17-10
17-10
セッティングされていく機材。
その中から大型のドリルを手にして、ゴーグルと防塵マスクをはめるショウ。
「木之本、もう少し早く回すようにしてくれ」
「モーターが持たないよ」
「代わりはいくらでもある」
「爆発したらっていう意味なんだけどね」
全ての機材を統合している卓上端末の画面が切り替わり、携帯用の非常電源が聞き慣れない音を立て出した。
「みんな下がれ。破片が飛ぶ」
かなり大きなドリルを腰に構え、ショウはその先端をドアの脇へと押し当てた。
鈍い音と同時に飛び散る破片。
彼の体も小刻みに揺れ出し、体中に破片を浴びる。
「穴を開けたとして、何を通す気だ」
やはりドアの脇に取り付いているケイが、顔に付いた破片を払いながら視線を上げる。
ショウはドリルを構えたまま、私へ顔を向けた。
「スティックを通す。あれの中は空洞だから、空気穴の代わりになる」
「鉄柱が落ちてくるのは、一瞬だぞ」
「それはユウの腕次第さ」
冗談めいた言葉。
私は軽く微笑み返し、背中のスティックを抜いた。
彼の言う通り、内部は空洞。
ただし強度は相当な物で、装甲車に踏まれても形は変わらないらしい。
穴に差し入れるだけだから、アクションとしては大して難しくない。
失敗の許されない、一瞬のタイミングを要求されるという但し書きが付くが。
レスキューを待つという手もある。
私達素人の高校生が、勝手にやる事ではないとも。
却って事態を悪化させるのではないか。
単純な正義という言葉では割り切れない、今の自分達の行動。
不安、自分への自信のなさ。
脳裏をよぎる、幾つもの考え。
それらを意識しつつ、集中力を高めていく。
自分の行動の意味を理解し、すべき事をなすために。
それでも、やらなければならない。
誰でもない、自分自身が。
より高い位置への意識の集中。
自分の行為の意味を理解した上での。
それはある一点へと辿り着く。
誰かを助けたい、守りたいという思いへと……。
「……まずいな」
「どうした」
「中の連中が騒ぎ出した。さすがにおかしいと気付いたんだろ」
舌打ちしてヘッドフォンを耳に当てるケイ。
ドアに付けられた人の声に近い周波数を拾うマイクが、彼女達の声を伝えたのだろう。
「パニック寸前だな。穴は」
「半分も行ってない」
「他に、開ける方法は」
「薬品で溶かす手もあるけど、中に入ったらただじゃ済まなくなる」
はかばかしくない会話。
ケイは手を上げて、ショウの動きを止めさせた。
「中の三人、聞こえるか。……今やってる。……ああ、そっちは密閉されてるから空気がない」
あっさりと認めるケイ。
ドア越しに、私の位置にまで聞こえる叫び声。
「……ショウ、下がれ」
そのドアに押し当てられる、見慣れない警棒。
飛び散る火花。
収まる叫び声。
「いいか、落ち着け。そっちからは喋らなくても、中の音は聞こえてる。分かったなら何かを一回、分からなかったら二回叩け。……よし、いいぞ」
「もういいか」
「ちょっと待て。木之本君、向こうへの声は」
「今、出来た。ドリルの音をマスクして、声だけが届く」
ドアに貼り付けられる、薄いシート。
彼が言うには、音声のみを伝えやすくなるソフトを使ったスピーカー兼マイクらしい。
即座にドリルを動かし出すショウ。
ケイは破片を手で払い、そのシートへ顔を寄せた。
「こっちの計算では、まだ酸素に余裕がある。まずは横になって、深呼吸しろ。目を閉じて、自分の家を思い出せ」
冷静な指示。
ようやく中が落ち着いたのか、彼の顔も少し和らぐ。
「少し待ってろ。……永理、そっちはどうなってる。……分かった」
「なんだって」
「助っ人さ。来たな」
血相を変えてこちらへと駆けてくる、数名の女の子。
少し派手な髪型や服装。
それをくすませる、翳った表情。
「はい」
彼女達にマイクを渡す木之本君。
彼はドアへと駆け出そうとする彼女達を制して、ケイに手を振った。
「今は、あの子の言う通りにして。そうすれば、中の子達は大丈夫だから」
「で、でも」
「君達が落ち着かないと、中の子も落ち着かない。ここは、僕達に任して」
優しい、包み込むような微笑み。
彼女達も高ぶっていた表情を少し和らげ、微かにだが頷いてみせた。
「浦田君」
「ああ。……いいか、昔の楽しかった事や、一緒に遊んだ時の事をマイクで話してくれ。古ければ古い程いい。興奮する事じゃなくて、山に入ったとか夕陽を見たとかそういうのを」
「は、はい」
「そっちは任せた。後は……」
再び取り出される端末。
少しためらいがちの、しかし真剣な面持ち。
「……浦田です。……はい、何とか。……まだ、無理ですか。……いえ、こちらでどうにかします。……では、その準備もお願いします。……責任は、俺が取りますから」
「何の話だ」
「中を冷やして、生体活動を抑える」
「出来るのか、そんな事」
ドリルを構えながら尋ねるショウ。
ケイは立ち上がって、機材の山へと歩み寄った。
「液体窒素があるだろ。ドアに吹き付ければ、多少は中も冷える」
「凍えるんじゃないのか」
「冬眠のレベルまで行けば、それこそ酸素が無くても大丈夫になる。俺に掛かりそうだな」
大きなボンベと、そこから伸びたコード。
初めは何の目的で使うつもりだったのか知らないが、持ってきた価値はあった訳か。
「調整はどうやる」
「その前に、手袋付けろ。コードからでも凍るぞ」
「詳しいな」
「伊達に、特殊機器操作講習は取ってない。木之本、そっちで調整してくれ」
手を振り替えしてくる木之本君を確認して、ケイはコードの先をドアへと向けた。
腰が引け気味なのは、当然だろう。
「怖いな」
「見てる俺の方が怖い」
「言ってろ。木之本君、頼む」
「了解」
先端から出てくる、白い煙。
途端に顔を強ばらせるケイ。
思っていた以上の冷気らしい。
「本当に、大丈夫かな」
「医療部の人に聞いたんじゃないのか」
「例え話の一つとして教えてはくれた」
「お前、髪が凍ってるぞ」
白くなるケイの髪。
さすがにそれは前髪の一部だが、顔にもかなりの冷気が当たっている。
「一旦止めろ。おい、誰かタオルかヘルメット持ってこいっ」
「やるんじゃなかった」
「今さら何を。悪い、俺にも頼む」
被されるヘルメットと、顔を覆うタオル。
二人とも手が震え、自分ではそれすらも出来ないようだ。
「ジャケットでも欲しいところだけど」
「中の二人に悪いって?浦田珪が、そんな事を言うとは」
「雪でも降るって?」
「もう降ってるだろ」
目の前に舞う白い結晶。
ここまで冷えてくる空気。
それを扱っているケイや、隣にいるショウの寒さはその比ではないだろう。
「穴は」
「まだだ。お前こそ、早く冷やせ」
「あー。こんなの、高校生がやる事か」
文句を言いながらも、休もうとはしない二人。
木之本君に励まされながら、女の子達は中の子達に優しく語りかけている。
その周りには大勢の生徒が、遠巻きにして祈るような顔をしている。
私はそれを見ながら、少しずつ意識をより集中していく。
自分一人の事ではない。
大勢の輪へ、私もその手を差し伸べるだけに過ぎない。
例えそれが最後の、要の行為だとしても。
役割に大小も優劣もない。
みんなで、一つになって。
戦っているんだから……。
「そろそろだな」
ドリルの速度を遅くするショウ。
揺れる体にはコンクリ片と氷の破片が積もり、周りには白いもやが出来ている。
ケイは話すのも辛いのか、殆ど姿勢を変えないままコードを構え続ける。
「木之本。中の様子は」
「内部の温度は、推測値で-2度以下。心音はモニター出来てるから、まだなんとか……」
「どうした」
「みんな、伏せてっ」
突然の叫び声。
訳も分からないという顔で、一斉に体を低くする周囲の生徒達。
その途端乾いた音がして、火柱が天井近くまで上がった。
「木之本っ」
「大丈夫。換えの電源はまだあるから」
「お前は」
「髪が焦げたくらいだよ。二人がしもやけだから、ちょうどいいね」
軽い冗談。
焦げたどころか頬はかなり赤くなっているが、今はそれをとやかく言う状況ではないのを十分に踏まえた発言。
「ユウ」
久し振りに呼ばれる名前。
今まで何もしていなかった自分。
この一瞬に、全てを賭けるために。
狭い視界。
遠い声や音。
冷気も殆ど感じない。
自分という存在以外は。
きっと冷たいはずのスティックを握り直し、静かに足を踏み出していく。
周囲の視線や期待。
諦めと絶望。
それらも、敢えて心には届かせない。
ドアの前。
ケイはぎこちない動きで後ずさり、冷気の止まったコードを床へと捨てた。
視線は無く、声を掛けてくる事もない。
それは私も同様だ。
今さら、その必要もない。
「ユウ、いいか」
「いつでも」
普段以上の低い声。
自分でもどこから出ているのか、どう答えているのか認識すらしていない。
「ドリルが打ち抜く前に、多分センサーが反応する。だから俺が抜いたと同時にスティックを通して、コンクリごと奥へ通してくれ」
「はい」
スティックを腰にため、視線を一点に据える。
視界に見えるのは、その部分だけ。
それ以外の存在は、非現実的な印象しか伝わってこない。
「……ユウッ」
叫び様抜かれるドリル。
ゆっくりと。
しかし現実には、目にも留まらないだろう早さで。
その先端をかすめるように、入れ替わりで穴へとスティックを突き付ける。
すぐに伝わる、先端からの感触。
腰を入れ、膝で押すようにして前に出る。
手の中で後ろへ押し戻されるスティック。
耳には微かな金属音が、すでに聞こえ始めている。
おそらくは、頭上から。
そのまま膝を上げ、かかとをスティックの後方へ当てる。
手を離し様スティックを蹴り、体をひねりながら床へ手を付く。
仰向けの体勢で両手を付き、足を入れ替えて一気に全体重を掛けていく。
自分にしてみると、全てスローモーションの世界での出来事。
でも実際には、本当に一瞬だったのだろう。
床から勢いよく起き上がった時には地響きのような音がして、壁に刺さったスティックが激しく揺れていた。
「どうっ?」
「大丈夫。奥が見える」
空洞となっているスティックを中に通されるペンライト。
微かに顔を緩ませる木之本君。
「ただ、これで終わりじゃない。スティックが支えている下を全部崩して、彼女達を外へ出さないと。いくら強度があっても、いつまでも持たないからね」
「分かった。でも、下手に崩したらコンクリート自体が崩れてこない?」
ショウは無言でドリルを手にして、スティックが刺さった下を削り出した。
「一応は、補強をしながらやる」
「なら、いいけど」
「ただ、酸欠と寒さでいい状態じゃないのは確かだ。さっきよりはましでも、急いだ方がいいのに代わりはない」
見る見る間に崩れていくコンクリート。
木之本君がその上に湾曲した金属片をはめ、万が一上が崩れてもいいように補強していく。
それがどの程度の効果を持つのかは、私には分からないが。
「ケイ。ちょっと」
「あ」
声だけの返事。
体を動かすのも辛いのか、前を向いたままこちらを振り向こうともしない。
「大丈夫?」
「医者は」
「まだ来ないみたい」
「取りあえず、穴からぬるい空気を入れるか。木之本君」
ドアを見つめたままコードを付け替えるケイ。
その先端がスティックの中へと通し、例のシートに向かって話し出す。
「これから温かくなるから、もう少し我慢しろ。分かったか」
ケイは微かに頷き、ため息を付いて顔のタオルを剥いだ。
飛び散る氷と、おそらくは髪の毛。
動く気力もないのか、そのまま床へとしゃがみ込んだ。
「早く開けろ。横の方に、ひびが入ってる」
「急いだら、余計危ない。鉄筋も入ってるんだし、そうすぐには崩れない」
「レスキューに任せればよかった」
弱気な、自分の行為を悔いる発言。
それは彼の本心だろうが、冷気を一番前で浴び続けたのも間違いなく彼の意志である。
「……どう、なってます」
「え」
聞き慣れた声。
不安に満ちた、あどけない顔。
その左右に寄り添い、手を取り合う3人の女の子。
「高畑さん。どうして」
「閉じこめられたって、話を、聞いたんです。だから」
青い頬、精気に掛けた瞳の色。
あれ程の目に遭えば、今日1日寝ていてもおかしくはない。
それでも彼女はこの場に足を運び、人の心配をする。
意図的ではないにしろ、自分達をそんな目に遭わせた子を。
彼女達がそういう気持なら、私は何も言う事がない。
「もう少し待ってて。どうにかなりそうだから」
「は、はい」
ふと浮かぶ、希望に満ちた笑顔。
歓声にも似た、温かい声。
不安と疲労と苛立ちを感じていた心を、優しく解してくれる温もり。
「玲阿君、もうそろそろ」
「まだ、穴は小さいだろ」
「これ以上は、多分強度が持たない。でも女の子なら、どうにかくぐれる大きさだよ」
床から上へと、わずかに開いた半円形の穴。
中の子達はそれ程大柄ではなく、確かにこれだけあれば十分だろう。
「分かった。おい、今の内に出てこいっ」
腰を屈め、穴の奥へと叫ぶショウ。
しかし返ってくるのは、力無い返事だけ。
手も足も。
その指先すらも、見える気配はない。
「まずいな、行くか」
「玲阿君じゃ無理だよ」
「あ、ああ」
「誰か、もっと小さな人に」
横へ流れる視線。
当然のように前へと出る私。
だがさらにその前へ、高畑さん達が歩み出た。
「あなた達は無理よ。まだ疲れてるでしょ」
「雪野さん、程じゃ、ありません。顔、真っ青ですよ」
「まさか」
自分の頬に手を当て、首を振る。
手が冷た過ぎて、頬がどうなっているのか全く分からない。
「だとしても、あなた達にやらせられる訳ないの。さっきの今じゃ、余計に」
「あれこれ、言ってる、暇は、無いと思います」
「……仕方ないな。木之本君、ペンライト4つ。穴からも、別なライトで照らして」
芯から冷え込むような空気。
かびた匂いと、例えようのない湿った雰囲気。
ライトの当たっていない部分は本当の暗闇で、この中に閉じこめられるというのは想像もしたくない。
内部は20畳程度だろうか。
すでに密閉用の鉄柱が周囲の壁を覆い、私達のくぐってきた部分だけかろうじてスティックで止められている。
ゴミはない物の、あまり綺麗とは言えない床。
その中央に、寄り添い合って体を横たえている三人の少女。
微かに動いている背中。
パニックを起こしかけたくらいだから、精神的にも限界に近いのだろう。
「……聞こえる?」
その手がゆっくり動き、床を一度叩く。
高畑さんはその手を握り締め、腕を取って担ぎ上げようとした。
「野並さん、一緒に支えて。赤池さんは、こっちの子を」
「は、はい」
力の抜けた体。
自分で動く事も出来ないのか、持ち上げるの事すらやっとの重さが肩へとのしかかってくる。
ふらつく前の二人。
赤池さんも、おぼつかない足取りで少しずつ歩き出す。
「みんな、ゆっくりでいいから。まだ、スティックが……」
下を向いているように見えるスティック。
私が穴へ通した時は、壁と平行だったはずだ。
それが下を向く理由は、そう幾つもない。
折れたのか。
鉄柱が下がってきているのか。
「みんな、走ってっ」
前言を翻し、前の二人に追いついて背中を押す。
動けない人間が三人。
動くのがやっとの人間が三人。
そして、動くしかない人間が一人。
閉じこめられてもレスキューを待てばいいのだが、閉じこめられていた子達は早く治療を受けさせたい。
この状態がそう良くないのは、素人目から見ても十分に理解出来る。
そうなれば、疲れたとか気力が続かないとはいっていられない。
それに一人じゃない。
自分の事も顧みず中に入ってきた子もいる。
自分のした事を悔いる子も。
見た目は大人びていても。
まだ本当に子供の。
私以上に何も出来ない子達。
先輩後輩という事じゃなくて。
彼女達が出来ないなら、私がやればいいだけの事だ。
それでみんなが助かるなら。
その気持ちを無駄にしないで済むのなら。
私自身がどうなるかなんて、後で考えれば済む話だ……。
危機が迫った時の瞬発力というんだろうか。
自分でも想像出来ないくらいの勢いで彼女達を押していく。
体の中に眠っていた力が瞬時にして湧き出た感じ。
疲労感はまるで感じず、ただひたすら押し続けられる。
先程よりも角度を変えるスティック。
その異変は壁の向こうでも分かっているのか、急ぐように声が聞こえてくる。
「今行くからっ」
最後の一押しで彼女達を壁際まで追い込み、まずは自分が抱えている女の子を床に転がして頭から突っ込む。
強引と言えば強引だが、体裁を構ってる場合じゃない。
「次行くよっ」
今度は高畑さん達が抱えていた子達を転がして、同様に足をぐいぐい通す。
熱くなった頭に響く歓声と、緊迫した指示。
すぐに安堵の声が聞こえるところからして、どうにか大丈夫らしい。
「ほら、あなた達も」
「でも、雪野さんは」
「船長は最後まで船に残るのよ」
自分でも何を言っているのか、何をやっているのか分からないまま野並さんを転がして穴へと突っ込む。
この子達をそうする必要は無いのかも知れないが、体が勝手に反応しているのだ。
「ほら、あなたも」
「え、ちょ、ちょっと」
「はい、次っ」
赤池さんを無理矢理穴の向こうへ突き飛ばし、高畑さんも床へと転がす。
スティックは……、もう見ないでおこう。
「雪野さん、お先にどうぞ」
「うん、分かった」
私の手を握った彼女に微笑みかけ、そのまま一気に足を押す。
戸惑いの表情を浮かべたまま、穴の向こうへと消える高畑さん。
それがおかしくて、つい笑ってしまう。
「……あれ」
上へ上がる視界。
いや、私の体が崩れたのか。
さすがに体が反応して受け身を取ったが、次の動作へとつながらない。
仰向けになった体。
嫌でも目に入る、壁から生えたスティック。
穴の開いたその先端が、眉間を正確に捉えている。
聞き慣れない、聞きたくもない破壊音。
頬に落ちる、小さなコンクリートの破片。
「ユウッ」
誰かの、切羽詰まった声。
それに答えようとして、すぐに諦める。
声も出なくなっている。
動くのは視線と、かろうじて指先だけ。
さっきまでの集中と無理な動きのせいで、体が限界に達したようだ。
瞬発力はともかく、スタミナ不足だな。
ただ閉じこめられるだけなら、それ程問題はない。
眉間に向けられているスティックはともかくとして。
まずは目を閉じて、深呼吸する。
別に、全てを諦めた訳じゃない。
少しでも早く、体力を回復させるためだ。
取りあえずは、体を横にしてスティックを避けたい。
それが出来るなら、外へ出られる気もするが。
不意に頬を過ぎる、柔らかな感触。
懐かしさすら覚える香り。
指を絡めるようにつながれる手。
私もそれを握り返し、口元を緩める。
手の中に感じた包帯の感触を確かめながら。
足元で聞こえる、コンクリートの崩れる音。
それが何を意味するかは、頭上を跳んでいったスティックを見なくても分かる。
「あなたは、何寝てるの」
「昨日、遅かったから」
「馬鹿」
そっと撫でられる頭。
私を見下ろしながら、おかしそうに笑っているサトミ。
柔らかい膝に、私の頭を置いて。
「それに、ここはショウの場所じゃないから」
「焼き餅?」
「勿論よ。私のサトミをって話」
「冗談はいいから、立てる?」
私はどうにか動き出した手で太股を叩き、サトミの肩を借りて立ち上がった。
足元はかなりおぼつかないが、動けない程じゃない。
「あの子達は。高畑さん達も」
「全員大丈夫。今日1日寝れば、心配ないって」
「ショウ達は?」
「レスキュー隊に大目玉喰らってるわ。無茶苦茶過ぎるって」
よろめきながらこちらへやってくる3人。
赤くなった頬と、頼りない足元。
ぼろぼろの服。
誰が大丈夫かという話だ。
「もう、出てきたのか。今日は泊まっていくのかと思った」
楽しそうに笑うケイ。
ショウは彼に肩を貸したまま、鼻先で笑った。
「こいつ指が全部しもやけでさ。木之本は、鼻を火傷してるし」
「僕は、大人しく高校に残れば良かったよ」
「いいじゃない、たまには。ね、サトミ」
「ええ。さあ、私達も少し休みましょ」
お互いに肩を貸し合い、建物の出口へと歩いていく私達。
ぼろぼろの服と、怪我だらけの体。
汚れきった顔。
そこに浮かぶ満足げな表情。
それは私達だけではない。
廊下の左右で私達を見送る中学生達も変わらない。
汚れた顔と、満足げな笑顔。
言葉も賞賛もない。
そんな物は必要ないから。
強い一体感。
強い絆で結ばれた仲間には。
顔に付けられたガーゼ。
手に巻かれた包帯。
包帯の巻かれたサトミの手を握り締めながら。
私は今にも倒れそうな疲労感を、心地よく感じていた……。
「お疲れ様」
笑顔で医療部の病室へと入ってくるエリちゃん。
ベッドに寝ているのは高畑さん達で、私は窓からのんきに外を眺めていた所。
なんというのか、もう元気になった。
認めたくはないが、こうなると本当に獣並みだな。
「馬鹿連中は、全員警察が逮捕したわ。内々の話では、5年は出てこれられないって」
「こっちに出てくる時は、真人間として生まれ変わってるさ」
「どういう意味だ」
「あいつらの鼻先で火を振っただろ。あれで、軽く暗示を掛けたんだよ。そういう気分になった途端、あの激痛を思い出すように」
暗い微笑みを浮かべるケイ。
その指先は自分と、ショウの股間を指し示す。
あそこで何やら言っていたのは、そのためか。
「やり過ぎ、とは言えないか」
「当然だよ」
珍しく、強く言い切る木之本君。
布団から出ていた高畑さんの手を中へ戻した彼は、長いため息を付いて背筋を伸ばした。
「先輩、大丈夫ですか?」
「僕は、肉体的な怪我だけだからね」
ふと落ちる視線。
鎮静剤を使用され、心地いい寝息を立てている女の子達。
最後に高畑さんの布団に触れた彼は、もう一度ため息を付いて首を振った。
「そんなに心配なら、彼女達をガーディアンに入れます?」
「でも、エリちゃんの負担が」
「今さら何人増えても、大差ありませんよ。それにユウさん達を面倒見てる先輩の苦労に比べれば、全然」
木之本君を気遣った、さりげない申し出。
最後の一言は余分だが。
「でも、どうして高畑さんはこの子達を助けようと思ったのかな。ずっと、いじめられてたんでしょ」
「私も、それは本人に聞いた事があるの。学校に申し出るなりするって?」
エリちゃんは手にしていたタオルで、寝汗をかいている女の子の汗を拭いた。
「高畑さんが言うには。嫌な事もあったけど、お菓子を買ってくれたり一緒に買い物に連れていってくれたんだって」
「でもそれは、気まぐれというか」
「私もそう思った」
「違うって訳?」
窓際のベッド。
体を横に向け、丸まり気味に眠る高畑さん。
小さい、他の子よりも華奢な体。
笑っているような寝顔を、こちらへと向けて。
純真で、疑うという影すらない彼女。
あれこれ考えてしまう自分が恥ずかしくなるくらいの。
「脳天気な子には参るわね」
良く分からないけど、私達がとやかく言う問題でもないようだ。
少なくとも、本人は納得しているみたいだし。
それに、もうおかしな関係になる事もないだろう。
「子供の理屈は、訳が分かんないな」
「本当に」
しみじみ呟くサトミ。
他の子も、同じような顔で頷いている。
「何よ、それは」
「聞きたい?」
「止めとく」
開いているベッドの上に寝転び、大の字になる。
あー、なんか気持ちいいな。
ここは消毒の匂いもないし、エアコンも効いてるし。
「あなたね」
「いいじゃない、私も怪我人なんだから」
「治ったんでしょ」
「気のせい、気のせい。しかし、果物でも持って見舞いに来ても良さそうな話でしょ。気が利かないな、生徒会長も」
ベッドの上で、ゴロゴロと転がる。
別に、のたうち回ってる訳じゃない。
遊んでるだけだ。
「果物とはいきませんけど」
「はい?」
頭の上に落ちる影。
四角い箱が、枕元へ添えられる。
「ケーキです。よかたったら、どうぞ」
にこっと笑う生徒会長。
私はそれを受け取り、勝手に開け始めた。
「何よ、気が利くわね。今度の選挙、当選間違い無しよ」
「雪野さんに、投票権はありませんけど」
「ここに大勢いる」
「不正行為に当たりません?」
「この子達に食べさせなければいいじゃない」
襟首が引っ張られる感覚。
むっとしながら振り向いたら、サトミが怖い顔で立っていた。
「あなたへのではなくて、高畑さん達へのケーキでしょ」
「だったら、モンブランを取らないで」
「取り分けようとしただけよ」
寝てる子達に、どうして取り分ける必要があるんだ。
二人でお互いの手を叩き合い、自分の分を確保する。
「あ、あの」
「気にするな、いつもの事だ」
ため息混じりに首を振るショウ。
いいもん、レモンチーズは確保したから。
「見舞いなら、俺達の治療費も面倒見てくれ。勝手にやった事だから、治療費は審査するって言われてさ。指が、かゆいんだよ」
「は、はい?」
「浦田君。あの、今の話は聞かなくていいからね」
「い、いえ」
曖昧な、ぎこちない微笑み。
木之本君は咎めるようにケイを見つめ、生徒会長へ笑いかけた。
「僕達の怪我は、高校の方で処理するから。彼女達の分だけ、お願いします」
「あ、はい。それは、勿論」
「うん。ごめんね。僕らが来て、却って迷惑を掛けて」
「い、いえ。私達こそ」
頭を下げ合う二人。
木之本君はともかく、意外と素直な生徒会長。
地位や能力はともかく、彼女はまだ中学生。
むしろこのくらいが、普通なのかも知れない。
「……謝るのは、僕の方です」
不意に口を開く自警局長。
今までずっと生徒会長の後ろで、下を向いていた彼。
私達を呼んだのは他ならぬ彼であり、今回私達の行動を止めようとしたのもまた彼である。
「僕が余計な事をしたばかりに、みなさんだけでなく彼女達にも……」
「そうやって落ち込む事が出来るなら、見込みありよ。ね、ユウ」
「さあ、どうだか」
肩をすくめ、ケーキの生クリームを指先でなめ取る。
「それは冗談として、悩むのはいい事よ。向上心がなければ、そうは思わないから」
「いえ。僕はそんなに。ただ、規則を守ろうとしてただけで」
「だとしても。何も考えてない人は、落ち込まない代わりに進歩もないわ」
げらげら笑いながら、ぼろぼろになった自分の髪型を鏡で見ているケイ。
こんな人もいる訳だ。
「……ただ、私は自分の考えが間違えてたとは思ってません」
突然そんな事を言い出す生徒会長。
戸惑う私達をよそに、彼女は強い眼差しで私達全員を見渡した。
「規則については、現状の通り」
「会長、それは」
「ただしその運用については、自警局内と総務局で協議します。特に現場のガーディアンの意見も十分に聞き入れ、柔軟な対応をする方向で検討します」
事務的とも言える説明。
入り組んだ、遠回しとも言える。
ただ、それが意味するところは。
「つまり、規則は変えないけど解釈は変えるって事?」
「そうなりますかね」
苦笑気味に頷く生徒会長。
自分の信念は譲らず。
だけど、過ちは質すという訳か。
確かに規則が残れば、ガーディアンへの一定の歯止めにはなる。
また解釈を柔軟にする事で、現場は動きが取りやすくなる。
「一度変えた物を、再変更するのは混乱の元だものね」
「自分の体面を守りたいだけですよ」
「組織運営という面を考えるなら、妥当な方法よ。それに規則は自分達を縛る物ではなく、自分達のためにあるものなんだから」
「ありがとうございます」
素直な、敬意に満ちた笑顔。
サトミは柔らかく微笑み返し、彼女の頬に手を添えた。
「女の子が会長なんて苦労すると思うけど。いい仲間もいるみたいだし」
「はい。遠野さんも」
「私の方は、どうかしら」
からかうような視線。
私も不満気味に見つめ返し、彼女の顔を指差す。
「あんな子ばかりだもの。苦労ばっかりよ」
「ふふ。遠野さんは、生徒会長になろうとは思わないんですか?」
「それも面白いんだろうけど、こういう気楽な立場が好きなの。それに私がいないと、この子達が何をやるか分からないし」
私の頭を抑えるサトミ。
自分だって、大差ないのに。
何が理由って、包帯の感触がその全てを物語っている。
「さてと、子供の相手も飽きたしそろそろ高校へ戻ろうか」
「勝手に決めていいの?」
「もう、やる事はないだろ」
素っ気なく答えるケイ。
素直に笑っている生徒会長と自警局長。
健やかに眠る高畑さん達。
彼女達を助けようと一生懸命だった中学生達。
彼の言う通り、私達がいる必要は無さそうだ。
「そうね。じゃあ、後はよろしく」
「はい。どうも、ありがとうございました。また来年、お会い出来ますね」
「うん。来年じゃなくても、会いに来てよ」
「はい。必ず」
医療部の建物を後にして、空を見上げる。
青空を映した水たまり。
ゆっくりと流れていく、大きな雲。
目の眩むような、明るい日射し。
厚くたれ込めていた雲は東へと移り、白くまばゆい雲が青い空を埋めていく。
「多少は、役に立てたのかな。俺達でも」
「レスキューに怒鳴られた男が、何言ってるんだ」
「それは、お前もだろ」
「木之本君が教唆で、主犯はショウ。俺は実行犯に過ぎない」
何も変わらないと思うが、本人がそう思い込みたいなら放っておこう。
「帰って、どうする?」
「勿論、塩田さんに会わないと。事後報告ね」
「ふーん」
「レポートは、その後でいいのかしら」
聞かなかった事にして、指で植え込みを弾く。
辺りに散る水滴。
日射しに照らされて、小さな虹が目の前に浮かび上がる。
「はは」
「雪野さん」
「何、もっと見たい?」
「冷たいよ」
笑顔で顔の水を払う木之本君。
笑い事、ではないだろう。
「は、春雨、春雨」
「食べたいのか」
「馬鹿」
ショウにも水を掛けて、この場をごまかす。
今日は中華を食べようなどとも思いながら。
「でもいいか。高畑さんとも知り合いになれたし」
「あなたは、そればっかりね」
「それ以外に、何があるのよ」
「もういいわ」
おかしな事を言う子だな。
いや、私が。
長く続く植え込みと塀。
すぐに見え出す、もう一つの正門。
私達を見て、軽く手を振ってくる警備員さん達。
その奥に見える、幾つもの教棟。
懐かしさと、何故か込み上げる寂しさ。
振り返った先に見える正門と教棟。
胸の中に浮かんでくる暖かな気持。
古い記憶と新しい思い出。
きっとまた少し、私を変えてくれた場所。
今度もあった幾つもの出来事を、温かく受け入れてくれた。
今改めて気付く。
ここは私の母校なんだと。