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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第18話
195/596

18-5






     18-5




 ゆっくりと足を前に出し、肘を曲げたまま腕を横へ流す。 

 相手の腕と途中で重なり、私はそのまま前に出した。

 さらに前へ歩き、相手の腕をかわしつつ横へ動く。

 目の前に来る首筋。

 そこへ腕を進め、下がる相手と歩調を合わせる。

 あくまでも静かに、緩やかに。

 しかし額には汗が浮かび、頬を伝っていく。 

 殺気や闘志ではなく。

 激しい緊張と張りつめたお互いの空気。

 中国憲法の聴勁に似た、一連の動き。

 お互いの呼吸と技量。 

 信頼感が無ければ成り立たない行為。


「ふぅ」

 腕を降ろし、息を付きながら肩を揉む。

 凝っている訳ではないが、精神的に。

「なかなかいいですよ」

 穏やかに微笑む、ジャージ姿の水品さん。

 ここは幼い頃通っていた、RASレイアン・スピリッツの道場。

 玲阿流を習う事になってから、私はまた通うようになっていた。

 ショウの実家。

 つまり玲阿流宗家で学ぶ事は出来るし、そちらへ行く事もある。

 それでも自然と、足はこちらへと向く。

 私にとって先生と呼べる人は、彼しかいないから。



「じゃあ、今度は俺と」

 派手に肩を回す、Tシャツと短パン姿のショウ。

 彼は、殴り合う気らしい。

 いいんだけど、ちょっと嫌だ。

「四葉さんと、ですか」

「いいだろ、別に」

「恐れ多いなと思いまして。宗家のご子息と戦うのは」

 くすくすと笑う水品さん。

 ショウは鼻の辺りを掻いて、辺りを見渡した。

「宗家って、俺より水品さんの方が強いだろ」

「風成さんにも言っているように、外部の人間が上に行くと何かと揉めますから」

「大丈夫だって。ここは、俺の事を知ってる奴もいないみたいだし」

 声をひそめるショウ。 

 そこまでして、やりたいのかな。


「では」

 そう呟いた途端、何気なく手を前に出す水品さん。

 素早く反応して、ショウはそれをかわす。

 今度はローキック気味の足払い。

 横へ流れるショウ。

 水品さんは滑るような足取りで前に出て、肩から彼に当たった。

「はい、終わり」

 マットの敷かれた床に転がるショウ。

 彼に手を差し伸べる水品さん。

 全ては本当に、一瞬の動き。

 おそらく私には見えないくらいの小さなフェイントを、水品さんは幾つも入れているんだろう。

 ショウがここまで子供扱いされるのは、まず見た事がない。

 それが見られるのは玲阿流の宗家。 

 後は、ここくらいだろう。


「何だよ、もう」

「修行が足りませんね」

「あのさ」

「全然なってないじゃない」

 彼の肩をペタペタ叩き、水品さんにはタオルを渡す。

 格好いい男の子よりも、まずは先生に尽くさないとね。

「ありがとうございます。四葉さんにもタオルを」

「大丈夫。汗もかいてませんから」

「ユウが言うな。ったく」

「弱いのに頑張るからよ」

 ここぞとばかりに彼を責めて、先生の肩を揉む。

 はは、なんか楽しいな。

「……あれは」

 不意に怖い声を出すショウ。

 別に私を怒った訳ではなく、視線はドアの辺りに向けられている。

 黒いジャージを着た、10人あまりの集団。

 顔付きは険しく、雰囲気は剣呑の一言。

「道場破りって感じだけど」

「そのようですね」

 落ち着いて答える水品さん。

 ショウは再び肩を回し、Tシャツの袖をまくり始めた。


 彼等と応対する、他のインストラクターさん達。

 すぐに殴りかかってくる真似はしないようだが、怒鳴り声はここまで聞こえてくる。

「水品さん、どうする」

「帰ってもらうしかないでしょう」

「どうやって」

「まさかお金を渡す訳にもいきませんし、練習生が怪我をしてもいけませんし」

 あくまでも慌てない水品さん。

 ショウは少しずつアップを早めていく。

「四葉さんがやりますか」

「俺は問題ないけど」

「玲阿家には内密にしておきます。それに道場破りが問題になるなら、瞬さんは今頃庭に埋まってますよ」

 軽く手を振る水品さん。

 それに気付いたインストラクターさん達が、道場破りの連中を連れてくる。

 近付くと分かる、彼等の体格。

 殆どの物がショウに及ぶくらいの大きさで、当たり前だが素人ではない動き。

 わざわざここへくるくらいだから、自信もあるのだろう。



 練習生は全員が事務所へ避難し、残ったのはインストラクターさん達と水品さん。

 そしてショウ。

 広い道場内で、彼一人と男達が向かい合う格好となる。

「お前が相手か」

「不足かな」

「ここの練習生か」

「そんな所だ」

 落ち着いた物腰。

 10人以上の相手に威圧されても、微かな動揺すら見せてはいない。

 視線の配り方。

 足捌き、何気ない仕草。

 何より、その佇まい。

 見る者が見れば、彼がどういう存在かは自ずと理解出来る。

 だから、彼に戦いを挑む者は少ない。

 反発、功名心、敵意という言葉が加われば別だが。 

 つまり、今ここにいる男達のように。

「勝手に上がり込んだんだ。怪我しても、文句は言うな」

「お前。一人で俺達全員と相手をする気か」

 侮蔑気味の視線。

 ショウは首を回し、視線を先頭に立っている男へ据えた。

 それだけで引き締まる、周囲の空気。

 男は一瞬気圧された顔をして、彼を睨み返した。

「お前みたいなガキを相手にしても仕方ない。そっちのインストラクターとやらせろ」

 横へ流れる視線。

 私を後ろはかばう格好で腕を組んでいる水品さんへと。 

 華奢とも言える、細身の体。

 年齢も40前後に見え、顔も強面ではない。

 単純に、勝てると踏んだのだろう。 

 国内だけではなく、世界的にも最強と呼ばれるRASのインストラクターに。

「私、ですか」

「別にいいんだぜ、後ろの子供でも」

 下品に笑う男。 

 仲間もそれに追従する形で笑い出す。

 小馬鹿にした、耳障りな声で。


「そうですか」

 目の前から消える背中。

 宙を飛んだのか、床を滑ったのか。

 気付けば水品さんは男の前に立ち、足を高く振り上げてた。

 こめかみ、首筋、膝で脇腹、太股、かかとで足の甲。

 全ては片足で、一瞬に。

 男は呻き声すら上げず、床へと崩れ去った。

「道場破りも結構ですが、態度は慎むように」

「なっ」

「人の生徒を馬鹿にするなという事です」

 静かな、落ち着いた声。

 だがそこに込められた威圧感は、何にも例え難い。

 それを向けられただけで心が押し潰されそうな、存在すら敵わないと思える程の。 

 そして私にとっては、何にも代え難い。

 大きな、力強い温もり。


「何だよ」

 さっきと同じ言葉を漏らすショウ。 

 馬鹿連中は、尻尾を巻いて去った後。 

 彼にとっては、獲物を目の前でさらわれたようなものだから。

「いやいや。私も大人げない」

「分かってるなら、やるなよ」

「君のお義兄さんのせいでもあるんですけどね」

「風成の?」

 ショウにとっては義兄でもあり、従兄弟でもある風成さん。   

 その彼に関係があるという事は。

「例の、RASのオープントーナメント?」

「ええ。風成さんが出場すると分かってから、色々仕掛けてきます。今のは、純然たる道場破りかもしれませんけどね」

「家の方には、何もないけど」

「どれだけ腹が立っても、虎のねぐらに忍び込む馬鹿は滅多にいません」

 なる程、上手い事言うな。

 それでショウが納得したかどうかは、ともかくとして。

「試合って、いつなんです。全然やらないけど」

「年末辺りですね。まだ国内予選と海外予選も終わってませんし」

「詳しいんですね」

「一応、実行委員長なので」

 さらりと言ってくる水品さん。

 国内では最大規模であり、海外でも注目度が高いRASのオープントーナメント。

 その実行委員長ともなれば、一インストラクターの範疇を越える仕事。

 それだけ水品さんが優れた指導者であり、それをこなせるだけの能力を持っているという事だろう。 

 実力については、言うまでもなく。

「先生って、偉かったんですね」

「単なる雑用です。雪野さんも手伝います?」

「嫌だ」

 きっぱり、予断無く答える。

 面倒だし、向いてない。

「水品さん。弟子に恵まれてないな」

「身を挺してかばった甲斐が無いですね」

 声を揃えて笑う水品さん。

 いい年をして、結局は血の気の多い。

 私にとって、ただ一人の先生……。




 夏休みは、もう間近。

 テストも終わり、これといってやる事もない。

 すでに生徒の半数は自主的に夏休み。

 ガーディアンはそういう事が許されない規則なので、私は学校に来ているが。

 とはいえやはりやる事はなく、オフィスにこもってうだうだする。

「暑い」

 胸元のボタンを一つ外し、下敷きで風を送り込む。

 リボンは、当の昔にリュックの中。

「見えるわよ、ユウ」

「見える程もない」

 自分でそう答え、一応姿勢だけは起こす。

 その瞬間、背後に気配。

 肘を持っていき、さらに腕を伸ばす。

「わっ」

 鼻先をかすめる裏拳。

 ケイはすごい形相で、人を睨んできた。

 私も対抗上、彼を睨み返す。

「あのさ」

「後ろに立たないで」

「三流の殺し屋みたいな事言いやがって。胸も貧弱なら、心も粗末だな」 

 なる程。 

 上手い事言うな。

「暑いね」

「そうね」

 事も無げに応じるサトミ。

 脇腹を押さえて身をよじっているケイには、目もくれず。

「エアコンはどうなってるの」

「私に聞かないで」

 美味しそうに、ミルクみぞれをほおばるサトミ嬢。

 この子、いつの間に。

「ちょっと、私の分は」

「知らないわよ。ウェーターさんに注文して」

「ショウ、ショウー」

 狭いキッチンから顔を覗かせるショウ。

 小さなかき氷器を抱えて。

「私、イチゴミルク」

「無い、そんなのは」

「仕方ないな。じゃあ、何があるの」

「練乳」

 コンデンスミルクか。

 それも、悪くないな。

「じゃあ、紅茶を濃く出して砂糖を大目に」

「何が」

「シロップよ、シロップ。分かんない人ね」

「だったら、自分でやれ」

 ちっ。 

 これだから、おぼっちゃまは。

 というか、彼の言う通りなんだけど……。


 ティーバックを解き、半分を小鍋で煮る。

 焦げ付かないように、慎重に。

 ある程度煮立った所で残りの葉を入れ、香りを付ける。

 後は砂糖をたっぷり加えて、茶こしでこすと。

「削って」

「はいはい」

 よく分からないけど、ペンギンの格好をしたかき氷器。 

 その頭の部分に取っ手があり、回すスタイル。 

 電動でないのが、おかしくて可愛い。

「あ、出てきた」

「回せば出てくるだろ」

 情緒のない答え。

 分かんない人だな。

 ちらちらと降ってくる、氷の欠片。

 小さな、照明を受けてきらきらと輝いて。

 少しずつ降り積もり、白い小山を作っていく。

「もういいよ」

「半分も入ってないぞ」

 小さな、少し深いガラスの器。

 量的には確かに少ない。

 ただ私にとっては、適量である。

「残りは、ショウが食べて。さてと」

 さっき作った紅茶のシロップをかけ、白い小山を茶色く色付かせる。

 一気に駆け下りてくる、幾筋もの流れ。

 濃い茶と氷の白。

 食べ物は舌だけではなく、目でも味わう物だと強く実感する。

「俺は、砂糖でいいや」

 嫌な台詞を呟き、自分の器に削りきれなかった氷を放り込むショウ。

 確かにもったいないとは思う。

 あまり真似をしたくはないが。

「……美味しい」

 口の中に広がる、苦みと甘み。

 それに続いて紅茶の香りが、鼻へと抜けていく。

 半分の葉を、最後に入れたのがポイントだね。

「冷たいな」 

 他の感想はないのか。

 普段いい物食べてるはずなのに、どうして舌が肥えないのかな。

「お前は食べないのか」

「ジュースの方がいい」 

 大きなペットボトルでがぶ飲みするケイ。

 よく飲めるというか、よくトイレに行くというか。  

 見てるこっちがお腹一杯になってくる。

「でも、かき氷器なんてどこで手に入れたの」

「天満さんに頂いたの。メーカーの、生産中止品ですって」

「今時、手動だからな」

 それは良いけど、要はいらない物じゃないのか。

 サトミは分かってるらしく、やるせないため息を付いている。

 ショウは一人のんきに、喜んでるが。

 人がいいのも、程々にして欲しい。


「エアコンは、直らないの」

 額の汗をタオルで拭い、窓の上を睨み付ける。 

 少し、音はしている。

 でも、涼しくはない。

「直るも直らないも、壊れてない」

 意外な事を言ってくるケイ。 

「じゃあ、どうしてこんなに暑いの」

「生徒会の通達で、温度を一定以上下げられないように決まってる」

「どうして」

「生徒もいないのに、エアコン代に金をかけてる場合じゃない」

「エ、エアコンのお金なんて、そんな大した額じゃないでしょ」

 一気に熱くなる頭。

 対してケイは、冷静その物。

 気楽そうに、お茶を飲んでいる。

「ただで使ってるんだし、文句言うなよ」

「オフィスの使用代は」

「エアコンは別なの。遠野さん、教えてあげて」

「使用代に含まれるのは、あくまでもこの部屋というか建物に対して。光熱費は、生徒会と学校が折半してるの。その内水道も、給水制になるって話よ」

 いつの時代の事を言ってるんだ。

 食堂も、配給制になるんじゃないだろうな。

「面白くない。というか、暑い」

「あなた、そればっかりね。表面積が少ないから、気化熱が発生しにくいのかしら」

「下らない事を、冷静に分析しないで。プール、プール行こう」

「馬鹿。でも、悪くはないわ」



 甲高い嬌声。

 ガラス張りの天井から差し込む夏の日射し。

 足元は絶えず水が押し寄せ、ビーチボールが目の前を転がっていく。

「蒸し暑い」

 学内にある、室内プール。

 湿気があって、日射しがある。

 でもって、熱の逃げ場がない。

 しかも制服姿のままなので、なんかしおれてきた。

「来るんじゃなかった」

 それでも素足をプールに浸け、わずかな涼を楽しむ。

 みんなは楽しそうだな。

 私も、泳ぎたいな。

 何だろ、ガーディアンって。

 馬鹿みたい。

「何よ」

「いや、泳ぎたいかなと思って」

 こっちへ向かって、両手を付き出して来るケイ。 

 ははと笑い、その腕を掴んで軽く流す。

「わっ」

 悲鳴が上がり、水飛沫も上がる。

 なんて事はなく、一応はショウに目配せして受け止めてもらう。

「こ、この」

「落ち着け」

「落ち着けるかっ」

 珍しく怒ってる。

 でも構わず、水着姿の格好いい男の子に目を移す。

「サトミ、あの子」

「ちょっと、にやけ過ぎね。あっちは」

「ああいうの嫌。向こうの、ほらプールサイドにいる子」

 二人で、あれやこれやと品定めをする。

 しかし、これといった逸材は少ない。 

 草薙高校も、どうも人材不足だな。

 普段目にしている人達のレベルが高いので、自然と辛くなっているのかも知れないが。


「あ、あの子」

「まだ言ってるの」

「違う。ほら」

 呆れ気味のサトミを振り向かせ、反対側のプールサイドへ指を指す。

 やや長身。

 少し陰のある、凛々しい少年。

「ああ、モトの」 

 そこで言葉を切るサトミ。

 私も特には語らず、彼を見る。

 正確には、彼を取り囲んでいる人達を。

「トラブル発生か。ボクシング部かな、あいつらは」

「よく知ってるね」

「それだけ遊んでるのよ、この子は」

 釘を刺されたショウは肩をすくめ、プールサイドを回り始めた。

 ペタペタ音がするのは、この際仕方ない。

 ただ、あまり格好良くもない……。


「どうした」

 静かに語りかけるショウ。

 室内プールという性質上、こもった声が微かに響く。

 彼を囲んでいた男の子達はショウを見て、短く挨拶をした。

「遊んでたら、こいつが文句付けてきてさ」

「俺は、何もしてない」

「人の肩を、いきなり掴んでおいてか」

「相手が嫌がってたから、止めただけだ」

 ナンパと、それを見咎めた側という訳か。

 普段なら適当にお互いを説得して引き離す所だけど、今回は状況が違う。

 一方は、運動部。 

 一方は、モトちゃんとの因縁がある相手。

 ガーディアンが間に入ると、揉める原因でもある。 

 幸いお互いそれ程ヒートアップはしていないし、顔見知りなのは助かるが。

「私達は運動部に関わらないよう言われてるんだけど」

「別に、ケンカしようって訳じゃない」

 あっさり引く、ボクシング部の子達。

 ここで揉めるより、プールで泳ぐ水着姿の女の子が大切なんだろう。

 後に引きずる雰囲気でも無さそうだし、大丈夫か。


「うわ」

 不意に変な声を出すケイ。

「どうしたの」

「モトが来た」

 どうしてと聞き返す間もなく、彼女の姿が目に入る。

 制服なので、遊びに来た訳ではないようだ。

 そして彼女は真っ直ぐ、こちらへ向かっている。 

 まずいな、色んな意味で。

「か、解散。ほら、解散よ」

「何言ってるんだ」

「解散って」

 顔を見合わせるボクシング部。

 彼も不思議そうに、私を見下ろしている。 

 駄目だ、埒が開かない。

「解散って言ったら、解散なのっ。ほらっ」

「わっ」

「えっ」

「なにっ」

 連なって上がる水飛沫。

 浮いてくる幾つもの頭。 

 恨みがましい視線と共に。

「ほら、行って。行って」

「無茶苦茶だな」

「行こうぜ」

「ああ」

 すいすい泳いでいくボクシング部。 

 良かった良かった。

 これで一件落着と。


「……雪野さん」

 地の底から届いてきたような声。

 俯いた顔。 

 濡れそぼった前髪。

「な、なに」

「いい年して、水遊び?」

「そ、そうじゃない。こ、これには訳が」

「じゃあ、その訳を教えて」

 優しい。

 怖いくらいに優しい笑顔。 

 無論訳なんて言える訳もなく、モトちゃんに背を向けてプールサイドを駆けていく。

「そこの女の子、プールサイドは走らないで」

 ホイッスルと共に、スピーカーで注意された。

 誰だか知らないけど、ふざけた人だな。

 仕方ないので走るのを止め、急ぎ足で歩いていく。

 当然モトちゃんも、すぐに追いすがってきた。

「言いなさいよ」

「嫌だ」

「サトミ」

「私も嫌。言いたくない」

 強行に拒否するサトミ。 

 細い目を、さらに細めるモトちゃん。

 その頬が、ふと赤くなる。

 室内の温度のせいだけではないだろう。

「……あなたは」

「久し振りだな」

 偶然、それとも故意にか。 

 プールサイドを上がってくる、例の彼。

 足を止め、呆然と立ち尽くすモトちゃん。

 こうなっては仕方ない。 

 後は二人に任せるしかないだろう。

「行こう、みんな」

「これだから、嫌だったのよ」

「別にいいだろ」

「俺も濡れたよ」

 幾つもの台詞を背に受けて、プールサイドを歩いていく。

 楽しそうに会話を交わす二人を振り返って。

 この出会いが良かったのかどうかを、深く考えないようにしながら。

 自分でも分からない、複雑な思いと共に。



「あの子は、どうしてあそこに来たの」

「運動部とガーディアンが揉めてるって連絡があったんだよ」

 くすくす笑う木之本君。

 誰だ、そんな通報をしたのは。

 多分、あのふざけた注意をした人だな。

 そんな暇があるなら、自分で止めればいいのに。

「……お待たせ」

 颯爽と現れる、長身の女性。

 服装は制服で、胸元には「SDC代表」のIDが。

「つくづく揉めるのが好きね」

「別に揉めた訳じゃないです。誤報ですよ」

「確かに、ボクシング部の部員の話でもそうなってる」

「仕事熱心なのも、考え物だな」

 肩に担いだ木刀を、壁に立て掛ける男の子。 

 彼はTシャツにスパッツで、クビにはホイッスルが掛かっている。

「女の子を見てただけじゃないの。右藤君」 

 きっと睨む女性。 

 右藤と呼ばれた男の子は肩をすくめ、テーブルの上にあったIDを胸に付けた。

 それには「SDC副代表」とある。

「とにかく、プールサイドは走るなって事さ」

「何、それ」

「こっちの話。それで、ボクシング部の連中は」

「誤報って言ってるわよ、優さんは」

 睨む女性。

 右藤さんは鼻を鳴らし、机の上にある卓上端末の画面を覗き込んだ。

「転入生との、軽い言い合い。この時期に転入生か」

「思い当たる節でも」

「兄貴達の事なら」

 一瞬すごみを増す彼の顔。

 だがそれはすぐに消え、元の明るい笑顔に戻る。

「傭兵って言うのかな。あれだろ」

「多分ね」

「嫌だ、嫌だ。真由ちゃん、どうなってるの」

「知らないわよ、私だって」

 邪険に突き放す真由さん。

 フルネームは、鶴木真由つるぎ まゆ

 実戦系剣術の宗家の長女であり、SDC代表。

 ショウとは遠縁に当たり、私も中等部の頃から彼女の道場に何度と無く通っている。

「優さんは何か知ってる?……優さん」

「え。ああ」

「どうしたの」

 怪訝そうに見つめてくる真由さん。

 私は笑顔を浮かべ、室内を見回した。

 広く、大企業の重役室のような調度品。

 彼女の座っているのは革張りの大きな椅子で、私なら3人くらい座れそうなくらい。

「前の部屋より広いなと思って」

「ああ、あそこは資料室よ」

「え」

「三島さんが自分で机や棚を運び込んで、代表代行の部屋にしたの。義理堅い人よね」

 楽しそうな。

 ただ、どこか翳りのある笑顔。

「左古さんの落書きとか無いのかな」

「あの人は、そんなセンスのない事はやらないのよ。自警局長室は知らないけど」

「兄貴は、やりそうだな」

 彼のお兄さんは、屋神さんの前の自警局長らしい。

 確か、そういう名前だった記憶もある。


「とにかく、問題は無し。ボクシング部についてはこちらで処理するから、もう帰っていいわよ」

「あ、はい」

「今度は、道場で会いましょ」



 代表執務室を出た所で、鼻先に書類を突き付けられた。

「何よ」

「始末書」

「どうして私が」

「ガーディアンは、運動部とは揉めないのが慣習でしょ。自警局が、そちらで処理して下さいって」

 口元に手を当てて笑う黒沢さん。

 高笑いと言い換えてもいい。

「別に、私は揉めてないわよ。誤報だって、誤報」

「本当ですか」

 疑わしそうに、人の顔を覗き込んでくる青木さん。 

 それも、かなり楽しそうに。

「大体、あなた達どうしてここいにるの」

「私、事務局の人間だもの」

「私もです」

「ふーん。格闘系のクラブが主流だと思ってたのに」

 友は出世し私は一人取り残される、という訳か。 

 いや。一人じゃないな。

「ニャンはいないの」

「あの子は、アジアGPに出場するからその練習」

「ちっ。面白くないな」

「素直じゃないですね、雪野さん」

 くすくす笑う青木さん。

 私の考えなど分かっているという顔で。


「いつも、ユウがお世話になってます」

 親みたいな事を言って会釈をするサトミ。

 黒沢さんは前髪を横へ流し、たおやかに微笑んだ。

「こちらこそ。まさか、遠野さんにお礼を言って頂けるとは思っても見なかったわ」

 やや険のある言い方。

 何となく見つめ合う二人。

 黒沢さんは、どちらかと言えば勝ち気な方。

 サトミも、見た目程冷静なタイプではない。

「どうした。何かあったのか」

 木刀を担ぎながら、部屋を出てくる右藤さん。

 二人はすぐに肩を抱き合い、首を振った。

 お互い変な力がこもっているようにも見えるが、気のせいだろう。

 仲が良いんだか、悪いんだか。

「そうか。俺はプールの監視に戻るから、後は頼む」

「はい。分かりました」

「どうして、黒沢さんに頼むんですか」

「次期代表だから」

 冗談を言ってる顔ではない。

 言いそうな顔には見えるが。

「来期は、まだ真由ちゃんがやるけどな。本来なら2年に継ぐんだけど、多少事情があってさ」

「事情。それって、学校とのトラブルが関係してるんですか」

「そうらしい。俺は、当事者じゃないからどうでもいいが」

 当事者、つまり塩田さん達から要請でもあったのだろうか。

 つまり、何かあった時は彼等が責任を取るという事が。

「俺の場合は兄貴達の絡みもあるし、そう学校のいいなりになる訳にも行かない」

「はあ」

「その内、俺ともやろうぜ。君も」 

 私の肩越しに伸びる木刀。

 その先には誰でもない、ショウがいる。

「はあ」

 私と同じ反応。

 この人は素手で、右藤さんは木刀。

 そうなるのが普通だろう。

「武器を持った相手ともやり合うんだろ」

「ええ、まあ。随分、詳しいですね」

「真由ちゃんから、色々聞いてる。先祖が、御土居下同心とか」

 分からないと言う顔をする、黒沢さんと青木さん。

 私は以前聞いたけど、よくは把握していない。

「要は尾張徳川家藩主の護衛で、街道沿いへ家を構えた武士の事。いざという時は彼等が藩主を守って、木曽まで逃げるって訳」

 簡単に説明するケイ。

 相変わらず、変な事は知ってるな。

「実際は七代藩主宗春と幕末の時に多少活動しただけで、ずっと身分を隠して生涯を過ごしたらしいけど」

「お前、俺の先祖の事まで知ってるのか」

「これは郷土の、歴史的な事実だ。一度、定光寺でも行って来い」

 よく分からないけど、参考にはなる。

 真由さんの家が剣術の宗家というのも、納得が出来る。 

 御剣君の家は苗字がそのままだし、あそこは稽古に武器を使う事もある。

 ショウの家が無手、つまり素手の宗家なのは理解しにくいが。



 何にしろ、古い家だというのは分かった。

 少なくとも、うちよりは。

 というか、おじいちゃん達より上が辿れない。

「舞地さんの先祖は?」

「知らない」

 終わる会話。 

 つまらない人だな。

 いいや、放っておこう。

「池上さんは」

「さあ。京都の実家に戻れば、少しは分かると思うけど。町民じゃないのかしら」

「ふーん。名雲さんは」

「聞いた事無い。大体親父なんて、骨もないぜ」 

 大笑いする名雲さん。

 笑い事じゃない。

「柳君は」

「僕?どうだろう。対馬だから、中国大陸から渡来してきたんじゃないかな」

「柳って、向こうの名前っぽいもんね」

 なる程。

 少し分かった。

 気になった。

「雪ちゃん。あなた、ここで遊んでていいの」

 三つ編みを結びながら尋ねてくる池上さん。 

 何だかな。

「いいの。どうせモトちゃんも遊んでるし」

「聡美ちゃんと?」

「違う」

 さらに言葉をつなげようとして、慌てて思い留まる。 

 ここで言う事ではない。 

 というか、言うべきでもない。

「男と会ってるんだろ」

 唐突な言葉。

 一斉に向けられる視線。

「プールで見た」

 特に動揺した様子も見せず、淡々と告げる名雲さん。

 彼もいたのか。

 ますます最悪だな。

「……なんだよ」

「気にならないのかなと思って」

「どうして」

 不思議そうな顔。 

 ただ、多少そう振る舞っているようにも取れる。

「素直じゃないね、名雲さん」

 彼の肩に手を置く柳君。 

 名雲さんは面倒げにそれを振り払い、長い足を組み替えた。

「俺が関わる事でもないだろ」

「ふーん」

 舞地さんはキャップを被り、席を立った。

「おい」

「お茶を買いに行くだけ」

「目の前にあるだろ」

「紅茶が飲みたい」

 彼女の前にあるのは番茶。

 確かに、紅茶ではない。 

 外に買いに行く程好きなのかと考えると、相当に疑問だが。

「今いれる。座ってろ」

「チャイでお願い」

「この野郎」

「私ダイエットソーダ。後、イチゴスフレがあるからそれもお願い」

 怖い顔で、待機室を出て行く名雲さん。

 彼女達の様子を見に行く振りをして、こうさせるのが目的だったのかも知れない。


「で、誰なの」 

 興味津々という顔で身を乗り出す池上さん。

 舞地さんは気のない顔をしつつ、耳はこちらに傾けている。

「失礼だよ。池上さん。でも、どんな人」

 何だ、それ。

「中等部の頃、何度か会っただけ。モトちゃんよりも、向こうが彼女を好きだった記憶がある」

「幼い恋心って訳。乙女チックな話ね」

 手を揉みしぼり、うっとりした顔で天井を見上げる三つ編みの少女。 

 どっちが乙女チックなんだ。

「それで、焼けぼっくいに火が点いた訳か」

「嫌な言い方しないで。そういうのじゃないわよ、多分」

 この辺りは自信がないので、答えも頼りなくなる。 

「じゃあ、何」

「だから、私は知らないんだって。それに、どうでもいいじゃない」

「それはそうだ」 

 あっさりと認める舞地さん。

 一人であれこれ悩んでいるこっちとしては、かなり拍子抜けする。

「あ、あのね」

「そういう話に、興味はない」

 嘘ばっかり言って。

「後輩の事が心配じゃないの」

「元野は、そんな馬鹿じゃない」

「そうだけど。でも相手は傭兵だって言ってるのよ」

「傭兵がどうしたって」

 マグカップやグラスの乗ったトレイを持って、部屋に入ってくる名雲さん。

「あいつなら、俺も知ってる。そう悪い奴じゃないって話だ」

「気にならないの」

「何が」

「……もういい」

 マグカップをトレイから取り、一口含む。

 紅茶とミルクと、香辛料の複雑な味わい。 

 美味しいけど、今は少しの引っかかりがある。

「人のを勝手に飲まないで」

「いいじゃない。飲みたかったんだから」

 無茶苦茶な理屈を言って、マグカップを舞地さんに渡す。

 面白くないな。

「とにかく、ちゃんとしてよ」

「何を」

「それは、自分で考えて。じゃあね」

 いくつかの制止の言葉を振り切り、部屋を飛び出る。

 イチゴスフレか。

 やっぱり、疲れた時には甘い物だな……。



「あ、美味しい」

 目を細め、チョコスフレを食べるサトミ。

 出所は、明かさないでおこう。

「あなた、どこ行ってたの」

「色々とね」

「そう。幾つか書類が来てるから、目だけでも通しておいて」

「面倒だな。えーと」

 夏休み中のパトロール?

 パス。

 寮の掃除のボランティア?

 パス。

 小等部とのバーベキュー大会?

 面白そうじゃない。

「何よ、これ」

「夏休み前に、決めておく事。どれも強制じゃないから、参加したいのがあったらサインして自警局に提出して」

 分厚い書類の束をめくり、サトミの名前を探してみる。

 あった。

「体験学習・スーパーカミオランドでニュートリノの重量を量ってみよう」 

 そんなの量ってどうするんだ。

 自分の体重でも調べてればいいのに。

「ショウは」

「俺は、実家が忙しいからパス。RASのインストラクターも頼まれてるし」

 それでバイト代も稼ぐ訳か。 

 だったら私も、協力しないといけないな。

「ケイは、何かするの」

「この暑い中、どうして」

「少しは、何かにやる気を見せたら。燃え上がったら」

「暑いから、向こうに行ってくれ」

 人を手で追い払うケイ。 

 面白くないから、勝手に名前を書いてやろうかな。

 でも、筆跡ですぐに気付かれるか。

 いいや。 

 これは、夏休みまでの宿題にしておこう。

「ガーディアン絡みでは、何もないの?」

「あるわよ。ユウがやってくれるなら、どれだけでも」

「何でもない。私は、宿題でもやってる」

「そう。モトの事もあるし、人手が欲しい所なのに」

 やるせないため息。

 重い表情のショウ。

 マンガを読んでにやけているケイ。 

 何だかな。

「あなたね。少しは真剣に考えてるの」

「昔の男とよりを戻しただけだろ」

「そういう、俗っぽい考え方しないで」

「いいだろ、俺達が気を回さなくても。回す必要があるのは、一人だけさ」

 冗談めいた口調。

 ただ、その意味は私も十分に理解している。

 サトミとショウも、勿論。   




 彼の言う通り、私達が騒ぐ事ではない。

 関わる必要もない。

 理屈としては。

 ただ、気持はまた別だ。

 本人が望もうと望まないとに関わらず。

 不測の事態にだけは備えておきたい。

 傭兵という彼の現在。

 かつての、舞地さんの出来事と重なる状況。

 あの出来事を繰り返さないためにも。

 ただし彼が今は、どういう人間なのかは分からない。

 また、モトちゃんの心境も。

 結局私には何も分からない。

 分からないまま、悩み続ける。

 いつものように。

 動く時だけを窺いながら。






 







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