20-8
20-8
日だまりの縁側。
お茶とお菓子。
生け垣越しに見えるのは、穂を垂れる青い稲。
空を白い雲が、ゆったりと流れていく。
「聡美ちゃんは?」
「お兄さんへ会いに行ってます」
「仲が良いわね」
にこやかに微笑む、モトちゃんのお母さん。
ここは、モトちゃんの実家。
相変わらずの田園風景で、来るたびに心が和む。
都心からそれ程距離もなく、気を抜くにはいい所。
私としては、もう少しごみごみした所に住みたいが。
「私は単なる教員だから、本当はお父さんの方が詳しいんだけど」
何だ、それ。
天崎さんも、結構適当だな。
というか、あの時点で私が気付くべきだったのか。
「でも古い本とかプリントを、お母さんため込んでるじゃない。それはもう、捨てたの?」
「勿論、まだ全部取ってある」
娘へ注がれる視線。
ため息混じりに立ち上がるモトちゃん。
「分かりました。取ってきます」
「悪いわね」
「だったら見ないでよね」
家の奥へ入っていくモトちゃんを見送り、おばさんへと向き直る。
少し、遠い眼差しの彼女を。
「私が初めに務めていた頃は、まだ私立で草薙高校になる前の話。それから戦争があって、公立との統廃合が進んで今の学校になったの」
「私立が、公立を吸収したんですか?」
「卒業生に政治家や官僚がいて、教育庁に働きかけたの。全国的にもモデルケースとなる学校を作ろうって。そこに他の企業や中部庁も加わって、草薙グループに依頼が来たのよ」
なる程、勝手に作った訳でもないのか。
冷静に考えれば、当たり前の話だけど。
「当然生徒を奪われる形になる、他の私立や統廃合に反対した公立高校もあった。その辺で多少揉めはしたんだけれど、結果的には成功した訳」
「今でも、私立の高校は残ってますよね」
「勿論、潰した訳じゃないの。ただし残れたのは、女子校や工業高校のような需要のある所が殆ど。普通の私立は、結果として無くなっていったのよ」
湯飲みを膝の上に置き、それを両手で包み込むおばさん。
その視線は、未だ遠いどこかを見つめている。
「丁度その頃、お父さんが教務管理官の研修生として学校へ赴任してきたの。教師の研修にね」
「知り合ったのも、その時なんですか」
「ええ。私は単なる理科の教師で、向こうは政府の高級官僚。色々あったんだけど、結局結婚して智美も生まれて。今に至る訳」
訥々と語られる内容。
ただし学校の事ではなく、天崎家の歴史だが。
「統廃合や草薙高校が創立する時には、お父さんもちょっと……」
「持って参りました」
途切れる会話。
モトちゃんは段ボールを縁側に置き、大袈裟に肩と腰を叩き出した。
おばあちゃんじゃないんだからさ。
本や書類といっても、この間郷土研究会でもらった物とはまた違う。
教科書、学校での配布物、連絡用のプリント。
行事予定表まである。
「こんなの、取っておいても仕方ないでしょ」
「今、こうして優ちゃんの役に立ってる」
最もな意見。
だと思う。
「今と、教えてる事は少し違うんですね」
「昔は、どちらかというと記憶中心の教育方針だったの。とにかく暗記して、それをテストに出すっていう形」
良かった、今に生まれて。
それはそれで、また苦労してるけど。
「大体、学校の歴史を調べてどうするの」
「どうもしない」
「あ、そう」
人を見捨てて、古いアルバムに見入るモトちゃん。
何やら面白いものを発見したらしく、くすくすと笑っている。
「これ、お母さん?」
「そうよ」
教師の集合写真。
その、後列の辺り。
紺のスーツを着た、清楚な感じの女性。
名前は確かに、元野となっている。
「お父さんは?」
「あの人は単なる研修だから。……ちょっと待って、確かスナップ写真には」
めくられるページ。
現れる、スナップ写真の箇所。
遠足、学園祭、体育大会。
クラブ活動。
それらに混じって、授業や日常の一コマも混じっている。
「いたいた」
「どれ」
「この人」
生徒と先生らしき人達の、正門前での写真。
一人はモトちゃんのお母さんだと、さっきの写真から類推出来る。
「怖い顔をしてるのが?」
「昔は、結構強面だったのよ」
どこかで聞いた話だな。
モトちゃんは私の視線から何を感じたのか、ぷいと顔を反らして写真に集中した。
その内、おばさんに告げ口してやろう。
でも、もう親に紹介してたりして。
「こっちの人は?」
「鈴木さん。ほら、あなた達の学校の理事」
「ああ」
大人しそうな、品のいい女性。
そう言われてみれば、今のあの人に面影がある。
彼等の中央。
制服姿の、綺麗な女の子がはにかみ気味に映っている。
「この女の子は?」
「高嶋瞳さん」
どこかで聞いた名前だな。
それも、あまり身近ではないところで。
「理事長?」
私とは違い、すぐに反応するモトちゃん。
おばさんはこくりと頷き、ページをめくって生徒の集合写真を指差した。
全体の部分ではなく、右の上辺り。
小さな枠になっている、理事長の顔を。
「この頃は彼女はアメリカ、じゃなくて北米に留学してたの。一応学校に籍はあったんだけど、卒業も向こうでしたのよね。でもそれではと思って、留学前の写真を載せてもらった訳」
「でもその時って」
「ええ。日本と北米は戦争中。親がよく行かせたというか、本人がよく行ったというか」 感慨深げにため息を漏らすおばさん。
そこでようやく、理事長の事を少し理解出来た気がする。
一人で、戦争をしている相手の国へ留学する事の意味。
決断だけではどうしようもなく。
向こうでやっていけるだけの自信と能力が備わっていなければ、意味がない。
「どうして、北米に行ったんですか」
「家族の意思と、本人の意向。としか、私には言えない」
曖昧な言い方。
ただ、言えないという以上聞く訳にはいかない。
私には、その権利もない。
沈み込むようなソファー。
光沢を持った、厚みのある木製のテーブル。
ティーカップからは湯気が立ち上り、添えられたシナモンの枝が白い皿に映えている。
「忙しいんじゃなくて?」
「恩師に、嫌な顔をする訳にも行きませんから」
「強制したみたいで、却って恐縮するわ」
くすっと笑うおばさん。
理事長もおかしそうに微笑み、ティーカップを口元へと運んだ。
「どうしたの」
「いえ。外国へ出張してるって聞いたので」
「今日戻ってきたの」
すぐに帰ってくる答え。
私は彼女の秘書ではないので、スケジュールは把握してない。
当然、それが本当かどうかは分からない。
また、嘘であっても関係ない。
「留学した理由、か。単純にいえば、自分を試したかったの。親の庇護の元ではなくて、私という存在がどこまで通用するかを」
「でも、戦争してた相手なんですよね」
「だからこそよ。厳しい環境にあった方が人は成長するし、そこで認めれれば言う事無いでしょ」
同意を求めるというよりは、あくまでも自分の意見を述べたという感じ。
私にはそこまでの覚悟はないので、強い共感は生まれない。
敬意は当然抱くが。
「ただ留学を決めた時は、そこまで考えてた訳じゃない。家族への反発で、半ば家出気味に飛び出したようなものね」
「家出」
どこかで聞いた話だな。
理由も、そう大差ない気がする。
お互いの感情や、具体的な経緯までは知らないが。
「私の留学が、どうかしたんですか」
「いえ。優ちゃん……。雪野さんが、学校の歴史について調べてる物だから。その時に、高嶋さんの名前が出たの」
「また、マニアックな趣味ね」
笑う理事長。
彼女じゃなくても笑うだろう。
「それで、少しは何か分かった?」
「調べれば調べる程、分からないです。どうしてここまで大きくなったのかとか。自由なのかとか」
「自由な校風は、元々よ。ただ、私が通ってた時はもっと厳しかったかな。制服を着るように、かなり厳しく言われてたし」
「制服」
ふと思い出す出来事。
あまり楽しくはない、ただここで言うべきか迷う内容。
「何か言いたそうね」
口には出さなくても、顔に出たらしい。
いつもの事とも言える。
「今でも、制服を着ろと学校があれこれやってます」
遠慮という言葉とは無縁なので、そのまま伝える。
しかし理事長はわずかにも動揺せず、小さく頷いた。
「理事達が、そういう事をやってるみたいね。ただ私は関与してないし、それはどうでもいいわ。あなた達が、勉強させしてくれたら」
「制服を着なくても、勉強は出来ます」
「もっともな意見ね、それは」
「大体強制的に着させようとか。見返りをちらつかせて、強引に着させるのはどうなんですか。それでむしろ学校に不信感が生まれて、やる気が削がれます」
言い過ぎかとも思ったが、言った物は仕方ない。
後悔は後ですればいいだけの事だ。
「言いにくい事を、平気で言うわね」
「ですけど」
「分かった。一度、担当者の意見も聞いてみるから。……教務担当理事を呼んで頂戴」
部屋に入ってきたのは、スーツ姿の年配の男性。
見覚えのある。
いや。忘れるはずもない顔。
絵を捨てた、あの理事だ。
「理事長、何かご用件でも」
「制服を生徒に強要していると、一部生徒から学校に対してクレームが来てます」
ぼかした形で告げる理事長。
理事は「ああ」と呟き、大きな机の上にある卓上端末を手で示した。
「その件に関しては、理由と経緯について報告書を提出していますが」
「生徒の、衣服に関する負担の軽減でしたね」
「ええ。どうしても中高生は、服装が華美になりがちです。その点制服を義務化すれば、余計な気を使わないで済むし金銭的な負担もなくなります」
「でも、クレームは来てる」
先程までとは違う、やや強硬な態度。
しかし理事は、わずかにも動じず私へと視線を向けた。
やや、見下し気味に。
「一人一人の意見を聞いていても、仕方ありません。あくまでも全体の総意を掴んでいかないと」
「生徒の総意として、制服着用の機運が高まってるとでも?」
「そこまでは言いませんが」
「前みたいな事になったら、今度はどうするつもり」
微かに眉間へしわを寄せる理事。
前というのは、間違いなく屋神さん達の事だろう。
「そうならないよう、私の方でも対応しています。理事長は何ら憂慮する事無く、学校の経営にご専念下さい」
「そう出来ればいいんだけれど」
「多少生徒に誤解はあるようですが、数年後には全ての問題は解決しています」
つまり、私達が卒業した後。
私達の事も。
まして、屋神さん達のやってきた事も知らない人達。
それなら、これといった問題もなく学校の指示を受け入れるだろう。
「でも、花火が上がったと聞いてる。理事達が、月見をしてる席で」
「いつの時代にも、権力に楯突こうとする人間はいます。別段、気にする程の事でもありません。十分に、対処出来ます」
「根拠でもある?」
「草薙グループの代表から、一任を取り付けていますので」
余裕の笑み。
微かな、横柄さの感じられる。
「お祖父様の。でも、それがどうかしたの」
「どうかとは」
一瞬見える怜悧な表情。
理事長は構わず、彼を視線だけで見上げた。
「学校経営に関しては、私に一任されている。理事長という役職として、制度的にも」
「それは承知しています」
「仮にお祖父様がこの学校の創設者だとしても、余計な口は一切挟めないはずよ。そうじゃなくて」
「無論、その通りです」
苦しげに。
内心の怒りを抑えるように返す理事。
「代表が何を仰ったのか私は知らないし、それに従う気もない。この学校を運営し、責任を担ってるのは私なんだから」
「はい」
「ちょっと待って。一度、代表と話してみるから」
端末を取り出し、耳元の髪をかき上げる理事長。
その顔に厳しさが宿り、瞳に力がこもっていく。
「……草薙高校理事長、高嶋です。……いえ、瞳で結構です。……早速ですが、用件だけお伝えします。私が監督する学校については、全て私に一任されているんですよね。……はい。……でしたら結構です。……いえ、それには及びません。……はい、失礼致します」
しまわれる端末。
小さく漏れるため息。
理事長はもう一度視線を上げ、理事を見上げた。
「という訳で、あなたが何をしようと構わないけど。自分の権限を逸脱するような真似をしないよう、お願いします」
「承りました」
慇懃に頭を下げる理事。
すでに内心の怒りは、かなりそこまで込み上げているように見える。
「ごめんなさい。余計な手間を取らせてしまって。仕事に戻って結構です」
「はい、失礼します」
ドアへ歩きかけ、理事は何かを思いついたようにこちらを振り向いた。
「理事長自ら、生徒達の問題に関わりはしませんよね」
「勿論。生徒の管理は職員と、あなた達の仕事なんだから」
「済みませんでした。余計な事を」
言質は取ったという顔。
しかし理事長は平然と、その顔を見つめている。
彼女にとって、それはどうでもいい事なのかも知れない。
今までの、発言を聞いていると余計にそう思う。
「生徒は勉強だけをしていれば、それでいいんでしたよね」
「私は、そう思ってる」
前の部分を強調する理事長。
その視線は理事から、今は隣へと向けられている。
モトちゃんのお母さんへと。
「こちらの方は」
「娘を通わせている者です」
理事長の恩師とは言わないおばさん。
夫が、教務管理官とも。
「見学にみえられたから、私がご案内しているの」
「理事長自ら、ですか」
「家庭との連携も学校運営には重要だから。色々、参考になる意見を伺ったわ」
あった事のように話す理事長。
しかり理事はそれ程関心の無い顔で、適当に頷いた。
「そうですか。何にしろ、当校に通って頂ければ何の問題もありません。大学へはほぼストレートで進学出来ますし、その後の就職率も100%近いですから」
パンフレットの宣伝文句のような台詞。
おそらくあちこちで、同じような事を言ってるんだろう。
また、父兄から求められているはずだ。
「ご安心して、お子さんを通わせて下さい」
「今仰っていた、制服がどうという話は大丈夫なんでしょうか」
「ご心配なく。先程申したように、反抗的な生徒は必ずいます。思春期なので、そういう傾向がより顕著に出るのでしょう」
何も問題ないという顔。
おばさんも柔和な顔をほころばせ、軽く会釈した。
「生徒の自治、という点には抵触しないのでしょうか」
「はい?」
「いえ。子供が、よくその言葉を口にするので」
虫も殺さない笑顔。
一方の理事は、苦い顔をして彼女を見つめた。
「そういう建前があるのは事実です。が、実際に学校を運営しているのは教職員ですから」
「学校がするのは、掃除と食事。後は、教育だけだと聞いてますが」
「一番大切なのはその、教育です。それ以外は、些事に過ぎませんよ。まずは勉学に励み、よりよい企業へ務める。親御さんは、大抵そういった事を望んでます」
「でしょうね」
否定しないおばさん。
威圧感のある笑みのままで。
「済みません。お忙しいのに、余計なお手間を取ってしまって」
「いえ。貴重なご意見をお聞かせ願い、大変参考になりました。……差し支えなければ、お子さんのお名前を」
舌なめずりするヘビを思わせる口調。
名前を聞いてどうするのかは、私にだって理解出来る。
「理事がお気にかける程の者でもありません。そのような些事よりも、お仕事にお戻りになられた方がよろしいのでは」
柔らかな口調。
しかし、かなりの皮肉。
理事はぎこちなく微笑み、ようやく部屋を後にした。
「元野先生」
「たまには、あのくらいはね」
「知りませんよ。娘さんに、何かされても」
「何かされた方が、あの子には丁度いいくらいなの」
物騒な発言。
ただそれは、私に対しても向けれていると考えていいだろう。
理事が忙しいなら、理事長はもっと忙しい。
という訳で、私達も執務室を後にする。
「随分、様変わりしたのね」
ゆっくりとしたペースで歩いていくおばさん。
建物を見上げ、緑に目を細め、時には足を止めて。
「そんなに違います?」
「言ってしまえば、この下は堀川だったの。つまり、運河の上に立ってる訳」
「ああ、なる程」
なんとなく、地面を踏みしめる。
当然、帰ってくるのは土の感触だけ。
目の前にあるのも、通路の脇に植えられている木々ばかり。
魚なんて、跳ねてない。
「こういう管理は、今誰が?」
「園芸屋さんが来たり、園芸クラブがやったり。私も、たまに駆り出されて水まきくらいは」
「本当にこの学校を運営してるのは、誰かって話ね」
「私じゃないのは確かですよ」
ははと笑い、緑の葉に触れる。
おばさんは何か言いたげに私を見つめ、くすっと微笑んだ。
「どうかしました」
「何でもないわ。さてと、そろそろ戻ろうかしら」
駐車場へ向かう。
向かっている。
少なくとも、そのつもりだ。
「優ちゃん」
「随分、様変わりしたから」
「誰か……。今日は、休みだったか」
うーんと声を出すおばさん。
止めてよね。
「大丈夫」
「何が」
真顔で尋ねられた。
本当、何がだろうね。
「サトミ、今どこ。大学院。あ、そう。……私は学校。……学校のどこか」
すぐに通話を切る。
「モトちゃん。……まだ家にいるの?……私は、まだ学校にいる。……学校の、どこか」
これも、すぐに切る。
「えーと。ショウは稽古中で。……沙紀ちゃん。……高山だ?……別に悪くないけどさ。……いいよ、もう知らない」
きりがないな。
「神代さん?……ああ、渡瀬さん。……いや、こっちの事。……うん、またね」
学校にいる人なんていない。
休みだしね。
「木之本君。……実家?どうして。……いや、理由はないけどさ。……鮎お願い」
何よ、みんなして。
「浦田君は?」
「そんな人もいましたね。……ケイ。……寮?不毛な人生を送ってるわね。……いいから、学校に来て。……どこって、ここ」
埒が開きそうにないので、おばさんに代わる。
「……ええ。北を向いて右手に、淡いクリーム色の建物。左手に、小さな茶色の建物が二つ。緑に囲まれた細い道で、左右に花壇があるわ」
周りの風景を説明していくおばさん。
それで何がどうなるのかと思ったら、とことこと歩き出した。
置いて行かれる訳にはいかないので、すぐに付いていく。
広いスペース。
そこに停まる、何台もの車。
私達が乗ってきたワゴンも停まっている。
「ありがとう。助かったわ」
勿論私にではなく、ケイにお礼を言うおばさん。
何だかな。
「優ちゃんはどうする」
「歩いてきます。寮は、すぐそこですから」
「そう。今日はありがとう。私も楽しかったわ」
車に乗り込み、クラクションと共に去っていくおばさん。
それを見送り、駐車場の真ん中で立ち止まる。
ここからどう行けば寮なのかと思いながら……。
「うるさいな」
ぎっとケイを睨み、女子寮の前に立つ。
簡単な事だ。
駐車場はどこに通じているか。
道路に通じている。
つまり、ここを歩いていけば道路に辿り着く。
当然、寮へも。
「少しは色々考えてくれると、俺も助かるね」
「分かってるって言ってるでしょ」
がたがたうるさいので、ポケットに手を入れて何か探す。
さっき、理事長室でもらったガムが出てきた。
これをくれる方もくれる方だけど、もらう方ももらう方だな。
「上げる」
「また、こんなのでごまかして」
「いらないならいいよ」
「いるよ」
何だ、それは。
知り合いの女の子に挨拶を返しつつ、ラウンジへと向かう。
ケイと部屋に二人きりになっても仕方ないので。
向こうも、同じ事を言いそうだけど。
「休みだっていうのに、暇そうだなみんな」
「自分だって、寮にいたんでしょ」
「いましたよ」
含みのある言い方。
別に彼へ何かを押し付けた記憶はない。
この数日は。
「だったら、何」
「ふらふらと出歩く金がない」
「バイトしたら」
「学校が斡旋してくれなくてさ」
鼻で笑うケイ。
こういう形で、多少の影響はある訳か。
「この前はケイが斡旋してくれたから、今度は私が斡旋しようか」
警戒気味の顔。
少しは、人を信じなさいっていうの。
「変な事じゃないって。お金はそんなにもらえないけど、信頼の出来る場所だから」
「ショウの実家とか?」
「あそこでもいいけど、現物支給になると思うよ」
お肉をもらえるのは嬉しいが、それで彼の欲しいマンガと交換はしてもらえないだろう。
私はお金をもらっても、結局食べ物に化けそうなので一緒だけどね。
「明日の朝、私の家に来て」
「大丈夫か」
人を目の前にして言うな。
「いいの。それより、ご飯どうする」
「たまには、食べ物から離れたら」
「私にとっては、それ以外に考える事がないの」
「言い切るなよ」
ため息を付くケイ。
何も、そこまでしなくてもいいだろうに。
「大体、ご飯って今何時」
「夕方より、少し前くらいでしょ」
「モトのお母さんは」
「もう帰った」
「で、あの人は何しに来たんだよ」
簡潔に説明して、お茶をすする。
そろそろ、麦茶も終わりかな。
「ふーん。理事長ね」
「おばさんが、理事に噛みついてた」
「大人しそうな人なのに」
「冷静に噛みついてた」
私なら、大爆発してる所だ。
とはいえ、迫力としては向こうの方が数段上の気もする。
「ユウは」
「私は何も。あくまでもしとやかにしてた」
「ならいい。さすがに、面と向かってだと問題があり過ぎる」
「花火はいいの?」
笑うだけで答えないケイ。
自分が一番、問題あるんじゃない。
「それに、理事長とあの理事ってあんまり仲良くないみたい」
「だからって、理事長が俺達をバックアップしてくれる訳でもない」
「そうだけどさ」
「関係ないよ。俺達に、理事も理事長も」
彼の言う通り、立場も権限も何もかも違う。
むしろ、共通する部分を探す方が難しいだろう。
「で、何か分かった?学校の事」
「特に、これといって。色々聞いたけど、ピンと来ない」
「だと思った。というか、分かりようがないって」
馬鹿にするのではなく、慰めるに似た口調。
彼が分からないのなら、私にも分かる訳がない。
「大体、知ってどうするの」
「それを聞かれると困るんだけどさ」
「モトのお母さんや理事長はともかくとして。もっと、他の人に聞いたら」
「誰」
私の知り合いに、学校に詳しい人なんていない。
サトミは私より色々知ってるだろうが、私が知りたい事を知ってるかどうかは別だ。
それ以前に、私が何を知りたいのかが自分でも分からないけど。
「いいよ。その事はゆっくりと考えるから。それより、明日の朝ちゃんと来てよ」
「昼飯は」
物悲しい事を言ってくるな。
私でも、真っ先に聞くけどね。
床に倒れるケイ。
別に、殴られた訳じゃない。
疲労が限界に達したようだ。
「きりきり働いてよ」
「あのさ」
「ショウ達を見習って」
マットを剥がし、力強く引っ張っていくショウと御剣君。
一つ100kgはあるマットを、一人で一つずつ。
「俺を、ああいうのと一緒にするな」
「お金は払うんだから、ほら」
「もっと、軽いのにしてくれ」
「軽いのね。じゃあ、これは」
床に転がったサンドバッグ。
取りあえず腕を回し、腰に力を入れる。
びくともしない。
というか、引き込まれそうな感覚すらある。
「こんなの、動く訳無いだろ」
「浦田君は、こういう事に不向きですからね」
サンドバッグの下に差し入れられる足。
それが吊されたように浮き上がり、床と垂直になる。
さらに腰を落として肩を入れ、サンドバッグを担ぎ上げる。
「さすがですね」
「大した事ありません。コツですよ」
にこやかに笑う水品さん。
私がいくらコツを飲み込んでも、真似をしたらのしイカになるだけだ。
「水品さん。全部運んだ」
「でしたら、床の掃除をお願いします」
「もっと、人を呼べばいいのに」
「何事も、経費削減です。それと、いい鍛錬になりますから」
軽々と、サンドバッグを部屋の隅へ持っていく水品さん。
それはそうだけど、私は掃除しかしてないから何にもならない。
今時、花嫁修業って話でもないし。
ショウと御剣君に休んでもらい、ケイと一緒にモップを掛ける。
「サトミは」
「お兄さんにお小遣いもらったから、お金には困ってないって」
「俺も、お兄さんにお金をもらおうかな」
「ヒカルに?あの子、お金なんて持ってるの?」
金遣いが荒いという訳ではない。
ただ、計画的に使う人でも無い。
「そんなに、お金無いの」
「無いよ」
あっさり肯定した。
笑い事じゃないけど、笑えるな。
「奨学金は」
「本に消えるし、他の大学に行く場合には入学金や授業料がいる」
「他の大学へ行くの?」
「そういう選択肢もあるって事。それに、大学へ行っても奨学金が今程もらえるとは限らない」
淡々と語るケイ。
遠いと思っていた事を。
だけど、現実の事を。
「大学、か」
「何だよ、しみじみと」
「私は、どうしようかと思って。まさか、友達が行くからその学部にって訳にはいかないでしょ」
「それはそれで、いいんじゃないの。4年間通うんだし、他の学部へ編入も出来る。選択は、無限にあるよ」
優しい、諭すような口調。
ケイに慰められるようでは、私もまだまだだな。
「大体、ここのインストラクターになるんじゃないの」
「そのつもりはあるけど。素人は雇ってもらえないでしょ」
「それはそうだ。曲がりなりにも、金をもらうんだから」
「だから、色々と勉強しないと」
最近の、過去を調べる事ではなく。
将来の話。
どちらが大切という訳ではなく。
ただ、つながっている一本の線なだけ。
今はその間にいて。
前の事が今に影響して、将来へとつながっていく。
「こんにちは」
にこにこした笑顔で現れる渡瀬さん。
その後ろには、多少気後れした様子の神代さんも。
「どうしたの」
「ちょっと見学に。でも、掃除してるんですね」
「もう終わるよ。ほら、マット運んで」
「鬼だな」
陰気に睨んでくるケイを手で追い払い、彼女達が持ってきた紙袋の中を覗く。
ケーキか。
取りあえず、これは確保してと。
「雪野さんは手伝わないんですか」
「私は現場の指揮を任せてれるから」
「はは。随分、大物ですね」
「違う違う。私を指名した人が、大物なの。せんせーい」
部屋の隅へ手を振り、水品さんを呼ぶ。
私を監督する人を。
「お客様ですか」
「学校の後輩で、渡瀬さんと神代さんです」
「初めまして」
「お邪魔してます」
丁寧に頭を下げる二人。
元気に微笑む渡瀬さんとは対照的に、神代さんはかなり遠慮気味に。
派手な見た目とは裏腹に、こういう場所や雰囲気がそう好きではないらしい。
「初めまして。ここの支部長をしています、水品と申します」
「あなたが」
「知ってるの。チィ」
「RAS最強は誰かといえば、瑞穂の水品。蹴りの鬼、閃光の拳」
すらすらと語る渡瀬さん。
熱い眼差しと共に。
「ふーん。先生って、有名だったんですね」
げしげし肘でつつき、へへと笑う。
私からすれば水品さんは、こういう存在なので。
無論、彼の人語に絶する強さは身に染みて理解した上でだが。
「という事は、あなたも?」
「ええ。RASに通ってました。沙紀さんと一緒に、キックもやってましたけど」
何かを抱え込むような仕草。
キックボクシングよりも、ムエタイの首相撲に近い。
「先生と軽くやったら?」
「いえ。そんな、私なんかがおこがましい」
「平気だって。ねえ、先生」
「いえ。本当に。私はちょっと」
腰を引く渡瀬さん。
普段の元気さはまるでなく、むしろしおらしいくらい。
そんなにすごいのかな、水品さんって。
軽く腰を入れ、膝を鳩尾へ向ける。
そこから膝をひねり、足先を喉元へ。
半身に開き、それを避ける水品さん。
こっちは床に手を付き、足をさらに伸ばす。
「わっ」
鉈のように振り下ろされる手刀。
今度は私が半身になって、風圧に押されながらそれを避ける。
「ゆ、雪野さん」
「ん、何」
「なにって」
私と水品さんを交互に指差す渡瀬さん。
ああ、そういう事か。
「稽古というか、練習だから。ここにいる限りは、不意を突いてもいいの」
「はあ」
「当たらないけどね。未だに」
私がここに初めて通い出したのが、小学校に上がる前。
そして今は、高校2年生。
その距離が少しは縮まっているとは思う。
とてつもない距離が、ほんのわずかだけかも知れないが。
「神代さん、大丈夫?」
「え、ああ。うん」
はかばかしくない返事。
彼女には、刺激が強過ぎたらしい。
「楽しそうだな」
のそりとやってくるショウ。
こういう事になると、人が違うからね。
「マットは」
「運んだよ。なあ」
「まだまだ、これからって気もする」
肩を回す御剣君。
あれだけの物を延々と運んで、何を言ってるんだか。
しかもそれが強がりではなく、本当だから怖過ぎる。
「そうですね。一度、武士さんとやってみたらどうです」
「え」
「キャッチ無しの打撃のみで。今あなた達は、一つでも多くの経験を積む事が大切ですから」
部屋の中央。
向かい合う、渡瀬さんと御剣君。
渡瀬さんはプロテクターとグローブを。
御剣君は、グローブだけ。
張りつめた空気。
お互いの息づかいが、二人から距離のある壁際まで聞こえてきそうな程の。
牽制気味のジャブを放ち、ポジションを変える渡瀬さん。
御剣君はパーリングでそれを防ぎ、上段の回し蹴りを放った。
普通ならモーションの大きい、かわされやすいアクション。
しかし彼のそれは、渡瀬さんの放ったジャブに等しい速度。
当然だがブロックには行かず、前に出てかわす渡瀬さん。
回し蹴りは角度を変え、巻き込むようにして彼女の後頭部を狙う。
「セッ」
掛け声と共に宙を舞う体。
御剣君の足の上に飛び上がった渡瀬さんは、体をひねって足を後ろへ伸ばした。
鋭い、飛び後ろ回し蹴り。
ブロックした御剣君は、そのままの体勢で後ろに体をずらす。
さらに足をスイッチさせ、もう片足を振り上げ様すぐに振り下ろす。
頭上に落ちてくるかかと。
ガードごと沈み込む体。
だが膝を付く寸前でそれは止まり、ガードをしていた腕を横に振る。
「シッ」
鋭い息吹と共に繰り出される肘打ち。
カットを狙うのではなく、かち上げに近い相手を押し戻す動き。
止場のない空中でそれをくらった渡瀬さんは、あっけなく後ろへと吹き飛んだ。
「そこまで」
素早く立ち上がった渡瀬さんの前に立ちはだかる水品さん。
「ケンカではないので」
「あ、はい」
フェイスガードを取り、荒い息のまま返事をする渡瀬さん。
微かに、悔しさを滲ませて。
「何よ、それはないでしょ。まだまだ、これからじゃない」
「いえ。負けは負けですから」
殊勝な台詞。
渡瀬さんはタオルで顔を拭き、心配そうな神代さんに気弱な顔で微笑みかけた。
「納得いかないな」
「仕方ないだろ」
控えめに申し出るショウ。
そんな彼を睨んで、袖をまくる。
「おい」
「何よ。渡瀬さんがやったなら、私がやってもいいでしょ」
後輩の仇を取らないで、何が先輩だ。
でも待てよ、御剣君も後輩か。
「うー」
「唸るなって」
「だって」
「仕方ない。俺がやるか」
壁際から離れ、ゆっくりと歩き出すケイ。
その視線は先程から、渡瀬さん達へ向けられていた。
「お前が?」
「悪い?」
「悪くはないけど、勝ち目もない」
「それはやってみないと分からないだろ。玲阿君」
わざとらしい笑顔。
お前に勝った事があるのは気のせいかな、とでも言いたげに。
「水品さん、構いませんよね」
「いいでしょう。武士さんも」
「え?」
露骨に嫌な顔をする御剣君。
彼が誰を苦手とするかといって、目の前で体を解している男の子がその最たる人。
「俺より強いんだし、問題ないって」
「はあ」
はかばかしくない返事。
ケイは構わず、フェイスガードを彼へ放った。
「付けたら」
「でも」
「俺は、それでもいいけど」
「いえ。付けさせて頂きます」
慌てて被る御剣君。
ケイの笑顔に、言いしれぬ何かを感じ取ったらしい。
やはり、中央で向かい合う二人。
御剣君は、かなり警戒気味な小さい構え。
ケイは例によって、サウスポーのボクサースタイル。
「……蜂がいる」
突然の呟き。
私達は全員視線を彷徨わせるが、それらしい物はどこにも見えない。
「浦田さん。また、そういう事言って」
鼻で笑う御剣君。
今度は騙されないぞという具合に。
「じゃあ、気のせいかな」
「だったら、行きますよ……。あれ」
首筋に伸びる手。
縮こまる体。
小さく上がる声。
ケイは肘をしまい、軽く息を付いた。
「という訳」
肘打ちを受け、床に転がっている御剣君。
普段なら、当たってもダメージすらないくらいの打撃。
しかし平静を失った状況では、それだけでもバランスを崩す。
「トゲ?」
小さな声。
やられたいう顔で。
「どういう事?」
「フェイスガードの後ろに、トゲを仕込んである」
フェイスガードを手に取り、舌を鳴らすショウ。
その指先には、木の破片が少し付いている。
「マットの下にあったゴミだな」
「勝ちは勝ちです」
静かに告げる水品さん。
確かにそうだ。
御剣君が修めているのは、スポーツではない。
武道。
戦い、人に勝つための技術なのだから。
「そうですけどね。あー」
叫ぶな。
気持ちは分かるけどさ。
「でも、すごいね」
感嘆した声で呟く神代さん。
少し見直したらしい。
「卑怯だけど」
一言は付け加える。
「チィも、あんたも」
「私は、別に。負けたし」
「俺も」
「そんな事無い、格好いいよ」
少したどたどしい。
だけど、心のこもった一言。
はにかみ気味に笑う彼等。
それを見ている私の心も、暖かくなってくる。
「まだまだだな」
「何よ、上から物を言って」
「俺は勝った」
「じゃあ、私とやる?」
返事を待つ前に足を払い、倒れたケイの首筋に拳を突き付ける。
「私が一番」
軽く勝ちどきを上げ、拳を突き上げる。
結構本気で。
「あのな」
「何よ、やるの」
がーっと吠えて、腕を振り回す。
ショウは嫌そうな顔をして、すっと距離を取った。
「もう、いい。好きにしてくれ」
「してるじゃない。ねえ、先生」
「昔から、ずっとそうですね」
あまり聞きたくない台詞。
周りから上がる笑い声。
今と、昔。
広がり、つながっていく関係。
その輪の中にいられる自分。
何でもないと人は思うかも知れない事。
私にとって、何よりも大切な一時。