16-1
16-1
暑い。
夏服になっても暑い。
初夏の日差し。
半袖になった二の腕を過ぎる、暖かな風。
ただ、心地いいのも確かではある。
何しろ、ジュースが美味しい。
リンゴ炭酸をごくっと飲み、息を付く。
泣きたくなるね。
さてと。
いつまでもさぼっても仕方ないし、戻るとするか。
やはり暑いのか、開けっ放しになっているオフィスのドア。
やや無防備だが、エアコンよりも自然の風をみんなは好む。
開いたドアから漏れる声。
悪戯心という訳でもないけど、何となく壁に張り付き聞き耳を立てる。
「あの子は、まだ戻らないの」
「ジュース買いに行くって言ってた。その内来るさ」
険のあるサトミの声と、フォローしてくれてるショウ。
はは、面白い。
いや、自分の事なんだけど。
「書類がたまってるわよ。玲阿君」
「それは、ユウの分だから」
こっちはフォローしてくれないようだ。
面白くないな。
「ほっとけ。あんな、豆狸は」
気配もなくオフィス内に飛び込み、スティックをケイの喉元へ突きつける。
「な、なんだ?」
「誰がタヌキよ」
「目の前で、女の子に化けてるのが」
笑った。
それも、げらげらと。
「止めなさい、二人とも」
「だって、人をタヌキって」
「いいじゃない。豆狸なんて、可愛くて。私は好きだわ」
あなたの好みは聞いてない。
大体、動物の可愛さと一緒にされても困る。
「ショウも、何か言ってよ」
「狸か。あれは、食用じゃないな」
「馬鹿か、お前は」
ケイに突っ込まれるショウ。
私も馬鹿馬鹿しくなって、スティックを机の上に置いた。
大体、どうして食用じゃないって知ってるの。
その理由は知りたくないな……。
「暇だね」
「だからって、外行かないで」
「だって、喉が渇いたから」
「これでも飲んでなさい」
目の前に置かれるペットボトル。
茶褐色の液体が入っている。
「コーヒー」
「まさか」
「俺だよ」
真顔でマグカップを持ってくるショウ。
当然それに、コーヒーが注がれる。
嫌だな。
それでも一応は、付き合いで飲んでみる。
「……前よりはいいけど、何か美味しくない」
「豆でも挽いたら」
さっきの豆狸と掛けてるんだろう。
楽しそうに笑う、陰気な男。
「とにかく、私はいらない。自分で飲んで」
「寮でもさんざん飲んでるんだけど」
背を丸め、物悲しげにペットボトルをしまう凛々しい男の子。
それは心苦しいが、飲むのは肉体的に苦しい。
「……こんにちは」
控えめに入ってくる、目を見張るような大男。
野性的で、威嚇するような顔立ち。
しかし今は、怯え気味にこちらの様子を伺っている。
「武士。どうした」
「その。これを届けろと言われて」
差し出される封筒。
中は書類とDD。
内容はこれといった者ではなく、よくある通知事項とボランティアの募集。
といっても私が読んだ訳ではなく、チェックしたサトミから話を聞いただけだが。
「でも、何でお前が」
「経費削減で、回覧方式にするらしい」
彼の目の前に置かれる、例のペットボトル。
恐縮しつつ、それを減らしていく御剣君。
いい子だ。
「……あんまり、美味しくない」
素直な感想。
ショウの頬がひくつくが、私達は笑いを堪えている。
「あの、何か」
「こっちの話よ。まだあるから、よかったら持って帰って」
「いや、それは遠慮しときます」
はっきり断ってきた。
当然だ。
ショウの落ち込みはともかくとして。
「……こんにちは」
こちらは、遠慮無く入ってくる神代さんと渡瀬さん。
目を合わせる、1年生達。
あまり、いい雰囲気ではなく。
「俺、そろそろ戻りますから」
「じゃあ、そんな君にお土産を」
ペットボトルを渡すケイ。
2Lを、2本。
「え?」
「先輩の不始末は、後輩が償うって事で」
「じゃあ、これは」
「みなまで言うな。そこは察してくれ」
不憫そうにショウを見つめ、一礼する御剣君。
笑い事じゃないけど、笑えるな。
多分気を効かせた御剣君がいなくなり、室内が華やかな雰囲気になってきた。
しかしあの子も、そういう細やかな神経を持ってたんだ。
どちらかと言えば猪型なのに。
人も、成長するという事か。
「これ、知ってます?」
「かぼちゃプリン?」
小さな紙袋から出てくる、陶器の器。
これ自体カボチャを象っていて、フタの部分はへたになっている。
「雪化粧、ね」
「知ってるんですか」
「まさかりかぼちゃよりは有名だから」
「は?」
スプーンをくわえたまま固まる渡瀬さん。
「品種名だよ。知らないで買ったの?」
「かぼちゃには詳しくないんで」
「俺だって詳しくない。大体、好きじゃない」
ケイはそれを遠ざけ、お茶をすすった。
相変わらず、どうでもいい事には詳しいな。
「あら、美味しい。舌の上でとろけるような感覚というのかしら」
「評論家みたいな事言って。……この、しっとりとした食感が」
サトミと二人して笑い、ちびちび食べる。
まだあるけど、こんなに美味しい物は心情的にもったいないので。
「玲阿さんは、食べないんですか」
「食べた」
すでに空になっている、陶器の入れ物。
情緒のない子だな。
「犬みたい」
ぽつりと漏らす神代さん。
今日は、いいとこ無しみたい。
といっても、ささやかな物だけど。
もしショウと比べれば、ケイなんて生まれてこの方いい事無しだ。
「俺も、そう食べたいって物じゃないな」
じゃあ、食べないでよ。
しかも、二つも。
「そりゃそうだろ。芋栗南瓜は、女の子の方が好きだから」
「なんきん?」
「かぼちゃの事。本当、どうでもいい事は知ってるわね」
サトミが差し出したスプーンを、露骨に避けるケイ。
普通の男の子なら顔を赤らめ、ためらってでも口にするんだろうけど。
「ほら。食べなさい。それとも、私のだと食べられないとか」
「何が」
「あら、言ってもいい?」
牽制するように笑い合う二人。
冷たい火花が散っているようにも見える。
「あっ」
隙を縫って、私が食べた。
これで問題もなくなって、めでたしめでたし。
だと思う。
というか、そういう事にして。
……廊下に立たされた。
訳ではなく、少し気分転換。
わいわいみんなで騒ぐのも楽しいけど、たまには一人でいたい時もある。
という程大袈裟な理由ではなく、オフィスが狭いだけ。
襲撃を受けた去年の部屋よりは綺麗な外観。
今の所は、なんて注釈が付く気もするが。
「どうしたの?」
ドアの前で突っ立てる私を見て、沙紀ちゃんはころころと笑った。
「中が狭いから」
「確かに。元は物置なのよね、ここ」
「え?」
冗談よ、とは言ってくれない沙紀ちゃん。
そんな所が、私達の居場所という訳か。
意味もなく、泣きたくなる……。
「これ、今月のスケジュール」
「さっき、御剣君が持ってきたよ」
「それは、連合のでしょ。こっちは、生徒会からの通達」
「統一すればいいのに」
ただ私が読む訳でないので、そうは困らない。
これこそ、経費の無駄だとは思うが。
「教棟の隊長自らが伝令?」
「私も、ずっと部屋にこもってると気詰まりなの」
「ストレスが溜まってない?」
「まあね。……明日の体育、格闘実習って知ってた?」
横に引かれる、沙紀ちゃんの口元。
私もすぐに、同じ形になる。
「知らない。でも、楽しそうね」
「プロが来るって言うし、絶対出ないと」
「今日は、早く寝よう」
「栄養も付けないと」
声をひそめ、くくっと笑う私達。
役職や立場はともかく、この辺りは共感出来る部分がある。
それにプロが来るなら、久し振りに気合いを入れるとするか……。
マットの敷かれた、広いトレーニングルーム。
サンドバッグやミラーはないが、体に馴染む空気が漂っている。
体育の授業なので経験者は少なく、拳の握り方から教えられた。
それでも基本は大切なので、素直に拳を握り込む。
すると後ろの方で、何やら文句が聞こえてきた。
1年も参加している授業だが、どうやら彼等のようだ。
まあ、いい。
そんなのは放っておいて、授業に集中しよう。
一通り基礎をやり終え、適当にグループを組んでのスパーリングとなった。
といってもマスボクシングに近い形で、プロテクターの上へ軽く当てるような感じ。
「軽く、いく?」
「うん」
オープングローブとフェイスカバーの具合を確かめ、何度か足を入れ替える。
それ程暖まってはないが、スパー程度ならいいだろう。
低い姿勢を取り、足元へ突っ込んでくる沙紀ちゃん。
膝を出し、それを切りに掛かる。
だが沙紀ちゃんは速度を緩め、膝の前で動きを止めた。
フェイントと思う間もなく足首が取られ、横にひねられる。
膝が極まり、若干の痛みと共に体が横倒しになった。
仰向けにマットへ押し付けられた途端、背中に覆い被さってくる感触。
素早く体の下に腕を差し入れ、肩を押し込む。
押し付けられる勢いを利用して体を反転させ、逆に沙紀ちゃんをマットへ押し付ける。 そのまま腕を後ろへ回し、首を取りに掛かる。
「……と」
肘が極められそうになったので、上体を起こして体勢を立て直す。
沙紀ちゃんも私の足を離していて、二人して立ち上がる。
「こんな感じ?」
「スパーだからね」
お互い相手の事は理解しているので、これだけでも十分だ。
死力を尽くして戦うのは、一度経験している訳だし。
インストラクターの人は他の子を教えるのに忙しくて、こちらの相手をしている暇は無さそうだ。
仕方ないから、ショウでも。
「……ショウは」
「服が破れた」
ドアを指差すケイ。
今日は男女ともに格闘実習なので、彼もいる訳だ。
「じゃあ、ケイでいいや」
軽く手招きして、彼との距離を詰める。
右手が前に出た、サウスポーの構え。
柔術もやっているので、接近戦にも注意する必要がある。
「セッ」
緩いジャブが飛んできた。
それをかいくぐり、脇腹へ掌底を持っていく。
頭を通り過ぎたジャブが襟元を掴み、掌底ごと体が密着された。
タイミング良く投げられる体。
そのままのしかかってくるケイ。
体重差を考えれば、かなりの有効な攻撃。
当然喰らう訳にも行かず、足を振り上げてバランスを崩させる。
「ちっ」
ぐらつくケイに合わせ、脇に当てていた掌底へさらに力を込める。
完全に彼の上に乗り、止めに喉へ手を押し当てる。
「完勝」
側転で彼の上から飛び退き、軽く拳を掲げてみせる。
「……面白くない」
「本当。練習にもならない」
「悪かったな」
無愛想に呟くケイ。
ただ試合形式での実力差はお互い分かっているので、揉める程の事でもない。
本気でやれば、この子はショウに勝つ事だって出来るんだし。
「……サトミは」
視線を彷徨わせたら、壁にもたれていた。
物憂げな、何となく疲れ気味の顔で。
「菊人形だな」
「え?」
「綺麗だけど、表情が無くて実体感に欠ける」
私は豆狸で、サトミは菊人形か。
言い得て妙だな。
ただ聞き流していい話でもないので、もう一度掌底をかます。
プロテクター越しにでも響くような一撃を。
唸り声を上げてうずくまった男の子を放っておいて、ふらふらと歩く。
サトミも気になるが、今はそっとしておいた方がいいだろう。
私には、そんな顔に見えるから。
後は適当に……。
視界によぎる、数名の男。
さっき文句を言っていた連中だ。
今も仲間内で、好きに暴れている。
インストラクターがいるので、他の生徒には手出ししてないようだが。
何となく睨んだら、目が合った。
向こうはこちらを知っているらしく、仲間同士でささやき合っている。
「雪野さん、ですよね」
「ええ」
「ちょっと、スパーの相手をして貰えますか」
自信ありげな微笑み。
ショウ程ではないが、かなりの大柄な体型。
体重だけ見れば、こちらの方が上だろう。
周りを仲間に囲まれ、男と対峙する。
他の子は自分達の事に精一杯で、殆どこちらに気付いていない。
インストラクターからは死角。
ただ、ケイが脇腹を押さえながらしゃがみ込んでいるのが見える。
当然、向こうからも。
その意味では安心だ。
仮に彼がいないとしても、後れを取る気はないが。
「一応、総合格闘技ルールで」
「いいわよ」
「じゃあ、始めます」
鋭い前蹴りが鼻先をかすめる。
当てる気はなく、牽制だろう。
余裕の笑みを浮かべ、男はフェイスガードを外して床へ転がした。
「ガーディアンだか知らないけど、本当に強いんですかね」
「試してみれば」
「お言葉に甘えて」
ストレート並に重そうなジャブの連打。
ウェイビングとパーリングでそれをかわし、相手の全体像を掴む。
リズム、バランス、パワー、足運び、腕の振り、上体の動き。
強い部類に入る方だろう。
だからこそ、こうして私に挑んで来る。
学内でそれなりの地位を占める、ガーディアン。
その中でも有名な人間に。
俺の方が強いに決まってる。
女程度に、負ける訳がないと。
今見せている強さがフェイクなら、少しは見直す所だが。
「セッ」
ローを飛び越え、軸足を横から蹴って後ろへ回り込む。
バランスを崩した所で襟元を掴み、一気に引き倒す。
後はかかとを振り上げ、軽く胸元へ押し当てるだけ。
男は何の抵抗を示す事もなく、床へと転がった。
やはり、思った程度の強さだった。
素質があり、訓練を積み重ねれば到達出来る程度の。
だから、それ以上の物は何もない。
「ちっ」
起き上がるとする男の喉へかかとを突きつけ、首を振る。
「もう分かったでしょ。ガーディアンに文句を付けたくなるのは分かるけど、程々にしなさいよ」
「うるさいっ」
かかとをかわし、立ち上がる男。
周りの仲間も、その距離を一気に狭めてくる。
今度は、人数で攻めてくるか。
スティックは無いけど、相手を出来ない数でもない。
この程度のレベルなら。
彼等が自分達をアピールしたいように、こちらも自分の存在を少しアピールした方がいいようだ。
私達に関わっても、いい事など無いと分からせるために。
「このっ」
突然揺れる足元。
男達が床に敷かれたマットを強引に引きはがしたのだ。
素早く飛び退き、鼻で笑う。
「掃除でもしたいの」
「馬鹿がっ」
「どっちがよ」
怒りのせいか、100kg以上はあるマットを頭上まで持ち上げる男達。
周囲から起きるどよめき。
笑える光景ではあるが、それがこっちに向かってるとなると話は別だ。
翳る視界。
頭上に迫るマット。
足に力を込め、腰を落として飛び退こうとした時。
「結構重いな」
私の真上に落ちてきた、100kg以上はあるマット。
それを両手で受け止め、逆に投げ返す男の子。
男達はあっけなくマットに押しつぶされ、その下へと消えた。
「御剣君」
「元気ですね、相変わらず」
からかうように笑う彼。
マットその物の重さプラス、男達の投げた勢い。
それを難なく受け止め、投げ返すという行為。
大抵の訓練や素質ではどうにもならない、極限まで自分を追い込んでもまだ足りない努力。
何度も床に這い、血を流し、痛みに耐えて。
気が遠くなるまでの鍛錬を経て、まだ届かない果て。
彼もまた、間違いなくその先を目指そうとしている人間だ。
ショウには及ばないと思っているみたいだけど、私からすればそれ程の差はないと思う。
大体100kg以上ある物が降ってきて、それを受け止めるという感覚がすでに普通ではない。
「体、大丈夫?」
「ええ、別に」
「こんなの、よく受け止めるね」
マットを蹴り、感触を確かめる。
サンドバッグより柔らかい分、やや蹴り応えに欠ける。
「雪野さん、まだ下にいますから」
「ああ。そうか」
彼を促し、マットをずらす。
その下から出てきた、大の字の男達。
馬鹿馬鹿し過ぎて、もう相手をする気にもなれない。
「よう、ヒーロー」
「浦田さん。止めて下さいよ」
照れる御剣君。
ケイは鼻で笑い、マットを足先で突いた。
「じゃあ、受け止めるな。……全然動かん」
「だよね。そう言えば、ショウはまだ戻ってないの?」
「ロッカーで、服縫ってましたよ。指を舐めながら」
針仕事の真似をされた。
こういう冗談を言う子ではないので、本当だろう。
何か一気に疲れたな。
「じゃあ、後はお願い」
「ええ。遠野さん、どうかしたんですか」
「さあ」
曖昧に答え、視界にサトミを捉える。
先程と変わらない、今の騒ぎにも気付かない彼女を。
「何かあったら、連絡するから。またね」
「はい」
「ショウが戻ったら、マットをちゃんと直すように言っておいて。俺の名前を出せばいいから」
「分かりました」
冗談っぽく敬礼する御剣君。
私とケイもそれに応え、サトミの元へと向かった。
おぼろげに理解している、彼女の物憂げな佇まいの理由を考えながら……。
昼休み。
ラウンジではなく、中庭の芝生でご飯を食べる。
心地よい初夏の風と、芝生の感触。
青空の下で食べれば、いつも以上に美味しく感じられる。
「……また襲われたの?」
「え?そうじゃないけど」
曖昧な答え。
ケイは細い目を鋭く輝かせ、お茶のペットボトルを傾けた。
「何なら、身辺警備の申請でもする?」
「大袈裟ね。後を付けられるくらい、みんなされてるでしょ」
「俺やショウは男で、サトミは女の子。意味が違う」
サトミだけでなく、彼の瞳は私をも捉えている。
「本当、大丈夫だから。私、ちょと用事があるの」
「送るわよ」
「子供扱いしないで。それじゃ、ね」
軽く私の頬に触れ、緩やかな坂を上っていくサトミ。
見渡しのいい中庭。
教棟まで人気のない場所は殆ど無く、確かに心配はないだろう。
私の心情としては、また別だけど。
「おい」
「分かってる。少し、対策を練るか」
「対策。何だ、それ」
「関係者を集めるのさ」
生徒会ガーディアンズ、直属班待機室。
その奥の一室を貸し切り、ホワイトボードに文字を書くケイ。
「読めない」
「あ、そう」
端末の方に文字が書かれ、修正された文章がモニターに表示される。
「難しい事をやる必要はない。要は、サトミの警護と犯人の特定。そして、捕捉」
「学校は時は、俺達がいるとして。寮では、ユウか丹下さんに頼むか」
「そうね。私では、意味無いから」
細い腕を見せるモトちゃん。
精神的には、あなたが頼りなの。
「万が一寮も危ないなら、ショウの実家に。あそこなら、特殊部隊でもはね除ける」
「しかし、サトミが言う事聞くか?こういう時は、妙に頑固だぞ」
「文句なんて言わせない」
いつになく、力強く言い切るケイ。
また彼が、ここまで積極的なのも珍しい。
「警護は大まかにそういくとして。次は、犯人の特定」
「これが自警局や生徒会がマークしてる、遠野さんを付け狙いそうな人間」
木之本君が差し出したのは、生徒のプロフィール。
これは私も見た事のある書類だ。
「基本は、こいつらを重点的に監視。それと」
モニターに映る、見慣れない数名の人間。
「自警局でチェックしてない人間」
「お前、こんなのどうやって調べた」
「秘密です。とにかく顕在化してない分、こっちの方が性質が悪い」
「本性を隠し、人目を欺くか」
苦笑する名雲さんに軽く頷き、ケイは彼へ端末を放った。
「勿論、ユウやモト。丹下をストーキングしてる人間も抑えてますよ。生徒会のチェックから漏れた人間を」
「何やってるの、君は」
「ご心配なく。舞地さんと池上さんの分もありますから。最近だと、神代さんや渡瀬さんも」
初めて聞く話。
それを、当たり前のように口にするケイ。
私でなくても、驚くのは当然だ。
「誰が、私を」
……いや、見ない方がいいか。
人を見る目が変わってしまいそうだし。
今の話を聞いた時点で、すでに変わっているとも言えるが。
「玲阿君をストーキングしてる女の子とかはいないの?」
「ありますけど、男はどうでもいいでしょ。俺を付け狙えって話だ」
「馬鹿」
うしゃうしゃ笑う池上さん。
彼女もその対象になっていると聞かされたのに、何一つ態度は分からない。
そのくらいの気構えがなければ、渡り鳥なんてやってこれなかったのだろう。
先日行った琵琶湖の一件で、多少はそれが分かったつもりだ。
「僕は?」
にこやかに尋ねる柳君。
ケイもにこやかに笑い、頷いた。
「勿論ある。男もいる」
「え?」
「心配ない。浦田が、面倒見てくれる」
「勝手な事を。とにかく、各自気を付けるように」
よく分からないが、強引に話をまとめた。
「じゃあ、たまに襲ってくるような馬鹿のリストは?」
「それは、もうきりがない。あくまでも、ストーカーが対象。実際の危険度は、そっちの方が高いんだし」
やはり、根本の部分は解決しないようだ。
それでも、何も分からないよりはましか。
「聞いていい?」
「どうぞ」
「遠野は、本当に誰かに襲われたの?」
核心をついた質問。
先日の件はともかく、あの子から何を聞いた訳ではない。
言ってみれば、私の思い込み。
それに、みんなが乗っただけだ。
「今はともかく、将来的に見てその可能性は高いと思いますよ」
「何かの兆候でも」
「勘です」
ごく自然に答えるモトちゃん。
舞地さんはキャップを外し、それを指で回した。
「遠野と同調して、そう感じたという訳」
「端的に言えば」
「違う可能性は?」
「あるでしょうね。でも、あの子を警護して困る事は何一つありませんから」
そう。
モトちゃんの言う通り、取り越し苦労で十分だ
何も無いなら、それが一番いい。
みんなはともかく、サトミのためなら私はどんな苦労も厭わない。
「じゃあ、頑張って」
「真理依は?」
「私がやらなくても問題ない」
そう言い残し、部屋を出ていく舞地さん。
相変わらず、何を考えてるのか読みにくい。
とはいえ彼女がおかしな真似をする訳はないので、取りあえずは好きにしてもらおう。
それに私も、やる事がある。
寮の部屋。
落ち着いた内装、微かに漂う澄んだ香り。
ベッドに背を持たれ、気だるそうにマグカップを両手で持つサトミ。
私は床にしゃがみ込み、クッキーを少しかじった。
「襲われた訳じゃ、ないよね」
「ええ、あれっきり。心配ないわよ」
頼りない笑顔。
彼女がどう振る舞いたいかはともかく、その雰囲気は何とも儚げだ。
「ご飯食べた?」
「少しだけ」
「スープでも作ろうか」
弱々しく首を振り、紅茶を口にするサトミ。
その仕草は綺麗で、見取れてしまう程だけど。
あまり見ていたい姿では無い。
「悩み、とか」
「私が?」
「うん」
「……その内話す」
どこかで聞いたような答え。
またそれが実際に話されるのは、いつもずっと後になってからだ。
「ヒカルには相談した?」
「いいえ」
一瞬瞳を動かせ、強く否定した。
これ以上は、私が踏み込むべきではないだろう。
勿論状況によっては、その定かではないが。
「じゃ、帰るね」
「ええ。お休みなさい」
「うん、お休み」
軽く手を触れ離れる私。
サトミの視線が私を見上げ、すぐにマグカップへと落ちる。
儚げに、切なげに。
もう私など目に入らないのか、物思いに耽り。
静かに、自分の考えへと沈み込んでいく。
自分もそうだからこそ分かる、答えのでない問いを探す仕草。
ただ、私もそうだったように。
その答えはいつか出る。
良い方向にしろ、悪い方向にしろ。
私は人の助けを借りて、その答えを見つけ出す事が多いけれど。
サトミはどうなんだろう。
私達の行動は、余計な事なんだろうか。
ただそうだとしても、止める訳には行かない。
自分の頼りなさ、彼女の感情よりも。
まずはサトミを守るを、優先したい……。
翌日。
一時間目の授業。
サトミの姿がない。
休んでいるのではなく、例の地理の先生を手伝いに行っている。
学会の発表が近いらしく、あの子も授業を休んで助けている訳だ。
隣で、難しい顔をしながら問題を解いているショウ。
少しは授業に集中しようと思い、私も問題に向かい合う。
生物、エンドウ豆ね。
私は間違いなく、お母さんの遺伝子を引き継いでるな。
それを認識したからといって、問題を解くには何の助けにもならないけど。
どうにか問題を解き終え、送信する。
「……我々は究極に例えると、遺伝子を運ぶために生きてるとも言える訳です」
再び授業を進める先生。
話を聞くとは無しに聞き、ペンを手の中で回す。
「同種の子を殺すのはそれで説明が出来、それは人以外の動物でも見られます。とはいえ我々は遺伝子のみで行動しているのではなく、環境の影響もまた大きいですね。この辺りは心理学の分野とも重なってくるんですが」
端末に転送される、輻輳説の文字。
人の成長は環境と遺伝の相互干渉に影響されるという考え方。
つまりどちらかに偏ってる訳ではなく、そのどちらも大事だという事だ。
「みなさんは国内でも最上水準に近い環境で学んでるのですから、あとはみなさんの資質に掛かってます。勿論それだけではなく、各自の努力にも」
心に残る一言。
その言葉を胸の中で、繰り返し噛みしめる。
環境はともかく、大した素質のない私が取る道は努力しかない。
何事に関しても……。
たっぷりかいた汗を、シャワーで洗い流す。
誰でもやっているような筋トレと、簡単なジムワーク。
時間や回数は、少し違うが。
体が小さい分、量でカバーするしかない。
それでも筋力は、普通の子より少しある程度。
毎日、ほぼ休み無く繰り返していても。
とはいえ、止める気は全くない。
ガーディアンだからという理由だけではなく。
これをする事で、多少の自信は生まれる。
大して強くなる訳ではなく、筋力も付かないけれど。
毎日続ける事の、意外な程の難しさ。
それを持続させる気力。
自分を保つための、一つの証。
こんな事をしないと保てないのはどうかとも思うが、仕方ない。
私には、これ以外の事が思いつかないし似合わないから。
さすがに疲れたので、ベッドの上で壁にもたれてTVを見る。
音楽番組。
知らない女性ボーカルが、速いテンポで踊りながら歌っている。
知らない曲、知らないメロディ。
頭に入らなくて、意識が集中しない。
重くなる瞼。
抜けていく、体の力。
少し体の位置を下げ、天井を見上げる。
こうなると後は決まっている。
もう音は聞こえなくて、照明が眩しいと思えるくらい。
夢と現実の間辺りを彷徨っている感覚。
知らない景色と部屋の景色が重なり、どちらがどちらなのか認識出来なくなっている。
少し早いけど、このまま……。
目が覚めた。
照明も、TVも付いたまま。
カーテンの向こうはまだ暗く、すぐに時計を見る。
日付はまたいだが、朝までにはかなりの時間がある。
何となく目も醒めたし、お茶でも買いに行こう。
今の姿は、Tシャツとショートパンツ。
一応パーカーを羽織り、人気のない廊下を歩いていく。
照明は付いていて、監視カメラも備わっている女子寮。
しかし夜独特の重い暗さが、その下にいても実感出来る。
自販機のあるラウンジ前に来た所で、すぐに足を止める。
人の気配。
夜とはいえ、私のように起きている人間もいるだろう。
ただ、視界をよぎった人影は少し違う。
人目を避けるような、独特の動き。
監視カメラがあるのでおかしな人間では無いと思うが、警戒した方がいい。
それでもお茶を買い、パーカーの袖の中へ入れて廊下を戻る。
意識はラウンジの中、人の気配がした方へと向けたまま。
紛れもない足音。
靴を脱いで消しているつもりだろうが、これだけ静かなら嫌でも響く。
音としてではなく、床を伝わる本当に微妙な振動で。
自分の墓の上を誰かが歩いている感覚、なんて例えがあるが。
おそらく今が、それだろう。
逆恨みなどとは異なる付け狙い方。
私を対象にしているのかサトミ絡みなのかは分からないが、全身が総毛立つような気分が全身を走り抜ける。
それを必死で押さえ込み、素知らぬ振りをして歩いていく。
ここで何かの手がかりを掴めば、サトミのためになるかも知れないし。
左手に現れる階段。
後ろの人間がここを降りていけば問題ない。
しかし付いてきた場合は。
その時に、考えよう。
私の考えるは、行動すると同義語だが。
階段の前を通り過ぎる。
足音、気配が消える様子はない。
いよいよか。
そう思った途端。
駆けてくる音が聞こえた。
素早く腕を後ろへと振り、ペットボトルのふたを飛ばす。
「がっ」
80度近いお茶を浴び、顔を押さえる人影。
フードで遮られ、動きを制するまでは行かなかった。
青い上下のジャージ。
プロテクターと、それとは違う何かを着込んでいるのかボディーラインもはっきりしない。
近くにある非常ボタンを押し、警備を呼ぶ。
これで全ての扉とドアが閉まり、警備員が一斉に駆けつけてくる。
それともモニターで確認していて、もうこちらへ来ているのかも知れない。
意外な早さで階段へと消える人影。
相手の出方が分からないので、慎重に後を追う。
わざわざ女子寮に忍び込むくらいの人間。
手ぶらとは、とても思えない。
壁に張り付き、階段目がけてもう一本のペットボトルを投げる。
反応は無し。
息を整え、気配を探りつつ私も階段へと向かう。
上、下。
姿も無し。
ここは無理に追うより、警備員さんに任しておこう。
念のため警備の詰め所に顔を出し、事情を説明する。
やはりモニターで監視していたとの事。
しかし、肝心の相手には逃げられている。
全てのドアが閉まって、警備員さんも出場しているのに。
誰かの部屋に入り込むのは、非常ボタンを押した時点で強制ロックされるために不可能な行為。
勿論中から開けるのは可能でも、誰だって相手を確認するだろう。
「顔は見た?」
「いえ。フードを被ってたので」
「そうね。一応警察に連絡して、しばらくは私達も注意するわ。あなたは大丈夫?」
「ええ。……あ、お茶が」
空になった、ペットボトル。
警備員のお姉さんはくすっと笑い、大きなペットボトルを渡してくれた。
「取りあえず、これで我慢して」
「大きくなってますけど」
「大は小を兼ねる、よ。その内、犯人に弁償させるから」
わらしべ長者ではないが、少し得した気分。
冷蔵庫にペットボトルを入れ、ベッドに横たわる。
色々考える事はある。
目も冴えている。
あれが誰なのか。
何故消えたのか。
第一、どうやって入ったのか。
分からない。
頭を使って、少し疲れた。
ちょっと目を閉じて……。
目が醒めた。
照明もTVも消えている。
でも、部屋は明るい。
どうしてか。
朝だから。
取りあえず、ベッドから降りてバスルームへ向かう。
やはり私は、体を動かすのがあっているようだ。
そういうのは、他の人に任せよう。
で、まずはご飯を食べよう。
それも、得意だから。