18-8
18-8
名古屋郊外にある、田園地帯。
道に沿って流れる用水。
青空と白い雲を移す水田。
子供達は網を持って、日射しでも追いつけない元気さで駆けていく。
私はそこまでの勢いはなく、スクーターをぽつんと建つ民家の前に止めた。
表札を一度確認して、二階へ向かって声を掛ける。
「モートーちゃん」
「あーとーで」
何だ、それ。
人を呼んでおいて、いい度胸だな。
石だとまずいから、何か軽い物で。
「お迎え?」
玄関が開き、清楚な佇まいの女性が出迎えてくれる。
私は手にしていたキャラメルを彼女へ渡し、愛想良く笑って見せた。
「お土産?」
「そんな所です」
「智美は夜が遅かったみたいで、今起きた所なの。取りあえず、上がってちょうだい」
「はい、お邪魔します」
広い日本間に置かれた、大きな座卓。
庭から吹く風に揺れる、青い風鈴。
麦茶の注がれた冷茶碗の中で氷が溶け、妙なるハーモニーを醸し出す。
「ゼリーだけど、いい?」
「ええ」
「優ちゃんのお母さん程、上手じゃないけれど」
茶色の皿に載った、丸みを帯びた薄赤いゼリー。
中には黒い粒が幾つか見え、上には緑と黒のソースが掛かっている。
「スイカ、ですか」
「一応」
「美味しいですよ。この小豆が特に」
ゼリーの柔らかな食感と、小豆の微かな抵抗。
抹茶と黒ごまのソースもマッチして、言う事無い。
「私は、もっと辛い物が」
ちびちびとスプーンを動かす、モトちゃんのお父さん。
お酒を飲む人には、甘過ぎるかもしれない。
「最近智美が、役所を回ってるようだね」
「ええ。ガーディアンを統合するのに、許可を得る必要があるとか」
「草薙高校は、教育庁指定の最重要モデル校。そこの自警組織に関する事だから、小役人も神経を使うんだろ」
他人事のようなコメント。
おじさんの場合はキャリア官僚だし、授業の監査をする役職なので直接には関係ないのだろう。
「周りがうるさいんだ。あの子は、天崎さんの娘さんですかって」
「苗字は隠してるのに?」
「知ってる人は知っててね。せめて娘さんくらい働いて下さいって、いつも言われてる」
苦笑気味の、だけど嬉しそうな顔。
おばさんは優しい笑顔で、涼しげな音を立てる風鈴を見上げている。
「眠い」
パジャマ姿で登場する、出来がいいらしい娘。
モトちゃんは欠伸をして、座卓の前に座り込んだ。
「智美、ご飯は?」
「今はいい。お父さん、どうしているの」
「ここは、私の家だ」
「もう忘れたかと思ってた」
厳しく返すモトちゃん。
昔とは違い、あくまでも冗談っぽく。
「怖い娘だ」
「中部庁や教育庁の出先機関では、逆の事を聞くけど。お父様に、是非よろしくって。真っ青な顔で」
「私がキャリアだから、取り入りたいだけだろ」
「その立場を利用して、脅してるんじゃなくて?」
容赦ないやりとり。
ただこれも真剣さはなく、おばさんはのんきに庭を眺めている。
また、カエルでも探してるんじゃないだろうな。
「とにかく夏休み中も忙しいから、お父さんもお願いね」
「私の管轄外なのに?」
「草薙高校の生徒としてではなく、娘としてのお願いよ」
「情実には溺れない性質なんだが。一応、長官にもそれとなく伝えておく」
さりげなく出てくる言葉。
つまり彼はそれだけの地位にいて、影響力がある。
そういう事を感じさせない大らかさがあるからこそ、私もこうして気楽に会える訳ではあるが。
「ユウ一人?」
「外で遊んでる子はいる」
「この暑いのに。元気ね」
「子供なんでしょ」
縁側に並んで座り、足をふらふらさせる。
私だけ。
彼女の場合は、足が着くから……。
「誰が来てるの」
「ほら、あそこ」
庭先へ飛び込んでくる、麦わら帽の少女。
手には網とバケツ。
それと、満面の笑み。
「メダカ、メダカがいました」
「取れたの?」
「ええ。ゲンゴロウもいますけど、見ます?」
よく分からないけど、詳しいな。
おばさんと気が合いそうだ。
「あなた、元気ね」
「あ、元野さん。こんにちは」
「こんにちは。水分も摂らないと、熱中症になるわよ」
放られるペットボトル。
網を離し、それを受け取って落ちてくる網を再度掴む渡瀬さん。
「器用じゃない」
「簡単ですよ」
「そうそう」
「あなた達には、付いていけない」
欠伸を噛み殺す、不器用な少女。
渡瀬さんはようやく網とバケツを地面へ置き、お茶を飲み始めた。
「まさか、カエルは取らなかったでしょうね」
彼女の傍らにあるバケツを、恐る恐る覗き込む。
メダカと変な虫が、すいすい泳いでる。
水遊びは面白いけど、これにはあまり興味が湧かない。
「オスとメスは、ほぼ半数ね。環境汚染なんて、もう死語かしら」
サンダル履きで、庭へ降りてくるおばさん。
元理科教師としての血が騒いだらしい。
「環境が汚染されると、ホルモンバランスの影響でメスが増えるのよ。もう少し数を取らない事には、統計的に正しいとは言えないけど」
「ザリガニもいましたよ」
バケツとは別に、小さな水槽を取り出す渡瀬さん。
中では色の褪せた小さなザリガニが、隅の方で佇んでいる。
「あら、ニホンザリガニ」
「珍しいですよね」
「ええ。東北の方が多いと聞いてたけれど、誰かが放流したのかしら」
「一度、水質を調べてみます?」
妙に盛り上がる二人。
ザリガニに、種類なんてあるの?
「ただの、エビの親戚でしょ」
「さあ。私は、ザリガニにもカエルにも興味がないから」
素っ気ない、私と同じ感想。
モトちゃんは軽く伸びて、横目でこちらを窺った。
ように見えた。
私は何も言わない。
彼女もまた。
遠くから聞こえる蝉時雨。
田畑の彼方に浮かぶ、大きな入道雲。
夏の訪れを思わせる瞬間……。
彼女が何を言いたかったかは、大体分かっている。
彼女が、私の事を分かるのと同じくらいに。
例の感応能力とはまた別の、言葉を越えたつながりとして。
指差される天井。
黙って、冷静に。
「何よ」
「言わないと分からない?」
「分からないから聞いてるんでしょ」
反発気味に答え、ため息を付くサトミを睨む。
取りあえず彼女とは、意思の疎通が図られてないようだ。
「少し、汚れてるの」
「だから」
「拭いて」
「ショウに頼んで。どう考えても、届く訳無いじゃない」
広いとは言えない、私達のオフィス。
だが天井は意外と高く、居心地のいい開放感がある。
つまり、私が飛ぼうと跳ねようと届かない。
「大体、どうして急に」
「夏休み前の、大掃除。あの子は今、洗剤を取りに行ってるの」
「面倒だな。椅子は」
「それでも届かないでしょ」
分かってるなら、やらせるな。
構わず手を振り、雑巾を絞っているケイを呼び寄せる。
「椅子……、より机の方がいいかな」
「別に拭かなくてもいいだろ。それか、ショウを待て」
「私に言わないで」
「それもそうだ」
諦めたのかサトミを説得するのが面倒だったのか、机を引っ張ってくるケイ。
私は靴を脱いでその上に乗り、軽く飛んでみた。
これでも届くのは、真上の部分程度。
汚れはもう少し右へも広がっていて、ロッカーがあったりして簡単には拭きにくい。
「仕方ないな、雑巾貸して」
手の中に収まる、洗剤を含んだ雑巾。
「それと、ホウキ」
ホウキの柄に雑巾を引っかけ、飛び跳ねながら手近な部分だけを拭く。
どうでもいいけど、相当に間の抜けた作業だな。
「祈祷してるのか」
ふざけきった台詞。
汚れた雑巾を床へ投げ付け、顔に当てる。
つもりだったがさすがに反応して、バケツで洗い出した。
「洗剤が入ってるのよ」
「じゃあ、ふざけた事言わせないで」
「太鼓でも叩きたいくらいよ」
下から聞こえる、のったりしたリズム。
誰かに見られたら、相当に誤解されそうだ。
「どうせなら、もっと上手い人連れてきて」
「悪かったわね。リズム感が無くて」
「分かってるならやらないでよ」
勢いよく飛んできた雑巾を受け取り、投げ返す真似をする。
サトミは意外な程素早く逃げ、ケイの後ろへ駆け込んだ。
ここで投げるのも面白いが、遊んでいても仕方ない。
「こんな所、どうやって拭けっていうの」
さっきから思っていた、ロッカーの上辺り。
机を運ぶには邪魔な位置で、私の身長ではホウキが下から当たるためその隙間には入りにくい。
「……二人とも、少し下がって」
すぐに距離を取る二人。
それを確認して、視線を前に向ける。
角にある、横へ長いロッカー。
正面は壁で、そのロッカーは私から見て右に当たる。
上の隙間、ホウキの長さ、壁までの距離。
頭の中でシミュレーションして、一人頷く。
「よっと」
ためらいなく机を踏み切り、まずは壁へ。
ホウキの柄で壁を捉え、その反発を利用して右側のロッカーへ体を向ける。
次いでホウキをロッカーの上へ差し込み、素早く腕を動かして天井を拭く。
下がる景色。
即座にロッカーの凹凸をチェックし、足場を見つけ足の指で捉える。
微かな痛みと抵抗。
かろうじて高度を保ち、残りの部分も一気に拭く。
「よっ」
後はホウキを担ぎ、重力に任せて降りていくだけ。
いや、今は靴下か。
予定変更。
着地する前にホウキで床を捉え、衝撃が来ない前にそれを離す。
次に素早く視線を飛ばし、着地箇所を選び出す。
ここか。
「っと」
ロッカーの前に出ていた、いくつかの私物。
その中でも柔らかそうな上に舞い降り、サトミを呼び寄せる。
「何してるの、あなたは」
「自分でやらせたんでしょ」
彼女が持ってきてくれた靴を履き、紙切れの上から降りる。
「ましらだな」
呆れ半分、感心半分という感じで呟くケイ。
彼は私が飛び乗った紙切れを手ではたき、鼻で笑った。
「大事な書類なの?」
「始末書の控えだよ」
「あ、そう。それで、ましらって何」
答えない。
笑うだけで。
いいや。
物知りは、この子だけじゃないし。
「サトミ」
「お猿さんの事よ」
何のためらいもなく。
冷静に答えるサトミ。
これで、また一つ賢くなった。
別に、嬉しくも何ともないが。
「あのね」
「誉め言葉、誉め言葉」
説得力0の笑顔。
お猿さんに例えられて、誰が喜ぶっていうんだ。
「洗剤持ってきた……。どうした」
「何でもないわ。いいから、早く外を拭いて」
「え、ああ。ワイヤーって、どこにしまったのかな」
自分の私物を漁り出すショウ。
また、窓の外へ出る気か。
こっちの方が、よっぽとお猿さんじゃない。
こんな格好いいお猿さんは、見た事無いけど。
いても、嫌だし……。
結局ロッカーは後で動かして、私のアクションは無駄だったと分かった。
確信犯だな、明らかに。
「怖い顔しないで」
「元々、こういう顔よ」
「嘘ばっかり。もっと、ふにゃふにゃしてるじゃない」
どんな顔だ、ふにゃふにゃって。
分かるけどさ。
「メニューも、随分減ったね」
「そうかな。中華のフリーセットを全部大盛りで。後、棒餃子も」
夏バテって言葉を知ってるのかな、この人は。
少なくとも、私は知らないが。
「済みません、そうめんで」
氷の入った器を、優雅な足取りで運んでいくサトミ。
そうめんか。
「選べよ」
後ろから、やいやい言ってくるケイ。
カウンターに並んでいるのは、私達だけ。
だから、誰の迷惑にもならない。
彼の事は、この際除外するとして。
「うるさいな。これは私にとって、この一瞬を掛けるに相応しい」
「分かった。分かったから。食べられればいいだろ、なんでも」
信じがたい台詞。
もう少し熱弁を振るおうかと思ったが、厨房の奥から笑い声が聞こえたので止めた。
今さら気にするな、という意見は聞き流すとして。
「えーと。和食のセットを、少なめで」
「俺は」
「レバ刺し定食を。私は洋食のセットに、シーフードサラダを付けて」
いきなり横から現れて、勝手に注文する沙紀ちゃん。
ケイは彼女を睨み付け、脇腹を指差した。
「もう、治ってるんだよ」
「夏バテしないように、こういうの食べなさい」
「自分で食べればいいだろ」
「私、レバー嫌いだから」
恐ろしい理屈を付け、自分の分を持っていく沙紀ちゃん。
ケイは料理が出来るのを、一人佇んで待っている。
仲が良い証拠、だと思いたい……。
「こんなのおかずになるか」
レバニラならともかく、刺身じゃね。
味付けも、レモン醤油だし。
「仕事はいいの?」
「ええ。もうすぐ夏休みだし、残務整理が残ってるくらい」
「いつまでも残ってろ」
食堂のテーブルに常備してあるふりかけでご飯を食べるケイ。
それはそれで、笑えるな。
「沙紀ちゃんは、夏休みどこかへ行く?」
「優ちゃん達と出掛ける以外では、福井へ」
「ああ。小泉さん」
「風間さん達と一緒に行こうと思ってるの」
嬉しさと、恥じらいの入り交じった笑顔。
普段の凛々しさは影をひそめ、可愛らしい少女の表情でテーブルを見つめている。
彼女がいいと思ってるケイはすぐ側にいるんだけど、小泉さんは別格な存在なのだろう。
彼と話をして短い間でも一緒に過ごした私としても、その気持ちは分かる。
「小泉さんって、あの可愛い感じの人?」
「サトミも会ったんだっけ」
「ええ。少し陰のある感じで、悪くないわね」
「遠野ちゃん、そういう目で見ないでよ」
さざめいていく笑い声。
食事も楽しいけど、こういう話もまた楽しい。
ショウとケイは、関心がなさそうだけど。
あっても、嫌だけど。
「楽しそうだな」
私達の近くへトレイを置く塩田さん。
木之本君も控えめに、その隣へ座る。
彼等も、仕事が終わりつつあるのだろう。
「仕事はよろしいんですか」
「よろしいんですよ。遠野さん」
「後で泣きついてきても、私は知りませんから」
「夏休みの宿題か。俺は俺でやってるんだよ。ただ、お前達程出来が良くないだけで」
すすられる冷やし中華。
確かに、そういった面もあるだろう。
友達という感情を抜きにしても、モトちゃんは木之本君は優秀である。
サトミに至っては、言うまでもなく。
部下にそういう人達が揃えば、上に立つ人はより高い能力を要求される。
塩田さんも優秀ではあるにしろ、彼等全員とやり合える程ではない。
また彼の本質は事務仕事や実務能力ではなく、もっと別な部分だから。
「大体はこなしてるんだし、気にしなくてもいいんじゃないのかな」
遠慮気味に申し出るショウ。
人のいいコメントを。
「大体ってなんだ。俺はこう見えても、結構神経質なんだよ」
「丹下ちゃんの先輩とは違いますね」
「風間か。あいつはまた、違う次元に生きてるからな。幸せの国に」
何がおかしいのか、声を上げて笑う塩田さん。
私も、その辺は分からなくもないが。
「あのですね。風間さんは」
「なんだ」
「その。なんというか。一見不真面目だけど、でも本当は結構その。そうじゃないようには見えますけど、だけど」
続かない言葉。
苛立たしげにテーブルを掻く指先。
沙紀ちゃんにとっては彼もまた、特別な存在のようだ。
私にとっての、塩田さんのように。
「冗談だ。あいつはあいつで、いい所もある。多分」
「だから」
「そんな所が合ったら、あたしも知りたい」
不意に聞こえる、静かな口調。
塩田さんの前に置かれる、和食のセット。
使い込まれた、長いバトンも。
「土居さん」
「仕事が終わったから来ただけ」
素っ気ない口調で、沙紀ちゃんに答える土居さん。
ただそこに冷たさはなく、涼しげな風にも似た雰囲気を漂わせている。
「北地区の人間は馬鹿ばっかりって言いたい?」
「まさか。峰山は、除くけどな」
「あの子はあの子で……。私が言う事でもないか」
途切れる会話。
私達もその辺りは微妙な立場にいるため、それは却って安心する。
「料理が得意だったな」
「え」
「峰山が」
「そうですね。愛想はないですけど」
塩田さんとではなく、沙紀ちゃんと話す土居さん。
穏やかに、懐かしむようにして。
「風間よりはましかも知れない」
「難しい所だとは思います。どちらにしろ、小泉さんには敵いませんけどね」
「それは、あんたの主観だろ」
優しい、労りのある微笑み。
沙紀ちゃんはあどけない表情で、彼女に微笑み返す。
普段は見せない、後輩としての顔で。
「何よ、もう食べてるの」
慌ただしくやってきて、大盛りらしい洋食セットを土居さんの隣へ置くセミロングの女性。
身長がある分、食事もたくさん取るようだ。
色んな意味で、それは羨ましい。
「石井さんも、お仕事は終わりですか」
「終わりですよ。丹下隊長」
「もう」
「冗談。風間君が仕事しないから、とにかく忙しくて」
初めは沙紀ちゃんへ。
今度は塩田さんへと流れる全員の視線。
「何だよ。俺は、ちゃんとやってるぞ。なあ、木之本」
「え、ええ。そうですね」
言わされたとしか思えない返事。
気持ちは分からなくもない。
「お前な」
「いえ。塩田さんは頑張ってますよ」
明るい、人のいい笑顔。
ただ、却ってその方が人を傷付ける時もある。
例えば、今のように。
「ありがとう」
ぼそぼそと呟く塩田さん。
どういたしましてと首を振る木之本君。
ショウもにこやかに微笑んでいる。
人のいい者同士の、良くある光景だ。
私にとっては、単なる笑い事だけど。
「何やってるんだか」
「いいじゃない」
「どうかな」
皮肉っぽい表情。
彼らしいとも言える。
「北地区、ね」
「思い出でもあるのかしら」
鋭い視線でケイを見据えるサトミ。
口元がわずかに緩む。
「俺は、南地区だけど」
「私もよ」
アリを誘い込む、アリ地獄のような間。
「雨でも降ったりして」
「夕立でも降るの?」
「スコールみたいな、豪雨かも知れない」
口を開けて、サトミを指差すケイ。
いつにない、焦り気味の顔で。
「私は知ってるのよ。何でも」
「誰かから、聞いたんじゃないだろうな」
横へ流れるケイの視線。
楽しげに話し込む、沙紀ちゃん達へと。
「何を聞いたって言うの」
「引っかかるか」
「残念ね。でも、いいわ。ゆるゆるとやるのも、また楽しいから」
「やってろ、勝手に」
トレイを持って逃げていくケイ。
サトミはその背中に指を向け、薄く微笑んで見せた。
古くいたという、人を魅入る魔女のように。
「ねえ、何の話」
「内緒。ね、丹下ちゃん」
「え?」
「こっちの話」
きょとんとする沙紀ちゃんと、手を振ってくる石井さん。
よく分からないが、サトミとの間でなんかの意思疎通があるようだ。
「ねえって」
「子供には関係ない事よ」
「あ、そう。へんっ」
彼女のデザートをかっさらい、がつがつ食べる。
子供だから。
で、残す。
子供並みの体型だから……。
「何をしてるの」
「お腹を一杯にしたの」
「食べたのなら、全部食べてよね」
「もういらない。これも」
自分のパンケーキをサトミのトレイへ置き、のんびりお茶を飲む。
お腹も膨れて、極楽極楽。
本当、幸せっていうのはいつも身近にあるんだね。
ささやかでも何でも、楽しいのはいい。
この暑さがなければ。
「また食べるのか」
「食べるのよ」
小さめのジェラードをかじり、すぐに食べ終え満足をする。
何しろ専門店なので味はいいし、このサイズがたまらない。
企画の人も、よく分かってるね。
というか、子供用なんだけど。
「腹壊すぞ」
「食べないの」
「節制してる」
「脂肪なんて無いでしょ」
脇腹の辺りに軽く拳を当て、固い感触を確かめる。
内脂肪もないだろうし、どうせ長続きしないに決まってる。
私達がいるのは、駅前のショッピングモール。
夏休みへ向けて、水着を買いに着た訳だ。
去年のも、一昨年のも、その前のも着られるんだけどね。
ファッション的にだけではなく、サイズ的にも。
それでも、買いたいのよ。
「昼よりは涼しいな」
「どっちにしろ、暑いよ」
「それを言ったら、おしまいさ」
だるそうに答えるショウ。
夜風になびく、伸び始めた前髪。
歩道に伸びる、長いシルエット。
映画のワンシーンから切り取ったような眺め。
「どうした」
「別に」
見取れてましたとは答えず、マネキンが並ぶショーウインドウへ視線を向ける。
長い手足と、見事な等身。
似たような水着を付けてる子もいるが、別物に見えてくる。
「おい」
「え」
壁に突き付けていた拳を引き戻し、もう片方の手で握り締める。
まさか割らないし、割れない。
多分。
「いいガラスだなと思って」
「買えよ」
ふざけた返事。
その拳を、再度脇腹へ叩き込む。
さっきよりも、鋭さを加えて。
「痛い」
彼ではなく、自分の拳を撫でる。
ちょっと腹が立つな。
もう少し角度を変えて、腰を入れて。
「おい」
「冗談だって、冗談。わっ」
「痛っ」
身を折るショウ。
構わず両手で彼を押し、ブティックの玄関前へ放り込む。
「何だよ」
「黙って。ほら、あれ」
「注文が多いな」
私の頭越しに反対側の通りを見つめるショウ。
「わっ」
私と同じような反応。
引き戻される体。
さっきからの動きで注目が集まり、色んな意味で恥ずかしい。
「どういう事だ」
「聞いてみれば」
「出来るか?」
「まさか」
声をひそめる私達。
激しく車の行き交う道路。
その反対側まで、声が聞こえる訳はない。
姿もおそらくは、見えていないだろう。
私達が、そうだったように。
並んで歩く男女。
モトちゃんと。
例の彼。
その理由は分からない。
納得出来る理由であって欲しい。
でも、彼女がどう思っているのか。
その選択にまで、私達は口を挟めない。
だから今は、この場を立ち去るしかない。
重い気持を抱えたまま……。
誰かに話すべきか。
それとも、彼女が話すのを待つべきか。
話してくるという前提でだが。
ただ隠しているとしたら。
それに、どう対応すればいいのか。
少なくとも、自然には振る舞えない。
そういう柄ではないし、それを見抜く相手だから。
「どう思う」
「知らない」
ぶっきらぼうに答え、ため息を付く。
流れていく景色。
小さく掛かる、クラッシック。
ショウの運転する車は、女子寮の前に止まる。
「取りあえず、黙ってるしかないだろ」
「まあね」
「なんか、こっちが疲れてきたな」
ハンドルに倒れるショウ。
彼からも漏れるため息。
私は後部座席から自分の荷物を降ろし、ドアを閉める。
「ありがとう。また、明日ね」
「休みだぞ」
「あ、そうか」
どうも、意識が他へ行ってるようだ。
少し考えないと駄目だな。
「気を付けて」
「ああ」
車が見えなくなったのを見届けて、寮へと歩き出す。
「ユウも帰り?」
「え、わっ」
思わず上半身を反らし、口を開けたまま指を指す。
「お化けじゃないわよ」
青のミニスカートから伸びる長い足に触れるモトちゃん。
私はコクコクと頷き、話題を探した。
さっき見た光景以外の事を。
「どこかに行ってたの?」
「駅前に。あの子が、ご飯おごってくれるって言うから」
「あの子って」
「ほら、例の彼。あなた達が、昔私とどうとかって言ってた」
あっさりと、自分から言われてしまった。
さっきまでの苦悩や自分の気遣いが、一気に消えていく。
相当に拍子抜けとも言える。
「どうかした」
「いや、別に」
「そう。ユウは、どこに行ってたの。誰と」
逆質問。
言葉に詰まる私。
よく考えれば、私も似たような物か。
馬鹿だな、どこまでも。
勿論馬鹿は、もう一人いるけど。
多分、今も悩みながら。
「優ちゃん」
「止めて」
「昔を懐かしんだんじゃない」
肩に置かれる手。
歩き出す私達。
楽しさと、安堵感。
お互いの気持を伝え合いながら。
彼女なりの気遣いに、少し胸の痛みを感じて……。
無言の出迎え。
黙って置かれる、麦茶の入ったグラス。
そのまま、何も言わずに前へ座る。
「聞いてるの」
「聞いてる」
すぐに帰ってくる答え。
私は麦茶を一気に飲み干し、ローテーブルへ置いた。
「壊れる」
「私はね」
「さっき言ったように、私達があれこれ言っても仕方ない」
「そうだけど、何かあった後じゃ遅いでしょ」
今度は拳をテーブルへ置き、彼女を見つめる。
言い過ぎで、立ち入り過ぎてるのは分かっている。
でも、止める事は出来ない。
「私の時みたいに」
「そう」
ようやく笑う舞地さん。
自嘲気味に。
「元野は感応能力があるって聞いてるけど」
「人の心が読める訳じゃないの。その人の思考性というか、考え方が何となく分かるだけ」
「それだけ出来るなら、放っておけばいい」
「自分の事については、また別だとは思わない?」
かなり言いにくい台詞。
舞地さんの心まで傷付けかねない。
「自分の事は自分でやれば」
「それで、何か解決するの」
戻らない返事。
減る麦茶。
時だけが過ぎていく。
「大体、どうしてそこまで気にする。確かに私の時と状況は似てるけど」
「舞地さんは気にならない?名雲さんの事」
「私に気遣われる程、落ちぶれてもない。もしそうなら、そこまでの人間だ」
冷たいとも言える言葉。
だが彼女の表情に、後悔や迷いはない。
彼への強い信頼を除いては。
「私は、そこまで強くなれない。それに、放ってもおけない」
「じゃあ、好きにして」
「するわよ」
立ち上がり、そのままドアへと歩いていく。
こうなるのは、初めから分かっていた。
彼女達の性格や行動パターンから判断すれば。
ただ、期待していなかったといえば嘘になる。
アパートを出て、カードキーをスクーターのスリットに差し込む。
点灯するライトが、薄暗い道路を照らし出す。
「何よ」
「今、何時だか知ってる?」
「知らない」
ヘルメットを被り、短く告げる。
舞地さんはため息を付いて、スクーターのディスプレィに表示された時刻を指差した。
「あれ」
「真夜中に来て、勝手にあれこれ言われて。はい、そうですか。なんて言う人がいると思う?」
「思わない……」
暗くなる視界。
滅入ってくる気分。
あまりにも一つの考えに捉えられ過ぎていたようだ。
モトちゃん一人の事だけに。
「とにかくその男については、こっちでも調べてみる」
「本当?」
「傭兵としての面と、ここへ来た理由を。その代わり、これは契約だから」
「報酬取る気?どういう先輩よ」
きっと彼女を睨み付け、視線を前へ戻る。
自ら進む道を照らすライト。
暗闇の中に浮かぶ、一筋の明かり。
「その代わり、裏切らない」
「当たり前じゃない。だったら、現物支給だからね」
「何を」
「知らない。じゃあ、ちゃんと仕事してよ」
アクセルを開き、サイドミラーに映る舞地さんへと手を振る。
何か言いたげに、指差してくる彼女を。
素直じゃない先輩を……。
山と積まれた段ボール。
中身が何かは、小さな貼り紙で把握する。
しかし一番下のなんて、どうやって取るんだ。
「いい物はあった?」
「どれがいい物か、分からないので」
「お茶が好きなんでしょ。確か、ここかな。いや、ここか。あれ、これか……」
床へ置かれるお菓子や洗剤、ノートに、消しゴム。
鍋やまな板なんて物も出てくる。
「あの、天満さん」
「お茶でしょ。茶こしならあるけど。えーと、この辺かな」
貼り紙を見ずに、勘に頼る人。
どうでもいいけど、これは誰が片付けるんだろう。
「あった、あった。高級お茶セット。期限も、何とか大丈夫みたい」
「済みません。ここの片付けは、私がしますから」
「いいのよ。そういうのが好きな子もいるの」
倉庫代わりに使っているらしいこの部屋を覗き込んでくる、運営企画局の人達。
またかという顔で。
「しかし、傭兵ね」
「やっぱり、嫌いなんですか」
「いい思い出がないもの。先輩達や凪ちゃんは、さらわれた訳だし」
「そう、ですね」
曖昧に頷き、滋賀での出来事を振り返る。
小泉さん、清水さん、林さん。
彼等も傭兵だけど、いい人達だった。
仕事が出来て、優しくて。
私達と変わらない、普通の高校生の顔を持つ。
「どうかした?」
「いえ。悪い人ばかりでもないなと思って」
「私も、それは分かってる。沢君だって、広い範疇で捉えれば傭兵だし」
彼はフリーガーディアンで、つまりは公務員。
ただ行動や考え方は、傭兵に近い。
違いは、教育庁の命令で動くかどうかだろう。
「それより、献血はした?」
「ええ。成分献血ですけど」
「悪いわね。医療部での診察が無料な分、そういう関係には協力していこうって話題が生徒会内であったの」
「悪い事じゃないと思いますよ」
心の中で、いい事でもないと付け加える。
「こんなのもあるんだけど」
テーブルの上に置かれる、小さめのポスター。
献血のキャンペーン用に作ったのだろうか。
青白い顔の綺麗な女性が、洋館の窓から顔を半分出した絵が描いてある。
「血を、もっと血を」
という、訳の分からないコピーと共に。
「……なんですか、これ」
「没になったポスター」
どう考えても、逆効果だ。
面白いけど、その分余計に。
「ケイも絡んでるって聞いてますけど」
「誰かと賭をしてるみたいね。何%の人間を献血出来るかって」
「だから、張り切ってたのか」
「私達は助かる、あの子もやる気が出る。献血してくれる人も増える。いい事ずくめよね」
如才ない微笑み。
その誰かって、天満さんっぽいな。
「前期のイベントは、これで全部終わりですか」
「ええ。これからは、夏休み中の分。メインはこれも今年からする事になった、花火大会」
「忙しそうですね」
「暇で、何もやる事が無いよりはましよ。やる事があっても、やらない人もいるけど」
確かに、そう人もいるな。
私はどちらかといえば、前者に近いが。
「警備でもやってくれるの?」
「まさか。せっかくのお祭りなのに」
「残念。全員浴衣姿で警備してもらおうと思ってたのに」
「サトミ達ならともかく、私は似合いませんから」
正確には、色っぽくないという意味だ。
可愛い、くらいは言われる。
虎の子供を見て、可愛いとみんなが言うくらいには。
屋台の無料券ももらって、運営企画局を後にする。
いつもお世話になってるから、その内お礼をしないといけないな。
ケイの事も含めて。
「どうしたの」
「天満さんからもらった。ちょっと」
伸びてきた手の上にスティックを振り下ろし、チョコ最中を確保する。
別に舞地さんへのお土産ではなく、単に私が食べたかったから。
ケイは陰気な目でこちらを睨み、脇腹をさすった。
冷房のせいで、しくしく痛むらしい。
すっかりおじいさんだな。
「はい」
「ありがとう」
最中を受け取り、食べ出すショウ。
視線が一層厳しくなったが、気にしない。
3つしかないのよ。
「サトミにも。これは、私と」
「おい」
「うるさいな。ちゃんと、あなたの分もあるわよ」
パックに包まれたモチ一切れを彼へ放り、取りあえず黙らせる。
どうして黙ったかは、知りたくもない。
「そのお茶は、どうするの」
「舞地さんへの報酬」
サトミへ昨日、というか今日の出来事を説明する。
本当、真夜中どころの話じゃなかったな。
「お茶だけでやってくれるの?」
「くれるんじゃないの」
根拠もなく、楽観的に言い放つ。
サトミは訝しげに、モチを睨んでいるケイへ話を振った。
私達の中では、彼等と一番付き合いが深い彼へ。
「どう思う?」
「やらないなら、やらせればいい。どうせ俺は、モチだし」
こだわるな、随分。
大体何が、どうせなんだ。
どうしてモチなんだ、という彼の疑問は知らないが。
「結局モトは、昨日の事を話したのか」
「そう。だから、私達が気にしなくても良かったのよ」
ショウと二人で納得して、少し笑う。
かなり、気の抜けた表情で。
「楽しそうね」
「そう?」
「モトが彼と歩いてたのなら、ユウは誰と歩いてたのかしら」
蒸し返される質問。
飛び交う視線。
押し黙る私達。
人は人、自分は自分。
そして自分は何をしているのか。
本当に、人の事を構っている場合ではない。
でも今は、それを先延ばしにしたい。
モトちゃんのためにも。
自分自身のためにも。