16-4
16-4
空き教室の一室。
窓に降りるブラインド。
夕方前だが室内は暗闇に覆われ、少しの先すら見られない。
音すらもない、閉鎖された世界。
その中に唯一灯るペンライト。
それは一人の男性の背中を、かろうじて浮かび上がらせている。
「分かってるだろうが、こっちは向くな」
静かに指示するケイ。
微かなうずく気配。
私はショウの腕越しに、その様子を見つめる。
「最近遠野聡美に何かしようとした人間の名前を、書いて渡せ」
しばらくして、後ろ手に紙が差し出される。
ケイはペンライトを使い、それに目を走らせた。
「こんな所か。新顔は、誰がいる」
再び紙が差し出される。
「名前が分からない奴の分もだ」
今度はケイが頷き、全ての紙をライターで燃やした。
「よし。……100m外からの撮影を、1時間許可してやる。それ以上何かしたらどうなるか、分かってるだろうな」
一瞬揺れる、男性の体。
意識ではなく、体が反応したような動き。
男性はそのまま歩き出す。
ゆっくりと開くドア。
それをくぐった所で、わずかに顔がこちらを向く。
廊下の照明。
かろうじて見える、緩んだ口元。
背筋が総毛立つような、胸が苦しくなるような。
彼が何をした訳でもない。
わずかに口元を見せ、笑っただけだ。
だけど私にとっては悪い夢が、そのまま現実になった気分であった。
何もする気になれず、背もたれに身を任せてため息を付く。
人の姿をした、別な存在とでも言うんだろうか。
今でもあの口元が、頭から離れない。
顔こそ見えなかったが、素振りや体型は普通の人と何も変わらない。
しかしさっきの光景は、自分の知っている全ての常識を覆されたような気分にさせられる。
「さてと」
マンガに手を伸ばすケイ。
オフィスに戻ってから読み始めて、すでに20冊目である。
さっきの冷酷とも言える雰囲気は微かにも感じられず、普段通りのやる気に欠ける彼がそこいいる。
「あれは、何だったの」
「サトミを付け狙ってる馬鹿の一人」
「どうして他の奴まで、あいつは知ってるんだ。そういう連中同士で、何かやってるのか?」
ケイはマンガを置き、苦笑気味に鼻を鳴らした。
「逆、逆。ああいうのは、絶対に横のつながりはないの」
「じゃあ、どうして」
「その代わりに、同類を見分けるのが得意なんだよ。度合いが行ってれば行ってる程」
あまり笑えない話。
そう教えてくれた本人は、楽しそうに笑っているが。
「さっきの奴も、サトミをストーキングしてるんだろ。大丈夫か」
「心配ない。その素振りでも見せたらどうなるかは、あいつが一番良く分かってる。骨身に染みてるって奴さ」
「お前、何やった」
ここは答えず、再びマンガに手を伸ばすケイ。
ショウもそれ以上は尋ねず、ハンドグリップを強く握り締めた。
確かに、聞かない方が良さそうだ。
何をしたかは知らないけど、大体の想像は付くから。
「で、さっきの話で何か分かったの?」
「多少は。ただ今回の件に結び付くかどうかは、まだ何とも言えない」
「それは、任せる。私は、あの子が無事ならそれでいいから」
軽く伸びをして、隣の席を見る。
今日も空いている、以前ならサトミがいた場所を。
吉澤先生の学会の発表が今週。
それまでは、サトミもそちらに掛かりっきりだろう。
「この間のが、単なる悪戯だったらいいんだけどね」
「まあな。もう一ヶ月くらい経つし。メールがあの時来たのも、偶然だとか」
楽観的に解釈するショウ。
というより、そう解釈したい気持は私にも強く理解出来る。
「……一応、あいつにも話すかな」
「誰」
「彼氏に」
自分のお兄さんとは言わないケイ。
本来なら真っ先に話す相手であり、またサトミが相談して然るべき存在。
でも私達は、彼に何も伝えていない。
おそらくは、サトミも。
その理由を最も理解しているはずの弟が、そう言い出した。
あまり気は進まないけど、行くとするか。
翌日。
学校を自主的に休み、八事にある大学院へ向かう。
ショウの実家からも近く、坂の途中という少し変わった立地。
ケイが以前入院していた第3日赤も、すぐ側にある。
ちぎった新聞紙の敷き詰められた、小さなカゴ。
その中で、滑車を回す白いネズミ。
「どうしたの、これ」
「条件付けで余ったから、しばらく預かってる」
「条件付けって、梅干しを食べたらよだれが出るあれ?」
「無条件反射はね。この場合は、オペラント条件付けで」
こめかみの辺りに指を添え、ガーディアンっぽく敬礼するヒカル。
するとネズミはその小さな手を、顔の辺りへと持っていった。
もどかしく、せせこましい動きで。
「か、可愛い」
「何かの動きに合わせて、餌をやるんだ。この場合は、敬礼の仕草に近い動きをした場合に。その時こっちも敬礼をしてると、こうなる訳」
「ふーん。あなた、本当に大学院生だったのね」
「じゃあ、今までなんだと思ってたの」
さすがに苦笑して、ネズミに細い糸を垂らして遊んでいる。
「お兄さん、お腹が空いたよ」
「分かった」
差し出される、大きなビニール袋。
「ひまわりの種」という文字が、大輪のひまわりと共にプリントされている。
「俺に、ネズミと同じ物を食べさせる気か」
「僕は、いつも一緒に食べてる」
器用に殻を剥き、中身を食べる男の子。
食べられるのは私も知ってるけど、そう美味しくないのも知っている。
ショウは数粒を受け取り、剥くのが面倒なのか殻ごとかじり出した。
「あんまり、美味しくないな」
じゃあ、食べないでよ。
「パン買ってこようか。購買で、美味しいのが売ってるから」
「俺も行く」
種を袋から一掴みして、ヒカルに付いていくショウ。
何だかな。
暇なので、ネズミと遊ぶ。
「おう、おう」
声に意味はない。
気分的な物だ。
ネズミも網に手を掛けて、チューチュー鳴いている。
こう見てみると、結構可愛いな。
とはいえ、寝ている時に枕元にいたら嫌だけど。
「浦田君、あのネズミなんだけど……」
開いていたドアから顔を覗かせる、清楚な感じの女性。
彼女と目を合わせるケイ。
しばし見つめ合う二人。
「誰、あなた」
同じ顔、同じ体型。
しかし、あまりにも違うその佇まい。
彼女でなくとも、違和感を抱くだろう。
「俺は、弟です」
「ああ、双子の。へぇ、はぁ」
妙に感心しつつ、ポケットから端末を取り出した。
「人を呼ばなくてもいいですから」
「ふーん。浦田君と違って、気が回るのね。あなたは?」
「元、同級生で雪野です」
ぺこりと頭を下げ、ネズミのカゴを掴んでいた手を離す。
恥ずかしい所を見られてしまった。
16年生きてきて、今さらという気もするが。
「遠野さんは来てないの?」
「学校で用事があって」
「あの子も、早くここに来ればいいのに。何も、高校にいなくたって」
「勉強なんて、やる気さえあればどこでも出来ますしね」
さりげなく返すケイ。
女性は感心したように頷いて、彼の顔をまじまじと見つめた。
「あなた、本当に高校生?浦田君は確かに勉強は出来るけど、どこかずれてるのに」
「俺は俺、あいつはあいつです」
「そうね」
真摯な表情で頷き、そっと腕を組む女性。
大人の、落ち着いた佇まいで。
「これはもらっていくから、浦田君に言っておいて」
「分かりました」
「それじゃ……」
カゴを提げ、ドアへ向かいかけた所で足が止まる。
茶色の紙袋を抱えた、長身の男性。
シャツ越しにも分かる引き締まった体型。
精悍な、甘さを漂わせた凛々しい顔立ち。
いつまで経っても見慣れる事のない程の。
「どうかしたの」
その後ろから顔を出すヒカル。
女性は夢から覚めたという様子で首を振り、カゴを指差した。
「これ、もらってくわよ」
「いいけど、もう芸を仕込んでありますよ」
敬礼と共に、手をかざすネズミ。
「あ、あのね。もう、使えないじゃないこれだと」
「大丈夫」
ヒカルが両手の人差し指を向けると、ネズミは両手を広げて動かなくなった。
「最終的には、土俵入りを目指してます」
「その前に、寿命が尽きるわよ。もう、これは君が責任取って育ててよね」
「親になってしまった」
かなりふざけた発言。
女性は慣れているのか、肩を落としてため息を付いた。
「済みません」
「いいの。この人に預けた、私が馬鹿だったんだから。ちゃんと、お兄さんの教育をしておいて」
「必ず」
確約するケイ。
その結果も分かっているのか、諦め気味に笑い彼女は部屋を出ていった。
「で、今日は何の用」
焼きそばパンをかじりながら、のんきに尋ねるヒカル。
しかし、誰も答えようとはしない。
ケイですらも。
こうじゃないかとは思っていて。
昔から分かってはいたけど。
やっぱり思った通りだった。
本当に、私はここへ何しに来たんだろう。
少なくとも、ツナポテトパンを食べるためでは無いだろう……。
ただ、そのくらいの価値はある美味しさだった。
何とも言えない馬鹿馬鹿しさは拭えない物の。
ヒカルの所属する研究室がある教棟を後にして、大学の敷地内を歩いていく。
大学院といっても独立している訳ではなく、大学の教棟と併用している所が多いらしい。
その方が便利で、経済的でもある。
しかし大学といっても妙に狭い場所に建物が建ち並び、人がごった返している感じ。
かつて自分が抱いていた、ドラマで見るような大学とはかなり違う風景。
ヒカルへ会いに何度と無く来ているので、慣れはしたが。
ただ、イメージ通りな部分もある。
華やかな服装、化粧した女性、大人びた男性。
高校でも私服は認められている物の、その雰囲気はやはりどこか違う。
私なんか、間違えて迷い込んだ中学生みたいだ。
小学生とは、自分でも認めたくはない……。
人を避けながら正門へ向かっていると、人混みの中に頭一つ大きい二人の姿が見えた。
その体型だけでなく、独特の存在感を放っている二人の男性。
周囲の人もそれを感じ取っているのか、自ずと視線が向けられている。
「……あれって」
ぽつりと漏らすショウ。
私も彼に続いて、彼等を追う。
「こんにちは」
頭を下げ、元気良く挨拶をする。
「……お前」
一瞬戸惑いを見せ、すぐに破顔する男性。
その隣りにいた男性も、微かながら笑顔を見せてくれる。
「どうした」
「大学院にいる知り合いに、会いに来たんです」
「変な知り合いがいるんだな」
短い前髪をかき上げ、鼻で笑う屋神さん。
三島さんは穏やかに微笑んだままだ。
久しぶりに出会った先輩達は……。
学内の喫茶店に入る私達。
彼等は講義が無い時間で、遊んでいる訳では無いらしい。
「ストーキングか。塩田は」
「一応、話はしてます。ただ、本当に狙われてるかどうか確証が無くて」
「意外と悠長だな」
屋神さんはアイスティーの氷を噛み砕き、指先で頭をつついた。
「考えるより、動くタイプと思ってたぜ」
「そうなんですけど、相手の見当も付いてないんです」
「お前は、だろ」
ケイへ向けられる視線。
探るような、鋭さを含んだ輝き。
「彼女が言った通り、たんなる悪戯の可能性もあります。それに俺達も学校に目を付けられている以上、そう軽はずみな行動は取れません」
「前に暴れた俺達のせいだっていいたいのか。お前達にやらせてるのは、塩田だろ」
「誰がどうという話はともかく、監視されてる事実はあるんです。生徒会の一部にも」
それを跳ね返す、冷静な口調。
しばしの間見つめ合う二人。
周囲の笑い声や喧騒も、その傍らを通り過ぎていく。
「……今日は、休むか」
「どこをだ」
「聞くなよ、いちいち」
席を立つ、屋神さんと三島さん。
私が声を掛ける間もなく、レシートを持ってレジへと向かう。
「あの」
「どこ行くんだ、あの二人」
「さあね。とりあえず、地下鉄の駅に行くか」
神宮西駅で降り、熱田神宮を右手に眺めつつ歩いていく。
大きな正門。
数名の警備員と、そこを出入りする生徒や業者風の人達。
私達も正門をくぐり、敷地内へと足を進める。
「あ……」
声を上げる一人の生徒。
それに反応して振り返る、数名の生徒。
声は波を打つように広がり、人の輪が出来ていく。
感嘆、畏怖、思慕、敬意。
歓声、笑顔、手を振っている者もいる。
彼等を避けるようにして、私達はある部屋へ入っていった。
「何だ、あんた」
眉をひそめる塩田さん。
「少しは喜べよ」
「おとつい会っただろ」
「ったく、人がわざわざ大学を休んでまで来たって言うのに」
屋神さんはデスクに腰掛け、その長い足を組み替えた。
その姿は非常に様になっていて、塩田さんの仕草とも遜色ない。
というか、こっちが本家なのかな。
「三島さんまで」
答えない三島さん。
その視線が横に流れ、ショウを捉える。
「あ、あの。前やり合った時は、怪我してたって屋神さんから」
「勝負の勝敗に、理由は必要ない。あるのは勝ったか負けたか、ただそれだけだ」
見つめ合う二人。
ケイ達とは違う、お互いを理解する深い瞳の色で。
激しく戦い合い、それにより何かを得た二人が。
「後輩がおかしい奴に狙われてるって?髪の長い、綺麗な女だろ」
「聞いたと思うけど、現状では確証がない。それに、警備されるのを嫌がるタイプなんだ」
「結局身内で固めるしかないのか。せいぜい頑張れ」
何しに来たのか分からない台詞。
とはいえ彼は卒業生なので、私達もそこまでは頼れない。
こうして来てくれただけでも、嬉しい事ではあるし。
「今は、どこにいる」
「地理の教師が学会発表するとかで、それの手伝い。大勢でやってるから、そこで狙われる可能性はないと思う」
「学内、寮は大丈夫として。単独行動時が、一番やっかいだな」
ケイと同じ見解。
ただ表情は軽いままで、彼程の真剣さは感じられない。
「囮とかは……、やらないって顔だな」
「当然です」
ここは絶対に、何が何でも譲らない。
相手が誰だろうと。
かつて自らを犠牲にして学校のために戦い、私の尊敬する先輩達の信頼を集める人からの提案だとしても。
「何かあった後じゃ遅いぜ」
「その時は、私もそれなりの覚悟を決めます」
「好きにしろ」
「屋神さん。そのくらいでいいだろ」
静かに止めに入る塩田さん。
屋神さんは感心なさそうに、デスクの上にあった書類をめくっている。
「……塩田、連絡」
「ああ。……俺だ。……分かった」
「なんだって」
「屋神さんの言った通りさ」
重苦しい空気。
俯くショウと、腕を組んで壁を見つめるケイ。
私は、言葉もない。
「……状況は」
「本人の所在は不明。襲撃犯は現在逃亡中。複数名と思われます」
「ガーディアンの配備は」
「授業中ですしクラブの試合警備が重なってますから、殆ど動かせません。警備員も学内には入れられませんし」
淡々と報告するモトちゃん。
塩田さんは腰にフォルダーを付け、警棒を差した。
「お前は、ここで指揮を執れ。それに警備員が固めてる以上、学外には出られない」
「分かりました」
「生徒会ガーディアンズも、殆ど動けませんね。ただ、丹下さんと沢さんが協力を申し出てくれてます」
「使える人間だけこっちによこすよう連絡しろ。取りあえずは、遠野の目撃情報を集めるよう指示だ」
小さく頷き、端末で連絡を取る木之本君。
私も深呼吸をして、気持を切り替える。
自分の下らない迷いがこういう結果を生んだ。
初めから、ちゃんと対応していれば。
壁に叩き付けた拳を押さえ、手の平に付いた血を握り締める。
こうでもしなければ、自分でもどうなるか分からない。
「旧クラブハウス付近で、遠野さんらしき女性を発見との報告があります」
「……罠だな」
言葉遣いは違うが、一斉にそう答えるケイと塩田さんと屋神さん。
「もう、二つ三つは出てくるぞ。誰か、その遠野と連絡を取れ」
「つながらないんです。返信データを見る限りでは、電源を落としている可能性が高いですね」
ますます気の重くなる、木之本君の答え。
ドアへ向かおうとすると、ケイがその前に手をかざした。
「まだ早い。陽動に乗ったら、向こうの思うつぼだ」
「だからって」
「これで、サトミが狙われてるのが確実に分かった。だから、どうやってでも犯人は見つけだす」
普段と変わらない、落ち着いた口調。
静かな物腰。
しかしその中に、ある感情が見え隠れする。
私ですら息苦しくなる程の、強い感情が。
「それ以外の目撃例も報告されてます。現在、4件目です」
「ガーディアンをその4件に集中。それ以外の警備を、出来るだけ手薄にしろ」
「了解」
即座に出される指示。
少しの間を置いて、モトちゃんが報告を上げる。
「サトミを発見したとの報告。数名の女性が、囲むようにして逃げていると」
「確かだな」
「彼女を知っているガーディアンの目撃例です。間違いありません」
「後は逐一連絡を入れろ。行くぞ」
連合の本部を後にして、インカムを頼りに学内を走っていく。
普段ガーディアンが常駐している特別教棟や教棟の玄関付近に、ガーディアンの姿はまるでない。
つまりは警備を手薄にして、襲撃班を誘導しているのだろう。
「駐車場へ移動か。何とか、途中で捕まえられるな」
「当然、待ち伏せも考えられます」
冷静に指摘するケイ。
塩田さんは鼻で笑い、教棟の角を曲がった。
「こっちの手の内でも何でも見せてやるさ。誰を相手にしたか、よく教えてやる」
「確かに。次は、ありません」
「お前がそう思い詰めるな。これは、遠野の責任でもある」
かなり厳しい一言。
私は彼等の背中だけを見て走っていく。
今、余計な事を考えたくはない。
彼女の無事を祈る事以外は、何も……。
駐車場へ続く、建物に挟まれた狭い通路。
人が数名並んで歩くのがやっとの幅。
視界の先には、日差しに反射する車のボディーが見えている。
「遠野は」
「駐車場の、手前付近に。ガーディアンが追尾しています」
「俺達も急ぐが、捕捉するよう指示しろ。多少怪我をさせてもかまわん」
「了解」
モトちゃんの返答が聞こえた途端、頭上の窓が開き人が降りてきた。
日差しと重なる警棒。
しかしそれは、この状況から予想済みだ。
私は背中のスティックに手を……。
降ってきた勢いのまま、壁に叩き付けられる男。
三島さんは拳を引き、前を指差した。
「ここは任せろ。屋神」
「仕方ないな。ほら、早く出てこい」
窓が開き、さらに武装した数名の男が飛び降りてくる。
「で、でも」
「後輩の尻ぬぐいは、先輩の役目なんだ。なあ、塩田」
「勝手な事言って。雪野、行くぞ」
「は、はい」
開ける視界。
広い敷地に並ぶ、たくさんの車。
静まりかえったその空間に、微かに響くエンジン音。
「まさか」
「いや。誰かが、車の中で待機してるんだろ」
私達が出てきた通路とは違う方角。
ぐったりする女性を抱え、こちらへと向かってくる数名の女性。
体中の感覚が、どうかなったような気分。
全てが弾けてしましそうな、ぎりぎりの感覚。
それを必死で押さえ込み、その方向へと走り出す。
「ひっ」
足を止め後ずさる女性達。
耳元をかすめる、ワイヤー式のスタンガン。
スティックの先端でそれを跳ね返し、手首を返して足を払う。
崩れる体。
その脇を抜け、女の子を抱えている女性達へと突っ込む。
再び飛んで来るワイヤー。
低く伏せ、軌道を読みながら一気に距離を詰める。
スタンガンを置き、腰へ手を伸ばす彼女達。
もう遅い。
かろうじて意識を保ち、スティックを振って左右から打ち込む。
「うっ」
呻き声を上げ、即座に崩れる女性達。
支えを失った女の子は、一瞬棒立ちとなり揺らめくように倒れていく。
「サトミッ」
倒れていく彼女を抱き止め、耳元で叫ぶ。
微かに動く、虚ろな視線。
鼻に付く、かいだ事のない香り。
「これは、何」
「か、軽い麻酔。そ、それ以外は、何もしてないの。ほ、本当に」
「私達を襲ってきた男達は」
「し、知らない。ただこの子を捕まえて、連れてくるよう頼まれただけで」
赤い頬で、そう訴える女性。
他の子も涙目で、必死に言い繕う。
この状況で信じろと言われても難しいが、嘘を言っているとも思えない。
そんなメリットがこの子達にあるとは思えないし、サトミとの接点も無さそうだ。
私達への恨みにしては手が込み過ぎてるし、ストーカーにしても手口が大袈裟過ぎる。
「どうして、頬が赤い」
「ケイ」
「……その」
言い淀む女性。
警棒を抜き、倒れている彼女の目元にそれが突きつけられる。
「もう一度聞くぞ。どうして、頬が赤い」
「こ、この子を捕まえようとした時、変な男が割って入ってきて」
「叩かれたと。それで、連れてくる時間が遅くなったんだな」
「じゃあ、その人がいなかったら」
背中に走る悪寒。
今頃になって震えが来る。
後もう少しで、後悔では済まない話になっていたというのか。
「雪野、心配しなくても学内からは出られん」
「そ、そうですけど。その人のお陰で、助かった面もあるんじゃないですか」
「まあな。お前ら、ID出せ」
ケイの脅しが利いたのか、呆然とした様子でカードを出していく彼女。
塩田さんはそれをケイに渡して、チェックさせた。
「公になると色々面倒だから、警察には連絡しない。ユウ、それでいい?」
「サトミさえ無事なら、私は」
床に手を付きうなだれている彼女達を見ていると、何も言えない。
演技という可能性は捨てきれないが、ケイがそう判断したなら問題はないだろう。
「後は、個別に事情を聞く。心配しなくても、訳ありなのは見れば分かる」
「い、いえ。私達は」
「話は後で聞く」
私を振り返るケイ。
何か言いたげな視線に、眉をひそめて首を傾げる。
「ユウは聞かない方がいいと思って」
「どうして」
「この前会ったような人間が絡んでるんだ。楽しくない話になる」
「……分かった」
ここは彼の意見に従った方がいい。
背景はともかく、私はサトミさえ無事ならそれでいいんだから。
「屋神さん。そっちは」
「片付いた。ぬるいぜ」
頬の返り血を拳で拭い、倒れている女性達を見下ろす屋神さん。
「状況は」
「これから聞く所。ガーディアンも来たし、後は任せて一旦戻る」
「ショウ」
「分かってる」
立っているのがやっとなサトミを彼の背中に預け、私達は来た道を戻っていった。
全てに打ちのめされた、暗惨たる気持のままで……。
医療部のロビー。
手の中で醒めていくコーヒー。
重苦しい意識。
ぼやける視界。
自分の無力さを、またしても思い知らされた。
過去何度と無く味わった、もう二度と繰り返したくないと思っていた事を。
サトミに怪我はなく、今は麻酔が醒めるのを待っている状態。
副作用や後遺症も無いとの事。
だから何だという話だ。
「……私は、何してるんだろ」
「ユウが悪い訳じゃない。それを言うなら、俺だってそうだ」
「でも」
言い合う気にもなれず、冷めたコーヒーを口にする。
苦さと、後を引く嫌な甘さ。
それを無理矢理、一気に飲み干す。
「とにかく、私はもう……」
「そう思い詰めるな。ろくな事がないぞ」
足を組み替え、鼻で笑う屋神さん。
「俺や、峰山みたいになりたいのか」
「構いません」
「お前は、だろ。後に残った連中はどうなる」
彼の視線が、私の周囲へと向けられる。
胸に突き刺さる言葉。
しかし、だからといって気持が収まる訳ではない。
今回の犯人と、自分の情けなさに。
「屋神さんの言う通りだ。それに今回は、遠野にも原因がある。自分が狙われると分かって、お前らの忠告を無視したんだから」
「無視した訳じゃ」
「一人でふらふら歩いてたんだろ。相手もそれを分かって、小さく仕掛けて来たかも知れん。なのにあいつは、意地になってた」
「人に頼るのが苦手なんですよ」
独り言のように呟くケイ。
塩田さんは顎を引き、上目遣いで彼を見つめた。
「自立心が旺盛なのはいいが、結果はこれだ。これからは、よく考えて行動するんだな」
「言われなくても分かってます」
「なら、いい。ガーディアン以外に、SDCにも連絡してそれとなくあいつを護衛させる。いいよな」
「ああ」
短く答え、三島さんは拳で胸元を叩いた。
どこかで見た仕草。
みんなもそう思ったのか、彼に視線が集まる。
「何か言いたいのか」
「伊達が、こんな事をやってのを思い出した。相手を信じるというサインだと言って」
「だからどうした」
「この子達を責めるのもいいが、少しは信じたらどうだ。それに、未熟なのはお互い様だろ」
低く、静かな口調。
しかし屋神さんと塩田さんは、神妙な顔で彼を見つめている。
「違うか」
「……うるさいな、お前は。たまに喋ったと思ったら」
「どうせ俺は、昔も今も未熟だよ」
拗ね気味の二人。
三島さんは口をつぐみ、何も答えない。
「悪かったな。確かに言い過ぎた」
「い、いえ。そんな」
「こうなるなって見本だもんな、俺達は」
「来るんじゃなかったぜ」
自嘲気味の表情。
やるせないため息。
そんな事はないと、私は深く頭を下げた。
「済みません、私達のために」
「気にするな。俺も一応は、ここの卒業生だ」
「いなくなった人間の分も含めてか」
「うるさいよ、お前は」
手首から先が消えるような、鋭い裏拳。
それを三島さんは、一歩前に出て難なくかわした。
「……ここで暴れないように」
静かに制する緑先生。
二人は素早く離れ、睨み合いながら距離を置いた。
「君達は、卒業したんじゃ」
「OBの表敬訪問って事で」
「そう。彼女の意識が回復したよ。少しなら話せるけど、会うかい」
「は、はい」
広い部屋の窓際にあるベッド。
風に揺れるカーテンの下で、静かに横たわるサトミ。
その綺麗な顔に血の気は薄く、微かに動く胸が私の心に安堵感をもたらす。
「……サトミ」
そっと、声を掛ける。
長いまつげが動き、切れ長の瞳がこちらを向いた。
脆いガラス細工のような、儚げな佇まい。
安堵感はすぐに消え、胸が締め付けられる。
「ここって、医療部よね」
麻酔がまだ残っているのか、ゆったりとした口調。
ケイがベッドの下で手を振り、私を制する。
「寝不足と、過労だって」
「そう。確かにこのところ、ちょっと無理してたから」
「寝てれば、すぐ良くなる」
「たまには優しいのね」
か細い声。
今にも消え入りそうな、透き通るような笑顔。
ケイはタオルケットから出ていた彼女の手を中へと戻し、窓を閉めた。
「例の学会は」
「準備は殆ど終わってる。ただ、資料が全部は整理してないから」
「俺か、モトが代わる。体調が良くなれば、発表くらいは見られるさ」
「そうね」
残念そうに目を閉じ、頼りない呼吸を繰り返す。
「夢、かしら。誰かに囲まれて、でもその時助けてくれた人がいるの」
「疲れてるんだろ。ヒカル呼ぼうか」
「いい、心配するから。……なんだか、似てたのよね」
遠い眼差し。
漏れるため息。
ケイは無言でエアコンの温度を下げ、リモコンを彼女の手元へ置いた。
「私、付き添おうか」
「大丈夫よ。病気じゃないんだから」
「うん」
白くなった彼女の頬に触れ、その手を握り締める。
力無い反応。
変わらない、遠い煙るような眼差し。
それが何を見つめているのかは、サトミを拉致しようとした女の子の話から明らかだ。
「私達帰るけど、何かあったら呼んで。すぐにくるから」
「ありがとう。……ショウも」
「え、ああ」
訝しげに答えるショウ。
サトミは目を閉じて、顔を横へ動かした。
すぐに聞こえてくる、健やかな寝息。
ここから先は先生達に任せて、後はそっとしておこう。
私にはそんな事くらいしか、彼女にはしてあげられないんだから。
それ以外は、何一つとして……。
医療部の施設を後にして、連合の本部へと戻ってくる。
屋神さん達とも一緒に。
彼等が病室に入らなかったのは、麻酔の覚めきらない彼女が混乱すると思っての配慮から。
先程の様子だと、それは正解だっただろう。
「どうして、ショウにお礼を言ったのかな」
「記憶が混同してるんだろ。あの先生に助けられたのも頭に残ってるし、ショウに背負ってもらった記憶もある。あくまでも、断片的に。夢の一部くらいに」
壁にもたれ、そう推測するケイ。
「じゃあ、何も覚えてないって事?確かに、そんな雰囲気だったけど」
「その方が良かったんじゃないか。狙われてるって自覚する事よりはましだろ。しかも、誘拐されかけたなんて」
「うん」
ショウの言う事も最もだと思い、取りあえずは頷く。
あの子が演技をするとは考えられないし、その理由も薄い。
不幸中の、せめてもの幸いという訳か。
「警察への対応は?」
「俺が代表して受け持つ。遠野はああだし、酷だろ」
「随分、物騒になってきましたね。昔を思い出しますよ」
屋神さんを、皮肉っぽく横目で捉える副会長。
「俺は、遊びに来ただけだ」
「そう願います。例の理事も復職してますし、厄介な連中も少しずつ増えている。ここで、また揉められても」
「任せるよ、お前達に。なあ、三島」
面白く無さそうに笑う二人。
副会長は肩をすくめ、彼が座っているデスクを指先で触れた。
「傭兵の手口とは若干違うようなので、対象は遠野さん個人だと思いますが。どちらにしろ、見過ごせる事態ではありません。生徒会としても、全面的に支援します」
「女の子の拉致か。かなりふざけてるわね」
「予算編成局としての、支援体制は?」
「こっちは、お金を出すしか能がない部署だから。それで良かったら、協力するわよ」
いつにない険しい物腰で答える、予算編成局局長の中川さん。
彼女の場合は実際に拉致された経験があるので、私達とはまた違う考えもあるんだろう。
「まずは護衛用のガーディアンやSDC関係者への手当と、口止め料ですね。出来たら情報提供者への報酬も」
「分かった。何とかするわ。でも、お金以外を欲しがる人間もいるでしょ」
「それは、私が調達する。遠野さんには、助けてもらってるし」
天満さんは思い詰めた顔で呟き、深く息を付いた。
その肩をそっと抱き、中川さんも少し顔を伏せる。
「しかし相手は、結構な人数だったぞ。本当に、その遠野だけを狙ってるのか」
当然とも言える、屋神さんの指摘。
視線は自ずと、私達へと向けられる。
「私は、ちょっと分かりません。思い当たる事が、あるとも無いとも」
「俺も」
それは彼等も分かっているのか、視線はさらに流れていく。
少し離れた所で、壁にもたれているケイへと。
「……隠す訳じゃないけど、俺も確証がないからはっきりとは言えない。ただ、サトミ個人を対象にしてるのは、断言出来る」
「どうして、そこまで言い切れる」
「相手の行動が、全部思った通りだから。今は俺達の慌て振りを見て、高笑いしてますよ。所詮はこの程度で、自分に掛かればこんな物だと」
喉元から漏れる笑い声。
まるで彼自身が、この状況を楽しんでいるような。
「確かに、それ程悪くはない手を打ってきてる。こっちは相手が特定出来ないどころか、サトミが狙われてるかどうかも分かってなかった。また今までの手口を見ると、俺達をかなり研究してると見ていい」
「それで」
「ここまではお遊び。顔見せは済んで、こっちの自信も失わせた。後はゆっくり痛めつけて、手も足も出なくなった所でサトミをさらう。向こうは、十分楽しんでますよ」
酷薄な表情。
薄く緩む口元。
だが、笑い声はもう漏れない。
「……自分が、火の上で踊ってる事も知らずに」
乾いた声。
感情などそこにはなく、言葉だけが耳に届く。
その顔を見るのがためらわれる程の、今までの彼とはまるで違う雰囲気。
「どうでもいいが、やり過ぎるな」
「じゃあ中川さん達が拉致された時、その相手はどうなりました」
「全員病院送りで、理事達は解任」
屋神さんに代わって答える中川さん。
ケイは微かに頷き、腕を組んだ。
「今回の相手は、その目的がまるで違う。中川さん達の方が軽いとは言わないけど、それなりの償いは受けてもらいます」
「出来るって聞くのは、愚問か」
答えないケイ。
しかしその表情が、全てを物語る。
怖い程の真剣さを見せる、彼の細い瞳と共に。
「……例の、マンションのカードは」
「雪野達に渡してあるけど。泊まるのか」
「馬鹿。それならいい。あそこなら、何かあった時色々使える」
かすむ遠くを見る眼差し。
スラックスに消える両手。
「林さんに会いましたよ、滋賀で」
「何て言ってた」
「その、裏切り者なのに良く卒業出来たなって」
「あの馬鹿」
親しみを込めた呟き。
三島さんも苦笑気味に、体を揺らす。
「清水さんとも会いました」
「小泉は」
「一緒の部屋に泊まってて、焦りました」
「ならいい。峰山もどうにかやってるみたいだし、少しは俺も気が楽になった」
塩田さんを窺うような顔。
しかし彼は鼻を鳴らしただけで、それに応えた。
「あの子も小泉君も、別にいい子じゃない」
「どうでもいい。それに二人とも、ここにはいないんだ」
「まあね……」
寂しげに笑う中川さん。
その手を天満さんが、そっと握る。
「沢は」
「古いクラブハウスで、小坂と会ってるらしい。あんたも行ったら。元の主として」
「仕方ないな。三島、行くぞ」
うっそり頷き、屋神さんについて行く三島さん。
大きな二人の姿が部屋から消え、この部屋の広さを今さらながら実感する。
「変わりませんね、あの人は」
「屋神さんだからな。三島さんも」
「大学生か。私達にとっては、もう来年の話よ」
「凪ちゃんが卒業出来たらね」
笑う先輩達。
私も少しだけ笑顔を浮かべ、ソファーへ腰を降ろした。
「あなたも疲れてるの?」
「いえ。そうじゃなくて、自分は何も出来ないんだなと思って」
「仕方ないわよ。私達が拉致された時だって、屋神さんや塩田君は警戒してたんだから。完全に防ごうと思ったら、プロを雇うかどこかに閉じこもってないと」
「そうなんですけどね」
自分の思いとは裏腹に、結局今度も何も出来なかった。
サトミが何も覚えていないのが、せめてもの救いなだけで。
私がそれを忘れる事はない。
「気にするなとは言いませんが、何でも完全にこなせる訳はありません。あの屋神さん達にしたって、退学、転校、解任という結果です」
「ええ……」
「でも遠野さんは無事で、少し寝ているだけ。それでよしとするのも悪くないと、私は思いますよ」
婉曲的な慰め方。
どこか醒めた感じのある副会長にしては、珍しいような。
「随分人が良くなったね、大山君。前なら、自業自得ですくらい言ったのに」
「人を、鬼みたいに」
「鬼の方が、まだましよ。雪野さんも落ち込んでる暇があったら、これからどうするかを考えて。冷たいようだけど、あなたにも責任はあるんだから。勿論、遠野さんにも」
いつになく厳しい天満さん。
私はただ頷く事しか出来ず、顔を伏せた。
そう。
落ち込んだり、自分の馬鹿さ加減を嘆いている場合じゃない。
そんなのは、いつでも出来るんだから。
今は自分の事よりも、サトミの事を考えよう。
私には力尽くで彼女を守る事しか出来ないけれど。
せめて、その気持だけは保っておきたい。
「ユウを落ち込ませて、ショウを突っ走らせる。俺達を分散させようとしてるって事さ」
「俺は、何も言ってないぞ」
「顔を見れば分かる」
静かに指摘するケイ。
先程から握り締められた、ショウの拳。
苛立ちを表すような、固い口元。
二重の瞳は鋭さという表現を越えている。
「自分達で片を付けると言いたいんですが、色々とお願いします。この件が片付いたら、その分の働きはしますので」
「ああ」
他人行儀とも言えるケイの言葉に何を感じ取ったのか、短く答える塩田さん。
他の先輩達も、静かに彼を見つめるだけだ。
「連合とSDC、旧クラブハウスの連中はいいとして。自警局の方は、副会長から」
「いいでしょう。君が出ると、矢田君が不安がりますから」
「どうも。中川さんは、今回捕まえた生徒の口座をチェックして下さい。天満さんは、こっちの情報を噂として流すシステム構築を」
先輩達に指示を出していくケイ。
無言でそれにに頷いていく先輩達。
普段なら決して見られない、だけど違和感のない光景。
「お前が仕切る気か。この学校全体を」
「それで犯人を捕まえられるなら。何でもやりますよ、俺は」
揺らぐ事のない、彼の決意。
私とは違う、強い彼。
それは認めよう。
自分のふがいなさも。
私は自分の出来る事をするだけだ。
どうやってでも、サトミを守る。
それだけを。
決して彼にも負けない決意で。