21-10
21-10
殆ど波もない水面。
おそらく海水のはずだが、潮の香りもそれ程無い。
また運河という性質上、流れという物も感じられない。
その中を、高速で進んでいくボート。
「連中を止めていいの?」
「当然」
「了解。ショウ、前に行ける?」
「それで止まるとは思えないけどな」
レバーを押し上げるショウ。
下の方から低い振動があり、船首部分の波が大きくなっていく。
近付く3艘のボートがやがて横に並び、後ろへと流れていく。
だがそれは一瞬で、ボートは小回りを利かせてこちらから逃げていった。
「やっぱり無理か。横に付けて」
「了解と」
大きく切られる舵。
景色がが右へ傾き、体も倒れていく。
同時に近付いてくる、岸壁の景色。
「並行して走って」
デッキを降り、船の周囲にある手すりへしがみつく。
さらに縮まる距離。
振動の振れを意識しつつ、手すりに足を掛けて腰をためる。
迫ってきたボートの速度を確かめ、足に力を込めて手すりを踏み切る。
真下に見えるのは、冷たそうな黒い水面。
その上を飛ぶ、私の影。
浮遊感を楽しむ余裕はなく、原始的な恐怖が心の奥を掴みに掛かる。
それに負けるより早く足を伸ばし、ボートの縁に辿り着く。
後ろへ傾く体。
未だ私を呼び寄せる、薄暗い水。
スティックを素早く伸ばし、木製らしい床を突き破ってどうにか堪える。
「っと」
そこを頼りに、突っ込んできた男達に蹴りを見舞って宙を舞う。
スティックを抜き、体を翻しつつ操縦席前にある風防を叩き割る。
即座にスティックを収め、床に着地様もう一度飛ぶ。
まずはわずかにある、ボートの縁の手すりの上へと。
すぐにそこも踏切り、再び海の上へ。
今度は風防を壊し、操縦席付近に一撃だけを食らわせて即座に離脱。
同じく床を踏み切り、手すりから海へ。
最後は突っ込んでくる人間をすり抜け、スティックを抜いて操舵を突く。
突然大きく右へ回頭し、激しく傾くボート。
乗っている人間はバランスを崩し、床へと倒れていく。
私は構わず床を踏み切り、三度海面を下に見た。
岸壁から手を振り、ショウの操縦するボートを呼び寄せる。
私が飛び乗った3艘は、少し後方で止まったまま。
一艘は岸壁に激突したし、当分は動かないだろう。
「よっと」
ボートと併走して、岸辺を踏み切り手すりへと飛び乗る。
さすがに床へスティックを突き立てる訳にはいかないので、伸びてきたショウの手を借りる。
「無茶苦茶だな」
「大丈夫、誰も溺れてないから」
「あなた、源義経?」
呆れ気味に後ろを振り返る池上さん。
八艘跳びではないが、確かに三艘は飛び越えた。
体型も小さいし、あながち間違いでもない。
「たまには、こういう事もね。それで、この後は」
「多分同じようなボートが、後何艘かいると思う」
「了解」
一旦全身を見て、貴重品をサトミへ渡す。
重そうな物も。
プロテクターは多少負担だが、自分のやる事を考えれば着けていた方がいい。
これもあるし、何とかなるだろう。
行けども行けども、ボートはない。
海上バスに二度すれ違ったくらいで。
海面は相変わらず穏やかで、水鳥が群れになってその上を漂っている。
日射しは暖かく、風もない。
何とも穏やかな情景であり、気持が和んでくる眺め。
私の心境を除けば。
「見えた。あれだな」
速度を落とし注意を促すショウ。
のどかな雰囲気は一転し、改めて緊迫感が漂い出す。
行く手の水路に見える、ボートの列。
かなり広い運河の幅を埋め尽くすとまでは行かないが、このボートが突破するには一艘ずつの間が狭過ぎる。
「いいよ。池上さん達は、ゆっくりこれで突っ込んで。私とショウが、岸辺から襲うから」
「結構遠いわよ」
「足には自信があるの」
速度をさらに落とし、 岸辺へ寄っていくボート。
私とショウは姿勢を低くして、素早く岸辺に飛び移りコンクリートの傾斜を駆け上がった。
運河の右側を、併走して走る私達。
正確には運河に沿って並んでいる倉庫の、さらに右。
こちらはトラックや乗用車が、路駐の車を避けながらゆっくりと走っている。
そんな所にいるのは、倉庫で作業している人くらい。
歩いてる人間は誰もいないため、それなりに目立つ。
走っていれば、余計に。
「どこまで走るんだ。もう、通り過ぎたんじゃないだろうな」
「怖い事言わないで。……サトミ?……今、山海運輸って看板の隣り。……分かった」
「大丈夫だって」
「まだ半分も来てない」
そう答えた途端、ため息を漏らすショウ。
安堵感のためか、疲労感が一気に募ったのか。
どちらにしろ止まる訳にいかないのは、彼もよく分かっている。
息が早くなり、体に汗を感じ出す。
暑さと苦しさも。
距離としては、それ程長くない。
ただし自分のペース以上の早さで駆け抜けるとなれば、体への負担は必然と高くなる。
焦りも加われば、余計に。
「そこに見えてる、東名倉庫の脇からいけるって」
「疲れて動けないってオチじゃないだろうな」
「走りながら話すと、余計疲れるしね」
「一つ勉強になった」
笑いつつ、倉庫と倉庫の狭い間を駆けていくショウ。
私も背中のスティックの場所を確かめ、その後に続く。
薄暗い視界。
左右の壁に圧迫されるような感覚。
足場は雑草が生えて廃材などが転がり、走るには適さない環境。
そこを駆け抜け、大きく踏み切る。
一気に開ける視界。
左右に広がる運河と、倉庫の列が続く対岸。
堤防の上から下の状況を確かめ、90度近い急な傾斜を滑り落ちる。
手前のボートは、岸部のすぐ側。
また止まっているため、落ちる恐怖を感じる事はない。
そう考えた途端、頬を何かがかすめた。
それがゴム弾だと分かった時には、岸辺を踏み切りボートに飛び乗っていた。
顔をスティックでブロックし、ここは強引に突破する。
手足に感じる、鈍い痛み。
とはいえあざも出来ないくらいだろう。
そう自分に言い聞かせ、頭上へスティックを放り投げる。
一瞬私を覆う影。
宙でスティックを受け取ったショウは、私の正面に舞い降りスティックを横へ回した。
鈍い音と共に、辺りへ飛び散るゴム弾。
守備を彼に任せ、こっちは操縦席を襲撃する。
操縦席といっても、操舵とレバーがある程度の簡素な物。
風防用の仕切が前と左右にある程度で、人一人立つのがやっと。
突っ込んで来た所を横に避け、足首を前から蹴って倒れてきた顎にフックを見舞う。
相手が床に倒れたのも確かめず、操舵をひねってレバーを動かす。
船首は港の方。
つまり、池上さん達の乗るボートの方へ向いている。
とにかくこれを動かして、向こうが通れるスペースを作ればいいだけだ。
音を立てる風防。
他のボートから、激しく撃たれているらしい。
あまり頑丈な出来ではないのか、透明なフロント部分に丸いヒビが幾つも入る。
それも問題ない。
あくまでもスペースが出来ればいいんで、前が見えなくても困る事はない。
「あれ」
下の方から響く、大きな振動。
あまり聞いた事がないような。
例えるなら、地響きとでも言うのだろうか。
「どうした」
スティックを担ぎ、中を覗き込んでくるショウ。
どうやら、これに乗っていた連中は全員やっつけたようだ。
私は首を振り、親指を立てた。
操縦は講習程度の経験しかないが、私の免許でも動かしていい事にはなっている。
大丈夫、何も問題ない。
「動いてるぞ」
「当たり前じゃない。動かしてるんだから」
「どういう風に」
理屈っぽい人だな。
どうもこうも、動けばいいだけだ。
「あのボートが通れるだけの隙間を作ればいいんでしょ。ほら、段々隙間が出来てきた」
「少し、早過ぎ無いか」
「気のせいでしょ。10km/hの設定だもん」
「……船のメータは、ノットで表示されてる」
不安げに、速度計を指差すショウ。
ノットというと、約1.8km/hか。
それでも18km/h。
「別にいいじゃない」
「良くないよ」
「何が。……わっ」
突然感じる振動。
何かと思ったら、隣の船にぶつかっていた。
しかもその船を押したまま、さらに前へ突き進んでいる。
「な、何してるの」
「俺に聞くな」
「ちょっと、もういいんだって」
当たり前だが話して分かってくれる相手ではなく、仕方ないのでレバーを元の位置まで引き戻す。
しかし船は止まらず、さらに突き進む。
他の船を巻き添えにしながら。
「ブ、ブレーキは」
「船は、走ったら走りっぱなしだ。惰性を考えてろって、講習の時習わなかったか」
そんな事、聞いた記憶無いな。
普段惰性で生きてるとは、よく言われるけど。
「い、いいじゃない。とにかく隙間は空いたし、ゴム弾も飛んでこなくなったから」
「何人か落ちたぞ」
「だ、大丈夫。またそんなに冷たくない」
「もういいよ」
ため息を付き、外に出るショウ。
何をするのかと思ったら、備え付けの浮き輪を何個か放り投げだした。
さすがに放っておくのもどうかと思い、私も浮きそうな物を適当に放る。
浮かんでる頭に当たったように見えたけど、気のせいだろう。
「楽しかった?」
ボートの操縦席から、明るく話しかけてくる池上さん。
もう、それ以外にどうしようもないと言いたげに。
「楽しいも何も、ボートを通れるようにしただけよ」
「そうね。通れるわね」
左右を見渡す鋭い眼差し。
右は離れた岸壁まで遮る物はなく、左にはもつれるように重なったボートが岸壁に詰まってる。
ボートはその中央を、悠々と進んでいく。
「だ、だったら良いじゃない。とにかく私達はこれで行くから、後ろを付いてきて」
レバーを押し上げ、速度を上げる。
遅いな。
もう少しか。
「おい。早過ぎだ」
「何が」
「……だから、船は急加速なんてしないんだよ」
なる程。
そんな話、どこかで聞いた気もするな。
今度はボートどころか岸壁へ突っ込みそうなので、運転をショウに任せて周囲を探る。
堤防の向こうは、どこまで行っても工場や倉庫。
行く手は果てしなく、薄暗い水面。
変化はないし、特に怪しい様子もない。
「池上さん。結局、どこ行くの」
「もう少し先でカーブして、分岐するでしょ。そこで、右側の岸壁よりに走って」
「ここか、と」
彼女の指摘通りの、緩やかなカーブ。
ボートには操縦系の装置しかないため、端末で地図を見る。
左のルートは、名古屋駅の手前で行き止まり。
右のルートは、北から東へ進路を変え堀川へと続く。
今は堀川が埋め立てられているため、そちらも行き止まりとなっているが。
幾つ目になるかも忘れた橋をまた一つくぐり、二股になった水路を正面に見る。
速度を落とし、右側の水路へ入っていくボート。
堤防の向こうに見える倉庫は、今までよりも大きな物ばかり。
川幅は一気に狭くなり、ボートが通れない程ではないが圧迫感を抱くくらい。
「何か止まってるけど」
「構わない。やって」
「結局、これか」
微かに笑い、レバーを押し上げるショウ。
下の方から伝わってくる、例の振動。
少しずつ感じる加速。
というか、早過ぎる。
この先どうなるかも、あっという間に理解する。
「掴まってろっ」
「言われなくてもっ」
正面から伝わる、激しい振動。
足を左右に開き、かろうじて水面への転落を堪える。
その間にショウは風防を飛び越え、突っ込んだ相手側のボートへ飛び乗っていた。
私はもう泳ぐ時期を過ぎてるので、揺れを確かめつつ慎重に船首へと向かう。
「大丈夫……。の訳無いか」
水面に漂う、幾つかの頭。
しかしその中にショウの顔が見えないのに、安堵のため息を漏らす。
でもってやはり浮き輪を放り込み、後ろを振り返る。
「池上さん」
「堤防を越えて、その倉庫へ入って。多分、まだいると思うから」
「了解」
先に堤防へ飛び移り、手を振ってくるショウ。
それを確認して、私も床を踏み切り堤防へ飛び乗る。
さっき以上の、急な堤防。
今私達が立っているのは、水面の手前にあるわずかに平らな部分。
冗談でなく、立つのがやっとなくらい。
また駆け下りるならともかく駆け上がるには距離があり過ぎるので、腰から例のワイヤーを伸ばし上へ放り投げる。
堤防の上に接着する、先端部分。
一度引いて強度を確かめ、ウインチを起動させる。
勿論そのままだとただ引きずられるだけなので、速度に合わせて堤防と並行して足を動かしていく。
登りきる前にウインチを止め、隣で同じ事をしているショウと視線をかわす。
まずは端末に装備されているカメラを手の中へ収め、堤防の上へと慎重に上げる。
端末に送られてくる映像。
今登ってきた勾配とは違い、緩やかな坂。
それがすぐに終わり、倉庫の敷地へとつながっている。
歩哨や、そういった類の人間は見られない。
ショウとは距離があるためハンドサインで合図をして、彼が先に堤防を越える。
数秒して、私も即座に続く。
堤防を越えると、倉庫までは目と鼻の先。
錆びた裏口っぽいドアが、少し開いている。
誘いか、それ以外の理由か。
正面に回るという手もあるが、そちらには道路があるので人目に付く。
ドアの右手へ張り付くショウ。
私も左へ取りつき、カメラを中へ滑らせる。
しかし映像は、何も返ってこない。
ジャミングされてるのか、盗撮防止機能を備えているのかも知れない。
どちらにしろ、中で何か起きているのは間違いない。
もう一度ショウとハンドサインを交わし、意識を集中する。
突入するショウ。
その背中に続き、腰を落として構えを取る。
目が眩む程の、強烈な光線。
とはいえそういった事は、予想の範囲内。
そうでなければ、こんな所に突入しないししようとも思わない。
ゴーグルが光量を感知し、曇り空くらいの視界になる。
逆に暗くても同じ事。
強度もあるので、ゴム弾の直撃にも耐えられる。
段ボールが積み重ねられた倉庫内。
その前後に見える人の姿。
即座に段ボールの影に入り、棒立ちしているショウを手招きする。
「何してるのっ」
「自分こそ」
素っ気ない返事。
気の抜けた顔。
もう一勝負したという様子にも見える。
「やっと意味が分かった」
「何の」
「いいから」
手招きするショウ。
まさかこの人が私を騙す訳もないので、のこのこと彼の元へと近付いていく。
あくまでも、人影の方を注意したままで。
彼は信頼出来るが、人の良さは度が過ぎるので。
「何してるんだ」
鼻で笑う名雲さん。
その隣では、柳君が仕方なさそうに笑っている。
伊達さんも、また。
「自分達こそ」
「池上が言ってなかったか。自分達だけで大丈夫って」
「言ってた」
「という訳だ」
向こうの段ボールの影に見える、拘束された何人かの男。
どう見ても、私が出しゃばる必要は無かった訳か。
「場所が場所だけに、川から来ると思ってな。こっちを片付けて、池上達と挟撃しようと思ったんだが。川に、誰かいなかったか」
私達がここにいる事で全て分かってるはずだが、あえて尋ねてくる名雲さん。
こちらは答えようもなく、構えていた銃を背中に背負う。
何だ、せっかく持ってきたのに。
さんざん撃たれただけじゃない。
「結局、どうなってるの」
「池上は」
「まだ、ボートだと思う」
「ならいいか」
横にいる伊達さんを窺う名雲さん。
彼は何も言わず、いつも通りの落ち着いた佇まいで段ボールにもたれている。
「こいつが金を持ち逃げしたのは事実だ。ただし、理由がある。あの連中が、どうも池上を狙ってるらしくてな。その時金を持ち逃げしたら、どうなると思う」
「伊達さんに目が向く」
「でもって、草薙高校にやってくる。俺達もいるし、意識は分散される。池上の事なんて、自然に忘れるって事さ」
何も言わない伊達さん。
出会った頃とそのままに。
自分の事も、ここへ来た理由も、何も。
ただ黙って、こんな事をしていた。
誤解されても、厳しい目で見られても。
自分の信じるままに……。
「私達を襲ったのは」
「あれは、例の連中さ。俺達がいるから、伊達は襲いにくい。追い出すには、居心地を悪くするしかない。という訳で、手っ取り早くお前らを狙ったんだ」
「怪我は?柳君の蹴った所とか、ケイが撃った顔の怪我とか」
「こいつに蹴られたら、あばらが折れてる。それにあの銃には、空砲しか詰めてなかった。申し訳程度に、小さい弾が少し出るだけで」
鼻で笑い、自分の構えている銃をかざす名雲さん。
「お前らが伊達を確認する前に同じ怪我を作らないとと思って、こいつを撃ったんだろうな。でもって、その後で顔に傷がない事に気付いた。やってる事がずさんだから、こういう事になる」
足元に転がる、何人もの男。
確かにそうだ。
「細かい話は色々あるが、それは戻ってからだ。もうすぐ、警察が来るからな」
「どうして」
「道路側は、屍累々だ。さっさと逃げるぞ」
ボートに全員で乗り、港へと戻る。
そこで、ふと思い出した。
「さっきの水門は?大体、こっちこそ警察に通報されてない?」
「だから貸しボートを借りようとしたの。それなら、乗り逃げ出来たのに」
「悪かったわね。でしゃばって」
「おまけに小さくて、丸くて、よだれも垂らして、鼻も出して」
言いたい放題だな。
仕方ないけどさ。
「あー」
船首にしがみつき、大声で吠える池上さん。
どうもこの様子を見ていると、この人も事情を知ってたんじゃないだろうか。
そうでなければこの場に来てないだろうし、こうして叫んでもないだろう。
「世話が焼けるね」
「ああ?」
怖い顔で睨まれた。
元が綺麗なだけに、妙にすごみがあるな。
「あんな連中、私一人でもあしらえるのよ」
「そう?」
「当たり前じゃない。それをみんなして。子供じゃあるまいし。もう、あー」
また叫び出した、
とはいえここは、運河の真ん中。
左右は倉庫。
叫ぼうとわめこうと、誰にも迷惑は掛けてない。
恥は相当に掻いてるが。
先程同様、半ば強引に水門を突破する池上さん。
元は閘門という、船舶の水位調整用施設らしい。
今では、洪水防止用の水位調整に使ってるようだが。
ボートを名古屋港へ係留し、固い地面を踏みしめる。
さっきの倉庫でも、さんざん踏みしめたけどね。
「これから、どこ行くの」
「多少残ってる連中がいるから、そいつらを叩きに。お前達は、先に帰ってろ」
「あ、そう」
この状況で付いていきますという気にもなれず、助手席に乗り込んで腕を組む。
始めから言ってくれれば、こんな真似をしないで済んだのに。
本当に余計な手間というか、お節介というか。
学校へ戻る気にはなれず、大体もうお昼前だ。
途中にあったファミレスに入り、少し早いランチをとる。
「あなたは、どうして知ってたの」
「伊達さん達の事?そんなの、理由も何もない」
不器用にカルボナーラをすするケイ。
ただしそれは、私も知りたい。
「事前に情報を得てたとか?」
「多少は。あれだけごたごたすれば、自然と色んな情報が行き交う」
「よく分かったわね」
「言っただろ。理由なんて無いって」
皿に置かれるフォーク。
ケイは左手を固め、それを胸元へと持っていった。
「何か詰まったの?」
「……もういいよ」
嫌そうな顔をして、カルボラーナを食べ出すケイ。
私だって、分かってるっていうの。
「渡り鳥の挨拶でしょ。それが、どうかした?」
「その合い言葉は?」
「信頼する、助け合う」
「裏切らない」
最後の一言を呟くケイ。
苦笑気味に、はにかむようにして。
「でも伊達さんは、何も言ってなかったじゃない。舞地さん達も。それとも、言葉や時間は関係ないって事?」
「そういう恥ずかしい話は知らない」
何だ、それ。
自分で言っておいて、今さら。
「とにかく、俺はもう知らない」
「これから、どうするの」
「今何を言ったのか、聞いてなかった?」
優しく、愛想良く尋ねられた。
目は笑ってないようだけど、気のせいだ。
「池上さんは、どうするのかな」
「どうするって?」
「伊達さんと」
「ああ、そういう事」
苦笑気味に笑うサトミ。
そうとしか、反応のしようがないといった具合に。
「ショウは、どう思う?」
「さあ。俺に、男女の事を聞かれても」
「だったら、何を聞いたらいいんだ」
「いや。それは」
何とも頼りない返事。
とはいえこの人の格好いい所は午前中に堪能したので、私としては問題ない。
「伊達さんがどうするかよね。ここに残るのか、またどこかへ行くのか」
「ああ、そうか。ねえ、どう思う?」
「人の事を構うより、自分の事でも考えたら」
「それは、その。私は私で生きてるから」
明るく笑い飛ばし、ミルクを飲んでいく。
飲んでも飲んでも無くならない。
というか、溺れそうな気がしたので止めた。
何か、やけに量が多いな。
「俺のだよ」
「へ」
「いいけどさ」
小さいグラスを手にして、虚しそうに笑うショウ。
私が両手で持っているのは、大きなジョッキ。
なるほどね、何て感心してる場合でもない。
「返す」
「飲み差しだろ……」
ため息を付き、それでもジョッキを受け取るショウ。
でもって私とは違い、片手で持って一気に飲み干した。
「何をいちゃいちゃしてるんだか」
「あ。何か言った?」
「別に。あーあ。俺もそういう幸せに浸りたいね」
大きく伸びをして、椅子から落ちそうになるケイ。
そのまま、奈落の底にでも落ちてればいいんだ。
しかし本当にひっくり返られると恥ずかしいので、スティックを伸ばして掴ませる。
とはいえ私が引っ張るとテーブルの上を滑っていくため、後はショウに頼む。
なんて遊んでると、池上さん達がやってきた。
「もう済ませてきたんですか」
「殴り合いじゃなくて、話し合いさ。といっても、かなり一方的な」
すごみのある表情を浮かべる名雲さん。
ただそういう顔には慣れているので、誰も気にしない。
オーダーをとるや、逃げるように去っていたウェーターさんは別にして。
「取りあえず方は付けた。連中はもう名古屋に来ない」
「結局、例の金髪達を利しただけって気もしますけどね」
「構わない。それにあいつらは、お前らの先輩の管轄だろ」
「そういう見方もあるのかな。俺には関係ないですけど」
素っ気なく返すケイ。
名雲さんは鼻で笑い、テーブルの上にカードを滑らせた。
「あいつらがここに来た理由は、もう一つ。俺達が持ってるカードのためさ」
「これ、ですか」
「当番制じゃないけど、今は俺達が持ってるって情報をどこかで掴んだんだろ。額が額だけに、その内殺されるって話もある」
「じゃあ、俺が代わりに預かって……」
ケイの手をフォークで牽制した舞地さんは、カード手の中へ収めポケットにしまった。
「お前は触るな」
「俺の金も入ってるんでしょうが」
「無駄遣いするといけないから、預かっておくだけ」
「お年玉じゃあるまいし。その内寝込みを襲ってやる」
何を言ってるんだか。
その内、私が襲ってやる。
意味もなく。
「伊達さんは」
「いないわよ」
素っ気なく呟く池上さん。
一瞬の静寂。
それはあくまでも、私達だけの事。
周囲の話し声、店員さんの挨拶、微かに掛かるBGM。
その音だけが、やたらに大きく聞こえてくる。
「……何か誤解してるみたいだけど、私達は付き合ってるとかそういうのじゃないんだって」
力む訳でも慌てる様子もなく、静かに説明する池上さん。
今までと変わらないまま、落ち着いた物腰で。
そう取り繕っている様子でもない。
それはそれで安心もするが、寂しくもある。
かつての仲間と別れた事への感情としては。
私が気にする事ではないと言われればそこまでだけど、言いしれない寂しさが胸に募るのは確かである。
「それにもう会えないって訳でもないんだし」
涼しげな。
秋の日射しのように爽やかな微笑み。
思わずこっちまで、笑ってしまうくらいの。
「大体私が何も知らないとでも思ってたの?」
「どういう事?」
「伊達君が来た理由も、ここで何をしてたかも。あの連中が誰で、何をしようとしてたも。全部分かってたのよ。それをみんなで子供扱いして、私も舐められたものね」
別に舐めてはいなくて、心配する気持が高じてだと思う。
少なくとも私は。
「それにあなた、伊達君が奪った連中のお金はどこにあったと思うの」
「どこって。名雲さんのアパートとか?」
「まさか。肩よ、肩。あなたが蹴った所」
左肩を指差す池上さん。
治りが悪いと思ってたら、そういう事だった訳か。
「でも、何のために?」
「隠し場所としては平凡だけど、家捜しされても心配ない。二枚隠すには、少しかさばるけど」
「二枚って何」
「持ち逃げしたカードと、このカード。両方、伊達さんが持ってたんじゃないの」
意外な事を言い出すケイ。
池上さんは仕方なさそうに笑い、ガーゼをテーブルの上へ置いた。
そこに見えるのは、ガーゼにくるまれた一枚のカード。
「一枚も二枚も同じだと思って」
「これを持ち逃げされるとは思わなかったんですか」
「まさか。というか、それなら自分が馬鹿なだけよ。そういう人間に渡した自分が」
「偉いよ、お前は」
カードを二枚重ねた名雲さんは、肩をすくめてそれをジャケットのポケットへしまった。
「これで、全部片付いた」
「何が」
「何もかもがだ」
そう言われて、そうですかと納得出来る気分ではない。
とはいえ彼が言う通り、全部終わったのは間違いだろう。
私の知らない内に、知らない場所で。
勿論何もかも私に分かる訳が無く、むしろ分からない事の方が多いには決まっている。
今回がどうかと考えると、かなり微妙だが。
「結局、私達は関係なかったって事?」
「そう言っただろ、何度も」
何を今さらという感じでこちらを見てくるケイ。
確かにそうだ。
「あの人達を、誰だと思ってる」
「誰って、池上さん」
「そうとも言うし、ワイルドギースとも言う。戦う事で生きてきた人間に、何の手助けがいると思う?」
「私達が、足手まといだったって言うの?」
ケイは何も答えず、気のない顔でストローをくわえている。
すでに池上さん達の姿はなく、残っているのは私達だけ。
「自分の事は自分でする。今までそうしてきたんだし、今回もそうだったって言いたいの?」
「分かってるなら、俺が説明する必要もない」
「それは理屈でしょ。そんなのは関係ないじゃない。心配したり、不安になったりするのは」
思わず小さくなる声。
下がっていく視線。
自分の考え方、行動。
その幼さに、力の無さに、思慮の足り無さに。
今さらながら、気が滅入ってくる。
「別に、いいんじゃないのかな」
正面から聞こえる、遠慮がちな声。
控えめで、回りのBGMや笑い声に掻き消されそうな程の。
優しく、暖かい。
「向こうがどうだろうとさ。迷惑かも知れないけど、人を心配するのは悪くないと思う。俺としては」
「そう、かな」
「そうさ。俺なら嬉しいけどね」
短く付け足すショウ。
その意味はよく分からないし、彼にも深い意味があったかどうか分からない。
私にとっては、ともかくとして。
「そうだね。どうでもいいね」
「やってろ、勝手に」
鼻を鳴らし、一人むくれるケイ。
サトミもやってられないという顔で、バナナパフェをちびちびと食べている。
何だかな。
「あーあ。しかし、今日はいい天気だね」
「だから」
「いや。その、さ。海が綺麗かなって」
「名古屋港なんて、綺麗も何もないでしょ」
情緒も何もない答えが返ってきた。
言ってる事は分からなくもないが。
砂浜に沿って続く松林。
その砂浜を、薄暗い色の波が寄せては帰っていく。
沖合には半島が見え、松林越しの眺めは一幅の画にしたくなるのもよく分かる。
「気比の松原」
波打ち際。
革靴を濡らしながら、呆然と立ち尽くすサトミ。
私はのんきに、波と追いかけっこと楽しんでいる。
「何も、ここまで来なくても」
呆れ気味に呟いてるケイは、波の来ない上の方で疲れたように座っている。
海としては逆側になるが、高速を乗り継げば1時間少しでやってこれる。
彼のように、ここまで来る必要はないという意見はあるとしても。
「鍛錬にはいいよな」
「じゃあ、ツインコリアまで泳いでこい」
「何怒ってるんだ、お前」
人のいい笑顔を浮かべ、すり足で砂浜を進んでいくショウ。
ケイは舌を鳴らし、だるそうに膝へ顔を埋めた。
「やっぱり、たまにはこういう所に来ないと。息抜きよ、息抜き」
「たまには、緊張もしたら」
「そういうのは、体に良くないの。あれこれ悩んでても仕方ないし、もっと大きく生きないと」
「本当にあなたは、切り替えが早いというか適当にというか」
誉めてるんだと思う。
吹き付ける潮風が気持ちいいので、今はそういう事にしておこう。
「さてと。日が暮れる前に、お土産買って帰ろうか」
「もう心配しないの?」
「池上さん達の事?もういいの、終わった事だし」
押し寄せてきた波から逃げ切って、そのまま砂浜を上の方まで駆け上がる。
冷たいと言えば、冷たい言い方。
でもそういう考え方もあるのだと、少しは分かった。
私は私、彼女は彼女。
生き方も、行動も、考え方も。
他人なら誰でも、重なる部分の方が少ないに決まっている。
私が良かれと思ってやった事が、決して本人にとって楽しくないという事も。
池上さんから何かを聞いた訳ではない。
表面的には、むしろ余計な事だったという結果で終わっている。
でも、そうじゃないという気持もある。
ショウが言ってくれたあの言葉。
私の胸の中に、今も残っている温もり。
私のやった事が、仮に無駄だったとしても。
無意味だとは思わない。
彼女にとってではなく、むしろ自分にとって。
私が私という存在である限りは。
人のためにという気持は、何があってもなくせない。
なくすつもりもない。
それが相手にとって、どうであれ。
傾き始める太陽。
赤さを増す、どこまでも続く広い海面。
潮風の切ない香りに、胸が少し痛くなる。
「……はい。……いや、別に。……え、うん。……でも、どうして。……あ、そう。……馬鹿じゃないの」
端末をしまい、なだらかな砂浜を登っていく。
薄く伸びる私の影を追うようにして。
「映未さん?」
「うん。カニを買って来いって。ここにいるのを、分かってたような事言うし。あの人、盗聴器でも付けてるのかな」
「私達の事なら、何でも分かるんでしょ」
優しく撫でられる頬。
私はそのままサトミに寄り添い、腕を組んで砂浜を登っていった。
言葉にしなければ伝わらない事がある。
でも、言葉がなくても分かる時だってある。
池上さんが今度の事で、何を思っていたのかは分からない。
分かっているのは彼女の、彼女達の気持ち。
それだけ分かっていれば十分だろう。
人が、人を想う気持ちさえ理解出来れば。
私にとっては何よりも大切な。
何物にも代え難い、かけがえのない事なのだから。




