18-6
18-6
リビングの床にパンフレットを広げ、地図と照らし合わせる。
北海道は遠い。
沖縄も。
大体、名古屋が日本の真ん中にあるからいけないんだ。
「何してるの」
「どうして私は、名古屋に生まれたのかなと思って」
「難しいというか、馬鹿げた悩みね」
取り込んだ洗濯物を、その上に放り出すお母さん。
仕方ないので、取りあえずタオルを畳む。
「夏休みの計画?あなた、行く所は決めてあるんでしょ」
「駅前にパンフレットがあったから、つい」
「海外でも行けばいいのに」
「なんか怖い」
いつの時代の話だと言われそうだが、いまいち国外へ出る気が起きない。
多少なら英語は話せるし、授業程度とはいえ若干の知識もある。
それでもやはり、ためらってしまう。
「別に、これといって行きたい国もないし」
「つまらない人生ね。手っ取り早く、北海道共和国でも行って来たら」
「その内ね。お母さんは、行った事あるの?」
「お父さんと一緒に、何度か。沖縄自治政府も」
案外アクティブだな。
「それって、いつの話?」
「あなたが生まれる前。まだ大学生だった頃。いや、妊娠中も行ったかな」
じゃあ、私も行ってるって事か。
かなり広い意味で捉えればだが。
「どちらも元々日本だったのよね。今でも、大差はないけれど」
「じゃあ、何が違うの」
「気構えでしょ。自立というか、自分の考えで行動するっていう」
「よく分かんないな」
一高校生であり、未だに親の臑をかじっている身としては実感が湧かない。
私と国家規模の話を比べるのも、どうかとは思うが。
「優はまず、自分の下着でも畳んでなさい」
「……これ、お母さんのでしょ」
「嘘」
「嘘言ってどうするの」
ディフォルメされたヤギの描かれた、可愛らしい下着。
少なくとも私は、こんなのは持ってない。
履きたくないとも言える。
「あのね。私はもう、40よ。どうしてこんな、ヤギって」
「お父さんの趣味じゃないの」
「随分マニアックね」
悪戯っぽく笑うお母さん。
私はそれを引き寄せ、まじまじと見つめた。
いや。そうやって見る物でも無いけど。
「……ヒツジだ」
「え?」
「その、さ。洗い過ぎて、毛の部分がかすれたんだと思う」
「それって、あなたが小学生の頃使ってたのでしょ。一体、今幾つなの」
16だとはっきり答え、下着を畳む。
本当、我ながら物持ちがいいな。
というか、どうして未だにこれが使える体型なんだ……。
脱力感に襲われつつ、よろよろと家を出る。
この夏の日射しのせいもある。
肌を透して、そのまま体の奥まで溶かすような。
どうしてこう、名古屋は暑いのかな。
さすがにもたなくなってきたので、コンビニに入り冷たい物を物色する。
ジュースもいいけど、アイスもいいな。
ソフトクリームを発見。
リンゴソフトか、悪くないな。
「済みません、それ一つ」
「ただ今、キャンペーン中につき2割増量しておりますが」
「いえ。普通で結構です」
好意はありがたいが、どう考えても食べられない。
普通でも、少しきついくらいだ。
コンビニを出て、少し舐める。
強い日射しと、口の中の冷たさ。
程良い酸味と、さっぱりした甘み。
夏が来たと思わせる一時。
「あー」
「恥ずかしいから、声を出さないで」
制服姿で、目の前に現れるモトちゃん。
ちなみに私は自宅近くなので、赤のキャミソールと短めのジーンズスカート。
勿論、サンダルで。
「美味しそうね」
「あげる」
ソフトを差し出すと、彼女はそれに口を付けて満足げに頷いた。
「何してるの」
「お役所巡りの帰り」
「地下鉄の駅は、向こうでしょ」
「文化祭で貸し出して貰う物があるから、博物館にも行ったの」
それは、天満さんの仕事じゃないのか。
有能過ぎるのも、考え物だな。
大体、文化祭っていつの話だ。
「何を借りるの」
「天満さんは、甲冑を借りたいって」
「どうして」
「それが分かってたら、博物館の学芸員にもっと上手く説明出来てた」
コンビニの壁にもたれ、ひさしで出来たわずかな影に入るモトちゃん。
少し、疲れているのかも知れない。
「家に来る?」
「助かるわ。とにかく、暑くて」
「表面積が多いから、日が良く当たるのよ」
「どういう理屈?」
明るい、落ち着いた笑顔。
普段の彼女と変わらない。
私の見慣れた、普段の彼女がそこにはいる。
そうであって欲しいという希望も込めて……。
もうもうと上がる煙。
芳ばしい、野の香り。
「わっ」
小さく上がる炎。
肉が弾け、脂が再び青い炎を上げる。
「どうして、焼き肉なの」
「夏バテ防止によ。ショウ君から貰ったお肉が、まだあるから」
「私は、タマネギでいいや」
お肉も好きだけど、もう限界に近い。
大体この暑い中、どうして火の前にいるんだ。
「あ、済みません」
お父さんにお酌をされ、ビールをあおるモトちゃん。
食べるより、飲む量の方が多いかも知れない。
「ワインもあるよ」
「焼き肉にはビールですから」
「なる程。僕は、日本酒も好きだけどね」
アルコールが入ってるなら、何でも飲む癖に。
押入に、自家製のどぶろくを見つけた時はさすがに驚いたけど。
「それにしても大変ね。この暑い中」
「もう、慣れました」
「優も一度、付いていったら」
「社会見学じゃないんだし、嫌だ」
人によっては知己を得るとか、人脈を広げるとも考えるだろう。
ただし私にとっては、単なる面倒ごとに過ぎない。
別に偉いお役人と知り合わなくても、普通に生きていく事は出来るんだし。
大体、会って話す内容もない。
文句なら、また別だが。
「聡美ちゃんは?」
「あの子は教育庁の官僚に会うため、東京へ。今、リニアで戻ってきてるんじゃないですか。木之本君は、泊まりらしいですけど」
何をみんな、そう頑張ってるのかな。
私は、自分の事だけで手一杯なのに。
「優、置いていかれてるわよ」
「結構。私はのんきに、道草してるから」
「牛みたいな事言って。でも智美ちゃんも、あまり無理しない方がいいわよ」
彼女の表情から何かを読み取ったのか、気遣いを見せるお母さん。
モトちゃんは薄く笑い、グラスを軽く掲げた。
少し赤らんだ顔で。
焦点の少しずれた、遠い目で。
「暑いのに」
「いいじゃない」
二人してベッドに寝転がり、お腹の辺りにタオルケットを掛ける。
さすがに、エアコンは効いているので。
「とにかく、今日は疲れた」
「大丈夫?」
「夏バテかしら。それとも、飲み過ぎかな」
頼りない欠伸。
すでに体の力は抜け、柔らかくなった体が私の体と重なり合う。
「精神的な疲れもあるんだけど」
照明の落ちた、薄暗い室内。
闇に慣れた目に映る、ぼやけた机。
「どうして、ここに来たのかなとか。何を考えてるのかな、とか」
「モトちゃん」
「私もまだまだね。こんな事で動揺するなんて」
自嘲気味な呟き。
少し揺れる、彼女の体。
私は腕を動かし、その体に手を回した。
「いいじゃない。動揺する方が」
「そう?」
「そうよ」
「分かった。……ありがとう」
小さな、口の動きだけに近い声。
それは私の胸に届き、静かに広がっていく。
暖かく、それとも涼しげに。
微かに空いたカーテンの隙間。
街の灯りの中、どうにか見えるいくつかの星。
その見えない中にある星が舞地さん達だと、いつか思った事がある。
確実に存在する、でも目には見えないだけで。
私達と同じだと。
彼もそうなのか。
窓をよぎっていった流れ星に、私は少し遅れて願いを込めた……。
夜は、まだいい。
昼は、どうしようもない。
それなのに、学校はある。
生徒はいないのに。
「もう、嫌だ」
机に伏せて、半分程も埋まってない室内を見渡す。
それなのに、どうして私はここに来てるんだ。
ガーディアンって、一体なんだ。
「起きて」
「起きてるわよ」
「姿勢を正しなさいって言ってるの」
言ってるどころか、人の襟首を掴むサトミ。
人を、猫の子みたいに。
「にゃー」
「うるさいわね」
「自習じゃない、自習。泣き言の一つくらい、言いたくなるの」
鳴き声とも言うが、とにかくやる気も起きない。
今期の復習用にという名目で配布されたプリント。
画面に表示される、その補足データ。
「テストが終わったのに、何を復習するっていうのよ」
「勉強はやらされる物じゃなくて、自分のためにするの」
じゃあ、ペンを持たせるな。
誰よ、斎藤茂吉って。
ただの、おじいちゃんじゃない。
「大体、どうして息子の苗字が北なの」
「それは、ペンネーム。本名は斉藤宗吉」
「どうでもいい」
「いいから、宿題の感想文はこれを読んで」
目の前に置かれる、二冊の文庫。
それも、相当に分厚い。
読めない事はないが、その間に相当違う事が出来る気もする。
「嫌だ」
「じゃあ、こっちにする?」
厚い幅の文庫が、さらに4冊出てきた。
これを読む間に夏休みが終わるとは言わないが、見ているだけで疲れてくる。
大体、純文学って苦手なんだよね。
だったら何が得意かと聞かれると、かなり困るけど。
「面白くないな」
「マンガ読め、マンガ」
ゲームをやりつつ、そう促してくるケイ。
私以上に、やる気無しだな。
「あなたは、それを読むの?」
「まさか。マンガの読書感想文なんて、聞いた事もない」
じゃあ、なんで勧めたんだ。
こんな人に付き合っていても、ろくな事がない。
「ショウは、何読むの」
「古文書」
「は」
「御土居下同心の事を書いた本が、蔵にあったから。それを読もうと思って」
誇らしさと、嬉しさの混じった遠い眼差し。
自分のルーツを辿る、一つの旅。
嬉しくない訳がない。
読書感想文に古文書も、どうかと思うが。
どちらかと言えば、自由研究じゃないの。
面白いから、放っておくけど。
「沙紀ちゃんは?」
「軽いのを、適当に。とにかく、色々忙しくて」
今も自習ではなく、書類の束を片付けている。
わざわざここにいる理由は、出席日数が少し危なかったらしい。
これだから、偉くなるのは嫌なんだ。
「何でも適当でいいんだって」
「じゃあ、これも適当に片付けて」
「冗談だろ」
「夏の夜の夢じゃないのは確かね。手書きじゃなくて、端末を使ってよ」
厳しく釘を刺し、書類の束を渡す沙紀ちゃん。
ケイは彼女のポニーテールを睨み付け、おぼつかない手付きで書類をめくり始めた。
ただ使えないのは指先だけで、仕事をこなす能力は十分にある。
「遠野ちゃんもどう?」
「私は、授業に専念したいから」
「あなたがこれ以上頑張っても、上が無いじゃない」
「それは、学内での話でしょ。世界に目を向ければ、どこまでも果てしないわ」
恐れと好奇心。
知性と冒険心。
戦いに挑むのか、未知の世界に踏み出すのか。
遠い、私の知らない世界を見る眼差し。
「世界もいいけど、今は名古屋の高校の事で頑張って。遠野ちゃんは、手書きでお願い」
「あ、あなた。人の話を」
「聞いてる、聞いてる。はい、頑張って」
有無を言わさず渡される書類。
彼女もそのポニーテールを睨み、器用に書類をめくっていく。
ケイとは違い、能力は勿論仕草も様になっている。
「大変だな」
「本当、本当」
ショウと二人でのんきに呟き、端末をリンクさせてゲームをやる。
お互いの動物を、相手の家に侵入させるという内容。
画面もシンプルでたわいないが、だからこそ燃える。
「よっと」
「わっ」
「甘いな」
「何言ってるのよ。ほらっと」
素早く指を滑らせ、落ちてきた植木鉢を避けて窓を開ける。
後ろ足で立つカワウソの背中が、妙に面白い。
「楽しそうね」
「楽しいよ」
適当に答え、ぬるっと窓の隙間から忍び込む。
「あっ、駄目」
「何が」
「尻尾が引っかかった」
「どこに尻尾が生えてるの」
ポニーテールをなびかせ、私を見下ろす沙紀ちゃん。
凛々しい顔に出来る、微かな陰影が妙な迫力を帯びて私に迫る。
「遊んでるなら、仕事して」
「どうしてよ」
「上司の命令。玲阿君も」
「あ、はい」
こくこく頷き、レシートの束を受け取るショウ。
私の目の前にも、同じ者が山と積まれる。
「後で総務課に回すけど、私もチェックしたいから種類別に分けて。飲食店や、文具、どこかの施設の使用代という具合に」
面白くないな。
大体この予算は、どこから出てるんだ。
カツ丼にお新香?
豚汁まで付けてる。
「ちょっと、これ食べ過ぎよ」
「内容はいいから、分けてといってるの」
「だって、ヒレ肉食べてるもん。ロースの方が美味しいのに」
「分かったから、静かにして」
冷たく告げる沙紀ちゃん。
嫌な子だな。
いや、私が……。
「お疲れ様」
レシートではなく、パンとジュースが目の前に並ぶ。
お礼らしい。
伸びてきたサトミの手をかわし、ハムカツサンドをかっさらう。
高級ハムじゃなくて、耳の赤い安っぽいハムを使ってるのがポイント。
この安っぽさが、妙に美味しいんだ。
「こんな仕事、事務局なり総務課にやらせればいいのに」
「隊長ともなると、部下のチェックも必要になってくるのよ。それに自分が出来ない事を、人にやらせる訳にも行かないでしょ」
チーズコロッケパンをかじりつつ説明する沙紀ちゃん。
そういう物なのかな。
私なんて、自分が出来ないから人に押し付けるんだけど。
「偉い人は大変ね」
「遠野ちゃんも、忙しいんでしょ」
「私は、モトを少し手伝う程度だもの。それに、責任がある訳でもないし」
イチゴオレを、ストローで飲むサトミ。
沙紀ちゃんは苦笑気味に表情を緩め、息を付いた。
「責任があるから、やれる事もある。私は、そう思ってるわよ」
「大人ね」
「先輩の影響かな。いい意味でも、悪い意味でも」
今度はおかしそうに笑い、チョココルネを少しかじる。
私とは違う、高い視点からの意見。
それに思う部分は無くもないが、私は今の自分で十分に満足している。
能力的に出来ないという事も含めて。
「どう思う?」
「さあな。俺は、自分の事で手一杯だから」
返ってくる、私と同じような意見。
ただ彼の場合は、ガーディアン以外に並はずれた努力をしての話。
私のように普通に過ごしていて、何もしない訳ではない。
「ユウも、役職にでも就きたくなったのか」
「まさか。少し、自分は駄目だなと思っただけ」
「駄目、ね。それを言い出したら、俺はどうしようもないな」
「そんな事無いよ」
何となく重くなる空気。
お互いに相手の言いたい事は分かる。
自分達の置かれている状況も。
ただ、目の前にはなおも頑張る人達がいる。
それが分かっているだけに、自分を省みると考えさせられる事が幾つもある。
だからといって、何をする訳でもない。
その事が余計に、気持を複雑にさせる。
「お前は」
「別に。やりたい事はないし、やりたくもない」
簡潔な、彼らしい答え。
彼にしか言えないと思える回答でもある。
「たかが書類を片付けるかどうかだろ。こんなの初めから端末へ入力する形にすれば、後は勝手にやってくれる」
「人の手でやる事も必要じゃないの」
「まさか。社長が床の掃除や、消えた照明の取り替えをする必要が無いのと同じさ。あくまでも内容を把握して、統括すればいいんだよ。偉い人は」
横目で沙紀ちゃんを窺うケイ。
彼女はサトミとガーディアン統合の話で盛り上がっていて、それに気付いてはいない。
「細かい仕事は人にやらせて、上に立つ人間はその情報を判断すればいいの。色んな意味で駄目な人間もいるから、さっきみたいにチェックするのは必要だとしても」
「そういう事が分かっても、上には行きたくないの?」
「俺が上に立って、誰が付いてくる?能力は多少あるにしても、人間性というかそういうのが大事なんだよ。丹下やモトや、塩田さん達みたいに」
あくまでも冷静な。
自分すら客観視する発言。
ただ私はそこまで割り切れないし、割り切る気もない。
どちらが良い悪いは別として。
下らないけれど、悩み続けるから自分が保てると思っているから。
辛くても苦しくても。
自分の道を探し、先に進む。
仮に道自体がないとしても。
その時は自分で切り開けばいいだけだ。
例え間違えた方向へ行ったとしても、道は一つではないし戻る事だって出来る。
私に、その意志がある限りは。
伝票を少し片付けたくらいで、そこまで深刻になる必要はない。
ただ、性格なので仕方ない。
切り替えが早いのも。
「どうしたんですか」
自販機の前。
長い定規を持って立ち尽くす私。
そんな私を見下ろす御剣君。
「小銭が奥に入っちゃって」
「ああ。定規で」
「そうよ。腕が短いから、結局届かないのよ」
余計な事を言われる前に、自分で答える。
彼の喉元に、定規を突き付けて。
「あ、危ないな。それなら、スティックを使えばいいじゃないですか」
「汚れそうだから、嫌」
「だったら、諦めれば」
「それも嫌」
自販機の左から組み付き、腰を落として一気に押す。
後は下から手を当てて、体重をかけつつ横へ押し流す。
「動きました?」
「無理ね」
無駄な汗をかいた。
分かってもいた。
でも、一度くらいは挑戦してみたかった。
これに勝てたら、あの三島さんにも勝てる気がするな。
どうしたら勝ちなのかは、全く分からないけど。
「じゃあ、俺が」
「あなたでも無理でしょ」
私の言葉に構わず、右側から組み付く御剣君。
身長的にはほぼ同じ。
しかし横幅では負けるし、重量差も倍では聞かないだろう。
さすがに彼でも無理だろうと思った瞬間。
床から聞こえる、甲高い音。
わずかに見える、四角くなったホコリ。
ホコリの幅は徐々に大きくなり、その間にも音は絶え間なく続く。
やがて現れる、白い壁。
綺麗な長方形のホコリの中に見える、いくつかの硬貨。
御剣君は長い息を付き、額に浮かんだ汗をTシャツの袖で拭いた。
満足げな表情と共に。
「何、それ」
呆れて物も言えないとは、まさにこの事だろう。
普通の人間なら、これを動かすという発想すらない。
私がやったのはあくまでも冗談で、本当に動くとは思っても見なかった。
だが現に自販機は普段より一個分左にずれ、元の位置にはそれと同じ幅でほこりが積もっている。
「すごいね」
「いえ、それ程でも」
謙遜してるのだろうか。
もう、訳が分からないから笑っておこう。
あっ、ビデオ取れば良かったな。
いいか、後でもう一度やって貰えば。
「さてと。御剣君も飲めば」
「そうですね。なんか、たくさん落ちてるし」
二人で硬貨を拾い上げ、自販機の投入口にそれを入れる。
……戻ってくる。
もう一度やっても、結果は同じ。
よく見ると、表のディスプレイに文字が表示されている。
「盗難防止及び、転倒防止装置の異常により現在稼働を停止しています。……何よ、これ」
「いや、見たままなんじゃ」
「ちょっと、冗談じゃないって」
両手を付いて、自販機をぐいぐい押す。
当たり前だけどびくともしないし、逆効果だと思う。
「……何か」
「あなたが、余計な事するから」
「余計って、雪野さんも喜んでたじゃないですか」
「それはそれ。これはこれよ。元に戻して」
「分かりましたよ」
不満顔で自販機に取り付く御剣君。
何をするのかと思ったら、またもやぐいぐい押し出して自販機を元の位置へと戻した。
床に、幾筋もの後を付けて。
「これでいいですよね」
さっき以上の、満足げな顔。
いいのかな。
根本的に何かが違ってる気もするけど。
「うん。そうだね」。
御剣君は鼻歌交じりに、飲むジュースを選んでいる。
おかしいな。
全然、納得出来ないんだけど。
「何してるんですか」
不意に掛かる、冷静な声。
二人して振り向くと、小谷君が笑い気味にこちらを窺っていた。
「何って、ジュース買おうと思って」
「床の筋は?」
「猫が引っ掻いたんだろ」
適当に答える御剣君。
小谷君は鼻で笑い、彼の手へ視線を注いだ。
「何だよ」
「随分ホコリッぽいと思って。自販機の裏にでも手を入れたのか」
「違う。下にあったお金を……」
脇腹にボディーアッパーを打ち込み、言葉を止めさせる。
別にいじめてる訳じゃない。
床の修理代を請求されたら、彼が困ると思ったからだ。
この人の場合は、指で突いたくらいじゃ効かないしね。
「雪野さん、どうかしました」
「蚊がいたから、ちょっと」
「そうですか。床の補修費も馬鹿になりませんから、これをやった人は大変ですね」
「本当ね」
愛想良く応じて、今度は見えないようにして背中を突く。
「何だよ、俺がやったって言いたいのか」
人の好意が伝わってないのか、剣呑な物腰で彼に詰め寄る御剣君。
しかし小谷君は軽く数歩下がり、その距離を一定に保つ。
あくまでも冷静で、挑発に乗る様子もない。
この二人の戦いを見てみたくもないが、ここでやっても仕方ないだろう。
私も、床の補修代なんて払いたくないし。
「いいから、少し落ち着きなさい」
「ですけど」
「何よ」
彼の正面に立ち、見上げる位置にある顔を睨む。
怒りの表情はすぐに消え、たじろぎ気味に首を振る御剣君。
たまたま横を通りかかった女の子達は、逃げるようにして私達から離れていく。
「い、いえ。別に」
「分かったなら、いいの。はい、これでジュースでも飲んできて」
自分の拾った分を全部彼へ渡し、距離を詰める。
「でも、さっきはありがとう」
「い、いえ」
小声で交わされる会話。
ようやく緩む彼の表情。
年相応の、子供っぽい笑顔。
「じゃ、またね」
「あ、はい」
私に会釈して、小谷君には一睨みして去っていく御剣君。
こういうのも何だけど、ああいう姿は少し可愛い。
見た目や行動ではなく、彼なりの優しさや子供っぽさが。
「しかし、こんなのどうやって動かしたんです」
「押したのよ」
「まさか」
笑いながら、自販機にしがみつく小谷君。
当たり前だがわずかにも揺れる事はなく、彼の息が上がるだけだ。
「夢でも見たとか」
「じゃあ、その跡は何なの」
床に出来た、幾つもの筋。
丁度自販機が横に動いたら付くと推測出来る軌道。
「これからは、口の利き方に気を付けよう」
「本当に?」
「俺は、自販機程強くないですから」
ちょっと面白い答え。
確かに、これより強い人はそういないだろう。
自販機が攻撃してくる事はないが、攻められて根を上げるとも思えない。
根を上げられても困るけど。
「仕事中?」
「ええ。矢田さんの使いで、あちこちと」
「大変ね」
方々へ飛び回る事だけではなく、彼の下に付いている息も込めた言葉。
小谷君は曖昧に笑い、ようやく再稼働した自販機にカードを入れた。
「何か飲みます?」
「おごり?」
「自警局の交際費です」
「誰かにチェックされても知らないわよ」
さっき自分がやっていた事を思い出しつつ、クリーミーミルクのボタンを押す。
後輩に迷惑ばかり掛けてるとも思いつつ……。
「選挙は、誰に投票するの」
「秘密です」
珍しく、声を出して笑う小谷君。
ストレートに聞かれたのが、余程面白かったのだろう。
現職以外を推す先輩に付いている立場としては、余計に。
「雪野さんは?」
「今の会長。何度か世話になってるし、それ程おかしな事もしてないから」
「普通に考えれば、そうなんでしょうけどね」
自嘲気味な表情。
ただ、それを楽しんでいる雰囲気はなくもない。
「どうしてあの人は、あっちの候補に肩入れするの?」
「学校から、来期の局長を約束されてるんでしょう」
「そんなに、優秀なの?」
「厳しい意見ですね」
困惑とも取れる態度。
ただ彼は、怒る事もなく話を続けてくれた。
「後輩という立場でなくても、いい方だとは思いますよ。ただし他に優秀な人が多い分、周りの目は厳しいですけどね」
「モトちゃんや沙紀ちゃん?」
「ええ。後は自警課課長の北川さんに、遠野さんや木之本さん。能力だけでなく彼等との人間的な魅力を比較すると、かなり不利ですから」
やはり冷静な分析。
そこまで分かっていても、彼は矢田局長の下を離れない。
単なる先輩への義理立て、または彼なりの思惑。
どちらにしろ、楽しい事では無いだろう。
「もう一つ聞きたいんだけど」
実際は、あまり聞きたくない質問。
ただ、放っておく訳にも行かない問題。
「最近転校生って、多くない?」
「さあ。俺は、内局じゃないので」
「質問の仕方が悪かったね。おかしな連中は、転校してきてない?」
ようやく頷く小谷君。
苦笑というか、曖昧な感じで。
「何人かは、自警局で調査してます。多分、連合にも連絡は行ってるはずです」
「そう」
するとモトちゃんは、初めから彼の存在を知っていたのだろうか。
あの子が、調査対象ならという話だけど。
私は恐る恐る、その名前を告げた。
「いえ。知りません」
「リストには無いって事?」
「トップランクのリストには」
あまり安心出来ない答え。
ただ、要注意者としてはマークされてない訳か。
「調べてみましょうか」
「お願い」
彼と共に、情報局へと入っていく。
私が、自警局を嫌がったので。
受付に並ぶ、幾つもの端末。
小谷君は奥まった場所へ収まり、パスを入力した。
「それで見れるの?」
「ある程度のレベルまでなら」
「偉いんだね、小谷君」
「肩書きだけですよ。……これかな」
表示される自警局の調査対象者リスト。
それは危険度や行動別に、細かく分類されている。
彼はその中の一つを選び、別画面で開いた。
「何をしてるんだ」
「いいじゃない、何でも」
「君は、いつも攻撃的だな」
冷静に指摘してくる生徒会長。
この暑い最中、ネクタイまで締めている。
いや。今は選挙中だから生徒会長じゃないのかな。
どうでもいいけど。
「要チェック者のリストか。何か問題でもあるのかな」
「今は、別に。ただ、知り合い絡みでちょっと」
「舞地さん達は、大人しいと思うが」
「自分がそう思ってるだけでしょ。……小谷君、それ」
画面に触れ、自分で先に表示される。
彼のプロフィールと、数枚の写真。
これといって気になる点は無く、自警局がチェックしているのも学校外生徒だからだろう。
「どうです」
「少し安心した。これ以外の情報は?」
「今の所は、無いみたいです」
「そう。ありがとう、もういいよ」
彼にお礼を言って、取りあえずデータをコピーしてもらう。
細かな推測は、サトミやケイがするだろう。
「そういえば、選挙は」
「取って付けたみたいに聞いてくるんだな」
あくまでも冷静に応対する会長。
私も大して興味はないので、適当に手を振って彼から離れる。
「いいんですか?」
困惑気味に後を付いてくる小谷君。
良いも悪いも無い。
「別に、あの人へ会いに来た訳じゃないから」
「理屈はそうですけど。やっぱり違いますね」
「悪かったわね」
「誉めてるんですよ、一応」
一応って言うな。
待てよ。
「……あなたは、どうしてここに来たの」
「情報局長を兼務してるから。選挙結果を改ざんしようとか、相手を妨害させるためじゃない」
即座に返ってくる答え。
私の考えくらい、軽く読み通せるらしい。
「あ、そう。どうでもいいけど、私のデータは見ないでよ」
「ああ、分かった」
素直に頷く会長。
同時に感じる、周囲からの視線。
学内でトップに立つ存在に対しての、私の態度が関心を呼んだらしい。
いいじゃないよ。
どっちも生徒は生徒。
立場は、対等なんだから。
多分。
「じゃあ、選挙頑張って」
「一票入れます、くらい言わないのか」
「甘い物でもくれたら考えるわ。じゃあね」
目の前に置かれた、竹筒に入った水ようかん。
勿論会長が届けてきた訳ではなく、天満さんから流れてきたらしい。
それは嬉しいけど、賞味期限は大丈夫だろうな。
「……どうした」
「美味しいかなと思って」
「それ程甘くなくて、結構食べやすい」
口元を舐め、二つ目に手を伸ばすショウ。
すぐには来ないから、もう少し待った方がいいかな。
「毒味でもさせてるの?」
「だって、これいつのよ」
「さあ。私も、もらっただけだから」
私同様、手を付けようとはしないサトミ。
悪い子だな。
「あなたは、食べないの」
「どうして」
「水ようかんは嫌い?」
サトミは小さめのスプーンを添え、短い竹筒と共にケイへ差し出した。
それはすぐに裏返され、スプーンが手に取られる。
「美味しい?」
「まずくはない」
素っ気ない感想。
ただショウの具合を見ていても、食べて問題は無さそうだ。
「本当に大丈夫?」
「さあね」
取りあえず一つを引き寄せ、裏を返す。
賞味期限は。
「今、何月」
「7月よ」
「そうだよね」
竹筒を戻し、スプーンを置く。
サトミも裏を返して、すぐにショウへ視線を走らせた。
「どうした」
「あなたこそ、大丈夫」
「大丈夫って、また食べられるぞ」
噛み合わない会話。
取りあえず、胃腸薬でも探そう。
そっちも古くなっていたら、ちょっと嫌だな。
「あなたは、どうして食べてるの」
当然の疑問を口にするサトミ。
わざわざ期限切れを確認してまで食べたケイは、お茶の入ったマグカップに口を付けた。
「このくらいなら、問題ない。あくまでも味が落ちるだけで、悪くなってる訳じゃないんだから」
「知らないわよ。お腹をこわしても」
「だから、平気なんだって。二人も食べろよ……。おい」
「なんだ」
スプーンをくわえながら応じるショウ。
空になった竹筒の山を前にして。
違う意味で、お腹を壊すんじゃないのか。
「何で、全部食べてるんだ」
「いや。みんな食べないから」
「取っておけばいいだろ」
「期限切れなんだぜ。今食べないと、そっちの方がまずいだろ」
なんだ、分かってたのか。
というか、分かってそれだけ食べたのか。
なんか、力が抜けてきた。
「サトミ」
「どうしたの」
「お医者さん呼んであげて」
「ああ。そういう事」
この辺りは、以心伝心。
すぐに端末で連絡を取るサトミ。
読みの鋭いケイが腰を浮かすが、軽く睨んで座らせる。
のんきに竹筒をひっくり返して、わずかな残りを食べようとしている人は放っておいて……。
「おまたせ」
満面の笑みで飛び込んでくるモトちゃん。
ケイはげんなりした顔で、机に伏せた。
ようやく事態を悟ったショウも。
「お腹の調子が悪い時には、これとこれとこれ」
見た事もない色の粉末と、木の枝。
最後のは、あまり見たくない。
「さあ、どうぞ」
あくまでも嬉しそうな笑顔。
彼女の厚意というよりは、自分が飲まなくていい事からの喜びだろう。
「別に、調子は悪くない」
「悪くなった後では遅いでしょ」
すぐに切り返すモトちゃん。
ショウは先に観念したのか、木の枝を少しかじった。
まずくはないらしい。
美味しくもないだろうが。
「ケイ君も、ほら」
「何で、粉なんだ」
「ライスペーパーならあるわよ」
楽しげに笑うサトミ。
いつもよりも明るく、溌剌として。
元気なモトちゃんを、視界に収めながら。
粉を口にして顔をしかめるケイに、笑い声が上がる。
何でもない、平凡な日常。
どこにでもある、いつでも出来る出来事。
今はそう思える。
でも年を重ね、月日が過ぎ去った時。
この瞬間を懐かしむ時が来るのだろう。
友と過ごし、笑い合った日々を。
二度とは戻らない、何にも代え難い瞬間を。
それをいつか笑顔で語り合うためにも。
この笑顔を絶やさないためにも。
私に出来る事をする。
私しか出来ない事でなくてもいいから。
彼女達の。
彼女のために。