エピソード(外伝) 15-4 ~沢メイン・長野・フリーガーディアンズ編~
雪
15-4
年の初め。
厳かさと、華やいだ雰囲気が全てを包む時期。
三が日を過ぎてもすぐには薄まらず、人はどこか浮ついた様子で物事をこなしている。
だが何事にも例外はあり、全てがその通りに進むとは限らない。
人の心というものは、特に。
寒冷地にしては短い冬休みが終わり、学校に生徒達が登校する。
その分春休みを長く取っているのだが、生徒達にとってはどれほどの違いもない。
久し振りの顔、嬉しそうな挨拶、あちこちで咲く会話の華。
休み明けに相応しい、暖かなムード。
降りしきる雪は厚い壁に隔絶され、それを打ち破る事はない。
「……嬉しそうだね」
「そうかな」
笑顔を隠さず、そう答える少年。
沢は軽くあくびをして、背もたれに体を預けた。
「彼女でも出来た?」
「そういう事を聞く態度じゃないな」
「寝不足なんだ」
何となくやつれ気味の顔。
ただそれを厭う様子はなく、また徹夜でも平気な年だろう。
「ちょっと、知り合いがね」
「入院していた、ガーディアンの関係者?」
「ああ」
心からの、澄んだ笑顔。
デスクの引き出しから取り出された写真が、沢の前へと置かれる。
「俺は揉め出してからガーディアンになったんだけど、それを誘ってくれた人がいたんだ」
「その人が戻ってくるのかい」
「前からやってる人だから、俺よりは色々と詳しい。後は、その人と頑張って」
微かに、そうとは本人が気付かない程度に曇る沢の顔。
少年は俯き気味に、頬の辺りに触れる。
「勿論、俺もガーディアンは辞めないけどさ」
「助かる」
「もう少し、感情を込めて言ってくれないかな」
肩をつつかれ、沢は面倒げに手を振る。
「分かったから、その人を出迎えに行ったら」
「いつ来るか、教えてくれないんだ。今日来るとだけ、連絡があって」
「どういう人かな」
「さっきも言ったように。その人がいたから、俺はガーディアンになった。そんな人だよ」
沢達がそんな会話が交わしていた頃。
体育館前の雪掻きをする男女もいた。
「何で俺が」
「契約だから、仕方ないって」
「寒いのよ」
「猫が見たい」
文句を言いつつ、雪掻きをするワイルドギースの面々。
最近体育館の使用率の高い彼等に、誰かが鈴を付けたらしい。
2週間近い休み。
ドアの周りを完全に閉ざす雪。
モーターで動く雪掻き機があるので作業は早いが、降りしきる雪や凍り付くような風を遮る事は敵わない。
「これは、俺達の仕事じゃないだろ」
「後で、ジェットスキー貸してくれるって」
「あ、それはいいな。早くやろうぜ」
腰の辺りまである雪を掻いていく名雲。
排出口から吹き出した雪が白い空へ舞い上がり、白一面のグランドへと降り注ぐ。
頭までフードを被った舞地と池上は、軒に下がるつららを警棒で叩き落としている。
「ちょっと、もったいないわね」
「絵でも描けば」
「手が動かないわよ」
「じゃあ、止めれば」
訳の分からない会話。
ただ二人とも楽しそうではあり、舞地も表情が軟らかい。
あくまでも知っている人から見ればで、初対面の人間からすれば無愛想と思われても仕方ない。
凍り付いたドアの取っ手を警棒で叩いていた柳が、それを腰にしまい手をオーバーの中へと入れる。
降りしきる雪と、凍えるような風。
名雲達は資材を片付けに倉庫へ向かっていて、彼は一人やり残しをチェックしている。
全ての音を消していく雪。
それまでの喧騒が嘘のような、耳が痛くなる程の静けさ。
心が、締め付けられる程の。
首をすくめ、灰色の空を見上げる柳。
名雲達の前では見せなかった、儚い瞳の色。
気弱になりかけた顔は、オーバーから出てきた濃茶の手袋を見て切り替わる。
誇らしさと、力強さを持って。
再び伸ばされる警棒。
ドアを叩き出した柳だったが、その視線が横へと流れていく。
教棟へと続く、渡り廊下。
そこを戻ってくる名雲達。
彼等にではなく。
反対側。
今まで彼等が掻いた雪の跡を歩いてくる、数名の男女。
そちらに学内の施設はない。
つまり彼等は、学外から来たのだと推測させられる。
「……見慣れない顔だな」
長身の、甘い顔の男が柳を見下ろす。
ブルゾンに、下は学生服らしい服装。
小さいとはいえ、500名は下らない生徒数。
その全員を把握していなければ出てこない発言。
柳は虫も殺せないような笑顔で、こくりと頷いた。
「年末に引っ越してきたんで」
「転校生。聞いてるか?」
「いえ、俺はちょっと」
「調べておけ」
前を向いたまま後ろに控えていた男に指示を出す。
それを当然とも思わない、自然な態度。
彼以外の生徒も、異を唱える様子はない。
柳もまた。
「誰に言われて、これをやった」
「ガーディアンの人達」
「その関係は」
「一応、僕もガーディアンだから」
華奢な体、女の子と見まがうような繊細な顔。
警棒こそ持っている物の、着ぶくれした幼い子供にしか見えていないだろう。
不意に伸びる、男の拳。
棒立ちのまま、身動き一つしない柳。
だがそれが、彼の顔を捉える事はない。
「何してんだ」
振り上げたかかとで、拳を受け止める名雲。
滑りやすい足場を気にもせず、その足をゆっくりと雪の中へ降ろす。
「ケンカ売ってるのか」
ダウンジャケットのポケットに手を入れ、顎を引く名雲。
吹き付ける寒風とは比べ物にならない、叩き付けるような威圧感。
肉食獣にも似た、凄惨な眼差し。
男達の取り巻きは全員身構え、腰や胸元へ手を伸ばす。
「お前も、ガーディアンか」
「さあな。ほら、こいよ」
無造作に顔を突き出す名雲。
首を振り、それを否定する男。
張りつめていた空気が途切れ、誰かがため息を漏らす。
舞い散る雪。
白い壁となり、男の姿が消える。
それを突き破り、真下からブーツが飛んでくる。
「不意打ちが趣味か」
ポケットに手を入れたまま、鼻で笑う名雲。
彼が動いた形跡は無い。
しかし男の前蹴りは、難なく止められている。
軒先に残っていたつららを間に挟んだ、柳のかかとで。
辺りが雪で覆われ、それを見た者はいないだろう。
雪が蹴られた瞬間飛び上がり、警棒でつららを落とし様足で捉えて、さらに前蹴りへ併せた動きを。
いや。それを見たとしても、信じられるかどうか。
類い希なる運動能力と、咄嗟の判断。
今まで子供のように笑っていた着ぶくれの少年が、そんな真似をしたなどと。
「ちっ」
顔色を変え、名雲達を避けて歩いていく男。
取り巻きの連中も、怯えながら後に続く。
「お前も、ここの生徒か」
答えは返らない。
降りしきる雪の中に消える背中だけを残して。
「何だ、あいつらは」
「さあ。この前の、変な連中の仲間じゃないの」
「あり得るわね。ガーディアンに入院者が出たなら、やり合ってた相手にもいたでしょうし」
苛立ち気味の視線を、男達が消えた方向へ向ける池上。
「どうした」
「まだ20人しかガーディアンはいないのよ。どうやら、これ以上はなり手がないみたい」
「心配するな。あいつらは、20人でも十分やれる。なあ、柳」
「当然」
拳を重ねる二人。
池上は呆れ気味に笑い、フードに積もった雪を払った。
「私達がいれば、の話じゃなくて?」
「確かに実力ではまだまだだ。でも、ここが違うさ」
拳で胸を叩く仕草。
傭兵の挨拶にも似た。
「格好付けて。後で、泣きついてきても知らないわよ」
「ここで引くような連中なら、俺達に付いてきてない」
「僕も、そう思う。午後からは使えそうだし、来てもらったら」
ドアに張り付いていた雪が、柳の前蹴りで剥ぎ落とされる。
これからの行く末を決める場の入り口を開くように……。
暖房の入った、体育館。
ジャージ姿のガーディアンと、私服の名雲達。
今日は舞地と池上も、その隣りに立っている。
「練習はしてたか」
「毎日チェックが入れば、誰だってやるわよ」
「チェック?」
「そちらの、美人のお姉さんが」
池上に集まる視線。
彼女は顎に指を添え、軽くしなを作った。
「嫌な言い方しないで。今何してるかなって、連絡取っただけじゃない」
「毎日、同じ時間に、三回ずつ。借金の取り立てかと思った」
「変な年賀状も来るし」
誰かが持ってきたらしく、それが振られる。
こたつの隅で丸くなる猫と、短い文章。
詩のようにも読める。
降る雪と、いつか訪れる春を読んだ詩。
誰の絵で誰の文章かは、よく分かってないようだが。
「じゃあ、軽くやってみるか。いつも通りストレッチから」
「どうです」
遠慮気味に、名雲の隣へとやってくる少年。
彼の目の前。
ペアになり、プロテクターやグローブを付けて殴り合う男女。
激しい気合いと、力強い攻防。
男対男、女対女という組み合わせだけではなく、男女の戦いもある。
それに対する不満や注文は聞かれない。
目の前の人間と戦うという、明確な意志を迸らせるガーディアン達。
少年は満足げに頷き、名雲に一礼した。
「ありがとうございます」
「まだまだだ。気合いがあればいいってものじゃない」
「前に比べれば、別人ですよ」
「同じ人間さ。犬は犬で、狼になる訳じゃない。その逆はあるにしても」
冗談っぽい口調。
笑い掛けた少年だったが、その表情がさらに明るくある。
彼が入ってきたドア。
そこをくぐり、数名の男女がこちらへとやってくる。
少年だけではなく、スパーをやっていたガーディアン達も動きを止め彼等へと向き直る。
何人かは、怪訝な顔をしているが。
「お久し振りです」
懐かしさと、敬意の入り交じった態度。
両手で手を取る少年。
小さく頷いた男は彼の肩に触れ、顎をガーディアン達へと向けた。
「よく訓練してあるな」
「俺じゃなくて、彼等が」
「……お前」
「よう」
腕を組み、あごを反らす名雲。
柳は相変わらず、ニコニコと笑っている。
抜き身の刃を、その奥に隠しているようにも見えるが。
「こいつも、元ガーディアンか。お前と対立してた」
「い、いえ」
困惑の表情。
男は突然笑い出し、彼の肩を抱いた。
「分かってないな。俺は、こいつの先輩だ。ガーディアンに引き込んだ責任者とでもいうのかな」
「何」
「つまり、ガーディアン全体のトップって訳だ。元々、こいつの味方さ」
その言葉に間違いがないのは、先程来の少年の態度を見ていれば明らかだ。
しかし柳や名雲に仕掛けた動きを見ている限りは、とてもそうとは思えない。
男もそれを読み取ったのか、さらに笑みを深くする。
「確かに俺は、あいつらとやり合ってた。でも、病院で思ったんだ。同じ学校の生徒同士で、揉めてても仕方ない。お互いの言い分を聞いて、協調してやっていこうって」
滑らかな口調。
前もって用意されていたような。
少年の困惑は増し、男の笑みは崩れ気味となる。
「俺がガーディアンのトップだから、ここにいるのは全員俺の部下になる。当然、お前もな」
「え?」
「何だ、違うのか」
肩を抱かれ、顔を覗き込まれる少年。
信頼し、尊敬していた人間。
その変容。
だが、現実。
「要は、入院中に寝返ったんだろ」
「何」
「違うのか。金、それとも女。少ない手当で体を張るなんて、馬鹿らしいからな。だったら好きなように暴れて、金を巻き上げた方がいい」
「……止めて下さい」
俯いた顔から漏れる、抑えた声。
名雲の前に出た少年は、固めた拳を体に押し付けて男を見上げた。
「そうだよな。お前は、俺の後輩なんだから」
「……本気、ですか」
「本気も何も、考えるまでもないだろ。お前、頭大丈夫か」
体育館に響く、男の高笑い。
それに追従する、周りの取り巻き。
「という訳だ。鍛えてくれて、助かったぜ。後は俺達に任せて、どこにでも行け」
男の顎を、正拳が捉える。
床へ崩れる長身の体。
それを見下ろす、翳った眼差し。
「……俺に、逆らう気か」
「今なら、まだ間に合います」
「馬鹿が。おい、こいつを捕まえろっ」
ガーディアンへ飛ぶ、激しい口調。
誰でもない、彼等のトップからの命令。
しかし、動く者はいない。
動揺すら走らない。
整然と並び、ただ一人の男を見据える。
拳を押さえ、物悲しい顔をする男を。
「その程度の人数で逆らう気か。元のガーディアンと仲間を合わせれば、お前らの倍は行く。どっちが強いかも、分かってるだろ」
恫喝する男。
だがそれは、静まりかえった体育館に虚しく木霊する。
「こいつらを期待しても無駄だぞ。その内、この学校からいなくなるんだからな。考え直すのは、お前達なんだ」
「無理な物は無理だよ」
ガーディアンの誰かが、小声でささやく。
すぐに上がる、同意の声。
全員がはっきりと、力強く頷く。
「なら、いい。ここで全員入院させて、元の連中をガーディアンに戻すから。自業自得って奴だな」
名雲達を警戒しつつ、ガーディアンへ走る男達。
腰や胸元から抜かれる警棒。
人数としてはガーディアン達の方が多い。
だが全員が素手で、実戦経験は皆無に等しい。
対して男達は、かなり堂に入った動き。
ましてそれを命じた男は、彼等を率い守ってきた人物。
それが、目の前に迫る。
体を横に開き警棒を避け、腕を横から押す。
単純な、しかし理にかなった動き。
振り下ろした勢いのまま床へ転がる男達。
油断、過信、侮り。
だが全ては、その結果に尽きる。
ガーディアン達は自らの足で立ち、男達は床に這うという。
「ちっ」
舌を鳴らし、腰の警棒を抜く男。
鋭い出足。
彼に背を向け、腕に警棒を受けたガーディアンを介抱しているジャージ姿の男子生徒。
他のガーディアンが止めに入るより早く、無防備な背中に警棒が突きつけられる。
「な、に」
途切れた言葉。
鼻先をかすめ、天井まで届こうかという程飛んでいく警棒。
「仮にも一度は、みんなを率いたんだろ。それを思い出せとは言わないが、最低限の礼儀は守れ」
「説教か。……大体、誰だお前は」
「風邪で休んでる子がいてね。その代理さ」
ジャージ姿の沢は軽く前髪に触れ、男を見据えた。
剣呑な、牙を剥いた肉食獣の顔で。
「もう一度入院するか。二度とふざけた真似は止めるか。今すぐ選べ」
喉元に突きつけられた短剣のような台詞。
答えによってはそれが、間違いなくその喉を切り裂くだろう。
「仲間がどれだけいても、それに対応出来るだけの術はある。親の口出しも、無駄だと思え。でないと次は、本当に身の破滅につながる」
地獄の縁に立つ、孤高の戦士だろうか。
その手が動けば全ては崩れ、底すら見えない闇へと落とされる。
馬鹿げた例え、絵空事。
だがその瞳に見据えられた者にとって、それは現実に他ならない。
「……分かった」
憔悴しきった顔でそう呟き、よろめきながら歩き出す男。
生気を失い、思考すら消えている佇まい。
他の者も捨て台詞すら残さず、その後に続く。
開け放たれたドア。
吹き込む雪。
身も心も凍らせるような、激しい風。
そこへ消えていく男達。
「……俺は」
拳を押さえ、呻くように呟く少年。
沢はその肩に触れ、首を振った。
「あの人は、俺を誘ってくれて。何でも教えてくれて。学校の事を、何度も話してくれたのに。入院して悪いって、後は頼むって。でも、どうして」
「僕には、分からない」
「嘘だよ。こういう事には慣れているって、前言ってただろ。裏切られる事には。……でも俺も、あの人を裏切った訳か」
自嘲ともつかない、翳りを帯びた笑顔。
だがそれは、瞬時に払われる。
「……まだ契約期間はある。訓練は、続けてくれるよな。学校との交渉も」
「当然だ」
「分かった。俺はそういう柄じゃないって、今でも思ってるけど。ここで逃げる訳にもいかない。……あの人のためにも」
その言葉が適切かどうか。
彼自身、判断は付いていないだろう。
だがそう口にしたのは現実で、取り消される事もない。
沢が否定する事も。
「済みませんが、訓練の続きをお願いします。俺は、少し」
「後は任せろ。沢」
「いえ。一人で大丈夫ですから」
弱々しく微笑み、雪の吹きすさぶドアを出ていく少年。
それを見送った沢の隣りに、舞地が立つ。
「次の仕事は」
「勿論ある」
「そう」
「何が言いたい」
舞地は無言で離れ、暇そうに壁へともたれた。
「大変ね、フリーガーディアンも。自分で赴任先は選べないんでしょ」
「意見は考慮される」
「考慮、か。いっそ辞めて、好き勝手にしたら」
冗談っぽい口調。
訓練を受けているガーディアン達を見つめる眼差しは、春の空のように澄んでいる。
「話としては、聞いておく」
「それは、君の自由よ。沢君がいないと、こっちに仕事が回ってきて助かるんだけどな」
「なるほど」
苦笑する沢。
完全な個人同士の契約である池上達と、教育庁から派遣される沢。
能力の比較はともかくとして、沢は公務員という性質上完全に無料である。
その分赴任には様々な条件が伴うが、金銭的な負担を軽減したい学校や生徒組織からフリーガーディアンを求める声は大きい。
「池上さんは、どこかの学校に残ろうと思わないのかな」
「そう出来たらいいとは思うけど。なかなか、歓迎してくれる所が無くて。所詮は傭兵って見られながら過ごすのも、面白くないし」
気だるげにため息を付き、緩くウェーブの掛かった前髪を触れる。
「結局は、根無し草なのよ」
「……草薙高校は、悪くない」
「伊達君がいる所でしょ」
淀みなく、自分から指摘する池上。
沢は目線で応え、高い位置にある窓を見上げた。
「面白い所だった。面白い人がいる、と言った方がいいのかな」
「魔女とか、忍者とか。本当に、いるの?」
「僕はこの目で見て、話もした。そうやって呼ばれていない人間にも、すごい人がたくさんいたよ」
ここでは無い場所に思いを馳せる、遠い眼差し。
しかし窓には雪が吹き付け、彼に現実を突きつけている。
「あそこは傭兵の入り込む隙がないから、逆に偏見もない」
「だから私も、受け入れてくれるって?じゃあ、自分はどうしてここにいるの」
「仕事だから」
「戻れるなら、戻りたい?」
何気ない問い掛け。
答えは返らない。
池上もそれは分かっているのか。
それとも、答えを分かっているのか。
二人はただ、雪の吹き付ける窓を見続けていた……。
体育館から教棟へと続く渡り廊下。
「こんにちは」
朗らかな、吹き付ける雪をも溶かすような声。
沢は軽く手を挙げ、それに応えた。
「元気ないですね」
「僕は、そうでもない」
「ああ。兄さんは、何か変な顔してました」
事情を知らないのか、少女は不思議そうに小首を傾げる。
「ちょっと、トラブルがあったんだ」
「先輩が来てたんですよね。もしかして、それですか」
「鋭いな」
簡単に説明する沢。
少女は微かに顔を曇らせ、小走りに教棟の中へと駆け込んだ。
静かな廊下。
生徒や教職員の姿はなく、沢と少女。
彼等の落とした雪が、辺りに散っている。
「人を、信じては駄目なんでしょうか」
かすれ、震える声。
儚い、すがるような眼差し。
一瞬躊躇の表情を浮かべる沢。
窓を叩く雪。
溶けていく雪。
微かに口元が緩む。
「……そうは思わないよ」
「本当に?」
希望を込めた、願いを刻んだ顔。
沢は力強く頷き、自分の胸元を拳で叩いた。
「少なくとも、僕が出会った人達は」
「舞地さんや池上さんも?」
「ああ」
短く、重い応え。
笑いかけた少女の顔が、再び曇り出す。
「あ、あの」
「勿論、この学校で出会った人達も」
即座に付け加える沢。
晴れ渡る、少女の顔。
紅潮する頬、震える拳。
「私も、そう思います。みんなに出会えて、よかったと思ってます」
「僕みたいな、例外もいるけどね」
「何ですか、それ」
くすくす笑う少女。
少し後悔気味な沢。
窓を叩く雪。
一面の白いグラウンド。
真冬そのものの光景。
壁一枚にへだたれた、春の雰囲気とは違う……。
民宿前の、駐車スペース。
今は民宿の軽トラやワンボックス以外に、赤のRV車が止まっている。
「……いつから、そこにいる」
「さあ」
大きな雪だるまの隣り。
コートを身にまとい、立ち尽くす沢。
日はすでに落ち、彼の肩には雪が積もっている。
民宿から漏れる明かりが、それを銀色に輝かせる。
「これは」
沈んだ声で尋ねる少年。
沢は雪だるまの頭に乗っている、赤いバケツに触れた。
「柳君。どうしても作りたいって言うから」
「子供だな」
「大差ないよ、僕達と」
危ぶむような視線。
少年は首を振り、軒先にしゃがんでジェットスキーを脱いだ。
「車は」
「たまには、こういうので帰りたい時もある」
「いっそ、歩いたらどうだい」
冗談っぽい言い方。
鼻を鳴らし、少年は玄関へと入っていく。
「……ありがとう」
一言がささやかれ、ドアが閉まる。
沢は振り返りもせず、軒下に入った。
その傍らにある、小さな雪だるま。
「子供、か」
可愛らしい、女の子を思わせる飾り付け。
目にはピンクのビーズがはめられている。
「本当に」
ポケットからピンクのビーズを取り出し、宙に浮かせて掴む沢。
子供らしい、はにかんだ笑顔と共に……。
「了解して頂けましたか」
「し、しかし」
額に浮かぶ汗を、グレーのハンカチで拭うスーツ姿の男性。
本人は平静を装おうとしているようだが、表情は硬く視線は定まらない。
沢は気にした様子もなく足を組み替え、応接セットのテーブルに書類を落とした。
そこに載っている、数名の生徒のプロフィールと家族構成。
「学校を、正常な状態へ戻すだけですよ。一部の生徒だけが力を持つのではなく、誰もが平等でありまた発言出来るという」
「お、仰られる事は重々承知しているのですが。いかんせん」
「議員と、地元企業の会社社長でしたか。そちらへは、中部庁を通じて話をしておきます。学校の私物化は最優先で対応すべき事態であると、教育庁の指針もあります。刑期と追徴金を考えれば、向こうから手を引きますよ」
「は、はあ」
大きく震える体。
刑期という言葉に反応したらしい。
「勿論協力者も、厳罰に罰せられます。公務員の場合は懲戒免職という、付帯も付きますが」
「い、いや。その、私は」
「報告するしないは、僕の裁量に掛かっています。校長」
薄く微笑みかける沢。
喉を鳴らし、引き込まれるように頷く男性。
「生徒会への予算については、そちらでお願いします。ただ、特定の組織が途出しないよう話し合ってくれると嬉しいですね」
「は、はい。それは、勿論」
「後は、退学者や停学中の者への監視。分かってるでしょうが、彼等はあなた達も復讐の対象にする可能性がありますから」
どう答えればいいか、迷うような表情。
だがそれが沢の誘いではないと判断したのか、微かに首を縦に振った。
「生徒の自警組織も形になりつつあります。ただ状況によっては、警備会社との併用も考えておいて下さい」
「しかし、生徒の自治は」
「まずは、生徒の安全です。警備会社が導入されて自治が無くなるとしても、安全は保たれますから」
厳しい、男性までもがたじろぐような台詞。
それは、生徒達の気持を考慮した発言とは思いにくい。
しかし、後ろめたく感じる様子はない。
落ち着き払った、感情を交えない表情。
沢義人ではなく。
フリーガーディアンとしての顔。
「わ、分かりました。関係職員を集めて、今日中にも会合を開きます」
気圧されたように申し出る男性。
沢は軽く会釈をして、席を立った。
「ご承知のように僕はいずれここを去りますが、アフターケアは万全に行いますのでご心配なく」
皮肉とも、警告とも取れる言葉。
男性の額から再び浮き出る、大量の汗。
「では、後はお願いします」
「は、はい。お疲れさまでした」
「あなたも」
ドアの向こうでもう一度会釈をして、足音すらさせず消える沢。
男性はソファーに大きく崩れ、その目を閉じた。
今の悪夢から逃れるように。
抗う事の出来ない、紛れもない現実から……。
「よう。恐喝は終わったか」
「人聞きが悪いな。校長と、話をしただけだ」
「あ、そう」
くくっと笑い、雑誌を床へ置く名雲。
探るような、不安げな視線を沢へと向け。
「どうかした」
「お前が、ここに残るとか言い出しそうでな」
「池上さんは、そうしてくれると助かるって。仕事が増えるから」
「本当に、残れると思ってるか?ここの連中が受け入れるって事じゃなくて、お前はここで我慢出来るか?」
白一色の、窓の外。
雪の重さでたわむ枝。
重苦しい、灰色の空。
一歩外に出るのも気後れするような光景。
閉ざされた、狭い土地。
長年住み続けた年輩者ならともかく、若者にとっては辛いだろう。
まして、ここ以外の土地を知る者に取っては。
「刺激が足りないとでも?」
「気の合う奴がいるだけで、お前は平気か」
「殺伐とした生き方をするよりは、何倍もましだろ」
「そうかもな。お前がどうしようと、俺には関係ないし。楽隠居でもしててくれ」
「まだ、残ると決めた訳じゃない」
憮然とする沢。
彼なりに、引っかかる部分はあるのだろう。
「好きにしろ。俺は風呂入ってくる」
タオルを肩に掛け、鼻歌交じりに部屋を出ていく名雲。
その背中を、何となく恨みがましく見つめる視線。
「……どうかした?」
名雲と入れ替わりに、赤ら顔で入ってくる少年。
「いや。何でもない」
彼にしてはぎこちない態度。
怪訝そうにそれを見つめ、少年はその場にしゃがみ込んだ。
「調子は」
「僕が?別に」
「そう」
気だるげな返事。
お互い頼りない顔で、ため息を付く。
顔を見合わせる二人。
「俺はともかく、自分は」
「ちょっとね。気が重くなって」
「よく分からないな」
難しい顔で、畳を見つめる沢。
少年は肩をすくめ、持ってきていたペットボトルを傾けた。
「……ここにいて、楽しいかな」
「さあ。考えた事もない」
「そうだよね」
「本当に、大丈夫か?」
不安げな問い掛けに、沢は曖昧に首を振る。
躊躇の表情。
その口が、ためらい気味に開かれる。
「僕がここに残ると言ったら、どう思う」
「どう思うって」
笑おうとした少年。
だが笑顔は、消えていく。
沢の、不安げな眼差しを受けて。
「俺よりも、自分はどうなんだ。こんな田舎に住むなんて」
「名雲君も、同じ事を言ってた」
「誰だっていうさ。疲れてるから、そんな事思うんだよ。今日は、早く寝た方がいい」
沢を連れ出し、隣の部屋に布団を敷く少年。
そしてむずる彼を、強引にその中へ押し込め、照明を消す。
「また明日」
「いや、僕の話を」
「明日聞くよ。それじゃ」
閉じられるふすま。
遠ざかる足音。
柳の声が、どこか遠くで聞こえている。
布団の中で小さく息を漏らし、体の向きを変える沢。
天井を見つめる、細い瞳。
自問自答。
悩み、焦り、不安。
普通の。
高校生としての感情。
夜が更けるまで、寝返りは何度無く繰り返された……。
早朝。
珍しく晴れ渡った空。
カーテンの隙間から差し込む、白い日差し。
手を額へかざし、それを避ける沢。
辛そうな動き。
寝付いたのが、かなり遅かったようだ。
「お早うございます」
元気な、はち切れんばかりの挨拶。
枕が激しく揺らされ、否応なく叩き起こされる。
「え?」
「朝ですよ」
「あ、ああ」
枕元の時計に手を伸ばし、すぐに顔を上げる。
しかし、言葉は出てこない。
「田舎の朝は早いんです」
朗らかに言い放ち、布団も剥ぐ少女。
沢はのろのろと上体を起こし、時計を指差した。
「まずは、時間から慣れていかないと」
「慣れるって、何を」
「体を。ほら、玄関の雪掻きして来て下さい」
渡されるスコップとパーカー。
それを着込み、小首を傾げる沢。
「どうして、僕が」
「本当に。じゃ、お願いしますね」
手際よく布団を畳む少女。
窓が開けられ、よく冷えた風が部屋に吹き込んでくる。
真冬の晴天。
冷たい、しかし心地いい空気が。
「丁稚?」
うしゃうしゃ笑う池上。
舞地は眠そうに、その隣で壁にもたれている。
「好きでやってる訳じゃない」
「ずっといるのなら、色々仕事と覚えないとね。フリーガーディアンを辞めたら、収入も無くなるんだし」
「下らない」
ようやく雪を掻き終え、額の汗を拭う沢。
辺りの雪同様、きらめく汗。
清々しい、澄んだ表情。
「はい、次は買い物です」
「え?」
「朝食のパンと、タマゴに野菜。トラック出して下さいね」
「あ、ああ」
カードキーを渡され、釈然としない面持ちで軽トラへ向かう。
少女はリュックを背負い、その後に続く。
「私、クロワッサンね」
「あんパン」
「分かりました。すぐ戻りますから」
笑顔で手を振り、助手席へ乗り込む少女。
トラックはその場で切り返し、雪の積もった山道を下っていく。
何となく、夢から覚めていない顔をする沢と共に。
「大丈夫、あの子」
「あんパンさえ届けば、私は気にならない」
「冷たい子ね。あ、牛乳頼めばよかった」
大差ない池上。
それでも見送りに出た二人は大きな雪だるまと肩を並べながら、山道を見守り続けていた。
民宿の厨房。
エプロンに、バンダナ姿の沢。
手にはナイフを持っていて、器用にじゃがいもの皮を剥いている。
「残ると言ったのはこの学校にという意味で、別に旅館へ」
「そうですね。えーと、後はお風呂洗っておいて下さい」
いい加減に返事をして、鍋の火を弱める少女。
沢はため息を付き、じゃがいもとエプロンを置いた。
「分かった」
「女風呂のボディーソープら切れてましたから、それもお願いします」
「ああ」
背を丸め、トボトボと歩いていく男。
少女はそれを見る事もなく、鍋から立ち上る白い湯気に頬を緩めていた。
デッキブラシがぬめった床を滑り、泡がお湯で流されていく。
「何してるんだ」
「丁稚奉公をね」
「……ああ、昨日の話」
今思い出したという顔。
沢は鼻を鳴らし、洗い場の前にあるボトルにボディーソープを補充していく。
「そこまでしなくても」
「やれと言われたら、仕方ない」
「人手が足りないんだ。確かに、バイトがいると助かるな」
「教育庁からいくらもらってるか、教えてやりたいよ」
体を起こし、腰を叩く沢。
大した事をやった訳ではないのだが、何となく疲れ気味である。
慣れない仕事、というのが関係しているのかも知れない。
「天気がいい内に、布団を干したいんだけど」
「何でもやるよ。いっそ、背中でも流そうか」
ちょっとした、他愛もない会話。
大笑いではない、微かな笑顔。
ささやかな安らぎ。
理想。
人が羨む事とは離れた世界。
言うならば取るに足らない事。
だがそれが、無意味だとは言い切れない。
人の心に伝わる物がある限りは。
何の意味もない、平凡な日常。
淡々と流れ、繰り返される出来事。
だからこそ価値のある、時の中。
心安らかで、何の憂いも無いからこそ味わえる気持。
それを人は、幸せと呼ぶ。