エピソードWW3-2 ~ケイ・渡り鳥編~
友達
中編
会議室の片隅。
机に置かれた何冊かの本。
その間にはタグが挟まれていて、小さな字で注釈が書き込んである。
本のタイトルはどれも、学内の規則に関する物。
教職員、生徒会組織、自警組織。
今は近畿庁の教育関連規則の本が、開いたまま机に置かれてある。
「退屈?」
「いえ。本を読むのは好きですから」
「そう。でも、何か言いたそうね」
「慎重というか、意外とぬるいなと思って。傭兵、渡り鳥の名を持つにしては」
鼻先で軽く笑い、ティーポットから紅茶を注ぐ白鳥。
礼を言ったケイはマグカップを手に持ち、揺れる表面を見つめている。
「あなたが私達をどう思ってるか知らないけど、殴り合いで解決してるばかりじゃないわ。否定はしないとしても」
「そうでしょうね」
「勿論その気になれば、今すぐにでも片は付けられる。初めに話した通り、首謀者とその関係者を拘束して放逐。後は全校生徒に警告でもすれば、学内は落ち着くでしょうね」
「でも、やらないと」
緩む口元。
顎に手が寄せられ、優雅な仕草で肘を付く。
「時間的な問題もあるの。あなたの友達は、多分まだしばらくここに残ると思う。でもこっちだけ早く終わったら、やる事がないでしょ」
「休息も兼ねて、ですか」
「まあね。それにさっきの方法では、後味が悪くなる。だから取りあえずはパトロール程度に留めて、情報を収集してるの」
「俺は楽でいいですよ。危ない事はみんなやってくれてるし、難しい事を考えなくてもいい」
皮肉ではなく、本心とも思える口調。
彼をよく知る者からすれば、その真意を疑うかも知れない。
取りあえず今は、その必要はないようだが。
「逆に聞くけど、あなたならどうする?」
「否定された意見を採用したいですね。その馬鹿と仲間を放り出して、賛同してた生徒を脅すっていう」
「恨まれるし、後味が悪いわよ。それにこの学校、生徒に芽生えた自治への思いを潰す事にもなる」
「その程度で駄目になるようなら、自治なんて考えない方がいい。それと、恨まれるのには慣れてますから」
学食の片隅。
物憂げに。
あくまでも他者の目を通した観点で。
うどんをすする伊藤。
昼食時とあって学食内は生徒でごった返し、話し声と食事を取る音で騒然としている。
弁当を広げ、おかずを交換し合う女の子。
やたらと大盛りのカレーを、必死の形相で食べる男の子達。
会話と笑顔と、決して高級とは言えない食材の混ざり合った香り。
学食という名にふさわしい。
その中にあって、一人浮く伊藤。
モデルと見まがうばかりの容姿、学校外生徒という肩書き。
彼女がこの学校に来た目的は、学内のトラブル収拾。
どれもが他人を遠ざけるのに相応しい理由であり、また現に彼女が座るテーブルには誰もいない。
8人掛けの広いテーブルは、箸と調味料にふきん。
後は伊藤の食べるうどんのどんぶりが乗っているだけである。
「浮いてるじゃない」
からかうという色も無い、事実のみを告げる口調。
伊藤はわずかに視線を上げ、すぐに薄い色の汁へ顔を戻した。
地域的に関西風の味付けで、しょう油より塩。
カツオよりも昆布をベースにしているようだ。
「どうして、弁当なの」
俯いたまま尋ねる伊藤。
ランチボックスを包んでいたナプキンを解いた日向は、箸を取り出してふたを開けた。
「たまにはと思って」
「大抵は、でしょ」
彼女にしては、矢継ぎ早な追求。
日向は何も答えず、タケノコご飯を食べ始めた。
「岸達は」
「外に、食べに行ってる。近江牛だって」
「どこでそんな贅沢を覚えたんだか」
「広さんは、毎日食べても余るくらい稼いでるでしょ」
今度は伊藤が答えず、たぬきうどんをすする。
地域。特に滋賀付近でこの名のトッピングは異なるが、この学食では天かす入りをそう呼ぶようだ。
「あなたも、自炊する必要はないんじゃなくて」
「好きなの。作るのが」
「彼氏もいないのに。虚しいわね」
珍しくからかいを含んだ台詞。
口調と、表情も。
「私よりも自分はどうなの。先輩」
「釣り合う相手がいれば考えるわ」
鋭い言葉。
口調ではなく、その意味が。
それとなく彼女達の様子をうかがっていた男の子達は一斉に顔を伏せ、女の子達は憧れにも似た眼差しを向ける。
凛とした容姿と態度。
人としての強さを、自然と表す彼女へと。
「うどん?」
「タケノコご飯って」
ホテルでの夕食。
能力や状況にもよるが、学校外生徒は概して裕福である。
駆け出しの時期や、仕事がない地域、支払いが滞った場合などは除くとして。
食事と宿泊施設は、大抵が雇い主持ち。
そうでないとしても、その際に受け取る収入で十分賄える。
日向が言ったように、毎日近江牛を食べるくらいの余裕はある。
渡り鳥でもトップランクにある彼等なら、なおさら。
「お代わりは」
「あるわよ」
「そうですか」
食べたかったと言うより、せめてそのくらいはと思ったのだろう。
森山はため息を付き、のろのろと箸を動かし始めた。
ホテル内の食堂。
そこでテーブルを囲み、うどんとタケノコご飯で夕食を取る渡り鳥達。
誰の発案かは、言うまでもない。
「何か、頼んでもいいかな」
「駄目」
一言で終わらせる日向。
もう一度ため息を付き、うどんをすする森山。
タヌキでもない、素うどんを。
「金はあるんだろ」
冷静に、ただ若干不満気味に問い掛ける岸。
その視線を受けた日向ははっきりと頷き、タケノコご飯を頬張った。
「たまにはこういうのもいいじゃない。苦しかった昔を懐かしむ意味も込めて」
「戦地で戦う兵隊さんの気持になって?栄養のバランスを、著しく欠いてると思うが」
「一食くらい抜いても死にはしない」
もっともな発言。
納得もしがたいが。
「私は鮎が食べたいのよ」
箸を置く白鳥。
伊藤と日向は目も合わせず、うどんをすする。
無駄だと分かったのか諦めたのか、箸が持たれタケノコご飯が少し減る。
「ただ今。あ、これお土産」
箱折りを差し出す柳。
「肉餃子」と書かれた、いい香りのする箱を。
「いらん」
森山は邪険に手を振り、ベッドの上で彼に背を向けた。
窓辺に立っていた岸も同様に、顔を背ける。
小さなテーブルの上に置かれたのは、胃腸薬。
選択肢がない分、食べ過ぎたようだ。
「美味しいのに。ねえ」
「嫌いなんだろ」
一言で終わらせるケイ。
彼はそのままふたを開け、ラー油とタレを掛けて餃子を食べ始めた。
「俺達は、何も好きで……」
「森山、止めろ。虚しくなる」
「訳が分かんないな。僕は、ビール飲もっと」
冷蔵庫を開け、ビールを二本取り出す柳。
彼は片方をケイへ渡し、軽く缶を重ねて口を付けた。
「ビールには餃子、なんて気分だね」
「それはよかったな」
達観した表情で呟き、岸は夜景へ視線を向けた。
森山は壁を見つめたまま、動こうともしない。
「うどんとタケノコご飯だけで、何が楽しいんだ」
「……どうして知ってる」
「従業員から聞いた。自炊は構いませんけど、お困りでしたら漬け物くらいはお出し出来ますって」
鼻で笑い、餃子を口へ運ぶケイ。
見当外れの同情を受けた二人は怒る気力もないのか、無言で視線を彼方へと向ける。
「二人とも、いらないの?」
「雛に……、日向に怒られる。今日はもう、水以外口にするなって言われてる」
ようやくこちらを向き、重いため息を付く森山。
岸もベッドサイドへやって来て、柳が差し出した缶を受け取った。
「俺の見間違いかな、さっき売店でアイス買ってたのは」
「……あの女。岸、何とかしろ」
「自分でやるんだな。俺は別に怒ってない」
あおられる缶。
ただそれは約束を破った事にもつながり、言葉とは一致しない。
当人が自分から反故にした時点で、約束とも呼べないが。
缶の山が高くなり、柳と岸の顔が赤くなる。
ケイと森山は、口を付けた程度。
柳もそれ程は飲めないので、殆どは岸の血液中へと流れ込んだ事になる。
そのケイは自室へと戻り、柳もよろめきながら部屋を出る。
いや、出かけた所で戻ってきてベッドの上へと寝転がった。
そこにはすでに岸が横たわり、先にふて寝した森山がいる。
やがて聞こえてくる寝息。
灯りの点いた室内。
窓からの夜景よりも明るい。
健やかな3人の寝顔を、はっきりと見せたまま。
「……頭痛い」
こめかみ辺りを抑える森山。
岸は至って平然としていて、それは柳も変わらない。
「低アルコールだし、二日酔いになる程飲んでもないだろう」
「誰かの足が、頭の上にずっと乗ってたんだ」
「悪い子がいるね」
ロビーから消える柳。
その背中を恨みがましく睨んでいた森山は、エレベーターを降りてきた少女へその視線を向けた。
「朝から、なんだ」
「アイスは美味しかったか」
「風呂上がりだったから……。そんなのは、食べてない」
真顔。
かなり取り繕った。
「誰から聞いた」
「さあな。先輩、おはようございます」
欠伸混じりの白鳥と眠そうな伊藤は適当に挨拶を返し、キーを彼へ渡した。
「日向はもう、白状しましたよ」
「ああ、アイス」
「そういう事もある」
あっさり認め玄関を出ていく二人。
ただその足はかなり早く、逃げているようにも見える。
「という訳だ。運転を頼む」
渡されたカードキーを睨んだ日向は、それを握り締めて二人の後を追っていった。
「知らないぞ。後でどうなっても」
「じゃあ、お前は我慢出来るのか」
「些事にはこだわらないようにしている」
メガネを押し上げる岸。
昨晩飲んだビールの量が、全てを物語っている気もするが。
感情のもつれ、といっても冗談の域を出ないものだが。
それがありつつも、狭い会議室に顔を付き合わせる渡り鳥達。
情報収集を兼ねたパトロールも済み、今は全員が顔を揃えている。
顔を付き合わせ話し込む、白鳥、伊藤、岸、日向。
この4人は戦いよりも作戦立案、または情報分析を得意とするらしい。
主に発言しているのは白鳥と岸。
日向は補足気味に口を挟む程度、伊藤に至っては相づちも打たない程だが。
「暇だ」
ぽつりと呟く森山。
彼は周りが認める通り、戦いにその本分があるタイプ。
しかし現状で彼等に襲いかかる者は無く、この場に置いては無論皆無である。
不用意に刺激しないためとの観点から、自由行動は原則禁止。
つまり彼は気晴らしに出歩く事も出来ず、壁やテーブルを相手にする事となる。
「暇じゃないのか」
「授業中」
邪険に手を振る柳。
彼が向かい合っているのは、卓上端末。
その画面には、草薙高校のオンライン専属である講師が授業を行っている。
大卒資格を持つ彼にとって、必要がないとは言わないまでも熱心に聞く理由はない。
それでもキーボードはこまめに操作され、時にはメモ用紙に文字が書き込まれていく。
「いつからそんな、真面目になった」
「これが普通だよ。とにかく、静かにして」
軽くたしなめれられる森山。
不満げな表情はすぐに消え、視線が室内を彷徨う。
今後の策を練る白鳥達。
やるべき事を見出している柳。
以前とは違う、自分と同じだった存在。
そして自分は、何もない。
する事も、求められる事も。
もしかして、居場所すら。
彼がそこまで思ったかは、定かではない。
だが視線は下がり、肩も落ちる。
端正な顔には陰が宿り、瞳に輝きはない。
自嘲気味に緩む口元を除いては、何も。
「お茶買ってくる」
「あるわよ、まだ」
「いえ。紅茶が飲みたいんで」
会釈して出ていく森山。
ティーポットの中に浮かんでいるのはダージリンのリーフで、彼のマグカップにも紅い色の表面が見えている。
湯気もなく、注がれた時とわずかにも変わってないままに。
「追い込み過ぎじゃないの」
ぽつりと漏らす伊藤。
白鳥は顔を指差して、仲間でしょという意思を示した。
「雛ちゃんはどう思う」
「さあ。私からは、どうとも」
曖昧な。
ただしこの場面では、逃げと言ってもいい言葉。
彼女には、あまり似つかわしくない。
「岸君は」
「本人の自覚次第では」
「あなたの意見を聞きたかったんだけど。……浦田君は?」
「反感を買うので、止めておきます」
学校へ提出するレポートを作っていたケイは、顔も向けずに答えた。
ほぼ彼が言いたい事を伝える言葉で。
「仕方ないわね。今日知り合いが来るから、その人に任せましょうか」
「誰」
「気のいい人よ。少なくとも、外見は」
校舎から校舎を通す、簡素な渡り廊下。
その片側にある、わずかな自販機。
ジュースとお菓子、軽食。
それでも休憩時間や放課後には賑わう場所だが、今は誰もいない。
やるせない顔で、ストローをくわえる森山を除いては。
授業中、生徒の姿がないのは当然で。
時折通り掛かる教職員も、うろんげな視線を彼へ向けて通り過ぎる。
学校の要請で来たのだから、彼の存在は知っているはずだ。
その目的も。
ただねぎらいの声を掛けたり、親しむつもりはないらしい。
森山が、それを望んでいるとも思えないが。
少なくとも、今は。
「黄昏れても、女の子は寄ってこないよ。いくら君でも、その顔では」
「どうして、ここに」
「俺も沢君に呼ばれてね。そのついでに、みんなと会おうかなって」
気さくな笑顔を浮かべる林。
対して森山は気弱に微笑み、オレンジジュースの箱をゴミ箱へ放り込んだ。
「今日来たのは、白鳥さんに呼ばれたという理由もある。君が、落ち込んでるって聞いたから」
「そうですか」
「反発くらいしてくれ。俺に構うな、とか。余計なお世話だ、とか」
気のない森山に構わず、一人で笑う林。
深刻さの欠片もない様子で。
「俺には話せない事かな」
「いえ。ただ、話してどうかなるとも思えないんで」
「そう。白鳥さんの話で、大体分かってるけどね。例の、草薙高校から来た子が気になるんだろ。正確には彼がきっかけで、自分の立場に気付いた」
気楽な笑顔とは裏腹な、鋭い指摘。
それでも森山は大した反応を見せず、消極的に頷いた程度だ。
「……俺とあいつと、何が違うんでしょう」
「顔も腕も、君の方が何倍も上だろ。会った事は無いにしても、それくらいは分かる」
「そういう事じゃなくて」
「その彼に限らず、草薙高校の生徒は概してああさ」
マスカットの炭酸を買い、近くのベンチに座る林。
森山は突っ立ったままで、その動きにも気を払わない。
「自立心があって、学校への強い思いを持っている。本人にその自覚は無いとしても、自負はある。学校を動かしているのは自分達で、そのためには努力を惜しまないという」
「俺は所詮、渡り鳥ですから」
「卑下する必要はない。その分俺達は、たくさんの学校で役に立ってきた」
「そうかな」
「自覚が無くて、生徒から恨まれてるにしてもだ。どっちがいい悪いじゃなくて、人と比較する必要はないんだよ」
最後に付け加えられる正論。
ありがちな、とも言える。
「でも俺は」
「そうやって悩むのはいい事だ。何も考えてないよりは、よっぽどいい」
「今までの俺の事を言ってるんですか」
「そう聞こえた?」
無邪気な笑顔。
森山は視線を避けて、渡り廊下の柱に手を掛けた。
「俺も話は聞けるけど、どうしろとは言えない。それは自分で決める事だ」
「分かってます、そのくらい」
ようやく出る、強い声。
林は嬉しそうに彼の肩を叩き、人の良さそうな顔を寄せた。
「……彼かな、例の草薙高校の生徒は」
「ええ」
「君を慰めに来たのなら、笑うんだけど」
やや猫背で、ゆっくりと歩いてくるケイ。
その顔に、微かな変化が見える。
演技ではなく、今気付いたという表情。
森山が会議室を出てから、30分以上。
さすがにもう、ここにはいないと思ったのだろう。
「やあ。君が浦田君か」
友好的な笑顔を浮かべ、気さくに手を上げる林。
ケイはうっそりと頭を下げ、少しの距離を置いて足を止めた。
「そうですが、あなたは」
「林爽来。俺は傭兵で、今は沢君達と一緒にいる」
「雪野と玲阿がお世話になってます」
今度は姿勢を正し、深く頭を下げる。
からかう様子はまるでなく、紛れもない真摯な態度で。
林も鷹揚に頷き、その手を差し伸べた。
何のためらいもなく、ケイは彼の手を握る。
その瞬間、手首が返る。
あっさりバランスを崩し、床へ倒れるケイ。
滑るような動きで彼の後ろへ回り込んだ林は、腕を首に絡めて手の平を頬へ近付けた。
だが彼の動きは、それ以上進まない。
「リ、林さん」
戸惑い気味に駆け寄る森山。
林は緩やかに手を離し、両腕を上げた。
「終わりだよ、終わり」
「俺は、何もしてませんが」
「じゃあ、ポケットから手を出してくれないか。まだ、日焼けの時期じゃない」
世間話をするような態度。
しかし体はわずかにも動かず、細い瞳は油断無くケイを捉え続ける。
「どうして分かりました」
「事前にレポートを読むのは当然だろ。無論君のにも、目を通してある。君の綺麗な知り合い二人にも、やられたし」
「良かったじゃないですか、燃やされただけで。その二人にしては、優しいくらいですよ」
薄く笑うケイ。
ジャケットのポケットから出された手には、小さなライターが握られている。
使用法によってはジャケットを通過し、その先の相手へ炎を到達させる事も可能である。
「今度は、俺から質問。どうして、襲ってくるのが分かった。正確には、対処出来た」
「後ろからなら、気付きませんよ。あなた達みたいに、便利な感知装置は付いてないんで」
「すると、推測したと?」
「顔を見れば分かります。同種については、特に」
真っ直ぐ伸びる、意外と細い指。
林はその先を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
「切るつもりですか」
「俺の事も知ってるのか?」
「いいえ。例の抗争に関わった人については、調べないようにしてるんです。でも、何となく手が気になったんで」
「いい勘してるよ。いや、読みかな」
指の間から一瞬見える、細い光。
それはすぐに消えて無くなり、林も手を下へと降ろす。
「なあ。そう思わないか」
「危ない事はしないって、約束したじゃないですか」
「俺の方が危なかったよ」
「自業自得です」
林の後ろから現れる、華奢な体型の少年。
ケイはさりげなく後ずさり、片手を警棒へ置いた。
もう片手には依然として、ライターが握られてある。
可愛らしい顔立ちの少年は困惑気味に笑い、しなやかな仕草で自分の顔を指差した。
「警戒するのは当然だろうけど。先輩って事で、許してくれるかな」
「先輩……」
低い声で呟くケイ。
しかし思い当たる節がないのか、記憶を探るように彼の顔をじっと見据える。
「もう1年以上経つからね。僕が、退学してから。面識も、殆ど無いし」
「元フォース臨時代表代行、ですか」
「本当に君は、鋭いね」
小泉は朗らかに微笑み、その手を伸ばした。
ケイがそれを握り返す。
何かを仕掛ける訳もなく、またそれを疑う事もなく。
静かな会議室。
人はいる。
二人。
伊藤と、清水が。
何もしない、会話もない。
席を一つ空け、座るだけで。
ただ刺々しい空気ではない。
温かさとも微妙に異なる、澄んだ佇まい。
しんとした深い森の奥にある泉の傍ら。
そこに集う妖精のように。
「……何してるの」
入ってきた途端、固まる白鳥。
それが普通の反応でもある。
「真理依がいたら、もっと不気味ね」
「気味は悪くない」
「そう。それであなた、例の彼氏は」
「林と、森山の所へ行った」
否定はしない清水。
白鳥は面白くないという顔をして、落ち着き払った彼女を指差した。
「あなたの所はどうなの」
「素直な二人で助かる」
「ふーん。私もそういう子が良かったな」
明るく笑う白鳥。
伊藤も力強く頷いている。
「使えないのか」
「いいえ、使ってないだけ。優秀だとは思うわよ。ただ、真理依達を顎で使ってたらしいから」
「放っておいた方が無難か。分からなくもない」
嫌な結論に達する二人。
「あ、こんにちは」
今度は日向が入ってくる。
清水は挨拶代わりに軽く頷き、視線をドアへと向けた。
「森山が落ち込んでるらしいけど」
「いい傾向です。今まで、考えが無さ過ぎたんです」
「怖いわね、随分」
「これでも、優しく言ってるつもりです」
当然だという顔。
また、それに異論を挟む者もいない。
「あいつも、可哀想に」
「岸、何か」
「いいえ。先輩方の仰る通りです」
慇懃に頭を下げる岸。
清水は彼の理知的な顔を見据え、微かに口元を緩めた。
「あなたは、何かしないの?」
「俺が?」
「それとも、信じてるとか」
答えない岸、それをも止めない清水。
また誰も、口を挟む者はない。
友の思いには。
自販機の前。
そこにいるのは、森山と林。
ケイは自分の買い物を終え、その場を立ち去っている。
また、小泉の姿もない。
「今回滋賀に来てる人間は、例外でもある」
「例外って、何が」
「一昨年、草薙高校でトラブルが合っただろ。その際学校とやり合った連中の、直接の後輩だ。しかも今現在、まだ学校とやり合う意思を見せている」
「俺達だって、学校とやり合うのは珍しくないですよ」
不満げに反論する森山。
林はなだめるように頷き、西の方角を指差した。
「あの学校は、草薙グループの中枢にして中核。さらに中央政府、自治体、大企業のバックアップを受けてる。つまり、そういう連中を相手にケンカをしようとしてる訳だ」
かつての自分を棚に上げた発言。
無論直接中央政府と向き合う訳ではないにしろ、その動向が教育庁へ伝えられているのは間違いない。
「単に相手の物騒さからすれば、普段の君達の方が危険さ。でも俺としては、そっちの方が気楽だな」
「林さんは、その抗争に関わったんですよね。清水さんも」
「俺達は、逃げ出したんだ。責任を取れなくて、先輩を守れなくて」
小さくなる声。
最後の一言は、林すら自覚していないかも知れない。
「特に浦田君や俺の所に来てる子は、中等部の頃から暴れ回ってたらしい。確か、エアリアルガーディアンズって言ってたかな」
「何となく、聞いた事はありますよ。でも所詮は、学内で怖がられてるだけでしょ」
あくまでも否定的な論拠で話す森山。
彼には彼なりの自負があり、それだけの経験を積んできている。
名前だけは有名な人間やグループも、数多く知っている。
実力が伴わない、もしくはそれに気付いていない人間達を。
「現に俺はあっさり勝ったし」
「彼のデータを見ただろ。格闘技は、簡単な訓練程度。君とは比べるまでもない」
「そうですけど。でも」
「じゃあ例えば、岸君に勝てる自信はある?日向さんでもいい」
口を開く森山。
しかし答えは出てこない。
実力差は、彼自身が一番理解している。
訓練、実戦、経験。
そのどれもが、自分の優位さを告げているはずなのに。
「だって、あいつらは仲間だし」
「考える気にもならないって?その時点で、負けてるよ」
「仲間と戦えって言うんですか」
激しく言葉を返す森山。
林は浮かんでいた笑顔を消し、厳しい表情で彼を見つめ返した。
「感情は大事だ。でも、それだけではどうしようもない時がある」
「そんな事を言われても」
「分かる必要はないし、分からない方が却っていい。少なくとも、面白い事じゃないから」
鼻先で笑う林。
その言葉通り、つまらなそうに。
「勿論、戦わないっていうのも一つの強さだ。何にしろ、決めるのは自分自身さ」
「俺は」
「安心しろ。君がそういう選択を迫られる場面は、まずあり得ない。仲間と一緒にいる限りは。この場所では、言うまでもない」
簡単に受け合う林。
慰めか、本心か。
その判断に揺れる様子の森山に、掛けられる言葉はない。
自分の道を模索する者を、暖かく見守る視線を除いては。
琵琶湖のほとり。
並び立つ、二つの影。
外見的にも雰囲気も対照的な。
お互いそれに気を払う様子はなく、視線は真っ直ぐ前へと向けられている。
「君は、何もしないの?」
「特に指示は受けてませんから」
「雪野さん達とは、少し違うみたいだね」
くすっと笑う小泉。
ケイは表情を崩さず、対岸の見えない湖を見つめ続ける。
「あなたこそ、草薙高校には戻らないんですか。あの退学が茶番だったのは、もう分かってるんですし」
「戻りたい気持は、今でもある。でも、駄目なんだ」
「どうしてこう、先輩達は頑固なのかな」
「塩田君の事?確かに彼も、退学するつもりだったから。屋神さんの事で、峰山さんを恨んでたし」
当時の経緯を知る者しか分からない、状況を省いた台詞。
小泉はそれを補足せず、ケイも求めない。
「君達は、君は学校とやり合う気?」
「こちらに矛先が向けば。それとも、雪野さんがその気になれば」
名前ではなく、苗字での呼称。
あくまでも一線を引く態度。
「僕達を恨んでるのかな?問題を先送りにして、君達に委ねてしまった事に」
「俺はどうとも。管理案でも何でも、好きにやってくれればいいですから。大人しく言う事さえ聞いていれば、ポイントを稼げるんだし」
「生徒の自治を脅かされても?」
「それは俺一人が決める事じゃない。あの学校の生徒全員が考える事です」
「僕もそうは思う。でも引っ張っていく人間が必要なのも確か……。いや、逃げた僕が言う台詞じゃないね」
寂しげに首を振る小泉。
遠い視線は琵琶湖を逸れ、南西へと向けられる。
かつて彼がいた、戦った場所へと。
「ただ辞めていった人達がした事は、無駄じゃない。僕の勝手な思い込みかも知れないけれど。それだけは、断言出来る」
「大人しくしていれば、大企業に問題なく就職出来たのに?」
「正しいとは僕も言わないよ。無駄じゃないって事さ。そうじゃないと、やり切れないし。僕自身はともかくとして、他の人達の事を考えれば」
硬くなる表情。
閉ざされる口元。
重い空気。
空には雲が流れ込み、二人を影の中へと落とす。
「ごめん、つまらない事を言って」
独り言にも似た呟き。
ケイは何も返さず、ただ琵琶湖を見つめ続ける。
「でも僕は」
「辞めない勇気は、その時無かったんですか」
唐突な質問。
かなりぶしつけとも言える。
しかし小泉は気分を害した様子もなく、弱々しく首を振った。
「塩田さんは辞めなかった、屋神さんも。中川さん達も。でもあなたや峰山さんは、辞めた」
「逃げた、と言ってもいいよ。僕達は、確かに辞めた。先輩達の後を追ってね。河合さん、笹島さん、右藤さん、左古さん、上坂さん、下北さん」
風に消えていく幾つもの名前。
下がっていく小泉の顔。
だがすぐ思い直したように、その端正な顔が上げられる。
「ごめん、つまらない事ばかりいって。馬鹿だよね、僕は」
「かも知れませんね」
淡々と告げるケイ。
抗議もせず、寂しげに笑う小泉。
彼はもう一度謝って、ケイに背を向けようとした。
「嫌いじゃないですよ」
「え」
「そういうのは。俺も馬鹿ですし、人の事をとやかく言える立場じゃない」
「君は、遠回しに優しいんだね」
嬉しそうに、ケイへ寄り添う小泉。
それがどうしたのか、彼は微かに顔を赤らめ咳払いをした。
「どうかした?」
「いや。可愛い男の子に縁があると思って」
「君はそういう趣味……、じゃないよね。そうだったら、丹下さんに恨まれる」
「え」
戸惑い気味に下がるケイ。
小泉は楽しげに笑い、彼の腕を取って歩き出した。
「ここは寒いよ。だから戻ろう」
「どこへ」
「仲間の所へさ。会ったばかりでも、その事だけは間違いない」
休日の琵琶湖畔。
対岸の見えない水面は緩やかに波立ち、晴れ渡った空には水鳥が舞っている。
程良い陽気と、風光明媚な景色。
それに沿ったさざ波街道を走る、何台ものバイク。
心地よい風、流れていく景色、直接空気抵抗を受けるバイクならではの爽快感。
決して速度を出さなくとも、自ずと心は弾む。
友と走るなら、なおさらに。
「あれって、デート?」
「あの二人は、よく分からん。誰が見たって、付き合ってるのに」
「謎だね、確かに」
「こっちが恥ずかしいって話さ」
鼻を鳴らし、ホテルの玄関をくぐるケイ。
柳も仕方なさそうに笑い、その隣りに並ぶ。
服装はお互い、ジャケットにジーンズというラフな物。
琵琶湖沿いの道を、軽く走ってきたらしい。
「あ、戻ってきたわね」
「どうかしたの。今日は、休みだよ」
腰を引く柳。
ロビー、といっても受付の前にソファーが幾つかある程度の物だが、で待ち構えていた白鳥はたおやかに手を振り彼等を招き寄せた。
「今すぐ働けとは言わないわ。ただ、明日から動くわよ」
「もっと、手っ取り早くやればいいのに」
「言ったでしょ。周りと調整するって。沢君や名雲君達の所もめどが立ったっていうから、私達もそろそろね」
「どうせ僕はボディーガードだし、任せます」
気楽な笑顔と欠伸。
森山が悩み、苦しんでいる立場に対しての。
それを意識していない訳はない。
しかし彼が悩んでいる素振りもない。
「柳君は、私達のガードをお願い。浦田君は、雛と岸君達に付いていって。何もしなくていいわ、見ているだけで」
「助かります」
悪びれずに頭を下げるケイ。
柳の顔が何となく不満げになるが、二人ともこれといった反応はしない。
「要は例の首謀者から、周りの人間を引き離すの。その辺のノウハウは岸君が抑えてるから。ただ、笑わないでね」
「はい?」
「明日になったら分かる。さてと、私はカメラの準備でもしようかな」
鼻歌交じりにエレベーターへ消える白鳥。
ケイは怪訝そうに、その背中を眺めた。
「何の話」
「僕からは、何とも。ただ、笑わない方がいいよ」
「よく分からん」
「僕は知らない。でも、カメラは名案だ」
翌日の学校。
廊下を歩く数名の男女。
彼等は突然歩を早め、一人の男子生徒に近付いた。
その彼を伴い、人気のない階段の踊り場へとやってくる彼等。
一人の甘い顔立ちの男性が、警戒気味に階段の上下をチェックする。
「どう、思います?」
儚く、可憐な微笑み。
抱きすくめる間もなく、目の前から消えてしまいそうな。
物憂げな顔が伏せられ、頬に影が落ちる。
この世の闇を、その身に背負うかのように。
「お、俺は、ただ頼まれただけだから。でも、あいつの話も分からなくはないし」
「あの人がどんな考えをお持ちか、ご存じですか?本当に」
「噂は、何となく聞いてる。確かに良い評判は無いけど、言ってる事はまともだし」
「そうですか」
透き通った、磨かれた水晶にも似た声。
それ以上に薄い表情。
その存在が実在するかを、信じられない程の。
「あ、いや。で、でも、俺は絶対に賛成って訳じゃないから。ただ、面白そうだなってくらいで」
「では、私の話をお分かり頂けますか?」
「え、ああ。うん。そうだね、うん。分かると思うよ。い、いえ。分かると思います。お、俺も出来る事があれば、協力します」
ぎこちなく姿勢を正し、敬語になる男子生徒。
女性は優雅な物腰で頭を下げ、傍らに控えていた男性へ視線を向けた。
「我々は時がありません。細かなお話に関しては、後程端末の方へお送り致します」
「あ、はい。その、俺は」
「お嬢様は、あなたのお心に大変感謝をなされています。時があれば、またいずれお会いする機会もあるでしょう」
女性を促し、足早に立ち去る男性。
男子生徒はその場に立ち止まり、階段を下りていく彼等を見送った。
名残惜しさよりも、呆然と。
今の出来事が信じられないとでもいうように。
夢、自分に突然起きた偶然の邂逅。
強い使命感を漂わせながら……。
やはり、人気のない廊下の突き当たり。
そこで、体を折って笑うケイ。
「笑うな」
「じゃあ、何を笑えと。お嬢様」
「それも言うな」
顔を赤くして怒る日向。
薄く引かれたアイライン、艶やかな色のリップ。
金色の髪は微妙にカールされ、二重の青い瞳は燃えるようにケイを捉えている。
服は白のワンピースと、薄い赤のカーティガン。
茶色の革靴は綺麗に磨き込まれていて、裾との間からわずかに覗く白い足を引き立てている。
「化粧して、髪も染めて、カラーコンタクトも入れて」
「説得するには、それなりの演出が必要なの。普段の地味な私では、通用しないじゃない」
「外見だけで騙される奴には有効だよ」
「無論雛……、日向はマインドセットも訓練してる。君に通じるかどうかは、別だが」
メガネを押し上げ、鼻先で笑う岸。
日向が語った彼女自身の身上や置かれている立場は、全て彼が立案した物である。
冷静な状態で聞けばかなり疑わしい内容ではあるが、大きな嘘は小さな嘘を隠すとも言う。
またそうさせるための変装なのだろう。
「それはいいけど、この調子で全校生徒にやる訳じゃないだろ」
「当然、オピニオンリーダー。他人への影響力が強い人間を対象にする。大体全員にやっていたら、こっちが持たないし誰かが気付く」
説明の間にも、端末を操り何かを配信する岸。
その中の一つは、先程の男子生徒に。
彼はきっと、高貴なお嬢様に託された使命を果たすに違いない。
昼休み。
垂れ下がってくる前髪を、面倒げに振り払う日向。
一部はウイッグらしく、地毛とは微妙に色が違う。
「お嬢様が、おにぎりね」
「逃亡中という設定だからな」
「二人とも、うるさい」
迫力に欠ける威嚇。
外見は未だに、金髪碧眼。
何人で、どうして流暢な日本語を操れる設定なのかは分かりにくい。
ちなみに彼等が食事を取っているのは、使われなくなって久しい雰囲気の物置。
ホコリこそ立ってないが、雑然と積まれたがらくたを前にする食事の味は保証出来ない。
「なんか、想像と全然違うな。渡り鳥って、もっと優雅だと思ってた」
曇りきった窓ガラスを、おにぎり片手に見つめるケイ。
それには何の反論もなく、重い食事の時間が進む。
琵琶湖畔の高層リゾートホテル。
その最上階に近い、スカイレストラン。
落ち着いた内装と、ピアノ生演奏。
広い店内で食事を取る者達は少なく、むしろ従業員の方が目立つくらい。
ただそれは人数がであり、彼等の存在は店内の一部と思えるくらい目立たない。
同じ店内にある個室。
無論スペースは限られているが眺めは申し分なく、調度品はかなりの格式と豪華さを感じさせる。
ワインを注ぎ終えたソムリエが一礼して去っていくと、室内には4人だけが残された。
テーブルの中央に置かれる、燭台に乗った数本のキャンドル。
その揺らめき越しに、優雅な仕草でグラスを掲げる二人の女性。
服装は大人しめな紺のスーツ、耳元のイヤリングが照明を受けて微妙に輝く。
彼女達の反対側に座っていたやはりスーツ姿の、中年男性二人。
彼等はややぎこちなくグラスを動かし、申し訳程度に口を付けた。
「それで、早速本題なんですが」
滑らかな口調で切り出す、長い髪の女性。
表情にはゆとりある笑顔が浮かび、柔らかく小首が傾げられる。
「事前のお話通り、結果については我々にお任せ下さい」
「そ、それは勿論」
「ただし」
突然の低い声。
女性はすぐに声の調子を戻し、青い顔をした男性達に微笑みかけた。
照明に輝くナイフの切っ先を、彼等に向けて。
「私達に報告されてない事実が発覚した場合は、契約不履行としてそれなりの対応を致します」
「は、はい」
うわずる声、頬を伝う汗。
グラスを持つ手は震え、半透明の表面が激しく波立つ。
「わ、我々は、お先に失礼します。し、仕事が立て込んでまして」
「お、お二人はお食事をお楽しみ下さい。も、勿論支払いは、我々の方で」
「申し訳ございません。理事長、校長。お見送り致します」
「い、いえ。結構です。そ、それでは失礼します」
挨拶もそこそこに立ち去った彼等を念頭から外したかのように、くだけた笑顔を浮かべる二人。
彼等と入れ替わりに前菜が運ばれ、ウェイターが恭しく去っていく。
「あなたも、普段からそのくらい喋ってよね」
「知らない」
生ハムと香草のサラダにドレッシングを絡め、器用に口へ運ぶ伊藤。
白鳥は仕方なさそうに笑い、ワイングラスを越しに景色を眺めた。
「たまには、こういう食事もいいわね」
「みんなは、何を食べてる?」
「さあ。お金はあるんだし、美味しい物を食べてるじゃないの」
「そうね」
重なるグラス。
浮かぶ微笑み。
優雅な、午後の一時。
渡り鳥としての姿。
その下でもがく者達とは違う。