16-7
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これといったトラブルもなく。
サトミもいない。
ここにいても仕方ない。
「暇そうね」
執務用の大きな机の向こうから声を掛けてくる沙紀ちゃん。
私はパワーリストの位置を直し、軽く肘を振った。
「本当に」
「遠野ちゃんは?」
「例の先生の所、だと思う」
その辺りは聞いてないので、はっきりしない。
しかし彼女がこれ程オフィスを開ける事は無かったので、それ以外は思いつかない。
「難しい問題ね」
言葉の割には、深刻さのない顔。
私程はサトミとの関係が近くないためか。
現状を肯定的に捉えているのか。
それとも、彼女に構うケイへの意図が含まれているのか。
「会いに行かないの?」
「え、私が?」
「気になってるなら、その方がいいんじゃなくて」
「う、うん」
答えられない私。
沙紀ちゃんは、やはり落ち着いたままである。
「私は部外者だから、どうとも言えないんだけど」
「え」
不意を付かれた気分。
彼女の本心なのか。
それとも、私達がそう思わせてしまっているのか。
「部外者だなんて」
「勿論私も遠野ちゃんとは仲が良いし、友達だと思ってる。でも、やっぱり立ち入れない一線はあるのよね」
ケイが言っていたような台詞。
「ただ、優ちゃんは違うじゃない」
「いや。私も結局は他人だから」
「そう?」
和む表情。
優しい、励ますような眼差し。
「なんて言うのか、二人で一人って感じなのよね。優ちゃん達って」
「そんな」
「自分では、そう思わない?」
小首を傾げ、静かに尋ねてくる沙紀ちゃん。
私は自分の胸に手を当て、考えてみた。
サトミと、自分の事を。
思い返される、幾つもの出来事。
彼女の表情、姿、言葉。
気持。
他人のはずの、サトミの心。
それが、私の心と重なっている。
別に不思議な事じゃない。
私とサトミは。
そうだったんだから。
ずっと前から。
二人で一緒に……。
「ちょっと、参った」
「私もこのくらいは、一応ね」
冗談っぽく胸を反らし、薄く笑う沙紀ちゃん。
私と同じ年で。
地区は違っても同じ学校に通い、同じ環境にいたはずなのに。
彼女は今のように、人を導き。
私はただ、人に委ねるだけ。
改めて知る彼女との差。
自分の無力さ。
努力の足りなさ。
今まで自分が何をやっていたのか、振り返る気にもなれない。
ただ暴れて、体を鍛えて来ただけだ。
「本当、私は駄目だね。人に頼って、自分では何も出来なくて」
「考え過ぎよ。私は色々事情があって、自分でやるようになっただけだもの」
「だけど」
「それに頼られるっていうのは、嬉しいじゃない。遠野ちゃんも、きっとそうだと思う」
私とは、逆な考え。
頼られる喜び。
ふと思い出す、神代さん達の事。
「……そうかな」
「聞いてみれば」
「まさか。そんな、どうして。何か、あれじゃない」
「私を構って、って聞くみたいで?」
読まれている、私の意図。
さっきの話じゃないけど、周りが優秀過ぎるんだ。
だから自分では何もやらなくていいし、深く考えなくても済む。
その結果がこの様なんだから、少しは努力すればいいんだけど。
結局は、今の通りになっている。
「でも沙紀ちゃんは、ケイと言う事が違うね」
「ん、何が」
「サトミと、私の関係。あの子は、私も他人だから一線を引くべきだって」
顔をしかめる沙紀ちゃん。
少々、わざとらしく。
「あの子は、そういう細かい人の機微が分からないのよ」
「はあ」
「駄目駄目、あんなのに相談しちゃ。もっと他に、元野さんとか舞地さんとかいるでしょ」
あんなの呼ばわりされるケイ。
私は多少なりとも考えさせられる部分があったので、曖昧に頷く。
それと、舞地さんの名前に。
「どうかした」
「ケイと舞地さんが、何か仲悪くて」
この間の事を、かいつまんで説明する。
「分からなくも、無いけど。舞地さんの気持ちも」
「どういう風に?」
「あの人は、元々渡り鳥。私達程、やり方も考え方も甘くはない。この場合遠野ちゃんを護衛者と考えるなら、それこそ囮にでもして犯人を捕まえる場面よ」
あの場にでもいたかのように、舞地さんと同じ台詞が繰り返される。
「彼女の気持ち以前に、その身を守るのが優先される。そして自分達が軽んじられないために、犯人はどういう手段を使ってでも捕まえる」
「うん……」
「だけど浦田は遠野ちゃんに気を遣って、無難で穏便な手を打ってる。それが普通なんだろうけど。今まで何度と無く護衛の仕事をしてきた舞地さんに取っては、気にくわない部分もあるのかも」
今までの疑問が解けていく気分。
本当にそうかどうかは分からないが、見方の一つとしてはあるだろう。
少なくとも私には、相当に納得出来る説明である。
舞地さんが自分で語らない以上、その怒りの原因は結局分からない。
もしそれが私達。
いや。
サトミを守る事への不満だとしたら。
それを知りたくなくて、分からない振りをしているのかも知れない。
沙紀ちゃんの言葉を借りるなら、舞地さんも部外者。
私達のようには踏み込んでこない。
踏み込む理由が、彼女にないとしたら。
先輩と後輩。
私達が、勝手にそう思い込んでいるだけとしたら。
そんなはずはない。
無愛想で、素っ気なくて。
でも、ふとした瞬間に優しく微笑みかけてくれる彼女。
本当は静かに暮らしたくて、詩を書くのが好きな普通の女の子。
いつも一緒にいる訳ではないけれど。
会えば笑って話をして、たわいもなくふざけあって。
それを楽しいと思える自分。
きっと彼女もそうだと思っていた。
だから。
サトミを守るのを、面倒に思う訳がない。
そんな事は、絶対に……。
「本当に、そうなのかな」
「さあ。これこそ、聞きづらいでしょ」
細くなる、沙紀ちゃんの瞳。
鋭く、輝きを帯びて。
「何もしてくれないなら、舞地さん抜きで考えればいいのよ。やる気のない人を混ぜるより、その方がやりやすいもの」
厳しい言葉。
私のように、感情で動くのではなく。
現実を見て、それに沿って考えられた発言。
大切な事を見極め、自分の成すべき行動を決められる沙紀ちゃん。
冷たく、結果だけを求めるような思考。
私には出来そうにない考え方。
「なんて事を思っちゃう訳よ。私みたいな事をしてると」
「沙紀ちゃん」
「そういう意味では、浦田と同類なのかな」
凛々しい顔をしかめ、鼻を鳴らす。
勿論、冗談っぽく。
「気にならない?ケイが、サトミを構うのを」
「厳しい質問ね」
今度は微かに口元が緩み、ポニーテールに手が伸びる。
「気にならない事は無いわね。ただ、浦田がああしたい気持も分かるの」
ポニーテールを滑っていく、白い指先。
澄んだ輝きを宿す瞳。
「優ちゃんとはまた違う形で、あの二人は同じだと思うから」
「同じ」
「ええ。元野さんも、たまに言ってるでしょ。初めはまさかと思ってたけど、最近はそうかなって」
訥々と、思いを込めて呟く沙紀ちゃん。
深い自分の思考と語り合うような。
「そうかな。私はその意見に、どうも納得出来ないのよね」
サトミと私が同じ。
サトミとケイが同じ。
だから、私とケイが同じ。
という理論が気にくわないのではなく。
サトミとケイが、同じはずがない。
外見や性格は勿論。
生き方、好みは全然違う。
能力は、似て無くもない。
考え方も、少しは。
いや。
認めない。
認めたくない。
「違う。絶対違う。そんなのは、許される話じゃない」
「え?」
「神様が許しても、私が許さない。冗談じゃない。私のサトミが、どうしてケイなんかと」
つい熱くなっている自分。
苦笑しつつ、ケイもそこまでひどくはないわよと言いたげな沙紀ちゃん。
普通に彼の良さを聞かれたら、私だって頷くだろう。
だけど世の中には、譲れない事の一つや二つはある。
私にとってはそれが、サトミだという話。
「そこまで好きなら、今も張り付いてた方が良くない?」
「き、嫌われたらどうするの。あの子はあの子で、楽しんでるのに」
「気にし過ぎよ。優ちゃんだって、その逆だったら嬉しいでしょ」
ニャン達といる時、サトミが側にいたら。
勿論、嬉しい。
それ以外の時だって。
ただ私でも、自分一人で過ごしたい時がある。
その時サトミが側にいたら、どうだろう。
初めは少し、疎ましく思うかも知れない。
でも、すぐに気付くはずだ。
サトミがどうして自分の側にいるのかを。
そして、すぐに忘れてしまう。
彼女が自分の側にいるのは、当たり前の事だから。
空気のように、水のように。
普段はそうと気付かない存在。
いなくなって気付く、その大切さ。
全てを委ね、頼っていた自分にも気付く。
「大体、いつまでも遊んでていいの?」
「沙紀ちゃんだって、私と遊んでるじゃない」
「副隊長が何人もいるし、事務専門の子も大勢いるの。私は全体を統括するだけよ」
「モトちゃんは、自分で色々やってるけど」
「連合は人数が少ないし、システムや機材が古い分余計な手間が掛かるの。それに元野さんは、塩田さんの仕事もやってるんじゃなくて」
なるほど。
あの人は、私以上に人へ任せる面があるからな。
その意味でも、先輩である。
「……はい。どうかした?」
デスク上のスピーカーから聞こえる、神代さんの声。
彼女の所属はここなので、不思議ではない。
それ以外にも、聞き馴染んだ声が。
「か、隠れる場所は」
「ちょ、ちょっと」
「いいから」
長い足、滑らかな肌。
下から見上げると妙に艶めかしく、思わず撫でてしまいたくなる。
スカートの奥に消える太股が、妙に気になるな。
「神代さん、唐辛子を買ってきて」
「は、はい?」
「穴に潜った狸を、外に出させるから」
勢いよく立ち上がり、沙紀ちゃんの前に立つ。
正確には、足の間に。
「だ、誰が」
「知らないわよ。丹下ちゃん、ごめんなさい。また手伝いに来るから」
「お願い。この人、拗ねちゃって」
「わーっ」
と叫び、太股を握り締める。
というか、揉む。
「ひゃっ」
変な声を上げて立ち上がる沙紀ちゃん。
真下から背中を突き上げる感触。
頭ではない。
それと同じくらいの大きさを思わせる、沙紀ちゃんの胸だ。
「はー」
肩を落とし、再び机の下に潜る。
もう、どうでもいいや。
何か、一気に疲れた。
誰がどうしようと、私には関係ない。
本当に。
まずは、私の身体的な成長をどうにかしてよ。
「丹下ちゃんの邪魔しないで、自分の仕事をしてなさい」
腰に手を当て、私を見下ろすサトミ。
さすがに机の下からは出ているが、いかんせん身長差がある。
というかいつでも、誰にでも見下ろされてる。
「サ、サトミだって。ま、またあの先生の所で遊んでたんでしょ」
反発と引っかかりを覚えつつ、むくれて抗議する。
不満や苛立ちが募り、気が滅入ってくる。
誰にも、彼女にすらぶつけられない感情。
しかしサトミはふっと笑い、耳元の髪をかき上げた。
「美容院へ行って来たの。先生の所へは、最近行ってないわよ」
「え、でも。だ、大体、美容院なんて」
綺麗に揃えられた毛先、少し短くなっている後ろ髪。
珍しく、緩くウェーブの掛かった前髪。
悪くはない。
いや、似合ってる。
私まで嬉しくなってくるくらいに。
「一言言おうとしたら、もうあなたオフィスにいなかったでしょ」
「そ、それは。その」
すがるように沙紀ちゃんを見つめ、手を揉みしだく。
さすがに不憫に思ったのか、彼女は明るく笑い軽く手の平を振った。
「まあまあ。たまには息抜きも必要よ」
「たまにならね」
「それより、遠野ちゃんこそ遊んでていいの?」
「え、それは。その。えーと」
何だ、それ。
よく考えれば、ここにいるという事は。
この人も結局はさぼってるんじゃないか。
しかも、美容院まで行って。
沙紀ちゃんは笑いながら手を叩き、私達を追い立ててきた。
「はい、そこまで。二人とも早く戻って、自分の仕事をして下さい」
「何よ、もう。偉そうに」
「G棟隊長だから、本当に偉いの。で、遠野ちゃんは優ちゃんの部下」
「嫌な話ね。仕方ない、ユウ戻るわよ」
今の話を踏まえず、私の襟を掴んで引っ張るサトミ。
子猫を捨てるんじゃないんだからさ。
「ふー」
別に、猫の真似をして怒ってる訳じゃない。
書類のインクが乾くように、吹いているだけだ。
そんな事しなくてもいいんだけど、精神的に。
「いつの間にか、するようになったのね」
「子供は、三日見ないだけでも成長してるのよ」
自分で子供と言い、次の書類を手に取る。
これはサインだけか。
「ユウ」
「ん、なに」
「サインを書くのはいいけど、内容も読んでる?」
「読んでない」
即答して、手を止める。
冷徹な眼差しを受け止めながら。
「書くのは楽でも、サインの場合はその内容を読む事に意味があるの」
「じゃあ、読んでよ」
「書く方は覚えたみたいだから、今度は読む方を覚えなさい」
書類と、その横に置かれる数冊の本。
生徒会、自警局、連合のマニュアル。
「書類だけじゃないの?」
「書類だけで意味が分かるの?」
「ちょっと、ショウ」
顔を伏せた男の子の前に本をずらし、取りあえず一番上のを開く。
「甲は乙に対し異議がある場合、乙とその関係者の学籍証明書を……。何語?」
「規則その物は、殆どの人が覚えてないわ。それの解釈を書いた本が、下にあるでしょ」
「……どっちにしろ、分かりにくい」
しかし、以前よりは頭に入ってくる。
沙紀ちゃんの所での再研修。
最近やっている事務仕事。
それらのお陰で、知らない間に規則も覚えていたようだ。
「サトミはどうなの。覚えてるのは、こっちだけ?」
「一応、本規則も覚えてるわよ」
遠慮気味に答えるサトミ。
感心してショウに話し掛けようとしたが、本を前に唸っているので止めた。
少なくとも、規則の問題点に対して考えている訳では無さそうだ。
「ケイは?さっきから見ないけれど」
「マンガでも読んでるんじゃない?」
私も知らないので、適当に答える。
サトミもいつもの事だと思ったのか、それ以上は尋ねず書類に顔を戻す。
「舞地さんとは、仲直りしたのかしら」
「さあ。聞いてないけど、どうかな」
答えにくい質問。
どうなってるのか分からないし、彼等が仲違いした理由が理由だ。
サトミの護衛に関してやり合ったと知ったなら、今まで隠してきた意味が無くなってしまう。
私達の努力が無駄になるという事ではなく。
彼女に不安を与えるのは、出来るだけ避けたい。
ケイが一番その事を気に掛けているはずなのに、理由も告げずどこかに行ってしまっている。
勿論、その関して何かをやってるのかも知れないけど。
ドアが開き、そのケイが無言で入ってきた。
一瞬サトミへ向けられる視線。
やはり言葉は発せられず、TVに向き合ってゲームを始め出した。
普段と変わらない態度、変わらない行動。
変に気を回した自分が馬鹿馬鹿しいと思える程の。
「仕事しなさいよ」
静かに声を掛けるサトミ。
「最近いない人がいたから、多分その人が頑張ると思う」
皮肉めいた、いつもと同じような答え。
サトミも苦笑して、すぐにペンを走らせる。
「……この前みたいに襲われたり、後を付けられた事ある?」
唐突な質問。
思わず何か言いかけそうになる私やショウをよそに、ケイはTVを見たままだ。
「特に、気にはしてないわ。尾行されるなんて、最近に始まった話でもないし」
「囮にでもなってくれると、犯人を見つけやすいんだけど」
「お、おい」
さすがに慌てるショウ。
しかし当のケイは、なに焦ってるという顔で彼を振り返った。
「そこまでする気はないわ。警察に頼まれたなら、まだともかく」
「サトミを襲った奴が、まだその辺にいるとしても?」
「だとしても。急に、どうしたの?」
探るような視線。
人の嘘などたやすく見抜く、類い希なる知性。
全てを語らずにはいられない、凛とした姿勢。
「最近そういう連中が多いから、身辺警護のモデルケースにいいと思って。犯人はともかく、レポートが書ける」
「人を囮にして、お金を手に入れるって」
「そう聞こえた?」
「それ以外、どう聞こえるのよ」
鼻で笑うサトミ。
しかし怒る様子はなく、今の会話を楽しむような表情。
ケイの申し出を受ける事は無さそうだが、発言を疑う様子もない。
「じゃあ、ユウは」
「やだ。自分がやればいじゃない。恨みはあちこちで買ってるんだし」
「囮じゃなくて、身を晒せ」
二人して、げらげら笑う。
サトミも楽しそうに。
いつも通りの会話。
変わらない笑顔と共に……。
学校近くのラーメン屋さん。
食堂もいいんだけど、たまには外で食べたい時もある。
夕食の時間帯を過ぎ、店内は半分程度の埋まりよう。
ラーメンよりも、餃子や唐揚げを肴にビールを楽しんでいる人も多い。
「モデルケースって、そんな話誰から聞いたんだ」
小皿にラー油を垂らすショウ。
ケイは小さく肩をすくめ、彼を上目使いで捉えた。
「誰からも聞いてない。あれでサトミが警戒するならいいと思って」
「じゃあ、嘘って事か」
「舞地さんは色々言ってたけど、本人があれなら囮にしようがない。あの人は、分かってないんだよ。サトミの性格や考え方が」
醒めた口調。
苛立ち気味の態度。
まだ引っかかっている部分があるようだ。
「良くやるよ、お前も。で、そのサトミは」
呆れ気味に店内を見渡すショウ。
九の字になっているカウンター。
その向こうにある、幾つかのテーブル席。
どうにか見える、彼女の黒髪。
「あれって」
「どうかした?」
「地理の先生じゃないか。何とかって言った」
「吉澤先生よ。……本当」
彼と、数名の男女。
教師仲間か生徒かは、ここからは判別しずらい。
サトミの嬉しそうな表情以外は。
「学校から近いんだし、食べにも来るよな」
自分に言い聞かせるような口調。
どうもあの先生が、気にくわないらしい。
彼自身というよりも、サトミがヒカルを放っておいてそういう仲になる事が。
「白湯麺のお客様は」
トレイにどんぶりを乗せて、テーブルの側に立つ店員さん。
「えーと、そこへ」
グラスとおしぼりだけが置かれている、サトミの席。
炒め野菜の乗った美味しそうなラーメンが、そこに置かれる。
「呼んだ方がいいだろ」
「じゃあ、行ってきて」
「え?」
露骨に嫌な顔をするショウ。
とはいえ私もあまり気が進まないので、端末を使う。
サトミもすぐに気付き、こっちへ手を振ってきた。
「チャーシュー食ってやれ」
箸を伸ばす男の子の手につまようじを突き刺し、コショウを手に取る。
「な、なにすんだ」
「こっちが言いたいわよ。馬鹿な事しないで」
「何してるの」
二人して首を振り、戻ってきたサトミへコショウを渡す。
「ありがとう。でも、みんなの分は」
「いいよ、先に食べてて。チャーシューは、私が守ったから」
「何の話?」
サトミは手の甲を押さえるケイに笑いかけ、少しずつラーメンをすすり出した。
しかし人が食べてるのを見てると、食欲が湧くよな。
「ハーフ坦々麺のお客様は」
「あ、はい」
目の前に置かれる、淡い褐色のスープ。
微かな唐辛子の風味と、程良いねぎの香り。
変に辛過ぎず、むしろ仄かな甘みがあってスープを全部飲み干せる程。
やっぱりプロは違うよね。
「よく、それで持つな。カロリー足りないんじゃないのか?」
チャーシュー麺大盛りに、ライスと唐揚げと餃子を頼んだ男の子。
あなたは、カロリー取り過ぎだ。
「どうして、俺のはこない」
真顔で、何も置いてない自分の前を睨むケイ。
一緒に頼んで、彼より後に頼んだ他のテーブルにもラーメンは来ているのに。
「お前は、そういう所があるよな」
「どういう所が」
「ついてないっていう意味よ」
くすっと笑い、側を通りかかった店員に声を掛けるサトミ。
すぐにオーダーが調べられ、顔色が変わる。
「ですって」
「誰だ、ラーメン食べたいって言い出したのは」
自分だよ、自分。
「済みません」
平謝りする店員。
ケイは虚しく笑い、つまようじを口にくわえた。
さすがに彼も、気力を失ったらしい。
「拗ねないで。オーダーは取り消してもらって結構ですから、小さい器をお願いします」
「え、あの」
「ほら、子供が食べる時に使うあれを。それと、ライスを」
「いや、今のは冗談……」
ケイの言葉を待たず、すっ飛んでいく店員さん。
そして間を置かず、小さな茶碗がやって来た。
可愛らしい猫と犬が飛び跳ねている絵の描かれた、青い茶碗が。
「どうしてこれなんだ」
「あなた、男の子じゃない。だから、青なのよ」
「馬鹿にしやがって」
その茶碗へ、自分の麺とスープを分け取るサトミ。
ケイは口元で何やら言いながら、それを食べ始めた。
「ほら、こぼすなよ」
「親か、お前は」
ショウから渡された紙ナプキンで、こぼれたスープを拭き取るケイ。
その途端に、再びスープがこぼれる。
小さなハプニングと、楽しい食事。
いつもの私達。
変わらない関係。
そう思い込みたい、今の自分。
カウンター越しに見える吉澤先生の笑顔を気にしながら……。
「あなたも、悩むのが好きね」
左右で結んだ長い髪を撫でる池上さん。
「そんなに気になるなら、真理依に言えばいいでしょ。ねえ」
「俺に言うな」
名雲さんは固そうなジャーキーを、難しい顔でかじっている。
この間からもそうだが、彼等がこの事で悩んだりする様子はない。
それは舞地さんへの信頼なのか、それとも彼女と考えが同じなのか。
「だけど」
「あいつが何を考えてるのかは、俺も知らん。やる気無いの奴の事を、あれこれ考えても仕方ないだろう」
「沙紀ちゃんも、そう言ってた」
「それだけ冷静って事さ。舞地が襲ってくるのならともかく、そんな訳無いんだし気にするな」
自分で言う通りの、冷静な発言。
その事は、私も分かっている。
ただ感情では納得出来ないから、こうして聞きに来ているのだ。
「不満そうね」
「だって」
「これも聞いたかも知れないけど、正直打つ手がぬるいのよ。真理依じゃないけど、囮を使うなりもっと強引な事をすればいいのに」
「出来るだけ、あの子を不安がらせたくないの」
甘い。
舞地さんや池上さん達からすれば、そう取られる考えだろう。
私もそれでいいのかどうかは分からない。
つまりケイの考えや、行動が。
しかし無闇にサトミを危険な目に晒す方よりは、無難で甘くても彼女が安全な方がいいに決まっている。
「聡美ちゃんを守るだけなら、それでもいいわよ。護衛を増やして、何なら安全な場所にかくまえばいい」
「ただ、お前達は犯人を捕まえたいんだろ。だったら、もっと違う手もあるって舞地は言いんだ」
「そうだけど。でも」
それ以上は、私では考えが及ばない。
全てを決めているのはケイで、私は彼の言葉に従っているだけだから。
しかしあの子が、間違った事をしているはずはない。
サトミを思う気持は、私にも負けない彼が。
「……もう、襲うのを止めたって可能性は」
「無い」
即座に否定する名雲さん。
池上さんも、難しそうに顔をしかめる。
「金や学内でのポジションが欲しい程度の理由なら、気力が続かなくてその内諦める。でもこういう個人的な理由の場合は、そう簡単には行かない。邪魔される程、却ってって奴さ」
「じゃあ、サトミは」
「慌てるな。そのために、浦田が動いてるんだろ。あいつが何やってるかも、俺は知らんが」
机の上に積まれたDDと書類。
名雲さんと柳君が聞き込んだという、不審者の尋問内容が中には収められている。
「犯人は、この中の誰かなの?」
「さあな。確かに遠野をストーキングするようなおかしい連中ばかりだけど、そう判断出来る程の奴はいない。俺が会った限りでは」
「名雲君、殴らなかったでしょうね」
「心外だな」
しかしはっきりとは否定せず、にやりと笑ってDDを指先で弾いた。
「馬鹿。私も聡美ちゃんと一緒にいる時おかしな人間は見かけるわよ。ただ、そうは近付いてこないわね。多分、浦田君の脅しが利いてるんだと思う」
「あいつこそ殴ってるぜ。いや、もっとすごい事やってるって聞いた」
「あまり聞きたくない話ね」
「俺も、話したくない。飯がまずくなる」
嫌そうに眉間にしわを寄せ、名雲さんはジャーキーをかみ切った。
どうも信憑性は薄い。
「肝心の浦田君は、何してるの」
「さあ。最近、いたりいなかったりなんで」
「分かんない子ね。まずはあの子をちゃんと面倒みたら」
欠伸をして、鏡で耳元の髪をチェックする池上さん。
こういうのを見ていると、私一人だけ張り切り過ぎている気になってくる。
勿論他の人も、色々やってはくれている。
ただ自分と比べると。
いや、比べる必要はないんだけど。
みんなそれぞれ自分の大切な時間を割いてまで頑張ってくれてるんだし、私なんかがあれこれ言う事ではない。
私自身気を揉むだけで、それ以外は殆ど何もしていないんだから。
「柳は」
「そういえば、いないわね」
「あの野郎。遊んでるな」
「人の事言えないでしょ。真理依もどこいったのやら。これからは、鈴付けておこうかしら」
やはり深刻さのない会話。
直属班の待機場所にある、控え室の一つ。
一応は隊長である舞地さんに与えられた部屋で、執務用の机と応接セット。
後は卓上端末やラックという、私達のオフィスと大差ない配置。
その質や広さは、こちらの方が上を言っているが。
「ただいま」
そこに、話題になっていた柳君が戻ってきた。
「あ、雪野さん」
「どうしたの、それ」
「ゲーセンでもらった」
ふにゃふにゃしている、細長い猫のぬいぐるみを手の中で振る柳君。
かなり嬉しそうだ。
「お前な、今はここに詰めてる時間だろ」
「真理依さんもいないよ」
「あいつはいいんだ」
「僕ばっかり」
今度は拗ねた顔で、やはり猫を振り始めた。
首が妙に揺れて、可愛いというか少し薄気味悪い。
「何よ、その不気味な猫は」
「新しく入ったパンチングマシーンのロケテストで、最高点出したらおまけだって」
「そういう話は、俺を通せ。どこのゲーセンだ」
「テストは、今日で終わり。惜しかったね」
振られる猫。
舌が出た。
可愛い、のだろうか。
「浦田君は、シャチもらってたよ」
「で、どこにいる」
「さあ。本屋さんで別れたから」
「肝心な時にゲームやって、マンガ読んで。あいつは、大石内蔵助か」
手渡された猫を左右から引っ張る名雲さん。
かなりの力を込めているようだが猫はびくともせず、指を動かし始めた。
「な、何で動くの?」
「俺に聞くな」
「メーカーの人が言うには、ワイヤーが入ってるんだって。浦田君は、魂がこもってるって」
「まさか」
それでもすぐに、柳君へ突き返す名雲さん。
彼は対照的に、愛おしそうに猫の頭を撫でている。
目の輝きといい、表情といい。
見た目はぬいぐるみなんだけど、確かに妙な存在感がある。
「楽しくていいわね、君は」
「遠野さんも楽しそうだったよ」
「……誰」
「えーと、あれ。地理の、何とかっていう」
彼が名前を思い出せなくても、私にはもう分かっている。
どこかへ行くような事は、それとなく言っていた。
誰とまでは聞かなかったし、あの子も言わなかった。
その予想は。
苦い形で現実となる。
「いいわね。先生とデートなんて」
「二人きりじゃなくて、他にも何人かいたよ」
「それでもよ。私なんてずっとここにこもって、名雲君と睨み合ってるだけじゃない」
「悪かったな。愛想が無くて」
本当に睨み合う二人。
勿論冗談だろうし、もし私なら悪い気はしないが。
「サトミは、今どこに?」
「さあ。誰かが警備してるとは思うけど。後をつけた方が良かった?」
「ううん。少し気になっただけ」
ストーカーではなく、吉澤先生との方をとは説明しない。
私が一人で気にし過ぎているだけだ。
ただの教師と生徒。
たまたま気が合い、一緒にいる。
それだけの事。
そう、自分の胸に言い聞かせる。
「またそういう顔して」
「え」
目の前で、優しく笑っている池上さん。
私は自分の頬を両手で包み、その綺麗な顔を見上げた。
「憂いを帯びてるっていうか、切なげというか。男の子に惚れられるから、止めなさい」
「何、それ」
「普段はしゃいでる分、そのギャップが素敵って事。大人の雪野優、とでもいうのかしら」
以前、サトミにも言われたような例え。
自分では、何一つ実感しない事。
子供っぽい容姿。
普段は何も考えていないのに、すぐ悩んでしまう性格。
何も出来ない自分。
「真理依には私も言っておくから、それもあまり気にしないの」
「う、うん」
「聡美ちゃんの事も、そう。浦田君がいるんだし、他の子も色々やってるんでしょ」
「そうなんだけど」
犯人は捕まらず。
舞地さんは私達の行動に反対っぽく。
肝心のサトミも。
「……悩んで解決する訳でもない」
「え」
「いや、何となく、そう思っただけ」
「立ち直るのも早いわね、雪ちゃんは」
くすっと笑い、私の頭を撫でる池上さん。
その手に自分の手を重ね、視線を伏せる。
彼女への感謝を込めて。
「世話の焼ける後輩ばかりで、疲れてくるわ」
「はは、そうだね」
「笑い事じゃないわよ。ちょっと、何してるのっ」
名雲さんに肩車されて、天井に何かを張り付けようとしている柳君。
しかし池上さんの一喝を受け、叫びながら床へ落ちてきた。
器用に上体を返し、猫のように着地したが。
「という訳よ。分かる?」
「でもこの場合は、名雲さんが悪いような気も」
「いいの。あっちは、もう諦めてるから」
あっさり見捨てられた名雲さんは、凝りもしない顔で警棒を手の中で回している。
「それじゃ、私はそろそろ戻るから」
「ええ。みんなによろしく。それと、雪ちゃんも気を付けなさいよ」
「池上さんもね」
「お互いに」
顔を指差し合い、笑顔で別れる私達。
頼れるべき先輩。
沙紀ちゃんの言葉を思い出す。
頼られるのが嬉しい時もある、と。
その意味だけではなく。
サトミを守るためなら、利己的と言われようと誰を利用しようとも構わない。
あの子さえ無事でいてくれるなら。
私の意に反する人と会っていても。
その人の前で笑っていても。
痛む胸を抑え、私はくすんだ廊下の床を見つめていた。
今の、自分の心のような光景を……。
自分のオフィスに戻ると、ショウが雑誌を読んでいた。
何かを届けに来たのか、小谷君がその隣で私に挨拶をしてくる。
「こんにちは。ケイは?」
「キッチン」
「いるんだ」
少し安心して、奥を覗き込む。
コンロの前にある、猫背の背中。
何をしているのかはともかく、いるならいい。
サトミは、この際置いておくとして。
「ぬいぐるみを持ってこなかった?」
「さあ。見てない」
「そう。大体あの子、ぬいぐるみなんて好きだったかな」
「たまたまもらったんだろ」
関心のない答え。
私もさして興味があった訳ではないため、近くにあった雑誌を手に取る。
「お待たせ……。あ、雪野先輩」
「神代さん、渡瀬さんも」
トレイを持って、キッチンから出てくる二人。
ケイよりも、さらに奥にいたようだ。
「どうしたの?」
「痩せるっていうお茶をもらったんで、ちょっと」
「あたしは太ってないけど、チィがうるさいんだよ」
「うるさくてもいいの。自分は背が高いから、そうやって余裕なんだって」
思わず頷きたくなる、渡瀬さんの意見。
彼女にしたら「たかが1kg」でも、私達の身長では「1kgも」だ。
そのくらいは毎日増減するけどね。
「……まず」
何でも口にしたがるショウが、やはり先に飲んだ。
で、感想がそれ。
一気に飲む気が薄れる。
「食欲を落とすために飲むのか?」
「違いますよ。……う」
渡瀬さんはマグカップを持ったまま動かない。
「大袈裟だね、あんたも。……え?」
神代さんも同様。
鼻の辺りに、汗が浮いている。
「小谷君」
「い、いや。俺は、体重を増やしたいと思ってるって、言い訳は。……言い訳は」
言葉が続かない。
全員飲んだ。
残ってるのは、私だけ。
視線が向けられるのも、私だけ。
「わ、分かったわよ。こんなのはとにかく、一気に……」
また飲みやすくように、程良くぬるいと来てる。
仕方ないな。
匂いは別に、これといって。
「うわ……」
苦いというより、妙な刺激がある。
無理して飲めなくはないが、変に喉が渇いてきた。
「これ、何よ。大体、どこで手に入れたの」
「元野さんと一緒にいたおじさんが、いいお茶だからどうぞって。人の良さそうな顔してたのに、おかしいな」
天崎さんか。
あの人が持ってくる物は、違う意味で外れなしだな。
「済みません……」
ドアを開け、恐る恐る入ってくる御剣君。
重苦しい室内の雰囲気に、彼の表情が一気に曇る。
「あ、あの。どうかしました」
「武士。ちょっとこい」
「いや、俺はこれを持ってきただけなので」
封筒をドア近くの棚に起き、逃げ腰になる。
本能が、危険を告げたらしい。
「いいから、ほら」
笑顔でマグカップを差し出すショウ。
それを、引きつった笑顔で受け取る御剣君。
彼とは何となく距離のある神代さん達も、うっすらと笑い彼を見守っている。
「すごい、嫌な感じなんですけど」
「気のせい、気のせい。美味しいって」
「じゃあ、雪野さんが飲んで下さいよ」
「先輩が黒と言ったら、黒って言うの」
「いつから、そんな体育会系のノリに……」
文句を言いつつ、それでもマグカップが傾けられる。
彼らしく、豪快に。
一気に飲み干した。
男だ。
「あ、あの……」
それ以上は何も言えないらしい。
馬鹿だ。
「誰か、水上げて」
「ほら」
苦笑して、ミネラルウォーターのペットボトルを放る小谷君。
神代さんと渡瀬さんも、顔を見合わせてくすくす笑っている。
「……あー。何ですか、これは」
「モトちゃんのお父さんがくれたんだって」
「最初に言って下さいよ」
「それじゃ、面白くないだろ」
悪い笑顔で笑う、私とショウ。
さっきとは違う、先輩と後輩の形。
私達らしいとも言える事。
「遠野さんは、飲んだんですか」
「今は、いない」
私に気を遣ってか、小谷君が静かに答える。
「じゃあ、浦田さんは」
「……そういえば、あの人キッチンから出てこない」
「逃げた?」
キッチンへ駆け出す渡瀬さん。
入れ替わりに、ケイがこちらへとやってくる。
「このくらい、平気だろ」
下らない事で騒ぐなという顔。
彼は空いているマグカップを引き寄せ、ティーポットから例のお茶を注ぎ出した。
「全く、子供はこれだから」
そう言うや、表情一つ変えず飲み始めるケイ。
空になったマグカップが机に置かれ、あごを反らし気味に私達を眺め出す。
それこそ、勝ち誇らんばかりに。
「……なんか、付いてません?」
「運は尽きてる」
「いや、そういう意味じゃなくて。マグカップに」
「あ、本当」
ケイが置いたマグカップを持ち上げる神代さん。
その指先に付いている、白い粉。
「ド、ドラッグ?」
「馬鹿。塩だよ、塩。飲みやすい方法はないか、天崎さんにさっき聞いたの」
「じゃあ、どうして教えてくれないの」
「種は、最後に明かすのが面白い」
楽しげな、悪戯っぽい笑顔。
今さらこの人に怒っても無駄だと思わせる、子供のような表情。
本当に隠す気なら、塩を残さずすぐにマグカップを隠す事だって出来たのに。
やっぱりこの人には敵わない。
そして、この人を頼っていれば大丈夫だ。
私には何をやっているのか分からないけれど。
今のように。
サトミの事だって、解決してくれるに違いない。
そう思い込みたいのではなく。
この人なら、それが出来るに決まっている。