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「誰っ、あれ誰っ」
サトミの部屋に飛び込み、開口一番そう叫ぶ。
しかし向こうは英文で書かれた文庫本へ視線を落としたまま、反応すらしない。
その内容に没頭しているようにも、いちいち私の相手をするのに疲れたようにも見える。
それに構わず顔を近付け、同じ言葉を繰り返す。
サトミはようやく本を置き、小さく息を付いて私の顔を両手で包み込んだ。
「私からも質問。あなたこそ、誰」
「雪野優じゃない」
「だったら、もう少し分かりやすく説明してくれるかしら。雪野さん」
ゆっくりと、噛んで含めるように話しかけてくるサトミ。
なるほどと思い、ローテーブルの上にあった卓上端末をいじる。
「可愛い指ね」
「そんな事はどうでもいいの。えー、どれだっけ。あーっ。うー」
「もういい。それで、何」
「足が速くて、4人で、女」
露骨に顔をするサトミ。
それでも彼女がキーを叩くと、グラウンドで見た女共の画像が表示された。
「これ、これっ」
「生徒会が招聘した、招待選手みたいね」
「ああ?なんで」
「この前言ってた、学内の勢力関係でしょ。体育会で活躍すれば尊敬される、と思ってるのよ」
鼻で笑うサトミ。
少なくとも彼女は、その事を信じていないようだ。
また実際、活躍したからといってどうという事もない。
しばらくみんなの話題にはなるが、せいぜいそのくらいが関の山だ。
「馬鹿かな」
「勿論一種目だけではなく、全種目にエントリーはするんだろうけど。頭がいいとは思えないわね」
「大体私達がいるから、勝てる訳無いじゃない」
「あなたも相当ね」
悪かったな。
そのくらいの自信がないと、人は大きな事を成せないのよ。
リレーで勝つのが、大きな事かどうかはともかくとして。
「タイムを見る限りでは、かなり早くない?」
「早いかもね。でも、もう一勝してるから」
「あなたが揉めてどうするの。本当に馬鹿ね」
しみじみ言われても困る。
第一、そんな事は自分が一番よく分かってるんだし。
どうも面白くないので、悪魔を召還する。
「何だよ」
無愛想な返事。
構わず、さっきの画像をケイに見せる。
「速い、速いんだって」
「だからどうしろっていうんだ。毒まんじゅうでも送るのか」
「違うわよ。馬鹿じゃない」
「だったら、馬鹿にも分かるように説明してくれ」
鼻を鳴らしペットボトルのお茶を飲むケイ。
それもそうか。
「リレー、リレーにエントリーしてる。学校だか生徒会の招待で」
「金があるんだな、この学校は。俺も招待して欲しい」
「どこに、何のために」
「細かい女だな。で、俺にどうしろって」
どうしろって、どうしよう。
ラウンジ内に視線をさまよわせ、救いを求める。
知り合いは、呆れ気味に顔を背ける人ばかり。
重い沈黙が、だらだらと続く。
「俺も暇だけど、意味もなく呼び出される程じゃないんだ。愚痴なら、ショウにでもしてくれ」
「あの子に話して、何か解決するの」
「気は軽くなる」
なる程。
少し参考になった。
何一つ、解決にはなってないが。
「それに招待して、メリットがあるの?」
「俺に聞くなよ。サトミはどう思ってるか知らないけど、スポーツ関係は意外と影響力がある。ある程度勝てば、生徒会のイメージも変わる」
「イメージって、勝つのは招待した子達でしょ。却って反感を買うんじゃないの」
「それを考えるのは、生徒会の連中。俺は関係ない」
役に立たない子だな。
呼んで損した。
「あれ。あなた、沙紀ちゃんの」
私ではなく、ケイを見る石井さん。
上は黒のジャージで、下は紺の短パン。
ちょとあれだな。
「どうも」
愛想なく応じるケイ。
避けているようにも見える。
「足は?」
「丹下なら、走ってますよ」
「ふーん。へー」
しきりに頷く石井さん。
人のせんべいを囓りながら。
「ちょと、それは私の」
「細かい子ね。大きくなれないわよ」
色んな意味で嫌みだな。
負けずに全部食べようと思ったが、一枚で限界に達した。
もういらない。
「それにしても、走って楽しい?」
「私は」
「あ、そう。他の3人は」
「さあ。楽しいんじゃないんですか」
そんなの、聞いた事もない。
走るのは楽しいし、面白い。
話し合うまでもない、決まり切ってる事だ。
「いいけど。私が走る訳でも無し」
せんべいを囓る彼女を、下からずっと眺めていく。
身長はあるが、肉付きも良い。
プロポーションがいいとも言うし、余分なお肉が付いてるとも言う。
「何よ」
「ぽっちゃりしてる人には関係ありません」
「あのね。見た目はこうでも、体脂肪率はそれ程高くないの」
「それ程、ね」
「せいぜいひがんでなさい」
ああ、ひがむさ。
何よ、もう。
「痛いな」
邪険に押しのけられた。
いいじゃない、ちょっと拳でぐりぐりするくらい。
私なら、殴ってでも止めさせるけど。
「沙紀ちゃんはまだ治ってないんだし、あまり無理させないでよ」
「分かってます。他の二人はいいんですか」
「問題ない。煮るなり焼くなり好きにして」
すごい言われようだな。
でもいいか。
許可はもらった訳だし、明日からはビシバシ行くとしよう。
揺れる体。
揺れる頭。
地震、ではないようだ。
「起きろ」
「起きてる」
伏せたまま答え、もう一度目を閉じる。
頭の上を過ぎていく教師の言葉。
それを聞き流し、意識を遠くする。
復習はいつでも出来る。
でも体を休めるのは、今しか出来ない。
「痛っ」
後頭部に感じる鈍い痛み。
素早く飛び起きて拳を固めると、にこやかに微笑まれた。
「廊下で立ってなさい」
壁にもたれ、目を閉じる。
すぐに眠くなる。
ここはどこだ。
布団の中ではないらしい。
でもいいか、眠いし。
「捨て子か」
嫌な言葉に反応して、顔を上げる。
ジーンズとGジャン越しの、凛々しい顔。
普段はキャップに隠れているその顔が見えるのは何故か。
私が廊下で寝ているからだ。
「うるさいな。ちょっと寝てただけじゃない」
「廊下で寝るな」
「分かってるっていうの。あー」
のろのろと立ち上がり、体を解す。
固いベッドで寝ると腰を痛めないと言うけど、これはちょっと固過ぎか。
「授業中に、何してる」
「駄目な子は、廊下で立ってろって」
「寝てたのに?」
「そういう年頃なのよ」
適当な事を言って、壁にもたれる。
幸いまだ授業中らしく、廊下にいるのは私と舞地さんだけ。
お陰で恥を掻かずに済んだ。
寝ている間の事までは知らないが。
「あれ」
間の抜けた声を出す池上さん。
タオルケットと枕を抱えながら。
「何よ、せっかく持ってきたのに」
うしゃうしゃ笑ってる。
親切めいてるが、これを被ったらどう考えても笑い者だ。
いや。寝てる時点で笑い者だけど。
「二人とも、やる事はないの」
「廊下で寝る以外の事はあるかもね」
「というか、寝るな」
私をいじめる暇もあるらしい。
こうなっては何を言っても無駄なので、適当に聞き流そう。
枕とタオルケットもあるし、少し横になって。
「うるさいわねっ」
開くドア。
出てくるタイピングの教師。
でもって丸くなってる私を見て、すぐにドアを閉める。
何とも気まずそうに、見てはならない物を見てしまった顔で。
そういう態度を取らなくてもいいじゃない。
ちょっと寝てただけなんだし。
廊下でさ……。
タオルケットを羽織ったまま、もそもそと教室に入る。
みんなの視線が突き刺さってくるが、これが結構暖かいんだって。
「来ないで」
冷たく言い放つサトミ。
ずっと親友だと思ってたけど、それは私の一方的な思い込みだったらしい。
タオルケットを被ってもそもそ動く親友なんて、私も持ちたくは無いけどさ。
「いいじゃない。廊下で寝るよりは」
「まさか、床に寝てたんじゃないでしょうね」
サトミの言葉を聞いて、鼻で笑うケイ。
すぐに強ばる笑顔。
池上さんの頷きを目の当たりにして。
「雪野さんよ。あんた、犬か」
「廊下で寝て、何が悪いの」
「私は立ってろと言ったのよ。今度からは、バケツを持たすわよ」
ドアの辺りで、きつく睨んでくる教師。
こっちも睨み返し、舞地さんが持っていた枕をひったくって投げる真似をする。
でもって即座に奪い返され、頭を叩かれた。
「ちょっと。あ、逃げた」
「もういい。外を走ってこい」
「ああ、走るわよ。へんっ」
リュックを背負い、タオルケットを羽織り直す。
これだけあれば、どこでだって生きていける。
勿論そんな訳はなく、タオルケットを返却して学外のグラウンドへとやってくる。
幾ら私でも、タオルケット姿で学校の外へ行く気力はない。
学内はいいのかという話は、ともかくとして。
「じゃあ、走ろうか」
のろのろと集まってくる3人。
どうもやる気というか、気合いが感じられないな。
「何よ。もっと真剣になれないの」
「真剣というか」
「別に好きで集まった訳じゃないし」
「ねえ」
コンビネーションで攻めてくる3人。
1:3なので、どうも形勢が悪いな。
「いいから、走るの。一体、何のためにここへ来てると思ってるの」
「自分が集めたからだろ」
「私、怪我してるし」
「喉乾きました」
手当たり次第に何かを投げたくなってきた。
駄目だ。
このままでは、どんどん状況が悪くなる。
何かきっかけが必要だな。
「合宿。そう合宿だっ」
わーっと吠え、全員を一人一人指差していく。
何とも気の抜けた、怪訝そうな顔を。
「馬鹿じゃないの」
「優ちゃん、落ち着いて」
「熱でもあります?」
何でも好きに言えばいいさ。
もう決めた。
やる、やってやる。
何をやるのかは知らないけどさ。
「決定っ。今日終わったら、荷物をまとめて女子寮前に集合っ」
「寮が合宿みたいなものだろ」
冷静に指摘する土居さん。
なる程、などと納得していては話が先に進まない。
「いいの。明日からの土日で、短期合宿。私達は生まれ変わるのよ」
「あてでもあるの?合宿先の。優ちゃんの家とか言わないでよね」
「心配ない。いい場所を知ってる。食事と寝る場所もある。トレーニング施設も充実してる」
「ああ、何となく分かった」
小さく頷く沙紀ちゃん。
土居さんは首を傾げ、渡瀬さんはのんきに赤トンボを追いかけている。
「渡瀬さん。アカトンボはいいから」
「あれは、ショウジョウトンボです。アキアカネじゃありません」
逆に怒られたよ。
何か、一気に疲れて来たな。
「とにかく集合。でもって、その前に走る」
文句を言いたげな3人を、手を叩いて追い立てる。
羊飼いだねまるで。
いや。羊飼いの犬かな……。
運転手に指示を出し、車を走らせる。
当たり前だが、私が走るよりはかなり速い。
理不尽と分かっていても、ちょっとむかつくな。
「ご飯は?」
「用意してある」
「デザートは」
「あるよ」
それさえ確認出来れば、後はどうでもいい。
シートを倒して、少し寝るか。
「ちょっと。どこ行く気」
「土居さん。大丈夫ですから。ね、優ちゃん」
「その通り。3食昼寝付き」
「雪野さん、寝てるんですか」
どうにも失礼な子だな。
肩が揺すられた。
「何よ」
「着いた」
車の外に立っているショウ。
土居さん達3人も。
「冗談よ、冗談」
助手席から飛び降り、バッグを受け取る。
でもって、勝手に先頭を歩き出す。
「ここって」
「ああ、俺の家です。正確には、お祖父さんの」
丁寧に答えるショウ。
土居さんは暗闇の中に浮かぶ母屋を見上げ、小さくため息を付いた。
その果ては見えないし、庭に至ってはどこまで続くか見当も付かない。
「お金持ちだったんだね、あんた」
「それはお祖父さんで、俺はただの高校生だから」
本当に謙虚というか、控えめというか。
この子は前世で、何をしてたのかな。
「いいから入って」
勝手に玄関を開け、一応は断って土間から上がる。
「ここは、雪野さんの家なんですか」
冗談っぽく聞いてくる渡瀬さん。
違うんだけど、こういう態度をしているとそう思われても仕方ない。
何せ4年以上来ているので、このくらいは普通になっている。
勿論遠慮というか、引くべき線は引いているが。
「頂きます」
手を合わせ、カツカレーを食べる。
トンカツではなく、チキンカツなのが嬉しかったりする。
お皿を持ってキッチンへ向かうショウ。
食べ終わったのではなく、お代わりをするために。
自分でやるのが、いかにもこの子の性格だな。
「ナンもあるけど、どうする?」
「私は結構です。土居さんと沙紀ちゃんは?」
頷く二人。
渡瀬さんに聞かなかったのは、彼女も私同様小食なので。
「やあ」
妙に爽やかな笑顔で現れる風成さん。
土居さん達は丁寧に挨拶して、食事の手を止めた。
「食べて食べて。若いんだから、どんどん食べて。ビール飲む?」
「愛想いいですね、今日は」
「そうかな。俺はいつもこうだよ。しかし、女子高生はいいなー」
馬鹿決定だな。
大体、口に出さなくてもいいだろうに。
「俺はいつも、むさい男達の相手ばっかりでさ」
「RASは、女の子もいるじゃないですか」
「玲阿流には、殆どいないんだよ。あーあ」
愚痴りに来たのか、この人は。
それも、とことん下らない事を。
「何か、嫌な事でもあった?」
氷河の底から響くような声。
首筋に突き付けられる果物ナイフ。
流衣さんは薄く微笑み、ナイフを横へスライドさせた。
「き、切れるだろ」
「悩みも一緒に出ていくんじゃなくて?」
「馬鹿。いいから、ビールくれ、ビール」
「誰に言ってるの」
髪の毛が逆立ったかと思うような、迫力のある笑顔。。
風成さんは背を丸め、「持ってきます」と呟きキッチンへ消えた。
「本当に、もう。今の人の事は、忘れてちょうだい」
さっきとは違い、優雅に微笑む流衣さん。
土居さん達は恐縮気味に頷き、小さくなってカレーを食べ始めた。
「でもこ、こで何するつもり?」
「何って、合宿ですよ。短期合宿」
「ここでやる理由を聞きたいんだけど」
「気分的なものです」
そう言って、トマトをかじる。
フルーツトマトかな、これ。
「思い付き、の間違いじゃなくて?どうでもいいけど、犬と競争しないでよ」
「ああ、羽未と。あの子は確かに速いですね」
「あと、猫も」
「コーシュカ?」
そう言った途端、肩に負荷を感じる。
頬を過ぎる、柔らかな感触。
喉に巻き付く長い尻尾。
「な、なに、それ」
飛び退く土居さん。
沙紀ちゃんも一緒になって逃げている。
フォークを向けるな、フォークを。
「猫。ヤマネコ。ね、渡瀬さん」
「可愛いですよね。でも、繁殖させてあげたいな」
繁殖、ね。
要は、猫の恋愛って事か。
ケイでもあてがってやろうかな。
「大人しいから大丈夫よ。来なさい」
手を伸ばす流衣さん。
その手を前足で叩き、私から降りるコーシュカ。
「な、このドラ猫は。ちょっと来なさいって」
当たり前だが猫が人の言う事は無く、彼女に背を向けて廊下へ消えていく。
その後を、小走りで追いかける流衣さん。
夫婦揃って、訳が分かんないな。
布団に潜り、目を閉じる。
一瞬にして、朝になっていた。
それはあくまでも感覚的なもので、実際には何時間も経ってる訳だが。
もぞもぞと布団から這い出て、それを抱えて庭へ向かう。
「何してるの」
「野菜に水をやってる」
ホース片手に答えるショウ。
野菜って、ここはいつから農園になったんだ。
「忘れたとか言うなよ」
「……そんな訳無いじゃない。カボチャだった?」
「サツマイモとニンジンだ」
なる程。道理で葉っぱしか無い訳だ。
だったら、そろそろ収穫の時期じゃないのかな。
「まだ採れないの?」
「そういう事は、ヒカルに聞いてくれ」
「あ、そう。今度は、鶏も飼えば」
「いっそ、牛でも飼ったらどうだ」
愛想がないな。
いいじゃない、水をやるくらい。
私はやらないけどさ。
「これ、干して」
「干す人は、ちゃんといる」
「いいから、自分の分も持ってきて」
「無茶苦茶だな」
文句を言いつつ母屋へ戻るショウ。
でもって暇になったので、庭の中をてくてく歩く。
するとすぐに、細長い犬が私の元へ駆け寄って来た。
「羽未」
「ばう」
鋭い出足から、一気のトップスピード。
なかなかやるな。
「ちょっと待っててよ」
軽く体を解し、暖まった所で手を叩く。
横に並ぶ羽未。
改めて、再スタート。
あっという間に見えてくる背中。
つまり、置いて行かれる自分。
「がう」
こっちも一吠えして、姿勢を低くし速度を上げる。
しかし縮まるどころか、遠ざかる一方。
車も速いけど、犬も速いな……。
「競争した?あのな、ボルゾイは時速60km/hくらいで走るんだぞ」
「先に言ってよね」
ソファーに横たわり、ぐったりとする。
何か、今日一日分動いた気分だな。
「練習はいいのか」
「今日は休み。どうして練習なんて」
物言いたげに人を見下ろすショウ。
別にここが彼の家だからではなく、私の態度がだらけてるからでもなく。
私の台詞に対してだろう。
「分かってる。リレーの練習でしょ」
「ならいい。俺は稽古してくるから」
「真面目だね。怪我しないでよ」
「自分もな」
去っていくショウ。
お陰で静かになった。
少し寝よう。
「あ?」
頭に何かが押し付けられている感覚。
固くて、筒状の。
「起きた?」
冷徹な顔で人を見下ろす土居さん。
朝から寒そうな恰好してるな。
「起きてる」
剥がされるタオルケット。
ちょっと、寒いじゃないよ。
「優ちゃん。今日は何のためにここにいるの?」
「ここって、ここは」
辺りを見渡し、ソファーの上で正座する。
寮の部屋でも自宅の部屋でもない。
他人の家のリビングで。
「大丈夫?」
「え、うん。朝、少し走って疲れただけ。みんなも走ってきて」
「走ってって。リレーでしょ」
「代理がいる。おーい」
叫び声を上げ、庭に向かって両手を振る。
遠くに見える、小さな点。
それは一瞬にして大きくなり、巨大な山となって窓のすぐ外にまでやって来た。
「わっ」
叫び声を上げて、壁際まで下がる土居さん。
沙紀ちゃんもソファーの陰に隠れ、クッションを構えた。
この子達は、犬を見た事無いのかな。
「ボルゾイですね」
冷静に指摘する渡瀬さん。
普段もこのくらい落ち着いてると、こっちも楽なんだけどな。
「乗ってみたら」
「面白いですね、それ」
笑われた。
私も笑った。
どうやら、犬に乗るのは笑い事らしい。
「いいから、その子を代理に走ってきて。羽未、みんなの事お願いね」
「ばう」
「今のって、返事?」
「気のせいだろ」
疑う二人。
埒が開かないので、ハンドサインを示して羽未に走るよう促す。
即座に走り出す羽未。
これは意思の疎通というより、訓練の賜物だが。
「ほら、行ってきて」
釈然としない感じで歩いていく二人。
渡瀬さんは何故か、廊下へと歩き出した。
「どうかしたの」
「ビデオ撮ろうと思いまして」
何とも楽しそうな表情。
私も一眠りして、自分の世界で楽しもう。
派手な笑い声。
手を叩く音、テーブルを叩く音も聞こえてくる。
うるさいので、タオルケットを剥いで顔を出す。
ぼやけた視界に映る大きなTV。
どこかで見た顔だ。
何か笑ってる。
「これは何よっ」
にへにへ笑っている間抜け面。
というか、私。
「ビデオですよ」
真顔で指摘する渡瀬さん。
犬はどうした、犬は。
「目が覚めた?」
「覚めました。で、走りました?」
「ああ。あの犬、早過ぎる。でもバトンもくわえるし、あたしの代わりにエントリーさせたら」
「犬は犬。人間は人間。代わりは務まりません」
そう言って、ふと気付く。
自分が、誰を代理にしてたのかという話なので。
「じゃあ、午後からは私も走るから」
「当たり前だろ」
冷たい人だな。
そうね、一緒に頑張りましょ。
くらい言って、手を取ってもいいじゃない。
さすがに庭でどたどた走っていても仕方ないので、グラウンドへとやってくる。
高校のではなく、大学の。
玲阿邸からはこちらの方が広く、また同じ系列なので申請さえすれば利用は可能。
問題は、正門からやってくると墓場を通る必要がある事。
お寺の敷地を抜けるからなんだけど、夜は絶対来たくない。
「軽く通して走って、ビデオをチェック。はい、行こうか」
トラックの所定位置に着き、軽く手を叩く。
クラウチングスタートで飛び出す渡瀬さん。
バトンはすぐに、土居さんへ。
そして沙紀ちゃんと渡って、私の元へやってくる。
コーナーを曲がり、ストレートコースを駆け抜ける。
感覚としては、全てが一瞬。
気付いたらゴールを駆け抜けていた。
「チェックしようか」
カメラは端末に標準装備されている物と、ショウの家にあったもの。
全体と各個人の映像が分割されて、端末に表示されていく。
「コーナーリングはともかく。やっぱりバトンパスだね」
拡大される、渡瀬さんと土居さんのパスシーン。
スムーズではあるが、速度が落ちている。
どこで受け取り、どれだけの速度で走るか。
理想はやはり、一瞬にしてトップに持っていく事。
そうすればパスする側は速度を落とさなくて済むし、受け取る側も慌てなくて済む。
「マークしよう、マーク」
リュックからテープを取り出し、バトンゾーンの前に立つ。
次に映像をチェックして、良さそうな場所にテープを貼る。
「まずはここでスタート。その後で、少しずつ修正しようか」
渡瀬さんを走らせて、一度チェック。
もう少し手前でもいいかな。
「どうしたの」
しゃがみ込む渡瀬さん。
動く気配はないし、話す素振りもない。
いつも元気なのに、おかしいな。
「優ちゃん。100mを連続で走ったら、誰でもそうなる」
「ああ。そういう事。じゃあ、次は土居さん」
「あんた、鬼だね」
3つの屍が出来上がった所で、一旦休憩。
私は受け取るだけなので、それ程走る必要はない。
100m走らなくていいという考え方もあるが、実践を想定するとこっちの方がいい。
「おっ」
遠くでやっている、砲丸投げの練習。
大きな鉄の玉が、軽々と青い空に舞い上がる。
スレンダーな体型の女性で、なかなかに恰好いい。
「見た?今の」
返ってこない返事。
私すら見ようとしないし、起き上がろうともしない。
「仕方ないな。じゃあ、今日はもう止めようか」
のそっと立ち上がる3人。
お互いがお互いの肩を貸しあって。
無言でロッカールームへ引き上げていく。
思いたくはないが、演技じゃないだろうな。
「へーえ」
散らかった荷物や器具を片付け、テープを剥がす。
全くこんな事で、陸上部に勝てると思ってるのかな。
「あなた、中学生?」
目の前に現れる、長身の集団。
とはいえこの間の嫌な女ではなく、お姉様風の雰囲気。
大学の陸上部か、同好会といった所だろうか。
「高校生です」
悪意があろうと無かろうと、むかつくものはむかつく。
何度言われようと、それは変わらない。
「ああ、ごめん。今日は何?大学の見学?」
「いえ。リレーの練習に来ただけです」
「じゃあ、私達とやる?」
「ええ、いいですよ。お邪魔でなければ」
もう、動きたくもない。
誰が、400m走ると言った。
私達は、4人で400m走るんだ。
それを一人で二回も三回も走れば、何もやりたくなくなる。
「邪魔だね」
「また寝てるの?」
「寝る子は育ちますからね」
何かを食べながら話している3人。
さすがに今は食欲もなく、スポーツドリンクだけで我慢する。
大体瞬発力はあるけど、体力自体はないんだから。
この前の雪山みたいにゆっくりと歩くならともかく、こういうのは向いてないんだって。
誰だ、私が中距離向きって言ったのは。
「もう走らないの?」
手を振って、棄権を告げる。
危険でもいい。
「シャワー、シャワー浴びてくる」
「あれ、もう終わり?」
「終わり。何もかも終わった」
気付けば夕食が終わっていた。
食べたのは、おにぎりと鶏の唐揚げだけ。
量的には、いつもとそれ程変わらないが。
「大丈夫か」
「問題ない。回復した」
疲れるのは早いが、回復も早い。
軽く体を解し、前蹴りから後ろ跳び蹴りへ繋ぐ。
着地と同時に、肘と膝。
よく動いたせいか、キレは悪くない。
だからといって、毎日400mを全力疾走したくはないが。
「それは?」
「ちょっと打った」
目尻と頬の辺りの擦り傷。
要は稽古中に殴られた跡だろう。
「何をやってるのよ、もう」
「いいだろ。好きでやってるんだから」
「嫌な趣味ね」
二人して笑っていると、背中に気配。
土居さん達が、道場の手前で立っていた。
「邪魔、だったみたいだね」
「いや。そういう訳でも。ねえ」
「え、ああ。そう。俺は邪魔かな」
そう言って、どこかへ消えるショウ。
分かってるのかな、本当に。
「ここって、玲阿流の道場ですか」
恐る恐るといった具合に足を踏み入れる渡瀬さん。
大切な場所、それこそ聖地に降り立つようにして。
「気にする程の所でもないよ。ただの畳敷きの部屋と思えばさ」
勿論幾ら私でも、ここで寝転んだりはしないが。
「沙紀ちゃんは」
「お風呂入ってます」
「駄目ね。4人一緒に行動しないと。合宿の意味が無いじゃない」
「意味がないのは、あんたの行動だろ」
嫌みを聞き流し、お風呂に入る。
シャワーは浴びたけど、湯船に浸かるのはまた違う感覚だから。
「あー」
限界に達したので、すぐに上がって体を洗う。
熱過ぎないか、これ。
「ぬるいね」
もやの中に見える長身の体。
細いけど出る所は出て、引っ込む所は引っ込んだ体型。
沙紀ちゃんは言うまでも無し。
渡瀬さんも、前より成長した感じ。
本当に私は高校生か?
お母さんが、年をごまかしてるんじゃないだろうな。
「あーあ」
それでも仕方なく、沙紀ちゃんの後ろに回って列を作る。
当然だが、意味はない。
「何してるの」
「リレーを想定してるの」
適当な事を言って、渡瀬さんを先頭にする。
意味はないが、気分的には何かある。
その何かが何かは、ともかくとして。
パジャマに着替えて、夜風に当たる。
普段なら冷たい風も、風呂上がりには心地いい。
「寒いよ」
文句を言う土居さん。
歩き出す渡瀬さん。
付いていく沙紀ちゃん。
私は窓を閉め、その後に続く。
「いつまでやるんですか、これ」
「やるやらないじゃないの。感覚を掴むのよ。相手の動き、癖、何もかもを」
「はあ」
納得出来ないという返事。
土居さん達は何も言わないが、無言の抵抗という気がしないでもない。
布団に潜り込み、目を閉じる。
開けたら、やっぱり朝になっていた。
疲れてるせいか、最近眠りが深いな。
いや、いつもの事か。
前から回ってくるタオルで顔を拭き、とことこと後を付いていく。
廊下を歩く3人の背中。
それぞれの歩幅、腕の振り、足の運びをチェックしながら。
何のために。
リレーのために。
正確には、バトンパスのタイミングを計るために。
でも、待てよ。
私はアンカーだから、受け取るだけ。
彼女達3人の癖がどうだろうと、あまり関係はない。
「分かった。止め、止めて」
助かったという顔が3つ。
すぐに手を叩き、付いてくるよう手で促す。
「逆、逆だった。バトンパスの順番じゃないと、意味がない」
「あんた、本気で言ってるの?」
「朝から、疲れるわね」
「もう、飽きました」
うるさい子達だな。
とにかく構わず歩き出したら、急に静かになった。
どうしてか。
誰も付いてこなかったからだ……。
「何してるの」
机から顔を上げ、サトミを見上げる。
きしむような全身の痛みに耐えながら。
「走り疲れた。筋肉痛」
「ユウが?マラソンでもやった?」
「400mを計10本」
また女子大学生に出会って、さんざん付き合わされた。
勿論嫌で付き合った訳ではないが、後悔は先には立たない。
「今日予選だけど大丈夫なの?」
「え、何それ」
「スケジュールくらい管理したら」
目の前に滑ってくる予選の組み合わせ表。
私達の所は、今日の午後からになっている。
「棄権したら」
「面白いね、それ」
立ち上がって、体を解す。
激しい痛みが襲ってくるけど、それは筋肉を動かせばやがて収まる。
収まるはずだ。
収まるのかな……。
着替えを済ませ、予選会場へやってくる。
参加チームが多いせいか、予選といってもかなりの流れ作業。
次から次へとチームが現れては、この場を去っていく。
「緊張してるの?」
ぎこちない動きの私を見て、労り気味に声を掛けてくる土居さん。
筋肉痛ですと言うのは間が抜け過ぎているので、曖昧に微笑みパワーアンクルとリストを外す。
「じゃ、手出して」
円陣を組み、その中央で手を重ねる。
勿論意味なんて無い。
だけど意味が無くても、大切な事はたくさんある。
「ファイ」
「オーッ」
前よりは気合いの入った掛け声。
合宿の成果かもしれないな。
所定の位置に着き、体を解しつつスタートを待つ。
隣りに並ぶ、何人ものアンカー。
特に知った顔はなく、遠くの方にサトミ達が見えるくらい。
軽く彼女達に手を振って、ヘアバンドの位置を直す。
スターターのピストルの音。
一気に走る緊張感。
ただそれは私達だけで、予選会場全体としては変わりない。
つまりはここだけが、別世界へと生まれ変わる。
好スタートのまま、トップでバトンをパスする渡瀬さん。
タイムロスも殆ど無く、その勢いのまま土居さんがコーナーを曲がる。
開いていく後続との距離。
沙紀ちゃんへと渡るバトン。
怪我も治ってきているようで、走りに淀みは感じられない。
以前程のスピードはないが、それでも後続に追いつかれる事はない。
スタートを切り、背後の足音に耳を澄ます。
近付いてくる気配。
昨日、ずっと感じていたのと同じ。
「はいっ」
私の腕の振りに合わせて差し出されるバトン。
しっかりとそれをキャッチして、さらに速度を上げる。
コーナーに合わせて歩調を変え、景色を後ろへ流しながら。
後ろの事は気にもせず、ゴールを駆け抜ける。
「よしっ」
ピースサインをしている渡瀬さんへバトンを放り、私もピースで答える。
タイムはともかく、トップで通過すれば予選は通過。
つまりこの予選に関しては、クリアした事となる。
「なんとかなったみたいだね」
予選突破の証明書を受け取り、私に渡す土居さん。
沙紀ちゃんも駆け寄ってきて、私の肩に手を置いた。
「行けそう?」
「勿論」
4人で手を合わせ、勝利を実感する。
4人で勝ち取った、大切な一勝を。
「どこ行くの?」
「次の予選まで時間があるから、体を休めるんだよ」
当然だろという顔。
何だ、次の予選って。
「優ちゃん。スケジュールは知ってるわよね」
「え、うん。今日、予選」
「そう。1日2回って事も、知ってるわよね」
「え、うん」
知らなかったとは言わず、張りの出てきた太ももを叩く。
「頑張りましょうね」
明るい、明る過ぎる笑顔。
私も渡瀬さんへ微笑み返し、足を止めた。
自分で望んだ事だけど。
たまには休みたい時もある。
出来れば一週間くらい。




