16-9
16-9
ガラス張りの天井から差し込む、初夏の日差し。
じっとしているだけでも、汗ばむような気温。
首から掛けたタオルで額を拭き、ペットボトルを口へと持っていく。
溢れた水が床を滑り、誰かの足音がくぐもり気味に響き渡る。
「本当に来るの?」
もう一度汗を拭き、顔を上げる。
ケイは醒めた眼差しを眼下のプールへと向けて、手すりに肘をかけた。
「来ないと困る。今まで、何をやってたって話にもなるし」
「罠って気付かれてるんじゃないのか」
「だから来るんだよ。罠があるなら、餌もある。例えが悪いけど、サトミがいるって事につながるんだから」
学内にある、室内プール。
温泉水を利用しているという話も聞く、休日でも生徒で賑わう施設の一つ。
今も水泳部の空きスペースを利用して、数名の男女がビーチボールと戯れている。
その殆どはガーディアンであり、観客席やドア付近にも何人かが詰めている。
彼等は、水泳部の警備シュミレーションとしか聞いていないだろう。
実際にはケイが言った通り、サトミを襲った犯人を誘き出す罠なのだが。
今日ここにサトミが来るという情報が、彼女を付け狙っていた人間達に流されている。
その連中は過去にケイからの警告を受けているため、ここに来る可能性は薄い。
「でも、来たから犯人って訳でもないでしょ」
「馬鹿を減らす事は出来る。それにリストに載ってない奴が来れば、情報ルートが掴める。誰がどう漏らして、どこに辿り着いたかが。一気に行かなくても、輪を狭められればいいんだよ」
「気の長い話だな」
だるそうに首を回すショウ。
汗ばんだ顔と、少し荒い息。
気温としては30度近く、湿気を考えれば体感温度はもっと高いだろう。
「……俺達がここにいたら、出てくる奴も出てこない。後はガーディアンに任せよう」
女子更衣室の前。
そのドアを指差すケイ。
「俺なら、ここを狙う」
「ここにガーディアンはいないの?」
「いない。犯人は、俺達だけで捕まえたいから」
「分かった」
背中のスティックを確かめ、耳元に隠れたイヤホンに触れる。
チェックは、問題なし。
「入ってこないでよ」
「場合による」
冗談とも、本気とも付かない表情。
確かに、場合による。
「ユウ、気を付けろよ」
「今さら、何言ってるの」
ショウへ笑いかけ、私はゆっくりと更衣室のドアを開けた。
その笑顔とは裏腹な慎重さで。
広いスペースに並ぶロッカー。
奥にはシャワールームがあり、室内の中央には大きな鏡が備え付けられドライヤーが幾つも置かれている。
微かに聞こえる、エアコンの音。
さっきまでの汗が引いていく感覚。
手の平の汗は、すぐには止まらないが。
人気のない室内。
椅子の上に置かれたタオル。
床のあちこちに出来ている水たまり。
何でもない光景一つ一つに、視線を向けていく。
高まる緊張。
自分自身が襲われるのなら、また違う感覚があるだろう。
しかし今は、サトミを狙う人間を待つ時間。
誰かも、どんな相手かも分からない。
とはいえ、ここに入れるのは自分だけ。
また、自分がするべき事でもある。
サトミを守るのは。
ドアの開く音。
即座にシャワールームへ入り、スティックを壁に当ててそれを支えに体を浮かす。
小さなドアで隠れているのは、胸元から腰までのライン。
普通に立っていれば、当たり前だが足が見える。
多少苦しいが、ロッカー内に隠れるよりは閉塞感がない。
ロッカーを開ける音。
プールへ入りに来ただけか。
続けて、もう一度。
さらに、もう一度。
鍵の掛かっているロッカーを開けるような音もする。
サトミを狙っている人間かどうかはともかく、普通の行動ではない。
そろそろ限界だな。
私の我慢も、支えている腕も。
スティックを押して体を浮かせ、壁を蹴って開いている上から外に出る。
一瞬の高い視線。
ロッカーを探る、女の子の姿。
音もなく飛び出たので、こちらには気付いていない。
膝を使い、やはり音もなく着地する。
塩田さんには遠く及ばないが、気配を消すのは苦手ではない。
壁と、室内の中央に並ぶロッカー。
角度的には、足元だけが見えている。
落ち着いた、また手慣れた素振り。
更衣室自体に鍵を掛けているのだろう。
しかし、女性とは。
いや、考えるのは後でいい。
「何してるの」
「えっ?」
言葉通りに飛び上がり、青ざめた顔で振り返る女の子。
突然の、背後からの声。
気配も、音も無かった空間からの。
勝ち気な顔を強ばらせ、ロッカーの取っ手に手を掛けたまま動かない。
「そ、その。どこに入れたか、忘れちゃって」
「キーは」
「え、えと。キーもなくしちゃって」
「じゃあ、内局の人か学校の人を呼べば」
間を置かずに問い詰め、流れた視線の先を追う。
椅子に置かれた、大きめの赤いバッグ。
さっきまでは、無かった物。
「あれ、あなたの?」
「え、いや。その」
答えない彼女。
「じゃあ、忘れ物ね。開けて、中を確かめるわ」
「ち、違うの。それは、えと。友達のを預かってきて。その子が今いないから、勝手に開けても」
しどろもどろで、要領を得ない答え。
間違い無いだろう。
それにこの顔は、見覚えがある。
「友達の男の子は、どこにいるの」
「な、何の話?」
露骨に慌てる女の子。
私程度の質問でこうなるとは、今まで余程上手く行っていたんだろう。
その手口や彼女の目的は、違う人に任せるとして。
「大体分かったから、一緒に来て」
「ど、どこに」
「素直に付いてこないと、冗談抜きで後悔するわよ」
脅しではなく本気の言葉が効いたのか、黙って付いてくる女の子。
私はその動きに注意しながら、施設内にある控え室の一つに入った。
「多分、間違いない」
彼女のバッグを机の上に置き、座るように促す。
長方形の机を4つ向かい合わせて、円卓状にしてある配置。
大人しく座った彼女の側に立ち、正面へ目を向ける。
「IDは」
「出したくないって。それに、持ってないみたい」
ケイは鼻で笑い、一つの名前を告げた。
俯いている女の子の体が、一瞬揺れる。
「生徒会や自警局はともかく、こっちでマークしてたんだよ。それで、あの変な男との関係は」
「わ、私は」
「素直に話すなら、処分内容は考慮する。嘘を付いたりごまかす気なら、言わなくても分かるよな」
私同様、恫喝とも取れる言葉。
しかし私以上の何かを感じ取ったのか、膝の上に置かれていた手が激しく揺れる。
「け、警察には」
「考慮すると言った。話さないなら、一生を棒に振るだけだ」
もうそれを、恫喝とは思わないだろう。
その視線、その表情、その佇まい。
全てが彼の意志を伝えている。
自信の身の破滅を告げるように。
淡々と交わされる、ケイと女の子のやりとり。
それを、やりきれない気持のまま聞いていく。
方法は分かった、その目的も。
こんな事のために、サトミは。
そして、私も。
こみ上げる怒りを抑えきれず、壁を蹴りつける。
「ユウ」
「だって」
「ここは、俺がやる」
ドアを指差すケイ。
今の音に怯えた女の子は完全に口を閉ざし、机に顔を伏せている。
何もされていないのに、冗談じゃない。
しかし彼の言う通り、ここにいれば怒りが募っていくだけだ。
私はもう一度壁を蹴りつけ、収まらない怒りのまま派手にドアを閉めた。
プールを見下ろす観客席。
変わらない、汗ばむような気温。
こもった音が辺りに響き、湿気が体にまとわりつく。
「何してるの」
「ケイが、囮になれって。俺がここにいたら目立って、犯人が動きやすいって言って」
「もう、捕まえたわよ」
「俺だって、あそこにはいたくない」
きしむ手すり。
金属製の、大勢の観客が押し寄せても壊れようのない強度。
そのための柔軟性が備わってはいる物の、一人の人間でどうにか出来る物ではないはずだが。
「次はどうするんだ」
「やっぱり、あの男を捕まえるんじゃないの」
「それで、終わりか」
「だといいけど」
重い会話。
プールでは楽しげにビーチボールで遊ぶ男女が見え。
天井からは、眩しい日差しが降り注ぐ。
それと、肌にまとわりつく湿気。
水に入っていない私達には、逃れられない感覚。
まるで、今の自分の気分のような……。
彼女を沙紀ちゃんのオフィス内で拘束して、取りあえず一息付く。
状況を考えればゆっくりしている時間はないが、こうでもしないと気持が落ち着かない。
「……疲れた」
頭にタオルを被り、だるそうにやってくる沙紀ちゃん。
プールにいたのは、自ら囮役を申し出た髪を解いた彼女。
「ありがとう」
「いいの。それで、男の方は?」
「今、名雲さん達が探してる」
「この二人が遠野ちゃんを襲ったかどうかは、その後分かるって訳ね」
冷静に指摘して、解いた髪を横へ流す。
「どうなの」
「捕まえた後で、ゆっくり聞くさ。……はい、分かりました」
端末をしまい、腰に警棒のフォルダーを付けるケイ。
「寮の近くで見かけたらしい。女が捕まったって分かったのか、かなり焦ってる」
「拘束してもらえばいいじゃない」
「慌てれば、誰でも油断して本当の自分を見せる。秘密の隠れ家に、逃げたくもなる」
この状況にあっても、全く普段と変わらない態度。
むしろ、今の方が落ち着いて冴えているのかもしれない。
それは彼にとっていい事なのか、悪い事なのか。
私にその判断は付きそうにない。
彼自身が、どう思っているのかも……。
男子寮の近くにある、小さなアパート。
その前にある道路に止まる赤のRV車。
中から降りてきた名雲さんと柳君が、周囲を気にしつつこちらへとやってくる。
「部屋に入ったまま、出てこない」
「反対側の窓は?」
「七尾達が詰めてる」
「……分かりました」
端末を取り出し、その七尾君に連絡を取るケイ。
「向こうで陽動してくれますから、こっちはその隙に。ショウ」
「ドアくらいは壊すぞ」
「任せる」
きしむ階段。
剥がれた塗装。
廊下に散乱する、空き缶やビニール袋。
素っ気ない表札と、同じようなドアの列。
汚れた手すりから距離を置き、アパートの前を振り返る。
住宅街の一角。
居並ぶマンションや一戸建て。
その間にある、本当にわずかな隙間。
そこから見える、女子寮の建物。
「なるほどね」
冷ややかに笑い、ドアをノックするケイ。
「……何か」
インターフォンから聞こえる、くぐもった声。
ドアにある小さな覗き窓には、彼の手が当てられている。
「宅配便です」
「そういう事は、聞いてないけど」
「……ある女の子から頼まれたんです。自分が動けないから、ここへ届けてくれと」
ドア越しに伝わる物音。
「手が離せないので、開けて貰えますか」
「一人か」
「ええ」
「今、開ける」
わずかに開くドア。
チェーンの揺れる音。
その隙間に警棒を突っ込むショウ。
「なっ」
警棒が上に跳ね上がり、チェーンがはじけ飛ぶ。
「入るぞ」
ぶっきらぼうに言い捨て、強引にドアの中へと入っていく。
背を向けて部屋の奥に逃げる男。
その襟を掴み、ショウは蹴り倒して床へと伏せさせた。
「やり過ぎだ。まだ、何の確証もないのに」
鼻を鳴らし、鍵の掛かってるらしい机の引き出しを蹴りつけるケイ。
それでも開かないらしく、鍵穴にライターを押し当て無理矢理に焼き切った。
次いで辺りにあったペンを差し、溶けた鍵ごと引き抜く。
「お前こそ」
「いいから、そいつを縛ってろ」
「ったく」
手早く指錠をして、ズボンをずらして膝辺りでベルトを締めるショウ。
警棒かスタンガンを持っていたようだが、それは床に転がっている。
アパートの外観とは対照的な、整頓された室内。
壁に並ぶラックと、そこに収まる無数のファイル。
机の上にはDDが何枚か重ねられていて、室内の空いたスペースにはプラスチックの大きなケースが幾つも積まれている。
「住んでる訳じゃなくて、保管用の部屋だな」
ケイは引き出しの中身を丁寧に仕分けして、一人頷いている。
「クローゼットは……。こっちか」
隣の部屋に向かい、当然だが勝手にクローゼットを開ける。
今気付いたが、私も含め全員土足だ。
「あった」
「何が」
「これ」
床へ投げられる、青のジャケット。
腕と襟辺りが、青緑に染まっているのがどうにか判別出来る。
「これって、この間の塗料?」
「それは、警察が調べてくれる」
持ってきたビニール袋にジャケットを入れ、さらに中を探っている。
「あった」
「え?」
学校の制服、水着、靴下。
出てくるのはどれも、女性物ばかり。
初めからそれが分かっていたのか、ケイは表情を変えずクローゼットの中から全ての服を取り出した。
「おかしいな」
「何が」
「大事な物は、ちゃんと隠してあると思ったんだけど」
クローゼットのあちこちを叩き、首を傾げている。
「おい。服はこれだけか」
初めて男に声を掛けるケイ。
ショウの膝を背中に乗せられている男は、恨みがましい顔を彼へと向けた。
「誰が……」
「話せよ」
顔中から噴き出す汗。
男の脇腹に入る、ショウの指。
「む、向こうの部屋のケースに」
「本当に隠してある奴を聞いてるんだ」
鼻先に突きつけられるつま先。
男は喉を鳴らし、顎を振った。
「ここだな」
「テレビじゃない」
そう答えた瞬間、ケイは画面に手を掛けた。
簡単にずれる表示画面。
それが床へと落ち、何枚かの服がその奥に綺麗に畳まれている。
「……名前まで書いてある。でも、サトミのは無いよ」
「服は取られてないだろ。お前の趣味は大体分かった。で、質問だ」
しゃがみ込み、男の顔を見下ろすケイ。
手に持ったペンを、彼へと向けて。
「俺を知ってるよな」
「あ、ああ」
観念したのか、すぐに認める男。
ケイはペンを振り、自分と私をそれで指し示した。
「この間、俺達を襲ったのもお前だろ」
「……そうだ」
「それでいい」
満足げに頷き、男の耳の穴へペンを差し入れる。
「遠野聡美に関しては、どこまでやった」
「そ、それは」
「早く答えろ」
奥へ入るペン。
一瞬にして表情を変える男。
「ふ、服を持ってくるように頼んだだけだ。それと、撮影を」
「それ以外は」
「や、やってない。ほ、本当に」
早口で、自分の趣味をまくし立てしきりに謝る。
ケイは無言で男を見下ろし続け、言葉が途切れた所でペンを引き抜いた。
「後は、警察で話せ」
「い、いや。それは」
「自業自得だ。せいぜい、親に泣きつくんだな」
警察へ通報し、今回の担当者に後を引き継いでもらい学校へと戻る。
白い湯気を立てるマグカップを前に、私はようやく一息付いた。
「それで、どうなの?」
「今さら逃げようもない。身元も何もかも抑えてるんだし」
「サトミを襲った人間だという確証は?」
「候補者では、一番可能性が高い人間だった。後はしばらく様子を見て、どうなるかってとこかな」
淡々と答えるケイ。
モトちゃんはマグカップを手に持ち、それを軽く振った。
揺れる湯気。
その先にある彼の顔を、澄んだ眼差しで見つめる。
「取りあえずは、大丈夫と考えていいの?」
「警備は無くす。生徒会の協力要請は期限付きだから、いつまでもガーディアンやSDCを動員出来ない」
「そうね。後は私達だけで警戒すればいいか」
「任せる。やっと終わった」
ケイは欠伸をして、壁に頭を付けた。
緊張感の切れた、眠そうな表情で。
「随分、簡単に終わったじゃない。これなら、もっと早く捕まえれば良かったのに」
「あいつの周りを固めるのに、色々やってたんだよ。捕まえて話を聞くのは、大袈裟に言うなら儀式に近い」
「よく分かんないんだけど」
「終わったからいいんだって。もうしばらくサトミの周りを固めて、何もないならそれで本当に終わり」
気のない返事。
それとも疲れているのか、言葉とは裏腹に元気がない。
「お前こそ大丈夫か」
「寝てないだけだ。当分TVは観たくない」
「あいつが犯人って分かってたのに、まだ観てたのか?」
「女子寮の監視カメラもある。警察から連絡あったら、教えてくれ」
だるそうに手を振り、部屋を出ていくケイ。
私からすれば簡単に見えたさっきの出来事。
でも彼にすれば幾つもの物事を延々と積み重ね、ようやく一つの結論に達したんだろう。
仮にあそこで何も見つからなかったら、今警察にいるのは私達にもなりかね無かった状況でもあるんだから。
「女の子は、お金で頼まれてたって訳ね」
「その方が動きやすいんだって。確かに、まさか女の子が盗撮してるとは誰も思わないもん」
「盗撮好きのおぼっちゃまと、お金のためなら何でもやる女の子か。生徒会と、対策を考えた方がいいのかな」
ここは、自警組織幹部としての顔になるモトちゃん。
私は曖昧に頷き、ため息を付いた。
「どうしたの」
「何か、すっきりしないと思って。確かに変な奴だけど、サトミを襲った人間とはイメージが一致しないのよ」
「あなた達も襲われたんでしょ」
「あれは、ケイが誘った面もあるから。あのアパートには盗撮したDDや盗んだ服だけで、本当におかしな物はなかったの」
アパートにあった、たくさんの品物。
完全に全てを見た訳ではないが、ケイもそういうのは無いと言っていた。
相手を脅せる程の、気分が悪くなるような物は。
だからといって彼の行為では無いとは、否定出来ない。
説明しづらい違和感。
あの男の表情、雰囲気、行為。
全てを否定したい気持。
これで終わったと思いたい、解放されたい気分。
しかし、そうではないと告げる何かが自分の中にある。
「どっちにしろ、俺達が警戒してればいい事だろ」
不安を打ち消すように、優しく笑ってくれるショウ。
私も彼に微笑み返し、背中のスティックを引き抜いた。
「そうね。サトミは?」
「天満さんを手伝ってる。あそこは特別教棟内だから、大丈夫よ」
「うん。確かにこれで終わればいいんだけど」
手の中でスティックを回し、その動きの流れで背中に戻す。
一見難しいように見えるが、アタッチメントの位置さえ分かっていれば勝手に張り付くだけだ。
「あの二人の処分はどうなるの?」
「退学でしょうね。親がいくら寄付してても、関係なく」
「甘いな、随分」
「過剰防衛で、警察から何か言ってきても知らないから。……はい」
ショウに笑いかけつつ、端末に反応するモトちゃん。
「え?……いえ、お通しして。ええ、お茶をお願い」
「誰だ」
「偉い人よ」
紺のスーツと、黒のヒール。
開いた襟からわずかに覗く、ふくよかな胸元。
艶やかな髪を横へ流し、凛とした顔をこちらへと向ける女性。
その背後に、数名のスーツ姿の男性を連れている。
「お呼び下されば、こちらから出向きましたのに」
「視察も兼ねてね」
ゆとりある微笑みを浮かべる、高嶋理事長。
後ろに控えているのは、確か警察の。
「さっきあなた達が捕まえた、男子生徒の報告よ。あの子の親が誰だか知っているの?」
「私は、そういう事に疎くて。捕まえた本人達にお聞き下さい」
「悪い事をすれば、誰でも罪を受ける。そんなの、当たり前です」
反発気味に答え、彼女を見上げる。
理事長は苦笑気味に首を振り、刑事さん達を応接セットへと招いた。
「あなたに学校経営のなんたるかを説いても、無駄のようね」
「そんな奴が許される方が、学校経営に問題があると思いますけど」
私以上に険しい物腰で答えるショウ。
「玲阿家とRASからの寄付金が減ると困るから、この話は止めにしましょうか。あなた達も、座りなさい」
書類と卓上端末を交え、説明を始める刑事さん達。
殆どは、アパートで男から聞いた話と大差ない内容。
幾つかのデータも見せられたが、私には何の意味かは理解出来ない。
「盗撮と窃盗に関しては認めてます。ただ、遠野さんを襲った件は否定していまして」
「アパートの遺留品にも、手がかりはありませんでした。盗撮での立件はする方向ですが、誘拐未遂や暴行の件は今後の捜査をお待ち下さい」
思った通りの説明。
とはいえまだ彼が犯人ではないと決まった訳ではなく、それ以外でサトミを付け狙ってい事に変わりはない。
また現時点では、あの男が一番その可能性が高い。
「当校でも、その判断で結構です。ただし未成年ですので、取り調べは規則通りにお願いします」
「は、はい。それは勿論」
思わず刑事さんがたじろぐ程の威圧感。
理事長は鋭い眼光を和らげ、書類へと視線を向けた。
「こういう生徒がいたかと思うと、頭が痛いわ」
「はあ」
曖昧に答える刑事さん。
私はそういう生徒がまだいると分かっているので、ため息が漏れる。
「雪野さん、何か」
「いえ、別に。……あ、忘れてた」
「どうかしたの?」
「ええ。浦田君に連絡を取ろうと思って」
顔を見合わせる刑事さん。
理事長も、訝しげにこちらを見てくる。
「その、今度で一番頑張った人だから。これを見て、何かが分かるかと思いまして」
「いいですよ。我々も、彼とは何度か話をしてますし」
「済みません」
少しして、未だにだるそうなケイがやってくる。
刑事さんに軽く会釈して、理事長に視線を止める。
「わざわざ、どうしたんですか」
「学内トップの生徒が襲われたとなっては、私の立場がないから」
「体面ですか、それとも生徒を思ってですか」
「好きに判断して」
二人の間で散る、冷たい火花。
しかしケイはすぐに顔を逸らし、ショウの隣りに座って書類を手に取った。
「俺もあいつのアパートで話を聞いたんですが、大体この通りですよ」
「脅されたと、被疑者は言ってましたが」
「多少の行き過ぎは認めます。ただ器物を破損した以外は、殆ど何もしてませんから」
「……そうですか」
納得はしてないが、それ以上は追求しない様子の刑事さん。
ケイは全く気にせず、細かな字の書かれた書類を読み耽っている。
「刑事さん達には申し訳ないですけど、もうしばらくは今のままでお願いします」
「今のままとは」
「学内及び寮への、警察の立ち入り制限。それと、生徒自警組織への捜査権の一部委任です」
「あまりこういう状況が続くと、我々としても他に示しが付かないんですけどね。後で何かあった時、警察は何をやってるんだという話になりますし」
書類を読んだまま、言葉を遮るように小さく手が挙げられる。
「お立場は、重々承知しています。ただ学内に関しては生徒自治という基本原則がありますし、これは教育庁からも認められた権利ですから」
「今回の被疑者以外にマークしている人間も、何人かいるんです。そちらが協力してくれれば、双方にとっての利益になると思いますよ」
「仰る通りですが、もう少しお待ち下さい。時期を見て、ご連絡致します」
「どうも困りましたね」
難しい顔でケイを見下ろす刑事さん。
重いというよりは、刺々しい空気。
それでも彼はいっこうに気にした様子はなく、書類から目を離さない。
「警察ごっこも構いませんが、後で非難を受けるのは我々なんですよ。あなた達は勉強に専念して、これからは私達に任せて下さい」
「どこかで聞いた台詞だな……」
側にいた私達くらいに聞こえるくらいの、小さなささやき。
ようやく上げられた視線が、彼の正面に座る理事長へと向けられる。
あくまでも、一瞬だけ。
「不審者の特定と逮捕については、さっきも述べた通り協力するつもりです。ただこちらとしては友人が関わっているので、警察を介して事態を大袈裟にしたくないんです。その件が問題ないと分かれば、すぐに連絡します」
「事は一刻を争うんですよ。証拠を隠滅されたりしたらどうするんです。遊びじゃないんですよ」
「友情もいいが、我々にも立場がある。下らない意地を張らないで、後を任せて貰えませんか」
厳しい。
言い過ぎとも言える言葉。
思わず身を乗り出しかけた私をケイは目線で制し、体を傾けて脇腹を押さえた。
「確かに学内でも、物騒な事件は多いですからね」
「その通りです。だから」
「例えば、生徒が刃物で斬りつけられたり」
喉元から漏れる笑い声。
一転して顔を強ばらせる刑事さん達。
「なんでしたっけ、繁華街で警察の真似事をしてた連中。そう、ディフェンス・ライン」
世間話のような口調。
先程までと変わらない、落ち着いた態度。
汗を吹き出す刑事さん達とは対照的に。
「あの連中の動向をチェックしておけば、未然に防げたとも思いませんか?」
「さ、さあ。我々は、地域課ではないので」
「また冗談を。彼等に未成年者がいる以上、少年課の管轄でもありますよ。そのディフェンス・ラインの動向を、どうして掴めてなかったんでしょう。彼等をバックアップしていた警察が」
何気ない問い開け方。
刑事さん達は言葉を返さず、ケイは大きく口を横に緩めた。
「彼等は警察と密接な関係にあったと聞いてますよ。でもそのディフェンス・ラインのメンバーが、学内で傷害事件を起こした。これは、大きな過失ではないんですか」
「い、いや。それは」
「それ以外にも物資面での援助や、軽微な犯罪行為の見過ごしがあったそうですね」
「そ、そんな訳はない。物資の援助はともかくとして。だ、誰がそんな事を」
赤い顔でまくし立てる刑事さん。
それを見れば、今の話が真実かどうかは誰にでも分かる。
「この地区の、ディフェンス・ラインの幹部を務めていた人間から少し。口頭ではなく、書類やDDという形で」
「え?」
「とにかくしばらくは、これまで通り不介入でお願いします。よろしいですね」
「は、はい」
突然の切り替え。
それに付いていけなかったのか、訳が分からない顔で二人は頷いた。
ケイは彼等を見る事もなく頷き、一枚の書類を抜き出した。
「男のジャケットから検出された成分表ですよね」
「え、ええ」
やりあう気力も無いのか、鈍く反応する刑事さん。
「これで、全部ですか?」
「そう聞いてますが、何か」
「お茶の成分が含まれてないかなと思って。えーと、カテキンでしたっけ。洗剤で洗っても、解析出来ると思ったのに」
書類の項目を滑っていくペン。
しかし彼の言うカテキンに関する項目は、どこにもない。
「後はカフェインとポリフェノールと、えー」
「各種ビタミンに、フッ素よ。それが、どうしたの」
訝しげに尋ねる理事長。
彼女以外の全員も、彼に視線を向ける。
その彼は少しの間を置き、私をペンで指し示した。
「彼女が寮で襲われた事は、警察にも連絡されてますよね」
「ええ。それが」
「その際お茶をかけたらしいんです。この男と同じ、青いジャケットを着ていた人間に。でも、そのジャケットからお茶の成分は検出されてない」
「そういえば」
ここは表情を鋭くして、別な書類をめくる刑事さん。
「それは別な服で、被疑者はお茶の掛かったジャケットを捨てたんじゃないですか」
「そういうごみは出て無いと、俺は思います。切って小さくしたという事もないと」
「まさか、ごみまで調べてたんですか?」
顔をしかめる刑事さんに、ケイは曖昧に笑ってさっきの書類を差し出した。
「分かりました。署へ戻って、鑑識に問い合わせてみます。すると今回の被疑者とは別な人間が、彼女を襲ったと考えた方がいいですね」
「俺達は学内での役職柄、襲撃される事はよくあります。だから、ストーカー絡みとはまた違うかも知れませんが」
「それもお任せします。どうも我々は、関わらない方が良さそうだ」
書類を全てケイに渡し、苦笑気味に立ち上がる刑事さん達。
「それでは、また連絡しますので」
「お願いします。今回同様、俺達は学内で不審者を拘束するだけですから」
「逮捕の手柄は、我々に譲ると?」
「最後の恨みを買いたくないだけです。今日はわざわざ、ご苦労様でした」
刑事さん達が去り、ようやく張りつめた緊張感から解放される。
その緊張感を生み出したケイといえば、気のない顔でデスクの上にあるペンを突いている。
「あなたは、警察にも反抗的なのね」
辛辣に指摘する理事長。
圧倒的な威圧感と自信。
気の弱い人間なら反論も出来ず、ただ全てを認めてしまいそうな程の。
「頭ごなしに言われれば、誰だって反発します」
「しかも、脅迫めいた事まで言って」
「あれは冗談ですよ。確かにディフェンス・ラインの幹部から色々聞いたけど、書類やDDなんて受け取ってない。脅迫を理由に俺を尋問すれば、困るのは向こうだし」
「ストーカーより前に、あなたをどうにかした方がいいのかしら」
真に迫った口調。
ただ表情にはゆとりがあり、それが冗談であるとは誰の目にも明らかだ。
口調通りの、彼女の気持ちが含まれているのはともかく。
「お仕事はよろしいんですか」
「トップがいないと動かない組織なんて物は、元々機能していないのよ。元野さんの所も、そうでしょ」
「私の所のトップは、単に仕事をやりたがらないだけです」
「そう。浦田君、どちらにしろ程々にしておきなさい。今度斬られたら、その保険金はあなたの家族が受け取る事になるかも知れないんだから」
諭しているのか、嫌みなのか。
厳しい言葉を残し、理事長も部屋を出ていった。
「疲れた……」
机に伏せ、長い息を付く。
刑事さんに理事長。
普段なら、まず会う事無い人達。
それを同時に顔を会わせ、やり合う所を見てたのだから。
私でなくても、疲労は溜まる。
「そうなると、サトミを狙ってる人間はまだいるって事?」
「可能性としてはある。たださっきの話通り、寮の一件はユウを狙ってるかもしれない」
「はっきりしない話ね」
頭越しに聞こえる会話。
結局曖昧なままで、このままなし崩しに終わっていくのかも知れない。
それはモトちゃんの言う通り、はっきりしない話だがサトミが襲われるよりはいい。
あの子が不安を抱えたままになるのは、心配だが。
今は私達がどうにか隠していても、いつかは全てに気付くだろう。
自分がどの程度狙われていて、どういった対象になっていたのか。
また、今もその身が危ないとも。
滅入る気持。
しかし、打つ手のない現状。
確かに、一人の不審者は捕まえた。
彼がサトミを付け狙っていたのも、間違いない。
ただケイの指摘、そして私の感覚。
あの男とは違う誰かがいるという推測。
表面の不安が取り除かれ。
奥にある、より深刻な問題を突きつけられた気分。
それが、曖昧なまま消えていく可能性。
私に出来る事は、何一つ無いままに……。
気分を変えようと、教棟を出て外を歩く。
灰色に淀んだ空。
梅雨間近の、少し湿った空気。
意味もない苛立ちが、胸の奥から沸き上がる。
「雪野さん」
優しい声。
顔を上げると、封筒を抱えた吉澤先生が目の前に立っていた。
手は未だに、包帯が巻かれている。
格闘技の練習を、まだ続けているのだろう。
「元気ないね。どうかした?」
「い、いえ。ちょと、サトミの事で」
「彼女は元気そうだったけど」
「ええ、まあ」
言葉を濁し、彼を上目遣いで見上げる。
気弱そうな、穏やかな顔。
私が話すのを待っているが分かる、柔らかな雰囲気。
「少し、時間いいですか」
「ああ。カウンセリングルームは誰も来ないから、あそこで話そうか」
傾けられた椅子に座り、淀んだ窓を見つめながら口を開く。
さっきの出来事。
未だに残る、サトミの危険性。
それに対して、何も出来ない自分。
あくまでも大まかに。
話すのがためらわれる事。
話してまずい事は除いて。
一つ話すごとに、少し胸が軽くなる。
自分の重みを誰かに預けるような、微かな胸の痛みと共に。
逃げているのではないかという、漠然とした自分への苛立ち。
それでも話さずにはいられない、今の自分。
そうする事しかできない、情けない自分。
「……雪野さん」
「え?」
「いや。話したくないのなら、無理しなくていいよ」
暖かい笑顔。
どうやら知らない間に、黙りこくっていたようだ。
「す、済みません。え、えと」
「いいんだ。これはカウンセリングではなくて、僕と君との会話だと思えてくれればいい」
「会話?」
「友人同士の。遠野さんを介してのね」
胸の詰まる思い。
こみ上げる幾つもの感情。
今すぐに、全てを話してしまいたくなる気分。
でも、そこまでは甘えられない。
まだ私は、何もしていないんだから。
何一つとして……。
「強いんだね、君は」
ぽつりと、感慨深げに漏らす吉澤先生。
不思議そうに見返す私に、彼は開いていた本を閉じて薄く微笑んだ。
「人は誰でも、弱い部分がある。今の君のような時は、それがなおさら顕著に現れる」
席を立ち、本が机の上に戻される。
淀んだ空へ向けられる視線。
その背中がこちらを向く。
「でも君は、あくまでも自分で頑張ろうとしている。違うかな」
「え、ええ。結局何も出来ないから、馬鹿みたいなんですけど」
「そんな事はないよ。そんな事は」
薄暗い外。
照明を弱々しく跳ね返す、灰色の空を覗かせる窓。
そこにかろうじて映る、彼の顔。
輪郭だけが、灰色の空と重なっている。
「遠野さんは?」
「先輩の仕事を手伝ってます」
「そうか。雪野さんも彼女の側にいた方がいいね。遠野さんを守るためにも、自分のためにも」
「自分のため?」
その意味が分からなく、すぐに問い返す。
彼の輪郭を映す窓。
光の当たり方の、微妙な変化。
彼と私の、立つ位置の変化。
一瞬映る、その口元。
どこかで見た、忘れる事がないはずの……。
「彼女の事は僕も気をかけておくから、雪野さんも気を付けて」
「え、ええ。それじゃ、ありがとうございました」
「いや。また、いつでも来て」
「はい。失礼します」
医療部の施設を出て、特別教棟へと向かう。
淀んだ、今にも降り出しそうな雨。
湿った空気からは、逃れようもない。
苛立ちは消え、不安だけが募っていく。
足早に先を急く。
「あ」
濡れる地面。
かざした手に、一粒が落ちて消える。
特別教棟はもう、見えている。
走る程でもないだろう。
まだ、今は……。
特別教棟内を歩き、運営企画局のブロックに足を踏み入れる。
微妙な違和感。
いつもより重い空気。
顔見知りの女の子に近寄り、声をかける。
「どうかしたの?」
「よく分からないんだけど、あなたの友達の綺麗な子。あの子が、何かあったみたいよ」
言葉を最後まで待たず、廊下を駆け抜ける。
やはりあの男は、違ったという訳か。
しかし生徒の立ち入りには厳重なチェックをするこの建物で、どうして。
「済みませんっ、サトミ……。遠野聡美はっ」
「え、えと。その奥に」
「どうもっ」
カウンターを飛び越え、段ボールを抱えた男の子の隣を素早く通り過ぎる。
あそこか。
しかしドアの前に立っても、センサーが反応しない。
一秒、一瞬が惜しいこの問いに。
まどろっこしい。
「ちょ、ちょっと」
「え?」
「い、今開けるから」
振り上げたスティックを怯えた目で見つつ、女の子がコンソールのスリットにカードを通す。
読み取る時間すら、苛立ってくる。
ようやく、実際には1秒も経たずに開くドア。
わずかに開いた隙間から滑り込み、背中のスティックに触れつつ室内を見渡す。
「雪野さん、落ち着いて」
静かに掛けられる声。
「天満さん……」
「大丈夫、ただのメールよ」
「サトミは?」
「別な部屋にいるわ。届いたのは私の端末で、彼女は知らないから」
あくまでも冷静さを失わない天満さん
室内にいるのは、彼女と中川さんの二人きり。
ただ彼女達がいるなら、私が一人で慌てる事もない。
「本当はここのホストコンピューターに来たんだけど、内容が内容だったから私が差し止めた」
「そうですか。でも、内容って」
「いわゆる、誹謗中傷ね。彼女を貶めて、孤立させるような。なかなか、面白い事をやってくれるじゃないの」
鋭い表情で、口元を緩める中川さん。
言葉とは裏腹な、剣呑な物腰。
天満さんは苦笑して、端末を手の中で転がした。
「彼女を撮ったDDと写真付きで。どう見ても、合成だったけど」
「どんなのが」
「見ない方がいいわ。私は、思い出す気にもなれない」
重苦しい表情。
二人から漏れるため息。
「犯人が捕まえたって聞いた途端、これだもん。困ったわね」
「そんな悠長に構えてる場合じゃないでしょ。雪野さん、大丈夫なの?」
「……ええ。任せて下さい」
低く、短く答える。
二人が顔色を変え、視線を交わしあう程に。
「この犯人は、絶対に捕まえます。何があっても、どうやってでも」
強く、自分自身に言い聞かせるように。
もう、悩んでなどいられない。
我慢も出来ない。
この間の気持がかすんでしまうくらいの、内側からこみ上げる感情。
握り締めた拳の感覚すら分からない。
誰を相手にしたか、思い知ってもらう。
彼女が誰なのかを。
そんな理由で見る事すら許されない存在なのだと。
そして、私が誰なのかを。
彼女を守るために存在するのだと。
これまでがそうだったように、今も。
サトミに手出しをした人間がどうなったかを、今からその身で思い知ってもらう。