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トレーニングでかいた汗をシャワーで流し、バスタオルで丁寧にに拭いていく。
次は軽くローションをすべらせ、お肌のお手入れ。
ベタ付かないのがポイントだよね。
でもって、素早く着替え。
取りあえずは胸だけのタンクトップとショートパンツ。
隠す程の物じゃ無いんだけど、あえて見せるような物でもない。
時折エアコンの風が吹いて来て、火照った体に気持いい。
着替えを済ませてすぐにロッカールームを出ていくみんなをよそに、私はのんびりとくつろいでいた。
結局ケイの言葉通り、I棟Dブロックは完全に生徒会ガーディアンズがトラブルを収めていったから。
通報があって私達や他のガーディアンが駆け付けた時には、すでに生徒会ガーディアンズがいるのが殆ど。
また仮に後から来ても指揮権は彼等にあるので、結局は同じ事。
舞地さん達の元、迅速かつ丁寧に仕事をこなしていく生徒会ガーディアンズ。
揉め事がその後まで尾を引くという話は聞かず、その場で完璧なまでに処理をしているようだ。
元々トラブルの少なかったDブロックだけど、ますますその数は減っていた。
またその功労者である生徒会ガーディアンズに対する評価も、当然高まっていった。
「先輩に目を付けられた?生徒会ガーディアンズに聞いてみれば?」
「友達とケンカした?生徒会ガーディアンズに話してみろよ」
「ニンジンが苦手?生徒会ガーディアンズに言ってみれば?」
冗談ながら、そんな事まで言われるほどに。
オフィスに戻ってもする事がないので、私やショウは毎日トレーニングに勤しんでいる。
その間に本部の警備も何回かやったけど、あれは精神的に疲れるのでしばらくは見合わせたい。
落ち込んでいたサトミは、今度来校するシスター・クリスを歓待する際の実行委員として頑張っている。
彼女の場合は、警備担当のガーディアンとして参加しているのだ。
ただそれは名目で、実際には歓待の企画や立案にも深く関わってるらしい。
この間見た時はちょっと打ち込み過ぎかなとも思ったけど、今はそうしていたい気持なのだろう。
シスター・クリス率いる修道女達は、倹約質素をその旨とする。
そのため彼女達を歓待するには、出来るだけ手作りでやる必要があるとの事。
お金も自治体や企業からの奨学金とかじゃなくて、みんながバイトしてそれを資金にする計画もあるとか。
当日着る服や飾り付け、それに料理もみんなで作る計画だと聞かされた。
大変だなと思ってたら、私もバイトしろとサトミより命が下った。
その内、何かを探さないといけないな。
「あー」
エアコンの心地よさに浸り、だらっと姿勢を崩す。
椅子からずり落ちていく感覚が、なんともだらしなくていい気分。
このまま寝たら、多分すごくいいんだろうな。
「クシュッ」
……その前に風邪を引くか。
くしゃみの反動でとうとう床に座り込んでしまった私は、鼻をこすりつつリュックに手を伸ばした。
「大丈夫?」
「へ?」
顔を上げたら、胸が見えた。
俯いたら、私の胸も見えた。
今見た視界一杯に広がるようなのじゃなくて、視線が素通りしてしまうようなのが。
「大丈夫だよ……」
顔を戻し、力無く笑う。
「そうには見えないけど」
沙紀ちゃんは心配そうに、私の横へとかがみ込んだ。
凛々しいその顔立ちは、やや曇り気味である。
「沙紀ちゃん、仕事はいいの?」
「うん。今日はちょっと早めに終わらせてもらったの。私がいなくても、浦田がいるし……」
遠慮気味の笑顔。
彼女はTシャツの袖を肩までまくり、やるせなさそうにため息を付いた。
「ごめんね。ケイが迷惑かけちゃって」
「そんな事無いって。私達こそ、助けられてるから」
「そうなの」
取りあえず立ち上がり、手早く制服を着る。
「でもあの子の姿、トラブルの現場とかで見ないよ」
「目立ちたくないとか言って、私を通して指示してるの。完全に裏方に徹するつもりみたい」
苦笑する沙紀ちゃん。
あの子らしい行動ではあると、私も頷いてみた。
「それはいいんだけど、私達が出しゃばってるから優ちゃん達が困ってないかと思って」
「大丈夫。サトミも今忙しいし、またしばらくはガーディアン休業するつもり」
「ごめん」
「沙紀ちゃんが謝らなくてもいいわよ。悪いのはケイなんだから」
「だけど私……」
逡巡の見えるその表情。
それは矢田局長を問いつめた時、彼が見せた表情とあまりにも似通っていた。
「悪い事しちゃったかな」
「え、何が」
「えと、局長にちょっと。彼が言いたくない事を、無理に聞いたから」
彼女が何か言うより前に、私は手を大きく振った。
「いい、いい。今の無し」
それと同時に、ホックのはまっていなかったスカートがずり下がる。
「わっ」
叫ぶも時遅し。
私の手を逃れ、床に舞い降りるスカート。
そして見えるのは、ショートパンツを脱いでいた私の間抜けな姿。
「……今のも無しね」
私はこそこそと屈み、しゃがんだままスカートを履いた。
せっかくいい雰囲気だったのに、どうも駄目だ。
基本的に、真面目な話が向いてないのかな。
ちゃかつき過ぎなんだという声が聞こえてきそうだけど、気にしないでおこう。
「と、とにかく、ここ出ようか」
ロッカールームを出ると、一足先に着替えを済ませていたショウが待っていてくれた。
「よう、丹下さん」
「久し振り」
軽く挨拶を交わすショウと沙紀ちゃん。
私はスカートのウエストを押さえつつ、エレベーターがある方を指さした。
「どこかで、少し休もう」
「いいけど、どうして押さえてるんだ」
「女の子には色々事情があるの」
いい加減な事を言って、すたすたと歩き出す。
もうホックは掛かってるから大丈夫なんだけど、あんな姿ショウには見せられないからね。
今の無しなんて、通用しないし……。
食堂でアイスココアを頼むと、おばさんに笑われた。
こないだビールを飲んだくれてた時、ピッチャーを出してくれた人だ。
「今日はいいの?」
「まだ夕方だもん」
「よかったら、また飲んでいきなさい。ここは飲み屋じゃないけど、あなた達みたいな子がいると私達も楽しいからね」
優しい、まるでお母さんのような笑顔。
おばさんの手に自分の手を重ね、私も同じように微笑む。
「今度は、別な子も連れてくるから」
「ええ。待ってるわ」
おばさんに手を振り、私は二人が待っているテーブルへと向かった。
アイスココアを一口飲み、その程良い甘さに目を細める。
あ、今飲むと夕ご飯食べられないか。
でもいいや、美味しいから。
「さてと」
グラスを置き、襟にあったネクタイを取る。
細いので、指にも巻ける。
巻く意味はないけど、巻いてみる。
そして解く。
こういうのが、案外はまるんだ。
例によってブラックを頼んだショウが、グラスから口を離す。
「あの馬鹿、今何やってる」
「玲阿君。怒るのはいいけど、馬鹿は言い過ぎじゃないの」
いつにない強い沙紀ちゃんの口調。
ショウは素直に頭を下げ、姿勢を正した。
「……悪い。で、ケイは今何やってる」
「多分、オフィスで私の残した仕事をしてるわ。それが終われば明日からの訓練スケジュール作成、I棟生徒会ガーディアンズとの定例会議の議案文チェック、各クラブの警備依頼のメンバー振り分け、自警局自警課との会合準備、厚生局からの寮警備試案チェック、交流学生のガーディアン研修……。まだ続ける?」
首を振り、降参とばかりに手を上げるショウ。
「頑張ってるんだ、あの子」
「ええ。自分は前に出ずに、あくまでもサポートに徹して。責任者の欄に、名前が書き込まれる事はないの。でもそれは、浦田が責任から逃げてる訳じゃなくて……」
「あいつは、そういう馬鹿なんだよ」
今度は沙紀ちゃんも何も言わない。
みんな、分かってるから。
「ただな、丹下さん。このままほてっおく訳にも行かないんだ。二人とも分かってるだろ、あいつが何か隠してるのは。いや、隠してるのはあいつだけじゃないけど」
沙紀ちゃんの顔が曇ったのを見て、ショウは口をつぐむ。
「……それを確かめる方法が無い訳じゃないと思う」
ショウに代わって、今度は沙紀ちゃんが話し始める。
今まで以上に重い表情で。
「例えば私を人質みたいにして、浦田に聞いてみるとか」
「そんな事で、あいつが話すか?」
「どうだろ。感情に乏しい子だから」
「それに、方法として少し気が引けるな」
私達は押し黙り、自分の前に置かれたグラスを見つめ続けた。
どのみち他の方法があったとしても、聞くべき事は同じなのだ。
そして沙紀ちゃんが、自分を盾にしようと言った意味。
ケイの考えを、おそらくは知っている彼女。
でもそれを、私達に言う事は出来ない。
ケイと私達の間で苦しむ沙紀ちゃん。
そんな彼女なりの、償いの気持。
それを受け入れない事には、彼女は自分を責め続けるだろう。
結局私達は、そうするしかないのだ。
間違っている選択だと分かっていても。
こんな形でしか沙紀ちゃんを救えない。
私は改めて自分の無力さを痛感していた。
「無駄な気がするけど」
気乗りなさげに、背もたれへ倒れ込むサトミ。
シスター・クリス歓待委員会(仮)のガーディアン側実行委員として、その仮設本部にいる彼女。
今いるのは警備に当たるガーディアンの会議室で、見た事のある人達も何人かいる。
遠くの方には矢田局長もいて、真剣な顔で何か話し合っている。
この前の事を謝ろうかとも思ったけど、今はこっちもバタバタしているのでやめておいた。
ごめんなさい、と私は心の中で頭を下げた。
さすがに局長達の側で話す訳にも行かず、食堂へと戻ってきた私達。
目の前には、少し季節外れの麦茶が置いてある。
何か、飲んでばっかりだ。
「……塩田さんも言ってたんでしょ。刺激するなって」
「だからって、黙ってあいつの言う事を聞いてるのか」
「そこを突かれると、私も困るけど」
「やっぱりみんなは、浦田の事怒ってるの」
不安げな顔を、特にショウへと向ける沙紀ちゃん。
若干の沈黙。
出ている答えを出したくない表情の私達。
「少しは、そういう気もある」
「素直になったら、玲阿君」
からかうようなサトミの眼差し。
ショウはその長い髪をかき上げ、わずかに顔をしかめた。
「大人しくしてろとか、生徒会の方が待遇いいとかじゃなくて。他に言う事があってもいいと思ってさ」
「はっきり言いなさい」
「心配してる人もいるんだから、少しは話し合おうって。俺は、別にどうだっていいんだが……」
その辺りが限界だったらしく、コーラを一気飲みする。
色々言ってるけど、ショウもやっぱり心配しているんだ。
うん、それでこそ玲阿四葉だよ。
「でもショウがそう思っているなら、こんなやり方はどうかしら。丹下ちゃんの気持ちも分かるけど、却ってあの子がムキにならない?」
「普通に聞いて話すような奴じゃないだろ。俺だって無理があるとは思ってるけど、このくらいやればあいつも何か言うと思ってさ」
「難しいわね」
やはり、はかばかしい返事は返ってこない。
「確かにいい方法とは思えないけど、そこまで否定する事?遠野ちゃん、どうして?」
さっきショウに対して見せたのと同じ、沙紀ちゃんのやや強い口調。
その視線は、サトミの横顔を真っ直ぐに見つめる。
「……この中では多分、私が一番ケイを分かってると思うから」
サトミの視線が一瞬沙紀ちゃんに向き、すぐに外れる。
沙紀ちゃんはポニーテールへ手をやり、大きく前へとかき上げた。
二人の間に微妙な空気が流れ、周りにいる子達の笑い声が大きく響く。
「それはともかく、具体的にはどうするつもり」
雰囲気を切り替えるような、サトミのやや明るい口調。
私もすぐそれに乗った。
「あんまり凝らなくても、要は沙紀ちゃんを私達が捕まえてるって思わせればいいんじゃない」
「だから、具体的に言ってよ」
言葉に詰まる私と、それを見てため息をつくサトミ。
「それ、使ったらどうかな」
私の指に巻かれていたネクタイを、沙紀ちゃんが指さす。
さっきからずっと、巻いたり解いたりして遊んでいた物だ。
「それで、私の手を縛ってるみたいにしたら?私の端末から連絡すれば、浦田も少しは本気にするかも
「そうすると、誰が連絡するの。丹下ちゃんだと不自然だし、ショウは向いてないでしょ」
沙紀ちゃんに手を差し出す私。
「サトミが話したいって。端末貸して」
「どうして私に」
「いいじゃない。ほら、ほら」
「ちょっと、大体ケイのアドレスがどこに入ってるのかも……」
通話ボタンを押すと、即座に「浦田 珪」の名が。
フルネームで書かれると、少し新鮮だ。
「今あの子隊長補佐だから、何かと連絡する機会が多くて」
「聞いてないよ、何にも」
「聞きたくはあったけど」
結局端末を受け取ったサトミが通話ボタンをもう一度押し、髪をかき上げてレシーバーを耳に当てる。
何でもない仕草だけど、それがまた格好良い。
などと思っている余裕もないまま、彼が出るまでのわずかな時間を過ごす。
不安と焦りと、微かな喜びを込めて。
それまで笑っていたサトミの表情が、一転厳しくなる。
彼が通話に、応じたようだ。
「……そう、私。……丹下ちゃんならここにいるわ。……ええ、あなたと話がしたいの」
全員の視線がサトミに集まり、彼女の頷きに小さく息を付く。
「……I棟の306教室に来て。そこで待ってるから。……大丈夫よ、今は何もしていないわ」
ボタンを押し、レシーバーを耳から離す。
「何その、今はなにもしていないって」
「軽いブラフ。通用しないでしょうけど、何もしないよりましだから」
事も無げに言ってみせるサトミ。
やる気がないのと、実際の行動とはまた別なようだ。
「端末は電源を落とすわ。データのバックアップは取ってある?」
「え、ええ」
「だったら、やっぱり小細工した方がいいわね」
メインスイッチを切り、さらにはデータの初期化を実行する。
最後にはデータを再設定して、端末固有のアドレスを変えてしまった。
しかもアドレスは一つではなく、20以上が設定されている。
そのどれもが、さっき消したはずの生徒会ガーディアンの物である。
どうやってやるのか私は知らないけど、サトミにとっては何でもない事のようだ。
さらにそのアドレスを使い、沙紀ちゃんの目撃情報をあちこちででっち上げた。
声で出なく文字での送信なので、こっちが誰かは特定出来ないはずだ。
送信先はDブロックの生徒会ガーディアン達。
勿論、同じアドレス同士には送っていない。
「後は幾つか、丹下ちゃんのアドレスで送ってと。これで居場所は、ケイ以外にはまず分からなくなったわ。その前に見つけられたら、下手をすると監禁とか理由を付けられかもしれないから」
「そういう悪い事、どこで覚えたんだ」
「高等技術を学んだと言ってほしいわね」
「何だかんだ言って、やる気じゃない」
「私はここまで。その後はショウに任せるわ」
私達は頷きあって、食堂を後にした。
どうにか誰にも見つかる事無く、私達は306教室へ移動が出来た。
さっきから沙紀ちゃんの端末を操作しているサトミが、レシーバーを耳へ持っていく。
「ケイが、Dブロックのオフィスに連絡してる。はっきりとは言わないけど、この近くにいるのは確かね」
「そろそろって訳」
私は彼女の後ろに周り、ネクタイを軽く手首に巻き付けた。
それでネクタイの端を、沙紀ちゃんの手に収める。
「縛らないの?」
「雰囲気だけで十分でしょ。実際に手を見せる訳でもないし」
「私もそう思うわ。ケイが変な動きをした場合のためにも、丹下ちゃんが逃げやすいようにしておいた方が良いから」
端末のレシーバーを離し、私達を見渡すサトミ。
「ショウとユウは前に出て。丹下ちゃんは壁際に。私が指示するまで、絶対に何も言わないで」
それまで壁にもたれて目を閉じていたショウが、体を解しながら沙紀ちゃんの前に立つ。
表情は硬く、険しい。
「玲阿君」
「あいつが仕掛けてこない限りは、俺も手を出さない」
隣にいるだけで分かる、彼の気持ち。
怒りや苛立ちだけではない、もっと複雑な思い。
私はそれを感じながら、自分も息を整えていった。
ドアが開き、黒い人影が入ってくる。
照明は当たっている。
彼の存在が、それを暗く見せているのか。
いつも通りの自然な足取りで、緊張した様子は見られない。
壁際にいる私達の所まで来たケイは、無表情のままこちらを見つめた。
「丹下を渡してもらおうか」
「その前に、少し話をさせて」
「交渉はしない。みんながするのは、丹下を解放する事だけだ」
全く妥協の余地を見せない。
沙紀ちゃんがこちらにいるという弱みを、少しも意に介していないようだ。
それは私達が予想していた通りでもある。
「情報を攪乱して、生徒会ガーディアンズを遠ざける方法はよかったよ。こんな現場を見つけられたら、即解散申請を提出されてる。いや、退学申請かな」
「あなたもそれに乗ったんじゃなくて。そうでなければ、一人で来る必要はないでしょ」
「所詮は身内の戯れ言。兄弟ゲンカを警察に仲裁してもらう馬鹿はいない」
身内という言葉に喜ぶのもつかの間、ケイの言葉はさらに続く。
「どっちにしろ、これ以上やるなら容赦はしない。それに俺からは、この間言った事以上の話はない」
会話を続ける意志すらないのか、警棒に手を当てて一歩前に出るケイ。
その間、表情はわずかにも変わらない。
「強気だな」
それを妨げるように、ショウも前に出る。
こちらは、かなりの威圧感を込めて。
「お前が何考えてるのか、ここで話してもらうぜ」
「どうやって」
「丹下さんがこっちにいる」
「それで俺が喋ると思う?」
「無理だな」
少しずつ距離を詰め合う二人。
すでにショウは構えを取りつつある。
「だったら、力尽く出来たら」
「ケイッ」
私とサトミが同時に叫ぶ。
沙紀ちゃんは黙って、しかし厳しい表情で二人を見つめる。
「もう一度言う。丹下を渡してもらおうか」
日頃からあまり表情の変化に乏しいケイだが、今は感情のひとかけらさえ見せていない。
「嫌だといったら」
「今言ったように、実力で連れて帰る」
「なるほど」
腰を落とし、完全に構えを取るショウ。
ケイもそれに合わせる。
右手をかなり前に出し、利き手である左手を顎の横に位置させるボクシングに近いスタイル。
「言っとくけど、本気だから」
ケイの淡々とした声が私の胸の奥に届く。
「俺もさ」
ショウの集中が高まっていくのが、手に取るように分かる。
近くにいるだけで、彼の体温を感じ取れるかのようだ。
熱く痛い感覚が、皮膚に突き刺さる……。
ケイが、前触れもなく動く。
思ってもみなかった、鋭い出足。
ショウも即座に反応して、サイドステップでかわしにかかる。
「グッ」
しかし、一瞬早く左正拳が鳩尾にめり込んだ。
体を折り呻き声を上げるショウ。
その首筋に、高々と上げられた足首が振り下ろされる。
ショウの頭を捉えたまま床へ落ちていく、ネリチャギ気味の蹴り。
それに合わせ、脇腹にボディーアッパーが3連打される。
「ガッ」
ガードの上からでもかなり効いたのかのか、腕を押さえながらショウが床を転がる。
「次は」
机の脇で呻くショウを無視して、視線がこちらに向けられた。
間違いなく、私へと。
「……私よ」
「結構」
全く動揺を見せないケイ。
私といえばもう何も考えられない。
勢いで出てしまっただけだ。
だけど心のどこかでは、彼が「冗談、やり過ぎた」と言ってくれるのを待っている。
そして、倒れているショウを助け起こしてくれるのを。
そうでなければ、とても今のケイの前に立つ勇気がない。
私の動揺を見透かしたかのように、彼の足が前に出る。
駄目だ。
体が動かない。
それに、早い。
目の前に広がるケイの拳。
私は目を閉じた。
もうよける自信もないし、その気力もない。
顔全体に激しい風が当たる。
彼の拳圧が……。
しかしそれに続くはずの衝撃は無く、痛みもやってこない。
そっと目を開くと、ケイの拳は鼻の前で止まっていた。
当たらなかった。
だけど殺意にも似た迫力が、それからは感じられた。
そう、彼は本気だったのだ。
少なくとも、その気構えを持っていた。
「ユウは女の子だから、今回は止めた。だけど、二度は無い」
冷静に言い放つケイ。
全身から噴き出す汗が、その言葉を真実だと告げている。
「次は……」
「私は遠慮しておくわ」
沙紀ちゃんが掴んでいたネクタイを解くふりをして、背中を押すサトミ。
彼女も彼同様、表情に変化はない。
押し殺しているとしか、私には思えないが。
「ご、ごめんなさい」
沙紀ちゃんは目に見えて落ち込んでいる。
まさかこれほどの事態になるとは思っても見なかったのだろう。
それは私もそうだ。
「いいの。さ、早くケイの所へ行って上げて。今のあの子には、あなたしか側にいられないのだから」
サトミの言葉が胸の奥に突き刺さる。
私は拳圧で乱れた髪を押さえ、唇を強く噛みしめた。
「怪我はない?」
「え、ええ」
ネクタイが巻かれていた手首を見せる沙紀ちゃん。
一瞬ケイの顔が和らぎ、彼女を労る格好で斜め後ろに回る。
「よかった。じゃ、行こう」
「え、ええ」
私達を見ようともせず背を向けるケイ。
沙紀ちゃんは辛そうな顔をこちらに向け、すぐにその後に続いた。
ドアが閉まり、彼等の去っていく足音がここまで届いてくる。
これが夢であったら、どれだけよかっただろう。
でも現実にしか過ぎない。
私達自身が解決しなければならない、確かな事実でしか。
オフィスに戻ってショウの服を脱がした私達は、思わず息を飲んだ。
見事に別れている腹筋のやや上に、赤い痕が見える。
紛れもなく、ケイの拳が付けたものだ。
「大丈夫なの?」
「ああ。一応はな」
シャツを着て、お腹と傷の付いた腕を押さえるショウ。
あまり大丈夫ではないようだ。
肉体的には、軽い内出血。
でも精神的には、果たして。
「でも、いつもよりケイのスピードが速かったけど」
「多分、重しを取ったんだろ。うかつだったな」
重しとは、私達が付けているパワーリストやアンクルの事。
だからこれを取った時は、まるで魔法を掛けられたみたいに体が軽く動く。
例えば前期の、SDC代表代行との試合のように。
私達はそれを付けたケイの動きに慣れているから、その早さはより加速が付いて見えたのだ。
ショウはお腹を押さえたまま、ずっとテーブルを見つめている。
サトミも額を抑え、ずっと押し黙っている。
私も同じ。
もう、何もやる気が起こらない。
「……暗いな、お前ら」
突然塩田さんが入ってきたが、挨拶する気力もない。
「浦田とやり合ったんだって」
「ええ。ショウは一方的にやられたけど」
「だろうな」
あっさりと言う塩田さん。
それにはショウも、反発気味に顔を上げる。
「だろうなって、俺が最初から負けるって決まってたみたいに」
「浦田に勝てる訳がない、お前らでは」
静かに、しかしはっきりと断定する。
「お前らは優しいからな。だから浦田がが敵に回っても、どうしても気合いが入らない。どこかであいつを味方だと思ってる。本気でやり合うなんて思いもしない」
まさに言われる通りだ。
その結果、私達はこうしているんだから。
「だけど浦田は違う。あいつの信念に合えば、相手が誰だろうと容赦はしない。例え玲阿が相手でもな」
「本当、身に染みて分かりましたよ」
ショウの端正な顔が歪む。
それは苦痛のためというより、自身の弱さに対してだろうか。
「だけど、こればっかりは突然どうにかなるもんじゃない。明日同じ事態になれば、同じ結果になるだけだ」
「私達では、ケイには勝てないって言うんですか?別に、勝つ必要はないけど」
「残念だけど、塩田さんの言う通りよ。悪魔を相手にした方がまだましね」
冗談めかしているが、サトミの表情は以前にもまして重い。
「遠野、そう落ち込むな」
開けっ放しになっていたドアに向かって、塩田さんが手招きする。
ドアをくぐる見慣れた顔。
いや、ついさっきまで見ていた顔。
「苦戦してるみたいだね」
「光……」
顔は双子の弟であるケイとよく似ている。
だけど誰もケイとは思わない。
それ程、この二人の雰囲気は違う。
陰と陽。
光と影。
そのどちらが優れているという訳ではない。
つまり完全な物を二つに割れば、きっとこんな二人が出来る。
「でも、僕だってケイを相手にするのは辛いな。それに、向こうが極端に悪い事している訳でもないし」
朗らかな笑顔で弱気な発言をするヒカル。
彼は私達の仲間であるのと同様に、ケイのお兄さんでもある。
思う所は、私達以上に複雑だろう。
「まあいい。俺達、今暇なんだ。お前も少し休んでけ」
「ああ。大学院は担当教授が研究に入ってしばらく休みだし、当分付き合うよ」
ヒカルが笑うだけで、心の底から安心感がわき上がる。
この人に付いていけば大丈夫だという気が起こる。
希望という文字が胸の奥から浮かび上がる。
ショウとサトミも同じ気持ちなのだろう。
さっきまでの沈んだ様子は、かなり薄れてきた。
「俺はこれ以上手を貸さないからな。でないと浦田に悪い」
軽く手を振りオフィスを出ていく塩田さん。
そう。
塩田さんから見れば、私達もケイもみんな一緒なんだ。
同じく彼を慕う、出来の悪い後輩に過ぎないから。
やや自信を無くし気味のショウは、ヒカルと一緒に帰っていった。
飲むんだろうね、多分。
サトミもシスター・クリス歓待委員会(仮)があるとかいって、仮設本部へ。
私といえば、寮にいる。
トレーニングをする気にもなれないし、食堂へビールを飲みにいくのもちょっと。
制服からジーンズとポロシャツに着替え、ベッドへ倒れ込む。
やらないといけない事は幾つかあるんだけど、今日はもう勘弁して欲しい。
食事は、冷蔵庫にある物で適当に済ます事にしよう。
確か、この前作ったビーフシチューがあったはずだ。
甘い物も食べたいな。
でも、太ったら困るし。
サトミは「ユウは太る体質じゃないわよ」と言うが、その根拠を聞いた事がない。
こうして寝てたら、どこかからシュークリームでも運ばれてくればいいのに。
気が滅入り気味な割には、下らない事を思いつく。
「仕方ない」
学校の近くに美味しいケーキ屋さんがあるので、そこまで行ってくるとしよう。
面倒だけど、ここにこもって悶々としているよりはましだ。
スクーターのキーはどこへやったかな。
「んー」
小物入れに手を突っ込み、がさがさと探る。
無い。
服に、入れっぱなしかも知れない。
上着を掛けてある壁際に目をやると、やるせない気持が胸にこみ上げてきた。
赤いパーカーと青いパーカーが、ベッド側の壁に掛かっている。
赤い方はショウの、青い方はケイから借りている物だ。
そのどちらも、二人が私に掛けてくれた。
途端に、今日の出来事が蘇る。
ついにやり合ってしまった二人。
以前もこんな事があったが、今回のは特に堪えた。
気力が一気に無くなっていく。
学校の外どころか、この部屋から出ていく事すら辛くなってきた。
ため息も付けず、私はベッドへと舞い戻った。
少しして、ベッドの脇から可愛らしいメロディが流れてきた。
室内のシステムと連携している端末を手に取ると、名前が表示されている。
「……私、今いい?」
「うん、ドア開けるね」
セキュリティを解除し、ベッドから体を起こす。
「お邪魔します……」
遠慮気味な声と共に、沙紀ちゃんが部屋に入ってきた。
表情は勝れず、大きな体が今は少しばかり小さく見える。
「あ、これお土産」
差し出される、「シャトー・コーシュカ」とプリントされた白い箱。
「神様って、いるかも知れない」
「え?」
「いや、こっちの話」
私は箱を開け、楚々と収まっているシュークリームとご対面した。
そして、シューにプリントされている仔猫に小さく拍手する。
「さっきはごめん。あんな事になっちゃって」
元気なくクッションに腰を下ろす沙紀ちゃん。
垂れ下がる前髪をかき上げようともせず、カーペットを指でなぞり続ける。
「気にしなくていいよ。言い出したのは確かに沙紀ちゃんだけど、それに乗ったのは私達だし。仲間仲間」
「ありがとう。そう言ってくれると助かる」
「さっきヒカルが来て、サトミもショウも少し元気になったみたい。私は、これがあればもう」
ふたを閉めて、フォトスタンドや小物が飾ってあるハイボードの上に乗せる。
嬉しさのあまり、ちょっと拝んでみたりして。
「沙紀ちゃんご飯は?」
「まだ食べてないわ」
「ビーフシチュー暖めるけど、どう?ほら、デザートもあるし」
「悪くない」
親指を立て、ようやく笑ってくれる。
「……サラダって何入れる?」
「セロリとか、ニンジンとか」
「私駄目なんだ、セロリ。生ピーマンならまだいいんだけど」
「そっちの方が私は」
ビーフシチューを楽しみながら、たわいもない会話を交わす私達。
TVでは、山猫の子供が産まれたというニュースをやっている。
ケイが好きそうな話だな。
今もどこかで、これを見ているんだろうか。
「猫は、大きい方がいいんだって」
ガーリックトーストをかじりながら、沙紀ちゃんがテレビを指さす。
「浦田が、前そんな事言ってた」
「あの子、トラとか好きだから。仔猫より、大人の猫が好きなの」
「変わってるわよね。普通の人は、仔猫の方が好きなのに」
苦笑して、スプーンをコンソメスープの中に滑らす。
「昔から、ああなの?」
「変わってない。見た目も殆ど一緒。でも、少しは丸くなったかな。前はもっと冷たいっていうか、今以上に一歩引いてた」
「そう、なんだ」
スプーンはいつまでもスープの中を泳ぎ続ける。
「やっぱり、遠野ちゃんと仲いいの?今日も言ってたじゃない、浦田の事を一番良く知ってるって」
手を止め、私の顔を見つけてくる沙紀ちゃん。
私も姿勢を正し、お茶で喉を軽く潤した。
「あの二人は陰っていうのかな、私達とは違ってちょっと暗めの考え方をする時があるの。それをサトミは分かってるから、ああ言っただけ。サトミが好きなのはヒカルで、それはもう間違いないよ」
「浦田が、遠野ちゃんを好きっていう事は?」
「無い無い。中等部の時そうかなと私も思ってたけど、全然違ってた。ケイがサトミを守るような事を言ったとしたら、それはヒカルの代わりにっていう意味。お兄さんの代理」
私はずっと胸の奥にためていた疑問を、少しだけ外に出してみた。
「ケイがどうかしたの」
沙紀ちゃんの表情は全く変わらない。
当たり前だ、どうもする訳がない。
悪い事を聞いてしまった。
謝ろうと思い話を続けようとすると。
「……いいかもしれないって思ってる」
「ふーん」
私は空になった食器をキッチンに運び、そのまま冷蔵庫の向こう側へと消えた。
そうする事しばし。
部屋へと戻り、空になったお皿を見つめている女の子に声を掛ける。
「まだ、ビーフシチューあるよ」
「もうお腹一杯。それに、シュークリームの分は開けとかないと」
素敵なほどにくびれたお腹をさする。
明るい笑顔で。
「食べられるかな、今日は」
「え、どうして」
「少し待ってて。私お皿洗うから」
手伝うと申し出た沙紀ちゃんを強引に座らせ、再びキッチンに戻る。
とにかく今は、耐えるしかない。
それからしばらくの事。
お皿も洗い終え、テーブルの上も綺麗に拭いた。
「どういう事?」
目の前に置かれたビールに、そして何より集まった面々に疑問の視線を向ける沙紀ちゃん。
池上さん、舞地さん、モトちゃん、サトミ。
でもって私。
もう少し集めたかったけど、まずは関係者だけという事で。
それに、女の子限定なのも多少訳がある。
「えー、ごほんごほん。皆様本日はお忙しい中お集まり頂き、誠にありがとうございます」
手を前で組み、かしこまって頭を下げる。
状況を把握していないみんなは、怪訝な表情で私を見ているだけだ。
「それでは皆様をお呼びした理由を、今から説明いたします。沙紀ちゃん、立って」
「う、うん」
「さ。それでは先程の言葉を、ここでもう一度再現していただきましょう」
「ええ?」
目を見開き、みんなを見渡す沙紀ちゃん。
私はかまわず、彼女の脇をぐいぐい押した。
「ほら、さっきの台詞。ケイがどうしたって」
みんなの表情が、すっと変わる。
そして沙紀ちゃんが。
「……その、いいかもいれないって思ってる」
時の止まったような静寂が一瞬訪れ。
即座に大爆笑が巻き起こる。
「ちょ、ちょっと……」
困惑する沙紀ちゃんを放っておいて、大笑いする一同。
モトちゃんと池上さんは、体をよじってお腹を押さえている。
舞地さんはそこまでではないものの、口に手を当て肩をフルフルと震わせている。
サトミといえば、床へうつ伏せに倒れてしまった。
ショックとか、今までの不調のせいではない。
その証拠に、彼女のお腹はヒクヒクと上下しているから。
「……浦田沙紀」
モトちゃんがぼそっと呟く。
またもや笑い声が激しくなる。
「……丹下珪」
今度は池上さんが。
まるで尺取り虫のように、倒れたまま体をひくつかせるサトミ。
舞地さんもとうとう声を上げて笑い出した。
もう駄目、止めて。
完全にひっくり返っていた私は、息をする事も出来ず笑い転げた。
「……沙紀さんを、僕に下さい」
うつ伏せになっていたサトミが、顔を上げて声色を使う。
死む、これ以上は死む。
「そんなにおかしいかなっ」
真っ赤な顔で叫ぶ沙紀ちゃん。
「おか、おかしく、おかっ」
「……沙紀さん、結婚して下さい」
真顔になって、舞地さんが余計な事を言う。
勿論耐えられるはずが無く、全員が床に転がった。
結局その後も沙紀ちゃんとケイの話題で盛り上がり、私達は久しぶりに楽しい時を過ごした。
そしてこうも思った。
ここにケイがいたら、もっと楽しいんだろうなと。




