19-4
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林道を走る車。
渓谷沿いの道から逸れた、狭い道。
行き先は、矢加部さんに教わった湖。
勿論矢加部家の敷地内にあり、言ってみればプライベートレイクか。
ショウは車を脇へ寄せ、さらに細くなっている林道の入り口前で停めた。
「おかしいな。チェーンが掛かってあるはずなのに」
「誰かが入ったんだろ」
冷静に指摘するケイ。
ここは私有地。
チェーンが掛かっていて、セキュリティシステムも設置してある。
それでも中に入っていく人間。
「どう思う?」
「ろくな人間でないのは確かね」
ケイ以上に冷たく答え、サトミはキャップを深く被った。
森を抜ける車。
川とは違う、広い湖面。
南アルプスと空が映り込み、白と青の幻想的な光景が繰り広げられている。
砂利から土に変わる道。
綺麗な湖畔。
そこに停まる、数台の車。
「こいつらか」
鼻を鳴らすショウ。
ケイは車が止まった同時に降りて、そちらへと近付いた。
空き缶や食べ物の袋を、辺りに捨てている男女へと。
「ここは、私有地なんだけど」
控えめな物言い。
男の一人が彼へ歩み寄り、胸元を付いた。
「お前だって、勝手に入ってきてるんだろ」
「土地の所有者に、許可は得てある」
「俺達も得てるさ」
辺りから起こる高笑い。
矢加部さんは、私達には許可をくれた。
でも、彼等にはどうか。
間違いなく、そんな訳はない。
「あ、そう」
男の隣を通り過ぎるケイ。
決死で大柄ではなく、また地味な雰囲気。
男達は小馬鹿にした顔で、彼の様子を眺めている。
「さてと」
屈んだ彼は足元にあった大きい石を拾い上げ、車のドアに叩き付けた。
当然割れる、ドアのガラス。
呆然とする彼等を尻目に、ヒカルが缶やゴミを中へ放り込んでいく。
「て、てめえ」
「ここは私有地で、許可のない車が入ってくる訳がない」
「だから、ゴミ箱だと思って」
事も無げに答える二人。
その間にもゴミや雑草、石や土までもが車の中に放り込まれる。
「ふざけるなっ」
石を持ち、殴りかかってくるビキニ姿の女。
ケイはその足を払い、倒れた所で襟首を掴み湖へ顔を沈めた。
その首筋に、足を置きながら。
「誰がふざけてるって」
ようやく離される足。
激しく咳き込む女。
ケイはその顔にスニーカーのかかとを近付け、あごを反らした。
「女だから、何しても許されるとでも?次は、ピアスをもいでやろうか」
「ひっ」
甲高い声を出し、腰を抜かした姿勢で後ずさる。
その間に、ヒカルは他の車のガラスも割って中にゴミを放り込んでいる。
「この野郎っ」
釣り竿を構え、殴りかかってくる男達。
二人は素早くその場を離れ、ショウの後ろへ逃げ込んだ。
「後は任せた」
「あのな」
「じゃあ、俺達がやろうか」
「分かった。下がれよ」
振り下ろされる釣り竿を、体で受けるショウ。
男達が喜んだのもつかの間。
釣り竿は二つに砕け、彼等は腕を押さえる。
後は、自分達が倒れる音を聞くだけだ。
「それで、次は何がしたい」
「くっ」
ショウを睨み付け、ぼろぼろになった車へ乗り込む彼等。
ケイ達はなおも中に釣り竿を放り込み、遠ざかっていく車に石を投げている。
「おい、もういいだろ」
「嫌だね」
「ショウの言う通り。下手だから、止めた方がいい」
訳の分からない理由を告げて投げたヒカルの石がサイドミラーを吹き飛ばし、全ての車は湖畔から消えていった。
「やり過ぎはともかくとして、どうして?」
「まんじゅう分くらいは働く」
鼻を鳴らすケイ。
矢加部さんからもらった、あのおまんじゅうの事を言ってるのか。
義理堅いのとも、また少し違う気もする。
少々気分を害したので、水遊びを程々に切り上げてコテージに戻る。
その前に停まる、一台の車。
玄関先にしゃがみ込み、膝を抱える可愛らしい顔の少年。
「柳君」
ゆっくりと上がる顔。
茫然自失という様子で。
「来るの今日だった?それに、どうしたの」
「負けたんだよ」
彼の肩に手を置く名雲さん。
かなり苦笑気味に。
「何で」
「これで」
構えられる拳。
つまりは、ケンカでという意味か。
だけど、この子に勝てる人間なんて一体どこに。
「あ、あれ。もう戻ってきたの?」
気まずそうに、玄関から出てくる瞬さん。
一人いた。
「父さん」
ショウも気付いたらしく、げんなりした顔で彼に詰め寄る。
瞬さんは大きく手を振り、ドアを半分閉めた。
「あ、あのさ。昼寝してたら、リビングの窓に人影が見えて。やばい奴かと思って、つい」
沈み込み、膝に付けられる柳君の顔。
怪我をしている様子は無さそうだが、言ってしまえばそこまでの実力差があったともいえる。
相手に手加減をされる程の。
「勘弁してくれよ」
「う、うるさいな。来るなら来るって、連絡をしてくれれば俺だって」
「済みません。いきなり来た方が、面白いかと思って」
遠慮気味に申し出る名雲さん。
ただ悪いのは彼等ではなく、当然ジャーキーをかじってる大人。
というか、そのジャーキーをどこから見つけたんだ。
「それは」
「何が」
ジャーキーを食べ終える瞬さん。
もう、何も言う気もなくなった。
「いえ、こっちの話です。女の子が、二人来てませんでした?」
「奥で、荷物を片付けてる。怖い目で見てくるから、そっとしておいた方がいいぞ」
誰のせいでという言葉を飲み込み、私はコテージの中へと入った。
やはり怖い目で、彼を睨みながら。
リビングのソファーで、だるそうに座る舞地さんと池上さん。
私はトコトコと二人の側に歩み寄り、両手を差し出した。
「お土産は」
手の上に置かれるタオル。
舞地さんが自分の汗を拭いた物とも言う。
「あのさ」
「雪野に用はない。沙紀は」
「へっ。沙紀ちゃーん、真理依お嬢様がお呼びですよー」
「はい、今すぐ」
笑いながらリビングへやってくる。
すると舞地さんは優しく微笑み、彼女に小さな箱を差し出した。
包装から見て、高そうなお菓子らしい。
「済みません。みんなで、食べますから」
「みんなにはやらなくていい」
「あ、はい。じゃあ、高畑さん達と食べます」
「うん」
何だ、それ。
別に食べたくはないけど、もらえないとむかつくな。
「池上さん」
暑いのか、ポニーテールにしている彼女へ手を差し出す。
すると池上さんはその手をじっと見つめ、顔を寄せてきた。
「食べ物なんて、いくらでもあるでしょ」
「あっても欲しいの」
「棚の奥にジャーキーとかお菓子とか、たくさんあるじゃない」
さすがにめざといな。
場所がみんなに気付かれつつあるし、後で移動させておこう。
「お茶」
沙紀ちゃんに肩を揉ませていた舞地さんが、突然告げる。
訳の分からない事を。
「あ?」
「お茶」
また言いやがった。
一度お互いの立場を、はっきりとさせた方がいいみたいだな。
「無いの」
「あるわよ」
「雪野はいい。毒を入れそうだから」
よく分かってるな。
「浦田」
「え?」
「入れてきて」
有無を言わさない口調。
ケイは鼻のあたりにしわを寄せ、彼女を睨みながらキッチンへと消えた。
冷蔵庫には、冷えた麦茶がある。
それを出すのかと思っていたら、ペットボトルをリュックに詰めた。
「どうするの」
「水を汲んでくる」
「どうして」
「今日は汲んでないから。グラス、冷やしといて」
外へ出ていくケイ。
さっきの態度とは全く違う行動。
相変わらず、訳が分からない人だな。
「どうぞ」
グラスを受け取り、口を付ける舞地さん。
特にコメントはなく、グラスはすぐにテーブルへ置かれる。
「美味しいわね。水がいいのかな」
同じくお茶を飲んだ池上さんは、私とケイに微笑みかけてきた。
愛想がない相棒のフォローだろう。
「玲阿君のお父さんは?」
「さあ。その辺で、虫でも捕ってるんじゃないの」
「何、それ」
「そういう人なのよ」
多くは語らず、お茶を飲む。
確かに、美味しいな。
「柳君を、軽く投げ飛ばしたのに?」
「元大尉だから。最近まで、セキュリティコンサルタントもやってたし」
「司が言うには、お腹を出して寝てたらしい」
言えば言う程、ぼろが出る。
ただ反応はしたんだから、その点では誉められる。
その点だけは。
「名雲君のお父さんと戦友なんでしょ。勲章を幾つももらった」
「そうらしいね。普段は、あんな風だけど」
「世の中、変わった人間は多い」
身も蓋もない言い方。
しかし、反論のしようもない。
「みんなは」
「泳いで疲れたんじゃないの」
「せっかく遊びに来たのに、もったいないわね」
そういう割には、動こうともしない池上さん。
分かるけどね。
一方の舞地さんは沙紀ちゃんと位置を代わり、彼女の肩を揉んでいる。
「……寝てる?」
顔を俯かせ、体を小さく揺らす沙紀ちゃん。
前髪が顔の半分を覆い、口元をあどけなく開いて。
「疲れてるんだろ。浦田、タオルケット持ってきて」
「はいはい」
部屋の隅にあったタオルケットを、沙紀ちゃんの体に掛ける二人。
こういう点では、気が合うようだ。
「私も揉んでよ」
「揉む場所がない」
すぐに返ってくる答え。
言い得て妙だな。
面白くないのでお姉様達はケイに任せ、お風呂場へと向かう。
ここは近所から温泉を引いてあって、無色透明なお湯が今でも蛇口から溢れている。
さすがに露天風呂はないけれど、広さとしては小さなプールくらい。
洗い場も広めに取られていて、高校生が夏休みを過ごすには贅沢な作り。
「何してるの」
「洗ってる」
モップで床をこすっているモトちゃん。
温泉の泉質状、放っておけば一日で床や湯船はヌルヌルになる。
だからこういう事を、こまめにする必要がある。
「腰が入ってないよ」
「ユウ程は、器用にやれないの」
「相棒は」
一瞬止まるモップの動き。
すぐに聞こえる、後ろからの足音。
「洗剤持ってきた……」
「仲いいね」
床のぬめりを利用して、名雲さんへと滑っていく。
ただそこは、私とは違い大人。
平然と笑い、小さいブラシを差し出してきた。
「壁を洗ってくれ」
「ショウにやらせれば。私より、手が長いんだし」
「分かったよ。呼んできてくれ」
お風呂場を出て、ドアはしっかり全開にする。
とにかく二人きりにさせてはいけない。
我ながら、無茶苦茶だな……。
「いたいた。お風呂場行ってきて」
「何で」
「モトちゃんと名雲さんが、掃除してるから」
「だったら、二人にさせてやれよ」
すぐに言い返してくるショウ。
ほう、格好いいな。
というか、私は格好悪いな。
「だったら、水汲んできて。ケイは、少ししか汲んできてないから」
「自分は、何するんだ」
「見回りよ。管理人の代わりに」
「それはいいかもな」
しみじみと呟き、キッチンへ向かうショウ。
階段の下で、古い雑誌を読み耽っている実の父から逃げるようにして。
夕食後。
のんびりTVを観ていたら、サトミが小さく声を上げた。
「どうしたの」
「端末がない」
真剣な表情。
私の端末で彼女のアドレスをコールするが、何も聞こえてこない。
他の部屋も、二階でも同様。
「家に、忘れてきたんじゃないの」
「まさか。さっきまで、使ってたのに」
「だったら、外で忘れて来たとか」
「今日は」
思案の表情を浮かべるサトミ。
私が思いつくのは、矢加部家の湖。
でもその後で、彼女が端末を使っていた記憶はある。
「そういえば、上の祠に行った」
「何しに」
「花を添えに」
今日はサトミの当番だったのか。
私は昨日行って、みんなで毎日花を添えに通っている。
「兄さんから連絡があって。その後で周りを歩いてたから」
「じゃあ、明日行けば」
「駄目。誰かに拾われたらどうするの」
別に問題はない。
警察に盗難届を出せば、端末の全機能を停止してもらえる。
「俺なら、データを抜き出すかな。機能を止めても、データを見る方法はいくらでもある」
突然現れ、喉元で笑う男。
確かに、世の中にはおかしな人間もいるだろう。
例えば、目の前とかに。
「仕方ない。探しに行ってくるわ」
「一人じゃ危ないでしょ。ショウー、木之本君呼んできてー。名雲さんと柳君もー」
「よくやる」
欠伸をして、ソファーに寝転がるケイ。
やる気無し、全開だな。
男手を無くすコテージ内。
ケイはいるけど、猫の方が役に立つ。
「モトちゃんは行かないの?」
「こんな夜中に?肝試しは、もう終わり」
それはそうだ。
私は想像もしたくない。
「沙紀ちゃんは?」
「さっき言ってくれれば」
欠伸を噛み殺して、ソファーに座る沙紀ちゃん。
ぐーぐー寝てたらしい。
「聡美ちゃんはどこ」
ハサミ片手にやってくる池上さん。
カニの真似でもしてるのか。
「端末を無くしたから、探しに行ってる」
「せっかく、カットしようと思ったのに。雪ちゃんはどう?」
「モトちゃんんが少し長いから、見てやって」
生け贄を差し出し、端末をチェックする。
サトミの端末からの連絡は無し。
他のみんなからも。
「沙紀は」
「そこで寝てる」
気付いたら、床に伏せている沙紀ちゃん。
舞地さんはケイへ視線を向け、顎をしゃくった。
「暑いから、大丈夫です」
答えない舞地さん。
ケイはため息を付き、タオルケットを沙紀ちゃんのお腹に掛けた。
「他のみんなは」
「サトミのお供。端末を探しに、上まで行った」
「雪野は」
「よい子は、夜には出歩かないの」
不意な突風が窓を揺らす。
私は思わず身構え、沙紀ちゃんのタオルケットに潜り込んだ。
外は多分、お化けで一杯だろう。
刻々と過ぎていく時間。
しかし連絡はない。
サトミだけでなく、他の子からも。
「ネットワーク障害かな」
ぽつりと漏らすケイ。
連絡はこちらからもとれず、「現在不通」とだけ端末の画面に表示される。
「上は山奥だし、そういう事もある」
素っ気ない口調。
ただ表情は、多少厳しさを帯びている。
「浦田君」
「ちょっと見てきます。一本道だし、平気ですよ」
「私も行きたいけど、ここを留守にするのも」
「池上さんは残って下さい」
彼女の膝元で眠る、舞地さんと沙紀ちゃんにモトちゃん。
ケイは警棒とサーチライトを腰に提げ、棚を漁った。
「端末以外の、通信装置は……。木之本君に聞けばよかったな」
「どうした」
ワインのボトルを担いで、リビングにやってくる瞬さん。
その目が細められ、お茶のペットボトルに手が伸びる。
「よく分からんが、俺も行こう」
「酔ってません?」
「これは、水槽代わりにしようと思っただけだ。古いけど、これが端末代わりになる」
自分のバッグから、端末に似た装置を二つ置く瞬さん。
私達はその間に、経緯を簡単に説明した。
「迷子捜しか。すぐそこだし、問題ないだろ」
「そうなんですけどね」
不安げに呟き、ため息を付く。
何かがあっても十分に対応出来る人達だけど、連絡が取れないのは辛い。
「珪君、準備は」
「大丈夫です」
「じゃあ行ってくるから、後は頼む。何かあったら、すぐに知らせてくれ。俺も、こまめに連絡を入れるから」
玄関へ向かう二人。
それを見送る池上さん。
床から聞こえる、健やかな寝息。
「……私も行きます」
一斉に集まる視線。
真夜中。
誰もいない山道。
そこを登っていく事が、私にとってどれだけの意味を持つのか。
だけど、ここでじっとしている訳にも行かない。
「雪ちゃん」
宙を舞うキャップ。
サトミのではなく、舞地さんの。
私はそれを浅く被り、池上さんへ頷いた。
ここを離れられない彼女の気持ちをも受け取って。
「すぐ戻るから、夜食でも用意しておいて」
「分かった。……気を付けるのよ」
「ありがとう」
もう一度頷き、ドアを開ける。
街灯の外は、本当の暗闇。
都会の夜とは違う、明るさのない世界。
でもサトミは、この向こうにいる。
だとしたら、迷う理由はない。
私の下らない恐怖心など、何の意味もない。
突然の、鳥の鳴き声。
叫び声を堪え、腕にしがみつく。
「わっ」
誰かと思ったら、ケイだった。
それが余程痛かったらしく、瞬さんの腕を指差した。
「い、いいじゃない。お、女の子と腕を組んでるのよ」
「そういうレベルじゃない。しかし、気味が悪いな」
サーチライトで照らされる、わずかな行く手。
雑草がちらほら生える土の道路。
左右に茂る、高い木立。
時折風で葉が揺れて、寂しげな音色を響かせる。
木々のせいで星明かりは届かず、周りは完全な闇。
だからその向こうが実際はどうなっているのか、見当も付かない。
「……はい。……いや、今の所は」
会話を始める瞬さん。
それに驚き、ケイの顔をしかめさせる。
だって瞬さんにしがみついていたら、いざというとき彼の行動を妨げるから。
ちなみにケイの行動を妨げるのは、この際気にしない。
私は手を離せば、すぐに逃げられるし。
「連絡はないって。雷雲で、ネットワークが調子悪いのかな」
星明かりが見えないのは、そのせいもあるだろう。
こうなると、理由はどうでもいいんだけど。
「祠って、もうすぐだよね」
「え、ええ。森が開けて、そこに行けば少しは明るくなると思います」
希望も込めて、そう告げる。
少なくとも木々が切れる分、圧迫感はなくなる。
「お地蔵様は、こんな所にいる訳か。一年中」
しみじみ呟くケイ。
暗闇と冷たい夜風。
昼間は強い日射しが照りつけ、冬ともなれば雪も降る。
雨を防ぐひさしは頼りなく、訪れる人が日にどれだけいるだろうか。
確かに、寂しい話ではある。
私なら、一日だって耐えられない。
勿論、代わりに私が祠に収まる理由は何一つないけれど。
不意に切れる森。
とはいえ以前として、周囲は暗闇。
先程よりも風が強くなり、少し暖かくなったくらい。
「確か、この辺りだったはずですけど」
足元にライトの明かりを当てつつ、先を進む。
微かに聞こえる虫の音。
秋が、一足先に訪れているようだ。
「……いるな」
足を止める瞬さん。
左へ向けられるサーチライト。
ふと浮かぶ、数名の人影。
距離はかなりあり、私は音も気配も感じなかった。
「さすが。元軍人は違いますね」
軽くからかうケイ。
瞬さんは肩をすくめ、通信装置を取り出した。
「……今、見つけた。……ああ、全員いる。……分かった」
「父さん?」
暗闇の中を、こちらへと歩いてくるショウ。
彼の明かりを頼りに、後を付いてくる他の子達。
サトミの姿も見える。
「大丈夫?」
私が駆け寄ると、サトミは苦笑して頷いた。
掛ける言葉としては違っているかも知れないけど、心境としてはこれ以外に見つからなかった。
「連絡しようとしても、端末が使えなくて。ごめんなさい」
「それはいいんだけど。サトミの端末は?」
「駄目。他の所で落としたのかも知れない」
気落ちした表情。
わざわざみんなで探してもらって、それでも見つからない。
さらに、こうして余計な心配まで掛けている。
端末を見つからない事よりも、きっとそれに対しての表情。
「お地蔵様に、お祈りした?」
「え?」
何を言ってるのかという顔。
私は彼女の手を引いて、祠の前で腰を屈めた。
えーと、友達の端末がないのでお願いします。
「ほら、サトミも」
「え、ええ」
薄闇の中で顔を赤らめ、それでも私の隣で手を合わせた。
「そういう問題か?」
疑わしそうな顔をするショウ。
分かってないので、彼の手も引いて腰を屈ませる。
「ほら」
私の迫力に押されたのか、他の子も腰を屈めて手を合わせた。
暗闇の中。
サーチライトに照らされて。
小さな祠の、お地蔵様の前で。
「不気味な集会だな」
人が気にしてる事を指摘された。
それでも構わず、もう一度手を合わせる。
別にケイを呪うんじゃなくて、当然端末が見つかるようにと。
「モト達は?」
「コテージに残ってる。その方がいいと思って」
「そうね。とにかくもう見つからないから、帰りましょうか」
あっさりとそんな事を言うサトミ。
私の気持ち。
みんなの気持ちも分かった上で。
自分の事よりも、みんなの事を考えて。
「泣くかと思ったぜ」
「え?」
「なんでもない。そっちの、崖の方は探したのか」
サーチライトを、正面へ向ける瞬さん。
道は右へ曲がっていて、その先は崖になっている。
とはいっても傾斜は緩く、無理をすれば降りられない事もない。
明るくて、道具が揃っているならば。
「四葉」
「道具がないし、危ないだろ」
「駄目な奴だな。普段鍛えてるのは、何のためだ」
訳の分からない事を言ったと思ったら、ポケットから小さな箱を取り出した。
私がたまに使う、例のワイヤーの装置。
ただ、それよりも大きい感じ。
「聡美ちゃん。こっちには、来たのかな」
「え、ええ。でも、必ずあるという訳ではないですし。第一危ないですよ」
「問題ない。四葉、フックしろ」
「え、ああ」
太めの木に、ワイヤーを巻き付けて先端をフックする四葉。
瞬さんはワイヤーを軽く引っ張り、小さく頷いた。
「じゃ、行ってくる」
「え、でも」
木の柵を乗り越え、姿を消す瞬さん。
全員でサーチライトを向けるが、彼の姿はどこにも見えない。
ワイヤーの張りで、どうにか無事なのを確認出来るくらいで。
待つ事数分。
横へ揺れるワイヤー。
聞こえる足音と声。
「あったぞ」
宙を舞う端末。
それを受け止め損なうサトミ。
再び崖へ落ちかけた端末を掴み、彼女の胸元に添える。
「よく見つかったな」
「斥候の真似事もやった事はある」
柵を乗り越え、髪を払う瞬さん。
落ち葉が辺りに散り、木の枝が襟から出てくる。
頬は、少し傷付いているようだ。
「済みません。私なんかのために」
頭を下げるサトミ。
瞬さんは明るく微笑み、その肩にそっと触れた。
「大人も、少しは役に立つだろ」
「ええ。とても」
はにかんだ、子供っぽい笑顔。
信頼した大人へ向けられる。
「さて、帰るとするか」
「はい」
みんなで返事して、瞬さんの後に付いていく。
暗闇の中で揺れる、頼り甲斐のある背中を追って。
翌日。
朝ご飯の片付けを終え、リビングで寝転んでいるとサトミがやってきた。
何か言われるかと思って姿勢を正したら、私を通り過ぎて微笑んだ。
部屋の隅で、ワインのボトルを眺める瞬さんへと。
「聡美ちゃんも見たい?」
ボトルの中で泳ぐ、小さな魚。
何が楽しいのか、朝からずっと眺めてる。
「それも良いんですけど。RASから届いた資料は、ご覧になりました?」
「見たよ」
すぐに返される言葉。
サトミは笑顔を深くして、抱えていた封筒をテーブルへ置いた。
封すら切ってない物を。
「中をご覧になったかと伺ってるんですが」
「さあ。俺も、色々と忙しくて」
「例えば?」
「魚を釣ったり、クワガタを捕まえたり、泳いだり」
喜々として語る瞬さん。
大人、らしい。
「それもよろしいんですけれど。こちらを片付けてからにして下さい」
「任せるよ」
「私はRASの人間でも、玲阿家の人間でもありませんから」
「固いな、聡美ちゃん。適当、適当。難しく考えると、老けるのも早いよ」
明るく笑い飛ばして、ボトルをつつく。
魚がそれに反応して、少し動く。
それが面白くて、またつつく。
魚も動く。
その繰り返し。
「……分かりましたから、お願いします」
地鳴りのような。
地面の裂け目から沸き上がる声。
辺りの温度が、明らかに数度下がった。
それは勿論、エアコンのせいではなく。
目の前で可愛らしく微笑む少女のために。
「え、えと。これを読めばいいのかな」
慌てて封を開ける瞬さん。
中からは、書類とDDが出てくる。
「収支報告、人事案、東京支部の補修……。たくさんあるな」
「目を通すというのは、内容を理解するという意味ですからね」
しっかりと釘を刺すサトミ。
瞬さんは書類をめくっていた手を止めて、そのまま動かなくなった。
「午前中は涼しいですから、その間にお願いします」
「え、でも」
「出来ない分は、また明日にでも。お茶持ってきますね」
丁寧に。
丁寧過ぎる程に頭を下げて、キッチンへ消えるサトミ。
子供の宿題じゃないんだから。
「大変ですね」
ころころ笑い、ボトルをつつく。
瞬さんは恨めしそうに私を見て、深いため息を付いた。
「俺は、こういうのとは関係なく生きてきたんだよ」
「でもRASの幹部だから、やる必要があるんですよね」
「建前としては」
めくられる書類。
その上を、時折走るペン。
何を書いてるのかと思ったら、紙の下に絵を描いていた。
一枚ずつ、少しずつ変えて。
要はこれをめくれば、簡単なアニメが出来上がる。
「はは」
笑う大人。
だが途端に表情が引き締まり、書類を後ろの方までめくり出す。
「どうですか?」
アイスコーヒーを差し出すサトミ。
瞬さんは真顔で彼女を見上げ、深く頷いた。
大人の威厳を込めて。
「少し、見せて下さい」
唐突な申し出。
妙な緊張感が、辺りに漂い出す。
「そ、その。これはRASの内部資料だから。悪いけど、部外者の聡美ちゃんにはちょっと」
「先程と、話が違いますね」
「いや。俺も思い直してさ。やっぱり、自分でやらないとって」
「そうですか。でしたら拝見するのは結構ですから、書類をめくって下さい。下の方だけを、早く」
怖い笑顔。
私にとっては見慣れた。
「遊んでる暇は無いと思いますが」
「そうだね……」
「息子さんにも、示しが尽きませんよ」
「そうだね……」
頼りない返事と表情。
サトミはトレイを抱え、やはり頭を下げてキッチンへと消えた。
「大変ですね」
さっきと同じ事を言って、ころころ笑う。
自分が怒られないというのは、本当に気楽だな。
多分今の状況が、普段の私なんだろう。
そう思うと、あまり笑えないか。
「一度、がつっと怒ったらどうです。誰が端末を見つけたと思ってるんだって」
「同じ立場だったら、優ちゃんは言える?」
「言えますよ」
「その後、どうなる?」
答えようのない質問。
答える前から、答えが出ているとも言える。
「ショウを呼んできましょうか。あの子は玲阿家の人間だし、手伝ってもサトミは怒りませんよ」
「役に立つと思う?」
「それは勿論」
続かない言葉。
でも、いないよりはいた方がいいと思う。
二人になれば、怒りも二分されるし。
「とにかく、呼んできますね」
「頼む」
消え入りそうな声と、落ち込んだ表情。
昨日の颯爽とした雰囲気は、微塵も感じられない。
それはそれで、私はいいと思ってるけど。
大変な人もいれば、気楽な人もいる。
例えば、私とか。
水着に着替え、近くの川にやってくる。
向こうに付き合ってもいいけど、私も玲阿家の人間ではないので。
そう心の中で言い訳をして、パーカーの上に石を置く。
さすがにこれがないと、帰りが間抜け過ぎる。
いくら人がいないとはいえ、水着だけでうろうろする物でもないし。
そのくらいの分別はある。
大人になりかけている今は、特に。
体型じゃなくて、精神的にね……。
「溺れるわよ」
くすくす笑う池上さん。
緑のビキニで、優雅に泳ぎながら。
長い髪が後ろでたなびき、さながら絵本に出てくる人魚のよう。
彼女がいるのは、堰を越えた深い部分。
だから、そういう事を言ってくる訳だ。
「足くらい付くわよ」
浮力があるので、つま先立ちでも辛くはない。
それ程は。
どちらにしろ、かろうじて首が出ているくらいだけど。
「でも、上手いね」
「カッパといえば緑だもの」
訳の分からない答え。
何にしろ、サトミの何百倍も様になっている。
「舞地さんは泳がないの」
「もう疲れた」
堰の上にシートを引き、ぺたりとしゃがみ込んでいる舞地さん。
水着は紺のワンピースで、胸元から腰にかけて斜めに白いラインが入っている。
デザインとしては大人しめだけど、スタイルがいいから似合ってはいる。
「魚を追いかけて、下流の方まで行ったのよ」
「ふーん。ケイみたいだね。あの子も、そんな事やったから」
「人生最大の失敗だな」
真顔で、でもおかしそうに呟く舞地さん。
私は足を動かし、堰へと近付いた。
つまりは、舞地さんの方へと。
「小さい割には、よく動く」
「自分だって、小さい癖に。というか小さいから、動くんでしょ。流されないように」
「それは分かる」
しみじみ納得する私達。
取りあえず水から上がり、途端に押し寄せる重力を感じつつ彼女の横に座る。
確かに、一旦上がると疲れが押し寄せてくる。
勿論それに気付かずに泳ぎ続けていると、危ない事になる。
この中に、そういう人はいないだろうけど。
「舞地さん達だけ?」
「あっち」
やはり堰に上がり、川の向こう側を指差す池上さん。
山の斜面となっている対岸。
その上から飛び降りる、引き締まった体型の男性。
続いて大きくはないけど、やはり引き締まった体型の男の子が飛び降りる。
「さっきから、ずっとああよ。子供っていうのは、理解不能ね」
鼻で笑い、ふくよかな胸を反らす大人の女性。
私がやったら、つったのかと思われるだけだ。
「池上さんもやったら」
「いや。痛いし怖いし、何も面白くない」
「そうかな」
「そうよ。雪ちゃんは子供だから、ああいうのが楽しく見えるかもしれないけど」
ちくちくとした嫌み。
そんな彼女の前で水に飛び込み、水飛沫を掛ける。
後は知らない。
すいすいと、対岸へ泳いでいけばいいだけだから。
やや川縁にせり出している岩場。
スペース的には、人が一人立てるくらい。
周りは岩と、背の低いわずかな木々。
高さとしては、二階よりは下だと思う。
多分。
「大丈夫か」
笑いながら下を覗き込む名雲さん。
そう言われると、少し考えたくもなる。
「大丈夫だよ」
気楽に笑う柳君。
どっちなんだ。
「下って、深いんでしょ」
「俺でも足は付かない」
「だったら、いいや」
そう言って、とことこっと岩の上を走り出す。
そして特に躊躇もせず、足を踏みきる。
軽い浮遊感から、一転しての落下。
体を前に倒し、手を頬に寄せて真っ直ぐ伸ばす。
後は足を揃え、姿勢を正す。
見えるのは岩と緑。
でもそれはすぐに消え、綺麗なきらめきが目の前に広がっていく。
鈍い衝撃。
同時に再び浮遊感が生まれ、川底が目の前に見えてくる。
藻をつつく小魚、小さなエビ。
一掻きして川底の石に手を触れ、体を反転させる。
日射しが水の中まで差し込み、光のカーテンのようにたなびいて見える。
その中を漂い、光の散華を体に受ける。
でも、それはつかの間。
口を開き、幾つもの泡を立ち上らせる。
私もすぐに、その後を追う。
眩いばかりにきらめく水面へ向かって。
水の上に顔を出し、首を振って息を付く。
水中よりも強い日射し。
普段ならそうは思わなかったけど、その柔らかな光を受けた後だから余計に。
後は岩場に辿り着き、体を休めるだけだ。
「浮いてこないから、流されたかと思ったぜ」
「カッパ並だね」
気遣ってるのか誉めてるのか、いまいち信用出来ない言葉。
突き落としてやろうかと思ったけど、疲れたので止めた。
今は、対岸まで泳ぐ気力もない。
「玲阿は」
「親子共々、頑張ってる」
「何だ、それ」
「殴り合ってるんじゃないの」
首を傾げ合う二人。
私は構わず、岩場に足を放り出して景色を眺める。
対岸にいる舞地さん達に手を振りながら。
不思議に澄んだ気持で。




