたら、嫌な目で睨まれた。

「あなた。明日が何か知ってるの?」

「知らない。誰かの誕生日?」

「体育祭でしょ」

 優しく、噛んで含むように。

 一字ずつ、区切って言ってくれた。

「どうして。まだ、もっと。あれ?」

「あなた。何日寝てたの」

 失礼な子だな。

 休んでたのは二日だけで、だから体育祭は。

「ああ、明日」

「もういい。寝過ごして、あさってにならないでよ」

 そんな訳あるか。

 多分。

 いや。目覚ましを用意しておこう。

 それとサトミに、起こしに来てもらおう。



 突然の休みで時間をもてあまし気味。

 という訳で、男子寮を訪ねてみる。

「俺は、忙しいんだ」

 無慈悲な台詞。

 構わず机の上を漁り、面白い物がないか一通り探す。

 何だ、これ。

「どうしたの、これ」

「前からあるだろ」

 素っ気なく答えるケイ。

 机の上にあったのは、ウサギの人形。

 確かに前も見た記憶はあるが、机の上には無かったはずだ。

「何かあったの?」

「別に。いいから、帰って寝ろよ」

「まだ夕方じゃない」

 寮へ帰ってもやる事はないし、たまには敵情視察も重要だ。

 今度、オリーブオイルでも持ってこようかな。

「ヒカルは?」

「知らないし、興味ない。俺はあいつの親じゃない」

 弟でしょうが。

 それも、全く同じ遺伝子を持った。 

「あーあ。暇だなー」



 叩き出された。

 仕方ないので、壁伝いに廊下を歩く。

「四葉さんなら、いませんよ」

 丁寧に教えてくれる御剣君。

 別に、あの子へ会いに来た訳じゃないんだけどな。

 私と対と思ってたりして。

「はは。知ってる」

「痛いです」

 構わずもう二三回肩を叩き、にへにへ笑う。

 気味が悪いとも言うが、気にしない。

「でも、リレーはすごかったですね」

 みんな同じ事を言うが、実感はない。

 第一すごいのはニャンで、私ではないから。

「いいの。もう終わった事だから。御剣君は、何か出るの?」

「ええ、まあ。明日のお楽しみって事で」 

 意味ありげな笑顔。

 良く分からないが、わざわざそう言うくらいだからおかしな事をやるんだろう。

「私は、動きたくもないけどね。もう、燃え尽きた」

「体育祭は、明日からですよ」

「分かってる。そのお楽しみ、頑張ってね」

「ええ、四葉さんにもよろしく」

 のしのしと歩いていく御剣君。

 よろしくはいいけど、何がよろしいんだ。

 意味不明だな。

 廊下でしゃがみ込んでいる私も含めて。



 男子寮は飽きたので、近くのコンビニへ向かう。

 スクーターの力は偉大で、軽く手首をひねっただけで前に進む。 

 この前の私の、倍以上のスピードで。

 何か、面白くないな。

「やあ。笑ったよ」

 コンビニの前で、にこやかに笑う沢さん。

 その隣にいた七尾君も、同様に。

「私は笑えません。まだ、筋肉痛だし」

「雪野さんもそうだけど。俺としては、土居さんが笑ったな」

「北地区の人は、みんなそれ言うね」

「このビデオは、小泉さんにも送ってやろう」

 異様に楽しそうだな。 

 それが土居さんの事なのか、小泉さんと連絡を取る事に関してなのかは知らないが。

「仲いいんですね。二人。学校は、もう終わったのに」

「研修の帰りだよ。教育庁の」

「ああ、この前言ってた」

「今時フリーガーディアンって話だけどね。これからは、もう少し講習内容を緩めて各校の選抜者を研修させる形に移るのかも知れない」

 訥々と語る沢さん。

 つまり飛び抜けた個人から、平均的な多数へ変わるという事か。 

 その意義や意図は私には分からない。

 遠い目で、夕闇を見上げている沢さんの心境も。

「雪野さんも、研修を受けてみる?」

「嫌です。今だけでも大変なのに、これ以上何かしたら破れます」

 というか、もう破れてるんじゃないのかな。

 だからこうして、気が抜けてふらふらしてるんだ。

「そうか。まあ、君達は今のままで十分だけどね」

「十分過ぎるって気もしますよ。中には、駄目な人もいるけど」

 コンビニから出てくる風間さん。

 ビニール袋一杯に、何かを詰めて。


「あんた、また買ったんですか」

「悪いか」

「悪いです」

 袋の中を覗いてみると、おもちゃが入ってた。

 こういうのを集める男の子はいるにはいるが、かなり度が過ぎてるな。

「トーレスが出ないんだ、トーレスが」

「何です、それ」

「守備の要。5番といえば、トーレスだろ」

 カタログを見ると、「グランパス 名選手シリーズ」とある。

 でもって、同じキャラが20体くらい被ってる。

「これは、誰ですか」

「リネカー。試合にも出ないで、こんな所で出やがった」

 怒る風間さん。

 しかし、古い選手までよく知ってるな。

「そんなに好きなら、サッカー部に入れば?」

「雪野さん。それは禁句」

「どうして」

「下手なんだよ、風間さん」

 いじけた目で睨んでくる、サッカー少年。

 いや。サッカー好き少年か。

「だから彼は、こうして代理化してるんだよ。昔の夢を、別な形に置きかえてね」

「逃げでしょ、逃げ」

「うるさいな、お前ら。いいんだよ、下手でも。俺が楽しければ」

 本当にいいのかな。

 いいか。私に関係ないし。

「明日は、何か出るんですか」

「馬鹿か、お前。俺達はガーディアンだろ。遊んでる暇はない」

 誰が馬鹿か、一度じっくり話しあいたいな。

「でも、枠はあるんでしょ」

「俺は出ない。出るのは暇な奴か、馬鹿だけだ」

「風間さん、結構不器用だからね。競技系は、駄目なんだよ」

「悪かったな。明日なんて、雨が降ればいいんだ」

 子供だな。 

 それも、相当に。



 暮れていく空。

 冷たさを増す風。

 だけど空には、雲一つ無く。

 大きな月が浮かんでいる。

 明日の晴天を、予感させるような。 













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