エピソード(外伝) 3 ~サトミ視点~
カーテンをくぐり抜けベッドを照らす白い日差し。
ベッドから身を起こし、窓辺へと足を向ける。
遅くまで本を読んでいたせいか、多少朦朧とする意識の中カーテンを開け放つ。
夏の、目も眩むような太陽。
乱れた髪をかき上げ、そのままベッドへと倒れ込む。
枕元にあった英訳の論文が下へ落ちていく。
手で遮っていても、朝日は容赦なく照りつける。
だがそれは、不快ではない。
むしろ今のけだるさを癒してくれる、力強い温もり。
エアコンを切り、その暖かさに身を任す。
額に汗が浮かび、再び夢の中に落ちていく事もままならない。
「……夏だものね」
天井に向かってそう呟く。
無論応えはなく、私はベッドから降りてバスルームへと向かった。
バスタオルで濡れた髪を拭いていると、端末が音を立てた。
ディスプレイを確かめず、通話ボタンを押す。
「……はい」
「起きてたか?」
やや低い落ち着いた声。
私は8時をやや回った時計に視線を注ぎ、返事を返した。
「起きてるから、こうして話をしていられるのよ」
「なるほど」
笑いを含んだその声に、自然と頬が緩んでいる。
「こんな時間にどうしたの」
「ああ。家に帰ろうと思って」
「そう。行ってらっしゃい」
「聡美も行くんだよ。俺と一緒に」
夢の中の会話のように、兄さんの声が頭の中で響いていた……。
家族
連絡があってから10分も経たない内に、兄さんは私の部屋に来ていた。
昨日は大学の施設に泊まり、そのままここへ来たとの事だ。
今は政府の研究機関に務めていて、その関係からここの大学へも時折顔を出す。
そこで光と顔を合わせる機会も多く、将来は共同で研究する考えもあるらしい。
「突然、どうして」
ベッドサイドに腰を下ろし、ため息を付く。
冷たい麦茶を口に入れ、混乱する頭を少しでも冷やす。
兄さんは静かな物腰で私の隣りに腰掛け、ベッドの上にあった英訳の論文を手にした。
「いつまでも帰らない訳にはいかないだろ。家を出て、もう何年になる」
「中等部に入ってから、一度も行ってないわ。正確には、売り飛ばされてからね」
「3年か」
叡知を湛える細い目元。
男性にしては繊細な顔立ちで、無造作に伸ばした柔らかな髪がよく似合っている。
体格はさほど大きくなく、典型的な学者といった雰囲気を持っている。
「兄さんはどうなの」
「帰ってるよ、たまには」
「あそこは私達が帰る場所じゃないわ。そうでしょ、兄さんっ」
不意に怒りがこみ上げる。
思い出したくもない記憶が、忘れてしまいたい事が果てしなく浮かんでくる。
「それでも、俺達があの二人から生まれたのは事実なんだ」
「今さら、あの人達に会ってどうするの」
「許せないのか、聡美は」
「兄さんはどうなの」
私の質問に、兄さんの顔色が変わる。
「……俺だって、許した訳じゃない。でも人は、変わる事で生きていくものだ。俺はそれを信じている」
「どう変わるっていうの。あの人達が一言でも謝ってくれた?兄さんに何か連絡をしてくる?一度でも会いに来た?」
「仕送りはしてくれてるんだろ」
「お金?私達を研究施設に送った時の謝礼でしょ。それと、今の学校に売り飛ばした時の。そんな物、全部送り返しているわ」
苛立ちと悲しさが入り交じる。
他の誰でもない、兄さんにだけはぶつけられる感情。
光やユウ達にすら、決して分かってはもらえないだろう気持。
あの時同じ苦しみを味わった者だけが理解しうる、負の思い。
「少しでも悔いてるから、お金を送ってくると思えないのか。一気に全てを解決出来るとは俺も思っていない。まずは一歩踏み出す事だ」
「私達が?」
「言いたい事は分かる。でもな、俺達だって変わらない訳にはいかないだろ」
「変わる必要があるのかしら、私達は」
ため息を付き、グラスをトレイに戻す。
私はキッチンにそれを運び、そこから兄さんに声を掛けた。
「……リニアで行くの」
「ああ。今から出れば、昼前には着くよ」
時速500km/hで流れていく景色。
あの時、今の学校へ来る時に見た光景。
もう二度と見る事は無いと思っていたのに。
「……大丈夫だ。俺が付いてる」
「兄さんは、辛くないの」
「妹の前で、情けない姿は見せられないだろ」
そう言って笑ってみせる兄さん。
私は自分が着ている半袖のブラウスを眺め、やるせない気持になった。
膝下の、紺のタイトスカート。
清楚な、やや品のいい格好。
自分で選んだ服。
もっとラフでも良かったのに、これを選んだ。
自分でも認めたくない気持。
あの人達……、実の親に会いに行く。
入り交じる幾つもの感情。
微かな希望を抱く自分。
「でも、どうして今日なの」
「夏休みだろ。丁度いいと思って」
「まだ、何か隠してそうね」
「鋭いな、天才少女は。せいぜい考えてくれ」
「自分より出来る人に、言われたくないわ」
苦笑して、窓に映り込む自分の顔を見る。
明るい表情を浮かべる、その顔を。
駅からタクシーに乗ると、かつての記憶が蘇ってくる。
毎日のように研究施設の車で送り迎えされたコースも。
ある時は一人で、ある時は兄さんと一緒に。
しかし、あの人達が付いて来た事はただの一度もなかった。
多少の変化はあるが、街並みはあの時と殆ど同じ。
閑静な住宅地と商店街。
ごく普通の、どこにでもありそうな街。
ここで、私と兄さんは生まれ育った。
辛い記憶と共に。
遠ざかっていくタクシーをいつまでも目に留める。
ここへ来たのは間違いではなかったのか。
今なら、まだ間に合う。
「……行こうか」
肩に兄さんの手が置かれた。
「分かったわ」
「俺が先に行くから」
「ええ」
3段ほどの階段を上り、兄さんがインターフォンを押す。
ここからは聞こえないが、短い会話が交わされる。
少し間があり、玄関のドアが開けられる。
出てきたのは、品の良さそうな50代くらいの女性。
「急、だったのね……」
硬い笑顔がはっきりと見える。
その視線がこちらに向き、笑顔はさらに深くなる。
「あ、あの」
「聡美だよ。一緒に連れてきた」
私は視線を逸らさず、兄さんの後ろへと立った。
「そ、そう。とにかく上がって。私、あの人呼んでくるから」
私達に背を向けるや、早足で廊下を行く音が聞こえる。
「聡美」
「分かってる」
玄関に入り、靴を脱いで廊下へ足を掛ける。
「……内装を変えたみたいね。私達を売ったお金で」
「そういう話は、今日は止めてくれ。俺も、我慢してるんだから」
「体に悪いわよ」
兄さんを追い抜き、歩いていく。
物心付いた時から分かっていた。
全てが理解出来た。
今よりも世界は広く、万物の理が体の中に溶け込んでくるようだった。
それが10才だったら、15才だったらどれだけよかっただろう。
言葉もろくにしゃべれない子供でなかったら。
能力開発を目的とする政府の研究機関が、そんな私に目を付けるのはさほど遅くはなかった。
いや、あの人達がそこへ連絡を取るのが。
私以上の才能を見せていた兄はすでに研究施設へ送り込まれ、日々その類い希な知能を調査されていた。
やがて私もそれに加わり、いつ終わるとも知れない問題を解いていた。
私達が受けた調査はあくまでもその能力を測るだけで、新カリキュラムのような向上目的の実験などは行われなかったが。
またそれは人道的な見地に基づいて行われた調査で、虐待と思えるような事は一度としてなかった。
むしろ楽しさと喜びを与えてくれた。
自分が知らなかった事がどれだけ多いのか。自分はどこまで出来るのか。
世界が無限に広がっていくような気分だった。
そして祝福されているようだった。
研究施設にいる時は。
キッチンを横目で眺め、そのままリビングへと向かう。
間取りは変わっていない。
でも内装は、あの時からすっかり変わっている。
よく言えば一流、私の目からすれば下品な家具や調度品。
引っ越していい家を買わないのは、地下をリニアの実験線が通るという噂があるからだ。
壁には見た事のない絵が掛かり、幾つものセンサーがその場の温度を即座に変え快適な温度を作り出す。
微かに香るのはリラックス用のオイルだろうか。
私は壁に埋まる小さなセンサーを蹴りつけ、オイルの放出と拡散を止めた。
「無茶するなよ」
「誰もリラックスしたいなんて思ってないもの。プログラムの設定が安直すぎるのよ」
鼻を鳴らしリビングに入る。
視界に入る二人の男女。
一人は先程の女性。
その隣りに座っているのは、やはり品のいい顔立ちをした中年の男性。
「ひ、久し振り……」
ぎこちない口調と笑顔。
「3年ぶりだからね」
苦笑して、向かい合うソファーに腰を下ろす兄さん。
「聡美」
「ええ」
私は無表情のままその隣りに座る。
「元気だった?」
女性の言葉にこみ上げる怒りを抑えつつ、どうにか口を開く。
「見ての通りよ」
兄さんが顔をしかめたが、これでも丁寧に応えたつもりだ。
「一度会いに行こうと思っていたんだけど、色々と忙しくて」
「そう」
男性の言葉に、素っ気なく頷く。
兄さんが研究施設に送られるようになってからは、仕事を辞めていたはずだ。
一生働く必要がない程の謝礼を受け取った後は。
あちこちに目に付く、明らかに日本の物ではない人形や調度品。
ドイツ、スペイン、タイ、オーストラリア、メキシコ……。
確かに忙しそうだ。
話題がないのか、二人はそれ以上何も語ろうとしない。
気まずそうに俯き、しきりにコーヒーをすする。
だが私は、何も気にならない。
二人の存在など何も。
窓からは庭が見える。
幼い頃の記憶がふと蘇る。
春だっただろうか。
庭に、黄色の小さな蝶が飛んでいた。
体を泥と傷まみれにして、それでも蝶を捕まえた。
手の中で動く羽がくすぐったかった。
家の中に入り、蝶を放した。
人を呼んだ。
見てほしかったから。
自分の捕まえた蝶を。
その人達は笑った。
そして、厚い図鑑を手渡して私から背を向けた。
国債の利率が、ファンドの利回りがという会話が聞こえていた。
私は窓を開け、蝶を解き放った。
あの図鑑は、まだ庭に埋まっているだろうか。
「……聡美は、お昼に何食べたい?」
兄さんの声に、現実が戻ってくる。
窓から見える庭の木々は、あの時とは違う。
苦い思い出も、遠い昔の事だ。
「何でもいいわ。お腹空いてないし」
「そうか。じゃあ、適当にお願い」
「え、ええ。分かったわ。ちょっと買い物に行ってくるから」
「二人は、ゆっくりしていてくれ」
逃げるようにリビングを出ていく二人。
私はそちらに顔も向けず、クリスタルのテーブルを蹴りつけた。
二人の慌てる気配が伝わってきたので、小さく呟く。
「兄さん、なに寝ぼけてるのよ」
「寝ぼけてないさ。足を組み替えようとしただけだ」
ため息のような物が聞こえ、足音が遠ざかっていく。
「蹴るな」
「人の事言えないでしょ」
右と左で同じようにずれるテーブル。
左がやや前に出ているのは、私の方が強く蹴ったからだ。
「我慢してないじゃない」
「だから、足を組み替えたって言っただろ」
「どうだか」
少し気分をよくして、席を立つ。
「部屋はどうなってるの」
「俺の部屋は、完全に物置だ。中には入れそうにない」
「塞いでるんじゃないの、物置を名目にして」
「かもな。確かこの前覗いた時は、聡美の部屋もそうだったけど」
私は廊下へ出て、階段に足を掛けた。
さすがにエスカレーターにはなっていない。
廊下の奥にエレベーターらしき物が見えたが、気のせいだろう。
二階には、私と兄さんの部屋があった。
階段の上って左が兄さん、右が私。
部屋はもう一つあるのだが、そこは空室となっていた。
私達が住んでいた時、あの二人が二階に上がって来る事はまず無かったから。
「……確かに物置ね」
部屋の中を占める大量の家具や家電製品。
特に入り口付近は壁のように荷物が置かれていて、私の推測を裏付ける結果となっていた。
ここまで人を馬鹿にした話があるだろうか。
我が子に対する態度では決してない。
帰宅した時兄さんは、どこに自分の居場所を求めているのか。
ここまでされて、どうしてここに来るのか。
「……笑うだろ」
私は怒りを隠そうともせず振り返った。
「ふざけ過ぎよっ。一体なんだと思ってるの。人の部屋をこんなにして」
「年に何度も来ないんだ。物置にされても仕方ないさ」
「だからこそ、昔のままにしておくべきでしょ。普通なら」
「普通、ならな」
兄さんは視界をも塞ぐテレビに触れ、変わりもしないチャンネルを変えていった。
「最初見た時は、さすがに血の気が引いたよ。我ながらよく自制した」
「大人なのね」
「今は、子供さ」
テレビを突き飛ばし向こう側へ落とした兄さんは、その下にあったオーディオセットを廊下へ引っぱり出して中へと足を踏み入れた。
「……何年振りかな、ここに入るのは」
何段も積まれた置かれたデッキ類を床へ落とし、その向こうにあった窓を開け放つ。
「ここからの眺めが好きだったんだよ。前の道路が見えて、歩いていく人達が見えて。こんな人達も、こんな親子もいるんだなってずっと思ってた」
「思い出話をしに来たの、今日は」
「たまにはいいだろ」
「私は何の思い出もないわ。嫌な物以外は」
箱から出してすらいないテレビに肘を当て、モニターに音を立てさせる。
「驚くんじゃないかな、俺達みたいのが生まれてきたら。自分達より物を知ってて、一日中数式と睨み合うような子供なんて」
「誉めるわよ普通は。仮に研究所へ送るにしても、一緒に付き添ってくるわ」
「戸惑ってたんだよ、それに少し混乱してたんだと思う。俺達を調査する謝礼が、あまりにも多過ぎたんだ」
「好意的ね、兄さんの発想は」
昔はこうして、よく語り合った物だ。
無論その時の話題は、哲学や歴史の解釈、化学式などだったが。
夜が更けても話は尽きず、そのために学校を休んだ事もしばしばだった。
兄さんは私の先生であり、クラスメートであり、ライバルだった。
それを補ってくれたのが研究施設の人達だ。
しかしあの人達がしたのは、私達を売り飛ばす事でしかしなかった。
「大体、いつもここへ何しに来てるの」
「夜に顔出して、すぐに帰るよ。意外と疲れるんでね、ここは」
私は苦笑して、兄さんの部屋を出た。
足元に転がるオーディオセットを階段まで運び、そこを塞ぐ。
「どうせ上がってこないんだし、このくらい構わないでしょ」
「それこそ子供だ」
兄さんの指摘に笑いつつ、私は自分の部屋の前に立った。
ドアノブに鍵が掛かっている。
頭の奥が痺れていく感覚。
ノブの横に手を当て、掌底気味に突き上げる。
同時にドアの脇にあったセキュリティセンサーへ目掛け、肘打ちを3発叩き込む。
警備会社には連絡が行っているかも知れないが、それは私に関係のない話だ。
ノブに手を掛け、今度こそドアを開く。
白い壁、白い天井、白い床。
カーテンのない窓からは、隣の家が見えている。
私が背を測って付けた傷も、コーヒーで汚した跡も何もない。
フローリングで木目調だった床、淡いクリーム色だった壁と天井。
全ての痕跡は無くなっていた。
「……こういう事」
こみ上げる気持を、必死で押し殺す。
なんでここに来てしまったのか。
どうして人目を気にするような服を着てきたのか。
思っていた通りの結末。
胸の奥に抱いていた淡い期待は、もうそのかけらも見つからない。
ただ空しさと自責の念が募る。
「……悪かった。先に俺が確認しておくべきだった」
「兄さんが謝る必要はないでしょ。もし私達が知らなくても、この部屋が無くなっているのは事実なんだから。あの人達が、私の存在を消そうとしているのは」
「私達、じゃないのか」
「そうね」
何もない真っ白な部屋に座り込む。
昔使っていた家具は、この家を出る時全て持っていった。
それでも、いくら辛くても思い出だった。
私がここにいたという、ここで育ったという。
でも今は、白い見慣れぬ光景が周りに広がる。
「……結婚するまでの、後2年の辛抱よ」
「光君が成人、18才になったらすぐにか」
「ええ。そうなれば手続きをとって、法的には親子の関係を絶つわ」
「本当にそれでいいのか」
「兄さんは、まだ手続きをとってないの」
ドアの脇に背を持たれる兄さんは、軽く首を振って呟いた。
「少なくとも、お前がこの家の人間である内はな。そうでないと、聡美が天涯孤独になるだろ」
「いいのよ、そんな事気にしなくても」
「俺は気にするんだよ」
笑う事しか出来ないような会話。
悔しさと情けなさが募る。
自分が一体何をしたのか。
どうしてそんな事までしなければならないのか。
誰のせいで、私達は……。
リビングに戻り、見たくもないテレビを見ていた。
兄さんは持ってきていた論文を、熱心に読んでいる。
「テレビ、うるさい?」
「いいよ。聞きながら読んでるから」
「器用ね、相変わらず」
テーブルに置かれた論文を一枚取る。
両眼視差をテーマにした論文で、視力の違いによる視差の比較を行っている。
兄さんは臨床心理学の研究がメインだが、こういった基礎的な分野も好きらしい。
「……戻ってきたみたいだ」
「遅かったわね」
「余計な事はもうするなよ」
「兄さんこそ」
私達は論文をしまい、何事も無かったかのようにソファーへ身を沈めた。
「……待ったかしら?」
女性が作った笑顔を向けてくる。
黙ったまま軽く首を振る私達。
「道が混んでてね。それと、作ってもらうのに時間が掛かったから」
聞いていない言い訳を延々と話す男性。
テーブルには、幾つもの袋が置かれていく。
「これが美味しいのよ。私達もよく食べるんだけど」
テーブルに置かれるお寿司。
中華の総菜、サラダ、高級そうな洋菓子、洋酒……。
「そろそろお昼だから、今から食べましょうか」
キッチンへと消えていく女性。
男性の方は、買いそろえてきた食材をテーブルに広げていく。
「……聡美」
兄さんが私の肩に手を掛ける。
強い感情を押し殺した表情で。
子供が帰ってきた時に出迎える料理。
自分の手で作った物ではない、買い揃えられた品々。
私達が昔好きだった物ですらない。
値段だけは高そうな、味だけは良さそうな、出来合いの食事。
見た目はどうでも良かった。
味はどうでも良かった。
自分達の子供のために、心を込めたという姿勢。
愛する子供達に喜んでほしいという気持。
全ては夢であり、私の幻想だった。
目の前に広げられている食事と、それを私達に勧める二人が現実だった。
エビチリを小皿にとりわけ、無造作に口へ運ぶ。
化学調味料を使っていない、いかにも高級そうな味。
兄さんは黙ってお寿司を食べている。
私も何も言わない。
無論前にいる二人も。
テレビの音だけが、その沈黙をより確かな物にさせる。
空腹を満たすだけの食事が続いていた。
やがて全員の手が止まり、片付けられたテーブルにデザートとティーカップが置かれる。
私はティーカップをテーブルに戻し、席を立った。
「それじゃ、帰るから」
「そ、そう」
「リ、リニアの時刻表はどこだったかな……」
引き留める事など期待もしていないし、して欲しくもなかった。
「これ、今食べた食事代とさっきのコーヒー代。お釣りはいいわ。それと、もう二度とお金は送ってこないで」
ポケットからあるだけのお金を出し、テーブルに放り投げる。
「そ、そんな。どうしてこんな事するの」
「い、いくら何でも、それはおかしいだろ」
顔を赤くしてうろたえる二人。
しかし私と目が合うと、あからさまに目を逸らして俯いた。
「さよなら」
そう言い捨て、私はリビングを出ていった。
玄関を出て数歩歩き出すと、後ろから足音が聞こえてきた。
「止めても無駄よ。もう二度とここには来ないわ」
隣りに駆けてきた兄さんは、私の背中を軽く叩いておかしそうに笑った。
「人の台詞を取るなよ」
「兄さん……」
「あの二人、俺がその内戸籍を抜くって言ったら露骨にほっとした顔するんだよ。本当、我ながらよく自制した」
赤くなった拳をさする兄さん。
さっき聞こえた激しい音は、テーブルが割れる音だったらしい。
「これからどうするんだ」
「帰るわ。今さらこの街にいても仕方ないもの」
「……そうか。悪かったな、せっかくの日に嫌な思いさせて」
「せっかくの日?」
その疑問を尋ねる間もなく、端末が揺れる。
「……あ、ユウ。……ええ、外にいるわ。……今日?」
ユウの言葉に、先日聞かされた話をようやく思い出す。
今まで私になかった習慣なので、すっかり忘れていたのだ。
「私の誕生日だったわね。ごめん、忘れてたわ……」
兄さんがここへ連れてきた意味を、ようやく悟る。
今日という日を、家族ですごそうと思った兄さんの気持ちを。
それも結局は、無駄になってしまったけれど。
「空港でヘリかVTOL機をチャーターすれば、1時間で名古屋へ着くよ」
「……少し待ってて。1、2時間くらいで戻るから。……それと、兄さんと一緒に行っていい。……ええ、今隣にいるわ」
ユウの声が、私の心に溶け込んでいく。
手放しで喜んでいる笑顔までもが浮かんでくる。
「ユウの家に行けばいいのね。……はい、また後で」
端末をしまい、兄さんの顔を見上げる。
「勝手に約束したけれど、いいでしょ」
「ああ。行こうか」
私達は振り返る事もなく、並んで駅へと向かった。
真上に上った太陽が、強い日差しを投げかける。
その暑さに、今は浸っていたかった……。
インターフォンを押すと、ユウの両親が出迎えてくれた。
お母さんは将来の彼女をイメージさせる、明るさと可愛らしさを感じさせる女性。
「さ、上がって」
「お邪魔します」
「済みません、俺までお邪魔してしまって」
ユウのお父さんは優しい笑顔を浮かべ、兄さんの肩に手を置いて奥へと促した。
「うちは優一人だけだから、君みたいな男の子が来ると嬉しくてね。まさか、今さら子供って訳にもいかないし」
「どうせ私はおばあさんですよ」
「そ、そうじゃないって」
私達を挟んで必死に言いつくろうお父さん。
お母さんは私の陰に隠れ、くすくすと笑っている。
「みんなはもう来てる?」
「ええ。主賓をお待ちかねになってますわ」
その言葉が終わらない内に、ユウが階段から駆け下りてきた。
「あ、サトミ。秀邦さんも」
「こんにちは、優さん」
「ごめんなさい。私すっかり忘れてて」
「いいから。みんなリビングにいるわよ」
私の手を引き廊下を駆け出すユウ。
「危ないよ、優、聡美さん」
お父さんの心配そうな声が聞こえてくる。
「また人を子供扱いしてっ」
「現に子供でしょ、あなたは」
苦笑気味のお母さんの言葉を背中に受けながら、私達はリビングへと入った。
「お姫様の到着だ」
床にあぐらをかいていたケイが、ニヤニヤと笑って見上げてくる。
「ああ。聡美、誕生日おめでとう」
彼につつかれた光は、立ち上がって小さな紺の箱を手渡してきた。
箱の雰囲気からいって装飾品だろうか。
何ともあっさりしたこの人らしい渡し方に、つい苦笑してしまう。
隣で見ていたユウも同じ事を思ったらしく、呆れた顔をしている。
「何よ、ムード無いわね。そういうのは、二人っきりで渡したら」
「優ちゃんの言う通りだと思うな」
「怖いぞ、二人とも」
ユウと丹下ちゃんに睨まれたショウは、「冗談だ」と呟いて数歩下がった。
そんな彼を、木之本君が優しい笑みで慰めている。
「今日はどうしてたの。お兄さんも一緒だっていうし」
私の表情から何か悟ったのか、モトが耳元でささやく。
「ごめんなさい。心配しなくても、もう大丈夫だから」
「あなたがそう言うなら」
私の手を取り、暖かく包み込んでくれるモト。
「ありがとう。いつも、助けてくれて」
「それはヒカル君でしょ。私は何もしてないわ」
「なんとも麗しい友情ですな、僕は胸が締め付けられる思いですよ」
私達の会話は聞こえていないはずだが、離れた所からケイが声を掛けてくる。
彼からすれば、私の行動などお見通しだろう。
ただし今は、普段よりも皮肉さが影をひそめている。
私を気遣っている、気もする。
本人はそれを認めないとしても。
「俺の妹が、どうかした?」
その肩に、兄さんが手を掛ける。
「いえいえ。ただ、義姉さんがいい人だなって」
「義姉さんって、サトミの事?」
「僕と聡美が結婚すれば、珪は弟なんだからそうなる訳か。意外な新事実だね」
「わっ、最悪だ」
ユウの叫び声に、みんなから笑い声が上がる。
するとお父さん達が、彼女の顔をじっと見つめた。
「そんな言い方は良くないよ、優」
「私、珪君みたいな子供がいてもいいけどな」
「ちょ、ちょっとお母さんっ。私にこの子と結婚しろって言うのっ」
「養子でもいいんじゃない」
無責任に言い放つ光。
さらに広がっていく笑い声。
夢のような、いつまでも終わらぬ楽しい時。
「……ここにいる人達は、初めて会った時から私を受け入れてくれたわ。あの人達が拒絶した、あるがままの私を」
そんな呟きに、兄さんは私の肩をそっと抱いた。
「だからずっと思ってたの。私の家族は、この人達じゃないのかって……」
もう悲しまない、振り返らない。
あの時を、もう二度と。
今日は私の誕生日なのだから。
終わり




