16-3
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気分がいい。
現金と言われればそれまでだけど。
そんな事は、どうでもいい。
自分がいて。
サトミがいれば。
「へへ」
ご飯に卵をかけ、箸を舐める。
食も進んで、言う事無い。
「明日、予定ある?」
「別に。トレーニングくらい」
「ちょっと、吉澤先生の所へ行ってみない?」
はにかみ気味に申し出るサトミ。
私はご飯を掻き込み、適当に頷きかける。
で、箸を止める。
誰だ、それ。
「……ああ、サトミが手伝ってる」
「一度、ユウ達にも会いたいって言うの」
私の胸に引っかかっていた存在。
ただ、彼が何をしたという訳でもない。
こちらで勝手に、拗ねていただけで。
「いいよ」
「じゃあ、朝呼びに行くから用意してて」
「ショウは」
「出稽古」
拳を構える男の子。
日常では聞き慣れない言葉だが、彼の側にいると良く耳にする。
「俺はパス。男と会う趣味はない」
「そう」
何となく寂しそうに笑うサトミ。
ケイは気にした様子もなく、卵スープを飲み干した。
「怪我も痛いし」
「ちゃんと、医者通ってるのか」
「親みたいな事言うな」
はぐらかしたような答え。
ただ薬を飲んでるのを見ると、心配する必要は無さそうだ。
「でも私、地理はちょっとね」
「手伝いをする訳じゃないわよ。みんなとちょっと、話すだけ」
「それならいいか」
みんなという言葉への意味も込めて、そう返す。
私達だけだと、少し気詰まりだと思ってたから。
だったら行かなければいいという話なんだけど、一度くらいは会っておきたい。
サトミが、ここまで肩入れする男性に……。
白のブラウスにチェックのキュロットという、やや大人しめの服装。
サトミは白のシャツに、ブルーのスリムジーンズ。
頭に皮のキャップを被り、長い髪を後ろで束ねている。
場所は、学校近くのファミレス。
その一室を借り切る私達。
私とサトミだけではなく。
数名の生徒と、一人の大人。
大人は言うまでもなく、吉澤先生。
繊細な顔立ちで、服装もポロシャツと綿パンという大人しい物。
生徒達にからかわれて気弱そうに笑い、おどおどとオーダーを頼んで。
人の良さそうな笑顔と、優しい口調。
ここへ来るまでは色々考えていたけれど。
こうした姿を見ていると、少し見方が変わる。
サトミの気持ちも、分からなくもないと。
勿論初対面に近くて、彼の事を良く知らないとしても。
ただ今日会わなかったら、こうは思わなかっただろう。
やはり私は、頭で考えるより行動した方がいいようだ。
いまいち分かりにくい地理の話をぼんやりと聞きながら、イチゴミルクをストローですする。
彼の人柄は多少理解したけど、その専攻までは理解出来ないから。
お腹も膨れて、窓際で暖かくて。
何を話してるのかも分からなくて。
閉じていく瞼。
薄れていく意識。
今日は休みだし、少しくらいのんびり……。
寝てる場合じゃない。
部屋を出て、レストルームに入る。
後は顔をばしゃばしゃ洗い、深呼吸。
酔い覚ましみたいだけど、似たような物だ。
しかしまだ戻ったら、眠くなりそうだな。
レストルームを出て、廊下にある観葉植物を触れつつゆっくりと歩いていく。
ここへ来た目的も大体果たしたし、基本的に私は部外者。
勿論みんなは普通に接してはくれる物の、私がいなくて困る訳でもない。
サトミに言って、先に帰ろうかな。
部屋に向かう少し前の角で立ち止まり、端末を取り出す。
すると、その角を曲がってきた男性と目が合った。
「どうしたの?」
優しい尋ね方。
私は端末を慌ててポケットへしまい、壁を指差した。
「その。先に帰ろうかと思って」
「居づらい?」
「いえ、そういう訳でも無いんですけど」
曖昧に笑い、キュロットの裾を引っ張る。
吉澤先生も少し笑い、壁へともたれた。
「気持ちは分かるよ。ごめん、僕が会いたいって無理矢理呼んだから」
「い、いえ。その、私こそ済みません」
二人して頭を下げ合い、一緒に笑う。
「サトミはどうです?」
「いい子だよ。気が付いて、頭も良くて。正直彼女がいなかったら、かなり困ってた」
自分が誉められる以上の嬉しさ。
あの子の良さは誰よりも知ってるつもりだけど、人から聞かされるとそれはまた格別だ。
「遠野さんとは、ずっと友達?」
「ええ、中等部から。なんて言うのか、あの子のためなら何でも出来るって感じですね」
恥ずかしげもなく、そう答える。
この人なら分かってくれると思って。
素直に、自分の気持ちを伝える。
「何でも、か。そこまで人に思い入れが出来るなんて、幸せだね」
「はい。でも、サトミがいてこその話ですから」
あの子の事なら、どれだけでも話し続けられる。
さすがに、そうしないだけの自制心は働くが。
「じゃあ、彼女は誰かと付き合ってるのかな。もしそうなら、その男の子は幸せだね」
「え、ええ」
言葉に詰まる私。
彼がそう質問した意図。
深く読めばいいのか、たんなる世間話の一つなのか。
ただ、彼は先生でサトミは生徒。
越えられない一線とは言わないが、彼がそういう意図を持ってるとは思いづらい。
「同じ年で、今大学院に行ってる子と付き合ってます。中等部の頃から」
抑え気味にそう答え、それとなく彼の様子を窺う。
ただその優しい顔に浮かんだのは、人のいい笑顔。
ふと生まれる安堵感。
先生は軽く髪をかき上げ、顔を上へ逸らした。
微かに緩む口元。
早まる胸の奥。
その理由を考える間もなく、吉澤先生は顔をこちらへと向けた。
「遠野さんには、僕から伝えるよ。知らない人ばかりだと、気詰まりだからね」
「済みません。それじゃ、サトミの事お願いします」
「ああ。今度は、他の子とも一緒に会いに来て」
ファミレスを後にして、スクーターで家へと向かう。
特に用はないが、週末は家で過ごす事が多い。
もう少しという所で、信号につかまった。
目の前の軽。
見慣れた色と形。
車のサイドミラーで、助手席に乗っている女の子を確認する。
間違いない。
青になる信号。
アクセルを一気に開き、ウイリー気味に発進する。
ミラーで後ろを確認し、軽の右側から抜いていく。
突然の挙動に動揺する軽。
かまわず前に出て、ハザードを出しながら左を指差す。
「な、何するのっ。あ、危ないじゃない」
血相を変えて、車を降りてくる神代さん。
私は顔の前で手を振り、ナビを起動させた。
「当たらなかったからいいじゃない」
「だって、突然目の前に。目の前に」
「あなた、バックミラー見てないの」
「い、いや、それは、その」
神代さんはすぐに口ごもり、顔を逸らした。
どっちが危ないんだか。
「いいから、ちょっと付いてきて」
「ご飯でもおごってくれるんですか」
彼女とは対照的に、きらきら目を輝かせる渡瀬さん。
今日は髪を結んでなく、セミロングっぽい髪型。
どっちにしろ、可愛いけどね。
「いいよ。私を見失ったら、ナビ見てね」
「あたしは、もういい。チィ、運転して」
「さっきもそう言ったのに。じゃ、行きましょうか」
私もその方が安心だ。
サトミに次いで、彼女も運転させない方が良さそうだな。
安心出来る走りで付いてくる渡瀬さんを先導して、閑静な住宅街へとやってくる。
すれ違う高級車と、どこまでも続く生け垣。
路地を入り、その突き当たりへと辿り着く。
「閉まってますけど」
「大丈夫」
レシーバーで会話をして、大きな木の門へ向かって手を振る。
ゆっくりと開く門。
ヘルメットに響く、戸惑いと驚きの声。
「雪野さんの家、ですか」
「まさか、でも。んー」
「大丈夫。入って入って」
敷地内の駐車場へバイクと車を停め、母屋の玄関を開ける。
「こんにちは」
広い玄関と、そこから続く廊下。
少しして、白のブラウスとタイトスカートを履いた綺麗な女性が出迎えてくれた。
「こんにちは。四葉は、今日いないわよ」
「ええ、知ってます。後輩が、ご飯を食べたいと言うので」
体を固め恐縮している後ろの二人を指差し、にこっと笑う。
流衣さんは楽しそうに微笑み、私達に上がるよう促した。
「すぐ、用意してもらうわ。優さんは、何が食べたい」
「私は、お茶だけで結構です」
「そう。あなた達は、何が好きかしら」
「い、いえ。その。あの」
しどろもどろの二人。
私は何も気後れする事もなく、奥へと歩いていった。
本人のいない、ショウの実家を……。
小さくなって、細々とお寿司を食べる二人。
「美味しい?」
「う、うん」
「そう、ですね」
味も分からないという顔。
高級家具に、足首まで沈み込みそうなカーペット。
素人目にも高そうなグラスや器。
窓からは広い芝生が見え、大きな犬が駆け回っている。
緊張するなという方が無理か。
私も、初めて来た時はそうだった。
今は、この通りだけど。
「そうするとここは、玲阿流の本家って訳ですか」
少し眼差しを厳しくさせる渡瀬さん。
彼女も私同様、そういう血が流れているんだろう。
「雪野さんは、今ここで練習してるんですよね」
「うん、少しだけ」
「やっぱり初めは、洗濯や掃除からなんですか」
「まさか。そんな事して強くなるなら、ここのお手伝いさんは世界最強よ」
へへっと笑い、カッパ巻きを食べる。
いいノリと、いいご飯、程良い解れ方。
キュウリも瑞々しくて、言う事無いね。
「でも、勝手に上がり込んでいいの?」
不安そうに室内を見渡す神代さん。
ショウのお姉さんである流衣さんは彼女達に気を遣ってか、ここにはいない。
「平気、平気。サトミ達も、勝手に来てるし」
「あたしは、ちょっと」
「同感。疲れる」
さっきよりはリラックスしたようだが、まだ緊張気味の二人。
せっかくご飯を、食べさせてあげたのに。
正確には、紹介して私も食べさせてもらってるんだけど。
「余りそうだね」
「持って帰ればいいじゃない」
「え?」
「私は、いつもそうよ。というか、こんなに食べられる訳無いんだって」
お寿司だけではなく、鮎の塩焼き、小さなイタリアンピザ、サラダ、フルーツの盛り合わせ。
限度を知りなさいと、たまに言いたくなる。
それとも、私が持って帰るのを見越してこれだけ出してくるのかな。
それはそれで、嬉しいが。
その後で私の家に寄り、リビングでゴロゴロ過ごす。
神代さんと渡瀬さんも一緒に。
さすがにここでは緊張しないらしく、TVを見て笑い転げている。
違い過ぎだね。
私は床に寝そべり、手足を伸ばす。
別に意味はない。
強いて言うなら、リラックスの度合いを示すくらいだ。
「青」
ポソッと呟き、ゴロッと転がる。
渡瀬さんは素早く足を閉じ、赤い顔で私を見下ろしてきた。
「な、何してるんですか」
「平気平気。女同士なんだし」
「そういう問題じゃ」
お尻の辺りに、鈍い感触。
のそっと顔を上げて振り向いたら、お母さんが仁王立ちしてた。
「何するのよ」
「それは、私の台詞です。あなた、何者なの」
「だからって、娘を蹴らないで」
スローモーションで伸びてくる蹴りを今度はかわし、側転気味に立ち上がる。
自分こそ、見えるっていうの。
「……誰か来たわね。……こんにちは、上がって頂戴」
端末越しに、親しい口調で会話をするお母さん。
モニターは、ここからは見えてない。
友達か、それとも。
「こんにちは」
無愛想に入ってきたのはショウ。
何となく視線が陰険だ。
「人の家に勝手に入ってきて、それはないでしょ」
自分の事は棚に上げ、牙を剥く。
しかし彼はその精悍な顔をさらに厳しくさせ、私の鼻先に指を突きつけてきた。
「鯨の肉は、どこにやった」
蒸せ返す神代さん。
渡瀬さんは、慌てて食べていた物を飲み込んだ。
「あれはわざわざ、四国まで行って手に入れてきたんだぞ」
「道理で美味しい訳ね」
鯨の薫製をかじるお母さん。
まさに、この親にしてこの子ありだな。
「あ、あのさ」
「だって、流衣さんが絶対持って帰れって言うから。私達は、仕方なくもらってきたのよ。ねえ」
「え、ええ」
「まあ、そうですね」
もごもごと口元で呟き頷く二人。
ショウが買ってきた物だという話も聞かさせたんだけど、そこまで話す必要はない。
「今日夕食に出すから、ショウ君も食べてきなさい」
「はあ」
「刺身と、たたきと、唐揚げに、ステーキ。好きなんでしょ」
「いや、俺は食べられれば何でも」
鯨惜しさに怒鳴り込んできた人が、良く言う。
口元を緩めるな、口元を……。
「吉澤先生?誰だそれ」
狭い庭先を掘り返すショウ。
良く知らないけど、お父さんが何かを植えるつもりらしい。
その前に、この白樺とドングリはどうなった。
とはいえ、無くなったら寂しいけど。
「おい」
「ああ。吉澤先生ね」
しがみついていた白樺から顔を離し、もう一度付ける。
この冷えた感触が、例えようもなく心地いい。
「ほら、サトミが手伝いに行ってる地理の先生」
「ああ。で、その先生がどうしたって」
「どうもしない。普通の、優しい先生だった」
「おかしかったら困る」
スコップを持つ手に、一瞬力がこもる。
深く掘られる土。
鋭さを増す、彼の横顔。
窓辺に腰掛け一緒に見ていた神代さん達が、思わず頬を赤らめるくらいに。
「俺も、会えばよかったかな」
「出稽古だったんでしょ」
「顎が痛い」
微かに赤らんでいる顎と目元。
拳には、包帯も巻かれている。
それなのにこんな事をさせてと思われそうだが、彼にとっては日常の一つに過ぎない。
勿論穴掘りではなく、怪我の方が。
「先輩達も、今度地理の授業に出てみたら」
「知ってるのか?」
「選択してるから。地理は好きだし、オンラインもチェックしてる」
普通に言ってくれる神代さん。
渡瀬さんを見たら、笑われた。
「まさか、私はそんな訳ありません」なんて顔で。
仲間だ、仲間。
「いつあるの」
「正規の授業は、月曜日の六限目」
「ショウは、何取ってた?」
「生物実習かな」
そういえば、私も取ってるな。
確か今週は、蛙を解剖するとか言ってた。
「出よう、地理に」
「生物はどうする」
「まずは、そっち。一度、会いたいんでしょ」
「ああ」
私は蛙に会わなくて、一石二鳥。
「チィは」
「自分のに出る」
「あんた、何だった」
「穴、もう掘らないんですか」
ショウを促す渡瀬さん。
こくっと頷き、掘り始めるショウ。
上手く、はぐらかしたようにも見える。
とはいえ隠す程の授業が学校にある訳もないし、気にする事でもないだろう。
「じゃあ、明日ね。しかし、地理か」
「どっちなんだよ」
どっと笑うみんな。
私も一緒になって、声を上げる。
少しの期待と、少しの緊張。
サトミを良く想ってくれる人と会える事への。
新鮮な、嬉しい出会いに……。
よく寝た。
軽く伸びをして、口元を拭う。
ただしどこを見渡しても枕はなく、ふかふかしたベッドもありはしない。
固い机と、大勢の生徒。
人口比率と生産高、地域特性が延々と告げられる。
時計を見ると、残り10分といった所。
覚えているのは、最初の数分。
たわいもない冗談と、それに笑う生徒達。
自然な親しさが漂う室内。
気取らず、気負わず。
落ち着いた口調で、丁寧に授業を進めていく吉澤先生。
不覚にも私は寝てしまったけど、地理に興味がある人ならこんないい授業は無いんだろう。
「……まだか」
今頃起きて、あくびをするケイ。
無理矢理連れてきたため、こちらも強くは言えない。
私も寝てたしね。
「このおっさんを見ても仕方ないだろ」
おっさん呼ばわりして、落書きをし始めた。
下手で、本人すら判別不能だと思えそうな絵を。
「まだ、30前でしょ」
「俺達からすれば、ダブルスコア近い。見た目が若いだけだ」
反論しようかと思ったけど、ここは思い留まった。
少し離れているとはいえ、他の子に迷惑だから。
それによく考えれば、そこまでむきになる必要もない。
この間まで感じていた吉澤先生への反発を、すっかり忘れていたようだ。
勿論それが、子供っぽい理由から来ていたのは分かってるけど。
とにかくだからといって、彼に肩入れする理由にはならない。
少し落ち着こう。
前の方の席で、楽しそうに話を聞いているサトミを見習って。
やがてチャイムが鳴り、生徒達は教室を後にする。
殆どの生徒が吉澤先生に挨拶をして、今も数名の生徒が彼を取り囲んでいる。
繊細で人の良さそうな笑顔、優しげな口調と少し気弱そうな素振り。
その親しみやすさが、みんなを引きつけているんだろう。
「やっと終わった」
リュックを背負い、ドアへと向かうケイ。
その頭に消しゴムをぶつけ、跳ね返って戻ってきたのを受け止める。
しかし、止まろうとしない。
ふざけた男だな。
「よっ」
スティックを伸ばし、脇を突く。
さすがに飛び退いた。
勿論怪我をした右ではなく、左を突いてる。
どっちでも同じだと言われそうだけど、ここは気にしない。
それでも振り向かない。
ただ、足は止めた。
震えているようにも見える。
やはり、気のせいだ。
「先の尖った……。このペンでいいか」
「何がいいんだ」
俯きながら、ようやくこちらを振り向くケイ。
笑っている。
よかったよかった。
怒りを堪えた笑いに見えるのは、この際置いておくとして。
「サトミがまだ話してるから」
「それと俺の頭に紙くずをぶつけるのと、どう関係がある」
「違う」
「何が」
「紙じゃなくて、消しゴム」
さっき投げた消しゴムを親指で弾き、落ちてきた所を手首を返して受け止める。
固められる、ケイの拳。
どうやら、怒りという感情が彼にもあるらしい。
よかったよかった。
「冗談よ。あなたも、話したら」
「話す話題がない」
「いいから、ほら」
二人を伴い、教室の前へと向かう。
吉澤先生を囲んでいた生徒もかなり減り、今は数名の生徒が本を片手に説明を受けているくらい。
私も知っている顔ばかり。
この間の休みに、ファミレスであった子。
つまり一緒に本を開いているサトミ同様、彼の手伝いをしていた子達だ。
「こんにちは」
愛想良く笑い、軽く頭を下げる。
ショウもそれに付き合い、ケイも一応。
吉澤先生の方も優しく微笑み、軽く会釈を返してくれた。
それを機に、彼を囲んでいた生徒が挨拶をして教室を出ていく。
「あ、済みません」
「いいよ。今日は、僕一人でやるから。自分の発表だし、いつまでも生徒の手助けをしてもらってたら仕方ないからね」
「頑張って下さい」
控えめに申し出るサトミ。
吉澤先生は嬉しそうに頷いて、頭を掻いた。
「僕より出来る君にそう言ってもらうと、何か変な気分だな」
「また。私はただの生徒で、吉澤先生はちゃんとした教師じゃないですか」
「出来が違うよ。僕と君は。こっちが生徒みたいな物だからね」
「もう、止めて下さい」
楽しそうに続く、二人だけの会話。
いつになく優しい顔立ちのサトミ。
張りつめた様子はどこにもなく、柔らかな空気が彼女をそっと押し包むような。
普段は滅多に見ない。
彼女のもう一つの一面。
「君が、玲阿君?」
「ええ」
「強いんだってね。先生達も、みんな言ってるよ」
「いえ、俺はただ体が大きいだけで」
謙虚な答え。
吉澤先生は彼を眩しそうに見上げ、自分の腕を叩いた。
「僕は見た通り、これだから。トレーニングすればいいんだけど、つい怠けちゃって」
「慣れですよ。毎日少しずつやれば、自然と習慣になります」
「無理し過ぎるのが、却って駄目なのかな」
「この子は、無理し過ぎだけど」
シャツの上からでも分かる引き締まったお腹を叩き、ころころ笑う。
「それは、無茶苦茶だ」
「いいじゃない。ねえ」
「私に振らないで」
人の頬を突くサトミ。
「ここは、ふにゃふにゃね」
「鍛えようがないもん」
「雪野さんも、何かやってるの?」
「手すさび程度に」
適当な事を言い、サトミを肘で突く。
こういう事を聞かされると、また相手が警戒するか怖がるんだから。
でも吉澤先生は感心したように、何度と無く頷いた。
「じゃあ、僕も気を付けないと。遠野さんを怒ったら、雪野さんに何かされそうだね」
「そんな事しませんよ。だから、どんどんサトミを怒ってやって下さい」
「はは」
おかしそうに笑う吉澤先生。
サトミも私を、悪戯っぽく睨んでいる。
楽しい一時。
同じ年の友人ではなく。
年上の人との、張りのある少し緊張した会話。
今までを馴れ合いや惰性と言うつもりはないけど、視界が開けたような気分。
こういう人がいて、こういう世界もあるんだと。
気付いたら10分程話し込んでいた。
吉澤先生も時計を見て、小さく声を出した。
「もう、こんな時間だね。みんな、用事はないの」
「急いだ方がいいかも。それじゃ、失礼します」
「君達、この授業取ってた?」
笑いながらの指摘。
私とショウも笑って、それとなくドアへと向かう。
「大丈夫。そういう熱心な生徒は、大歓迎だから」
「は、はい。ほら、ショウ」
「ああ。サトミは……」
「今行く。先生、また今度」
丁寧に頭を下げ、うっすらと微笑むサトミ。
吉澤先生もそれを優しく見守り、彼女へ向かって手を振った。
久し振りの感じ。
サトミが、隣にいるのは。
自然とこみ上げる笑み。
書類の減りも早くて、言う事無い。
「……誰、これ書いたのは」
「小谷」
「駄目ね、人に頼ってばかりで」
こうして叱られるのも、むしろ心地いい。
たまにならね。
「あなた、何してるの」
「だるい」
机に伏せ、そのまま答えるケイ。
包帯は巻かれたままで、頬のガーゼが取れたくらい。
薬のせいか、発熱のためか。
単に、寝不足かも知れないが。
「寮で寝てたら」
「そうする」
ため息混じりに立ち上がり、リュックを背負った。
辛いのなら初めから休めばいいのに、何を無理してるんだか。
勿論理由は、分かってるけど。
「ショウ、ちょっと」
「なんだ」
「いいから」
強引にショウを連れ出し、外に出ていくケイ。
「送ってもらう気かな」
「そういう人間かしら。また、悪巧みでもしてるんでしょ」
容赦ない批評。
私としても、同意見だが。
「ごめんなさい。最近、顔出せなくて」
「いいって。今は、手伝いを優先してればいいじゃない」
「そうだけど。私はガーディアンだから、本当はこっちを優先させないと」
何気ない一言。
私にとっては、何にも代え難い一言。
「そうそう。その通り。じゃあ、そんなサトミちゃんにジュースをおごっちゃう」
「誰がサトミちゃんよ。ジュースより、イチゴヨーグルトお願い」
「はいはいっと」
財布を持って、勢いよくドアを飛び出す。
「わっ」
そのすぐ前で突っ立ているショウ。
すかさず床を蹴り、彼の肩に手を掛けて飛び越える。
反転する景色、下に見える床。
後は裾を抑えて、床へと降り立つ。
「何してるの」
「自分こそ、普通に止まれ」
「気分が乗ってるのよ」
自分にしか通用しない言い訳をして、彼を見上げる。
ショウはため息を付いて、廊下の先を指差した。
「あっちへ行こう」
「いいけど、どうしたの」
「俺も知りたい」
オフィスから少し離れた教室。
中には誰もいなく、ケイが端末を前に置いて腕を組んでいる。
「寮へ帰ったんじゃなかったの」
「用が済めば帰る」
「これ、すぐそこじゃない」
端末の画面に映っている、廊下の映像。
オフィスのドア辺りも、かろうじて見えている。
「今、あそこには誰がいる」
「サトミ一人……。おとりにする気?」
食ってかかろうとした私に、ケイは首を振って画面を指差した。
「向こう側に、IDを外したガーディアンが何人かいる。オフィス側の窓の下にも、廊下の窓の下にも。さすがに一人なら、サトミもキーを掛けるだろ」
「だけど、何か嫌だな」
「この際、気持はどうでもいい。まずは、サトミが本当に狙われてるかどうかを確かめる方が優先される」
怜悧な表情。
私の反発など、わずかにも気に掛けてはいない。
その厳しい輝きを宿した瞳は、ただ一心に画面を見続ける。
「どうして、ユウが出てくるって分かった」
「いつもの事だろ、ふらふら出歩くのは」
顔付きとは違う、冗談混じりの口調。
私は鼻を鳴らして、彼の端末を手に取った。
「捕まえる気。それとも、泳がすの」
「見てれば分かる。色々と」
端末の画面では埒が開かないので、教室のモニターとリンクさせそれを見る。
サトミには端末で連絡して、私はモトちゃんの所へ行った事にして。
勿論モトちゃんにも連絡を取って、話が行き違わないようにはしてある。
「来た」
「女の子じゃない……。ん」
熱い視線。
思い詰めた、もどかしそうな表情。
ドアの前に手を差し伸べ、それはすぐに引き戻される。
ため息を付き、そのまま去っていく女の子。
「ショウのファン、その一だな」
「ああ?」
「照れてる場合じゃない。今度は、ちょっと違う」
胸元にカメラ、周囲を探る視線。
襟元に口が当てられ、どこかに連絡を取っている数名の男。
険しい、敵意を感じさせる物腰。
彼等もまた、すぐにドアの前から去っていく。
「俺達を狙ってる、馬鹿連中か」
「その通り。……次は、来たな」
どこかで見た顔。
確か生徒会から非公式に知らされた、サトミをストーキングする恐れのある男子生徒の一人。
暗い目付き、何やら呟く口元。
俯いた顔は、上目遣いでドアを睨み付ける。
微かに緩む口元。
笑っているのか、それ以外の意図なのか。
とにかく、これ以上は見たくない。
「ユウには、刺激が強かったかな」
「俺も、好きで見てる訳じゃないぞ」
「誰だってそうさ。……浦田です。大体分かりましたので、今日はこれで結構です。……はい、お願いします。……ええ、失礼します」
おそらく他で警備をしていたガーディアン達に連絡を取っているケイ。
その間も彼の顔が、モニターからそれる事はない。
「犯人を捜すんじゃないのか」
「この程度では動かないって可能性が分かった。意外と、やばい相手かも」
「大丈夫でしょうね」
「言っただろ。いざとなれば、ショウの実家に送り込むって。ただ、サトミが一人でいる時までは監視しきれないんだよな」
確かに私も、四六時中彼女と一緒にいる訳ではない。
そうするのは可能でも、ずっと張り付かれれば向こうも気詰まりだろうし。
ただケイの言う通り、そこには大きな危険が伴う可能性が出てくる訳だ。
「結局、何も分からないって事か」
「はっきり言うね、玲阿君。あのお姫様がもっと素直なら、簡単に行くんだよ」
「言う事聞かないから、こうして隠れて動いてるって?仕方ないだろ、サトミだって子供じゃないんだし」
「子供の方が、まだ楽だ。言えば、その通りに動くんだから」
珍しく、苦渋の表情を浮かべるケイ。
無理矢理彼女を従わせるのは、勿論出来なくもない。
だが今本当に、それが必要なのか。
あの子が襲われたのは、一度きり。
それも、軽く突き飛ばされただけ。
その他は、微かなつながりが感じられる程度。
サトミ本人に危害が及んだのは、その一回のみである。
だからといって、何もしないのは私も気が済まない。
ただ私達を倒して有名になりたい連中ならともかく、本当におかしな意図持ってる人間だとしたら。
その時はケイの言う通り、彼女の感情を構ってる場合ではない。
何を差し置いても彼女を守り、相手を叩きのめす。
しかし今、そう判断していいのかどうか。
ケイですら、迷ってる状況。
正直私には、難し過ぎる。
「出来れば一人きりにはしたくないけど。サトミのスケジュールは」
「そこまで把握してないわよ。モトちゃんでも、知らないと思う」
「ヒカルが知ってる訳も無いしな」
苛立たしげにモニターを見つめる眼差し。
私はそれを気にしつつ、端末でサトミに連絡を取った。
「……今戻る。……どうしたの。……え」
「何だって」
「はっきり言わない。襲われた訳はないけど」
「ショウ、先行ってくれ」
言葉を待たず、ドアを飛び出ていくショウ。
私は違う場所にいる事になっているし、ケイは寮へ帰っている途中だ。
気持ち流行るが、すぐにここを動ける状況ではない。
「脅迫の通話か、メールかな」
「どういう意味」
「からかってるんだよ。留守にして襲わせようとしても無駄だ。でも、こっちからは全部見えてるぞって」
鋭い読み。
端末を握る彼の手に、力がこもっていくのが分かる。
「今度、ある男に話を聞きに行く。ユウはどうする」
「どういう人」
「さっきみたいに、目を背けたくなるような人間」
つい胸を抑え、早まる息を整える。
普通ではない視線、雰囲気、行動。
あれをもう一度見る。
いや、会うなんて。
しかし、自分が怖じ気づいている場合ではない。
サトミの事を考えれば、そんなのはどうでもいい。
今はあの子を。
全ては、そちらへ意識を向けるべき時だ。
「行く」
「俺とショウも行くから、大丈夫。……ああ。……分かった、ユウもすぐそっちへ行くから」
「どうだって?」
「思った通り。はっきりは言わないけど、おかしなメールが入ってたらしい。高性能のカメラがあれば、反対側の教棟からでもチェック出来るから」
いつにない、真剣な顔付き。
思索、それとも怒りだろうか。
この後に訪れる物がなんなのかは、私は過去何度か見てきた。
自分がその標的にならなくて良かったと思える程の事。
無論それは、私自身彼に劣らないと思うが。
「寮と学校は問題ない。後は休みと、登下校か」
「出来るだけ私も一緒にいるけど、絶対穴は開くわよ。それに今、あの先生の手伝いしてるじゃない」
「いつまで」
「多分、来週まで」
サトミから聞かされた学会の日付を思い出す。
たしか来週の土曜。
少なくともそれまでは、吉澤先生に付き合ってるだろう。
その先は、私には分からない。
考えたくないという気持も含めて。
「あの先生は、サトミが狙われるって認識してる?」
「私は、話してない。サトミも、そういう事は言わないでしょ」
「一応、話を通すか」
教職員用の特別教棟。
警備員のチェックを受け、中に入る私達。
受付で聞いたフロアで部屋をチェックし、廊下を進んでいく。
やがて見える、地理資料室の一つ。
ドアのインターフォンを押すと、意外そうな顔で吉澤先生が出迎えてくれた。
「どうしたの。さっき会ったばかりなのに」
「少し、お話ししたい事がありまして。お時間、よろしいですか」
「いいよ。中に入って」
簡単に状況を説明するケイ。
穏やかだった吉澤先生の顔がみるみる強ばり、青ざめていく。
落ち着き無く震える指先、彷徨う視線。
息が早まっているのが、私にも分かる。
「もし遠野さんと二人きりになる機会があったら、出来るだけ周囲に気を付けて下さい。人気のない所は避け、いつでも助けを呼べれるようにお願いします」
「分かった。二人きりになる事は無い思うけど、何かあったら僕も辛いからね」
弱々しい笑み。
私の周りにいる人達よりも力無い、だけど頑張るという意志が伝わって来るような。
ケイはうっそりと頭を下げ、ソファーから立ち上がった。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。学会の準備でお忙しいとは思いますが、今の話をよろしくお願いします」
「ああ。君達も、あまり無理しないでね」
髪をかき上げる吉澤先生。
手には白い包帯が巻かれている。
そういえば、この間から付けてるな。
「それは」
「この前遠野さんが襲われてから、一応鍛えてるんだ。次は、本当に守れるようになろうって。でも玲阿君に言った通り、続かなくて」
照れたような微笑み。
よく見れば頬も、うっすらと赤い。
サトミのために頑張っている、一人の男性。
大人の、頼りない自分を恥じての素直な行動。
自分が及ばないと分かっていても頑張る姿勢。
少し胸が熱くなる。
「お大事に。ユウ、行こう」
「うん。それじゃ、失礼します」
「ああ。遠野さん達によろしく」
特別教棟の中を歩いていく私達。
周りは当たり前だが半数以上が大人で、生徒はたまに見かける程度。
私は用がないから、年に数回来るかどうか。
前はそう思っていたけれど、最近は何かと訪れている。
「今サトミの側にいるのはあの人だから、少しは何とかなったんじゃない?」
「多少は。どっちにしろ、このままじゃまずい」
「随分心配性ね」
「俺らしくないって?」
自分で言って笑うケイ。
彼は窓辺に立ち、面白く無さそうに鼻を鳴らした。
「どうしたの」
「変な顔だなと思って」
窓に映る、彼の姿。
細い瞳、丸い鼻、無造作に伸ばした髪。
やや細い顎の、どこにでもいそうな普通の顔立ち。
しかしその内面を覗き込めば、この世に二つと無い人間だと誰もが知るだろう。
「でも、今回は妙に熱心じゃない」
「一応、将来の義姉だから。今の所は」
「ヒカルと別れるとでも言いたいの?」
「中学生で付き合って、そのまま結婚する方が珍しい」
冷静な台詞。
私の胸にも突き刺さる程の。
「ちなみに、まだ付き合っても無いのにうだうだやってる連中の事は知らん」
「わ、私が何だって言うのよ」
「さあね。俺も誰かに守って欲しいよ」
下らない事を言い出す男の子。
逆じゃないのか。
彼らしい発言とも言えるけど。
「仕方ないから、兄貴の彼女の世話でも焼くか」
「せいぜい頑張って」
「俺より、やる気な癖に」
「お互い様でしょ」
二人で顔を指差し合い、少し笑う。
彼の内心を知る事は出来ない。
でも分かるのは、その気持ち。
何があろうと、サトミを守ろうとする思い。
それが費える事は、決してないだろう。
私の中にある、彼と同じ思いがそう告げているから。
だからこそ揺れる心。
サトミの気持ちを無視しかねない行動を取る自分達に。
それでも私達は、動き続ける。
あの子に嫌われようと、どうしようと。
その笑顔を守るためなら、何だって。