エピソード(外伝) 15-3 ~沢メイン・長野・フリーガーディアンズ編~
雪
15-3
雪の沈み込む乾いた音。
景色を無くす、激しい雪。
校舎の玄関先で、体に積もった雪を振り払う沢。
「寒いね」
「俺は、もうこれが普通だから」
「なるほど」
手袋を外し、それをジャケットのポケットへと入れる。
言葉の割に表情は穏やかで、体が震えている様子はない。
「ガーディアンの訓練状況は」
「怪我人が多くて、リタイアする人も」
「そう」
「だからこそ、残った人間は有望だけど」
やや皮肉めいた笑み。
それを聞いた沢はブーツのかかとに付いた雪を器用に落とし、廊下を歩いていく。
「連中は、意外と大人しいね」
「多分、通達が来てるんだと思う」
「通達?」
「ボスからの」
周りに人はいないが、それでも沢の耳元でささやく少年。
沢も周囲に視線を配りつつ、歩き続ける。
「君達がいて、ガーディアンも鍛えられて。うかつな事をすれば、自分達は完全に追い出される」
「向こうには、そういう先読みの出来る人間がいる訳か。それとも、君の推測かい」
「さて。俺は、考えるのが苦手なんで」
「よく言うよ」
気さくな口調。
穏やかな表情。
ただ視線は絶えず、周囲へと向けられる。
「そのボスは、議員の息子か?それとも、退学した生徒かな」
「俺もよくは分からないけど、ただ……」
「寒いな」
上半身裸で、そう挨拶してくる男。
「なんだい、それは」
「いきなり木の上から雪が、どさって。名雲さん、雪だるまみたいだった」
大笑いする柳。
その手が真っ赤なのは、冷たさを気にする事なく名雲を助けたからだろう。
寒がりで、外に出る事すら嫌がる彼が。
「舞地さん達は」
「猫と遊んでたぞ」
テーブルを指差す名雲。
「休暇届」と手書きされたメモ用紙が、だるまストーブの熱風に揺れている。
「どうしようもないな。メンバーの追加と、学校との交渉は」
「お任せしますってさ。元々はお前の仕事なんだし、自分でやってくれ」
「契約してた気もするけど。じゃあ、今日は僕が代わる。訓練は、やってくれるんだろうね」
「人数が減った分、俺達は楽になった。動け奴だけが残ったしな」
満足げな表情。
頷き合い、お互いを指差す名雲と柳。
沢は腰にフォルダーを取り付け、ドアへ顎を向けた。
「そっちも、僕が見よう」
「頑張ってくれ。俺は、少し……」
「君達も来るんだ。さあ、行くよ」
マットの敷かれた、トレーニング施設。
暖房は効いていて、高い位置にある窓は内側から雨が降ったようになっている。
「取りあえず、最低限のレベルまでにはなったようだね」
「休日返上でやってるんだ。今日なんて、クリスマス・イブだぜ」
「僕、靴下置いておいた」
真顔でそう語る柳。
その存在を信じているかどうかはともかく、二人を見つめる瞳は妙な迫力がある。
「知るか。サンタと沢で似てるから、こいつに頼め」
「そういう年でもないだろ」
「ささやかですが、パーティでもやります?」
控えめに申し出る少年。
柳はとろけそうな笑みを浮かべ、何度と無く頷いた。
「ケーキは」
「妹が、昨日何かやってました」
「やった」
「いいですよね」
お伺いをたてるような、からかい気味の視線。
沢は鼻で笑い、首を振った。
「僕に聞かないでくれるかな。それより、組織的な動きは訓練した?」
「神様じゃあるまいし、すぐに出来るか。……よーし、終わり」
手を叩き、組み手を終わらせる名雲。
20人に満たないガーディアンは荒い息を整えながら、名雲の前に集まってくる。
「自分でも厳しくやったつもりだが、良く付いてきてくれた」
「はい」
「今年はこれで終わりだ。来年、また会おう」
「クリスマスプレゼントが、トレーニングメニュー?ふざけ過ぎだ」
配布されたプリント用紙へ対し、一斉に上がる怒号と叫び声。
笑顔と、拍手と共に。
「パーティだとか言って、女を口説くなよ。危ないと思った子は、俺の所に来い」
「自分が一番危ないのよ」
嬌声を上げ、名雲を指差す女性達。
名雲は鼻を鳴らし、ドアを指差した。
「分かったから、もう帰れ。来年からは、もっと厳しくいくからな」
「サド。変態」
「早く、どっか行って」
「あーあ、私も転校したい」
口々に漏れる不平不満。
それも遠ざかり、幾つもの足音も消えていく。
「なかなか掌握してるようだね」
「それはお前、人望って奴さ」
「よく言うよ。……踏み込み過ぎって事は」
冷静な、いや怜悧な表情。
名雲は曖昧に首を振り、短い前髪に触れた。
「分からん。それに、今さら距離を置くのはもう無理だ」
「後で辛いよ。どちらになっても」
「言うな。ったく、暴れてた方がよっぽどましだぜ」
途端に苛立つ名雲。
沢は相変わらず醒めた態度で、彼を見つめ続ける。
「何か、問題でも」
静かに尋ねる少年。
しばしの沈黙。
それでも沢は、名雲を捉え続けたまま口を開く。
「人との距離さ」
「この間言っていた、情が移るって事ですか」
「まあね」
「後は、裏切りでしたよね。でもそれは、お互いにですよ」
下がり気味だった柳の顔が上がる。
どこか険しい物腰だった名雲も、少年を何気なく見上げる。
「みんながそう思うように、俺達だってそう思うって事です」
「……ああ」
気の抜けたような声。
不意を付かれた顔付き。
少年は少しの間を置いて、額の辺りに拳を当てた。
「みんなはともかく、普通の生徒からすれば傭兵の存在はやはり怖いし不安です。今は何もしなくても、という意識が働きます。守ってくれた見返りに、報酬以外の何を要求されるのかと」
「俺達は、報酬をもらうだけだ。それ以外は、何もしない。偏見だぜ、そういうのは」
「同じですよ。普通の生徒達も、好きで何もしない訳じゃない。誰もが勇気を持って、体力と技術を持ってる訳じゃない。もしそうだとしたら、ガーディアンなんてどの学校にもいる訳がない」
抑え気味の言葉。
彼の感情や気持は、その奥に閉じこめられている。
「確かにみんなから見たら俺達は頼りなくて、臆病者かも知れない。少しの事で意見を変えて、偏見を持ちやすいとも言える。それは弱くて、駄目な事かも知れない」
「いや、僕達は別に」
「聞いて下さい。でもそんな事で悩まない環境にいたら、僕達は普通の生徒なんですよ。もしトラブルもない、平和な学校だとしたら。トラブルに対して落ち着いて対応出来る事は、決して優れた能力とは思われない。むしろ歌が上手かったり花を育てるのが上手かったりするたわいもない事の方が、価値があると思うんです」
沢をも遮り、彼等の否定に近い事を口にする少年。
しかし怒りで我を忘れている様子はなく、態度は至って冷静だ。
「みんなにとっては取るに足らない、何でもない事かも知れない。多分今度の訓練で脱落していった人達の中に、そういう人間もいるでしょう。あなた達から見れば駄目な人間が」
「だから、そこまでは言ってないだろ」
「……そうですね。済みません、一人で喋ってしまって」
慇懃に頭を下げ、彼は一人一人を見つめていく。
それでも自分の考えは曲げないと言わんばかりに。
「裏切りたくて裏切る訳じゃない人もいると思います。深い事情があって、やむを得ない場合だって。俺達普通の人間には、自分の信念を貫くより大切な事だってあるんです」
「なんだい、それは」
「自分自身を守るのは、決して悪い事じゃない。戦う術を持たない人間にとっては、特に。勿論それは許される事じゃないけど、否定も出来ないはずですよ」
「まあね」
曖昧に答える沢。
柳は何か言いたげだが、名雲の制するような視線に不満気味に頷く。
「それに」
「それに?」
「……仲間を助けるためなら、自分の信念なんてどうでもいいと思います。裏切り者と言われても、ずっと罵られる事になっても。下らない考えに固執するよりは、余程」
強い、紛れもない確信を込めて言い切る少年。
名雲は肩をすくめ、鼻で笑った。
「言いたい事は分かった。確かに俺達はちょっと強いからって、思い上がってたのかもな」
「名雲さん」
「だって、そうだろ。鼻先に拳銃を突きつけられて、それでも仲間を裏切らない自信はあるか。その逆でもいい。全員から裏切り者と思われても、それで仲間を救えるとしたらどうする」
「そ、それは」
言葉に詰まる柳。
口元だけでささやかれる、小さな声。
表情は頼りなげで、普段の快活さはわずかにも見られない。
「君の言いたい事は、よく分かった。押し付けられても、僕は困るけどね」
背を向けて、ドアへと歩いていく沢。
「おい、待てよ」
「舞地さん達の仕事が残っている。それを、片付けてくる」
「おいって、沢」
名雲の制止を振り払い、沢は足早にドアを出ていった。
トレーニングルームに吹き抜ける冷たい風。
雪が閉められたドアの辺りで舞っている。
「……済みません」
さすがに申し訳なさそうに頭を下げる少年。
名雲はため息を付いて、彼の肩に触れた。
「全くだと言いたいが、気にするな。あいつは仕事柄、裏切りに何度も合ってる。だから、その手の話はあまり好きじゃないだけだ」
「済みません」
「いいって。感情と仕事を一緒にする人間じゃないから。……あそこまで大人げないあいつも、久し振りに見たけどな」
怪訝そうにする少年へ首を振り、名雲もドアへと歩き出した。
「俺達も帰ろうぜ。せっかくのイブなのに、こんな所いても仕方ないだろ」
「ええ。分かってます」
「それに俺達は、結局ここを出ていくんだ。さっきの話通り、変に情を移すよりはいい」
苦く、厳しい言葉。
だが、紛れもない現実。
開け放たれたドアの外。
グランドに降り積もる大振りの雪。
渡り廊下を歩いていく彼等は、横殴りのそれを受けながら歩いていく。
凍り付いた、歩きにくい道を。
一歩ずつ、確実に。
だるまストーブの前に立ち、レポートを読み耽る沢。
不意に開くドア。
警戒気味の動きを見せた沢は、すぐに気のないため息を漏らした。
彼にしては落ち着きのない、不安定な態度で。
「どうかしました」
「いや。君こそ、休みなのにどうして学校に」
「スープのレシピを、ここへ忘れていって。今日はイブですから」
はち切れんばかりの笑顔。
疲れ気味な沢の顔が、微かに緩む。
「元気いいね」
「元気ないですね」
「色々と事情があって」
「聞きませんよ、愚痴は」
明るく笑い、沢の背中をそっと叩く。
気さくな、親しい友人に接するような態度。
沢の側にいて、彼の雰囲気やその権限を知った者には難しいような。
孤高の佇まい。
学校長をも解任でき、教育庁の官僚にも指示出来る権限。
その一端でも間近で見れば、殆どの者は萎縮して遠ざかる。
または、反発する。
表面上は普通に接しても、壁が出来る。
彼からのではなく、周りが彼を囲む。
その上を越える事は出来ても、壁の中に入る事は出来ない。
人としてではなく、強大な権限を持った存在としか見られない。
自分達を救ってくれるはずの存在なのに。
自分達とは違う存在。
自分達をどうとでも出来る存在。
もしかしたらそれは、脆く低い壁。
だけど、彼自身には壊す事の出来ない壁。
「大丈夫ですか」
不安そうに、沢の顔を覗き込む少女。
気を抜いていた様子の沢は、間近に迫った彼女と目を合わせぎこちなく頷いた。
すっと赤らむ頬、わずかに揺れる肩の辺り。
心持ち、息が早い。
「え、ああ」
固い返事。
それとなく顔を逸らし、だるまストーブへ手をかざす。
「兄さんとケンカしたって聞きましたけど」
「そうでもない」
「じゃあ、夕食には出られますよね」
不安げに、上目遣いで窺う少女。
胸元に寄せられた手が、固く握りしめられる。
「悪いが、出掛ける用事がある」
すげない返事。
だが少女は笑顔を絶やさず、こくりと頷いた。
「仕方ないですよね。私達が無理してここへ来てもらってるんですし」
「いや」
「お仕事、頑張って下さい」
「ああ」
短く返し、レポートへ視線を戻す沢。
少女は彼に一礼して、ドアへと歩き出した。
伸ばされた背筋、軽い足取り。
力無く下がる拳。
「それじゃ、失礼します」
「気を付けて」
「はい。ケーキ取っておきますから、帰ってきたら食べて下さい」
明るい声でそう言い残し、ドアを出ていく少女。
一瞬吹き込んだ冷たい風が前髪を揺らし、顔を翳らす。
何かをささやく口元。
消えた手首が、焼けたストーブを捉える。
微かな振動。
拳に火傷の跡はなく、ストーブの炎が普段より強く揺らめくだけだ。
風に乗った雪が窓を叩く中、沢はその拳を押さえ瞳を閉じた……。
人気のない廊下。
そこに響く、規則正しいリズムの足音。
今までは。
不意に消える音。
照明に照らされていた影すらも。
「お、おい」
教室のドアが開き、警棒を持った数名の男子生徒が廊下へ顔を出す。
誰もいない廊下。
警戒気味に外へ出る彼等。
怪訝そうに左右を見渡すが、やはり人影はない。
「音が聞こえただろ」
「靴脱いだとか」
「まさか。さっきまで聞こえて……」
喉の奥で音がする。
言葉ではなく、何かが押しつぶされるような音が。
「かくれんぼかな」
喉に押し当てられたつらら。
さすがに外気よりは暖かいせいか、水滴が床を濡らす。
「それとも、僕に用でも」
開け放たれた窓から吹きすさぶ寒風を背に、薄い笑みを浮かべる沢。
グローブ越しに握り締めたつららを、男の喉へ押し当てたままで。
「全員武器を捨てろ。抵抗するとどうなるか、今から教えてやろうか」
「ひっ」
男はそのまま腰を抜かし、床へ尻餅を付いた。
水浸しになる床。
それは溶けたつららのせいか、彼の失禁のせいかは分からない。
ただ言えるのは、彼の行為を笑う者が誰一人としていない事だ。
沢を除いては。
「1対5なら勝てると思ったか。その心意気は買うが、僕を入院させても現状は変わらない。ガーディアン組織は年明けから正式に発足し、僕らはその役目を終えるからね」
「……いい事聞いたぜ」
床に崩れていた男が、その姿勢のまま喉元で笑う。
沢はつららを寒風の吹き付ける窓の外へ投げ捨て、男を見下ろした。
「何がおかしい」
「さあな。聞いたからって、お前は何も出来ないんだよ」
「試してみるか」
足を振り上げ、男の頭上にかざす沢。
男は這うようにしてその場から逃げ去り、壁伝いに立ち上がった。
「フリーガーディアンだか知らないけど、最後には俺達が勝つからな」
「そういう台詞は、気が遠くくらい聞いた。結果は言うまでもないが」
「余裕なのも、今の内だ。お前がどうなるか、その時が楽しみだぜ」
「台詞のマニュアルでも出回ってるのかな」
あくまでも相手にしない沢。
だが男達もその態度には構わず、陰湿な笑みを浮かべるだけだ。
「殴り合いでは負けても、こっちには考えがあるんだよ」
「好きにしろ」
「ああ、するさ。せいぜいお友達と、仲良くしてろ」
一斉に笑う男達。
昏い、意味ありげな眼差し。
沢はそれをはねつけるように、目を細める。
「言いたい事はそれだけか。あまり調子に乗るようなら、ここでやるぞ」
「分かった。分かったよ。じゃあな、フリーガーディアン」
冗談っぽい敬礼。
再び笑い声が起き、男達は去っていく。
それは窓から吹き付ける雪に消され、全てを白くする。
「裏があるという訳か」
窓を閉め、鼻先で笑う沢。
自嘲気味な、やる気に欠けた表情。
「でも、仕事は仕事だ」
自らに言い聞かせるように呟き、拳で壁を叩く。
心の鬱積を叩き付けるように、幾度とも無く。
窓に映る自分から目を逸らして……。
民宿の大広間。
広さとしては30畳程以上。
壁際は一面窓ガラスとなっていて、斜面の下を流れる小川を望む事も出来る。
大きな座卓には食事と飲み物。
また当たり前だが、何名かの者がそれを取り囲む。
「よく降るわね」
ホットウイスキーの入ったグラスを頬へ当て、降りしきる雪へ目を向ける池上。
かなり薄めてあり、それ程口にはしていない。
あくまでも、雰囲気を楽しんでいるといったところだろう。
「もう幾つ寝ると、本当にお正月よ」
「そうね」
いつも通り素っ気なく答え、地鶏の炭火焼きを頬張る舞地。
部屋の隅に飾ってある小さなツリー。
その飾り付けの一つである黒猫のぬいぐるみが、彼女の前に置かれている。
「また一つ、年を取るわね」
「まだ一つ、と思うけど」
笑い気味に見つめ合う二人。
グラスが重ねられ、たわいもない会話が続く。
「沢さんは、どうしたんでしょう」
生真面目な顔で尋ねる少年。
名雲はワインを舐め、首を振った。
「さあな。あれでも一応は公務員だ。休みでもやる事があるんだろ」
「俺の言った事に怒って」
「文句を言われて怒ってたら、仕事にならん。気にするな」
「はあ」
釈然としない面持ちで頷き、柳へと顔を向ける。
「どう思う?」
「さあ。あの人が何をしてるかは、僕も良く知らないから。それより、サンタだね」
「は」
「ここって、煙突ある?」
何故か真顔の柳。
そういう事を信じる年ではないし、本人も否定する。
だが瞳には、妙な力がこもっている。
「内風呂に、湯気を出すのがあるくらい」
「お前、まだ言ってるのか。サンタってのは、泥棒なんだぞ。真夜中に人の家へ忍び込んで、金目の物を持ってがらくたを置いて行くんだ」
夢も何もない説明。
酔っているのか、彼もそればかりを繰り返している。
「サンタ、か」
切なげに呟く少女。
窓に手を付き、外を眺めている柳は聞こえていないようだ。
「私はみんなが、サンタだと思ってますけどね。学校を救いに来てくれた」
「夢見がちだな、どうにも」
「名雲さんは、信じてません?」
「この年で信じてたら、どうかしてる」
心配そうに柳の背中を見つめる名雲。
手に握り締められている、青い靴下は見ないようにして。
「与えられる物じゃなくて、自分で勝ち取るんだろ」
「俺ですか?」
困惑気味に自分を指差す少年。
低アルコールのビールを口にして、短くため息を付く。
「あれは、言い過ぎたと思ってます。でも、誰も好きで大人しくてる訳じゃなくて。それに裏切るっていっても……」
「酔ってるのか」
「酔ってますよ。俺だって言いたい事が」
一気にビールを飲み干し、テーブルへ缶を置く。
「そりゃ雇ったと言っても、結局みんなの方が上なのは分かってます。能力も、人間としても、何もかも。でも俺達だって色々考えてるんですよ。つまんない考えですけど、自分なりに」
「お、おい」
「裏切る裏切るって、怖い目に遭えば誰だってそうしたくなるに決まってるじゃないですか。そうするより、方法がないんだから。大体裏切るのは俺達じゃなくて」
立ち上がり、両手を振り上げる少年。
顔をしかめそれを止めようとする名雲。
少女と柳も、苦笑気味に彼へと近付く。
「あ」
少年は手を振り上げたまま、そう呟く。
開いたふすま。
廊下に立っている、一人の男の子。
気まずそうに、所在なげに。
「何してるのよ」
笑顔で手招きする池上。
舞地は空のグラスを、彼の胸元へと投げる。
「どこ言ってたんだ」
強引に室内へ引っ張り込み、グラスにワインを注ぐ名雲。
「その」
言いにくそうな顔。
テーブルに、やや大きめな紙袋が置かれる。
「開けていいですか」
笑顔で尋ねる少女。
「ああ」
その答えを待ち、袋の中身が取り出される。
大きな陶器の器。
焦げ目の付いた、プリンのような表面が見えている。
「何だ、これ」
怪訝そうに、指で弾く名雲。
沢は咳払いをして、陶器の器を指差した。
「焼きパンプキンだよ」
「カボチャだ?」
何を考えてるんだという顔。
ただそんな彼とは対照的に、少女は瞳を輝かせて袋から出てきた説明書きを手に取った。
「これって東京でしか売ってない、あれですか。まさかりカボチャの」
「ああ」
素っ気ない返事。
ここから逃げ出したそうな態度。
「お前、東京まで行って来たの」
「だったら」
「馬鹿か」
腹を抱えて笑う名雲。
沢は軽く彼の背中を蹴って、腰を下ろした。
「高速で?」
「いや、通行規制があったから下を」
「元気いいね」
「君程じゃない」
笑い続ける男を無視して、濃茶の手袋を柳へと差し出す。
「何、これ」
「そこの笑ってる子から頼まれてた。いい手袋があったら、手に入れてくれって」
「誰に」
「勿論、柳君に」
手袋を胸に抱きしめ、顔を強ばらせる柳。
何かを言いたくて、でも言葉が出てこない。
思いだけが募るような顔で。
「僕、僕……」
「お使いをしただけだよ。長持ちするから、手入れは大切にね」
「うん、うん」
何度も頷き、名雲に笑いかける。
心からの、春の日差し以上の笑みで。
「俺は知らん。サンタだ、サンタ」
「うん」
「聞いてないな、お前は。とにかく、無くすなよ」
「うん」
何を言われても、そればかりの柳。
名雲も嬉しそうに、手袋の片方をはめている。
「……あの」
遠慮気味な呼び掛け。
沢はゆっくりと顔を向け、グラスを彼に向けた。
「ほら」
「あ」
それに、自分のグラスを重ねる少年。
二人は軽く口を付け、どちらとも無く苦笑した。
「悪かった。おかしな態度を取って」
「いや。俺こそ、言い過ぎた」
「敬語は」
「疲れた」
同時に上がる笑い声。
他の者は、例のまさかりカボチャを取り分けている。
「裏切るっていう意味は、まだあるんだと俺は思ってる」
「意味?」
「そう。別れが辛いのは、そっちばかりじゃない。後に残された方だって、辛いんだって」
表情を揺らす沢。
彼の肩に軽く触れ、少年はグラスを掲げた。
「情が移った所でいなくなるも、やっぱり裏切りじゃないのかな」
「それが、僕の仕事だ」
「分かってる」
「でも確かに、その通りかもしれない」
ささやくような声。
少年は何も言わず、彼のグラスにビールを注ぐ。
「……改めて、よろしく」
「こちらこそ」
重なるグラスと笑い声。
一つの思いで結ばれた者達。
つかの間だとしても。
お互い、それを分かっていても。
人は、その思いを抱く……。
翌日。
民宿の周りには、膝の辺りまで埋まる程の雪が積もっている。
今も灰色の空からは雪が舞い降り、その高さを増していく。
「きりが無いな」
屋根の上で、スコップを担ぐ名雲。
「寒いよ」
その隣で、ガタガタ震える柳。
「ったく、別手当もらうからな」
「屋根にヒーターが通ってるんじゃないの?」
「これだけ積もると、意味無いんだろ。沢は」
「あの子達と、買い物に」
濃茶の手袋が、民宿の前から延びる山道を指差す。
かろうじて残っている、タイヤの跡を。
「妹と?」
「違う」
「おい、兄貴もか」
「そうだよ」
名雲は長くため息を付き、のろのろと雪を掻き始めた。
「兄貴と一緒にデートする馬鹿が、どこにいる」
「デートって。そういう関係じゃないと思うけど」
「だとしてもだ。あいつは、何にも分かってないな」
「いいから、早く終わらせようよ」
名雲とは違い、手早く手を動かす柳。
動きは正確で、正方形になった雪の固まりが斜面を滑り落ちていく。
「舞地達は」
「学校に、猫を見に行ってる」
「休みなら、用務員が連れて帰ってるだろ」
「僕に言われても。それより、手」
柳にたしなめられる男。
名雲はうっと唸り、ちびちびと雪を削り出した。
「腰が入ってない」
「うるさいな、お前は」
「ほら、早くしないと」
名雲が立っている場所を、端の方から削っていく柳。
「お、おい。やめろっ」
「大丈夫、下は雪だから」
「あ、そう。って、納得するかっ」
そう叫んだ途端、真っ逆さまに落ちていく男。
柳は構わず、雪を落とし続ける。
「早く終わらせて、温泉入ろっと」
今から幸せに包まれたような顔。
その真下から聞こえる、怒りに満ちた叫び声。
降りしきる雪は、そんな全てを包み込む……。
「重くないですか」
「いや」
40kgの米袋を、肩に担ぐ沢。
華奢とは言わないまでも、大柄ではない体格。
しかしその足元はわずかにも揺らがず、表情にも変化はない。
米袋がRV車の後部に転がり込み、沢は軽く肩を回した。
「凝ってます?」
その肩を後ろから揉む少女。
沢は苦笑して、自分の隣を指差した。
「お、俺は大丈夫」
腰を押さえ、弱々しく微笑む少年。
その腰を叩き、少女はハッチバックを閉めた。
「ご飯、食べに行きましょうか」
狭い駐車場。
RV車の後ろに積まれた、野菜や日用品。
買い物は買い物だが、少なくともデートの趣では無い。
定食屋、というシチュエーションも。
「それだけで、足りるのか」
彼の指摘に、ゆっくり頷く沢。
食べたのは、かけそばとおにぎりを一つ。
後は、野沢菜を少しつまんだ程度。
「精神的に落ち着かないんでしょ。多分」
鋭い意見を述べる少女。
「満腹になるまで食べてリラックスしていたら、戦いに巻き込まれた時困るから」
「そんな事は、滅多にない」
しかし否定はしない沢。
視線は店内の客だけでなく、厨房で働く年輩の男女にも向けられている。
「少し力を抜いたら……、というのは無理か」
理解ある笑顔。
沢も表情を緩め、背もたれへ体を預けた。
気の抜けた、彼にしては珍しい佇まいで。
「デザートは、何食べる」
「お前は、今の話を聞いてなかったのか」
「兄さんには聞いてないの。ねえ、沢さん」
「え、僕?」
戸惑う彼の前に差し出されるメニュー。
小さな個人経営の定食屋にしては、意外な程豊富な品揃えが載っている。
「アイスティーで……」
「それと」
「え?」
「飲み物だけって事は無いでしょう」
はっきりと言い切る少女。
沢は困惑気味に視線を走らせ、下の方に載っていたホットケーキを指差した。
「案外、お子様ですね」
「お前な」
「私はシナモンパイとアップルティー。はい」
「お、俺はジンジャーエールと三色プリン」
流れに押され、オーダーする少年。
楽しいのは一人の女の子だけという光景……。
「ボテボテ」
「何が」
「お腹」
猫ではなく、池上のお腹をさする舞地。
池上はカッと目を見開き、彼女に飛びかかった。
「埃が立つ」
「ふ、ふざけないでよ。だ、誰のお腹が出てるっていうの」
「映未」
全然否定をせず、もう一度お腹を撫でる。
「こ、こっ」
「鶏?」
「こ、この猫娘がっ」
舞地の頬を掴み、横へと引っ張る池上。
精悍で凛々しい顔立ちも、そうなるとさすがに笑える。
「はは、変な顔……。なっ」
突然の硬直。
舞地を下に組み敷いているその背中に、身重の猫が飛び乗ってきたのだ。
「ちょ、ちょっと。何、猫を操ってるの」
「そんな事が出来る訳無い」
「そ、その手に持ってる、するめは何よっ」
「さきいか」
下らない訂正。
池上はゆっくりと沈み込み、舞地の上に覆い被さった。
猫もその動きに釣られてか、するりと背中から降りる。
「もう、嫌」
「それは、私が言いたい。重いから、どいて」
豊かな胸を下から押し上げる舞地。
それに構わず、体を預ける池上。
「あー、馬鹿馬鹿しい」
「どっちが」
どちらとも無く離れた二人はすぐに立ち上がり、上着を手に取った。
「それじゃ、また来ます」
「失礼しました」
宿直の女性教師の見送りを受け、廊下へと出る二人。
緩やかだったその足取りが、途端に早まる。
「沢君が襲われたって言ってたけど」
「私達を?今さらどうして」
「聞いてみたら」
行く手を塞ぐ、数名の男女。
プロテクターと警棒を構え、隙はない。
二人が走りながら警棒を抜いても、引きはしない。
一気に距離を詰める両者。
振りかぶられた警棒が、頭上に振りかぶられる。
「何してるの」
「訓練をと思って」
力強い微笑み。
頭上で交差した警棒を引いた両者は、さらにその距離を詰めた。
「休みよ、今日は」
「クリスマスプレゼントって事で」
「あなた達の成長が?」
「人を襲って、何言ってる」
警棒をしまい、鼻で笑う舞地。
普段より柔らかく、親しみを込めて。
「例の連中が、また動いてるって聞いたわよ」
「何とかなります」
不安と、微かな恐怖。
しかし、それを乗り越えるだけの自信を感じさせる表情。
「だったらいいわ。頑張ってね」
「ええ」
「それじゃ、また」
笑顔で手を振り。
短い挨拶を交わし、別れていく。
再び会うのを、当然の事のようにして……。
檜造りの内装。
立ちこめる白い湯気と、檜の澄んだ香り。
窓からは夜空に浮かぶ、蒼い月が見えている。
「暑い」
湯船の縁に腰掛け、濡れた髪をかき上げる名雲。
引き締まった上半身も、今は何となくよれ気味だ。
湯船に首まで浸かり、それをニコニコと眺めている柳。
頭にはタオルを乗せ、鼻歌交じりである。
「お酒飲まないの」
「俺を殺す気か」
「大袈裟な」
お湯の上に浮かぶ、檜の桶。
その中には、徳利とおちょこが入っている。
「いい湯だ」
壁に背を持たれ、猪口を傾ける沢。
お湯の上に出た上半身。
名雲達に引けを取らない引き締まった胸元。
張りつめたような雰囲気はまるでなく、安らいだ顔で空に浮かぶ月を見上げている。
「お前、暑くないのか」
「勿論、暑いさ」
冗談っぽくそう答え、日本酒を飲み干す。
名雲は鼻を鳴らし、湯船の縁に立って窓を開けた。
途端に吹き込む寒風。
「おー、気持ちいい」
窓の位置は、ちょうど地面と重なっている。
そこから雪をかき落とし、かじり出す男の子。
「シロクマじゃ無いんだから」
「ほら」
湯船に放られる、雪の固まり。
瞬間お湯を飛び散らせ、沈み込み、淡く溶けていく。
その途端に押し黙る彼等。
何があったという訳ではなく、雪が落ちて溶けただけだ。
彼等も、それは分かっている。
しかし表情は陰り、雰囲気は重くなる。
ただそれは一瞬で、名雲は窓を閉めて湯船に飛び込んだ。
「わっ」
「何をしてるんだ、君は」
「たまにはいいだろ、羽目を外しても」
「いつもじゃないの」
湯船に響く笑い声。
先程までの重苦しさは、その影もない。
お湯が跳ね、歓声が上がり、笑い声が絶える事もない。
そこにいるのは傭兵でも、渡り鳥でも無く。
お風呂でふざける少年達。
屈託無く笑い、お互いにお湯を掛け合い、湯船に飛び込む。
跡形無く溶けた雪。
湯船の中には、どこにもない。
だけど。
壁には雪が、残っている。
わずかにではあっても。
少しずつ溶けてはいても。
それはお湯の中に流れ込み、大きな流れの一つになっていく……。
民宿の玄関脇にある、小さなロビー。
向かい合わせたソファーと、その間にあるテーブル。
壁に熊の毛皮が掛かっているのが、地方性を感じさせる。
「風呂上がりに一休み?」
「君は」
「最後に入る。一応は、ここの従業員でもあるから」
放物線を描いて放られるペットボトル。
沢はそれを受け取り、一口含んだ。
「大変だね」
「もう、慣れた」
どこかで聞いたような台詞。
沢の口元が緩み、ペットボトルが返される。
「田舎で何もないけど、いい所だよここは。少なくとも俺は、そう思ってる」
「ああ」
「それとも他を知らないから、そう思えるのかな」
「いや」
短い、しかし確かな否定。
少年もはっきりと頷き、沢と視線をかわす。
「聞くのは、まずいかな」
「何を」
「分かってるくせに」
「じゃあ、聞かない方がいい」
ロビーから漏れる明かり。
そして笑い声。
窓の外には雪が降り、強い風が吹き付ける。
全てが凍るような、寒い夜。
だけど人の心だけは、決して。