18-5
18-5
ゆっくりと足を前に出し、肘を曲げたまま腕を横へ流す。
相手の腕と途中で重なり、私はそのまま前に出した。
さらに前へ歩き、相手の腕をかわしつつ横へ動く。
目の前に来る首筋。
そこへ腕を進め、下がる相手と歩調を合わせる。
あくまでも静かに、緩やかに。
しかし額には汗が浮かび、頬を伝っていく。
殺気や闘志ではなく。
激しい緊張と張りつめたお互いの空気。
中国憲法の聴勁に似た、一連の動き。
お互いの呼吸と技量。
信頼感が無ければ成り立たない行為。
「ふぅ」
腕を降ろし、息を付きながら肩を揉む。
凝っている訳ではないが、精神的に。
「なかなかいいですよ」
穏やかに微笑む、ジャージ姿の水品さん。
ここは幼い頃通っていた、RASの道場。
玲阿流を習う事になってから、私はまた通うようになっていた。
ショウの実家。
つまり玲阿流宗家で学ぶ事は出来るし、そちらへ行く事もある。
それでも自然と、足はこちらへと向く。
私にとって先生と呼べる人は、彼しかいないから。
「じゃあ、今度は俺と」
派手に肩を回す、Tシャツと短パン姿のショウ。
彼は、殴り合う気らしい。
いいんだけど、ちょっと嫌だ。
「四葉さんと、ですか」
「いいだろ、別に」
「恐れ多いなと思いまして。宗家のご子息と戦うのは」
くすくすと笑う水品さん。
ショウは鼻の辺りを掻いて、辺りを見渡した。
「宗家って、俺より水品さんの方が強いだろ」
「風成さんにも言っているように、外部の人間が上に行くと何かと揉めますから」
「大丈夫だって。ここは、俺の事を知ってる奴もいないみたいだし」
声をひそめるショウ。
そこまでして、やりたいのかな。
「では」
そう呟いた途端、何気なく手を前に出す水品さん。
素早く反応して、ショウはそれをかわす。
今度はローキック気味の足払い。
横へ流れるショウ。
水品さんは滑るような足取りで前に出て、肩から彼に当たった。
「はい、終わり」
マットの敷かれた床に転がるショウ。
彼に手を差し伸べる水品さん。
全ては本当に、一瞬の動き。
おそらく私には見えないくらいの小さなフェイントを、水品さんは幾つも入れているんだろう。
ショウがここまで子供扱いされるのは、まず見た事がない。
それが見られるのは玲阿流の宗家。
後は、ここくらいだろう。
「何だよ、もう」
「修行が足りませんね」
「あのさ」
「全然なってないじゃない」
彼の肩をペタペタ叩き、水品さんにはタオルを渡す。
格好いい男の子よりも、まずは先生に尽くさないとね。
「ありがとうございます。四葉さんにもタオルを」
「大丈夫。汗もかいてませんから」
「ユウが言うな。ったく」
「弱いのに頑張るからよ」
ここぞとばかりに彼を責めて、先生の肩を揉む。
はは、なんか楽しいな。
「……あれは」
不意に怖い声を出すショウ。
別に私を怒った訳ではなく、視線はドアの辺りに向けられている。
黒いジャージを着た、10人あまりの集団。
顔付きは険しく、雰囲気は剣呑の一言。
「道場破りって感じだけど」
「そのようですね」
落ち着いて答える水品さん。
ショウは再び肩を回し、Tシャツの袖をまくり始めた。
彼等と応対する、他のインストラクターさん達。
すぐに殴りかかってくる真似はしないようだが、怒鳴り声はここまで聞こえてくる。
「水品さん、どうする」
「帰ってもらうしかないでしょう」
「どうやって」
「まさかお金を渡す訳にもいきませんし、練習生が怪我をしてもいけませんし」
あくまでも慌てない水品さん。
ショウは少しずつアップを早めていく。
「四葉さんがやりますか」
「俺は問題ないけど」
「玲阿家には内密にしておきます。それに道場破りが問題になるなら、瞬さんは今頃庭に埋まってますよ」
軽く手を振る水品さん。
それに気付いたインストラクターさん達が、道場破りの連中を連れてくる。
近付くと分かる、彼等の体格。
殆どの物がショウに及ぶくらいの大きさで、当たり前だが素人ではない動き。
わざわざここへくるくらいだから、自信もあるのだろう。
練習生は全員が事務所へ避難し、残ったのはインストラクターさん達と水品さん。
そしてショウ。
広い道場内で、彼一人と男達が向かい合う格好となる。
「お前が相手か」
「不足かな」
「ここの練習生か」
「そんな所だ」
落ち着いた物腰。
10人以上の相手に威圧されても、微かな動揺すら見せてはいない。
視線の配り方。
足捌き、何気ない仕草。
何より、その佇まい。
見る者が見れば、彼がどういう存在かは自ずと理解出来る。
だから、彼に戦いを挑む者は少ない。
反発、功名心、敵意という言葉が加われば別だが。
つまり、今ここにいる男達のように。
「勝手に上がり込んだんだ。怪我しても、文句は言うな」
「お前。一人で俺達全員と相手をする気か」
侮蔑気味の視線。
ショウは首を回し、視線を先頭に立っている男へ据えた。
それだけで引き締まる、周囲の空気。
男は一瞬気圧された顔をして、彼を睨み返した。
「お前みたいなガキを相手にしても仕方ない。そっちのインストラクターとやらせろ」
横へ流れる視線。
私を後ろはかばう格好で腕を組んでいる水品さんへと。
華奢とも言える、細身の体。
年齢も40前後に見え、顔も強面ではない。
単純に、勝てると踏んだのだろう。
国内だけではなく、世界的にも最強と呼ばれるRASのインストラクターに。
「私、ですか」
「別にいいんだぜ、後ろの子供でも」
下品に笑う男。
仲間もそれに追従する形で笑い出す。
小馬鹿にした、耳障りな声で。
「そうですか」
目の前から消える背中。
宙を飛んだのか、床を滑ったのか。
気付けば水品さんは男の前に立ち、足を高く振り上げてた。
こめかみ、首筋、膝で脇腹、太股、かかとで足の甲。
全ては片足で、一瞬に。
男は呻き声すら上げず、床へと崩れ去った。
「道場破りも結構ですが、態度は慎むように」
「なっ」
「人の生徒を馬鹿にするなという事です」
静かな、落ち着いた声。
だがそこに込められた威圧感は、何にも例え難い。
それを向けられただけで心が押し潰されそうな、存在すら敵わないと思える程の。
そして私にとっては、何にも代え難い。
大きな、力強い温もり。
「何だよ」
さっきと同じ言葉を漏らすショウ。
馬鹿連中は、尻尾を巻いて去った後。
彼にとっては、獲物を目の前でさらわれたようなものだから。
「いやいや。私も大人げない」
「分かってるなら、やるなよ」
「君のお義兄さんのせいでもあるんですけどね」
「風成の?」
ショウにとっては義兄でもあり、従兄弟でもある風成さん。
その彼に関係があるという事は。
「例の、RASのオープントーナメント?」
「ええ。風成さんが出場すると分かってから、色々仕掛けてきます。今のは、純然たる道場破りかもしれませんけどね」
「家の方には、何もないけど」
「どれだけ腹が立っても、虎のねぐらに忍び込む馬鹿は滅多にいません」
なる程、上手い事言うな。
それでショウが納得したかどうかは、ともかくとして。
「試合って、いつなんです。全然やらないけど」
「年末辺りですね。まだ国内予選と海外予選も終わってませんし」
「詳しいんですね」
「一応、実行委員長なので」
さらりと言ってくる水品さん。
国内では最大規模であり、海外でも注目度が高いRASのオープントーナメント。
その実行委員長ともなれば、一インストラクターの範疇を越える仕事。
それだけ水品さんが優れた指導者であり、それをこなせるだけの能力を持っているという事だろう。
実力については、言うまでもなく。
「先生って、偉かったんですね」
「単なる雑用です。雪野さんも手伝います?」
「嫌だ」
きっぱり、予断無く答える。
面倒だし、向いてない。
「水品さん。弟子に恵まれてないな」
「身を挺してかばった甲斐が無いですね」
声を揃えて笑う水品さん。
いい年をして、結局は血の気の多い。
私にとって、ただ一人の先生……。
夏休みは、もう間近。
テストも終わり、これといってやる事もない。
すでに生徒の半数は自主的に夏休み。
ガーディアンはそういう事が許されない規則なので、私は学校に来ているが。
とはいえやはりやる事はなく、オフィスにこもってうだうだする。
「暑い」
胸元のボタンを一つ外し、下敷きで風を送り込む。
リボンは、当の昔にリュックの中。
「見えるわよ、ユウ」
「見える程もない」
自分でそう答え、一応姿勢だけは起こす。
その瞬間、背後に気配。
肘を持っていき、さらに腕を伸ばす。
「わっ」
鼻先をかすめる裏拳。
ケイはすごい形相で、人を睨んできた。
私も対抗上、彼を睨み返す。
「あのさ」
「後ろに立たないで」
「三流の殺し屋みたいな事言いやがって。胸も貧弱なら、心も粗末だな」
なる程。
上手い事言うな。
「暑いね」
「そうね」
事も無げに応じるサトミ。
脇腹を押さえて身をよじっているケイには、目もくれず。
「エアコンはどうなってるの」
「私に聞かないで」
美味しそうに、ミルクみぞれをほおばるサトミ嬢。
この子、いつの間に。
「ちょっと、私の分は」
「知らないわよ。ウェーターさんに注文して」
「ショウ、ショウー」
狭いキッチンから顔を覗かせるショウ。
小さなかき氷器を抱えて。
「私、イチゴミルク」
「無い、そんなのは」
「仕方ないな。じゃあ、何があるの」
「練乳」
コンデンスミルクか。
それも、悪くないな。
「じゃあ、紅茶を濃く出して砂糖を大目に」
「何が」
「シロップよ、シロップ。分かんない人ね」
「だったら、自分でやれ」
ちっ。
これだから、おぼっちゃまは。
というか、彼の言う通りなんだけど……。
ティーバックを解き、半分を小鍋で煮る。
焦げ付かないように、慎重に。
ある程度煮立った所で残りの葉を入れ、香りを付ける。
後は砂糖をたっぷり加えて、茶こしでこすと。
「削って」
「はいはい」
よく分からないけど、ペンギンの格好をしたかき氷器。
その頭の部分に取っ手があり、回すスタイル。
電動でないのが、おかしくて可愛い。
「あ、出てきた」
「回せば出てくるだろ」
情緒のない答え。
分かんない人だな。
ちらちらと降ってくる、氷の欠片。
小さな、照明を受けてきらきらと輝いて。
少しずつ降り積もり、白い小山を作っていく。
「もういいよ」
「半分も入ってないぞ」
小さな、少し深いガラスの器。
量的には確かに少ない。
ただ私にとっては、適量である。
「残りは、ショウが食べて。さてと」
さっき作った紅茶のシロップをかけ、白い小山を茶色く色付かせる。
一気に駆け下りてくる、幾筋もの流れ。
濃い茶と氷の白。
食べ物は舌だけではなく、目でも味わう物だと強く実感する。
「俺は、砂糖でいいや」
嫌な台詞を呟き、自分の器に削りきれなかった氷を放り込むショウ。
確かにもったいないとは思う。
あまり真似をしたくはないが。
「……美味しい」
口の中に広がる、苦みと甘み。
それに続いて紅茶の香りが、鼻へと抜けていく。
半分の葉を、最後に入れたのがポイントだね。
「冷たいな」
他の感想はないのか。
普段いい物食べてるはずなのに、どうして舌が肥えないのかな。
「お前は食べないのか」
「ジュースの方がいい」
大きなペットボトルでがぶ飲みするケイ。
よく飲めるというか、よくトイレに行くというか。
見てるこっちがお腹一杯になってくる。
「でも、かき氷器なんてどこで手に入れたの」
「天満さんに頂いたの。メーカーの、生産中止品ですって」
「今時、手動だからな」
それは良いけど、要はいらない物じゃないのか。
サトミは分かってるらしく、やるせないため息を付いている。
ショウは一人のんきに、喜んでるが。
人がいいのも、程々にして欲しい。
「エアコンは、直らないの」
額の汗をタオルで拭い、窓の上を睨み付ける。
少し、音はしている。
でも、涼しくはない。
「直るも直らないも、壊れてない」
意外な事を言ってくるケイ。
「じゃあ、どうしてこんなに暑いの」
「生徒会の通達で、温度を一定以上下げられないように決まってる」
「どうして」
「生徒もいないのに、エアコン代に金をかけてる場合じゃない」
「エ、エアコンのお金なんて、そんな大した額じゃないでしょ」
一気に熱くなる頭。
対してケイは、冷静その物。
気楽そうに、お茶を飲んでいる。
「ただで使ってるんだし、文句言うなよ」
「オフィスの使用代は」
「エアコンは別なの。遠野さん、教えてあげて」
「使用代に含まれるのは、あくまでもこの部屋というか建物に対して。光熱費は、生徒会と学校が折半してるの。その内水道も、給水制になるって話よ」
いつの時代の事を言ってるんだ。
食堂も、配給制になるんじゃないだろうな。
「面白くない。というか、暑い」
「あなた、そればっかりね。表面積が少ないから、気化熱が発生しにくいのかしら」
「下らない事を、冷静に分析しないで。プール、プール行こう」
「馬鹿。でも、悪くはないわ」
甲高い嬌声。
ガラス張りの天井から差し込む夏の日射し。
足元は絶えず水が押し寄せ、ビーチボールが目の前を転がっていく。
「蒸し暑い」
学内にある、室内プール。
湿気があって、日射しがある。
でもって、熱の逃げ場がない。
しかも制服姿のままなので、なんかしおれてきた。
「来るんじゃなかった」
それでも素足をプールに浸け、わずかな涼を楽しむ。
みんなは楽しそうだな。
私も、泳ぎたいな。
何だろ、ガーディアンって。
馬鹿みたい。
「何よ」
「いや、泳ぎたいかなと思って」
こっちへ向かって、両手を付き出して来るケイ。
ははと笑い、その腕を掴んで軽く流す。
「わっ」
悲鳴が上がり、水飛沫も上がる。
なんて事はなく、一応はショウに目配せして受け止めてもらう。
「こ、この」
「落ち着け」
「落ち着けるかっ」
珍しく怒ってる。
でも構わず、水着姿の格好いい男の子に目を移す。
「サトミ、あの子」
「ちょっと、にやけ過ぎね。あっちは」
「ああいうの嫌。向こうの、ほらプールサイドにいる子」
二人で、あれやこれやと品定めをする。
しかし、これといった逸材は少ない。
草薙高校も、どうも人材不足だな。
普段目にしている人達のレベルが高いので、自然と辛くなっているのかも知れないが。
「あ、あの子」
「まだ言ってるの」
「違う。ほら」
呆れ気味のサトミを振り向かせ、反対側のプールサイドへ指を指す。
やや長身。
少し陰のある、凛々しい少年。
「ああ、モトの」
そこで言葉を切るサトミ。
私も特には語らず、彼を見る。
正確には、彼を取り囲んでいる人達を。
「トラブル発生か。ボクシング部かな、あいつらは」
「よく知ってるね」
「それだけ遊んでるのよ、この子は」
釘を刺されたショウは肩をすくめ、プールサイドを回り始めた。
ペタペタ音がするのは、この際仕方ない。
ただ、あまり格好良くもない……。
「どうした」
静かに語りかけるショウ。
室内プールという性質上、こもった声が微かに響く。
彼を囲んでいた男の子達はショウを見て、短く挨拶をした。
「遊んでたら、こいつが文句付けてきてさ」
「俺は、何もしてない」
「人の肩を、いきなり掴んでおいてか」
「相手が嫌がってたから、止めただけだ」
ナンパと、それを見咎めた側という訳か。
普段なら適当にお互いを説得して引き離す所だけど、今回は状況が違う。
一方は、運動部。
一方は、モトちゃんとの因縁がある相手。
ガーディアンが間に入ると、揉める原因でもある。
幸いお互いそれ程ヒートアップはしていないし、顔見知りなのは助かるが。
「私達は運動部に関わらないよう言われてるんだけど」
「別に、ケンカしようって訳じゃない」
あっさり引く、ボクシング部の子達。
ここで揉めるより、プールで泳ぐ水着姿の女の子が大切なんだろう。
後に引きずる雰囲気でも無さそうだし、大丈夫か。
「うわ」
不意に変な声を出すケイ。
「どうしたの」
「モトが来た」
どうしてと聞き返す間もなく、彼女の姿が目に入る。
制服なので、遊びに来た訳ではないようだ。
そして彼女は真っ直ぐ、こちらへ向かっている。
まずいな、色んな意味で。
「か、解散。ほら、解散よ」
「何言ってるんだ」
「解散って」
顔を見合わせるボクシング部。
彼も不思議そうに、私を見下ろしている。
駄目だ、埒が開かない。
「解散って言ったら、解散なのっ。ほらっ」
「わっ」
「えっ」
「なにっ」
連なって上がる水飛沫。
浮いてくる幾つもの頭。
恨みがましい視線と共に。
「ほら、行って。行って」
「無茶苦茶だな」
「行こうぜ」
「ああ」
すいすい泳いでいくボクシング部。
良かった良かった。
これで一件落着と。
「……雪野さん」
地の底から届いてきたような声。
俯いた顔。
濡れそぼった前髪。
「な、なに」
「いい年して、水遊び?」
「そ、そうじゃない。こ、これには訳が」
「じゃあ、その訳を教えて」
優しい。
怖いくらいに優しい笑顔。
無論訳なんて言える訳もなく、モトちゃんに背を向けてプールサイドを駆けていく。
「そこの女の子、プールサイドは走らないで」
ホイッスルと共に、スピーカーで注意された。
誰だか知らないけど、ふざけた人だな。
仕方ないので走るのを止め、急ぎ足で歩いていく。
当然モトちゃんも、すぐに追いすがってきた。
「言いなさいよ」
「嫌だ」
「サトミ」
「私も嫌。言いたくない」
強行に拒否するサトミ。
細い目を、さらに細めるモトちゃん。
その頬が、ふと赤くなる。
室内の温度のせいだけではないだろう。
「……あなたは」
「久し振りだな」
偶然、それとも故意にか。
プールサイドを上がってくる、例の彼。
足を止め、呆然と立ち尽くすモトちゃん。
こうなっては仕方ない。
後は二人に任せるしかないだろう。
「行こう、みんな」
「これだから、嫌だったのよ」
「別にいいだろ」
「俺も濡れたよ」
幾つもの台詞を背に受けて、プールサイドを歩いていく。
楽しそうに会話を交わす二人を振り返って。
この出会いが良かったのかどうかを、深く考えないようにしながら。
自分でも分からない、複雑な思いと共に。
「あの子は、どうしてあそこに来たの」
「運動部とガーディアンが揉めてるって連絡があったんだよ」
くすくす笑う木之本君。
誰だ、そんな通報をしたのは。
多分、あのふざけた注意をした人だな。
そんな暇があるなら、自分で止めればいいのに。
「……お待たせ」
颯爽と現れる、長身の女性。
服装は制服で、胸元には「SDC代表」のIDが。
「つくづく揉めるのが好きね」
「別に揉めた訳じゃないです。誤報ですよ」
「確かに、ボクシング部の部員の話でもそうなってる」
「仕事熱心なのも、考え物だな」
肩に担いだ木刀を、壁に立て掛ける男の子。
彼はTシャツにスパッツで、クビにはホイッスルが掛かっている。
「女の子を見てただけじゃないの。右藤君」
きっと睨む女性。
右藤と呼ばれた男の子は肩をすくめ、テーブルの上にあったIDを胸に付けた。
それには「SDC副代表」とある。
「とにかく、プールサイドは走るなって事さ」
「何、それ」
「こっちの話。それで、ボクシング部の連中は」
「誤報って言ってるわよ、優さんは」
睨む女性。
右藤さんは鼻を鳴らし、机の上にある卓上端末の画面を覗き込んだ。
「転入生との、軽い言い合い。この時期に転入生か」
「思い当たる節でも」
「兄貴達の事なら」
一瞬すごみを増す彼の顔。
だがそれはすぐに消え、元の明るい笑顔に戻る。
「傭兵って言うのかな。あれだろ」
「多分ね」
「嫌だ、嫌だ。真由ちゃん、どうなってるの」
「知らないわよ、私だって」
邪険に突き放す真由さん。
フルネームは、鶴木真由。
実戦系剣術の宗家の長女であり、SDC代表。
ショウとは遠縁に当たり、私も中等部の頃から彼女の道場に何度と無く通っている。
「優さんは何か知ってる?……優さん」
「え。ああ」
「どうしたの」
怪訝そうに見つめてくる真由さん。
私は笑顔を浮かべ、室内を見回した。
広く、大企業の重役室のような調度品。
彼女の座っているのは革張りの大きな椅子で、私なら3人くらい座れそうなくらい。
「前の部屋より広いなと思って」
「ああ、あそこは資料室よ」
「え」
「三島さんが自分で机や棚を運び込んで、代表代行の部屋にしたの。義理堅い人よね」
楽しそうな。
ただ、どこか翳りのある笑顔。
「左古さんの落書きとか無いのかな」
「あの人は、そんなセンスのない事はやらないのよ。自警局長室は知らないけど」
「兄貴は、やりそうだな」
彼のお兄さんは、屋神さんの前の自警局長らしい。
確か、そういう名前だった記憶もある。
「とにかく、問題は無し。ボクシング部についてはこちらで処理するから、もう帰っていいわよ」
「あ、はい」
「今度は、道場で会いましょ」
代表執務室を出た所で、鼻先に書類を突き付けられた。
「何よ」
「始末書」
「どうして私が」
「ガーディアンは、運動部とは揉めないのが慣習でしょ。自警局が、そちらで処理して下さいって」
口元に手を当てて笑う黒沢さん。
高笑いと言い換えてもいい。
「別に、私は揉めてないわよ。誤報だって、誤報」
「本当ですか」
疑わしそうに、人の顔を覗き込んでくる青木さん。
それも、かなり楽しそうに。
「大体、あなた達どうしてここいにるの」
「私、事務局の人間だもの」
「私もです」
「ふーん。格闘系のクラブが主流だと思ってたのに」
友は出世し私は一人取り残される、という訳か。
いや。一人じゃないな。
「ニャンはいないの」
「あの子は、アジアGPに出場するからその練習」
「ちっ。面白くないな」
「素直じゃないですね、雪野さん」
くすくす笑う青木さん。
私の考えなど分かっているという顔で。
「いつも、ユウがお世話になってます」
親みたいな事を言って会釈をするサトミ。
黒沢さんは前髪を横へ流し、たおやかに微笑んだ。
「こちらこそ。まさか、遠野さんにお礼を言って頂けるとは思っても見なかったわ」
やや険のある言い方。
何となく見つめ合う二人。
黒沢さんは、どちらかと言えば勝ち気な方。
サトミも、見た目程冷静なタイプではない。
「どうした。何かあったのか」
木刀を担ぎながら、部屋を出てくる右藤さん。
二人はすぐに肩を抱き合い、首を振った。
お互い変な力がこもっているようにも見えるが、気のせいだろう。
仲が良いんだか、悪いんだか。
「そうか。俺はプールの監視に戻るから、後は頼む」
「はい。分かりました」
「どうして、黒沢さんに頼むんですか」
「次期代表だから」
冗談を言ってる顔ではない。
言いそうな顔には見えるが。
「来期は、まだ真由ちゃんがやるけどな。本来なら2年に継ぐんだけど、多少事情があってさ」
「事情。それって、学校とのトラブルが関係してるんですか」
「そうらしい。俺は、当事者じゃないからどうでもいいが」
当事者、つまり塩田さん達から要請でもあったのだろうか。
つまり、何かあった時は彼等が責任を取るという事が。
「俺の場合は兄貴達の絡みもあるし、そう学校のいいなりになる訳にも行かない」
「はあ」
「その内、俺ともやろうぜ。君も」
私の肩越しに伸びる木刀。
その先には誰でもない、ショウがいる。
「はあ」
私と同じ反応。
この人は素手で、右藤さんは木刀。
そうなるのが普通だろう。
「武器を持った相手ともやり合うんだろ」
「ええ、まあ。随分、詳しいですね」
「真由ちゃんから、色々聞いてる。先祖が、御土居下同心とか」
分からないと言う顔をする、黒沢さんと青木さん。
私は以前聞いたけど、よくは把握していない。
「要は尾張徳川家藩主の護衛で、街道沿いへ家を構えた武士の事。いざという時は彼等が藩主を守って、木曽まで逃げるって訳」
簡単に説明するケイ。
相変わらず、変な事は知ってるな。
「実際は七代藩主宗春と幕末の時に多少活動しただけで、ずっと身分を隠して生涯を過ごしたらしいけど」
「お前、俺の先祖の事まで知ってるのか」
「これは郷土の、歴史的な事実だ。一度、定光寺でも行って来い」
よく分からないけど、参考にはなる。
真由さんの家が剣術の宗家というのも、納得が出来る。
御剣君の家は苗字がそのままだし、あそこは稽古に武器を使う事もある。
ショウの家が無手、つまり素手の宗家なのは理解しにくいが。
何にしろ、古い家だというのは分かった。
少なくとも、うちよりは。
というか、おじいちゃん達より上が辿れない。
「舞地さんの先祖は?」
「知らない」
終わる会話。
つまらない人だな。
いいや、放っておこう。
「池上さんは」
「さあ。京都の実家に戻れば、少しは分かると思うけど。町民じゃないのかしら」
「ふーん。名雲さんは」
「聞いた事無い。大体親父なんて、骨もないぜ」
大笑いする名雲さん。
笑い事じゃない。
「柳君は」
「僕?どうだろう。対馬だから、中国大陸から渡来してきたんじゃないかな」
「柳って、向こうの名前っぽいもんね」
なる程。
少し分かった。
気になった。
「雪ちゃん。あなた、ここで遊んでていいの」
三つ編みを結びながら尋ねてくる池上さん。
何だかな。
「いいの。どうせモトちゃんも遊んでるし」
「聡美ちゃんと?」
「違う」
さらに言葉をつなげようとして、慌てて思い留まる。
ここで言う事ではない。
というか、言うべきでもない。
「男と会ってるんだろ」
唐突な言葉。
一斉に向けられる視線。
「プールで見た」
特に動揺した様子も見せず、淡々と告げる名雲さん。
彼もいたのか。
ますます最悪だな。
「……なんだよ」
「気にならないのかなと思って」
「どうして」
不思議そうな顔。
ただ、多少そう振る舞っているようにも取れる。
「素直じゃないね、名雲さん」
彼の肩に手を置く柳君。
名雲さんは面倒げにそれを振り払い、長い足を組み替えた。
「俺が関わる事でもないだろ」
「ふーん」
舞地さんはキャップを被り、席を立った。
「おい」
「お茶を買いに行くだけ」
「目の前にあるだろ」
「紅茶が飲みたい」
彼女の前にあるのは番茶。
確かに、紅茶ではない。
外に買いに行く程好きなのかと考えると、相当に疑問だが。
「今いれる。座ってろ」
「チャイでお願い」
「この野郎」
「私ダイエットソーダ。後、イチゴスフレがあるからそれもお願い」
怖い顔で、待機室を出て行く名雲さん。
彼女達の様子を見に行く振りをして、こうさせるのが目的だったのかも知れない。
「で、誰なの」
興味津々という顔で身を乗り出す池上さん。
舞地さんは気のない顔をしつつ、耳はこちらに傾けている。
「失礼だよ。池上さん。でも、どんな人」
何だ、それ。
「中等部の頃、何度か会っただけ。モトちゃんよりも、向こうが彼女を好きだった記憶がある」
「幼い恋心って訳。乙女チックな話ね」
手を揉みしぼり、うっとりした顔で天井を見上げる三つ編みの少女。
どっちが乙女チックなんだ。
「それで、焼けぼっくいに火が点いた訳か」
「嫌な言い方しないで。そういうのじゃないわよ、多分」
この辺りは自信がないので、答えも頼りなくなる。
「じゃあ、何」
「だから、私は知らないんだって。それに、どうでもいいじゃない」
「それはそうだ」
あっさりと認める舞地さん。
一人であれこれ悩んでいるこっちとしては、かなり拍子抜けする。
「あ、あのね」
「そういう話に、興味はない」
嘘ばっかり言って。
「後輩の事が心配じゃないの」
「元野は、そんな馬鹿じゃない」
「そうだけど。でも相手は傭兵だって言ってるのよ」
「傭兵がどうしたって」
マグカップやグラスの乗ったトレイを持って、部屋に入ってくる名雲さん。
「あいつなら、俺も知ってる。そう悪い奴じゃないって話だ」
「気にならないの」
「何が」
「……もういい」
マグカップをトレイから取り、一口含む。
紅茶とミルクと、香辛料の複雑な味わい。
美味しいけど、今は少しの引っかかりがある。
「人のを勝手に飲まないで」
「いいじゃない。飲みたかったんだから」
無茶苦茶な理屈を言って、マグカップを舞地さんに渡す。
面白くないな。
「とにかく、ちゃんとしてよ」
「何を」
「それは、自分で考えて。じゃあね」
いくつかの制止の言葉を振り切り、部屋を飛び出る。
イチゴスフレか。
やっぱり、疲れた時には甘い物だな……。
「あ、美味しい」
目を細め、チョコスフレを食べるサトミ。
出所は、明かさないでおこう。
「あなた、どこ行ってたの」
「色々とね」
「そう。幾つか書類が来てるから、目だけでも通しておいて」
「面倒だな。えーと」
夏休み中のパトロール?
パス。
寮の掃除のボランティア?
パス。
小等部とのバーベキュー大会?
面白そうじゃない。
「何よ、これ」
「夏休み前に、決めておく事。どれも強制じゃないから、参加したいのがあったらサインして自警局に提出して」
分厚い書類の束をめくり、サトミの名前を探してみる。
あった。
「体験学習・スーパーカミオランドでニュートリノの重量を量ってみよう」
そんなの量ってどうするんだ。
自分の体重でも調べてればいいのに。
「ショウは」
「俺は、実家が忙しいからパス。RASのインストラクターも頼まれてるし」
それでバイト代も稼ぐ訳か。
だったら私も、協力しないといけないな。
「ケイは、何かするの」
「この暑い中、どうして」
「少しは、何かにやる気を見せたら。燃え上がったら」
「暑いから、向こうに行ってくれ」
人を手で追い払うケイ。
面白くないから、勝手に名前を書いてやろうかな。
でも、筆跡ですぐに気付かれるか。
いいや。
これは、夏休みまでの宿題にしておこう。
「ガーディアン絡みでは、何もないの?」
「あるわよ。ユウがやってくれるなら、どれだけでも」
「何でもない。私は、宿題でもやってる」
「そう。モトの事もあるし、人手が欲しい所なのに」
やるせないため息。
重い表情のショウ。
マンガを読んでにやけているケイ。
何だかな。
「あなたね。少しは真剣に考えてるの」
「昔の男とよりを戻しただけだろ」
「そういう、俗っぽい考え方しないで」
「いいだろ、俺達が気を回さなくても。回す必要があるのは、一人だけさ」
冗談めいた口調。
ただ、その意味は私も十分に理解している。
サトミとショウも、勿論。
彼の言う通り、私達が騒ぐ事ではない。
関わる必要もない。
理屈としては。
ただ、気持はまた別だ。
本人が望もうと望まないとに関わらず。
不測の事態にだけは備えておきたい。
傭兵という彼の現在。
かつての、舞地さんの出来事と重なる状況。
あの出来事を繰り返さないためにも。
ただし彼が今は、どういう人間なのかは分からない。
また、モトちゃんの心境も。
結局私には何も分からない。
分からないまま、悩み続ける。
いつものように。
動く時だけを窺いながら。