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大きく深呼吸して、秋の雰囲気を実感する。
空は高いし風は乾いているし、何もしなくても幸せな気分になってくる。
「じゃあ、やろうか。ここからあそこまでが100mだから、まずは計測を」
大勢のクラブ生で賑わうグラウンド。
ヘアバンドをして、再びここに戻ってきた自分。
目的はただ一つ。
「打倒陸上部のために」
はたかれる頭。
振り向くと、ニャンが仁王立ちで私を睨んでた。
といっても小さいから、却って可愛いけどね。
「何するのよ」
「そういう馬鹿な事は、よそで叫んで」
「どうして」
「ここは、陸上部の練習スペースなの」
なる程、それもそうか。
取りあえず納得して、ストップウォッチを彼女へ渡す。
「いいから、測って」
「はいはい。それにしても、せめて私達のいない所でやろうって思わないの」
「ニャン達プロだもん」
「何のプロか知らないけど。さあ、順番に行くわよ」
まずは渡瀬さん。
綺麗で、正確なフォーム。
スピードの配分も問題ない。
次ぎに、土居さん。
長いストライドと、力強い走り。
彼女は、スタートにやや難ありか。
沙紀ちゃんは怪我が完全に治ってないので、計測はパス。
「ほら、ユウユウも」
手招きするニャンの元へ向かい、スターティングブロックを自分のサイズに合わす。
簡単に言えば、幅を縮める。
「ほら、きりきりやる」
何か、うるさい事を言ってきた。
多少苛々しつつ、足をスターティングブロックに合わせて地面に手を付く。
「まだ早いわよ」
「あのね」
「怒ったら負け。国際試合では、買収された競技員にこういう事をやられるんだから」
それは参考になった。
ただしここは学校で、今やってるのは個人的な計測。
嫌がらせをする必要は、何一つ無い。
ニャンには、山程あるかも知れないが。
「よし。準備オッケー」
「了解。頑張り過ぎて、怪我しないでよ」
「分かってる」
「それと、程々にね。また、後でうるさくなるから」
小さいアラーム。
実際にはそれを待たず、合図から3秒後に飛び出していく。
始めはやや抑え気味に、そこから少しずつギアを上げて。
スタートでぶれたフォームを修正しながら、ギアをトップに入れる。
呼吸の限界を感じた所で、素早く酸素を取り込む。
後はゴールを駆け抜け、その勢いを少しずつ弱めていく。
「出た」
いつの間にか後ろに引っ付いているニャン。
どうやら、私のすぐ後を走っていたらしい。
「何が。お化け?」
「いないわよ、そんなのは」
「言い切れるの?」
「そう言われると、私も困るけど」
無意味な会話を交わす私達。
ただこういう事以外はあまり話さないので、私達の会話は基本的に無意味ともいえる。
それはそれで、楽しいから問題ない。
「そうじゃなくて。えーと、タイムは」
「あ、あの。これ」
うろたえ気味な計測をしてくれた1年生。
こちらに向けられるストップウォッチ。
目に付くのは、10という数字。
「10秒台?」
あちこちから上がる叫び声。
すぐに人が集まり、私の周りを取り囲む。
「こんな小さいのに」
出たよ、また。
こんな可愛いのに、くらい言ってよね。
いや。言われても困るけどさ。
「でも、こんな子陸上部にいた?」
「いないの。彼女は、ガーディアン。彼氏あり」
誰がそんな事を聞いた。
大体彼氏なんて。
まあ、いいか。
「もったいない」
10秒台なのに、ガーディアンをやってる事か。
彼氏がいると、ニャンが言った事か。
そう呟いたのは女の子だから、勿論前者だろう。
後者だとしたら、今すぐ学校の外まで逃げている。
「はい、終了。解散。練習に戻って」
手を叩き、集まってきた子達を帰させるニャン。
でもって私の顔を見ても、手を叩く。
拍手、ではないようだ。
「あなたも帰るの」
「冷たいわね」
「冷たくて結構。体育祭にエントリーする子達が練習してるグラウンドがあるから、そっち行って」
渡される地図。
学内のグラウンドくらい、私だって分かるっていうの。
どこにあるかではなく、あるいう事を。
「あら。何をしてるのかしら」
「計測してた」
「ここは、陸上部の練習スペースよ」
冷静に告げてくる黒沢さん。
当たり前だが、風当たりが強いな。
「いいじゃない。ちょっとくらい」
「打倒陸上部、だったんですよね」
くすくす笑う青木さん。
この子は、何かをというと私で笑うな。
逆に言えば、笑われる事ばっかりやってるな。
「とにかく練習の妨げになるので、移動して下さい」
「友達じゃない」
「それはそれ、これはこれ。、他の人達にも示しが付かなくなると困るの。優さん達だけここで練習させていては、癒着してるとも思われるし」
大袈裟な話になってきたな。
大体ただの部員が、そこまで気にしなくてもいいと思うんだけど。
「ああ。黒沢さんは次期部長だから」
「え?」
「出世したんです。次期SDC代表候補でもありますよ」
「たまたまよ」
謙遜はするが、卑下はしない黒沢さん。
自分でもそれが出来るだけの自信があり、また能力もあるんだろう。
本当に、周りはどんどん偉くなるな。
「じゃあ、何か頂戴よ」
「たからないでよね。はい、これ持っていって」
渡される小さな段ボール。
持ってみるとかなり軽く、ジュースやスポーツドリンクではないようだ。
とはいえもらっただけで嬉しくて、頭の上に持ち上げたりする。
「へへ、もらっちゃった。代わりに、ニャンにも何か上げようか」
「気にしないで。私は、国から補助金をもらってるから」
学外のグラウンド。
ニャンの言っていた通り、どこか頼りないフォームで走る人達が大勢いる。
私達同様、クラブ生以外のエントリー希望者だろう。
「飴、スポーツドリンクの粉、ノート、ペン」
「広げないで」
真上から、冷静に指摘する土居さん。
人の楽しみを奪わないでよね。
「それに、練習はどうしたの」
「分かりました。えーと、あれ。私達はリレーだから、直線じゃなくてコーナーを走る訳。要は練習も、それを想定してやると」
ノートを広げ、名前を書き出していく。
一番が渡瀬さん、次が土居さん、3番目が沙紀ちゃん。
「アンカーが、私。まずは、バトンパスの練習しようか」
段ボールに入っていたバトンを取り出し、一列に並ぶ。
「はいって言ったら渡してね。当然、腕の振りはみんな同じで。それと受け取るのは常に右。渡すのも右。左へ持ち替えたりすると、その分タイムロスになる。はい、腕振って」
「はい」
「はい」
「はい」
別に、私へ対して返事をした訳ではない。
バトンをパスしているだけだ。
流れはスムーズで、淀みもない。
「次は、走るのを想定してやってみようか。渡瀬さんが走ってきて、土居さんが受け取る。パスが出来るゾーンは20mだから、お互いタイミングを考えてね」
流す感じで走ってくる渡瀬さん。
それを確認して、前を向き駆け出す土居さん。
伸びる腕。
渡されるバトン。
土居さんはそれを受け取り、コーナー手前まで走っていく。
「そんな感じ。ただ実際は渡瀬さんがトップスピードで来る訳だから、土居さんはスタートのタイミングを考えて。渡瀬さんが速度を落とさなくてもいいくらいに。だけど、パスゾーンを過ぎないように」
「難しいというか。あんた、変な事に詳しいね」
感心してくれた。
と思いたい。
「じゃあ、沙紀ちゃん軽くやろうか。走れるよね」
「ええ。思いっきりは無理だけど、ジョギング程度なら」
コーナーに入ってくる沙紀ちゃん。
その速度を確認して、前を向く。
後はただ、一気にトップへ持っていくだけだ。
「……あれ」
気付けばパスゾーンを越えていた。
沙紀ちゃんは、遥か後方。
バトンを持って、私を睨んで。
「優ちゃん」
「はは。失敗」
「自分が一番分かってないんだから」
「悪かったわね」
自分の早さや、どのくらいでトップに持って行けるかは分かっている。
しかし、気持は違う。
とにかく早くスタートを切りたい。
少しでも前に行きたい。
その意識が、今のような結果に辿り着く。
「もっと、ぎりぎりでもいいと思いますよ。遅いかな、くらいでスタートした方が」
冷静に指摘された。
私より、ちゃかついてる子に。
「いいんだって、私は。とにかくリレーはチームプレイなんだから、みんなが一つにならないと」
「あんたが乱してるんだろ」
すげない一言。
所詮みんなは北地区。
私は、南地区。
そこには長くて深い溝がある。
今はそういう事に、しておいてほしい。
彼女達と距離を置き、他のチームを偵察する。
私達がエントリーするのは、女子400mリレー。
聞いて回らなくても、それっぽいグループが何組かいる。
ただ、見たところ特に問題は無し。
おごっている訳ではないが、負ける気はしない。
私一人がではなく、チームトータルで考えて。
「休憩、休憩よ。水、水飲んで」
強引にスポーツドリンクを配り、自分も飲む。
というか、飲みたかった。
休憩中も水を飲ませないなんて指導者は今時いないが、全くいない訳ではない。
しかし私は、あくまでも科学的にやっていく。
気合いや根性だけで早く走れたら、応援団は世界を制してる。
「ほら。筋肉を冷やさない」
タオルとパーカーを掛けてまわり、勿論自分も羽織る。
なんか、疲れてきたな。
「マネージャーっていない?」
一斉に向けられる、冷たい視線。
言ってみただけじゃない。
ペットボトルのふたを閉め、あくまでも軽く筋肉を揉んでいく。
「じゃあ、一度通して走ろうか。順番は、さっき言った通り。コーナーの雰囲気を掴む感じで」
寮に戻ってきてシャワーを浴び、そのままベッドに倒れ込む。
さすがに今は、ご飯がどうこうという気分ではない。
せめて10分でもこうしていないと、体が溶けていきそうだ。
「あれ」
時計を見たら、10分が1時間になっていた。
ただ、明日の朝になってないだけましか。
そう気持を切り替え、食堂へと向かう。
普段よりも遅い時間。
ラストオーダー前といった様子。
フリーメニューを少なめで頼み、まずは水を飲む。
もう一度飲む。
もう一度。
「何してるの」
人からグラスを取り上げ、水を一気に飲むサトミ。
自分こそ、何してるんだ。
「走って疲れてるの」
「それにしては、楽しそうね」
「楽しいよ。サトミも走る?」
「言ってる意味が分からないわ」
興味も関心もないというか御。
それにしても、どうしてこのタイミングで食堂にいるのかな。
「あーあ、肩が凝りそう」
わざとらしく、目の前に書類を広げだした。
でもって、ため息を付きながらそれを片付け出す。
しょう油でもこぼしてやろうかな。
「そんな事よりさ」
「あなたね。そういう言い方はないでしょ」
「いいから。私達って、勝てそう?」
「自分で調べてよね。400mリレーだった?」
端末に表示される、現時点でのエントリーチーム。
その隣りには、参考記録も載っている。
「こうなってるけど、どう?」
「大丈夫だった。私達が一番早い」
「同好会も混じってるんでしょ」
「元陸上部を舐めないでよね」
ちなみに元陸上部は私だけで、所属していたのも1ヶ月程度。
わざわざ名乗る程ではないが、気持としてはそう言いたい。
「この子達に勝つのは分かるとしても。猫ちゃんとはどうなの」
「それは、それ。私は、打倒陸上部のためにやってるんだから」
「タイムは?」
「それは、それ」
適当に言って、鮭茶漬けをすする。
冷徹なサトミの視線を避けるようにして。
「丹下ちゃんは、まだ走れないんでしょ」
「ううん。ジョギング程度なら大丈夫だし、レースまでには間に合う。あの子、怪我したの?」
「どうかしら」
薄い微笑み。
どうも、何か知っていそうだな。
「秘密だから言えないけど。怪我よりは、程度が重いの」
「治るんでしょ」
「そうみたいね。もう、病院にもあまり通ってないみたいだし」
よく知ってるというか、どうして知ってるんだ。
これ以上は怖くなるので、考えないでおこう。
「いたいた」
人を指差しながらやってくるモトちゃん。
正直こういう時は、厄介ごとを背負ってやって来てる。
「あなた、学外のグラウンドで走ってるわよね」
「明日も走る。あさっても走る」
「予定は聞いてないの。あっちにも生徒が大勢いるから、警備お願いね」
「そういう暇はない」
断固として言い切り、チョコプティングを頬張る。
やっぱり、疲れた時には甘い物だね。
「警備といっても、トラブルが起きた時だけでいいの。得意でしょ、そういうの」
「どうして」
「あなた、ガーディアンじゃない」
「私は、リレーの選手」
何を言ってるんだ、一体。
いや。私がね。
「それに揉めるような人は見かけなかったけど」
「いたとしたら、ユウぐらいね」
そう言ったサトミの頬を両方から引っ張り、最後に髪を掻きむしる。
確かに、私くらいだな。
「とにかくお願い。丹下さん達にも、話はしてあるから」
「はいはい。ちょっと」
伸びてきたサトミの手を軽くかわし、がら空きの脇腹をそろっと撫でる。
びくりと身を震わせ、一瞬動きを止める少女。
最後に顎の下を撫で、ヒットアンドウェーで逃げていく。
「ちょっと、待ちなさい」
「待たない」
サトミから逃げる事なんて、軽い軽い。
というか私は、いつまで走ってるんだ……。
翌日。
半分くらい寝ながら、授業を受ける。
ノートを見ると文字が書いてあるので、聞いてはいたんだろう。
記憶にはない事まで、書いてある気もするが。
「寝るなよ」
呆れ気味につついてくるショウ。
本当に生真面目な子だな。
疲れてるんだし、そっとしておいてやろうくらい思ってよね。
取りあえず頷いて、そのまま首を下げていく。
「おい」
激しく肩を揺すられた。
ハンカチまで差し出された。
そこにある、四つ葉の刺繍を見つけてすぐに顔を上げる。
「な、なに?シスター・クリス?」
「何を言ってるんだ」
呆れるというより、不安げな表情。
どうも、寝惚けて記憶が混同したようだ。
「冗談よ。で、これは」
「これはって」
指をさされる口元。
何とも恥ずかしそうにして。
どうも意味深だな。
「口がどうか……」
今度は私が顔を赤らめ、口元を拭う。
さすがにショウのハンカチではなく、自分のティッシュで。
全く、油断大敵だな。
気付けば授業が終わっていた。
しかし他の人は気付いていたらしく、片付けを終えて教室から出て行っている。
自分で思っている以上に、疲れがたまっているようだ。
「疲れてるんじゃないのか」
優しく、労りの表情で声を掛けてくるショウ。
私の肩をつついたのも何もかも、きっと私を思っての事。
そんな彼の気持ちが、疲れた体に心地いい。
「だらだらしやがって」
無愛想な、思いやりの欠片もない口調。
ケイは睨んでいる私を指差し、鼻で笑った。
「よだれだ、よだれ」
「誰が」
「さあ。誰かな」
鼻にめり込みそうな位置にある指先。
彼が透明人間を指差していたとしても、不可能なくらいの。
「仕方ないじゃない。走って、疲れてるんだから」
「授業中に寝るのは、生徒として本末転倒だ」
まともな事を言ってきた。
1時限前の数学で、グーグー寝ていた男が。
「いいから。次は体育でしょ。早く着替えないと」
「体育?聞いてないわよ」
この疲れた所に体育か。
出来るだけ動きたくないし、見学していよう。
水へ足を付け、少し動かす。
程良い抵抗と、揺れる足元。
時季外れのプール。
とはいっても室内で、中は夏の気候そのもの。
水着姿でも暑いくらい。
「見学じゃ無かったの」
紺の水着で現れるサトミ。
しなやかなボディーラインと、そこから伸びる長い手足。
気を抜いたら、プールに落ちそうだな。
「クールダウンにはちょうどいいの。泳ぐ気力はないけどね」
「今日も、練習はするんでしょ」
「そのために、体力を温存してるの」
目の前を過ぎていく水飛沫。
力強く、綺麗なフォーム。
プールサイドにタッチして、即座にターン。
再び、目の前を過ぎていく。
「おもちゃ?」
呆れ気味に呟くサトミ。
要は、水の中をモーターで走っていくおもちゃの事を言っているのだろう。
無論おもちゃの訳はなく、玲阿四葉という名前が付いている。
疲れるとか、限界という言葉を知らないらしい。
「本当、目の保養だな」
のそのそと呟き、プールサイドに腰掛けるケイ。
言ってる事は下品だけど、別に女の子を見て回る真似をする様子はない。
そういう性格じゃないし、そんな事したら明日の朝までプールの底に沈んでもらう。
「あなたは泳がないの」
「ほら。傷から水が入るから」
ケイの脇腹を指差し、ふと異変に気付く。
海水パンツの裾辺り。
細く赤い筋。
「縫ったの、それ?」
「ああ。転んだ」
素っ気ない台詞。
プールに消える体。
彼の意思ではなく、私の意思で。
「本当に、どうしてああなんだか。一体、何なの?」
「それはあなたでしょ。突き落としてどうするの」
「大丈夫。下は水だから」
わめき声を無視して、伸びてきた腕を剥がしてもう一度突き落とす。
何か言ってるが、室内プール独特の反響で聞きづらい。
というか、聞く気がない。
「ひどいわね」
「だったら、助ければ」
「どうして。変な事言わないで」
友達を助けるのが、変な事なのか。
分かるけどさ。
「パーカーは脱がないの?」
私を指差してくるサトミ。
スレンダーな体型を、惜しげもなく見せつけながら。
「人に見せる程でもない」
浮かんできたケイの頭をぐいぐい押して、もう一度プールに沈める。
本当に、余計な事しか言わないな。
「ショウにしか見せないとか」
「馬鹿」
タックルして、プールの上で悲鳴を上げさせる。
その直後に、水飛沫も上げさせる。
「あ、あなたね」
「ちょっとふざけただけじゃない。友達同士の、軽い冗談」
「体も哀れなら、心も哀れね」
えらい言われようだな。
さすがにむかついたので、パーカーを脱ぎ捨てプールに飛び込む。
しかし長い足だな、これは。
私の足と、一体何が違うんだ。
プールの底であぐらをかき、少し考えてみる。
別な種。
魔法でも使った。
夢を見てる。
どれもいまいちだな。
ちょっと泡を吐き、ふくらはぎを撫でてみる。
程良い弾力と、きめの細かい肌触り。
東北。
典型的な秋田美人という訳か。
今度は自分の足を撫で、首を傾げる。
弾力はあるが、ぷにぷにした手応え。
あれだけ毎日鍛えてるのに、ふにゃふにゃだな。
がちがちよりはましだけど、何か納得出来ない。
もうちょっと泡を吐き、上の方までさすってみる。
張りがあるな、この子。
何か、癖になりそうな感じ。
しかし私の方は、妙にぷにょぷにょしてる。
これはこれで手触りはいいけど、子供のそれという気がしなくもない。
突然脇の下に手が回され、強引に持ち上げられた。
「大丈夫かっ」
真顔で人を抱き上げるショウ。
高い高いをされている子供の絵でもある。
「何が」
「だ、だって。溺れてたんじゃ」
「後2分は息が続く」
「あ、そう」
安心したのだろうか。
気の抜けたため息を付き、ちょっと笑うショウ。
私もにこっと笑い、手を足をバタバタさせる。
くすぐったいのではなく、感情が高揚したので。
「恥ずかしいから止めて」
「あ、うん」
手足を止め、高い視点を楽しむ。
プールサイドは目線辺りだが、水面は遥か下。
みんなの頭を見下ろしている位置にある。
睥睨って、多分こういう時に使うんだろう。
全然違うかな。
「降りろって言ってるんだ」
いつの間にか、プールサイドに腰掛けているケイ。
降りるも何も、私はプールに。
「え」
「あ」
いきなり手を離すショウ。
当然落ちる自分。
一気に下がる視線。
小さいなー、私は。
「あ、あれ」
ばたばたして、すかさずショウへしがみつく。
じゃれてる訳じゃない。
足が着かなかっただけだ。
「あなた、何してるの」
よく見ると、サトミはかろうじて首が出ている程度。
この子がこれなら、私が水没するのは当然と言える。
「お、溺れるじゃない」
「泳げば」
「余計な体力を使いたくないの。ほら、泳いでよ」
「俺は疲れもいいのか……」
文句を言いつつ、私に腕を貸しながら背泳ぎで器用に泳いでいくショウ。
何となく、コバンザメの気分が理解出来た。
のそのそとプールサイドに這い上がり、膝を抱えて丸くなる。
水の中は、入っただけで疲れるな。
「何してるんですか」
足が見えた。
見上げたら、海水パンツも見えた。
ようやく厚い胸板が見えて、ひっくり返りそうになった。
「遊んでるんですか」
「私の事は気にしないで。手、手」
「子供だな、全く」
小声での文句を聞き流し、御剣君の手を借りてどうにか体勢を立て直す。
放っておいたら、プールに放り込まれそうな勢いで。
「自分こそ、どうしてここに」
「俺も体育なんですよ。雪野さんは、丸まって遊んでるんですか」
どういう遊びだ、それは。
確かに楽しいけどさ。
ふらふらと揺れたりするのがね。
「私の事はいいから、ケイを沈めてきて」
「沈めてって、どのくらい」
「明日の朝くらい」
「それは、殺人じゃないんですか」
楽しそうに笑う御剣君。
どうも、冗談だと思ったらしい。
浦田珪溺死計画は失敗か。
「しかしこの学校は、金がありますね」
「御剣君の家も、寄付してるんじゃないの」
「多少は。でも玲阿家には負けますよ。あそこは、RASの経営母体ですし」
「御剣家もでしょ。うちなんて、寄付どころか補助金もらってるくらいよ」
ぺたぺたと壁を叩く。
別に意味はないが、なんとなく。
こういう施設の大半は、企業や父兄の寄付金で建設されている。
どれだけのお金があれば完成するのか想像も付かないし、私の家ではこのタイル一枚買うのがせいぜいだろう。
「泳がないの?」
「あんまり得意じゃないんですよね。筋肉のせいか」
「ショウはすいすい泳いでるよ」
「あの人は、何でも出来るから」
少し寂しげな微笑み。
どうしてこの子は、こうショウに引け目を感じるのかな。
「ショウにだって、出来ない事はたくさんあるって。料理下手だし、整理整頓も苦手だし」
「いや。俺が言いたいのは、そういうのじゃなくて」
「同じなの。うだうだ言ってないで、泳いできなさい」
タックルをかますが、びくともしない。
体重差を考えれば、当然か。
「せっ」
左肩を手で押し、少しだけバランスを崩させる。
浮いた右足を払い、左腕を押して右手を引く。
後は放っておいても落ちていく。
「な、何をっ」
「うるさいな。文句を言う前に、往復しなさい」
「本当に無茶苦茶だな」
何故か犬かきで遠ざかっていく御剣君。
泳いでるっていうのかな、あれは。
プールから上がり、シャワーを浴びて制服に着替える。
後はドライヤーで髪を整え、少し休む。
何か、溶けそうに眠い。
水泳は全身運動だし、疲れるのは当たり前か。
「寝ないで」
「どうして」
はたかれる頭。
のろのろと立ち上がり、やたらに手を振る。
拳に感じる、鈍い感触。
目を開けたら、ロッカーが少しへこんでた。
「寝惚けるの」
「起きてる」
リュックを開けて、水着を取り出す。
おかしいな、濡れてる。
「いい加減にしなさい」
また叩かれた。
おかげで、少し目が覚めた。
気になった。
チゲを食べて、覚醒を促す。
この後はリレーの練習もあるし、スタミナを付ける必要もある。
「あー」
美味しいし辛いし、汗は出るし。
目は覚めるけど、暑くてしょうがないな。
「何してるの」
ハンカチで汗を拭いてくれるサトミ。
いや。鼻か。
「仕方ないじゃない。これ辛いんだから。サトミも食べる?」
「パス。真っ赤よ、それ」
「見た目程じゃないって」
ひーひー言いながら水を飲んでいては、説得力の欠片もないが。
実際にそこまで辛い訳ではなく、私が苦手なだけ。
だったら食べるなという話だけど。
「そんなに辛いか?」
ショウが食べてるのは、チゲではなくキムチ鍋。
ツインコリアフェア中なので。
しかし昼から鍋とは、本当に贅沢な限りだな。
小鍋だけど、こういう安上がりな幸せが嬉しいの。
「もう限界。いらない」
「もったいないな」
「だったら、上げる」
小鍋を彼の方へ追いやり、水ようかんで一息付く。
辛い物の後だけに、甘みは格別。
お陰で大分目も醒めてきた。
顔を上げると、渡瀬さんと目が合った。
「どうしたの」
小首を傾げる渡瀬さん。
笑い気味というか、困惑気味に。
「練習はいいんですか」
「練習?だって、まだ午後の授業が」
誰もいない教室。
いるのは私と彼女だけ。
完全に寝ていたようだ。
「サトミ達は?」
「さあ。代わりに、こういう物が」
私の背中に回り、髪を手渡してくる渡瀬さん。
欠伸をしつつ、そこに書かれた文字を読んでみる。
「私、雪野優。眠いから寝る。文句ある?」
文字から見てサトミだな。
しかしこれは、いつから貼られていたんだろう……。
顔を撫でつつ、グラウンドへやってくる。
あれだけやられれば、さすがに目が覚める。
「眠そうですね」
元気一杯に飛び跳ねる渡瀬さん。
遊んでる訳はなく、体を解しているんだろう。
多分。
「プールで、ちょっとね」
「ああ、体育。大丈夫ですか?」
「眠いだけ」
勿論それが問題なんだけど。
取りあえずストレッチをして、自分も体を解す。
大体、プールの後に授業をやる事自体が間違いなんだ。
寝てたのは私だけではなく、クラスの半分以上。
寝ない方が、どうかしてる。
「何してるの」
「誰が」
「優ちゃんが」
私を指差してくる沙紀ちゃん。
正確には、彼女の鼻先より高い位置に上がった足を。
「ストレッチ、ストレッチ。良く伸ばさないと、怪我の元でしょ」
「伸ばし過ぎじゃなくて?」
「沙紀ちゃんもやったら?怪我のリハビリ代わりに」
「私は、普通にやるわ」
何だ、普通って。
私がおかしいって言いたいのか。
「真面目にやって」
バトンで叩かれる頭。
振り向くと土居さんが私を見下ろしていた。
彼女にその気はなくても、身長差の関係上こっちは常に見上げる事となる。
彼女以外の、誰でもだけどね。
「叩かなくても言えば分かる」
「もういい」
いいなら叩くな。
もう片足も上げて、肘打ち気味に肩を回す。
やっぱり動くと、体も軽くなってくる。
眠さもどこかへいった感じで、まだまだこれからだ。
「特に揉めるような雰囲気はないわね」
グラウンドを軽く見渡す沙紀ちゃん。
ここにいるのは、クラブ生以外の一般生徒。
好きで体育祭にエントリーしている子ばかり。
競争相手同士のケースもあるだろうが、雰囲気としては和やかな物。
揉める要素の欠片もない。
「いい事じゃない。練習に集中出来て。まずはインターバル走。50mダッシュで、150ジョグ。その繰り返し」
「だるい」
「面倒ね」
「かったるいです」
明日からは、ムチでも持ってきた方がよさそうだな。
それとも、ニンジンか。
「いいから走って。とにかく走る。走って走って、また走る」
「科学的にやるんじゃないの」
「その内ね。体力もなくて、科学も何もないの」
だらだらと、何やらひそひそ話しつつ走り出す3人。
どうもやる気が感じられないな。
というか、やる気を出してるのは私だけか。
「ほら。掛け声は。ファイ」
怪訝そうな眼差し。
でもって、ダッシュ。
一瞬置いてけぼりになり、すぐに追う。
「ファイと言ったら、オー。ほら、ファイ」
「おー」
おざなりな掛け声。
まあ、ないよりはましか。
走りながら叫ぶと疲れる。
今さら知った。
「どうしたの。走って走って、走り抜くんじゃないの」
背中に掛かる声。
無視して、スポーツドリンクを少しだけ飲む。
その分体力が回復した。
気になった。
「休憩も大事なの」
息を整え、のど飴も舐める。
体が小さいから、体力もない。
それも、今さら知った。
「あれ。あれは」
がたがた揺すってくる渡瀬さん。
文句を言う気力もないので、彼女にすがりつつ立ち上がる。
「揉めてますよ」
「そういう年頃なんでしょ」
ため息を付き、手の中でバトンを回す。
ロッカールームの手前辺り。
大勢集まっている中で目を引く、横柄な態度の女の子達。
場所取りか何かでやりあっているようだ。
「止めないんですか」
「私に言わないで、G棟隊長にお願い」
「ごめん。怪我が痛くて」
いい言い訳だな。
今まで、人の前を走ってたのに。
「土居さんは」
「トイレ行きました」
で、残り物の私に声を掛けたという訳か。
「どうかした?」
自然な感じで、刺激しないように声を掛ける。
話を聞かなくても、こういうのは見た目で判断出来る。
視線、態度、雰囲気。
何より、その感覚で。
「誰」
冷たい、見下したような視線。
それは、彼女の後ろに控えている3人も同様だ。
「ここの生徒よ。何か、揉めてるの」
「遅いから、邪魔なの。走る意味無いじゃない」
なる程、そう来たか。
「そんなに自信がある訳」
「なかったら、わざわざ呼ばれない」
呼ばれない、ね。
はっきりは分からないけど、いい台詞でもないな。
「あなた達の専用グラウンドでもないんだし、そこまで言わなくてもいいでしょ」
「遅い人は道を譲る。違う?」
これは、何を言っても無駄だな。
価値観の相違というより、人間性が違い過ぎる。
「大体、あんたは誰?」
「それが関係あるの」
「うるさいから向こうへ行けって言ってるんだよ」
面白い事を言ってくるな。
普段ならひっくり返して終わる所だけど、そういう状況でないのは十分理解してる。
ただ、このまま放っておけないとも。
「それとも、自信がある?」
「ある」
はっきりと、誰の耳にも聞こえるように言い放つ。
特に、この馬鹿連中へ向けて。
「じゃあ、競争しようか。あそこに掛かったタオルを、どっちが早く取るか」
グラウンドの外。
植え込みのさらに奥。
街路樹の上に掛かっている、青いタオル。
雰囲気から見て、この連中と揉めている誰かの物だろう。
「いいわよ。その代わり私が勝ったら」
「勝てないから、約束は必要ないの。始めようか」
スタートラインに、クラウチングではなくスタンディングスタートで横に並ぶ。
放られるバトン。
放物線を描き、それは地面へと近付いていく。
腰を落とし、足に力を込める。
飛び出す女。
微妙だが、明らかにフライング。
こちらはバトンが付いたと同時に、彼女よりは遅れて飛び出す。
言うだけあり、距離は狭まらない。
ネットを避け、急なコーナーを曲がる。
ここで少し距離を詰める。
植え込みを飛び越える女。
振り返る、見下した笑み。
上等だ。
低い姿勢から足を踏みきり、高い植え込みを飛び越える。
ぎりぎりでクリアし、次の植え込みまでの距離を目測で測り次のタイミングを見極める。
3つ飛び越え、ここで並ぶ。
滑りやすい、落ち葉が敷き詰められた地面。
足の指に力を込め、勢いよくその上を駆け抜ける。
足を滑らす女には、見向きもせず。
高い位置にあるタオル。
女はどこで手に入れたのか、長い木の棒を私の横から伸ばしてきた。
「やってれば」
鼻で笑い、木の幹を蹴り付ける。
蹴って落とす訳ではない。
その反動を利用し、後方宙返りをして空に舞う。
少しだけ近付く空。
そしてタオル。
足先でそれを捉え、軽くひねって手に落とす。
横から感じる気配。
「へっ」
私を狙ったのか、あくまでもタオル目当てか。
とにかく横に薙ぐ棒をもう一回転して避け、体をひねって地面に降りる。
「勝ったけど」
タオルを首に掛け、荒い息を付いている彼女を見下ろす。
膝に手を付き、動く気力も無さそうな女を。
「こ、これはリレーで」
そう言った途端、どこからか彼女の仲間が飛び出てきた。
下らないし、相手にするのも馬鹿らしい。
「雪野さん」
ネットの向こう。
グラウンドで手を振っている渡瀬さん。
すかさず植え込みを飛び越え、ネットを回り込んだ彼女の元へ走る。
追いすがってくる馬鹿二人。
どうでもいいけど、きりがないな。
「よっと」
タオルにヘアバンドを巻き付け、振りかぶって投擲する。
風と空気抵抗。
不規則な軌道を描くタオル。
渡瀬さんの隣りで動く、女の仲間。
「仕方ないな」
そう呟くや、小さく跳んでネットを蹴り付ける渡瀬さん。
私よりも力強い、高い跳躍。
彼女達の頭上を越え、宙でタオルをキャッチする。
私と違うのは回転をせず、軽く手を横に伸ばして降りた事。
しなやかに膝を使い、上手に衝撃を逃がして。
天使の羽根が舞い降りるようにして。
「まだ、文句ある?」
追いすがってきた女へ、静かに語りかける土居さん。
不満、明らかな敵意を見せている他の子達を振り返りながら。
「……馬鹿馬鹿しい。行くわよ」
実際大して落ち込む様子もなく、足早に去っていく女達。
またこれがグラウンドでの競争だったら、勝負の結果はどうだっただろう。
彼女達は4人。
あの足の速さ。
呼ばれたという言葉。
それが持つ意味は、私にも分かる。
重い、嫌な気分。
薄い雲が垂れ込め始めた、今の空のような。
でもいつかは晴れ渡る。
そう信じ、私は灰色の空を見上げた。




