19-2
19-2
木立を吹き抜ける冷たい風。
強い日射し。
でもそれは爽やかで、心地いい。
どこからか聞こえるヒグラシの鳴き声が、より涼しさを感じさせる。
私がいるのは、旧長野の中央部。
信州地区の木曽地域。
少し足を伸ばせば駒ヶ岳や剣ヶ峰。
高原という程ではないけど、名古屋とは気温も空気も全然違う。
周りはどこを見渡しても、背の高い木々。
車も人も何もない。
気持が洗われていくとでも言うのだろうか。
心が落ち着き、静まっていく。
とはいえたまに来るからいいんであって、生活するなら都会がいい。
というか、都会にしか住めない気がする。
「誰もいない」
「管理人さんは、後から来るって」
段ボールを二つ乗せて運んでいくショウ。
私はそんな芸当をしたら転ぶのがオチなので、小さめのバッグを両手に持つ。
これでも結構、無理してるのよ。
荷物を全部運び込み、取りあえずリビングに横たわる。
疲れてるとか、だるいという訳ではない。
こうしたいんだ。
背中に適度な感触。
足が乗っているとも言う。
「ちょっと」
「あ、ごめんなさい。見えなかったわ」
しっかり人を踏み越えていくサトミ。
仕方ないので仰向けになり、下から見上げる。
ちっ、見えないな。
「よっと」
足を振り上げて体を起こし、広いリビングをうろうろする。
みんなは何をやってるのか知らないけど、荷物を抱えてうろうろしている。
「お茶ちょうだい」
「自分でやりなさい」
目の前に置かれるティーバッグ。
何よ、もう。
「水、水」
「うるさい女だな。外に湧き水があるから」
邪険に手を振ってくるケイ。
湧き水ね。
車道に面した、緩い山の斜面。
下草の間に筒が通っていて、先の方から綺麗な水が湧き出ている。
それを受け止める木桶が下にあり、ひしゃくやグラスも並んでいる。
「あ、美味しい」
手で受け止めた水を少し口に含み、その冷たさにも満足する。
もう一口。
「……もういいや」
「おい」
「汲むのは汲むの」
ケイを促し、大きめのペットボトルに水を入れさせる。
これも、都会ではとても出来ない事。
川は近くに流れてるけど、そのまま飲んだら確実にお腹を壊す。
「結構重いな」
ペットボトルを、8本リュックに入れるケイ。
一本が3Lなので、大体24kg。
単純に言うと、私の半分以上。
そういう例えをする物でもないか。
「毎日汲もうね」
「何時代なんだ。大体ここの水道水だって、水源は綺麗だろ」
「天然水には敵わない」
緩い坂道を、軽快に登っていく。
視界に広がる緑。
その先に見えるのは澄んだ青空。
目の前を、見た事もない綺麗な蝶が飛んでいく。
夏の山。
心地よい風に吹かれ、涼を楽しむ。
背中から聞こえる恨み節と共に……。
穏やかに波立つ水面。
底の石まで見える、綺麗な水。
遠くの岩では水飛沫が上がり、空を行く水鳥の影を落としている。
私達がいるのは、大きな川のほとり。
自然に出来た堰の内側で、流れは緩く水深も腰程度。
あくまでも私の腰ね。
「はは」
浮き輪を腰にはめ、ぷかぷかと水の上を漂う。
泳げるけれど、こういうのがまた楽しい。
ぼんやりと空を眺め、何も考えず水の流れに身を任せる。
幸せとは、多分こういう時を言うんだろう。
「わっ」
川の方から聞こえる叫び声。
堰の外側はそれなりに流れがあり、水深はかろうじて足が着くくらい。
ただ下流には水難防止用のネットがあるから、それ程心配はない。
水の中に落ちたのはショウ。
ケイが後ろから突き飛ばしたらしい。
何をじゃれてるんだか。
「楽しそうね」
浮き輪にしがみついてくる沙紀ちゃん。
その重みで、私も少し沈み込む。
赤いビキニの胸の重みで、精神的にも。
「泳がないの?」
「ちょっとね」
ため息を付き、後ろへ体を傾ける。
そのまま反転して、水の中へ。
逆立ちの体勢で浮き輪を抜け、腕を大きく横へ掻き出す。
後はもう一度体を逸らし、きらめく水面へと飛び出していく。
「冷たいんですけど」
「いいじゃない」
沙紀ちゃんへ浮き輪を被せ、横へ流れて後ろへ回る。
長い髪がしっとり濡れ、綺麗な背中が目の前に現れる。
このまま、海まで流してやろうかな。
「どうかした?」
「別に。ちょっと疲れたなって」
「はいはい」
私の腕を腰に回す沙紀ちゃん。
彼女の足が水を掻き、私の体は水の中を流れていく。
足へ触れる水の抵抗が、なんとも気持ちいい。
「はい、到着」
「ありがとう」
沙紀ちゃんの前に回り込んで、堰の上へと這い上がる。
途端に重力と、冷えた体の感覚が伝わってくる。
「じゃあね」
浮き輪をはめたまま、すいすいと泳いでいく沙紀ちゃん。
見た目が綺麗なだけに、妙に間抜けだな。
「あの野郎」
勢いよく自ら上がってくるショウ。
鍛え抜かれた体と、濡れた髪から滴る水。
日射しがそれを輝かせ、辺りにきらめきを散らす。
「いいじゃない。死ぬ訳でもないんだし」
「だったら、ユウもやってやろうか」
「死にたいの」
引き締まったお腹に軽く裏拳をぶつけ、堰の上で正座する。
ショウはあぐらをかいて、後ろで手を付いた。
「冷たいし浮かないから、海より疲れるな」
「涼しくていいじゃない」
「確かに」
少し笑うショウ。
空を舞う水鳥。
微かに聞こえる川のせせらぎ。
ゆっくりと、静かに流れる時。
「うわっ」
目の前に現れる、前髪を被った女性。
その手が私の足を掴み、水の中へと引き込もうとする。
「わーっ」
拳を構え、その顔目がけて叩き込む。
寸前で止まった。
ショウが手をかざしたのと、私が思い留まって。
「あ、あなた。人を殺す気?」
息も絶え絶えに、水の上へ這い上がってくるサトミ。
余程苦しいのか、仰向けになって顔に腕をかざした。
長い足が目の前に並び、ふくよかな胸元が上下する。
「わっ」
ショウを突き飛ばし、水の中へと放り込む。
文句を言ってるけど、気にしない。
子供には、目の毒だ。
「何してるのよ」
「お、泳いでただけ」
喘ぐように呟くサトミ。
彼女が泳いでたのは、川ではなくて堰の内側。
浅いし、流れも殆ど無い。
それでも、この様か。
鈍いのと泳げないのは、関係あるのかな。
「浮き輪あるじゃない」
「あ、あんなのに頼るなんて邪道よ。こ、子供じゃないんだから」
こんな所で溺れる方が子供だ。
大人なのは、見た目だけだな。
私とは逆で。
「だったら、川で泳げば」
「海まで行ったらどうするの」
真顔で呟くサトミ。
中等部からずっと、学年トップの才女。
三日も経てば、着くだろうね。
「さてと、私も泳ごうかな」
「知らないわよ、海まで行っても」
まだ言ってる。
さすがに冷たいので、飛び込みはせず足から入る。
頭の上の方が痺れるような感覚。
一瞬足を引き、気持を整えてもう一度足を入れる。
意を決して腰まで浸かり、堰の縁から手を離す。
一度頭まで水に浸かり、水面に上がって首を振る。
結構早い川の流れ。
ただそれは体感的にであって、実際は上流へ泳いでいけるくらい。
左手は堰と岸辺。
右手は山。
緑が緩やかに流れていく。
すでにサトミ達は見えなくて、景色を一人占めしている気分。
という訳もなく、目の前に黒い頭が浮かんできた。
「何してるの」
ケイはこちらを振り向き、息を整えて水面を指差した。
「水苔に滑って水に沈んだら、小さい虫がいて。それを追っていったら、小魚がいて。それを追っていったら、もっと大きい魚がいて。もっと追ったら、上に水鳥がいた」
わらしべ長者か。
でも、魚は見てみたい。
「鳥なんていた?」
「大分前の事。今は、魚を探してる」
「探してどうするの」
「捕まえるに決まってるだろ」
聞くまでもないという顔。
「可哀想じゃない」
「いいよ、食べるのは俺だから」
「誰も、捕まえるなとは言ってないでしょ」
ゴーグルを借り、水面に顔を浸ける。
水は綺麗で、底の石までよく見える。
小さい、指の先程の魚は確かに泳いでいる。
ただ彼も、それを捕る気では無いだろう。
「いないよ」
「石の下にいるから、そう簡単には見つからない」
「タモも何も無いじゃない」
「その前に、息が続かない」
それはそうだ。
私も、この流れの中ではちょっときつい。
泳ぎ疲れた今は、もっと限界は早いだろう。
「諦めたら」
「魚に屈しろと」
大袈裟で、馬鹿げた発言。
どうも、こういう下らない事で向きになる傾向があるな。
「道具もない、水の中にも入ってられない。どんどん疲れてくる。何があるの」
「やる気はある。いつもよりは」
生気を感じさせる表情。
いいか、本人がその気なら。
「あ、そこ」
突然、私の目の前を指差すケイ。
水中を走る、黒い影。
咄嗟に反応して、水の中で拳を振るう。
ぬめりやサイズからいって、掴むのはおそらく無理。
屈折率の関係で、位置も不正確。
だとしたら、当てるしかない。
外れる拳。
そのまま逆手にして、腕を横に薙ぐ。
微かな感触。
水面へ逃れようとする影。
今度は手の平を上に向け、影と一緒に腕を上げる。
しなやかな曲線を、青空に映す魚。
日射しが鱗を照らし。
水飛沫が辺りに散る。
魚は太陽と重なり、きらめきとともにそのシルエットを浮かび上がらせる。
でも、全ては一瞬。
魚は水に落ち、波紋だけを残してどこかへと泳ぎ去った。
肩をすくめ笑うケイ。
私は何も掴まなかった手を太陽にかざし、薄く微笑んだ。
限りない満足と。
魚への、敬意を込めて。
泳げば疲れる。
お腹も空く。
川原にシートを引き、街で買った食事を広げる。
ケイはビニール袋にご飯粒を入れ、一人で笑っている。
きっと、魚を捕まえる罠だろう。
さっきの感慨はともかくとして、まだ諦めてないらしい。
多分水も大分飲んだせいか、喉はそれ程渇いていない。
その前に、結構飲んだしね。
それでも水に浸けていたブドウを引き上げ、一粒ずつ味わっていく。
この冷たさと、外で食べる開放感。
普段より美味しく感じられる。
お腹が一杯になってだるくなったのか、みんな川原を動こうとはしない。
元気なのはケイくらいで、一人水の中へ入っていった。
いつも、あのくらいやる気を出せばいいのに。
こういう、無意味な事にじゃなくて。
「何を張り切ってるのかしら」
「魚には負けたくないんだって」
「魚くらいには、じゃなくて」
仕方なさそうに笑い、キャップを深く被るサトミ。
暑さはないが、日射しは強い。
日焼け止めは塗ってあるけど、そのくらいはした方がいいかもしれない。
彼女の隣り。
俯き加減で、ぼそぼそとおにぎりをかじる男の子。
さっきからずっとこんな調子で、口も開かない。
顔色はいいし、ぼそぼそ食べているおにぎりも2つ目。
体調は悪くないようだけど。
「来たっ」
突然立ち上がり、勢いよく駆け出した。
行動も何もかも、尋常じゃない。
「何、あれ」
「あっ」
少し遅れて、水辺に佇んでいたケイも声を上げる。
彼と同じ顔をした男の子を睨みながら。
「やった」
両手を上げ、空に向かって叫ぶヒカル。
兄弟して、何をやってるんだか。
「どうせ、競争でもしてたんでしょ」
「ああ、それで」
だから、あんな熱心だったのか。
子供というか、楽しそうというか。
ヒカルはまだ叫んでいて、ケイはその足元に崩れている。
本当に、馬鹿兄弟だな。
「普通に釣ればいいんじゃないのか」
「それだと、面白くないでしょ」
怪訝そうにするショウにおにぎりとビニール袋を渡し、川辺を指差す。
「俺の話、聞いてた?」
「聞いてない。いいから、大物を捕まえてきて」
「なんで」
「男でしょ。ほら、早く」
無茶苦茶な理由でショウを追い立て、残っていたおにぎりにも片を付ける。
男は漁に出て、女は家を守る。
家といっても、シート一枚だけどさ。
「魚を捕まえて、どうする気なの」
「食べる」
「冗談でしょ」
「生きていくためには仕方ないのよ」
適当な事を言って、私も川辺へと向かう。
「カニは、カニ」
「日本海へ行ってくれ」
陰気に返してくるケイ。
脇腹の傷は殆ど消え、赤い糸みたいになっている。
「治ってるね」
「1年近く経てば、さすがに治る。それより、河童はどこにいるのかな」
ひっくり返される石。
そんな所にはいないし、大体、カッパって。
取りあえず水辺から距離を置き、腰を落として歩く。
奴は相撲が得意らしいからな。
こっちも、それに対応する構えをしないと。
「何してるの」
小さなバケツを覗き込んでいたヒカルが話し掛けて来る。
カッパとやり合うつもりだったとは言えず、手を振って私もバケツを覗き込む。
黒い斑点と、エラから尾に掛けての赤い色。
顎はしゃくれ気味で、野性的な印象を与えている。
「ニジマス?イワナはいないの?」
「もっと上流に行かないと。それにあれは警戒心が強いから、こういう捕まえ方では無理だと思う」
知識はすらすらと出てくる。
やってる事は、ともかくとして。
「バター焼きかな」
「え」
不思議そうに見つめてくるヒカル。
胸の中に沸き上がる罪悪感。
自分が何を考えていて、どんな人間を思い知らされる。
「じゃあ、塩焼きでいい」
今さら人間性も性格も変えられない。
結局、食べない訳にはいかないんだし。
このニジマスを食べる必要もないんだけどね。
「活き作りにしてやれ」
まだいたのか。
「自分が活き作りになったのに、よく平気でそんな事言うわね」
「俺の苦しみを、より大勢の人に味わってもらいたい」
魚だよ、魚。
根本的に、理解不能だな。
「大体、どうやって捕ったの」
「ただ追いかけるなんて、獣のする事だよ」
不敵に笑うヒカル。
勿論、ケイを見ながら。
「魚の移動するルートを見つけて、その行く手にご飯粒を入れたビニール袋を仕掛けて。気長に待つ」
「追い込んだりしないの」
「ルートを返る可能性があるし、魚と競争して勝てる訳がない。後はビニールに入った時逃げなられないように、口の部分へ草を格子状に組めばいいんだよ」
「俺だって、そのくらいの事は分かってる」
でも、技術が付いていかないからな。
とにかく私は、カニを見つけよう。
「カニは、カニ」
「まだ言ってるのか。その辺の石をひっくり返したら」
「出てきたらどうするの」
「カッパが?」
真顔で尋ねて来るヒカル。
さすが双子、発想は同じだな。
「虫よ」
「ああ。ざざ虫ね」
「何、それ」
「川の、ざーざー音がする所にいる虫だから」
もしかして、この辺で佃煮とかにするあれか。
さすがに私も、あれを食べようとは思わない。
というか、そういう発想がない。
「何であんなの食べるの?」
「タンパク源さ。川魚や猪なんて量が捕れる訳じゃないし、流通が発達してない昔は魚なんて滅多に届かない」
「だからって」
「生きていくためには、見た目や味なんて大した意味はない」
冷静で、鋭い台詞。
彼の考え方を、そのまま現すような。
「じゃあ、ざざ虫食べる?」
「冗談だろ」
何だ、それ。
らしいと言えば、らしい答えだけど。
魚は無理っぽいので、3人で石をひっくり返す。
虫はいるけど、量としてはたかがしれたもの。
だからといって、気味の悪さに変わりはない。
いくらさっきの話に思う所があっても、これを食べるというのはやっぱり無理だ。
向こうは向こうで、こっちから願い下げだと思ってるだろうけど。
「カニ、いないね」
別にカニではなくてもいい。
だったら何だ、と聞かれると少し困る。
ただ、それが虫でないのは確かだろう。
「そういえば、ショウは」
「潜ってるんだよ」
神妙な顔で呟くヒカル。
潜ってるって、それこそカッパだ。
「魚を捕らせに行ったのに」
「じゃあ、魚屋だ」
聞かなかった事にしておこう。
本当にこの人、大学院生か?
「あそこにいる」
上流を指差すケイ。
重い足取り。
肩に下がった、長いツタ。
そこには、数匹の魚がぶら下がっている。
熊だね、どうでもいいけど。
「どうしたの、それ」
「捕ってこいって言うから」
荒い息。
怒ってる訳ではなく、疲れてるらしい。
「……ヤマメだね」
「すごいの?」
「イワナ程上流じゃないけど、渓流に棲んでる川魚」
ここは対岸まで、かなりの川幅。
川岸の岩で水飛沫は上がっているものの、渓流と呼ぶにはとても無理がある。
「水は冷たいし、下は滑るし」
へたり込むショウ。
一体、どうやって捕ったんだろう。
「何も、そこまで無理しなくても」
「それは男心って奴さ。なあ、玲阿君」
馬鹿笑いするケイ。
ショウは言い返す気力もないのか、気の抜けた顔で川を眺めている。
代わりに腰の辺りを蹴り飛ばし、水飛沫に顔をしかめる。
「ご苦労様」
「え、ああ」
頼りない返事。
私はくすっと笑い、幅の広い彼の肩を揉んだ。
固い、張りのある手応え。
伝わってくるのは、熱さではなく冷たい感覚。
彼がどんな場所で、どれだけ頑張っていたも伝わってくる。
私は胸の奥に湧き出た想いを込めて、手に力を込めた。
川縁から顔を出し、仕方なさそうに笑っているケイ。
その側で、こっそりニジマスを逃がしているヒカル。
暮れ始めた空の下。
ゆっくりと流れていく、夏の午後……。
食事を終え、後片付けを手早く済ます。
明日にする、とか。
後で、という事にはしない。
自堕落は言い過ぎだけど、そういう事をよしとする人間がいないので。
さんざん泳いだせいか、結構だるい。
ご飯を食べて、お風呂にも入って。
後は寝るだけだ。
「肝試し?」
聞きたくないし、興味もない。
リビングから離れ、キッチンの手前で丸くなる。
この場を完全に離れたら、一人肝試しになるから。
途切れ途切れに聞こえる会話。
別にお墓へ行く訳ではなく、少し山の上に行くらしい。
どっちにしろ、正気の沙汰じゃない。
「ユウは……。聞くまでもないわね」
除外してくれるサトミ。
選ばれても、行かないけどさ。
「サトミはどうするの」
「そんなのが楽しいのは、子供の内だけよ」
醒めた発言。
はしゃぐ男の子達を、横目で見ながらの。
「沙紀ちゃんは」
「行こうかな。お化けが出る訳でもないんだし」
当たり前だ。
上で出るなら、ここでも出る。
閑散とするリビング。
サトミはソファーに横たわり、海外ニュースに見入っている。
私は持ってきた宿題に集中。
してるつもり。
というか、したい。
「出ないよね」
「お化けが?」
鼻で笑われた。
正常な反応だとは思う。
面白くもないが。
「私は、本気で言ってるの」
「動物学を、根底から覆す発見ね」
「私達は、その現場に居合わせた第一発見者になるかもしれないじゃない」
返事も返ってこない。
間抜けなお化けの被り物をした子供が、TVの向こうではしゃいでいるだけで。
「ちょっと」
「何」
「お化けが」
「いないっていってるでしょっ」
お化け以上に、怖いのが出た。
取りあえずクッションを頭に被り、この場をやり過ごす。
頭隠してなんとやらだね。
「怖い怖い」
「あのね」
「じゃあ、怒らないで」
「怒らせるような事を言わないで」
やるせないため息。
私はクッションを戻し、床の上へ大の字に寝転んだ。
「どうして私は、ここに来たんだろう」
「大袈裟ね」
笑うサトミ。
私は笑い事ではないので、体を起こしてセキュリティを最高レベルに引き上げる。
これでお化けは入ってこない。
彼等が、玄関からやってくるのなら。
「みんな、遅いね」
欠伸をして、天気予報へTVを切り替える。
明日も晴れ、明後日も晴れ。
ただしここは山なので、不意な夕立くらいはあるだろう。
「本当、何やってるのかしら」
彼等が向かったのは、少し上にある祠。
別に何が出る訳でもなく、果物と花を供えにいった意味もある。
歩いて10分程度で、多少上にいたとしても1時間もすれば戻ってくると思っていた。
しかし。
待てど暮らせど、戻ってこない。
私達を脅かそうとして、からかっているはずもないだろうし。
「何か、あったのかな」
「もしそうなら、端末に……」
言葉を切るサトミ。
テーブルに置かれた、幾つもの端末。
外に出掛けた4人分置いてある。
近いから、持っていかなかったんだろう。
「探しに行く?」
少し不安げに尋ねるサトミ。
それは彼等を気遣う気持と。
私が大丈夫かという意味が含まれている。
「嫌だけど。仕方ないね」
「サーチライトと、警棒もあった方がいいのかしら」
用意をし出すサトミ。
私もバッグからスティックを取り出し、肩に担ぐ。
お化け相手に通用するかは分からないけど、恐怖心を和らげてはくれる。
簡単に身支度を整えて玄関へ歩いていく。
その途端、ドアを叩く音がした。
「嘘っ」
何が嘘かは自分でも分からないまま、スティックを伸ばしてドアの死角に入る。
お化け。
それとも、見知らぬ誰か。
こんな夜更けに、こんな場所へ。
「サトミ、後ろに」
「ええ。スタンガンは?」
「作動する」
グリップ部分を調整し、パワーを最大限にする。
グローブも着けた方がよかったかな。
「こ、声がしない?」
「さあ」
はかばかしくない返事。
彼女はケイが持ってきた、例のライターを構えている。
「私が開けるから、何かあったらそれで」
「あなたも燃えるわよ。大体、お化けだったらどうするの」
「いないわよ、そんなの」
頭の中で消えかけていた考えを、もう一度打ち消す。
「ちょっと」
動かない私の背中を押すサトミ。
お化けじゃなくて、鬼が出た。
「い、今行くから」
「よく考えれば、カメラの映像を見ればいいんじゃなくて」
それもそうか。
私はスティックを構え、後ろで端末を取り出すサトミの様子を窺った。
「どう?」
「知らない」
「何が」
そう答えた途端、ドアが開く。
咄嗟に身構え、腰をためる。
しかし入ってきたのは、お化けでも不審者でもない。
険しい目つきをした若い男女。
私の友達のようにも見える。
「な、何してるの」
「セキュリティが、最高レベルになってたのよ」
後ろから小声で補足するサトミ。
私はスティックを畳んで、シャツの背中へ放り込んだ。
「キーは使えないし、開かないし」
「そういう事もあるわよ」
ペタペタと全員の肩を叩き、自分の手を見つめる。
少し冷たい。
「外って、そんなに寒いの?」
「上は寒かった」
天井を指差すショウ。
つまりは、山の上という意味だろう。
「よく行ったね、こんな夜中に」
「祠って、何かあったかしら」
「お地蔵様がいたわよ」
手を合わせる沙紀ちゃん。
そういえば、ちんまりと祠の中に収まってたっけ。
「あんな所に一人で、よくいるよ」
ケイはしみじみと呟き、遠い目で窓の外を見つめた。
どうしてこう、人間以外に情を移すのかな。
「気になるなら、一緒に寝たら」
「考えておく」
冗談か、本気か。
そう答えるケイ。
話を振ったサトミは、肩をすくめて二階への階段を登っていった。
さすがに、付いていけなくなったらしい。
「さてと、私も寝よっと」
セキュリティをもう一度最高レベルへ設定して、キッチンの明かりも落とす。
起きていたい人は起きて、寝たい人は寝る。
明日の事を考えれば、そうそう夜更かししてもね。
朝日が眩しい。
眠さも抜けきらない。
「起きなさい」
揺すられる肩。
重い体に力を入れ、どうにかベッドから下りる。
「床に寝てどうするの」
「だるい」
「夜中までお酒を飲んでれば、誰だってだるいわよ」
容赦なく、体を引き起こしてくるサトミ。
取りあえずベッドサイドに座る。
座るだけ。
それ以外は、何もしない。
というか、出来ない。
「シーツ替えるから。どいて頂戴」
床に転がり、ぐたりとなる。
別に何かやる事がある訳で無し。
急ぎの用もない。
こうしてだらだらしてるのが、一番の幸せだ。
寝室を叩き出されたので、玄関先にしゃがみ込む。
朝食代わりのコーンフレークとミルク。
少しの果物を口に運び、欠伸を噛み殺す。
本当、何をやってるだか。
とはいえ問題は無く、一日こうしていてもいいくらい。
一日、森を見るだけで平気なら。
フレークの箱とグラスをキッチンへ戻し、玄関先へ戻ってくる。
涼しい風と、ヒグラシの鳴き声。
木漏れ日は優しくて、風は冷たくて。
身も心も安らいでいく。
「何してるの」
「何もしてない」
欠伸混じりに答え、膝を抱え直す。
沙紀ちゃんはくすっと笑い、私の隣りに座った。
身長も足の長さも違うので、座ってる段が違っているようにも見える。
「名古屋とは、全然違うわね」
「帰った後が怖い気もする」
「はは、なる程」
明るく笑う沙紀ちゃん。
今は髪を結んでなく、腰の辺りまで長い髪が伸びている。
これはこれで、よく似合う。
「ケイと、一緒にどこか行けばいいのに」
「優ちゃんは、玲阿君とどこかに行く?」
すぐに切り返された。
そう言われると、こちらも返しようがない。
行く行かないは、別にして。
「大体学校でやる事もあるし、そう遊んでられないの」
「大変だね」
「その代わり、手当が出るから。ここで売り込むと将来の就職や進学に有利って言うから、優ちゃんもやってみたら?」
「私は多くを望んでないの」
将来も、今の事も含めて。
望んでどうにかなるとも思えないし。
努力もしてないし。
別に体型の事ではなく、将来を。
「それに、企業へ就職しようとは思ってないし」
「プロにでもなるの?」
「まさか。取りあえず、RASのインストラクター希望」
実技は勿論、技術論やスポーツ生理学も勉強している。
強いだけでは意味が無く、理論だけでも通用しない。
後は指導力。
人望というより、人間性だろうか。
「テストもあるし、難しいんだけどね」
「知り合いでも駄目なの?玲阿君の家が、経営してるのに」
「無理を言えば雇ってくれるだろうけど」
「そうね」
何のために。
そして、どうやって。
自分の言ってる事が理想主義で、甘い考えだとしても。
それを譲る気はない。
こうして分かってくれる人がいれば、余計に。
「沙紀ちゃんこそ、プロじゃないの?」
「私は、そこまでの素質がないから。努力しても、今以上に強くなるとも思えないし」
彼女の実力は、ガーディアンとしては相当な物。
ただそれは、護身的な意味合いもある。
格闘技、ましてプロというレベルになったらどこまで通用するか。
また戦うという事に、意味を見いだせるかどうか。
肉体的な強さだけでは、勝ち残ってはいけない世界で。
「何かをやりたいって決めるのは、大学に行った後でもいいと思って」
「そうだね。私も、今はインストラクターがやりたいけど。大学に行ったら、違ってくるかもしれない」
「進学出来ればの話だけど」
「怖い事言わないで」
二人して笑い、幾つもの夢を語り合う。
大きな事ではなく。
あれがしたいとか、どこへ行きたいとか。
少しの不安と、限りない希望を。
同じ気持ちを抱く仲間と、同じ想いで。
川の中に足を付け、その抵抗を楽しむ。
何とも言えない冷たさも。
普段は感じなかったけれど、毎日がどれだけ忙しかったかに気付かされる。
朝から何かに追われ。
一つを片付けても、すぐ次にやる事が出来。
ひたすらに、それの繰り返し。
そんな事に気も止めず、ただ毎日を過ごしている。
いいのか悪いのかは、また別にして。
とにかく今は、この気持に浸っていよう。
穏やかに流れる時と共に。
なんて事を言っている間に、お昼になった。
さすがにこれでいいのかなと思わなくもないが、多分いいんだろう。
みんなも、似たり寄ったりだし。
冷やし中華をすすり、おにぎりをかじる。
山の中にいても、こういう物が食べられるのは助かる。
間違っても、ざざ虫をどうこうしようとは思わないけど。
お昼を過ぎても、やはり予定はない。
そういうのが耐えられない人も、世の中にはいるだろう。
とにかく予定が詰まって、何かをやっていなければ我慢出来ない人。
私はどちらでも構わないので、こういうのも構わない。
「あー」
太い樫の木に手を当てる。
少し回転を速めて。
固い木だけに、突っ張り甲斐はある。
突っ張る意味は、ともかくとして。
あるとすれば、いざという時の稽古かな。
少し、柔道の練習もしておこう。
「何やってるんだよ」
「秘密特訓」
「訳が分かんないな」
私と同じく、手の平を木に当てるショウ。
鈍い音がして、葉が数枚落ちてきた。
掌底だね。
「それは反則でしょ」
「は?」
「こっちの話。ちょっと、組んで」
戸惑う彼に構わず、脇に組み付き後ろで足を引っかける。
一瞬バランスを崩すショウ。
しかし力尽くで、それを耐える。
だったら。
「わっ」
脇に手を差し入れ、前のめりになっていた彼の体を呼び戻す。
一回転して、背中から落ちる巨体。
下は草と落ち葉が敷き詰められていて、クッションのような物。
力じゃないんだよ。
「まあまあかな」
「何がだ」
「こっちの話」
「人を投げ飛ばして、こっちの話ね」
嫌みを聞き流し、腰を落として樫の木に当たる。
あくまでもフォームチェックで、力は込めず。
「これを倒すのか?」
「あのね。熊でも無理よ」
「そうかな」
「止めなさいって」
すごい勢いで木に突っ込む前蹴りを横から受け流し、足首と膝を捉えて投げ飛ばす。
でも、相撲の稽古にはならないな。
「あのな」
「あなた、分かってないのよ」
「何が」
勿論説明出来る訳もなく、彼を飛び越え樫の木にしがみつく。
無意味で、馬鹿げた行為。
何の役にも立たない。
それでも、今にしか出来ない事。
今だからこそ、出来る事。
高校生の夏休みという一瞬にしか。




